アラブと私
イラク3千キロの旅(109)
(69後半/ブログでは91) 「いえいえ、そういうつもりでお訊ねしたのではありません。それぞれに個性的でよろしいんじゃないですか」「アハラムとジャミーラは私に似て外へ出たがりますが、ハディージャは、家にいて勉強するのが好きなようです」
「高校生の妹は、大学に進んで石油化学を専攻したいと言ってます。勉強が好きでない私は大学に行きませんでしたが・・・」とアハラム。「すごいですね。きっと、石油技術を身につけてイラクの近代化に役立ちたいと思われてるのではないですか」「そうしてくれると、いいのですが」「1昨年、ハクザール博士の紹介で会ったテヘラン大学の女子学生Nさんも、男子にまけないようにガンバルと言っていました」
社長は急に声をひそめて、「イランといえば、20年前のモサディク首相によるイランの石油国有化のあと、パーレビ国王は政権転覆と権力奪還に成功し、イラン石油を支配していたイギリスからアメリカへ鞍替えしましたが、いま石油国有化を模索するバース党政権の後ろ盾にソ連がいるので、なりゆきが心配ですよ」
思いがけない話がさらに続く。「社会主義のバース党政権はソ連を頼りにしていますが、サウジアラビアのファイサル国王の右腕のヤマニ石油相は、“国有化という伝家の宝刀”をイラクに抜かせず、OPECとメジャーとの石油戦争を避けた二人三脚をめざしています」「ヤマニ石油相はなかなかヤリ手ですね。アラブの石油資源の経済価値を独占してきたメジャーから奪還しようと、ガンバッテいるではないですか」
「彼は自由主義経済下の石油戦略の巧者ですが、イランのモサディク政権やバース党のような社会主義的な政策とは相いれないと思います」
ディスコクラブへ招いた客人との会話としては、いかがなものかと思ったが、新聞記者マリクとは違う世代と立場の経営者から聞きたくて、「バース党をどう見ているのですか。さしつかえなければ、お話をうかがいたいです」「甥っ子から聞かれたかもしれませんが、“バース”は、アラビア語で“復興”の意味です。イギリスなどが線引きしたアラブ諸国を解体してアラブ人による統一国家『アラブ連合』建国をめざすアラブ社会主義復興党の略称が、『バース党』なんです」「その『アラブ連合』は、亡きナセルが構想したのと同じでしょうか」
「根は一つだと思います。その起源は20世紀初頭で、ミシェル・アフラクというシリアの思想家の基本的な政治信条を掲げるインテリと少壮将校らの限られた集団でした」「まだイラク王国のころですね」「ええ、バース党の第1回党大会はダマスカスで開かれ、1950年代後半はシリアを本拠にイラク、レバノン、ヨルダン、イエメンに支部がおかれました。でも、理想主義的ロマンティストのナセルは、アフラクの政治思想であるアラブ諸国の解体実現に性急で、エジプト以外の国との間に大きな温度差がありました」
バース党の歴史を話した建設会社社長の生真面目な一面に驚いたが、近くのテーブルにいる欧米人を気にした私は社長に顔を寄せ、小声で話を続けた。
「オスマン帝国や西欧列強に支配されたアラブ諸国のバラバラな存在の統一と、アラブ民族の永遠の使命を担うことを綱領に掲げたバース党の考えはよしとしても、自由主義陣営が支配的なこの地で、ソ連側に旗色を鮮明にするのは現実的とは思えません」「労働者階級に熱烈に支持されたナセルが、国内のインテリ層に人気がなかったのに通じるお話ですね」
