アラブと私
イラク3千キロの旅(107)
(62/ブログは84以下同じ)キャブレターのフィルター・クリーニングで、エンジンの調子はよさそう。サイドブレーキを緩めながら、「これからアッシリア帝国の最盛期の城壁都市ニネヴェに向かいます。センナケリブ王のニネヴェ遷都やバニパル王の広大な版図と栄華についてお話した(52参照)ので、都城ニネヴェの壮大なイメージはお持ちでしょう」「2千年ものアッシリア帝国の情景を、現地に立って妄想を逞しくするのが楽しみだナ」
車は、昨日モースルに入ったときの大通りに出た。「モースルに着いてここを走ったとき、10年前の軍事政権内の叛乱鎮圧に、カセム首相による空爆で数千人の血が流れた道と聞いたが、モースルの少数民族のクルド・アシリア人の末裔は、数十年前までは大量殺戮の対象にされたんだね」「これから向かう遺跡のある地域はクルド人居住者が多く、こちら側のモースル市と近傍には圧倒的にスンナ派アラブ人が居住しています」「イラクの石油をめぐるスンナ派バース党政権とクルド族の間の紛争には、歴史・地勢的な背景がありそうだね」
2つの地域を結ぶ橋を渡った私たちは、ニネヴェ遺跡の丘をめざして走った。歴史に刻まれた残忍さで版図を拡大し、何代もかけてニネヴェに城壁都市を拡大建設したアッシリア帝国の武人諸王は、他方で、古典に憧れ美を愛し、それらを子孫に伝えようとした。紀元前7世紀、これから訪れるクンジュクの丘にバニパル王が建設した図書館から発掘された遺物に、粘土板に書かれた王室の記録、年代記、神話、宗教文書、契約書、王室による許可書、法令、手紙、行政文書などが発見された。
図書館を設立しバニパル王は、バビロンの王を打ち破ってアッシリア帝国の最後から2番目の王位についたが、その帝国版図はかつてどの帝王も治めたことのない広大さを誇り、イラン高原から小アジアやナイルの谷にまで及んだという。「間もなく着く遺跡には、クンジュクとネビ・ユヌス2つの丘があります。この辺りには、紀元前7千年から人が居住を始めた古い土地で、バグダッド工科大学の古代史の講義では、新石器時代の痕跡があると学びました」「メソポタミア文明はチグリス・ユーフラテス両河に囲まれた三日月地帯に栄えたとされるけど、ここ北の大地の方がずっと古いんだね」
行く手の小高い丘にイスラム教寺院のミナレットが見えてきた。「あれがネビ・ユヌスの丘です。尖塔は、『ヨナ書』の預言者ヨナの墳墓に建てられ石造の美しいモスクで、城壁で囲まれています」「その北にある丘がクンジュクなの?」「あそこが、アッシリアの王城跡で、南西に、最初に帝都を建設した王のセンナケリブ宮殿、北に、アッシュール・バニパル宮殿があったのです」
ユーセフの説明では、「並び立つものなき巨大な宮殿」と王が呼んだセンナケブリ宮殿の建設に9年を要し、庭園に水を引く何マイルもの運河をつくり、アルキメデスの回転翼で宮廷内に水を引きこんだという。これはまるで、バビロンの空中庭園のようだ。「バビロン」は、紀元前6百年代の新バビロニア王国の首都で、ネブカドネザル2世大王の最盛期の繁栄のなかで建設された由来を(19)の末尾で記述。
ユーセフが車をとめたのは二つの丘のパノラマをかなり近くに展望する広い荒野の堤だった。所どころ草木が生えているだけで、淡い褐色のひろがりの野原を延々と囲んでいる堤が城壁跡という。「チーフ。ニネヴェは、ごらんのような荒野と小高い丘の連なりの遺跡です。バグダッドで仕事している工科大学時代の友人の話では、バース党政権は伝統的な文化の継承や遺跡の調査・復旧に力をいれるそうですから、10年もすれば、クンジュクの丘の王城跡に、門、城壁、宮殿、図書館、ひょっとして空中庭園などが再現するかもしれません。ここからはひたすら車を走らせますので、ランドスケープをアタマに刻んで、最盛期のニネヴェを想像しながらバグダッドへ戻りましょう」「OK。崩れた日干し煉瓦の堆積を見てガッカリするよりその方がいいと思うよ。ところで、モースルにいたキミはこの遺跡を訪れたことはあるのかい」「ナビ・ユニスには、モースルで仕事をしたころの巡礼月の祭日に訪れました。日当たりのいい丘の斜面に腰かけ、遠くまで広がる荒野、眼下のチグリス、川向うのモースルの街など眺めていると、周りに多勢の人が家族づれでやってきました。つつましく見える女性の黒いアバイヤ(外衣)が風にあおられ、朱や金色の装飾がのぞいた艶やかさにドキッとしたのを憶えています」
