アラブと私

イラク3千キロの旅(105)

 

 

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(72後半・73)外交官としての重大な訓令違反で、帰国した後にどんな厳罰が待ち受けているか分からなかったが、群がる人びとにビザ発給を告げると、大きな歓声が湧いたという。

 杉原の決断を後押しした幸子夫人は、そのときのことをまざまざと思い起こすような眼をされたが、緊迫した状況下で死の恐怖に曝されている人間の命を救う決断を夫と共にした誇りのようなものを感じた。

 杉原千畝氏は難民へのビザ発給の条件不備に関する外務省との論争を避けるために、さまざまな手立てを講じて、表面上は遵法を装いながら、「外国人入国令」の拡大解釈を既成事実化した。

 一時に大量のビザを手書きしたために万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続いた。一日が終わるとベッドに倒れこみ、痛くて動かなくなった腕を夫人がマッサージして、ソ連政府や日本から再三の退去命令を受けながらの1ケ月、寝る間も惜しんでビザを書き続けた。

杉原は、外務省からのベルリンへの移動命令が無視できなくなると、領事館内のすべての重要書類を焼却。家族と一緒に、ホテル「メトロポリス」に移ったが、領事印を荷物に梱包してしまったので、ホテルでは、仮通行書を発行し、ベルリンへ向かう列車に乗ってからも、窓越しに手わたされるビザを書きつづけ、6千余人を救うために発給されたビザは番号が記録されているものだけでも、2千百93枚にのぼった。

 動き出した列車の窓から「許してください。私にはもう書けません。みなさんのご無事を祈っています」と頭を下げた千畝の姿が目に焼き付いています、と幸子さんは語った。

 列車と並んで、泣きながら走っていた人たちは、「私たちはあなたを忘れません。きっともう一度、あなたにお会いしますよ」と叫び、千畝たちの姿が見えなくなるまで見送っていたという。

 

 壮絶を極めた第2次世界大戦は日本とドイツの無条件降伏の受託で終わり、昭和22年に帰国した杉原に対する外務省の態度は、思いのほかに厳しいもので、人道主義の立場でビザを寝る間を惜しんで発給した杉原は、軍国主義から平和主義の国に生まれ変わった日本で、詳しい理由も告げられないまま解任された。

 外交官として国の命に背いた杉原千畝は、長い失意の時を過ごしたあと、語学の能力を活かして、企業の海外駐在員として働き、75歳で鎌倉の自宅に隠棲したものの、依然として名誉は回復されなかった。

 1968年、突然、イスラエル大使館から電話があり、大使館に行くと、ビザ発給交渉にあたったユダヤ人ニシェリが、千畝が発行したビザを手にしていた。二人は固く握手して、その後は幸せだったかと聞かれた千畝は、「いま、幸せだったとわかった」と答えたという。

 1985年(昭和60年)、85歳になっていた杉原千畝氏に対して、イスラエルは、その勇気を最大限に讃えて、「諸国民の中の正義の人賞」を贈り、エルサレムの丘の上に顕彰碑を建立した。

 彼の命がけの人道的行為は、世界の人々の知るところとなり、祖国では解任された外交官から、世界の「人道の人、チウネスギハラ」になった。

 しかし、日本外務省は杉原の存在を無視し続け、祖国での名誉回復がなされぬままに、翌年、鎌倉の自宅で波乱に満ちた生涯を閉じた。

 1991年、ビザ発給の現場であるリトアニアの首都ヴィリニュスに、1992年には、岐阜県加茂郡八百津町に「杉原千畝記念碑」が建立され、2000年、都内の外交史料館では、名誉回復を象徴する「杉原千畝氏を讃える顕彰プレート」の除幕式が催された。

 挨拶に立った河野外務大臣は、故杉原千畝氏と幸子夫人らの遺族に対して、「外務省とご家族との間にご無礼があった。(中略)極限的な局面において、人道的かつ勇気ある判断をした素晴しい先輩だ」と語り、戦後の外務省の対応についてその非礼を初めて認め、正式に謝罪したのである。

