小豆島 ふたり旅
松本 文郎
昨夏、《地中海のような風景に出逢う瀬戸内海の楽園小豆島・豊島3日間》なるツアーに、台風11号が瀬戸内海へ接近中に出掛けた。瀬戸内・福山が故郷の私たち夫婦にはいささか照れくさいキャッチコピーの旅だが、敗戦後間もない(昭和23年)中学生時代の北木島・臨海学校で見初めたお千代にとっては、初めて訪れる小豆島だ。
日程(2泊3日)の最終7月16日には台風が瀬戸内を通過する予報だが、新浦安駅前からリムジンバスで着いた羽田空港は快晴で、順調に飛ぶ機窓から瀬戸の島々を眺めながら定刻、高松空港へ着陸した。
一行43名を出迎えた添乗ガイドMさんの先導で観光バスに乗って高松港へ向かう。昼食は、各自が用意して、小豆島・土庄港へのフェリー(約1時間)で摂るとされていたので、羽田空港で求めた弁当とスケッチ用具を手に、船尾デッキのベンチに陣取った。
旅の楽しみの一つは<ハガキ絵>のスケッチで、団体ツアーでは、休憩・食事時間の中の速描だ。
広がる航跡の彼方の高松市街と背後の山並を描いている傍で、お千代は<一口弁当>(押し寿司と小さいおにぎりセット)を食べ始めた。海上はまだ穏やかで、強い日差しのデッキを吹き抜ける風が肌に心地よい。遠のいた屋島や左右に点在する島々を矢継ぎ早に描きながら、桟橋の売店で買ったかんビールを飲み、弁当をつまむ。フェリーといえば、去年晩秋の壱岐往路の玄界灘が荒れ、やっと出港した船は3~4メートルの波に揉まれにもまれた<ふたり旅>もあった。
土庄港で待っていたバスで「中山千枚田」へ直行して20分の散策中に1枚、次の「寒霞渓展望台」では遠望の屋島をハガキ画紙の右上に入れた大パノラマ、ロープウェイ頂上駅と下りの車中で各1枚、フェリー船上での6枚と合わせ、計10枚を描いて大いに満足だった。
全室が<シー・ビュー>の「ベイリゾートホテル・小豆島」のパノラマ大浴場の展望風呂で湯浴みし、地場山海の美味しい食材一杯の夕食を満喫。部屋に戻り一息ついて、ハガキ絵に彩色の手を加えた。
翌朝、「二十四の瞳映画村」へ直行。海辺に移築された旧校舎と再現村を散策(80分)して、学校の前の砂浜に打ち寄せる波音を聴いていると、60余年前の一人の少年が、小豆島からそれほど遠くない北木島で、一人の美少女に魅せられたシーンが鮮やかに蘇った。
郷土の偉大な教育者森戸辰男が、「敗戦日本の復興は新しい教育で!」の想いで創設した広大付属福山校で出逢わなければ、私たちの縁(えにし)はなかったろう。
無謀な戦争で多くの教え子の戦死を体験した壺井 栄が書いた小豆島の<女先生>物語は、戦後70年を経ても読み継がれている。「壺井栄文学館」で、武田美穂さんの挿絵入り本(第13刷)を旅の記念に購入して、記念館を見下ろす小さな社の高台から映画村の屋根の重なりと周囲の山と海をスケッチした。
次いで訪れた「オリーブ園」の散策では日本最古のオリーブの樹を白描(線描き)し、小豆島名物のオリーブを使った洋食ランチを堪能した。
バスに戻るとガイドのMさんから重大発表があった。日程最終日の「豊島行き」が台風接近で危うくなりそうなので、午後のスケジュールを芸術の島「豊島」の往復に変更するという。
土庄港から唐櫃港に向かうフェリーは揺れたが、玄海灘に比べればどうということはない瀬戸内の海だった。
棚田が広がる豊島唐櫃の「豊島美術館」(建築設計 西沢立衛)は、国際的アーティスト内藤礼とのコラボによるユニークな展示空間作品。NHK「新日曜美術館」で見たのが、この旅のきっかけだった。草原から円盤の屋根だけがのぞくコンクリートシェルの不思議な内部空間は、床に寝転がっている外国人男の昼寝の鼾が響きわたるほど音に敏感で、並んで横になった私たちの耳にフロアのあちこちに滲み出た水滴がつくる小さな流れの水音までが聴こえた。
