オバマ米国大統領の「ヒロシマ訪問」

                松本 文郎

 

 オバマ米国大統領の「ヒロシマ訪問」が実現した。

「G7伊勢志摩サミット」終了後すぐ広島を訪れたオバマ大統領は、原爆記念館から原爆死没者慰霊碑へ向かい、花輪を手向け、真摯に黙とうを捧げた。

 来日前のNHK単独インタビューで短いと予見されたスピーチは、思いがけず17分にも及び、極めて格調高い内容だった。

「71年前、明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまいました。閃光と炎の壁が都市を破壊し、人類が自らを破滅させる手段を手にしたことを示したのです」

 私は、この〝ピカドン〟の前年に父の実家がある福山へ疎開して被曝を免れたが、比治山下の皆実町小学校5年生のクラスメイトに犠牲者はいただろう。

 運よく休暇で広島鉄道管理局から帰省していた父は、2日後に広島市内の職場へ戻り、死体が道路や河川にあふれる地獄絵の中を歩き、原爆手帳をもつ身となった。

「なぜ私たちはここ、広島を訪れるのか。私たちはそう遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力に思いをはせるために訪れるのです」

 1945年8月6日(月)8時15分、約35万人が暮らしていた広島市に、米国は原爆を投下し、焦土と化したなかで、約14万人(その年末までに)が亡くなり、慰霊碑に納められている「原爆死没者名簿」の記載数は29万7684人(2015年8月6日)となった。(3日後の長崎では、約24万人の市民の内の約7万人が無念の死を遂げた)

「いつかヒバクシャ(被曝者)の声が聞けなくなる日がくるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を薄れさせてはなりません。その記憶は、私たちが自己満足と戦うことを可能にします。それは私たちの道徳的な想像力を刺激し、変化を可能にします」

 スピーチを終えて足早に歩み寄ったのは、2人のヒバクシャ代表が待つ場所だった。

 日本被団協・坪井 直代表委員(91)はオバマ大統領が差し出した手を握りしめたまま、その目を見つめて熱心に語りかけ、オバマ大統領は、杖を手にした白髪老人の言葉にうなづき、悲しげな表情で坪井さんを抱え、その背中をさすった。

 被曝者で歴史研究家の森重昭さん(79)は、被曝死した米兵捕虜12人を調査して、米国人家族と交流してきたが、「自分の言葉でお礼を言いたくても、緊張のあまり言葉に詰まり、体がふるえて涙が頬を伝いました。その瞬間、オバマさんに抱きしめられて、思いがけないハグとなりました」と述べた。

修学旅行生に被曝体験を語ってきた坪井さんは、現職米国大統領の初めての広島訪問について、「例えようのない、じわっとくるうれしさがある。人類社会の戦争の歴史を説き起こし、戦争や核兵器のない世界への信念を述べられたことに感動した」と、インタビューの記者にその想い伝えていた。

 13歳で被曝し〝原爆乙女〟と呼ばれた笹森恵子さん(83)は、「緊張よりも、懐かしい人を待っているような、うれしい気持ちです。もう、来ていただいたこと自体が、ものすごくうれしいから…」

 4歳で被曝した女性は、「恨みも何もないが、とにかく戦争や核兵器を使うことをやってもらいたくない。核がなくなりますように。幸せな世界になりますように、それだけです」と話した。

 

オバマ大統領は就任後間もない2009年4月、米国とEUの初の首脳会議で訪れたチェコ・プラハのフラチャニ広場で、核廃絶の具体的目標を示した演説をした。

 核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として行動する道義的責任があるとして、米国が先頭に立ち、〝核兵器のない世界の平和と安全を追及する決意〟を明言したこの演説と、「核なき世界」に向けた国際社会への働きかけが評価されたオバマ氏は、同年10月、ノーベル平和賞を受賞した。

 ノーベル賞委員会から通知を受け、受賞への驚きを表明したオバマ氏は、〝行動を求める声〟として受けとめるとの声明を出した。

「(前略)。正直なところ、この賞によって顕彰された多くの変革者に伍する価値が自分にあるとは思わない。(中略)。21世紀の共通課題に対処せよと全国家に求める声としてお受けするが、こうした諸課題は、1指導者や1国家によっては解決され得ない。だからこそわが政権は、われわれが求める世界に対する責任を全国家が負わねばならないという、新たな関与の時代を確立しようとしている」

