アラブと私

イラク3千キロの旅(100)

                                 松本 文郎 

 

イドの休日のバスラ・バグダッド・モスル往復の「イラク3千キロの旅」は、同行したイラク人土木技師ユーセフのお蔭で有意義で忘れがたいものとなった。

この紀行文にこめた想いは、44年前に共に仕事をし、家族ぐるみの付き合いをしたアラブの人々の往時のすがたと現在(2015)直面している過酷な現実の、言葉を失うほどのギャップを伝えたい孫の世代に、アラブの人々の命と暮らしを守る側に立ってほしい祈りでもある。

最近のアラブ情勢では、トルコ・シリア国境付近で「IS」・トルコ・シリア反政府軍が三つ巴の戦いが繰り広がり、米国無人機の誤爆による一般市民の死傷者が報じられ、イラク国内では、サダム・フセインが強権で束ねていたスンニ派・シーア派・クルド族の3共同体の統治が極めて不安定な情況にある。

「イラク3千キロの旅」を始めた南部地域バスラにはシーア派が多く、中部のバグダッドと周辺には両派のイラク人、北部のモスルにはスンニ派・クルド族が多いが、モスルは、「IS」の手中に落ちたままだ。

これらの地域は、オスマン帝国を破って委任統治したイギリスがイラク王国の三州としたもので、旅をした1971年は、王政が軍事クーデターで倒され、イラク共和国が成立して13年、バース党政権成立から3年が経過していたが、9・11後のイラク侵攻を断行したブッシュ(子)政権が、イラクを一つの国と呼べないほどの混迷に貶めたのである。

現在のアラブ諸国の惨状が、欧米列強の傲慢なアラブ政策の帰結と揶揄されるゆえんだ。

『アラブと私』を書き始めた2008年の時点では、15万人のイラク市民死者、国内外4百万人の難民が出ている惨状だ。NTTコンサルタント事務所で仕事の苦楽を共にしたイラク人ユーセフやアルベアティの家族らは今、どこで、どうしているのだろうか。

『アラブと私』の序章「イラク3千キロの旅」から、「NTTクウェイトコンサルタント」在勤日録(1971年~1974年)へ移る前に、7年の長期に及んだイラクの旅の梗概を記して読者の便に供したい。

 

(1)今(2015年)から44年前のラマダン(禁欲月)明けの休日を利用した「イラク3千キロの旅」へ、バグダッド生まれの若い土木技師ユーセフとハワリ・フラット(単身寮)を出発したトヨペットクラウンは、キラキラと青緑色に輝くアラビア湾に別れを告げて、バスラへの国道をひた走る。右手砂漠の数キロごとに、NTTコンサルタントによる設計・工事監理の無線送・受信所や衛星通信地上局を望む。クウェイトへの物資運搬の動脈の道を、時速140キロで飛ばすと、すれ違う大型トレーラーの側へ吸い込まれそうになる。

(2)クウェイトに近いバスラは、酒が飲め、クラブでベリー・ダンスも楽しめる男たちのオアシス。クウェイトで出会ったアハラム嬢は、正体が分からぬままにバグダッドへ帰って行ったが、この旅で再会できるか、「インシャーラ(神のみぞ知る)」というほかない。

(3)社会主義バース党が支配する共和国イラクの近代化途上にあるバスラ(1971年)は長閑に賑わっていたが、ブッシュ政権がパンドラの箱を開け、バスラ油田の利権をめぐるシーア派同士の内戦で多数の死傷者が出た場所だ。

(4)バスラはティグリス・ユーフラテス川が合流したシャト・アル・アラブ河が流れる古代からの町。旧約聖書の「エデンの園」やアラビアンナイトのシンドバッド島など神話や物語のスポットがあり、中東への影響力を保ちイラク支配を強めた大英帝国の戦略的拠点でもあった。

(5)5千年前にバスラ地域に住んだシュメル人は文字を創出。湿地の葦のペンで楔形文字を粘土板に書いた「シュメル神話」に「ノアの箱舟」の原型の大洪水物語がある。サダム・フセインが湾岸戦争時のシーア派ゲリラ掃討作戦で湿地帯への流水を止めたので、地帯規模が劇的に縮小。 

