アラブと私
イラク3千キロの旅(87)
松 本 文 郎
「天皇機関説事件」が起きた1935年(昭和10年)は、筆者が生まれた年である。
その背景には、議会制民主主義が根づきはじめた日本で、世界恐慌(1929年)に端を発して相次いだ大不況・企業倒産や社会不安の増大があり、関東軍の一部が引き起こした満州事変(1931年)を収拾できなかった政府や政党政治への不満を募らす軍部が台頭して、軍国主義と天皇を絶対視する思想が広まっていた。
5.15事件で海軍将校一団の手で暗殺された犬養毅首相は、金輸出再禁止などの不況対策を公約に掲げた総選挙(1932年)で大勝したが、護憲派の重鎮であり、ロンドン海軍軍縮条約(前総理若槻禮次郎が1930年に締結)を支持していたのが海軍青年将校には気に入らなかった。
また、中華民国の要人と親交があった犬養首相と孫文は親友で、満州への進軍に反対して、「日本は中国から手を引くべきだ」が持論だった。
これが、大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派とそれに連なる大陸利権を狙う新興財閥の邪魔になったのである。
大不況の前の大正デモクラシー時代に盛り上がった民主主義機運のなかでは、知識階級や革新派の軍縮支持や軍隊批判が一般市民にまで波及し、軍服で電車に乗ると罵声をあびるなど、軍人は、肩身の狭い思いをしたという。
暗殺された犬養首相の後継である斉藤実、岡田啓介ら軍人内閣の成立で政党内閣を慣例とした憲政の常道が崩壊して、軍部の台頭と天皇を絶対君主とする国体明徴運動が起ると共に、思想及び学問の自由が圧迫されていった。
「天皇機関説事件」は、憲法学の通説「天皇機関説」を国体に反するとして攻撃したもので、貴族院本会議(1935年2月)の演説で菊池武夫議員(男爵議員・陸軍中将・在郷軍人議員)が、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授・帝国学士院会員議員)を「学匪」「謀反人」と非難、貴衆両院有志懇談会をつくり、「天皇機関説」排撃を決議した。菊池議員(南北朝時代に南朝方に従った菊池氏の出身)は天皇を神聖視する陸軍の幹部で、右翼団体とも関係があったとされる。美濃部は弁明に立ったが、不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職。
当時の岡田内閣は「国体明徴声明」を発表して、「天皇機関説」を公式に排除、その教授も禁じた。美濃部が主唱した「天皇機関説」に賛成だった昭和天皇は、彼の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていたとされ、国体明徴声明に対して軍部に不信感を持ち、「安心出来ぬという事になる」と言っていた。(本庄繁日記)また、侍従長・鈴木貫太郎には次のように話したとされる。
「主権が君主にあるか国家にあるかということを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれど、ただ機関説がよいとか悪いとかいふ議論をすることは頗る無茶な話である。君主主権説は、自分からいえば寧ろそれよりも国家主権のほうがよいと思うが、一體、日本のような君国同一の国ならばどうでもよいじゃないか。…美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいう学者を葬ることは頗る惜しいもんだ」
今風に言えば、天皇は軍人内閣や軍部に対して‘不快感’を示したというところだろうが、天皇を神格化して政治目的に利用する輩らを苦々しく思い、辟易していたのではなかろうか。
昭和天皇が犬養首相暗殺後の後継内閣に関する希望を鈴木貫太郎侍従長を通じて西園寺公望に告げた主旨は、首相は人格の立派な者、協力内閣か単独内閣かは問わない、ファッショに近いものは絶対に不可、と言ったという。
天皇の信任が厚かった鈴木貫太郎は、その後の2・26事件の襲撃で一命を取り留め、和平派の軍人・内閣総理大臣として、強硬派勢力を抑えて終戦を実現したが、実は、この連載で数回にわたり引用したジョン・パーキンス著『エコノミック・ヒットマン』を届けてくれた友人母方の偉人なのである。連載(53)で、その友人(鈴木重信さん)のことはいずれ記述すると書いていたが、昨年急逝されたので、本誌寄稿の追悼文『出逢いと別れ』の末尾に以下のように記した。
(前略)
晩年の重信さんの想い出に書き残したいのは、米国人のジョン・パーキンス著『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』のことで、この思いがけないノンフィクションは、『アラブと私』連載執筆のモチベーションを大いに支えてくれ、感謝してきたのである。
執筆意図にうってつけの本を、ミステリー愛好家の重信さんが見つけてくれたのは願ってもないことで、重信さんの急逝が無念でならない。