 その喜びを千畝氏の墓前に報告した幸子夫人の胸には、煩悶する千畝氏にビザ発給を決断させた時のシーンがまざまざと甦ったという。

 この後の記述で、スティーブン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』に触れ、千百人のユダヤ人を救ったドイツ人実業家(ナチス党員から変心)が杉原千畝とは対極の人間だったこと、「シオニズムとパレスチナ問題」を、この記事の前月起きた「アルジェリア人質拘束事件」の要因とする米国政府の見方等を書いているので、本文を参されたい。

(74)米国政府の中に、「アルジェリア人質拘束事件」が「パレスチナ問題」に関わっている見かたがあるとの新聞報道があったが、一体どういう脈絡があるというのか。

9・11では、その要因の一つにイスラエルへの肩入れがあったとされたが、アルジェリアの事件は、フランスのマリへの唐突な武力進攻が引き金の一つとされた。

 フランスは旧マグリブ諸国の宗主国であり、アルジェリア独立戦争で政治的混乱が生じて以来、多くの民族が存在するマグリブ地域では、様々な紛争が起こり、今回の事件はアフリカにおけるアル・カイーダ・「イスラム・マグリブ諸国のアル・カイーダ機構(AQIM)」による2002年以来の反乱の一部とみられている。

「アルジェリア戦争」(1954~62年)は、宗主国フランスによる1830年からの長い支配に対するアルジェリアの独立戦争だが、その対応をマスメディアが頻繁に取り上げた。

 ここにまた、「号外」で書いたロスチャイルド家が登場すめぐるフランス中央政府と軍部が分裂し、内戦的事態に至ったことは、仏現代史の汚点となされた。

 フランス軍による現地村落の住民虐殺を「忘却政策」の報道規制で忘れさせようとしたものの、90年代に「記憶の義務運動」が起き、アルジェリア戦争での拷問・テロなどの非人道的な記録をることになる。

 第1次世界大戦の厖大な戦費を英国に援助したユダヤ人豪商ロスチャイルド(仏語読みは、ジェイムズ・ド・ロチルド)は以前から北アフリカとその周辺、パレスチナなどの資源調査を行い、鉄鉱石(1990年代になっても枯れることなく、アフリカ大陸第四位の生産量を誇り、巨大な富を生みつづけた)などの有用な資源を得ようとフランス軍派兵のために8千万フランもの天文学的な資金を提供して戦争を起こさせたことが分かっている。

 彼らが開通させた「北部鉄道」(1846年)はフランス・ベルギー・ドイツを結ぶロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)資産の中枢となり、鉄鋼、機械、石炭、金属、石油、建設、海運、電機、観光、食品を含むフランス最大の企業グループ(コングロマリット)に成長した。

 アルジェリアの大地で大量に生産されるようになった大麦、ハード小麦、ソフト小麦、オート麦は当時の商社・財閥にとって資産上極めて大きな意味をもち、いくつもの多国籍企業を育てる下地となった。

 19世紀末からは石油生産(アフリカ第3位)が始まり、1956年から巨大天然ガス田ハッシ・ルメル(ロシアを除くと世界第1位の埋蔵量)が発見され、さらに莫大な富を生み出すことになる。1830年の侵略から132年間、フランスはアルジェリアを支配。ロスチャイルド家の壮大な目論見は、見事に成功したのである。

 

「アルジェリア人質拘束事件」は、イナメナス付近の天然ガス精製プラントでイスラム系武装集団が引き起こしたものだが、襲撃された施設はアルジェリアの国営企業ソナトラック/英国・BP/ノルウエー・スタトイルなどの合弁企業が経営し、建設には、化学プラント建設に実績のある日本の日揮も参加していた。

 事件勃発時の現場には、7百人のアルジェリア人と百人の外国人がおり、ガーディアン紙によると、武装勢力は、米・仏・英国人(資源を搾取しているとみなされてか)を人質の標的にするよう指示されていたというが、50年余りも現地の天然ガスプラント建設に貢献してきた日揮の人たちから10人もの犠牲者が出る事態になった要因は、小泉政権が2003年のアメリカのイラク進攻を支援する自衛隊を派遣して以来、アラブ人の目に米国の手先になりさがった日本との見方が広がり、今回の事件で日本人の犠牲者が最大だった背景とされている。