(6)旨いカバーブで腹ごしらえの後。ユーセフが運転するトヨペットクラウンでバグダッドへ。座席後部においたソニーのステレオ・コンポからのアラブ音楽を聴きながらユーフラテスを北上。川の写真を撮って警備兵の検問を受ける。この川はノアの箱舟、メソポタミア成立、アレキサンダーのペルシャ征服、イスラムのバグダッド攻略、モンゴル侵入、オスマン帝国の支配・敗退など、さまざまな民族・文明とかかわってきた。

(7)砂漠の幹線道路の高速運転は危険がいっぱい。ユーセフの腕とBGMに身をまかせ、眠りこむ。目覚めて、アハラムのことを話しているうちに、サマーワへ着いた。トイレ休憩に寄ったあの町が、30数年後、小泉首相が決めた陸上自衛隊の駐留で憲法九条の問題になるとは思いもしなかった。この地のシーア派住民は、国連の経済制裁下でのフセイン政権に見捨てられていたとされる。

(8)夜間走行に入って、交通事故の現場に遭遇する。シーア派の聖地カルバラに埋葬する遺体を運ぶ車が事故に巻き込まれていた。

(9)サマーワで仕入れたパイ菓子クレーチャとペプシコーラで、走行しながらのエネルギー補給。砂漠の中の一本道で雷雨の直撃を受ける。稲妻の閃光のなか、車上に2体の遺体を積んだタクシーを追い抜いたユーセフと死生観について語り合う。

(10)死生観や神の存在については、クウェイト郵電省のエジプト人顧問建築家ボーラスとも話したことがあり、またあとで触れることもあろう。

カルバラのイマームの聖廟の由来をユーセフから聞く。ムハンマドの後継者をめぐるシーア・スンニ両派の抗争の歴史は、桜井啓子著『シーア派』(岩波新書)に拠らせていただく。

(11)異なる宗教・宗派間の戦争・紛争は、表向きは教義に基づくようにみえても、共同体の維持と版図の拡大を意図した統治権力の争奪ではないか。フセイン・ブッシュ両大統領の戦争の背景には、イラクの油田確保をめぐる攻防の影が透けている。

(12)大統領の任期終了前にバグッダッドを訪問したブッシュは、イラクの記者に靴を投げられて、イラク侵攻の大義が怪しくなったブッシュ政権の2期目の支持率は史上最低。マリキ首相の政権下、治安、行政サービス、インフラ整備はフセイン時代より悪化し、国民生活は困窮を深めているとされる。「チェンジ」を掲げて登場したオバマ大統領の英断で、事態はどのように変わるのだろうか。

(13)(14)「カルバラの戦い」と「平家物語」に古今東西の戦記物語に共通する悲哀を見る。

人間が殺しあい、傷つけあう戦争や紛争の愚行を、世界宗教の始祖たちは異口同音に戒めているのに。人間の限りない欲望が侵略を誘う一方で、遠征の大移動の結果、多様な文明・文化の交流が生じた。

(15))~(14)の梗概。 

(16)真夜中に着いたバグダッドのホテルで、私が見た夢は、なんと、『アリババと40人の盗賊』の場面だった。財宝を奪われた豪商の依頼で盗賊をやっつけた私とユーセフが、豪華な招宴の席で女奴隷のアハラムに再会する不思議なシーンだ。 

(17)「イラク3千キロの旅」はユーセフの誘いで始まった。バグダッドに実家がある彼は、旅の前、アハラムとどんな連絡をしていたのだろうか。

アハラムが妹ジャミーラを伴いサマーラの塔へ郊外ドライブするのを、建設会社を営む父親に、ホテルからの電話でOKさせたのは、さすが。

(18)アハラムの家近くの公園で、朝方の夢に出た、魅惑的な黒い瞳のアハラムと再会。12歳のジャミーラと私は後部席、アハラムは助手席のトヨペットクラウンをユーセフが運転。アハラムのうなじから肩への浅黒い肌は、ネフェルティティ・イン・バグダッドだ。