「ソ連はナセルの汎アラブ主義を支援しましたが、エジプトとシリアのアラブ連合共和国は長続きしませんでした。2国以外のアラブ諸国でこの路線をとったのはリビア、チュニジア、モロッコでした」「汎アラブ主義のバース党の綱領は社会主義にアラブ民族主義が混ぜ合わさったもので、憲法に掲げた人民民主主義はソ連型の民主主義のように総書記が強い権限を持ち、宗教との関わりも曖昧なのでイスラム主義と摩擦を生んでいて、アラブ民族特有の問題もあるのです。膨大な数の部族から成るアラブ民族は、それぞれの利害の主張に走りやすく、近代的な国民国家として成熟するまでには多くの障害を乗り越えなければならないでしょう」
「かのアラビアのロレンスも、そんな述懐をしたようですね」「エジプト・シリアのアラブ連合共和国の建国間もなく、双方出身の官僚と軍人の間に権力闘争が生じた上、シリア出身の軍人によるクーデターが勃発してシリアは連合から離脱しました。さらに、イラク・シリア両バース党に熾烈な権力争いが起ったところにスンニ・シーア派の宗教間対立も加わりました」「スンニ派とシーア派の宗教的な対立では、一体、何が問題なのですか」「普通の暮らしにはほとんど問題はなく、政治的権力や経済的利害を巡る争いが宗教的対立の色彩を帯びて見えるだけと思っていますが」
「ご夫妻と娘さんたちの日常生活で問題が生じることはありませんか」「敬虔なモスレムでクルアーンの教えを守る妻は、自分の考えを私や娘たちに押し付けることはなく、あまりクルアーンに忠実でない私たちの行いに口出しはしません。ここへお連れする外国のお客さんたちからも、同じ質問をよくされます」「招待させていただいた場所ではどうかと心配でしたが、それを伺い気がラクになりました。ところで、ソ連の人らが来ているといけませんから大きな声では言えませんが、マリクには話しましたが、私たちは、敗戦直前のソ連参戦とシベリア抑留などのイヤな想い出があり、彼らには好感をもてないできました。明朗快活なアメリカに比べ、どことなく不気味なコワサを感じるのです」
「あなたの国が日露戦争で勝利した時、世界中は勿論ですが、アジアの小さな国が大国ロシアを負かしたので、祖父の世代が喝采した言い伝えがあります」「ロシア皇帝の大国を赤色革命で倒して生まれたソ連ですが、敗戦間際の参戦は、彼らが支配していた満州に日本が侵攻したことへの報復だけでなく、日露戦争の雪辱があったかもしれません」
(70)「ところで、明日は、クウエートに戻られるそうですね」と社長が訊ねた。「私たちのイドの休暇は明日で終わりです。午前中に国立イラク博物館を見て、バスラに向かう帰路の途中、カルバラ廟へ立ち寄るつもりです」
アハラムと話に興じていたユーセフが聞きつけて、私たちの会話に加わった。「バスラからバグダッドへの往路で、カルバラを通過する前後に、ムハンマドの血縁のフセインが惨殺された《カルバラの悲劇》(イスラム共同体がシーア派とスンニ派に分裂するきっかけの史実)をチーフに話したところ、帰り道で寄りたいと言われたのです」「そうなんです。もう夜中近い時刻でしたが、ユーセフの熱の入った語りが、日本の平家物語の壇ノ浦悲劇を熱演する講談師と重なりました」「このシーア派の聖地に埋葬する死体をルーフに載せたイランからの車を何台も追い抜いたことで、チーフが関心をもたれたのでしょう」
ユーセフが熱弁をふるった《カルバラの悲劇》は、(13)(14)に記した。「カルバラの戦い」から千4百年を経た1980年代、カルバラの名が戦争の作戦名に登場した。イラン・イラク戦争のイラン側《カルバラ作戦》の由来がこの「カルバラの戦い」とされるのは、シーア派原理主義が統治するイランらしい命名だ。また、9.11後のイラク戦争の米軍侵攻の際、カルバラ市一帯での会戦でイラク軍の強固な抵抗に遭った米軍が撤退を余儀なくした記憶もある。この地は、俗にいうパワースポットなのか?
