アラブと私

イラク3千キロの旅(99)

                             松 本 文 郎 

 

 ユーセフからもらった櫛目引きの土器が、紀元前1500年~2000年位のものと勝手に断じた私は、その先の収蔵品を足早に見て、博物館を後にした。

「バグダッドへの往路の夜半に通過したシーア派の聖地カルバラで、『カルバラの戦い』(11)の第3代イマームの聖廟に立ち寄り、今夜のうちにクウェイトへ着くのは、かなりきつい行程ですよ」

トヨペットを飛ばしながら、ユーセフは言う。

 

連載初期を読まれていない方々の便宜に、なぜカルバラがシーア派の聖地になったのか、往路のユーセフが語ったイスラム史の概略を再録する。 

発端は、ムハンマドの血筋アリーのカリフ就任に対してシリア総督のムアーウィヤが「バイア」(臣従の誓い)を拒否したことである。

 ウスマーンと同族のムアーウィヤは、ウスマーンが殺されたあとウマイヤ家の長となるが、彼の父は長い間ムハンマドに敵対した人間だった。この父子は、ムハンマドが630年にメッカを征服したとき改宗したが、その信仰心の程度については評価が分かれるとされる。

 つまり、ムハンマドやアリーが属するハーシム家とウマイヤ家とのあいだには、イスラム史初期から共同体の指導権をめぐる確執があったのだ。

 ハーシム家打倒を目論むムアーウィヤが一部の教友を従えてアリーに戦いを挑んだのは656年のことだが、この戦いでアリーのカリフ就任を不快に思っていたムハマンドの未亡人アーイシャ(2代目カリフのアブー・バクルの娘)がラクダに乗って戦場に現れたので、「ラクダの戦い」と呼ばれているという。

 戦いに勝ったアリーは、アーイシャをメディナに戻し、自らは歴代カリフが住んだメディナを離れ、イラク中部の都市クーファへ移った。

 ムアーウィヤはその後もアリーへの臣従の誓いを拒み、657年、両軍は再び、ユーフラテス上流のスイッフィーンで戦火を交えることになった。

 この戦いは勝敗が決まらず、調停の道を模索したアリーの妥協的な態度に失望した一派が袂を分かち661年、アリーは離脱者と呼ばれたこの一派の刺客の手によりクーファで命を落とした。

彼の死で、4代に亘った「正統カリフの時代」は幕を閉じ、シリア総督ムアーウィアは、ウマイヤ朝を開き初代カリフに就任した。

 その後、カリフの位はウマイヤ家の男子によって世襲されることになり、政権から追われたアリーの支持者たち(シーア派)は、ムアーウィアをカリフと認めず、アリー以前の初代から3代までのカリフの正統性も否定した。

 ユーセフが語るイスラム史の始まりを聞いたら、シーア派とスンニ派の当初の対立は、イスラム教典の解釈の違いなどではなく、共同体の統治権をめぐる権力の争いだと思えてきた。

人類史上、異なる神を信仰する宗教間の争いで、信仰上の対立はあるにせよ、共同体の維持と版図の拡大こそが重要な目的だったにちがいない。「カルバラの戦い」は、ムハンマドやアリーが属したハーシム家と帝国の第2期を築いたウマイヤ家との共同体統治権をめぐる確執の果てにあった。

 アリーのような預言者ムハンマドの血筋だけ,後継資格をもつ「イマーム」とした当時のシーア派は、アリーを初代イマームと呼び、イマームの位はムハンマドの末娘ファーティマとアリーとの間に生まれたハッサン・フセイン兄弟をへて、弟フセインの子孫へと引き継がれたとみなしている。

 イスラムの少数派でありながら、「イマーム」を中心にすえた宗教思想で独自の存在を続けてきたのがシーア派である。

「カルバラの戦い」当時のシーア派は、イスラム史で「正統カリフ時代」と呼ばれる歴史認識さえも、否定していたのである。

 シーア派にくみしない人たちは多数派であるが、党派性はもたず、アリーをふくむ4代のカリフをウマイヤ朝のカリフと同じように認め、コーランを正しく理解する知識の源として、ムハンマドの言行(スンニ)を重んじ、その収集に努めたので、「スンニ派」と呼ばれるようになったという。

 当時のシーア派の拠点は、アリーが居をかまえたことがある都市クーファにあり、ダマスカスを拠点に勢力拡大するウマイヤ朝からの自立をめざした。

680年、ムアーウイアの死をカリフ位奪還の機とみたクーファのシーア派は、第3代イマームに就いてメディナにいたフセインに再三、密使を送り、ウマイヤ朝への反旗を翻すように要請した。

しかし、ムアーウイアの指名で第2代カリフになっていた息子のヤズィードは、この動きを察知し、クーファのシーア派決起を封じ、4千の兵士をクーファの北西70キロ、ユーフラテス川の西20キロにあるカルバラにさし向けた。

 カルバラの荒野に到着したフセインの軍勢は、水補給源のユーフラテス川への道を敵軍に遮断され、渇きに苦しみながら惨敗し、フセインとその軍勢は灼熱の砂漠に果てた。

 フセインの首はヤズィードが待つダマスカスへ送られ、遺体は仲間や兵士の遺体と一緒にカルバラの地に埋葬されたという。

 

ユーセフがシーア派・スンニ派のイスラム史を話してくれたのは、サマーワの茶屋で休憩して、クレーチャ(ナツメヤシの餡、ココナツ、クルミなどをパイ生地で包んで焼いた菓子類)とペプシコーラを仕入れ、国道をかなり走ったときに遭遇した交通事故(8・参照)がきっかけだった。

