アラブと私
イラク3千キロの旅(101)

 
                                 松本 文郎
 
 前回に続き、(31)からの梗概を記します。

(31)アハラムの家のテラスで、ビールを飲みながら従兄のマリクとの歓談が弾む。新聞記者の彼は、3年目のバース党政権が、英国統治以来のイラク旧体制を社会主義的な社会に変える路線を走っていると誇らしげだった。この(31)を書いた時点(2010.6)のNHK「クローズアップ現代」で、オックスフォード大のアダム・ロバーツ教授が、ブッシュに加担したブレア政権の歴史的視点の欠如に言及。英国統治下のイラク中南部の大規模反英大暴動(1920年)の歴史的教訓を全く学んでいないと指摘した。
(32)マリクが、「ライオンの乳」(アラック)(40度)を水割りでどうぞと言い、それによく合う前菜をアハラムが運んできた。ユーセフが、それら「メッチェ」「タブーラ」「ホムス」などの説明をし、マリクは、アラブの食文化に興味をお持ちなら、『アッバース朝の社交生活』の英訳本がいいですよ、と言った。
 私は、京大教養学部の「京大西洋史」で、東西貿易の拠点だったバグダッドが、未曽有の繁栄を誇る都市文化の発達で、中東の学術中心地だったと学んだと告げた。
 マリクと私のやりとりをユーセフと喋っていたアハラムが聞き耳を立てていたが、マリクの表情に、従妹を好ましく想っていると感じさせるものがあった。
(33)ギリシャ文化とオリエント文化を融合し、ヘレニズム・イラン・インドなど先行文明の文献をアラビア語に翻訳した「知恵の館」を開設した、開明君主カリフのアル・アマムーンが話題となり、アラブを単なる産油国としてしか見ていなかった不明を恥ずかしく想い、「中世の抑圧」に苦しんだヨーロッパは、イスラム世界の絢爛たる都市文明に、魅力より脅威、嫉妬さえ感じたのではないかとも思った。
 アハラムの父親がテラスに出てマリクと入れ替わる。アラックをロックで飲む彼はイケル口だ。学校などの公共建築を主に手がける建設会社社長は、トヨタの小型トラック数台を使っているが、(大型はベンツ)ディーラー駐在の日本人技術者が親切で腕もいいとほめた。
 彼が生まれた1925年のイギリス統治委任のとき、モスルのイラク帰属が国際連盟で決まったと言う。
 大阪万博のことを訊ねられ、NTパビリオンの基本構想についてひとくさり話をする。
(34)(35)執筆は2010年8月。ヒロシマ・ナガサキ原爆投下から65周年だった。広島市の平和祈念式典会場に響きわたった「ヒロシマの願いを世界へ、未来へ伝えていくことを誓います」の男女小学生の高らかな声に触発され、小田 実流の「道草」をして、戦争と原爆の記述に終始。
(36)(16)~(35)の梗概。
(37)キッチンで母親を手伝っていたアハラムの声がして男4人がテラスからリビングへ移ると、いろんな料理の大皿をサービステーブルに並べていた。準備が整うまでと、大阪万博で米ソが競った科学技術展示やそれに次ぐレベルに敗戦後25年で追いついた日本の技術進歩と経済発展について、マリクは熱心に質問した。東西冷戦下の中東石油が重要な戦略的資源で、イラン民族主義者モサデクの石油国有化紛争後、英国を盟主にした反共軍事同盟(バグダッド条約)を米国が結成(アラブで唯一参加したイラクを、ナセルが非難)したことなど、いかにも新聞記者らしい話題が続いた。
(38)アハラムが、「サービステーブルから好きな料理をとって下さい。ミスター・マツモトには、私が説明しながら選んであげます」と言う。ホームパーティの主客は、招待側が選んでくれる料理を食べるものと聞いていた。カバブ、ドルマなど馴染みのアラブ料理とエイドのお祝いの特別料理(大勢の親族が集まる伝統的な典型は、子羊の丸焼き)の、鶏に米と松の実をつめたローストチキンを取り分けてもらう。
 みんなが料理をとって席につくと、家の主が、「ビスミラ!」と言い、「アラーの神への感謝です」と隣席のユーセフが教えてくれた。
(39)「母ほどは信心深くない父が断食月(ラマダーン)期間中に唱えた「ビスミラ!には、クルアーンへの敬意が感じられました」とアハラムが言うと、主は、「ラマダーンの断食をすると気持ちが清らかになり、日没後に許される食事のありがたさが身にしみて、アラーへの感謝を心から唱えたくなるのです」と応じた。