 この声明には、米国によるヒロシマ・ナガサキの原爆投下、第2次世界大戦後の東西冷戦下の朝鮮・ベトナム戦争への介入、米ソ核軍拡競争、アフガン・イラク侵攻など、現代米国が関与した戦争の歴史に対するオバマ大統領の苦い思いと、混迷を深める国際社会への「チェンジ」に取り組む決意がこめられていたのではないか。

 

朝鮮戦争勃発の1953年に、アイゼンハワー大統領の下で国務長官になったジョン・フォスター・ダレスは、反共主義の積極的スタンスを主張して、核兵器を含むより広範な報復攻撃を示唆することで、共産主義勢力の拡張主義的で攻撃的な勢力を阻止する戦略(のちに、「大量報復作戦」として知られる)について、米外交問題評議会で演説した。

 この評議会の前身は第1次世界大戦後のパリ講和会議に遡り、ウイルソン大統領は、「適切な国際機関があれば、国際平和を実現する際の大きな助けになる」という信念を胸に、米国人だけでなく、世界の人々の希望でもあった公正かつ永続的な世界平和を実現すべく、パリ講和会議へと向かった。

 プリンストン大学学長を務めたウイルソンの理想主義的外交は、〝民族自決〟〝秘密外交の廃止〟等を盛り込んだ「14箇条」に代表されるが、ヨーロッパの現実主義的政治家によって、ほぼ押さえ込まれていた。

 この現実を前に、ベルサイユ会議がいかなる結末を迎えるにしても、外交問題の理解促進を目的とする民間研究機関の必要があるとして設立されたのが、この米外交問題評議会である。

最初のメンバー(75人)はパリ講和会議に参加して事実関係をまとめ、ウイルソン大統領に適切なアドバイスをした大学教授中心の国際問題専門家と研究者たちと公益利益に関心をもつ国際的ビジネスマンや銀行家たちで、本格的な〝外交論文〟を掲載する季刊誌「フォーリン・アフェアーズ」を発行して今日に至る。

 米外交問題評議会は、政府の内外を問わず、当時の中核的問題の核兵器と国内政策の双方において、アイゼンハワー政権に批判的な「政策プロジェクト」を実施していたが、ダレスの「戦略」をめぐる研究プロジェクトの責任者に抜擢されたのがヘンリー・キッシンジャーで、米国外交における重要人物としてのデビューだった。

 彼の著書『核兵器と外交政策』の分析が優れていることは多くに認められたが、「米国は、限定的な核戦争能力とそれを使う意思をもつべきだとする彼の大胆な結論に関しては、次第に、疑問視されるようになった。

 その出版から6年後、評議会の研究に基づいた、西ヨーロッパの安全保障を論じた著作ではそれまでの立場を変え、核戦争がひとたび始まれば、攻撃が中途で停止される可能性は現実には存在せず、「限定的な核戦争」などありえないと結論した。

 

 慰霊碑と原爆ドームを背に誠意にみちたスピーチをしたオバマ大統領の胸中に、「核兵器のない世界」の実現が一向に進展しないことへの忸怩たる思いがあったのではないか。

ノーベル平和賞受賞後、世界の人々の期待に応え、世界の核の大部分を持つ米・ロの新戦略「核削減条約」(新START)を発効させたものの、米ロ間には、ウクライナ情勢での関係悪化や欧州に配備するミサイル防衛(MD)をめぐる対立が深刻で、2国間条約の今後は不透明なままだ。

「アメリカは核兵器を使用した唯一の核保有国として道義的責任があり、核兵器のない、平和で安全な世界を目指すことを誓う」と宣言した〝核超大国〟リーダーのオバマ大統領にとって、「ヒロシマ訪問」は、8年前のアピールを再び世界の人びとに訴える、またとない機会となったのではないか。