『アラブと私』を読み、貴重な文献を届けてくれた重信さんの励ましに応えるためにも、いのちのかぎり、この「創作的ノンフィクショ」を書き連ねたいと念じている。合掌。
(後略)
重信さんは、鈴木貫太郎のことを「母方のジイさん」とさり気なく呼んでいたが、その面立ちと風貌は、直系の孫と云ってよいほど似通っていた。
『出逢いと別れ』の中で紹介したが、建築現場の重大事故に直面した際の冷静沈着な指揮ぶりは、正に、‘ジイさん・鈴木貫太郎譲り’と云ってよいものだった。
追悼文には書かなかったが重信さんの母堂は百歳の天寿を全うされた方で、鈴木貫太郎の血を引くわが子の大成に期待して、少年期の重信さんの学業にはたいへん厳しかったと聞いていた。
その期待に応え、成蹊中・成蹊高校へ進学したが、大学は、母堂から離れた遠い地を選びたいと北大を受験したが果たせず、東北大に落ち着いたという。
母堂が描いておられた鈴木貫太郎のイメージがどんなものだったか分からないが、その赫々たる経歴を身内の誇りとされて、子息の重信さんが、そうした人物に育つことを願われたのだろうか。
重信さんとはかなり親しい付き合いをしたが、ジイさんについて語ることは、一度もなかった。母堂からイヤになるほど聞かされた偉人の物語に反抗したのかどうか……。鈴木貫太郎の人物・業績については、様ざまな伝記や映画などでよく知られているが、半藤一利著『聖断―天皇と鈴木貫太郎』や、映画『日本のいちばん長い日』(笠智衆主演・1967年・東宝映画)が印象に残るが、以下は、ウィキペディアからの引用である。
明治20年(1887年)に海軍兵学校を卒業(14期)し、日露戦争では駆逐隊司令でバルチック艦隊と戦い敵の旗艦スワロフに魚雷を命中させるなどの大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に貢献した。
その後、海軍次官、海軍兵学校長、呉鎮守府司令官、海軍大将(大正12年)、連合艦隊司令長官、海軍司令部長(大正14年)を歴任した。
昭和4年(1929年・世界恐慌)、侍従長に選ばれたのは昭和天皇と貞明皇后の希望とされる。
自らを宮中の仕事には向いていないと考えていた鈴木貫太郎がこの大役を引き受けたのには別の理由が書いてあるが、筆者は、関東軍による「張作霖爆殺事件」等の独断専行が満州に進出していた日本人社会を不安定にする懸念と、田中義一内閣の事件処理に不興をあらわにした若い昭和天皇を支える使命を感じたからと推量したい。
侍従長就任後の宮中では、経験豊富な侍従に大半を委ね、いざというときの差配や昭和天皇の話し相手に徹したので、「大侍従長」と呼ばれたという。ロンドン海軍軍縮会議の統帥権干犯問題の際に、海軍軍司令部長加藤寛治の単独帷幄の上奏を阻止したりしたので、昭和天皇の信任が厚かった一方で、国粋主義者や青年将校らからは、「君側の奸」とみなされ、命を狙われることになった。昭和11年(1936年)に2・26事件が生じ、陸軍大尉安藤輝三が指揮する一隊が官邸を襲撃。頭・肩・胸・股に数発被弾した鈴木は居室を血の海にして倒れ伏した。とどめをと軍刀を抜いた安藤に、部屋の隅で兵士に抑え込まれていた妻のたかが、「老人だからとどめはやめてください。必要なら私がいたします」と気丈に言い放ったという。うなずいて軍刀を収めた安藤は、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気を付け、捧げ銃」と号令して、たかの前に進んで、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対して何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも、自分は後に自決をする意を述べ、兵士を引き連れて官邸から引き上げた。
瀕死の重傷を受けた鈴木は、出血多量で意識を喪失、心臓も停止したが、たかと近所の医師が円タクで運んだ病院の必死の蘇生術で奇跡的に息を吹き返した。
安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね、時局について話を聞いており面識があった。安藤は、「あの人は、西郷隆盛のような人で、懐の深い人物だ」と云い、座右の銘を所望して鈴木の揮毫を得ている。
事件の首謀者安藤が処刑されたとき、鈴木は記者に、「首魁の立場にいたからやむを得ずああいうことになってしまったろうが、思想という点では実に純粋な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べている。
自分の暗殺を謀った青年将校への冷静な鈴木の態度からも、武断派の跋扈をまねいた政治家や軍上層部に不満な昭和天皇が、鈴木の助言を頼りにしていたことは十分推察できる。
天皇・皇后の強い要請で侍従長に就任してから16年経った昭和20年の敗戦間際に、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯内閣の後継を決める重臣会議で、枢密院議長に就任していた鈴木に、天皇の信任が厚いことで首相推薦の根回しが行われていたとされる。