 前方に、テールランプを点滅させる車列が目にとまり、対向車線の車の合間を計って、徐行しながら事故現場を通り過ぎたとき、路肩の下で傾いた車のルーフに、白布で包んだ細長い荷物を見て不審そうな顔をした私に、

「あれは、イランから運ばれてきたシーア派の人の遺体で、カルバラの聖廟に埋葬するためです」とユーセフが教えてくれたのである。

 カルバラにあるイマーム(預言者ムハンマドの血筋のアリーとその子孫)の墓廟はシーア派教徒の聖地で、信者のための巨大な墓地があり、聖地での埋葬を遺言された家族は、イランから千キロを超す行程をものともせず、遺体を搬送する。

 世界のイスラム教徒の約90%はスンニ派で、16世紀初頭にシーア派が国教となったイランでは国民の圧倒的多数を占めており、イラクやバハレーンでもシーア派は多数派である。

 パキスタン、インド、アフガニスタン、レバノン、サウディアラビア、クウェイトなどでは少数派だが、シーア派をめぐる状況は国ごとに異なり、シーア派とスンニ派の関係も多様で、両派の対立を教義面だけで捉えると、その背後にある政治的、経済的利害関係を見落とすことになると、幾度も記してきた。

 ともかく、シーア派とスンニ派との間には緊張や争いを経験しつつ共存してきた千年を超す歴史の存在を、しっかり認識することが大切だ。  

 イラン・イラク戦争をした両国が共に、「IS」と戦っている今の情況を、教義の相違からだけで解明することできないと思われるが、カルバラへ向かう車中に戻るとしよう。

 

 カルバラへは、バグダッドからバスラへ向かう国道から分岐した道を行き、聖廟の広いパーキングにトヨペットを停めた。

 車を降り、四隅にミナレットが立ち、長大な塀に囲まれた聖廟の門へと歩きながら、

「異教徒がここへ入ることは許されていませんが、チーフとクリスチャンの私が妙なそぶりをしないかぎり大丈夫ですから、心配されないように!」

とユーセフが、耳元で囁いた。

 中に入ると、正面に荘厳なモスクの入口があり、他の三面には、林立する柱列に囲まれた回廊が巡っていた。

 広場の中央に水を張った小さなプールがあり、人々が手足を清め、蛇口の水で口を漱いでいる。

「モスクの中に入るのは遠慮するのがよいでしょう。この辺にしばらく居てから退出しましょう」

 回廊を担架のようなものを担いでゆく人たちがいて、あの白布に包まれた遺体が運ばれているのが見えた。回廊の奥に、墓地があるのだろうか。

 

1971年に訪れたこの聖廟で、30余年の後、「IS」の前身とされるイラク・アルカイーダによるモスクの破壊があったが、社会主義バース党のスンニ派政権下では、イランからの遺体の搬送が、ごく日常的に行われていたのである。

 ところが、1980年のイラン・イラク戦争でフセイン(スンニ派)大統領側についた米国が、9・11のイラク侵攻ではシーア派のマリキ首相を担ぎ、今は、「IS」との戦いにイランの精鋭部隊も参加させる、その場しのぎの「ご都合主義」の結果が、「IS」出現と各地での残虐行為を招いたとされている。

 

 咎められることもなくて聖廟を出た私たちは、一路、久しぶりのクウェイトをめざして、交代でハンドルを握った。

 振り返ると、イド休日のイラクの旅は5泊6日に及び、私とユーセフが願ったアハラムとの再会だけでなく、思いがけない数々の出会いの連続だった。

 その各々のシーンを想い起こし、2015年の今のイラクの危機的状況を前にした81歳老人に、言いつくせない哀しみと怒りがこみあげる。

 

 折しも、《NTTクウェイト・コンサルタント業務50周年記念の集い》が神田・学士会館(6月15日)で催された。1965年の契約締結から10年後の1975年のプロジェクト完成を偲ぶ、久しぶりの集いだった。

 このプロジェクトは、電電公社(NTT)初の海外コンサルタント業務に国内外で従事した総勢百五十余名の関係者が、電電記念日の「総裁表彰」を受けた画期的なもので、「クウェイト会」の初会合は、私が帰国した翌年(1975年)に開催され、家族同伴で最長在勤となった私は、米澤 滋総裁(当時)から記念品を戴く栄に浴した。

「50周年記念の集い」の幹事を買って出た私は、久しぶりの2時間ばかりの歓談のよすがとして、出席予定者のプロジェクトへの想いと近況を記した文を募り、プロジェクト完成当時の資料と共に編集した手作りの『冊子』(A4版122頁)を「集い」の10日前に出席者へ届けた。

このアイデアは、大学仲間の5年毎の同期会と同期入社の総会に際しても、数回にわたり好評を得ていたので、今回も、同じ役割を果たせて幸いだった。

 

足かけ7年という思いのほか長い連載となった『アラブと私』の序章「イラク3千キロの旅」を無事に終えた後には、《NTTクウェイトコンサルタント業務》の目玉であるテレコムセンター建築工事現場の熾烈な日々が待っている。

3年間(1971年~1974年)におよんだ『アラブと私』の続きをご高覧くだされば幸に存じます。

      (続く)



添付画像
絵の説明 ↑ <フサインの殉教>
フサインの殉教」(「カルバラーの悲劇」)は、第4代カリフのアリーの子であるフサインが,イラクのカルバラーにおいてウマイヤ朝軍によって殺害された事件である





2015/07/13 01:38 2015/07/13 01:38
この記事にはトラックバックの転送ができません。
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST