アラブと私
イラク3千キロの旅(95)
松 本 文 郎
前回の文末に書いたように、1971年の旅のバグダッドへ戻るつもりだったが、「イスラム国」(この呼称に異論もあるが、当面は新聞・テレビ報道に倣いたい)に捉えられていた2人の日本人が惨殺されるという、思いがけない事件が起きてしまい、今回も、寄り道を続けることにしたい。
この残虐極まりない事件の発端が、安倍首相の中東歴訪でのエジプトとイスラエルの首脳を前にしたスピーチだったのではないかと、かなりの人たちが感じたのではないか。
パレスチナ問題で強硬姿勢のネタニヤフ首相とイスラエルの国旗の前に並んで、「テロとの戦いに取り組む」と宣言し、難民向けの人道支援に限られているにもかかわらず、「イスラム国」と戦う国々を支援すると居丈高に言ったことである。
私たちは、日本人2人が「イスラム国」の人質になっていることを1月20日の衝撃的な報道で初めて知ったが、湯川遥菜さん(昨年8月)と後藤健二さん(昨年10月)の行方不明を把握した安倍政権は、情報連絡室(官邸)、対策室(外務省)、現地対策本部(ヨルダンのアンマン)に設置していたのである。
また、昨年の11月ごろからは「イスラム国」の関係者とみられる脅迫メールが後藤夫人に届き、今年1月初めに20億円余りの身代金を要求してきたなどの一連の経緯をつかみ、中東歴訪に出発直前の1月上旬には、フランス風刺画新聞社などを対象にした連続テロが発生し、容疑者の1人は「イスラム国」のメンバーを自称していた。
残忍非道の「イスラム国」が起こしている緊迫した情勢の中東への出発に踏み切ったのは、今回の大きな目的の一つが「イスラム国」と最前線で向き合う訪問国への支援で、日程変更は「テロ」に屈することになるからだったという。
安倍首相は最初の訪問地エジプトで中東政策のスピーチを行い、「イスラム国」対策として総額2億ドル程度の人道支援を打ち出した。
首相スピーチを非難する最初の殺害予告映像が公開されたのは、その3日後だった。
現在のエジプトは「アラブの春」の民主革命後の選挙で選ばれたムルシ大統領(ムスリム同胞団が出身母体)を軍事クーデターで追放したシーシ国防相が現憲法を停止し、最高憲法裁判所長官が暫定大統領として「実務者内閣」を設けている国だが、安定した統治状況と言えるのだろうか。
現地新聞の安倍首相の2億ドル支援スピーチは、小さい扱いだったとされる。
昨年の11月、「アラブの春」のデモ隊に発砲を命じて殺人罪に問われていたムバラク元大統領に対する審理を無効とし、事実上の無罪を言い渡したので、ムバラク氏に近い軍出身のシーシ政権に、民主化運動を主導した若者たちが反発することもあろうが、それを軍隊が抑圧するなら、「アラブの春」とは、一体なにだったのか。
エジプト軍司令官兼務シーシ国防相による軍事クーデターを非難したオバマ政権と「自由と民主主義」の価値観を共有すると声高な安倍首相とのエジプト暫定政権への立ち位置はどうなのか。
イスラエルでは、首相に同行した産業・経済人がイスラエルが保有するハイテク武器のノウハウ導入を、「武器輸出3原則」見直しの中で期待していると報じられる一方で、安倍首相は、ユダヤ人6千人の命を救った駐リトアニア在カウナス日本領事館領事代理杉原千畝氏のことを誇らしげに話し、イスラエ・パレスチナ和平の仲介役を買って出たという。
長年のパレスチナ問題が一向に進展しない複雑な情況下、「イスラム国」により拘束された日本人を救出する立場にある首相として、極めて不用意なスピーチではなかったか。
杉原千畝氏夫人の幸子さんとは短歌同人の仲間として親しくさせてもらった時期があり、(73)で、幸子さんから聞いた「国家の命令に違反してまでも国を超えた人道的立場を貫いてユダヤ人の命を救った千畝氏の勇気ある人道的行為」の臨場感あふれる話を記していたので、その一部を再録しておきたい。
