アラブと私
イラク3千キロの旅(102)
松本 文郎
(前承)毎回のレジュメ掲載が続きます。
(48)数回の道草の後、(43)のバグダッドのホームパーティ場面に戻るので、その末尾を読者の便宜に再掲。
(若い記者マリクは、バルク政権の政策・統治の現状を歓迎している口ぶりで、「モスルの内戦は昨年5月で収まりクルド族も落ち着いたのでもう心配ないでしょう。叔母のコーヒー占いで道中安心と出ましたから、フミオさんは運勢が強いですネ」)
食後のトルコ・コーヒーで、モスルへの旅が「吉」と出たとこで心尽くしのもてなしに謝意を述べると、アハラムがキッチンへゆき、クレーチャの包みを持ってきた。ドアから顔を出した母親が、「道中で召し上がれ」と言っていると分り、「美味しい食事に感謝します」と英語で応えた。
モスルへの道はバスラ・バグダッド間のようではないから高速運転に気を付けるよう忠告した主人らと握手をして家を辞した。
ホテルに戻りシャワーを浴び、ベッドに倒れこむようにして眠った。
翌朝、モスルへ向かうトヨペットクラウンで、モスルに近いキルクーク大油田をめぐるクルドと中央政府の緊張関係や治安状況を話し合った。
(49)NTTコンサルタンント事務所では、現地雇用アラブ人と政治・宗教を話題にしない不文律だったが、ユーセフなら大丈夫と、カセムの電撃的王政転覆と共和制革命、社会主義バース党のバクル大統領がイラク石油(IPC)国有化に向けソ連との関係を強化している等、ホットな話をした。
前日にアハラムらと行ったサマーラの塔を過ぎた小さな町のトイレ休憩後に運転を交代した。
1時間ほど時速百キロで走るとアクセルのレスポンスに違和感があり、30分ほどでエンジン音がおかしくなった。
目を覚ましたユーセフが、バグダッドへの途上のサンドストームでキャブレターが目詰まりしたようだと言い、40キロほど先のガレージで清掃してもらうと、元の調子に戻った。
(50)モスルの街の大通りを走ると、カセム政権がナセル主義のシャワフ大佐の反乱を鎮圧した時(10年前)、この道に数千人の血が川のように流れたと知る。
アラブの再統一運動をめぐって、バース党内の反共産主義・ナセル派やその支持者の市民が弾圧され、虐殺されたという。
ユーセフがチグリス川護岸工事の現場監督をしていたとき知り合った東方正教会の神父と会い、自家製ワインの接待を受け、スンニ派モスレム、クルドの宗教ヤズィディー教徒、キリスト教徒らが混じるモスルの複雑な社会の不安定さを聞いた。
(51)モスルの歴史は、ペルシャ、十字軍、モンゴル、オスマントルコが去来した要衝の地で、「古代から交通・交易に便利な処には大勢の人の血が無惨に流されました」「初期アッシリアの砦の町だったモスルでは、アッシリア人と東方教会信者が民族浄化の目に遭いました」と神父は言った。
イラクで少数派のキリスト教聖職者に、政治情況について訊ねると、「バクルのバース党はイスラム的価値をアラブ民族文化の重要な要素としても、他の宗教を否定せず、私有財産も認めています」「イラク共産党は宗教を否定するソ連社会主義的で、親近感はもてませんが、植民地支配をうけてきたイラクは、ソ連の科学技術・工業化支援には期待しています」と応えた。
ユーセフと神父は、「イラク・バース党はシリア・バース党とのつながりを弱め、周辺のアラブ諸国への影響力を強めて、農・工業近代化と社会の不平等是正に取り組んでいる革命指導評議会メンバーの中心は、サダム・フセインという人物」、「イラクの石油をめぐって、バース党政権とクルド人との間に問題が生じる懸念はある」と話した。
(52)バース党のイラク石油(IPC)国有化の可能性については、イラン石油を国有化したモサデクが皇帝派のクーデター(CIAが暗躍)で失脚した先例を挙げて、イラクでもCIAの情報活動があるかもしれないと言う。
