アラブと私

イラク3千キロの旅(97)

 

                                        松 本 文 郎 

 

 中東・アフリカ一帯でのイスラム過激派組織によるテロ・戦闘が、拡大の一途をたどっている。

「チュニスの春」で長期軍事独裁政権を崩壊させて以降、比較的順調に民主化が進んでいたとするチュニジアで、国立博物館を訪れた大型クルーズ観光客が襲撃され、20余人(日本人3人も)が殺害された。

 イスラム過激派のハーレド・シャイブ容疑者ら実行犯2人が殺害され、20人あまりが逮捕されている。実行犯グループは、「イスラム国」支持の組織とみられる。

 サウジと国境を接するイエメンでは、シーア派武装組織「フーシ派」が、首都サヌアを掌握して暫定政府樹立を宣言し、ハディ暫定大統領が逃れた南部に侵攻している。

 サヌアの2ケ所のモスクで起こった自爆テロとみられる爆発事件では、死者数が140人を超え、「フーシ派」支持者が多くふくまれるという。

スンニ派の「イスラム国」が犯行声明を公開して、イスラム過激派同士の宗派対立を背景にした武力衝突が拡大している。

「イスラム国」は、チュニジアの博物館襲撃事件に続いて、政府軍と戦闘中のシリア・イラクから他の中東地域にまで、勢力を拡張しているのだ。

 この情況下、エジプトのシャルム・シェイクで開催されたアラブ連盟首脳会議が、アラブ合同軍創設の方針を明らかにした。

 創設の要因には、リビアでエジプト人キリスト教徒をISに殺害されたエジプトのIS・リビア拠点の報復空爆2月)、イエメンのハディ元大統領を辞任に追い込んだ反政府フーシ派へのサウジ空軍の爆撃(3月)があるとされる。

このアラブ合同軍は、中東全域で同時多発的に進行しているテロ・内戦(シリア,イラク、チュニジア、イエメン、ケニアなど)の深刻な情況に、「アラブ諸国がかつてない危機にさらされている」として創設されたという。

イラクのジャファリ外相はアラブ合同軍について、「イラクはアラブ諸国の支援を必要としているが、地上軍派遣は望まない」と明言し、空爆については、「イラク政府との調整のためのドアは開かれている。ただし、イラクの独立と尊厳に沿った作戦でなければならない」と語ったという。

ジャファリ外相は、湾岸戦争の時のPTSDでもかかえているのだろうか。

 アラブ合同軍は、イラク軍のクウエート侵攻で勃発した湾岸戦争(1990年6月)でアメリカ海兵隊と共にクウエート市内に侵攻したが、それは海兵隊と多国籍軍地上部隊がイラク軍戦車部隊を全滅させイラク軍9千名を捕虜にした後からだった。

 そのとき米国に空軍基地を提供した母国サウジへ反旗を翻したオサマ・ビンラディンは9・11を引き起こしたが、サウジアラビアが今回のように、他国に対して積極的軍事行動を行うのは極めて異例とされる。

サウジの空爆にもかかわらず、2014年から急速に勢いを増した「フーシ派」の勢力は衰えていないようだが、追放されたハディ元大統領を支援するサウジアラビアは、イエメンが「フーシ派」に支配された挙句、イエメン・サウジの国境近辺に住むシーア派部族と結びつくことを危惧しているのだろうか。

自衛的先制攻撃とでもいう「戦争」を、アラブの隣国に仕掛けることで、宗派間代理戦争が他のアラブ国へ波及し、イエメンが第2のシリアになることが危惧される。

 

「イスラム国」の出現は、イラク侵攻の間違いを犯したブッシュ元政権の無謀な戦争に、イスラム過激派が反発したのが原因とされるが、強権的なフセイン元大統領が束ねていたスンニ・シーア両派やクルド族の利害衝突のパンドラの箱を開けてしまったのでる。