1940年7月27日の早朝、領事館で執務に就こうとしていた杉原の眼に、窓の外で2、3百人の群衆が激しく手をふって盛んに何かを訴える様子が飛び込んだ。ナチスドイツのポーランド侵攻によって、祖国を追われたユダヤ系ポーランド人たちだとすぐに察知したという。
第3帝国建設を標榜し、ユダヤ民族の絶滅を目論んだ独裁者ヒトラーのナチスドイツの手から、命からがら逃れてきた群衆は、「ナチスの迫害からのがれるために、日本通過のビザを発給してもらいたい」と嘆願したのである。
人道的見地から「通過ビザ」を発給したい旨を外務省に打電した彼への外務大臣松岡洋右の回答は、「行き先国の入国手続きを完了した者に限り、そうでない場合は、通過ビザを与えないように」であったという。
幸子夫人によると、領事館の前に群衆が現れて4日が過ぎ、クリスチャンだった夫は、外交官として外務省の指示に沿うべきか、目の前で命乞いをする
人々を助けるか、人間としての悩みに煩悶していたという。
夫が苦吟する姿を見るに見かねた夫人は、彼の背中を押すように、「私たちがあとでどうなるかは分かりませんが、領事代理の権限でビザを出してあげてください」と励まし、杉原氏は「そうか、ではそうするとしよう」とつかえていたものが吹っ切れた様子だったと話された。
外交官としての重大な訓令違反で、帰国した後にどんな厳罰が待ち受けているか分からなかったが、群がる人びとにビザ発給を告げると、大きな歓声が湧いたという。
杉原の決断を後押しした幸子夫人は、そのときのことをまざまざと思い起こすような眼をされたが、緊迫した状況下で死の恐怖に曝されている人間の命を救う決断を、夫と共にした誇りのようなものを感じた。
夫君とそうしたやりとりをする前、難民たちのなかに憔悴した子供らの姿を目にとめた幸子さんの心に、旧約聖書の預言者エレミアの「哀歌」の「町の角で、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のため、主にむかって両手をあげよ」の1節が、突然、浮かんだそうだ。
杉原千畝氏は、難民へのビザ発給の条件不備に関する外務省との論争を避けるためのさまざまな手立てを講じ、ソ連政府や日本から再三の退去命令を受けながらの1ケ月、寝る間も惜しんでビザを書き続け、外務省からのベルリンへの移動命令が無視できなくなると、重要書類を焼却して家族とホテル「メトロポリス」に移ったが、領事印を荷物に梱包してしまったので、ホテルでは仮通行書を発行し、ベルリンへ向かう列車に乗ってからも、窓越しに手わたされるビザを書きつづけた。
動き出した列車の窓から「許してください。私にはもう書けません。みなさんのご無事を祈っています」と頭を下げた千畝の姿が目に焼き付いています、と幸子さんは語った。
列車と並んで、泣きながら走っていた人たちは、「私たちはあなたを忘れません。きっともう一度、あなたにお会いしますよ」と叫び、千畝たちの姿が見えなくなるまで見送っていたという。
6千余人を救うために発給されえたビザは番号が記録されているものだけでも、2千百余枚にのぼった。
人道主義の立場でビザを寝る間を惜しんで発給した杉原氏は、軍国主義から平和主義の国に生まれ変わった日本なのになぜか、詳しい理由も告げられないまま解任されたのである。
外交官として国の命に背いた杉原氏は、長い失意の時を過ごしたあと、語学の能力を活かして、企業の海外駐在員として働き、75歳で鎌倉の自宅に隠棲したものの、依然として名誉は回復されなかった。
1985年(昭和60年)、85歳になっていた杉原千畝氏に対して、イスラエルは、その勇気を最大限に讃えて、「諸国民の中の正義の人賞」を贈り、エルサレムの丘の上に顕彰碑を建立した。
これにより、彼の命がけの人道的行為は、世界の人々の知るところとなり、祖国では解任された外交官から、世界の「人道の人、チウネスギハラ」になったのである。