小豆島に戻ってホテルへの途上の「エンジェルロード」に寄る。運よく大潮の干潮時で飛石の小島との間に道が現れていて、<珍島物語㏌小豆島>の珍景を描く。同行の2人の女性が覗いて、「ステキなハガキ絵ですね。あとでスケッチブックを見せてください」と言った。
戻ったホテルの窓に、朝は居なかった沢山の貨物船(10数隻)が台風避難で舫っているのが見えた。湾内に強風が間歇的に吹いて、白い風波が船団を揺らしたのは翌朝のことだった。
テレビニュースが羽田=四国便の全面欠航を伝え、朝食後のロビー集合でMさんから、夕方に予定されていた「東京便」欠航の代替案を旅行会社の本社で検討しているから、とりあえずは、土庄港に近い「迷路のまち」を散策すると告げられる。その迷路で「尾崎放哉記念館」に出くわすことになる。漂泊の俳人の旧住処と由縁の西光寺が小豆島の「迷路のまち」の一角にあったとは、ご縁という外ない。伝記文学の名手吉村昭著『海も暮れきる』(文庫版)を記念館入口の棚に見つけて購入した。
戻ったバスで東京に戻る経路変更の詳細説明があり、午後1時半に新岡山港に向かうフェリー(台風来襲前の最後の便)に乗船し岡山駅から新幹線で帰京する/小豆島国際ホテルでの昼食の「ひしお丼」は取りやめ、土庄港待合所の食堂で各自済ます/旅行代金に含まれていた昼食代はフェリーで返却/各自の新幹線料金を岡山駅で徴収する、などだった。
食後まもなく乗船したフェリーの最前列客席で、強くなった風波のローリングに揺られている私たちの所へ「エンジェルロード」の女性2人が来て、スケッチブックを見せてと言う。ザックから取り出して渡すと、最初の1枚を見た途端に、「これは、和紙の里小川町のスケッチじゃないですか?!」と素っ頓狂な声を発した2人はなんと、小川町の地酒蔵元「晴雲」の親類だという。
この旅の少し前の6月21日に参加した《細川和紙かみ漉き体験バスツアー》(浦安市国際交流協会と浦安市在住外国人の合同企画)で描いていたハガキ絵(5枚)を、スケッチブックに見つけてビックリした埼玉の女性2人だった。
《小川町へのバスツアー》総勢40余人の過半の外国人(タイ・中国、台湾、インド、米国)と「晴雲ランチ」で歓談した後、「酒蔵見学」をした老舗の店先に、小川町風景の数枚のハガキ絵が大きな額装で掲げられていた。
日本語研修で1年滞在中の若いタイ女学生に「ミスター・マツモトのハガキ絵の方が上手!」と耳元で囁かれたが、それらを描いたのが埼玉女性らの伯父様とは、なんと不思議な出逢いとご縁だ。この奇縁を認めた手紙に小川町のスケッチを同封して、酒蔵《晴雲》のご隠居に届けようと思いついた。
思いがけない帰路変更でテンヤワンヤのガイドMさんは、キャンセルとなった「ひしお丼」(3千円)の金を船内で払い戻して岡山駅まで同行したが、JRの切符売場前で、ツアー客各々の行先毎の新幹線運賃(1万6千余円/1人)を集めるとき、ツアー約款には自然災害の日程変更で生じる参加客の損害を会社が負担することのない旨が書かれていると付言した。
半時間後に乗車した「ひかり号」で約款を読んだ私は、眼鏡なしには読めない微細文字の文言を確認した。
1週間ほど経って、新幹線代の半分以下の復路航空運賃が口座へ振込まれ、格安ツアーの値打ちは半減したが、私たちにとっては新しい思い出となる旅だった。
この元少年・少女の「瀬戸内小豆島・ふたり旅」に、思いがけない後日譚があった。
日比谷同友会報の原稿と旅のハガキ絵(カラー)のコピーを2人の女性の親戚・蔵元「晴雲」へ送ったところ、ずっしりと重い宅急便で地酒《晴雲》(陶器入)が3本も届けられ、添えられた丁重な手紙(小川町の和紙便箋五枚)を読み、不思議なご縁を感じた。