 断食月の断食は、食を断つこと自体が目的ではなく、29日間の軽い飢餓感体験を通じ、食物を恵与する神への感謝と食物の乏しい者の苦しみを知るためとされる。
 断食月(陰暦)が極暑の夏になることもあり、日の出から日没まで水一滴さえ口にしない苦行。
(40)ムスリムが順守する「生活規範」の時代的変化について、アラブ社会の近代化が進めば、保守的な王国は別として、欧米的ライフスタイルの普及が、「生活規範」に対する若い世代の考えを変える可能性はあるという。敬虔なムスリムの妻の料理上手を自慢する主が薦めるいろんな料理を、アハラムの解説で賞味。主が唱えた「ビスミラ!」はクルアーンに忠実な習慣というより、その信奉者の妻の美味な料理への感謝ではないか。
 料理の皿の数々の写真を挿入した「ブログ」の編集人・森下女史の尽力に感謝したい。
(41)イラクの家庭料理を賞味しながら、いささか驚いたのはアラブ料理のメインディッシュにアジア民族の主食のコメが使われていることだ。
「ライス」「シュガー」はアラビア語だとマリクが言ったのでまたビックリ。米栽培は7千年前のインド・中国とされるが、イラク・エジプト(東南アジア伝来の小麦が主食)などでは大河の灌漑による米栽培が古代から行われていたようだ。アハラムは、イラクの家庭料理で手間をかける「マクルーバ」(ひっくり返しご飯)のレシピを説明し、そのほかに、「ビリヤニ」(焼き飯)、「クッパ」(米粉皮の餃子)、「ムハラビ」(米粉のプディング)などがあると教えてくれた。
 ウイキペディア検索「世界の米料理」に、40年前に賞味したイラクの米料理の記述がないので、酒井啓子著『イラクは食べる・日常と革命』を参照したが、その終章の扉に「マクルーバ」の写真があるのは、ブッシュの「フセイン政権ひっくり返し」とその後のイラク政権の「ひっくり返し」の連鎖を皮肉るウイットと感じた。
(42)デザートの「クレーチャ」を食べていると「トルコ・コーヒー」が出た。マリクの説明では、450年前のオスマン帝国時代のイスタンブールでの伝統的飲み方は、ヨーロッパ、中東、北アフリカ、バルカン諸国に共通しているという。飲み終わったカップをソーサーの上にひっくり返して、カップの底に残る模様から運勢を読む「コーヒー占い」を、前年、テヘランの宿のマダムに教えてもらった。
「占い」は、聖書では邪悪な行いで、イスラムでも同じだが、遊びの感覚で、私のカップの模様をキッチンから出ない母親に見せて、「マツモト」の運勢を占ってもよいかとアハラムが言う。結果は、「素晴らしい運勢で家庭も仕事もうまく行くと出ている」「ずっと先に、人生の大きな岐路があるようなのが気がかり」で、22年後、(1992年夏)“食道(がん)全摘出手術”で生死の岐路に立つ。
 もっと歓談をと主が勧めたが、翌朝のモースル行きが早いので暇を告げると、カセム政権下(1959年)の陰惨な親ナセル派市民(クルド人が主)数千人殺害事件(イラク共産党民兵による)だけは、ぜひ話しておきたいと言う。
(43)折しも晴天の霹靂の「チュニジアの春」の報が世界を駆け巡った。チュニジアなど中東・北アフリカ地域は1次産業・観光業以外の産業が乏しい中の人口増加で、若者の失業が深刻化。
 この地域で軍事独裁政権の長期化と腐敗による富の分配の不平等で貧富格差が生じ、インフレが進行するアルジェ・イエメン・ヨルダン・エジプト・サウジアラビア・モーリタニア等の国々に、「チュニジアの春」に触発されたデモや焼身自殺が相次ぐ。イスラムでは自殺は禁じられているのでよほどの事態と世界が注目。政権側は、フェイスブック・ツイッター・ユーチューブを遮断する情報統制で対抗。
 アハラムの父親の「モースルの流血事件」について、牟田口義郎著『アラビア湾のほとり』を参照。1960年~70年代のアジア・アフリカ諸国の軍事クーデターによる列強からの独立闘争、王政から共和制への移行、独裁的指導体制による急進的改革などを記述。
(44)アラブ諸国でイラクほど雑多な少数民族を抱える国はなく、人口の1割のクルド人のほか、東部のイラン人、その他の地区のアルメニア人、アッシリア人、カルディア人、トルクメン人等が住んでいる。