 有志連合に入っているアラブ諸国(サウジアラビア、ヨルダン、バーレーン、アラブ首長国連邦)は、米国、オーストラリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、オランダ、英国と共にシリア・イラク空爆に参加している。

 これらアラブ諸国が連帯を強め、アラブ合同軍の結成に動くまでに、二つの大きな節目があった。一つは、1978年にバグダッドで開催された「アラブ連盟」の首脳会議でイスラエルと単独和平を結んだエジプトをアラブ連盟から追放したことであり、もう一つは、湾岸戦争前夜、フセインのイラク側につくかクウエート側(つまり米国)につくかで分れたたとき、連盟に復帰していたエジプトが主催国としてやや強引に「イラク非難決議」を押し通してアラブ連盟が分裂したことである。

 議事を進めようとするムバラク元エジプト大統領にリビアのガダフィ大佐が拳を振り上げて抗議する姿が、当時のテレビ番組で映された。

 

1978年から30年前のエジプトは、パレチナ人を追い出した地へのイスラエル建国に反対して戦いを挑んだパレスチナ戦争(第1次中東戦争)で敗れた。なにがなんでも建国・独立を果たしたいイスラエルに、バラバラに戦ったアラブ諸国が各個撃破されたのである。エジプトの腐敗したムハンマド・アリ朝を革命(1952年)で倒した新生エジプト指導者ナセルは、アスワンに巨大ダムを建設するための融資をアメリカ、イギリス、世界銀行に申し入れて好意的な反応を得ていたが、エジプト軍再建のためのソ連製武器が港に着き始めたことで、融資撤回の通達を受ける。ナセルによる歴史的な「スエズ国有化宣言」は、通達から1週間後(1956年7月26日)に行われたが、スエズ運河会社の収入で巨大ダムを自力で建設する意図を持つものだった。その日は、ファルーク国王が追放されて4年目の記念日で、ナセルは、ムハンマド・アリ広場にあふれた群衆に向かって演説した。

「私は発表する。私がいま諸君に語っているこの時間に、万国スエズ運河会社はこの世から消えた。

いまや運河はわれわれのものだ。スエズ運河は、ハイダム建設を十分にまかなってくれるだろう」

「運河を掘ったのはエジプト人で、中途で12万人のエジプト人労働者が犠牲になった。運河は、エジプトの利益に奉仕すべきだったが、反対に、エジプトが運河に属するようになった。帝国主義者の陰謀に頼り、国家の中の一国家をなしていた運河会社の権利を、われわれは今日、取り戻した。

私はエジプト人民の名において、この権利を守りぬくことを宣言する!」

 そのほかの言葉は、群衆の熱狂と興奮の渦の中にかき消されたという。

 長年に亘りアラブ世界を支配してきた西欧列強向けた民族的挑戦として、アラブ民族主義の連帯意識を鼓舞した、まさに歴史的瞬間だった。

 このスエズ危機に国連が介入して解決策を模索中、イスラエル軍が突如、シナイ半島に侵入し、イギリス・フランス軍は、「エジプト・イスラエル間の戦闘からスエズ運河を守るため」と称して、ポートサイトに上陸したのが第2次中東戦争だ。

 イスラエルの侵入意図は、行動開始の4日前にエジプト、シリア、ヨルダンが結んだ軍事同盟の包囲を断ち切ることで、イギリス・フランス・イスラエル3国の共謀による侵略戦争だったと後でわかったという。

 この地域紛争は、3国に対して「核の脅し」をして世界危機へエスカレートしたが、アメリカの必死の工作で、国連軍が3国と交代する条項を含む停戦決議が国連安保理で採決されて幕を閉じた。

 ユダヤ系イギリス人の歴史家アイザック・ドイッチャーの『非ユダヤ的ユダヤ人』には、

「イスラエルは恥知らずにも、ヨーロッパの破産しかけている帝国主義英仏両国の最後の共同利益であるスエズ運河会社とエジプトを手中に置こうとする最後のあがきの中で、古い帝国主義の手先として行動した。(中略)イスラエルは、道義的にも政治的にも全く悪い方の側についたのである」と書かれている。