重臣会議の結論を聞いた天皇が鈴木を呼んで、組閣の大命を下したが、あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、天皇は、「鈴木の心境はよくわかる。しかしこの重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と述べたという。
皇太后節子(貞明皇后)は、天皇よりも30歳以上年上の鈴木に、「どうか、陛下の親代わりになって」と語ったという。
鈴木貫太郎内閣の終戦処理を巡っては、ポツダム宣言を「黙殺」しなければヒロシマ・ナガサキの原爆投下を避けられたのではないか等、さまざまな見方があるようだが、宣言発表(昭和20年7月28日)翌日の新聞各社は、「笑止、対日降伏条件」(読売)、「笑止! 米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」(毎日)、「白昼夢 錯覚を露呈」などの見出しが紙面に踊った。
記者会見に出席した同盟通信国際部長の長谷川才次は、「政府はポツダム宣言を受託するのか」との質問にたいして、鈴木首相が「ノーコメント」と回答したことをはっきり記憶していると戦後に述べている。
鈴木の「ノーコメント」の言葉が、陸軍の圧力で「黙殺」とされたのであろうが、直系の孫は、「祖父があのノーコメント発言は失敗だった。もっと別の表現があったと思う」と漏らしていたという。
終戦が半年か1年早ければ、日本国民だけでなく、対戦相手国の将兵やアジア各地の一般民衆の生命・財産の膨大な戦禍が大幅に減っていたのだから、昭和天皇から終戦処理の大任を命じられた鈴木貫太郎の心中は形容しがたいものだったろう。
鈴木貫太郎の終戦処理にまつわることで、重信さんは母堂からどんな話を聞いたか、一切話したことはなかった。
母堂から距離を置いた東北大の山岳部で山行きに没頭した重信さんは、下宿の子女と恋愛結婚し、社会人になってからは、「寡黙な山男」の印象が強い存在感のある人柄で、先輩・同僚・部下や周辺の人びとに敬愛された。
『電電公社 その人と組織』(政策時報社)の人物紹介に、「あくの抜けた性格がすがすがしい。小事や過ぎたことにクヨクヨとこだわるところがなく、姿勢はいつも前向き」と評され、本人の弁として、「性格的には粗雑と思う」と記されている。
趣味の紹介では、登山の他にラグビー、音楽、写真、読書(ミステリー)、鉄道模型製作を挙げ、都会っこらしいセンス抜群と書かれている。
重信さんとの親しい付き合いのエピソードは追悼文『出逢いと別れ』に記したが、50台後半の筆者が相次いでウツとガンに罹ったときの励ましに、「私はいい加減な性格ですからウツやガンに罹ることはないでしょうが、両切りのピース缶を長年愛用してきたので、肺気腫になりました」と言って笑っていた。
晩年の外出時は小型酸素ボンベを乗せたカートを引いていたが、病院の定期検査に出かけて転倒して意識不明となり、帰らぬ人となった。
鈴木貫太郎を「母方のジイさん」とさりげなく言っただけの重信さんだったが、人柄や人生の処し方は、‘ジイさん’そっくりだったように感じている。
侍従長の役目は、皇后を除いて天皇のこころの深奥にもっとも近い立場と推量するが、昭和天皇と皇后が鈴木貫太郎を選んだことが、結果的に、日本の国を戦争遂行を主張した軍国主義者による壊滅的破綻から辛うじて守ったことになる。
天皇機関説を是とした昭和天皇が自らを神と想ったことはないだろうが、鈴木貫太郎は、多くの国民が‘現人神’と信じこまされた(洗脳)天皇とどこまで胸襟を開いて語り合えたのだろうか。これだけはぜひとも、重信さんに訊ねてみたかった。
筆者が数年早く生まれていれば、‘現人神’と神格化された天皇を信じて戦地に赴き、戦場に散った兵士の一人となっていただろうが、子供心にも天皇を‘現人神’とは信じられなかった私は、「天皇陛下 万歳!」ではなく、「お母さん さようなら」を叫んだことだろう。
「集団的自衛権」行使を急ぐ「安倍政権の行方」への危機感から、「憲法九条を守る」ことへのこだわりは、ますます強まるばかりの昨今である。
(続く)
(後記)
前号の稿で前書きした妻の右手首手術後のリハビリが3月末終了した一方、筆者の前立腺PSAは81.84に上昇しました。古希から上がり続けてきた数値ですが、薬事治療を受けないままに享受してきた「生活の質」(QOL)を晩節の日々も維持できればと願うばかりです。
この原稿締切り日の翌4月6日(日)、「浦安合唱祭」の参加16団体・来聴者と共に、浦安市合唱連盟創立20周年記念歌『みんなの歌』(拙詩)を今年も唄うことができて幸せでした。
わが「浦安男声合唱団」が唄った男声合唱組曲『雨』(多田武彦作曲)にある八木重吉詩は、いまの心境にぴったりでした。
雨のおとが きこえる
雨がふっていたのだ。
あのおとのように そっと世のために
はたらいていよう。
雨があがるように しずかに死んでゆこう。