モスレムの聖地ナビ・ユニスにはたくさんの墓があるから、巡礼月の祭日は、日本のお盆やお彼岸のように家族で墓参りをするのかと想像した。
二つの丘のパノラマを眺めて妄想にふけった私が、「そろそろ出発しましょうか」とユーセフに促され、ふと見下ろした堤の先に、アネモネの一群が咲いていた。
(63/85)「ユーセフ。あそこにアネモネが咲いてるよ。アハラムへのニネヴェの土産に摘み採りたいけど、バグダッドまで保つだろうか」「チーフ。摘むのはよしたほうがいいです。萎れるだけでなく、この花にはアッシリア王の娘スミュルナにまつわるコワイ伝説があって、アハラムも知ってるかもしれませんからネ」「そんな伝説があるなんて! 摘むのはよすから、バグダッドへの車の中でそれを聞かせてくれないか」
ニネヴェの遺跡を見はるかす堤に咲くアネモネにどんな伝説があるのか。クンジュクとネビ・ユヌスの丘を見納めて、トヨペットクラウンの助手席に座った。「じゃ出発しますよ」「エンジンの調子はよさそうだから3時過ぎにはバグダッドへ着けそうだね」「途中の町でトイレ休憩をしながらでも大丈夫です」
道中、ユーセフとしゃべる時間はいっぱいあるが、アハラム父娘を市内の有名クラブへ招待してあるので、昨晩の睡眠不足をカバーする居眠りもしておきたい。ユーセフが語りはじめた興味深い伝説の概略は以下である。
アッシリア王の家系は代々、愛と美の女神アプロディーテを信仰していたが、王女スミュルナが女神の祭祀を怠り、激怒したアプロディーテは、王女が実の父親に恋するように呪いをかけた。實父を愛し、思い悩んだ王女は、乳母に気持ちを打ち明け、彼女の手引きで一夜を共にしたが、明かりの下でわが娘と知った王は怒り、殺そうと追いかけた。王女は逃げのび、彼女を哀れに思った神が没薬(スミュルナ)の木に変えた。その幹の中で育まれて生まれ落ちたのがアドーニスという。アプロディーテはアドーニスの美しさに惹かれ、自分の庇護下においたが、アドーニスは狩猟の最中に野猪の牙にかかって死ぬ。女神は嘆き悲しみ、自らの血を彼が倒れた大地に注ぎ、芽生えたのがアネモネだという。
アッシリア帝国全盛期のニネヴェの遺跡を立ち去ろうとして、たまたま見つけたアネモネに、こんな伝説があるとは全くのオドロキだった。「アッシリア遺跡の地にそんな伝説の花を見たのはよい思い出になるけど、土木エンジニアのキミがいろんなことを知っているのには感心するよ」「そう云ってくださるのはうれしいです。少年のころからギリシャ神話や国の歴史に関わる説話を読むのが好きでしたから」
クンジュクの丘にバニパル王が建てた図書館へ津々浦々から集められた粘土板文書に、ホメイロスの2大傑作もあり、アッシリアの王女とアネモネの花との関係がユーセフの語った説話としてこの地に伝った可能性もあるのではないか。
ギリシャ神話のアプロディーテは、オリンポス12神の1柱。美において誇り高い最高の美神とされるが、元来は、古代オリエントは小アジアの豊穣の植物神・植物を司る精霊・地母神とみられ、生殖と豊穣を司る春の女神でもあった。バニパル王が図書館に集めさせた大量の粘土板のギリシャ神話を読み、アラビアへまで逃げてきたフェニキア王家の王女の顛末を、アッシリア王家の物語に書き換えさせたのではないか。
アドーニスの名はアラブ民族のセム語が起源で、フェニキア神話の植物の神という。旧約聖書のアドナイと関係があるとされ、美少年の代名詞としても使われていて、ヘシオドス『神統記』のアプロディーテはクロノスが切り落としたウーラノスの男性器にまとわりついた泡(アプロス)から生まれたとされ、西風が彼女に魅せられて運んだキプロス島に上陸した時、アプロディーテから美と愛が生まれたとある。美と愛は、エロスと深いかかわりがあることを物語るすばらしい神話。
