アラブと私
イラク3千キロの旅(106)
(79)ガレージにいとまを告げようとした時にハッサンの要請で始めた大阪万博の話のあらましを記述。
《人類の進歩と調和》がテーマの「日本万国博覧会」は、高度経済成長を遂げてアメリカに次ぐ経済大国になった象徴的なイベントとして、東京オリンピックのような国家プロジェクトだった。
多くの企業・研究者・建築家・芸術家らが、パビリオン建設、映像・音響などのイベント・展示物制作に起用され、京大の恩師西山卯三教授と東大の丹下健三教授が万博会場の総合設計者に選ばれた。丹下健三チームには西山先生のゼミで筆者と一緒だった黒川紀章(東大大学院・丹下研究室出身)、菊竹請訓などの若手建築家がおり、西山先生から、筆者がNTTから出向して西山チームに参加してくれないかとの打診があった。恩師からの出向のお誘いは許可されず、思いがけず、NTTパビリオンの建築チーム編成をするよう指示され、「基本構想会議」のメンバーになった。
外部招聘メンバーには、現在も各界で活躍している錚々たる顔ぶれが集められ、いまふり返ってもゾクゾクする。
総合プロジューサーは京都未生流家元の浅野翼氏。NHK・和田勉、TBS・萩元晴彦と今野勉(のちテレビマンユニオン設立)、映画監督・恩地日出男、詩人・谷川俊太郎、画家・横尾忠則、音楽家・武満徹らが居並んだ会議は、当時の売れっ子たちが出揃う夜中に催され、熱い討論が繰り広げられた。
「基本構想会議」は外部メンバーの提案・意見を聞くのが目的だったが、席上、若気の至りで言いたい放題の発言をして公社幹部の逆鱗に触れた筆者は更迭されて、横須賀電気通信研究所設計チームに鞍替えさせられ、職場の仕事との出会いには、人生と同じ運命的な一面があることを痛感した。
研究所の設計が終わった途端、イラン国電気通信研究所の建築基本計画技術指導の海外出張命令を受けた。クウエート国電気通信コンサルタント事務所の現地建築チームの責任者任命の辞令が出たのは、その翌年のことだった。(省略)
「日本のことを知りたかったのでお訊ねした世界万博のことから原子力のことまでも話してくださり、ほんとうに勉強になりました」
(80)ガレージの店先のテーブルに座ってから2時間余りが経っていた。「つい長居をしてしまいました。お仕事の邪魔になったのではないですか」「とんでもない! こちらこそいろいろと教えていただきありがとうございました」
ガレージ奥の居住部分に引こんだ彼は、しばらくして、一本のワインを抱えてきた。「モースルのワインです。教会で出されたのと同じ自家製です。この辺りでは良いブドウが採れてうまいワインが出来るのです。ユーセフと今夜の宿で飲んでみてください」
「イラクの未来は、あなたたち若い技術者のものですよ。長いオスマン帝国やイギリスの支配からやっと抜け出したお国の近代化がうまく行くように祈っています!」「戦争で敗れた日本の復興にガンバッテこられたバッシュモハンデス・マツモトにたいへん刺激を受けました。イラクの石油と日本の家電製品や車などで交易が盛んになることを願っています」
ユーセフが予約していた宿は、ベッドと小机だけの小さな部屋が並ぶ廊下に、共用のトイレ・シャワーが2ケ所ある。部屋に入るなり、からだをベッドに投げ出して横になった。大の字になってユーセフが出合せてくれた人たちの風貌と人柄をなぞって、その背景にある風土と歴史に思いを馳せた。
古代初期アッシリアの砦の町だったモースルは、ニネヴェに首都を築いたアッシリア帝国滅亡(紀元前609年)の後、シリアとアナトリアを結ぶ幹線道路のチグリス川渡河点として栄えて、重要交易拠点としてペルシャ・アラブ・モンゴル・オスマン諸帝国が去来する要衡の地となった。
ペルシャのササン朝を滅ぼしたアラブ人たちのムスリム史上初の世襲ウマイヤ王朝の首都として、繁栄の絶頂期を迎えたモースル。
古代から数千年に及ぶ諸王国の興亡のなかで、この地には数えきれないほどの人間の血が流れ、アッシリア東方教会信者の末裔の牧師やハッサンには、先祖の悲惨な運命もあった。