 第1次大戦後の英国中東政策でフセインの3男のファイサルを親英派の王にすえてから、カセムによる王政打倒までイラク王国を維持したのは、オリエントのビスマルクと呼ばれたヌリ・サイド。バグダッド生まれの彼は、マッカ太守フセインがアラビアのロレンスと起こした「砂漠の反乱」に参加してロレンスの信頼を得て、ダマスカスの駐留司令官に任じられたが、大戦後のエネルギー源が石炭から石油に切り替わるのを見通した英国は、サイドにイラクを託した。それにしても、ロレンスやサイドは「チュニジアの春」の市民レベルの覚醒と抗議行動は予見できなかっただろう。
 太守フセインが結んだ「フセイン・マクマホン協定」は、英・仏・ロの陰謀的密約の「サイクスピコ協定」により裏切られ、パレスチナへのユダヤ人の入植を認めた「バルフォア宣言」に至り、今日まで熾烈な紛争が続いている。
(45)第二次大戦後のアラブの王政から共和制への軍事クーデターの革命戦士だったムバラク大佐(エジプト)とカダフィー大佐(リビア)が大統領で君臨した長期独裁政権が3、40年のあと、若者中心の「市民民主革命」の大きなうねりで崩壊寸前。遡る1957年、アイゼンハワーは、バグダッド条約強化の中東特別教書「アイク・ドクトリン」を出し、反共軍事同盟の加盟国にソ連侵略がなくても、加盟国が共産主義の脅威による救いを求めれば、アメリカは即座に武力介入するとしたが、ナセルの「アカ」の脅威を拡大解釈した強引なものとして、「石油ドクトリン」の綽名がついた。1958年のイラク軍事革命の数カ月前、エジプト・シリアは合邦してアラブ連合を結成し、これに対抗したイラク王国はヨルダン王国と結び、アラブ連邦をつくった。
 ダマスカスを訪問したナセルは、カイロ・ダマスカスに都をおき十字軍と戦ったイスラムの英雄サラディン(クルド族の傑物。シリア・エジプト・メソポタミアを統治しスンニ派支配下に)に譬えられ、熱狂的な歓迎を受けたという。
 ここまで書いた書斎が突然大きく揺れ、書棚から数冊の本が机の脇に落ちた。建築家として初めて体験した未曽有の東日本大地震だ。
(46)ここ浦安の深刻な液状化被災でインフラ不全の暮らしを強いられたこと、福島原発事故の放射能汚染の右往左往などは、「道草」として記す事柄ではないので、「松本文郎のブログ」に『文ちゃんの浦安残日録』のカテゴリーを設けた。
 巨大地震の報道の陰で、リビア情勢は風雲急を告げたが、オバマ大統領は「新政権はリビア国民が決めること」で、フセイン打倒の先制攻撃をしたブッシュとちがって、地上軍投入に組みしないドクトリンを出した。
(42)でアハラムの父親が話したカセム政権によるモースルの大量殺戮事件の背景のイラク石油(IPC)の本拠地キルクーク大油田(クルド族が多く住む地方だが、石油収入は地元民に十分には還元されない)のことを、『アラビア湾のほとり』の引用で詳述。IPCは、バース党政権のバクル大統領により国有化(1972年)。カセム政権は親IPC・CIAだったのか。
(47)福島原発事故の惨状に苛立ち、「道草」の禁を破り、朝日新聞社公募「東日本大震災の復興構想・提言論文」応募の『これからのエネルギー政策と脱原発』について記した。ヒロシマ原爆を疎開で免れた私の積年の願いの「核兵器廃絶」と原発事故の放射能汚染による地球生命の危機を重ねた拙文。
「道草」引用の「天声人語」にチャレンジャー爆発事故調査のノーベル賞学者ファインマン博士が、「失敗確率は毎日打ち上げても300年に1度とされていたが、ロシアンルーレットのようなもの」と批判し、日本の原発事故確率が50億分の1(隕石に当たるようなもの)とされていたのは「神話というより法螺の類」と述べた旨が書かれていた。
 節電を志す暮らし、工場電力消費の工夫、少子高齢化、人口減少などで、将来的な電力使用量は減るから、ドイツのように「脱原発」を国家政策に掲げることが、日本人の喫緊の課題(憲法9条も)ではなかろうか。
 
 次回は、ホームパーティーの場面に戻ります。
                                 (続く)


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2015/09/19 21:58 2015/09/19 21:58
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