 この事件が重大なのは、アル・カイーダが中東、アフリカ、アジアにも拠点をもち、これからも同じような事件が繰り返される可能性があるということであろう。

 安倍首相は、21日付の首相官邸のfbページで、「無辜の市民を巻き込んだ卑劣なテロ行為は決して許されるものではなく、断固として非難します。(後略)」とテロとの闘いに臨む決意を述べたとされるが、イスラエル政府の国連決議を無視したパレスチナの人びとへの理不尽な行為を、北朝鮮の国際社会への挑発的暴挙と同じように非難するのが、公正な態度というものではないか。

(75)アメリカを中心とした欧米諸国の国際石油資本(石油メジャー)によるエネルギー利権支配へのアラブ・アフリカ産出国の民衆の反発と、独裁的軍事政権が崩壊した「アラブの春」についてはかなり寄道をして書いてきたが、今回の事件は、第1次大戦の終結に端を発する根深いものだ。

 この事件が「パレスチナ問題」にかかわるとのアメリカ政府筋の見かたの根底には、第1次大戦で英・仏が手に入れた植民地的統治国の長い支配と搾取・抑圧に対する民族主義の抵抗運動があると思われる。 ロスチャイルド家はユダヤ系ドイツ人の一族で、初代マイアー・アムシェル・ロートシルト(1744~1812年)がフランクフルトに開いた古銭商・両替商に端を発し、ヴィルヘルム一世との結びつきで経営の基礎を築き、ヨーロッパに支店網を設けて5人の息子に担当させ、彼らの相互協力で世界の「ロスチャイルド」になった。

 ロンドン支店のネイサンは、第1次大戦の戦費をイギリスに援助したほか、スエズ運河の買収資金を提供し、パレスチナでのユダヤ人居留地の建国を約束させた、「バルフォア宣言」などで政治にも多大の影響をもった。

 東郷元帥率いる日本艦隊の奇跡的戦勝で、世界の強国ロシアを破った日本は、「ロスチャイルド」が日本に紹介したニューヨークのユダヤ人銀行家の支援で成功した外債募集の資金で軍備を充実させて、ロシアから領土と満州の鐡道利権などを手にしたが、賠償金を獲得できなかったため、金利を払いつづけ、日露戦争で最も利益を得たのは、その銀行家だったという。

 中世から20世紀までのヨーロッパで数百年も君臨したハプスブルグ家が、大戦後に解体されて2百年近くなる現在、狂暴化した金融資本主義の渦中の金融グループとしてのロスチャイルド家が、グローバリズムの伝道者のような活動を展開しているのは、世界の近現代史の背景として、好奇心をそそられる。

 

ジョン・パーキンス著「エコノミック・ヒットマン」のさまざまな事例に触れたように、第2次大戦後のアメリカは、世界中の開発途上国(旧植民地)の資源・労働力・市場などを経済的に支配する多国籍企業の中核的存在で、グローバリズムの旗を振りかざしながら、世界第1位の経済大国として君臨してきた。

 かつての植民地宗主国が築きあげた国際的経済協定を、第2次世界大戦後の脱植民地化で独立した国の経済支配に今も利用していることが、16~20世紀のヨーロッパの植民地主義を彷彿とさせて、「新植民地主義」と呼ばれている。

また、現代のラテンアメリカでの大国による小国への内政干渉が帝国主義時代の列強諸国の行動に似ているとして、「経済的帝国主義」の意味でも使われているようだ。

 シオニスト的なユダヤ人ロビイストが跋扈する米国連邦議会の様子を聞くにつけ、イスラエルの右派政権が強行するパレスチナの人びとへの傍若無人な行動を抑えるのは、2期目のオバマ大統領にとっても容易ではないだろう。

 ロビイストの中でロスチャイルド家がどんな位置を占めているか知らないが、初代からの政商的な才覚のDNAはさらに進化して、相応な影響力を及ぼしているのであろう。

「神が約束したシオンの丘のエルサレムへ帰ろう」とユダヤ人の歴史的な特権を主張するシオニストとは関連ない団体だろうが、良識あるイスラエルの人びとの歴史認識と世界平和への意欲に期待したい。

