アラブと私
イラク3千キロの旅(98)
松 本 文 郎
(94)から4回に及ぶ寄り道で、「イスラム国」に関する記事をたてつづけに書いたが、思えば、これまでも随所で寄り道をしてきたものだ。
1970年からの4年間在勤したクウェイトとアラブへの想いで書いてきた《アラブと私》が、足かけ8年で、『イラク3千キロの旅』(バスラ・バグッダッド・モースル往復5泊6日)の記述が(97)にまでなったのは,あちらこちらでの寄り道のせいである。
3回目のバスラのベリーダンサー・娼婦の話から、ティツィアーノの有名な絵のヴィーナス像のモデルがベニスの高級娼婦の一人だったこと、イラク戦争5年目(2008年)のバスラの大油田地帯の利権を巡り、マリク首相が率いる政府軍とサドル師の民兵組織マフディ軍(シーア派同士)が戦闘中であるなどを書いて、道草をしている。
初回に書いたように、『何でも見てやろう』の小田 実流に、1970年代前半のクウェイトでの仕事と生活を思い起しながら、あれから半世紀近くを経たアラブの現実との間を往還する意図の執筆だからである。
ではタイムスリップで、(93)のバグッダッドのホテルへ戻るとしよう。
眠りこむ寸前の湯舟から立ち上ったのは正解だったようだ。極度の疲れで忍び寄った睡魔が、バスタブでの溺死を招いたかもしれないからだ。モースル往復(1泊2日)の旅はかなり強行軍だった上に、バグダッドへ戻ってすぐアハラムらをディスコクラブへ招待したのだから。モースルの街(初期アッシリアの砦の町)では、ユーセフの知人ら(アッシリア東方教会の神父/ヤズィーディー教のクルド老人/ガレージの若主人)に次々に会い、モースルの歴史と現実について得難い話を聞き、大阪万博や日本の経済発展について話をして、濃密な時間を過ごした。
「イスラム国」のモースル侵攻では、少数民族のヤズィーディー教信者を山岳地帯へ追いやったり、女性たちを捕虜(奴隷)にしたと報じられたが、45年前の私は、迫害を受けた人らの洞窟住居を訪れ、お茶を戴いたのだ。
モースルの博物館襲撃では、貴重な東西の文化遺産が破壊されるシーンがテレビ画面に映され、バーミヤンの岩山の巨大仏像が爆破されたときと同じ衝撃を受けた。
「偶像」を禁止するコーランの教えの真意を全く理解していない「蛮行」と言うほかない。
この程度の道草的記述なら、全体の筋道を混乱させないだろうし、《アラブと私》の執筆の意図からも、読者のご理解をお願いしたい。
バスタブの溺死を免れ、ベッドに倒れこんで爆睡した私を翌朝起こしてくれたのは、ユーセフの強いノックだった。
眠気眼で開けたドアから入ってきた彼の手に、昨夜告げられていた「土器」の紙包みがあった。
バグダッド近郊の潅漑改良工事の現場監督をしていて見つけた古代の土器で、高さ20センチ、胴回り約10センチ、細い首の下の両脇に取手が付いている。胴には縦溝の素朴な模様がある。
「地中6メートル位だからかなり古い年代のものでしょうが、これから行くイラク国立博物館の陳列棚で、似ている土器を見つけましょう」と笑顔で言う。
母親と朝食を済ませてきたユーセフを待たせ、食堂に下りる。冷い生のオレンジ・ジュースが喉を下ると、心身が一気にリフレッシュした。イドの休暇の旅も最終日。夜中にはクウェイトに戻るので、充実した一日を過ごしたいと願う。荷物をまとめてチェックアウトして、駐車場のトヨペットクラウンに、2人は乗り込んだ。
母親がユーセフに持たせたクレーチャとコーラ、オレンジがあるので、昼食と夕食は車中で済ませ、2人の旅の残りの時間を有意義に使うと決める。
バグダッドのイラク国立博物館には、5千年以上の歴史をもつメソポタミア文明の考古的遺物を擁する世界でも屈指のコレクションが、6部門に構成された数多くのギャラリーに展示されていた。
シュメール、アッカド、バビロン、アッシリア、アッバース各帝国の遺物展示は、整然と区分されていた印象はあるが、写真を撮っていないので、詳細の記憶はない。