しかし、日本外務省は杉原氏の存在を無視し続け、祖国での名誉回復がなされぬままに、翌年、鎌倉の自宅で波乱に満ちた生涯を閉じたのである。
1991年、ビザ発給の現場であるリトアニアの首都ヴィリニュスに、1992年には、岐阜県加茂郡八百津町に「杉原千畝記念碑」が建立され、2000年、都内の外交史料館で名誉回復を象徴する「杉原千畝氏を讃える顕彰プレート」の除幕式が催された。
挨拶に立った河野外務大臣は、故杉原千畝氏と幸子夫人らの遺族に対して、「外務省とご家族との間にご無礼があった。(中略)極限的な局面において、人道的かつ勇気ある判断をした素晴しい先輩だ」と語り、戦後の外務省の対応について、その非礼を初めて認め、正式に謝罪したのである。
その喜びを千畝氏の墓前に報告した幸子夫人の胸には、煩悶する千畝氏にビザ発給を決断させた時のシーンがまざまざと甦ったという。
朝鮮女性慰安婦問題でも極めて相異なる歴史観をもつ安倍首相と河野元外務大臣の立ち位置とが、まさに両極なのがよく分かるエピソードだ。
2人の日本人「処刑」事件で、在シリア・ヨルダン日本大使らがどんな働きをされたかしらないが、気高く不屈な精神の持主の外交官への戦後の外務省の無礼を詫びた河野外務大臣とは対極的な外交感覚の安倍首相が、氏の業績を「言挙げ」したのを、故杉原千畝氏と幸子夫人さんは、決して喜ばれてはいないと思うのである。
ところで、イスラエル・パレスチナ問題の発端は、「ユダヤ人が迫害されるのは国をもたないからで、かつて神が示してくれた約束の土地、シオンの丘のエルサレムに帰ろう」という「シオニズム」の思想である。
この運動は第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害や大虐殺(ホロコースト)によって強められ、大戦後、ユダヤ人への同情が高まり、建国への弾みがついた。
ユダア人資産家たちが政治力をもつ米国内でのシオニズム運動は、1946~1948年にかけて、イスラエル国家建設のため米国議会や大統領の支持を獲得する上で、影響力をもっていた。
ナチスの迫害を逃れ米国に亡命していたユダヤ人は豊富な資金力で、米国議会に対する強力なロビー活動を続け、その中核はアメリカ・イスラエル公益事業委員会(AIPAC)で、イスラエルに不利な投票をした上・下両院の議員を次の選挙で落選させる実績をもつ。
1947年の国連によるパレスチナの地の分割決議は、賛成33ケ国、反対13ケ国、棄権十ケ国で可決されたが、その背後では、アメリカが各国に対して活発な働きかけをしたためだった。
ユダヤ人の人口はパレスチナ人の3分の1だが、56.5%の土地をユダヤ国家に分割した不公平なものだった。
1948年2月、アラブ連盟加盟国はカイロでイスラエル建国の阻止を決議し、アラブ人テロが激化するなかの同年4月、ユダヤ人のテロ組織のイルグン・レヒ混成軍がエルサレム近郊のディル・ヤシーン村で村民大虐殺を行い、恐怖に駆られたパレスチナアラブ人の大量脱出が始まった。
5月、イギリスのパレスチナ委任統治が終了し、国連決議181号(通称、パレスチナ分割決議)を根拠に独立宣言したイスラエルが5月14日に誕生した。
それと同時に、アラブ連盟5ケ国(エジプト、トランスヨルダン、シリア、レバノン、イラク)の大部隊が、独立阻止をめざしてパレスチナに進攻し、第1次中東戦争(イスラエル独立戦争またはパレスチナ戦争)が勃発したのである。
数次に及ぶ中東戦争の後、イスラエルに対するパレスチナ解放のゲリラ指導者だったアラファトは、イスラエルとの歴史的な和平協定を結んでパレスチナ暫定自治政府をつくり、ノーベル平和賞(1994年)を授与された。