モースルは、第1次世界大戦の戦後処理でオスマン帝国が解体された1921年まではトルコの1行政州。イラク自体が、バグダッド・バスラ・モースルの3行政州を、イギリスが統合して作った新しい国である。
行政州と云っても帝国の威令が及んだのは一部の都市部だけで、地方では有力な部族が跋扈して、諸侯乱立の状態だった。住民の大半がイスラム教徒だが、ジャズィーラ(島)と呼称されたバグダッドやモースルのスンニ派社会がシリアに抜ける交易圏だったのに対し、バグダッド以南のメソポタミアと呼ばれた地域のナジャフ、カルバラーはシーア派社会の聖地として、イランやインドからの巡礼や留学の往来で一つの経済圏を成していた。
数千年にわたって色々な民族・文化が往来し、興亡を重ねてきたモースルで、ムスリムではない2人のクリスチャンとクルドの民族宗教ヤズィーデー信者の老人との出会いに感謝したとき、ドアにノックの音がした。「少しは眠られましたか?」
「いやネ。シャワーを浴びたら案外と疲れがとれて、キミが会わせてくれた人たちのことを考えていたんだ」「チーフはやっぱり建築家ですね。教会の牧師やハッサンとの話の幅広さに示された好奇心や知識欲には、並々ならぬものを感じましたよ」
「じゃ、ハッサンにもらったワインを飲みながら、夕飯にしよう。道中で食べるようにとアハラムが持たせてくれたクレーチャが昼飯がわりだったので、腹が空いているだろう」
ベッドカバーの上に向き合って胡坐をかいて、ホテルの近くの店で買ったシシカバブーとホベツの包を開いて、倹約ひとすじの旅の夕食を始める。
「出会ったばかりのハッサンといろんな話ができてよかったね。教会の牧師さんもだけど、日本の若者との時局談義と変わらない感じだった」「大学出のインテリたちですから、バース党政権のイラクがどうなるのかを真剣に考えているのでしょう」「よく知らないボクに警戒心を抱かず、フランクな応対をしてくれたのは、とにかくキミのお蔭さ」「チーフが一所懸命にアラブのことを考えているのが、彼らに伝わったからですよ」「そういえば、この旅にご一緒するまでのチーフと、こんな話をしたことはなかったですね。差支えなかったら、ソ連の社会主義をどうみておられるか、聞かせてくださいませんか。日本の敗戦前後にソ連軍が唐突に参戦したので、イヤな感じをもたれていると仰っていましたので」
「中国大陸にいて捕虜になった日本兵を60万人もシベリヤに抑留して、厳寒の地の過酷な強制労働で1割もの死者が出た残酷さがね」「国際条約では、捕虜を強制労働に使役するのは禁止されているのではないですか」「そうだけど、日本軍もやっていたようだから、なんとも言えないところもあるんだ」
(81)「ソ連に対するボクらの国民感情には複雑なものがあるんだよ」「どういうことですか?」
「明治維新以後の富国強兵政策の果ての日露戦争で勝った日本の国家統治者と、ロシアの芸術文化に魅了されていた知識人の間には大きな感情の隔たりがあったんだ」「オスマン帝国の支配下にあったイラクで、極東に日本という国があるのを知ったのは、強大なロシア帝国との戦争に勝ったときと言ってもいいくらいですが、国民にはいろいろな想いがあったのですね」
クレーチャを頬張ったユーセフは、ペプシで流し込みながら、私の話をうながした。
「日露戦争の戦勝国日本は世界の人々に、欧米列強に伍した1等国と認められたけど、調子づいた軍部が政治権力を握って軍国主義への道を突っ走った挙句の敗戦だった」「日本がポツダム宣言を受託し無条件降伏した8月15日以降も、関東軍の指揮下の部隊は、激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたため、マッカーサーの戦闘停止命令は、8月19日のソ連軍の本格的停戦と日本軍の武装解除まで実行されず、ソ連軍の作戦は、9月2日の日本との降伏文書調印も無視して続けられて、満州、朝鮮半島北部、南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を支配下に置いた9月5日になって、ようやく終了したんだ」「日露戦争に負けたことへの報復でしょうか?」「ロシア民族の南下政策はロシア皇帝を倒した革命後のスターリンにも引き継がれたのかも」「ルーズベルトがソ連参戦の条件として千島列島と樺太をソ連領として容認するとモロトフ外相に伝えていたそうだから、ソ連はアメリカの足元をみていたんだろう。関東軍兵士らのシベリア抑留の強引なやり口も、そうした状況で行われたのだと思う」