話の風向きが怪しくなってきたので、教会を辞して向かったのは、ヤズィディー教徒老人が住む横穴式住居だった。チグリス川右岸の白い岩山を掘った住居は、川と道の両壁の窓の光でかなり明るくて、風通しもよい。
護岸工事監督の頃、横穴住居に関心をもった土木技術者のユーセフが訪れて親しくなった人で、川が覗ける一角に、とぐろを巻いたドラゴンを祀る祠があるので、チーフを案内したと言う。
ヤマタノオロチに似ていているドラゴンに驚愕したことを老人に伝えると、日本の神話に似た洪水の伝説があると言われて、またビックリ。
5千年前のシュメル神話の大洪水物語は、この地に侵入した諸民族に受け継がれ、古代バビロニアの『ギルガメッシュ叙事詩』、旧約聖書の『ノアの箱舟』につながったのだろうか。
(53)筆者は「国情報通信国際交流会」会員だが、代表幹事のT氏は、『アラブと私』を読まれて、若い私のアラブ体験を羨ましがられたが、メソポタミアの肥沃な三日月地帯に農業が発生した1万年前の「ヤンガードリアス・イベント」、8千年前の「ミニ氷河期時代」の地中海の水位上昇による黒海形成を教えて下さった。
150回に及ぶ交流会の月例会の講演者には、東大大学院教授高山博(西洋中世史専攻、異文化交流研究/異文化接触論)、同教授山内昌之(地域文化研究専攻、日本アラブ対話フォーラム/日中・日韓歴史共同研究)らの興味深い話が多く、連載執筆の勉強になった。
また、執筆参考文献として、『アラビア湾のほとり』(牟田口義郎著・クウェイト帰国後の1979年に読む)志賀重昴著『知られざる国々』、『中東の石油』(土田豊・中東調査会理事長著)について記述。
(54)この連載(自称・創作的ノンフィクション)に太い背骨を与えてくれた文献は、『エコノミック・ヒットマン』(副題・途上国を食い物にするアメリカ)で、元職場で親交の深いS氏から郵送され、通読して「目からウロコ」を感じた本だ。モスルにCIAが入っているかも、と書いたのを読んですぐに届けてくれたようだった。
著者のジョン・パーキンスは「イラク3千キロの旅」の1971年、「エコノミック・ヒットマン」(EHM)になる訓練を受けていた。その目的は、「世界各国の指導者たちを、アメリカの商業利益を促進する巨大なネットワークに取り込み、最終的に、それらの指導者を負債の罠に絡めとって忠誠を約束せざるを得なくさせ、政治・経済・軍事的な必要が生じたとき、いつでも彼らを利用する。彼らが元首としての地盤を固めるには、空港、発電所、工業団地などを国民に与えさせる」プロジェクトへの参加だという。
1970年代はじめの米国経済は重大な変化の時を迎え、ケインズ的アプローチを政府に提唱して、ベトナム戦争の軍事力投入・資金配分の戦略決定に辣腕をふるったロバート・マクナマラの「攻撃的リーダーシップ」が、政府高官らや企業幹部たちのモットーにされていた。
パーキンスが命がけでこの「本」を世に出したのは、企業・銀行・政府の集合体(コーポレイトクラシー)が「世界帝国」の構築をめざす中で、米国のエンジニアリング・建設会社が膨大な利益を得る巧妙なシステムが暴走する結果を目にしたからという。
(55)「EHM」のターゲットの開発途上国での経済成長は統治権力者ら一握りの人間に巨利を与え、国民の大多数を、ますます絶望的状況に置いている。
コーポレイトクラシーは経済・政治的力を発揮して、教育・産業界やメディアが資本主義社会の仕組みの正当性を人々に信じさせるように仕向けたが、「成功者」の贅沢な暮らし・豪華マンション、自家用ジェット等は、「消費、消費、消費」と駆り立てるモデルだったと、パーキンスは書いている。
「EHM」は、法外な給料でシステムの思いのままに操られているが、コーポレイトクラシーが狙った国々で「EHM」が失敗すれば、更に邪悪なヒットマン・ジャッカルの出番となり、ジャッカルが失敗すれば、軍隊が出動するという。