(19)紀元前3千年代末のメソポタミアの古代都市バビロンと、紀元前6百年代の新バビロニア王国の首都は、バグダッドの南80キロの地点。北の郊外に立つサマーラの塔はスパイラルの回廊をもつ高さ50メートルの小ぶりで単純な形態だ。イスラム帝国が千3百余年を遡る伝説の「バベルの塔」様の建造物を造ったことに興味を引かれた。9・11跡地に建設中の5百米を超えて全米一になるタワー、イスラム国ドバイでの超々高層ビルの建設ラッシュは、「バベルの塔」が神の怒りに触れたように、キリスト・イスラム教それぞれの「神」への冒涜とならないのか。

(20)アハラム姉妹の後を歩いてサマーラの塔を上り下りしながら、ユーセフは、バベルの塔と空中庭園をもつバビロンが、いかに壮大な建造物の集合体の都市だったかを誇らしげに語った。

 古代から近代までの王・皇帝など権力者たちは、権勢を誇る建造物を後世に伝えようと、想像を絶する莫大な金と労働力を費やしたものだ。

(21)その中で、「世界の七不思議」に挙げられた建造物にも時代的な変遷がある。「新世界七不思議財団」による選定候補の一つとしての日本の清水寺は選に漏れた。塔から降りた私たちは、チグリスの川魚を焼いて食べさせる店で遅い昼食をとりながら歓談した。アハラムからは、私との最初の出会いや父親の仕事のことを聞き、彼女をジプシーの娼婦と勘違いした助平根性を猛省する。

(22)建築土木工務店を営む家の長女アハラムは、都市バビロンの建造物の話にも興味を示す。

 夕方招かれている私たちの歓迎ホームパーティでの話題を探しているうち、王妃のため空中庭園を造らせたネブカドネザル2世のエルサレム侵攻と「バビロン捕囚」由来のオペラ『ナブッコ』に及ぶ。ナブッコとはネブカドネザルのこと。

(23)旧約聖書に基づいて書かれたワーグナーのオペラの話は、ユーセフのアラビア語と英語の介在で、アハラムと私の間を盛んに飛び交った。『ナブッコ』初演の1842年当時のイタリアは絶対王政の都市国家郡に分かれ、1848年には、マルクスの『共産党宣言』が出て、王政から共和制に「チェンジ」するヨーロッパの過渡期だった。(この回から、「序章」を早く終わらせて本題に入るため、記述量を倍増することにした)

(24)昼食の歓談の後、バグダッドへ戻る車中でムスリムの聖典・生活規範であるクルアーンについてアハラムとユーセフから話を聞いたものを、ウイキペディアの記事で補強した。一神教のユダヤ・キリスト・イスラム3教は、同じルーツをもちながら、互いの神を認めないで争ってきたが、現在のムスリムの宗教多元主義者は、「ムスリムはクルアーンを、他の宗教はそれぞれの天啓を尊べばよく、天啓に優劣はない」としている。

(25)(26)クルアーンにある女性関連規程の「男尊女卑」「隔離」「ヴェール」「一夫多妻へのアハラムの考えを聞いたが、イスラムの女性観の記述では、中田香織さんの「アッサラーム」誌の引用記事、片倉もとこ著『イスラームの日常生活』などに多くの示唆を受け、感謝。イラクの近代化を目指す共和制バース党政権下では政教分離を掲げているなど、ユーセフとアハラムが、キリスト教とイスラム教の歴史を学校で学んでいたからこその話がいろいろとできた。

(26)(27)ユーセフがアハラムたちを送っている間にホテルで一休みし、ホームパーティに備える。アハラムの父親に会うのは少々気が重い反面、楽しみでもあった。ユーセフが仕入れてきた花束とクウエートからもってきた闇のジョニ黒を携え、アハラムの家を訪ねる。にこやかに出迎えた父親は、如才なく愛想のいい人のようで、ホッとする。遠来の客への社交的心遣いか、甥の新聞記者を招いたり、昼食とドライブ中の話題をユーセフから聞きとったりの、周到なもてなしに感心する。彼の家系は、信心深いシーア派に比べ世俗的とされるスンニ派で、アルコールもご法度でなく、私の好物のビールも用意されていた。新聞記者のマリクが来てから、英語での真面目な話がおおいに弾む。アハラムの母親が客の前に姿を見せないのは、実家がシーア派で、生活規範の「ハディース」に遵っているからと、理解を求められた。