ニネヴェ遺跡でアネモネを見つけ、イラクの説話にギリシャ神話が関わっているのをユーセフに教えてもらえたのも、アネモネの花の季節だからこそだ。
「メソポタミアの古代史には、互いに興亡を重ねたペルシャやギリシャ・ローマの文明がおおいに影響していると思いますね」「そうした歴史があったから、中世イスラムが、ギリシャ・ローマの文明をヨーロッパへ伝達して、人間社会の近代文明が今にあるという立派な役割を果せたのさ」「クリスチャンの私でも、そのことに誇りをもちます」「世界の国々に興亡の歴史があるけど、ユーラシア大陸の東端の島国の日本では、建国以来、外からの侵略もなく、中国・朝鮮半島を経て到来した異国文化を自国風土と伝統文化で咀嚼し、日本独自のものを構築してきたわけで、インドやペルシャ、ギリシャ・ローマの文化的恩恵を受けたことに感謝してるんだ」
モースル市街から遺跡に向かうとき通った橋に戻り、バグダッドへの幹線道路をひた走る車は、気合いの入ったエンジン音を響かせている。「もうすこし話をしてから居眠りさせてもらいたいので、運転の方を頼むよ」「昨夜はよく眠りましたから、いつでも後ろの席で横になってください」「ありがとう。だけど居眠りはこの助手席でいいよ」
膝下の床に置いたカセットデッキのスイッチを入れると、後ろの窓に並ぶ二つのポータブル・スピーカーからイラクのアラブ音楽が流れ出た。「1時間ちょっと走るとアッシュール遺跡ですが、モースルへ来るときは眠られていたので、その辺の風景はご覧になっていません。そこまでは話をしていませんか?」「うん、そうしよう。クルドの老人の横穴住居に祀られたドラゴンを見たとき、日本古代の神話の記録(古事記)と楔形文字に書かれたシュメルの洪水神話がそっくりと云った、あの話のつづきをしたいんだ」(41参照)省略。
(64)「シュメル神話の最大の特徴が『天地創造神話』で、その神々が、「天空神」ほか数百もいるとは、日本の『八百万の神々』に通じるね」「その八百万の神々について話してくださいませんか」
エンジンの調子が戻ったトヨペットクラウンを飛ばす真剣なユーセフ横顔を見て、日本の宗教の原点の「神道」について、知っているかぎりを伝えたくなった。「前にも話したけど、日本の神話の神々も、中東・オリエントの多神教的な神々のように、人間と同じ姿をした「人格神」がたくさんいるんだ。それらは人々に恩恵を与える守護神だけど、祟る一面もあってとても畏れられたんだ」「アネモネ伝説の女神アプロディーテと同じですね」「日本の宗教の原点とされる「神道」の神々は自然物や自然現象を畏れて神格化したものだよ。古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動植物や火、雨、風、雷の中に、神々しい何かを感じとったのさ」「人類の宗教心の始りはみんな同じですねえ。洞窟で戦々恐々と暮らした原始人が、言葉をもつ前から自然の脅威と恵みに対して感じたのが超越的な存在としての《神》です」
「そうだね。初めは一人の人間か、せいぜい家族にとっての神々だったが、群れや集落にとっての守護神になり、しだいに、強力な権力者の守護神になっていった」「自然は人間に恩恵をもたらし、時には危害を及ぼすので、これを、古代人は神々しい何かの怒り(祟り」と感じて、怒りを鎮め、恵みを与えられるように祈り、崇敬するようになったのが、《神》と呼ばれるものですね」「四大文明の『メソポタミア文明』のシュメルの神々が中東・オリエントの最初の《神》で、やがて後代、ヘブライ人(ユダヤ・イスラエル人)の神・ヤハゥエを生み、さらには、キリスト教のイエス、イスラムのアッラーが生じ、どれも根っこは一つなんだね」「シュメルの自然神が唯一無二の《神》になっていく過程には、文明の発達と共《神》を守護神とした絶大な王権力もありましたね」「そして、旧約聖書の『天地創造』で、万物創造主・主宰者としての『全能の神』が出現した」「日本の『神道』の神々は、万物の創造主としての存在にならなかったのですか」「日本の民間信仰では、中国から渡来した仏教の仏と、自然を崇拝・信仰する原始宗教的な八百万の神々を一緒に祀ることが、明治の初めまでつづいていたんだよ」