(76前半)前回の末尾に記した安倍首相のアルジェリアのテロ事件に対する決意の一部は、1月28日の所信表明演説の冒頭だった。(以下全文引用)

「事件発生以来、政府としては、総力を挙げて情報収集と人命救助に取り組んでまいりました。

 しかしながら、世界の最前線で活躍する、何の罪もない日本人が犠牲となったことは、痛恨の極みです。残された御家族の方々のお気持ちを思うと、悲痛の念に堪えません。

 無辜(むこ)の市民を巻き込んだ卑劣なテロ行為は、決して許されるものではなく、断固として非難します。私たちは、今般の事件の検証を行い、国民の生命・財産を守り抜きます。国際社会と引き続き連携し、テロと戦い続けます」

 所信表明演説のまくら言葉とはいえ、ポピュリズム丸出しの官僚的作文というほかない。

 これでは、9.11のアメリカ同時多発テロの原因を検証することなく、(日米同盟のくびきで)自衛隊のイラク派遣に踏み切った小泉政権と変わらない。

 前回、唐突に政権を投げ出したことを反省して、国家のかじ取りをつかさどる重責を改めてお引き受けるとも表明しているが、イラクはじめ各地で手詰まり状態のブッシュ政権末期、イラクの戦地まで出かけ、自衛隊に檄をとばしている。

「国家国民のために再び我が身を捧げんとする私の決意の源は深き憂国の念にあります。危機的状況にある我が国の現状を正していくためになさなければならない使命があると信じるからです」 

「外交政策の基軸が揺らぎ、その足元を見透かすかのように、我が国固有の領土・領海や主権に対する挑発が続く、外交・安全保障の危機に直面しています」

 前者には、自衛隊員を前に奇妙な自決を敢行した三島由紀夫の演説に重なるものを感じ、後者は、前回の首相就任時に憲法改正を最大目標にした意気込み、そのままである。

(76後半・77)アベノミクスとTPPの危うさについて記しているが、「横道」が長くなるので、省略。関心ある方は、本文を「松本文郎のブログ」でお読みください。

(78)横道」は、クウエートから千5百キロを走ってきたトヨペットクラウンのキャブレター点検で訪れたモースルのガレージの場面(68)のあとも長く続いた。

紀行文からの逸脱への読者の戸惑も懸念され、折しも生じた東日本大震災を契機に、『文ちゃんの浦安残日録』(新カテゴリー)を「ブログ」に設けてもらった。

傘寿を迎え、前立腺がんPSAが40.34の今、「残日」がどれくらいか分からないが、子や孫が生きる日本の将来と世界の平和を願い、教受するいのちを燃やして書き続けていきたい一念だ。

それでは、(71)のガレージの場面に戻ろう。

 

 そろそろ暇を告げようとした矢先、思いがけず、ハッサンが大阪万博のことを聞きたいと言う。

 「日本での万博を、どうして知ったのですか?」

「新聞やラジオで知りました。アラブ諸国からはクウエート、サウジアラビア、アブダビ、アラブ連合(エジプト・シリア)がパビリオン参加しました。イラクができなかったのはザンネンでした」ユーセフもなにか言いたげだったが、それとは別のことを、自慢げに告げた。

「バッシュモハンデス・マツモトは、クウエートに来られる前に、NTTパビリオンの基本構想を議論するチームのメンバーだったそうだよ」

「クウエートのプロジェクトに関わる4年前で、建築家としてとても、よい経験でした」

「どんなことを議論されたのですか」

「NTT(日本電信電話公社)は、電気通信事業の独占的公共企業体ですから、情報化社会を支える情報通信技術とサービスの開発成果を、いかに未来への夢があふれる展示にするかでした」

「どんな技術やサービスでしょうか」

 モースル工科大学機械科卒で若くしてガレージを開いたオーナーは、敗戦の灰塵跡から25年で経済復興を成し遂げ、世界万博を開催するまでに発展した日本の科学技術に強い関心をもっているようだった。

 私は、「でんでんパビリオン」の基本構想策定のブレーンストーミングを思い出して、ハッサンの好奇心に応えることにした。

                                (続く)

2016/03/26 21:58 2016/03/26 21:58
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