アラブと私
イラク3千キロの旅(13)
松 本 文 郎
「歴史認識」の問題は、国家間の論争にとどまらず、個々の人間の今と未来にも深く関わっている。
『アラブと私』を書いているのも、自分の足跡を書きとどめて子や孫たちの未来への遺言にしたいと願い、これからの生き方のために、歴史を学びなおしたいからだ。
「歴史」は、体制、反体制、学者、民衆など、さまざまな立場で遺された記録の総称だが、「自分史」は、かけがえのない自分の人生記録であり、体験をより鮮やかに思い出すには、書いてみるのが一番である。 『アラブと私』では、過去の私的な思い出を綴るだけでなく、人類社会の「来し方」と「今」を知り、これからの時代と社会にコミットして生きる想いを書き込みたいのである。
この月一回の連載もはや十二回目になったが、「イラク3千キロの旅」は、『アラブと私』の序章のようなもので、書きたいことの根幹は、四十年前のアラブの私的な体験を織り込みながら、人類社会の未来を左右するであろう「アラブ」の現実を見つめ、感じ、考えた記録である。
道中の道草は、小田 実の『何でも見てやろう』流をなぞっているからで、「メソポタミア」から「今」にいたるアラブの歴史を気ままに往還したいからである。
時折、前を読み直さないと「イラク3千キロの旅」の道中が繋がりにくいきらいがあるが、ご面倒でもプリントアウトして、再読していただくほかない。
世界中で非難されている、イスラエルによるガザ住民虐殺と停戦の行方も気になるのだが、そろそろ、ユーセフが話してくれたスンニ派とシーア派の歴史にある「カルバラの戦い」に戻ることにしよう。
前々回(11)に書いた、ハーシム家とウマイヤ家による共同体統治をめぐる確執のなかで見過ごせないのは、ムハンマドの後継者の資格を「イマーム」と呼び、預言者の血を引くアリーとその子孫だけとするシーア派の主張だ。
「イマーム」は、ムハンマドの啓示によりイスラム共同体を宗教的、政治的に指導する者で、人間の魂の救済に重点をおくキリスト教などの宗教とは対照的に、共同体の営みの政治、経済、社会、文化などのすべてに関わるとされてきた。
「イスラム教」を創始したムハンマドは、メッカで生まれ育った都市人で、大きな貿易商の総支配人だったが、不毛の地とされたアラビア半島の遊牧民らを組織して強力な軍事集団をつくり、「イスラム」の教義でアラビア半島を一体化したのである。ビザンチンとササン朝ペルシャの東西両帝国が長い戦争で疲弊していたときだった。
ムハンマドが受けた啓示を「コーラン」として正典化したウスマーンは、ササン朝ペルシャを征服し、ビザンチン軍も破って、両帝国が対峙した古代世界終焉の端緒を拓いた二代目カリフ、ウマルの指名で三代目カリフに就任した。
七世紀から十四世紀にかけての「イスラム帝国」の全盛をもたらしたのは、アラブ遊牧民が中心の強大な軍事力であるが、その新しい世界に秩序を与えたのがイスラムの教義「コーラン」だった。
アラビア半島に預言者ムハンマドが現れたころのアラブ人の大半は、定住生活を軽蔑する半砂漠の遊牧民だった。
ムハンマド没後から第四代カリフのアリーまでは正統カリフの時代と呼ばれ、イスラム帝国の第一期を形成したのである。
「カルバラの戦い」は、ムハンマドやアリーが属したハーシム家と帝国の第二期を築いたウマイヤ家との共同体統治権をめぐる確執の果てにあった。
第四代カリフのアリーがクーファで殺されてから、シリア総督のムアーウイアが「ウマイヤ朝」の初代カリフに就き、カリフの位を世襲制にしたことから、アリーの支持者たち(シーア派)は、ムアーウイアばかりか、アリー以前の初代から三代までのカリフの正統性も否定したことは前々号に書いた。
アリーのような預言者ムハンマドの血筋だけを、後継資格をもつ「イマーム」とした当時のシーア派は、アリーを初代イマームと呼び、イマームの位は
ムハンマドの末娘ファーティマとアリーの間に生まれたハッサン・フセイン兄弟をへて、弟フセインの子孫へと引き継がれてきたとみなしている。
イスラムの少数派でありながら、「イマーム」を中心にすえた宗教思想で独自の存在を続けてきたのがシーア派である。
「カルバラの戦い」当時のシーア派は、イスラム史で「正統カリフ時代」と呼ばれる歴史認識さえも、否定していたのである。
シーア派にくみしない人たちは多数派で党派性をもたず、アリーをふくむ四代のカリフを、ウマイヤ朝のカリフと同じように認めた。
彼らのカリフ選出の考え方は、ムハンマドのようなクライシュ族の成人男性候補者の選挙か、前任者の指名で決められるとし、後継者の条件を、預言者の血筋やコーランを理解する特別な資質とはみなさなかった。
これらの人たちは、コーランを正しく理解する知識の源として、ムハンマドの言行(スンニ)を重んじ、その収集に努めたのでスンニ派と呼ばれるようになったという。
シリアのダマスカスに都をかまえたウマイヤ朝の初代カリフ、ムアーウイアをカリフとして認めなかったシーア派は、アリーの長男ハッサンに第二代のイマームの望みをかけたが、カリフの位放棄の代償にムアーウイアから莫大な金を受け取ったハッサンは、メディナに隠棲してしまったという。
シーア派の伝承では、幾人もの妻を娶り、大勢の子供を残したハッサンは、ムアーウイアに糸を引かれた妻の一人に毒を盛られて命を落としたとある。
敵対する勢力からの陰謀と内部の謀反はいつの世にもある人間ドラマだ。
当時のシーア派の拠点は、アリーが居をかまえたことがある都市クーファにあり、ダマスカスを拠点に勢力拡大するウマイヤ朝からの自立をめざした。
六八〇年、ムアーウイアの死をカリフ位奪還の機とみたクーファのシーア派は、第三代イマームに就いてメディナにいたフセインに再三、密使を送り、ウマイヤ朝への反旗を翻すように要請した。
しかし、ムアーウイアの指名で第二代カリフになっていた息子のヤズィードは、この動きを察知し、クーファのシーア派決起を封じ、四千の兵士をクーファの北西七○キロ、ユーフラテス川の西二○キロにあるカルバラにさし向けた。
カルバラの荒野に到着したフセインの軍勢は、水補給源のユーフラテス川への道を敵軍に遮断され、渇きに苦しみながら惨敗し、フセインとその軍勢は灼熱の砂漠に果てた。
フセインの首は、ヤズィードが待つダマスカスへ送られ、遺体は仲間や兵士の遺体と一緒にカルバラの地に埋葬されたという。
ヘッドライトの先を凝視しながら、戦いの有様を話すユーセフの口調は、壇ノ浦の平家最後のシーンを口演する講談師のような熱を帯びていた。
宗教的史実は、戦記物としても有名なのだろう。
(続く)