2008年8月。治安回復が伝えられたカルバラのシーア派宗教行事に参加した3百万人以上の信者を狙ったテロで、多数の死傷者が出た。宗教間対立をねらうテロリストにとって巡礼団は格好の標的で、道路脇の自動車爆弾や女性の自爆によるとされた。これは、残留米軍やイラク政府軍を手こずらせた「イラク・イスラム国」の前身集団によるものか。
腕時計を見ると、8時半を過ぎていたが、9時までには30分ある。外国人との社交の場で政治と宗教を話題しない方がよいとはアタマにあったが、イスラムの国のイランとイラクを相次いで訪れたのもなにかの縁と想われ、シーア派の話をつづけことにした。
ディスコ音楽が鳴り響くフロアで踊る人たちも増えてきた。「アハラム! ボクたちはお父さんともう少し話がしたいので、ジャミーラと踊ってきたらどう?」その言葉を待っていたかのようなジャミーラは、アハラムの手をとってフロアに向かう。ほの暗いホール照明にミラーボールがふり撒く光がきらめき、群れ踊る人影が浮かび上がる中へ、ふたりは入っていった。
「シーア派の奥さんはご家族一緒にカルバラの聖廟に行かれたことはありますか」かなり立ち入った問かけを、社長の反応次第で中断するつもりだったが、「フセインの殉教祭(アーシュラー)の時期に何回か訪ねたことがあります。毎年のムハッラム月(イスラム・ヒジュラ歴の1番目の月)の最初の10日間、フセインの死を悼む行事があるのです」「その行事のことはテヘランで聞きました。黒い喪服で身を包んだ人々が、鎖の束を自分の胸や背に打ちつけ、声を合わせて行進するそうですね」「バグダッドの公道で見たことはありませんが、惨殺されたフセイン一家の痛みを味わい、シーア派の連帯を示すものとされます」
「スンニ派・シーア派の異なる家系出身のご夫妻の家庭の日常で、こうした行事が支障になることはないのでしょうか」「特にありません。あなたは、ラマダーン後のイド・アルの祝日の間にイラクの旅をされていますが、ラマダーンは、断食をする月の名前です」「ラマダーンは、断食を意味する言葉ではない?」「ええ、ラマダーンはヒジュラ歴(純粋な太陰暦で、太陽暦とは毎年11日ほど早まり、約33年で季節が一巡)の第9月、イスラム教徒の義務の一つとして日の出から日没までは飲食を絶つ、《サウム(断食)》月のことです」
なにごとも訊いてみるものだと想っていると、ユーセフが、「ラマダーン明け‘断食’の習慣は、ムハンマドが3百人ほどの信者とマッカの大規模な隊商を襲おうとしたとき、その阻止にやってきたマッカの部隊を返り討ちにできたことをアッラーの恩寵として記念したのが始まりです」「へえ、そうなんだ」「ムハンマドが勝利したのはヒジュラ歴624年の第9月でした」「クウエートを発つ前の晩、パキスタン人コックのハジが教えてくれたけど、断食の開始と終了を決めるのは長老らによる新月確認だってね」
「でも、雲やサンドストームなどで新月が確認できなかったら1日ずれます。夏は太陽が沈まない極地帯では、近隣国の日の出・日没時間に合わせる調整もあるそうです」「それにしても、大陰暦は大陰太陽暦のように約3年に1回の閏年の調整がないから、同じ季節が巡ってくるのに33年もかかるんだねえ」
歴史に強いユーセフが、「世界で最初に大陰太陽暦を用いたのは紀元前2千年前のメソポタミア文明ですが、イスラム教が広まってからの西アジアでは用いなかったようですね」「断食月のラマダーンが終わってから数日ですが、お宅では、第1月の殉教祭の10日間も断食されるのですか?」「いいえ、敬虔なモスレムの妻もラマダーンの断食行事を家族一緒にするだけです。断食といっても1ケ月の完全な絶食ではなく、日没から日の出までの間は飲食できるので、馴れてしまえばどうということはありません。お腹がすいている上にご馳走を親族が集まって楽しむ習慣なので、ラマダーンが来るのが待ち遠いくらいですね」