 ナセルは3国に攻められ戦場では完敗したが、何も得るところがなく撤退した侵略者との戦争には勝ち、一躍、アラブ民族主義の英雄になった。

一世を風靡した第3世界のリーダーにのし上がった「ナセル時代」の幕開けだった。

 ナセルは国有化宣言の公約に基づく全株主に対する補償を予定より1年早く完了し、スエズ運河は名実ともにエジプトのものとなった。

 ソ連の援助で工事を開始したアスワンハイダムは10年かけて1970年に完成したが、ナセルは過労がたたって、翌年1月に予定された公式の完成記念式典の3ケ月前に急逝した。

 クウエート・テレコムセンターの工事現場で、建設業者のエジプシャン・カンパニーが主催した。追悼式典に、コンサルタント事務所に着任して間もない筆者が参加させてもらった話は、連載(1)に書いた。

 

 ナセルの後を継いだサダト大統領がイスラエルに奇襲を仕掛けて始まった第4次中東戦争では、冷戦下の米ソの応援合戦もあり、「サダトの戦い」と称された十月戦争は、通常兵器では史上最大の戦争だった。

 その2年後に閉鎖が8年続いた運河を再開して1975年6月に記念式典を主宰したサダトは、1978年度ノーベル平和賞を受賞した翌年にはイスラエルと平和条約を結んだので、エジプトはアラブ連盟から追放されたのである。

それからは、アラブ諸国がまとまることはなく、アラブ連盟がかつて掲げてきた「アラブの連帯」はタテマエに留まり、アラブの人びとの心を繋ぎとめるのは、アラブという民族的共通性ではなく、イスラムという宗教的共通性がアラブ政治を動かしてきたとされる。

 だが、次第に勢力を拡大する「イスラム国」へ百を越す様々な国々からの参加者が後を絶たない状況の分析は、しっかり複眼的に行う必要があると思われる。

 中東・アフリカでテロ・紛争・内戦を起こしているイスラム過激派の相互関係も実に複雑だ。

・シリア・イラク(「イスラム国」)

・チュニジア(アンサール・アルシャリフ)

・イエメン(フーシ派・アラビア半島のアルカイダ)

・ケニア・ソマリア(アル・シャバーブ)

・アルジェリア(マグレブ諸国のアルカイダ)

・ナイジェリア(ポコ・ハラム)

・リビア(アンサール・アルシャリフ)

・パキスタン(パキスタンのタリバン運動)

これら過激派が国内外で起こす襲撃事件が報じられない日はないほどである。

 ケニア東部ガリッサの大学構内に侵入して多くの学生(147人)を射殺したのは隣国ソマリアを拠点とするイスラム過激派「シャバブ」が犯行声明を出した。

 学生寮に侵入して警備員を殺害して、イスラム教徒の学生を外に出し、キリスト教徒の学生だけを選んで殺害し、約8百人の学生の内、3百人の所在が不明という。

 日本人観光客が多く訪れる(筆者の娘婿一家もかつてサハリを訪問)ケニアでは最近、シャバブによるテロが多発しており、首都ナイロビの大型ショッピングセンターが襲われ、67人が殺害された(2013年)後も、東部中心にキリスト教徒ら数十人が殺害されるテロが起きている。

 

ナイジェリアの大統領選では、「ポコ・ハラム」のテロを抑え込めなかった現職大統領に国民の非難が集中し、最大野党の元最高軍事評議会議長が(83年のクーデターから85年まで国家元首に)当選して政権交代が行われた。

 選挙妨害を宣言していた「ポコ・ハラム」は、投票日の投票所などを襲って40人以上を殺害。今後もテロや誘拐を頻発させるとみられ、新政権にとって、激化する過激派をどう封じ込めるかが喫緊の課題とされている。

 イラク政府軍が掌握したティクリート市では、スンニ派が多数を占め、スンニ派国家の建設をめざす「イスム国」を支持する住民も少なくないので、シーア派主導の政府が率いる作戦は「侵略」とみなされる恐れもあったという。