 執筆中の折りしも、ブッシュの要請でイラク戦争に参戦したイギリスのブレア政権の「政治判断」の是非を巡り、「独立調査委員会」による徹底調査が始まったと知る。オックスフォード大教授アダム・ロバーツ氏はNHK「クローズアップ現代」国谷キャスターのインタビューで、ブレア労働党政権の歴史的視点の欠如に言及。イギリス軍のイラク占領下の1920年に中南部で起きた大規模な反英暴動の歴史から何も学んでいないと指摘している。オスマン帝国の支配下でドイツがバグダッド鉄道の敷設権を手にしたころ、土木建築の会社を起こしたのが初代。アハラムの父親は4代目という。テラスの卓に夫人ご自慢のイラク料理の前菜のあれこれと並び、古代アラブが発祥の地の酒アラックが供された。マリクが、「アラブの食文化を知るには、当時の宮廷料理も書かれている『アッバース朝の社交生活』の英訳本がよい参考書」と教えてくれる。

(28)イスラム帝国最盛期の首都バグダッドが、中世を桎梏から開放した西洋ルネッサンスに重要な役割を果たしたとは……。イラクの家庭料理を賞味し、アラクを飲みながら、アッバース朝とイラク・イランの関わりの歴史を巡る歓談がつづく。(1969年、イラン電気通信研究所の建築計画の技術協力の任務終了後、古都のイスファハンと遺跡ペルセポリスの小旅行に招待されたシーンが眼に浮かんだ)新バビロニアの空中庭園はペルシャ軍に破壊され、ペルシャの首都ペルセポリスは、古代マケドニアのアレキサンダー大王に破壊された。古代帝国の興亡の証しの遺跡を訪ねる旅は建築家を志した私の夢。その一つのバグダッドに、いま私は居る。小さな土建会社の4代目社長が、新バビロニアの首都建設に携わった土木技術者の末裔のように思えてきた。

(29)この稿執筆の今(2010年)は8月10日早朝だ。ヒロシマ原爆(6日)・ナガサキ原爆(9日)から、65年が過ぎた。広島市の平和記念式典の会場に響きわたった「ヒロシマの願いを、世界へ、未来へ伝えていくことを誓います」との男女小学生の高らかな声に触発されて、小田 実流の「道草」で原爆と戦争の記述に終始した。

(30)16)~(29)の梗概。

 この梗概を書いている今(2015年)もまた、ヒロシマの原爆投下から70年目の6日だ。

 アメリカでは今もなお、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下が太平洋戦争を終わらせ、米軍の本土上陸作戦で失われたかもしれない百万人米兵の命を救ったとの大義名分が、多くの国民に信じられているという。だが、帝国海軍が全滅した当時の日本は、戦闘物資も食料もない国家壊滅寸前で、原爆投下の真の目的は、ウラン・プルトニュウム2種類の原爆の人への影響を見極める実験だったことが明らかにされている。(広島の比治山に設置されたABCCの実態ドキュメンタリー)

 キューバ危機のとき、沖縄に配備されていた核搭載ミサイルの発射命令が、現地司令官の機転で回避されたが、当時のソ連・中国の同じミサイルは、米軍基地のある沖縄と日本に照準が合わされていたという。

人類のみならず地球上のあらゆる生命を絶滅の危機にさらす核爆弾が東西冷戦終結後の核軍縮で大幅に削減されたとはいえ、いまだに、恐るべき数の核ミサイルが設置されているのだ。

煮え切らない論戦がつづく「安全保障法制国会」で北朝鮮や中国の脅威を言い募る安倍首相は、米国と一体で、核の先制攻撃にも加担するのだろうか。

世界で唯一の原爆被曝国である日本は、今こそ、核廃絶運動を先導し、憲法九条の不戦の誓いを世界の平和遺産として、力強くアピールしなければならないとの想いが、『アラブと私』を書きつらねる81歳老人の胸にある。

31)からあとの梗概は、次回以降につづく。

                                  (続く)


添付画像
2015/09/02 16:53 2015/09/02 16:53
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