しかし、両者の和平プロセスは、イスラエルのラビン首相暗殺をきっかけに幾度も危機を迎え、2000年、イスラエルの後の首相シャロンが、エルサレムの神殿の丘にあるイスラム教の聖地に踏み込んだ事件で起きたハマスなど非PLO系の組織が主流の「インティファーダ運動」で、両者の対立は決定的となった。
パレスチナ人の自爆攻撃とイスラエルの攻撃が相次ぎ、ガザ・ヨルダン川西岸地区の状況は悪化の一途をたどり、現在に至る。
アラファトは2004年に死去したが、暗殺説もあり、和平協定締結の両当事者はこの世にない。
2人の日本人拘束事件で現地対策本部が置かれたヨルダンの人口の半ばはパレスチナ人であり、石油を産出しない非力な国は、フセイン一世国王以来、欧米とアラブ諸国との狭間の巧妙な外交でしのいできたようだ。
和平でなく、イスラエルとの戦闘を呼びかけるイスラム主義勢力と「イスラム国」の関係は分からないが、アンマンにはCIAの地域センターがあるとされ、一連の事件の指揮は、ヨルダン政府の背後のCIAが執っているとの憶測もある。
現地対策本部の人員増強がされなかったこと、事件の推移について「特別秘密保護法」を盾に、国会答弁をウヤムヤにしている安倍政権には出る幕はなかったのではなかろうか。
国に準ずる共同体組織「イスラム国」の「テロ」は、アルカイダが先制攻撃にも出るのとは異なり、「攻撃された場合の防御」が特徴とされている。
昨年来の米国人ジャーナリストらの「処刑」は空爆開始に対抗したもので、そうでない場合は、人質を身代金と引き換えに解放してきた。
安倍政権が「十字軍への参加を志願した」との「イスラム国」の判断は、小泉政権による自衛隊のイラク派遣の延長線上に「積極的平和主義」が
あるとみるだけでなく、集団的自衛権行使や憲法九条の改正を押し進め、米国と一緒に地球の裏側ででも戦争に参加しようとする安倍政権を、明確に敵対視しているにちがいない。
首相が「十字軍への参加を志願した」とみなす「イスラム国」による2人の日本人の「処刑」で、中東各地のNGO・NPOの難民支援活動に支障が出始めており、進出している日本企業の社員・家族の緊張と不安はたいへんだろうと、家族共々のアラブ在勤四年の経験をもつ筆者の胸は痛む。
アフガニスタンで井戸掘り・潅漑工事に献身している中村医師や難民キャンプでボランティアの支援活動に勤しむ日本人若者たちの尽力と誠意の賜物として、アラブの人たちの親日的まなざしがあるのだ。
「罪の償いをさせる」の言葉を吐いた安倍首相の顔が、9・11直後のブッシュ大統領に重なるが、分けのわからない極悪非道の連中の敵愾心を煽って、世界中にいる日本人を標的にさせることが、首相が繰り返す「国民のいのちと財産、国益を守る」第1番の方策なのかどうか。
福島原発の事故処理の見通しも定かでない中、各地の辺鄙な場所に立地する原発の「テロ」対策や2020年の東京オリンピックを不安なく楽しめるような警備システムを、どうするつもりか。
筆者が家族と共に在勤した(1970~1974年)クウエイト国電気通信技術コンサルタント事務所で雇っていたパレスチナ人オフィスボーイのイスマイルが、ディル・ヤシーン村での虐殺を激しい怒りをこめて話したことがあったが、それは、日本赤軍創立メンバー・最高幹部の奥平剛士が、テルアビブ空港で乱射事件を起こしたあとで射殺されたとテレビが報じたときだった。
若いのに立派な口ひげをはやしてオジサン顔のイスマイルが、いつも見せる人なつっこい笑顔とは真逆の形相で、「バッシュモハンデス! ニッポンの若者の快挙を称えます! まるで神風特攻ですネ!」と叫び、私に抱きついてきた。
そんな政治的な言動を、それまで全く見せなかった彼をやや訝しく感じながら対応に困った当時が思い出される。
事務所には、ヨルダン人の運転手のイムランとオフィスボーイのワヒッドもいて、イスマイルのように激した喜び方ではなく、静かに握手を求めてきたが、日頃、温厚そのものの人柄のイムランが、「私の村では、女子供もろとも、ほとんどの村人が1日で殺されました」と言い、ワヒッドは、「私たちは、あのイスラエル国がつくられる以前のようにユダヤ人たちと仲良く一緒に暮らしたいのです」と呟いた。