 マリク元首相に率いられてスンニ派市民を虐殺した政府軍の残党と思われるシーア派民兵らが、スンニ派住民の住宅に放火・略奪し、モスクへの過剰攻撃をした報告が相次いだので、空爆をした米軍が、シーア派民兵の前線からの撤退をイラク政府に要求したとされる。

 今後、新たに市民の被害が確認される可能性もあり、政府が地元住民の支持を得られるかどうかが、作戦の成否を左右すると思われる。

 

泥沼の内戦が続くシリアでは、「イスラム国」が首都ダマスカス南部のヤルムークに侵攻したが、米軍などの空爆を受けながらも、支配地域をほぼ維持していると報じられた。

 ヤルムークはダマスカス中心部から約5キロ。アサド政権が受けた衝撃は、大きいとみられる。

 ヤルムークにあるシリア最大のパレスチナ難民キャンプ(約1万8千人)の大半は制圧されたとされる。ヤルムーク南部は、「イスラム国」と対立するアルカイダ系「ヌスラ戦線」支配下だったが、「イスラム国」に共鳴する現地のヌスラ戦闘員が、ISの侵攻を手助けしたとの情報もある。

 内戦前のシリアで、国連に登録したパレスチナ難民が約50万人いて、ヤルムークほか9ケ所の難民キャンプで生活していたが内戦の激化で多くの難民がキャンプを離れ、ヤルムークでは約18万人から1万8千人に激減していた。

 このキャンプに反体制派の武装勢力が入り込んでいるとした2013年以降、アサド政権に封鎖されて猛攻撃を受け、食料・医薬品搬入も止められ、戦闘の巻き添えや餓死で多くの市民が犠牲になり、シリアの人道危機を象徴する場所とされていたという。

 オバマ政権は、自国民を虐殺したアサド政権に正統性はないとして退陣を求めたこともあって、「イスラム国」掃討で、手を組めないジレンマがあるとされる。

朝日新聞の取材では、「イスラム国」はシリア国内で内部抗争があるとみられ、今年に入ってから、「イスラム国」を脱退して「ヌスラ戦線」など他の過激派組織に参加する戦闘員が目立つという。

 統制された軍隊のイメージだった「イスラム国」は最近、傘下の各グループがそれぞれの思惑で攻撃している印象で、今回のような町の制圧は続くとしても、組織をあげての行動でなければ支配が維持できるかどうか疑問とみる向きもある。

イエメン南部には仏週刊新聞襲撃事件への関与を主張する「アラビア半島のアルカイダ・フーシ派」拠点があるが、それを支援しているイランは、イラク中部のティクリート奪還作戦のイラク軍とシーア派民兵の指揮にイラン革命防衛隊司令官を関わらせる一方、イラン核開発協議が山場を迎えており、米国の中東政策はイランを巡り、各地で相反した構図になっているややこしさだ。

 

「イスラム国」をはじめとするイスラム過激派の各地での活動拡大を見てくると、「自由と民主主義」の価値観を共有する有志連合と共に「イスラム国」(IS)と戦う、と高らかに宣言した安倍首相が、どこまで、有志連合参加のアラブ・欧米諸国の個別の思惑や利害関係の複雑さを理解しているのか、疑問を感じざるを得ない。

 民主党の自失で漁夫の利を得、衆参両院で連立与党の過半数を手にした安倍内閣が戦後レジームからの脱却を掲げて、不戦の平和主義を否定する一連の時代錯誤的政策を強引に押しすすめる政治の立ち位置では、有志連合アラブ諸国の政治が、民主主義の定義からほど遠いものである実態も、さして気にならないのであろう。

次回は、一九七一年のバグダッドにワープして、アメリカのイラク侵攻後、イラク人に略奪されたバグダッド国立博物館を訪ねることにしよう。

              (続く)




2015/04/08 15:49 2015/04/08 15:49
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