「皇帝の支配下で搾取・抑圧された人民を解放した共産主義政権らしくないやり方ですね」「ソ連共産党の指導者スターリンは、ヒットラーのナチスドイツと苦しい戦いをして勝ち抜いたが、政敵や不穏な同胞の粛清(シベリアの強制労働・大量虐殺)をやった恐ろしい一面をもつ人物でもあったんだ」「軍国主義時代の日本では、共産主義的な思想は弾圧されたのでしょうね」「共産党は非合法化されたので、党員やシンパは地下にもぐって活動したんだ。ソ連へ密入国したり、官憲の監視をかいくぐって中国の革命家らを支援したり・・・」
「ミスター・マツモトは、資本主義・社会主義両陣営の東西冷戦をどうみているのですか?」
「思想的に先鋭な学生も少なくなかった京大生のころ、マルクスの『資本論』や毛沢東の『矛盾論』などは読んだけど、学生運動には参加せず、ノンポリ的な学生だった」「それらの本から学ばれたことはなんですか」「多感な若者の一人として、人類社会を二分している資本主義と社会主義の光と影について知り、さまざまな社会矛盾や人間疎外にどう立ち向かうかを学ぼうと・・・」
ユーセフはグラスを手にしたまま、訊ねた。
「マルクスから学ばれたことをかいつまんで話してくださいませんか」「ボクが高校・大学生だったころの日本は、東西冷戦下での朝鮮戦争勃発後、軍事特需の工業生産活況が戦後経済復興の口火となり、サンフランシスコ対日講和条約・安全保障条約の調印で、資本主義の西側陣営に組み込まれたんだが、同時に、マルクスが『資本論』で説いた矛盾や疎外が生じる資本主義的社会を変革する社会主義への関心が高まったんだ」「イラクの社会主義・バース党政権はイギリスに支配されてきた石油資源を国家の近代化のために開発・活用しようとして、親ソ的な外交路線をとっていますが、ソ連のような社会主義国に、帝国主義的な支配のおそれはないのでしょうか」
「それはなんともいえないね。東西冷戦の下で、スターリンのソ連が世界の共産主義化をめざしたのは、自由市場経済よりも国家計画経済の方が人類社会により繁栄と平和をもたらすという思想に基づいているというが、どこかおっかないような気もしている。2年前にモスクワで開かれた「世界共産党会議には、日本、中国、北朝鮮、北ベトナムの共産党は欠席しているよ」「それは、ソ連が、エンゲルスとマルクスが想い描いた国家社会像と違う方向へ向かっているとみているからでしょうか」「スターリンの圧政的な権力統治とロシア帝国時代の覇権主義と南下政策に懸念を抱いたのかもしれないね」
「社会主義国の動静で、共産党独裁政権の中国で5年前(1966年)に始まった《プロレタリア文化大革命》では、封建的文化、資本主義文化を批判して、新しく社会主義文化を創生するとして、政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動がおこなわれていて、当初は、思い切った自浄作用の実践だと感心したものの、紅衛兵という少年少女による全国的な粛清運動で党権力者や知識人だけでなく、一般人民に多数の犠牲者が出たり、儒教・仏教など伝統文化の破壊と経済活動の長期停滞が生じているらしい」「欧米の自由主義陣営では、社会主義大国のこうした状況をみて、資本主義の勝利として喧伝しているようですが・・・」
「資本主義的社会の高度経済成長が進行中の日本でも、昨年(1970年)の「70安保闘争」の挫折と共に、社会変革への関心が急速に弱まったと感じているよ」「ミスター・マツモトは社会主義ではダメだと感じていられるのでしょうか?」
ユーセフの目が鋭くなった。