いずれにしても、クウエイトに来てすぐ起きたライラなどによる連続4機ハイジャック事件の時のアラブ人たちの激しい反応を思い出して、いきなり非難がましい論評を述べるのだけはさし控えたのだった。
ヨルダン人とは違って、イスラエルに理不尽に祖国を奪われたイスマイルは、イスラエルの国家テロによる大量虐殺に比べ、コマンドによる空港襲撃事件の復讐を、生ぬるいくらいにしか考えていないようだった。
事件後に日本から届いた新聞で、奥平剛士が、京大建築学科の後輩と分かり驚いたが、岡本公三(よど号事件グループの岡本 武は次兄)と安田安之の3人がコマンド(パレスチナ・ゲリラ)と共に、手榴弾と自動小銃で民間人26人を殺害、100人以上を殺傷した事件だった。
翌年起きたパレスチナ・ゲリラによる日本大使館の占拠事件の直前、大使館から日本人社会に、赤軍派最高指導者重信房子がクウエイトに入国・潜伏している情報があるので、人目のない沙漠に出ることを控えるようにとの通知があった。奥平は1971年に重信房子と偽装結婚をして、日本からレバノンのベイルートへ出国していたのである。
その重信房子が最高指導者になった日本赤軍は、レバノンのベカー高原を根拠地で「革命運動」を自称し、1970年代から1980年代にかけて、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などのパレスチナの極左過激派と連携して一連のハイジャックや空港内乱射事件などの無差別殺人を起こした。
さらには、外国公館の政府要人やハイジャックした飛行機の乗客を人質に身代金や仲間の奪還を目論む事件を起こしたり、外国公館の攻撃で多数の民間人を巻き込むテロ事件を繰り返して、世界各国から非難を受けた。
筆者がこの『アラブと私』を書くきっかけが、9.11の報復で侵攻したイラクをメチャメチャにしたブッシュ大統領への憤りと、1971年の平和なイラクで「バスラ・バグダッド・モースル往復3千キロの旅」を共にした土木エンジニアのユーセフやバグダッドの若い女性アハラムらを偲ぶことだったと、これまで繰り返し述べてきた。
そして、「イスラム国」の脅威に直面する世界・中東情勢が、「パレスチナ・ゲリラ」による事件が多発した当時とあまりにも似ていることに驚き、短絡気味に言うと、70年安保闘争で挫折した学生ら赤軍派が参加した一連の「ゲリラ事件」と、バブル崩壊の日本の世直しを妄想した教祖麻原彰晃のオウム真理教によるサリン事件には、どこか、「イスラム国」による「テロ」と通底するものを感じている。
それは特定の政治思想・宗教教典を妄信・曲解する集団が、敵対者だけでなく仲間内にも及ぼす恐るべき残虐さである。
「イスラム国」による諷刺画新聞襲撃事件と人質「処刑」を考えるキーワードに、「自由」「宗教」「民主主義」を挙げて拙論を述べるのは、次回としたい。
ちなみに、フランス革命の「人および市民の権利宣言」(人権宣言)の「自由」の定義が、「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する」とだけ記しておこう。
(続く)
奥平ジュンゾウ氏は京大の建築系学科(1968年入学)におりましたし、安田ヤスユキ氏も同じく建築系学科(1年上? 。ただし、留年ばかりされており、卒業時には下の学年でした? 安田氏はテルアビブで事件を起こして亡くなりました。1968年入学の同じ学年に四日市高校の出身者が2名おり、その一人が安田氏と高校の同級生だったようです)。奥平ゴウシ氏は建築学科ではないのではないか、と思います。どうでもいいような細部です。奥平ジュンゾウはテルアビブで死んだ奥平ゴウシ氏の弟です。