(前略)、実は、去る5月に社長だった主人を亡くし、日常と社業、町の七夕まつりの協力、仏事にと追われ、新盆から新彼岸の間の今、少し息をつけています。
松本様は23年前に食道がんから再生され、10年来の前立腺がんは治療を受けられずにご活躍の由で、なによりと存じます。主人も前立腺がん(重粒子治療を受ける)、腎盂がん(抗がん剤、放射線等の治療繰り返す)などにかかり、最後は転移もあり亡くなりました。私は治療に消極的な考えでしたが、本人は、いろいろ手を尽くしたいと望み、選んだ結果、病院のお世話になりながらも自分の命が残り少ないと察し、仕事に打ち込み、私たちのため残務整理に最後まで尽くしてくれました。
(中略)祥子ちゃんと由美ちゃん(2人の女性)からのデンワで、松本御夫妻との出会いのあらましを聞き、私方のお酒をお送りするよう依頼を受けました。「素敵な御夫婦」と松本様の手早いスケッチの様子を聞かされ、お送り頂きました資料からも並外れた能力に圧倒されました。妹・姪からの依頼に私からのも加えてお届けしますので、「晴雲」古酒入りチーズケーキと一緒にご笑納ください。(後略)」
がんの闘病で亡なくなった「晴雲」社長の享年は書いてなかったが、御内儀への礼状でご冥福を祈った。
日本人の3人に1人は「がん」で死亡するなか、京大建築学科卒業同期30名の内の関東在住(14名)の学友2人が、相次いで去年の花の季節に旅立った。
朝夕に訪れる「ふれあいの森公園」の桜が開花して冷雨に濡れていたときにS君、満開になってからN君の訃報が届いた。先に逝った黒川紀章君ら4人を加えて6人が鬼籍となった。4人の死因は「がん」だった。公園の芝生で四方に枝を張る大きな<一本桜>が散り始めた頃に、家族やグループの花見客で賑わう公園に3日通って描いた水彩画(20号)『残る桜も散る桜』を「浦安市美術展」へ出品して、友人知人の好評を得た。
日本人の死因筆頭の「がん」にどう立ち向かうかをテレビ・雑誌が大きく取上げるようになって久しいが、和やかな人柄の人気テレビキャスターの逸見さんは、がんに罹った多臓器の摘出手術を受けて壮絶な死を遂げ、早期発見の食道(がん)全摘出手術を受けた私は、23年後の今も元気で過ごしている。天寿というほかない。10年前から右肩上がりで上昇してきた前立腺PSAは、235.340(2015.7月)→264・070(10月)→318.930(2016.1月)と脅威的な数値だが、生活の質(QOL)に変化は生じないで、感謝しながら一日一日を過ごしている。
広大付属福山の9年後輩)が浦安に住んでいて、数値上昇の経過を告げる度に大いに不思議がるので、「60兆個の細胞の<いのちの動的平衡>が良好だから」との持論を繰り返し話している。
壮年期以降の日本人男性の殆どが前立腺肥大・がんの治療体験があるとされ、高数値でも治療しないと公表した私に届いた沢山の人からの助言・忠告・共感・同意は、十人十色の内容だった。
そもそも、「がん」(悪性新生物)は自分の細胞が変容したものだから、摘出、抗がん剤、放射線・重粒子治療等に加えて、免疫細胞(2兆個)の自己免疫力の活性化に関わる「生活習慣」と「生き方」が、医学的にもっと重視されるべきではないかと愚考する。
数値上昇の果てに重大な事態が生じてターミナル・ケアを受ける場合に備え、ホームドクター(内科医)を訪ねると、浦安市ではいま、医師、看護師、介護士、ケア・マネージャーなどのグループによる自宅対応のシステム化が検討されていると知らされた。
そんなケアでターミナルを家族と共に過ごして看取られたケースを暮れのテレビ番組で見たが、
正月恒例の<鴨鍋パーティー>に集まった家族一同に、いま少しの天寿延長を願っていると伝えた。 (了)