「核兵器のない世界」の実現をめぐる国際社会の動きには二つの流れ、「核拡散防止条約」(NPT)と「核兵器禁止条約」(NWC)がある。

 前者は、核兵器保有を国連安保理常任理事5ケ国(米、ロ、英、仏、中)に限りそれ以外の国への拡散を防ぐのが主な目的。後者は、国際NGOが提唱した構想で、核保有国を含めたすべての国の核兵器の保有や使用などを禁止し、「完全な廃絶」をめざすというもの。

 オバマ大統領の「ヒロシマ訪問」発表時、スイス・ジュネーブの国連で、核兵器の禁止をめざす具体的な議論が作業部会で開かれていたが、NPTの膠着化状況に業を煮やしたNWC加盟各国(非核保有国)の代表や日本人関係者のコメントは、

「オバマ大統領のプラハ演説に賛同して、核兵器廃絶が可能なことを主張し続けるべきだ」(ジャマイカ)

「核保有国が参加していないのは遺憾だ。対話に参加しないのならば、彼ら抜きで核兵器の法的禁止を進めるべきだ」(メキシコ)「核兵器の使用禁止だけでは不十分だ。保有も禁止すべきだ」(オーストリア)

「我が国の周辺は核兵器の脅威を経験している。これ以上、核兵器による犠牲者を出してはならない」

(パラオ)

広島で被曝したサーロー・節子さんは、「私たち被曝者はオバマ大統領のプラハの演説に心を動かされたが、道義的責任やリーダーシップはどこにいったのか」。ICAN国際運営委員の川崎哲さんは、「核兵器の全面禁止条約が必要だ。(核兵器を)もっている国が核軍縮をしっかりやらなくても罰則もない。核軍縮のペースはとても遅く、核兵器がない世界には至らないだろう」とNPTのもどかしさを述べた。

川崎さんはNGOで核兵器廃絶に20年近く取り組んできた人で、オバマ大統領が、「ヒロシマ訪問」を契機として、任期中に、核軍縮の具体的措置をとることを強く求めていた。

 これらは、NHK( BS1)「『核兵器のない世界』は実現できるか」で紹介されたコメントだが、日本の軍縮大使・佐野利男氏は、「核軍縮について話し合うには、北東アジアの安全保障環境を考慮しなければならない」と段階的削減を主張して、即時禁止に慎重な国も少なくなかった。

 2014年に開催された『核兵器の人道的影響に関する国際会議』での佐野氏は、「核兵器の爆発時には、対応できないほどの悲惨な結果を招く」との見方について、「悲観的過ぎる。少し前向きにみてほしい」と発言し、反核団体などから、「核爆発の影響が壊滅的なことは日本が一番よく知っているはず」と疑問の声が上がり、議長総括で、「核爆発が起これば、国際社会が対応でいないほどの悲惨な結果を招く」となった。

 唯一の被曝国日本の軍縮大使の発言に、オランダのNGO「PAX」のスージー・スナイダーさん(当時38)は、「核兵器を使用された場合を前向きに考えるなんてできない。使用を認めることになる」と反発。中村桂子さん(長崎大准教授 核兵器廃絶研究センター 当時)は、「オスロ、メキシコでの国際会議で積み上げた前提をひっくり返している。本心で言っているとしたら、被曝の実相を理解していないということになる」と話している。

 2015年の国連総会決議『核兵器のない世界のための倫理的義務』の「核兵器に関する議論、決定、行動は、核兵器が引き起こす筆舌に尽くしがたい苦しみと容認できない被害から導かれるべきだ」が、国際世論の多数となっている。

 オバマ大統領が、〝核ミサイル発射ボタン〟携行のジレンマを抱えながら、「1945年8月6日の朝の記憶を薄れさせてはなりません。その記憶は、私たちが自己満足と戦うことを可能にします。それは私たちの道徳的な想像力を刺激し、変化を可能にします」と訴えた誠意を受けとめ、任期内だけでなく退任後も、「核兵器のない世界の実現」に〝勇気ある行動〟を続けてほしいと願うばかりだ。

 私たちは、オバマ大統領の「ヒロシマ訪問」実現に尽力した関係者(岸田外務大臣、ケリー国務長官、ケネディ駐日大使ほか)を含め、〝唯一の被爆国〟の国民として、「NPT」と「NWC」の〝架け橋〟になる行動を求められている。 

                                                                (6月7日)


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2016/06/09 02:13 2016/06/09 02:13
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