パーキンスは、脅しや買収に屈して執筆を中断していたが、9.11の惨劇が起き、イラクが再び戦火に覆われたことで、真実を語り、過去の過ちをきちんと伝えなければ、祖国アメリカと人類の未来は築けないと決意し、この「本」を書いた。その想いを序文から引用しよう。
「世界の資源を強欲に奪い合い、隷属的制度を押し進めるシステムを生み出す経済優先社会に、どれほど搾取されているかを多くの人びとが知れば、だれもそんな社会を容認しなくなると確信する」/「ごく一部が豊かさを享受し、大半は貧困・汚毒・暴力に圧倒されている今の世界で、自分がどんな役割を果たしているかを改めて考えるために」/「読者が、全ての人のための思いやり、民主主義、社会正義へと向かう道を進もうと誓うことを願う」/「歴史上、帝国はことごとく崩壊してきた。互いに支配権を争って、多くの文化を破壊し、自らも滅びの道をたどった。他者の搾取で得た繁栄を長く謳歌した国家や国家連合は、存在したためしがない」
(56)前回、『エコノミック・ヒットマン』の序文の引用に終始したのは40余年前のイランとイラクで体験した事象の暗部が、この「本」で明るみに出されたように思われたからである。
テヘランの電気通信研究所/建築基本計画の技術指導に赴いた1969年は、シャー・ハン・シャー(王のなかの王)の尊称で呼ばれたイラン皇帝が、独裁的統治でイランの近代化を進めていた。モスルの神父が話したように、米英が画策した皇帝派クーデターに関与したCIAがいるから気をつけるようにテヘラン在住のフィクサー的な日本人に忠告されことは、何度も書いた。
シーア派が多いイスラム国イランで、思いのほかの欧米的ライフスタイルを体験したが、皇帝の背後で米国政府とヨーロッパの協力者たちが、反米感情の強いイラクやリビアに代わる政権を世界に示そうとしていたとジョン・パーキンスは記している。
「EHM」として、1975~1978年にイランを頻繁に訪れた彼は、歴史上、政治的紛争の絶えない国であることを念頭に、かつてモサデク政権を転覆させたCIAの乱暴なやりかたは避けたそうだ。彼が働くコンサルタント会社は、北のカスピ海に面する観光地から南のホルムズ海峡を見わたす秘密海軍基地など国中のプロジェクトに関わった。
1977年のある日、パーキンンスのホテル部屋のドアの下に押し込まれていた一通の手紙の主は、政府当局から有名な過激派と教えられていた男だったが、イラン国内の状況把握が任務で好奇心旺盛な彼は、危険な賭けになるかもしれない謎めく男に会いにいくことにした。
(57)その男と会い、別の重要人物の所へ連れていかれたことで、パーキンスのイランを見る眼が豹変した。それまで彼は、強力で民主的はアメリカ企業と政界の友人たちが、どれほどのことをイランでできるかを世界にみせつけようと、単純かつ精力に活動していたのだ。
その人物はテヘラン郊外の砂漠のオアシス(マルコポーロより何世紀も昔からの)のヤシの林に囲まれた粗末な泥の小屋にいた。「ここにいるのは米国の最高学府の博士号をもつ人ですが、名前は言えないのでドクと呼んでください」と告げられる。
「ドク」は絨毯が敷かれた薄暗い土間の車椅子で数枚の毛布にくるまれ、「ミスター・パーキンス!歓迎するよ」とアクセントのない、しゃがれた声で言った。
「私は今は廃人だが、昔の私はキミのように元気で国王の信頼厚い側近だった」
その口調には怒りよりも悲しみが色濃く感じられた。
「アイゼンハウアー、ニクソン、ドゴールら、世界の指導者たちとも親しく付き合った。彼らと国王は、イランを資本主義に導く手助けをする私を信頼し、私は国王を信じていた。イスラム国イランを新時代に導き、ペルシャ帝国の理想を実現するのが、国王と私の使命だとね」毛布のかたまりが動き、車椅子が軋んで向きを変えるとドクの横顔が見えた。のび放題の髭、妙にのっぺりした輪郭の顔の鼻は、そぎ落とされていた。