少年のユーセフがメソポタミア・ギリシャ神話に親しんだように、「古事記」を読んでいた私は、八百万の神々を身近に感じていても、歴代の天皇が人間ではなく『現人神』(生きた神様)とは、子供心にも信じられなかった。ユーセフの熱心な問いに応えていると、戦争中に喧伝された、「神国日本」「現人神・天皇」「撃ちてしやまん鬼畜米英」等のプロパガンダが思い出された。「日本が第2次世界大戦で欧米列強(キリスト教国)と戦ったとき、1億の国民は、現人神の天皇統治の『神国日本』は絶対に敗けないと耳にタコができるほど吹きこまれたんだよ」「「日本の古代国家では仏教が国教だったのではないですか?」「国家安全の守護のために国分寺を各地に建てた奈良時代から、日本古来の神々と外来の仏教とを結びつけた『神仏習合』という信仰があったんだ」「それなのになぜ、神道を国教にする動きが生まれたのですか?」「徳川幕府の長い鎖国から目覚める契機となった、西洋列強からの開国要求がきっかけだった。〝開国〟か〝攘夷〟かで、国論が2分した明治維新前後の風雲急を告げる機運の中の攘夷派は、儒教・仏教の影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想を抱き、平田篤胤の復古神道を、欧米列強に拮抗する頼りにしたんだ」「復古神道では、天皇をキリストのような神の子としているのですか?」
次々に問いかけるユーセフの好奇心に、戦争中の「現人神」の胡散臭さに辟易していた私もたじたじだった。「クリスチャンの私は、キリストを神だとは信じていませんが、戦争中の日本の人たちは天皇を神と信じていたのですか?」「微妙だね。優れた近代科学技術・社会制度をもつ欧米のキリスト信者が、ローマ帝国の権力に殺されたキリストを神の子と信じたのと同じような人たちもいたが、『天皇機関説』の学者と同じ考えの人も少なくなかったんだ」「天皇は、自分を『現人神』と思っていたのでしょうか?」「さあね。無謀な戦争の敗戦を迎えた時、天皇から藪から棒に、『朕は人間である』と告げられた国民は、ビックリ仰天したんだ」
一息つこうと、疾走する車の左右を見わたしている私にユーセフが告げた。
「昼までに小さな町バイに着きますから、トイレ休憩をしてなにか食べましょう。そこからアハラムが待つバグダッドへはノン・ストップですよ!」
(65)は、「天皇機関説」と敗戦時の「鈴木内閣」(鈴木貫太郎首相は、『エコノミック・ヒットマン』を届けてくれた鈴木重信氏の母方)」について長い「横道」の記述。(省略)
(66前半)バグダッドへ向かう車中では、ユーセフの先祖・セム族(アラブ起源)が征服したシュメル人の「天地創造神話」の神々が、「ヤハゥエ」「キリスト」「アッラー」など同根の「唯一神」に変遷した話となり、ユーセフが訊ねた日本の「天地創造神話」については、「古事記」の国生み神話がシュメル神話や東南アジアの同種の神話に類似していると話したが、天皇をキリストのような「神」と信じていたのかときかれたのを思い出し、少年時代に体験した天皇(「現人神」)の写真を拝まされた苦い想いが蘇り、ユーセフとの会話から脱線し、天皇機関説事件や昭和天皇の信任が厚かった鈴木貫太郎のことにまで、つい筆が走ってしまった。
それは本誌に2度も書いた「安倍政権の行方」のイヤな気分の延長でもあった。明治維新で近代国家の道を歩きはじめた日本は、古代社会の権力構造の頂点に天皇を据えた「日本書紀」から千数百年を経た明治憲法の第1条で、「万世1系の天皇が大日本帝国を統治する」とし、天皇家の永続性を統治者としての正統性に結びつけ、「国体」と称したのである。