紀元前9百年から紀元539年のアッシリア帝国とバビロニア帝国の歴史については、寄り道でその概略を記したが、旧約聖書の「バビロン捕囚」のネブカドネザル2世が、被害者(イスラエル人)の視点で書かれている残虐なイメージの反面で、豊かな都市文化・文学世界・洗練された官僚制度をもったことが、考古学的調査と楔形文字(19世紀に解読)とで明らかになった。
博物館の入り口前に立つ彫像はアッシュール・ナツィルパル2世。アッシュールの首都カルフの要塞内の神殿で発見され、神を崇拝してやまなかった王が完全な姿で出土した珍しいものだという。
玄関の両脇に、人の顔を持つ有翼の天馬の彫像があった記憶だが、1969年に訪れたペリセポリス(イラン)遺跡の中央階段レリーフの彫像に似ていた印象だけ、おぼろげに残っている。
館内の天井は高く、靴音やユーセフとの話声がよく響いた記憶もあるが、なんだか心許ない。
アッシリアの財宝は、カルフの宮殿地下の王妃の墓から見つかった装飾品の数々や、要塞の井戸から見つかった象牙の彫刻などがある。
王妃を美しく飾っていた耳飾り・ブレスレット・ベルトなどの素材は、金(ある墓の副葬品には14キロも使われていた)のほかに、ラピスラズリ、紅玉髄、水晶などの準宝石で、工芸技術の水準は高く、宝石の加工技術はさまざまで、象牙彫刻も精巧だった。
その様式から、これらの品々を作った職人たちがアッシリア帝国内だけでなく、周辺や西方の出身者もいただろうと思われた。
モースルからバグダドへ戻る途中の街はずれで遠望したアッシリア帝国最後の都ニネヴェからは、数万点もの楔形文字の文書が発掘され、軍事遠征の年代記、日常的な契約、書簡、行政文書のほかに、天文学や世界の様相などの科学的な探求記録もある。
アッシリア王アッシュール・バニパル(在位・前668―627)のエジプトの首都テーベ略奪の様子の記録に、「アッシュール神とイシュタル神のご加護によって私はこの町のすべてを両手に収めることができた。宮殿を満たすほどの銀、金、宝石。美しい色の亜麻の衣装、立派な馬、男女の住民。純銀の2本の高柱(重さ7万5千キロ)は神殿の門に立っていたのをアッシリアへ持ち帰った」とある。
アッシリア人は、打ち負かした相手への残虐行為を克明に文章や絵に描写しているが、浮彫の中に、センナケリブ王の兵士が、イスラエルを支援したエジプト人らしい2人の皮をはいでいるのがあった。
アッシリア・バビロニア帝国共に、恐怖という手段で服従をかちとったようで、軍の出動では力の行使に容赦はなかった。
歴代の王たちは、略奪した品々の一覧を作っているが、侵略が富の流入をもたらし、毎年の貢物や租税が資産の増加につながったことが明らかになっており、征服地の住民の強制移住によって、帝国人口をはるかに上回る労働力を確保した。
都市に作られた宮殿、神殿、庭園のすばらしさを寄り道で書いてきたが、それらの遺跡がみすぼらしいのは、泥の日干しレンガの建造物が崩れ、シリアの山中から運んだ杉材が腐食して原形を失ったからである。
都の町並みを美しく整えたアッシリアとバビロニアは郊外の開発も進め、灌漑整備で農業振興に努めた。アッシリアでは都市ニネヴェに水を引く灌漑が整備されたが、雨が少ないバビロニアではメソポタミア南部に灌漑網を張り巡らせて、人工的給水で作物を育てた。このインフラ建設には、外国から連れてこられた住民が動員されただろうと書かれたアラビア語の説明書きを、ユーセフが読んでくれた。
「私が現場監督で関わったバグダッド近郊の灌漑改修工事のインフラは、紀元前に建設されたものに重なっているのではないでしょうか。ホテルで差しあげた土器の年代を知るために、古代の生活用具を陳列する部門の室へ急ぎましょう!」
夥しい生活用の土器が並ぶギャラリーの説明を読みながらユーセフが解説してくれたのは、
・生活土器の生産に従事したのは女性。
・初期の土器は細い矩形の粘土を輪積みして作ったので、厚く、ごつい感じ。
・自分の髪を梳いた櫛で模様をつけた櫛目模様。
・豊かな三日月地帯の原始農耕と共に、無文土器が彩文土器へと発達したのは、紀元前5千―3千年の頃。 などだった。古代の生活土器の出土した地層図も掲げてあり、ユーセフが見つけた6メートルの深度、胴の櫛目模様とから、4千―3千5百年前位ではないかと推定する。