「そうでもないよ。戦争中、官憲の監視の目をくぐって社会主義思想の文献を熱心に読んだ若者や知識人のなかに、弾圧で転向したり、戦後、企業経営者として日本の復興に活躍した人物は少なくないけど、社会人になっても是々非々的ノンポリで通してきたボクは、学生時代に受けたマルクスの社会思想の骨子だけは持ちつづけているんだ」
「マルクスが『資本論』で予見した資本主義社会の行方は、まだ正しいと思われているのですね」
こころなしか、ユーセフの顔が和んで見えた。
「少なくとも、スターリンのソ連や文化大革命の中国は、マルクスの思想に忠実ではなかったと言えるのではないだろうか」
ユーセフの熱心な質問に答えながら、いつの間にか、大学生時代の仲間との論争や万博基本構想の策定の場での論議にも出た『資本論』をめぐる熱い想いがよみがえってきた。(省略)
(82)私のベッドの上に広げていたクレーチャの箱とコップを手にしたユーセフが、自分の部屋へ戻っていったあとで、すぐ眠りにつこうとしたが、アタマが冴えていてなかなか寝つけない。
教会の牧師やガレージの主と話したことのなかで、言い足りなかったことや言い過ぎたことが気になりはじめたのだ。いちばん気になってきたのは、CIAの影だ。
イギリス支配のイラク石油会社が収奪してきた石油資源を国有化によりイラク国民の手に取り戻すバース党政権の動きが高まっていると聞くと、20年前のアングロイラニアン石油(BPの前身)国有化の騒動とCIAの暗躍が思い出される。
1951年、イラン議会で石油国有化法案が可決されてモサディクが首相に就任したが、2年後、CIAが動いて、パーレビ国王によるモサディク解任と米国が主導したイラン石油協定成立と国際合弁会社の設立があいついだ。
モサディクが自国の石油をイギリスから取り戻す国有化に成功したとき、日本人出光佐三が率いる小さな石油会社は、BPの妨害をものともせず、イラン石油の買い取りに奔走・成功して気を吐いた。イラクのモースルにCIAの影がちらつくのは、バース党社会主義政権に肩入れしながらイラクの石油を狙うソ連の南下政策をけん制する米国の動きの一つだろうか。
イラクの隣国クウエートの電気通信技術コンサルタント事務所の建築班チーフが関わる問題ではない。私的な旅での言動がCIAの耳目にとらえられるのは、絶対に避けなければならない。
1969年春に2ケ月ほど滞在したテヘランで、パーレビ国王の背後でCIAが策動していると、滞在年数の長い日本人から告げられたことは既に書いた。
国際万博を開催するまでになった高度経済成長を持続するために中東石油を確保しなければならない日本のアラブ外交戦略はどうなっているのか。
クウエートへ着任して間もない日本人会の会合で、アラビア石油の山下太郎なるすごい人物の話や、傑物出光佐三がイラン石油を国有化した愛国者モサディクと肝胆相照らし、イラン石油を収奪してきたBPの向こうを張って、輸入契約に漕ぎつけた武勇伝を聞いた内容を横道で記述。(省略)
サイドデスクの時計をのぞくと10時だった。
ガレージと宿へ帰ってからの話で、工科大学卒の若者のハッサンとユーセフが自国イラクの近代化に熱い想いを寄せていると知った私は、彼らの民族意識と愛国心にいたく共感していた。
イラク・バース党についてはなにも知らないが、ナセルが牽引したアラブナショナリズムやシリアのバース党とは一線を画す政治・経済路線を歩んでいるように感じた。
近代的なイラクの国家建設を担うユーセフたちエンジニアの関心は、東西冷戦下の資本主義陣営の欧米諸国と社会主義陣営ソ連の科学技術・文化芸術・生活の豊かさの比較にあると思われる。
イランの国有化がアメリカCIAの暗躍と国王の裏切りで転覆し、国民から信頼されていた首相の更迭・失脚の果てに、石油メジャーによる支配に逆戻りしたことを、ユーセフらエンジニアたちやマリクのような言論人たちは、よく知っているにちがいない。
世界3大文明の一つメソポタミアの地に、念願の旅をしている建築家としては、イラクの現実的な問題にやや深入りしすぎているようだ。
残る2日の「イラクの旅」は、ニネヴェ遺跡とバグダッド博物館の見学に集中するとしよう。
今夜の夢に、ニネヴェが繁栄した往時の壮大な都市の姿とアハラムが出てくるといいのだが・・・。
(続く)