国王の父親がナチ協力者としてCIAの手で退位させられた「白色革命」を手助けしたドクは、イランの石油を国有化したモサデク首相が失脚させられ、自宅監禁中に死んだ悲運を悔いているようだったと、パーキンンスは書いている。
「ドクは、宗教指導者らと親しく、宗教派閥の底に共通する流れは全土に広がっています」
連れの男がパーキンスの耳元で囁くと、ドクの嗄れ声が続いた。
「アメリカのマスコミも、国王と親しい取巻き連中としか話さず、広告主の石油会社のコントロールで都合のいい話しか聞きたがらない。ミスター・パーキンスにこんな話をするのは、イランから手を引くように会社を説得してほしいからだ。キミたちはこの国で大儲けができると考えているようだが、それは幻想だよ。今の政権は遠からず破滅する。それにとって代わるのは、キミたちとは全く相いれない人びとだよ」
「国王はもう安泰ではいられまい。イスラム世界は腐敗した彼を憎悪している。アラブ・インドネシア・アメリカなど世界中のイスラム教徒とりわけ、このイランの人たちがね!」
「EHM」のパーキンスがイランで体験したことがあまりに衝撃的だったので、4回に亘りレジュメを記した。こんな恐るべきことが筆者がテヘランにいた頃にあったと、40余年後に知ったのである。
(58)そろそろ1971年のモスルの場面に戻りたいが、CIAが操っていた国王政権の末路の要約を、パーキンスの「本」から引用しておきたい。
1978年(三木武夫特使が、急遽、クウェイトなどアラブ諸国を歴訪)に、テヘラン・インターコンチのロビーで大学時代の親友ファルハドと10年ぶりに再会したパーキンスは、彼から「明日、両親が住むローマに行くが、航空券1枚を余分に持っているから一緒にイランを出るといい。イランは大変なことになるんだ」と告げられる。驚いたことに、ファルハドはパーキンスの10年間の全てを知っていたという。
ローマで会ったファルハドの父親は将軍として身を挺して国王を暗殺から守っていたが、ここ数年、驕慢で強欲な正体を露わにした国王に幻滅。中東に溢れているアメリカへの憎悪は、イスラエルを支持して、腐敗した支配層や独裁政権の後ろ盾になっているからだと言った。
「そもそもは1950年代のはじめに、モサデクを失脚させたことだが、それが賢いやり方だとキミらちも私たちも考えた。だがそれが今は、キミらと私たちを苦しめているのだ」
ドクから聞いたことがファルハドの父親の口から出たことに、パーキンスは驚いた。
「私の言葉をしっかり覚えておきなさい。国王の失脚は手始めにすぎず、イスラム世界がどこへ向かうかを予告するものだ。私たちの怒りは、砂漠の砂の下で長くくすぶり続けたが、間もなく地上に噴出するのだよ」
パーキンスがローマでファルハドの父親と会った2日後、イラン暴動のニュースが世界を駆け巡った。ホメイニ師ら宗教指導者たちの王政打倒運動によって国王は支配力を失い、イラン国民の怒りは激しい暴動となって爆発した。
1979年1月、国王はエジプトへ亡命。その地でガンと診断されてニューヨークの病院へ向かった。ホメイニ支持者らは国王をイランへ戻せと要求したが、アメリカ政府が拒絶(国民はシャーのアメリカ滞在を批判)した同年11月、イスラム教徒の武装集団がテヘランのアメリカ大使館を占拠し、52人のアメリカ人を人質に444日間も立て籠もった。
カーター大統領が人質解放の交渉に失敗した翌年4月、特殊部隊のヘリによる救出を決行したものの、作戦は失敗してカーター政権の息の根を止めた。
かつての誇り高き「王のなかの王」はエジプトへ戻り、ガンで死ぬ結末を迎えたが、イランの砂漠のはずれの泥の小屋に逼塞していた「ドク」の予言は、現実となった。
(続く)