考古的遺物といえば、電気通信研究所建築基本計画の技術指導でテヘランを訪れる(1969年)途上、電電公社の技術協力で稼働していた同種の施設見学で立ち寄ったハリプールで、古代都市のタキシーラで発掘されたという仏頭(掌に入る大きさ・ヘレニズムの影響が明確なかたち)入手した時を思い出した。
駐在の日本人所長が地元村長から贈られたものを譲り承けたが、考古的遺物は国外持出し禁止と聞き、罰当たりにも、下着に包んでトランクの底へ隠して、テヘランへ向かった。
それをユーセフに話すと、「仏頭よりも遥かに古いですが、美術品ではないからノープロブレムでしょう」と言う。
村長からとはいっても、あの仏頭は百パーセント信用できるわけではないと半信半疑だったが、ユーセフからの土器は、彼自身が現場で見つけたものだから間違いはなかろう。帰国後、上野の国立博物館で判定してもらうのが楽しみだ、と思った。
このイラク国立博物館は、2003年のイラク戦争の騒乱に乗じて、約1万5千点の像などが密売目的で略奪された。その後、イラク国内外で発見された約6千点の内約4千3百点を関係者の忍耐強い努力で回収した博物館は、今年(2015年)2月、公開展示の再開にこぎつけたと報じられた。
これは、モースルの博物館で起きた、「イスラム国」戦闘員による貴重な古代石像の破壊への反発を示すためだという。
「イスラム国」が公開した動画でハンマーを振う戦闘員の1人がカメラに向かって、「イスラム教で禁止されている偶像崇拝の象徴を、宗教的な見地から破壊する」と主張していたが、当局者や専門家らは、大きすぎて「イスラム国」の資金調達が目的の密売が不可能な像を破壊したにすぎないと見ているという。
破壊された石像もヘレニズムの影響があるものに見えたが、多様性を重んじる寛容なイスラムが伝えてきた東西の貴重な文化遺産が、蒙昧極まる連中によって瓦礫に帰したのは、実に腹立たしいことだ。
「イスラム国」の寄せ集めの戦闘員の中の不心得者が、こうした蛮行を重ねれば、制圧した地域の人心は彼らから離れるに違いない。
ただ、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダなど元植民地主義国からやってきた戦闘員の一部に、かつて侵略した植民地から略奪した考古的遺産や美術品が、自国の国立博物・美術館に陳列されているのをよしとしない人間もいると思われる。
前6世紀のバビロニアに建てられたイシュタル門は、青い釉薬をかけたレンガが美しく、模様の龍と牡牛は町の入口を守るものとされていたが、この門を発掘したドイツ人は、丸ごと持ち帰り、古代中東建築を代表的な遺構として、ベルリンの中東博物館に展示されている。エジプトへ遠征したナポレオンが国へ持ち帰ったパリの巨大オベリスク、ロンドンの大英博物館で見たエジプト・ミーラの数々と副葬品、イラクの最古の都市ウルから出土した、王の死後の世界を描いてある貴重な考古的遺産など、枚挙にいとまはない。
所属男声合唱団の初の海外公演をソウルの女性合唱団と世宗文化会館ホールで共催して、慶州の仏国寺を訪ねたとき拝観した大日如来座像を日本軍が持ち帰ろうとしたが、巨大すぎて諦めたことを女性ガイドに言われ、恥ずかしい想いをした。
ネブカドネザル2世が豪語した略奪のようなはるか彼方の時代はともかく、自由・平等・友愛のフランス革命後の世界でも、侵略先の文化遺産を戦利品とみる、国家的略奪行為があったのだ。
元赤軍派のゲリラ事件やオーム事件でも、無差別な殺人行為を正当化する身勝手な理屈を述べ立てたが、「イスラム国」戦闘員のまねをする人間が日本に現れはしないかと危惧した矢先、奈良など各地の寺社仏閣の文化遺産を傷つける事件が起きたのである。
安倍首相の前のめりの「イスラム国」対決宣言は、世界に誇るわが国の類まれな仏像の毀損を防ぐに十分な防御システムがあると、確信してのことか。
(続く)

ペルガモン博物館(ベルリン)のイシュタル門
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