安倍首相自身がまさか、昭和軍国主義を牽引した連中が天皇を「現人神」と祭りあげて、その権威を利用し、国民を無謀な総力戦に巻き込んだ二の舞を演じるつもりとは思いたくないが、妙な取り巻きの言動や自民党の憲法改正案に天皇主権もどきの時代錯誤もはなはだしい考えがあると仄聞すると、居ても立ってもいられない。
昭和天皇の意に反して天皇独裁国家を演出した者らと、北朝鮮の金王朝独裁を支えている者らは似た者同士ではないか。
太平洋戦争の戦況が不利になると、「神国日本」には「神風」が吹いて鬼畜米英に勝つなどとの奇天烈な呪文が唱えられたが、安倍首相のお友達とされるNHK経営委員(女性)の言動に通じるものがある。
中国の強硬な海洋進出がもたらす緊張関係に拮抗するかのように、集団的自衛権・武器輸出緩和・無人機配備などを矢つぎばやにうち出す安倍政権だが、世界第2の経済大国になったばかりの中国は、国内にさまざまな矛盾を抱えたままに「中2病」の様相を呈しているわけで、日本だけがむやみに居丈高になって、燃えあがる緊張関係に油を注がなくても、ASEAN・欧米諸国の反発や批難を受けて強硬路線を変えざるをえないのではないか。
中国政府が主導する反日運動が、国内問題への国民の関心を逸らす狙いがあるのは否めないが、東京都知事の尖閣諸島買い上げ発言から国有化に及んだ尖閣問題に加え、沖縄の米国基地へ強硬配備されたオスプレイが中国大陸まで航続距離を有すること、それを搭載できる空母の建造・配備等、日本が中国をむやみに刺激している事実がある。
集団的自衛権の行使範囲を無限定にする動きは、かつてアジア進出の欧米列強への対抗を理由に大陸に侵攻した関東軍や自由と民主主義を「錦の御旗」に他国への武力介入をしてきた米国の二の舞になりはしないか。
「ユーセフ。シュメル神話と古事記の話が天皇家の由来の話にまでなったが、キリストを『「現人神』と信じないクリスチャンのキミに、天皇をキリストのような《神》と信じた昭和の日本人をとうてい理解できないだろうね」「ええ。進化論を知り、人間が月の石を持ち帰った今では、神話の世界と現実をごちゃまぜにするわけにはいきませんよ」「ムハンマドが、キリスト像の偶像崇拝を排したのは、さすがだよ」
「多神教のシュメル人の神々が1神教のヤハゥエ・キリスト・アッラーへと進化したのでしょう」「西洋近代の科学技術を学んだキミは、イスラム教のバース党政権と宗教排斥の社会主義のソ連がどんな技術協力関係を結ぶのか気にならないか」「ホテルで昨晩、チーフが話してくださったことを考えると、ソ連も米国もイラクの石油がほしいだけかもしれません。バース党とソ連が同じ社会主義政権でも油断できない気持ちです」「そこまで言うこともないだろうけど」「大阪万国博のお話では、ソ連より米国への関心が圧倒的だったようですし。機会が与えられればアメリカの方を訪れたいですね」「クウエートのプロジェクトが終わったら、それをめざしてみるといいかもね」「でもそれは見果てぬ夢でしょう。クウエートで一緒に住んでいる姉にいつまでも家事の世話をしてもらうわけにいきませんから、ワイフを見つけるのが先ですね」「アハラムなんか、とてもいいんじゃない?」
120キロで飛ばしている真剣な横顔をチラと見て、ユーセフの反応を待った。「ワルクないですね。スリムな美人だし、父親は建設会社の主ですからね。でも、アハラムはなかなかのしっかり者ですから、私なぞ眼中にないでしょうよ」「当たって砕けろというから、父親と一緒に招待している今晩のクラブで当たってみたら?」
少しでも早くバグダッドへ着きたい気分になってきた。「アッシュール遺跡が見える辺りまで眠らないつもりだったけど、もう眠るから、バイジの町が近くなったら起こしてくれないか。このまま運転してもらっていいのかな」
「大丈夫ですから、今晩のためにもよく眠っておいてください」
目をつむる前に辺りを見回すと、人家や畑などはなく、茫漠とした砂漠の広がりの彼方に丘陵が連なっているだけだった。
(続く)