「日本を発つ前に注意されたのは、外国人や旅行者は断食の慣習を免除されるが、イスラムの神聖な慣習に敬意を表して人前での飲食は慎むことでした」「旅行者のほか、重労働者・妊婦・産婦・病人・乳幼児・断食できない高齢者なども免除される、柔軟性と巾のある慣習です」
「日本では僧や修験者が人間の欲望からの解脱を求めて相当長期間の断食(水は飲む)をすることがありますし、病気治療や美容が目的の短い断食をする人たちもいます」と言うと、ユーセフが、「宗教的な慣習と暮らしの関係は時代や社会と共に変化してきて、クウエートやサウジアラビアとイラクでは、《クルアーン》に基づく生活慣習の守られ方に、大きな差異がありますね」「宗教上の由来は知らないけど、極暑の砂漠生活でブタを食べないとか酒を飲まないというのは、ムスリムでなくても分かる、暮らしの知恵だね」
「サウジでは公開処刑がありますし、非イスラム教の外国人がラマダーン期間中、公共の場で飲食や喫煙をすれば国外追放だそうですよ」「立憲君主制度のクウエートでも、エレベーターの中でアバイヤ(全身を覆う黒い布)を着た女性に挨拶の声をかけた日本人が国外追放になった話を聞いたボクも気をつけなければね」
アラビア湾の海岸で近くを歩いていたアバイヤの若い女性に出会ったとき、海風に煽られた黒い布の下の真紅のミニスカートが見えても平然としていたことがあった。エレベーターのケースは婦人の老亭主が訴えたもので、女性自身の申告ではなかったのではなかろうか。
「バグダッドの未婚女性でアバイヤを着ているのは、《クルアーン》を厳守する家庭なのでしょうか」と訊ねると、「そうかもしれませんが。私の妻が外出する時にアバイヤを着けるのは自分でやっていることで、私が命じているのではありませんからね」「欧米では美人の若い奥さんを他人に見せたがるくらいですから、いずれこの慣習もなくなると思います」とユーセフ。「日本の家庭婦人が‘奥さん’と呼ばれるのは、妻は家の奥に居て家事に専念し、あまり人前には出ない方がよいとした夫が少なくなかったからなんですよ」
「今でもそうですか」と社長が訊ねた。「都会では限られていても、地方ではまだ少なくないでしょう。私の母は戦時中から進歩的女性でしたから、‘夫に3歩おくれて歩け’という風習を嫌がり、敗戦前の2人連れの外出は好きでなかったと聞きました」「私にとっての《クルアーン》は、自分らの生活を律する教えですから、王制の統治権力や宗教的権威で強制されるのは好みません。イラクでは、そうした考えが一般的になりつつありますよ」
「お宅のラマダーンは、日本の盆と正月のように、家族が集い、親族が寄り合って、ご馳走を食べて歓談する慣習に似ていると思います」「こうした場所へ妻を連れてきたくても遠慮するでしょうが、それは慣習からだけでなく、次女のように性格的なものもあるでしょう。アハラムやジャミーラが結婚すれば、欧米のライフスタイルで暮らすのはまちがいないと思います」
その二人の踊る姿を、ミラーボールの光が照らし出す人の群れに探した。
(71前半)アハラムとジャミーラは、踊っている20人ばかりの人の群れのなかで、すぐに見つかった。ベイルート風アレンジのディスコ音楽に乗ってゆったりと体を動かしているアハラムと向き合うジャミーラは、手足を激しく動かす奔放な踊りに陶酔しているように見える。「お嬢さんたちは楽しそうに踊ってますよ」「アハラムが踊ることはめったにありませんが、テレビ番組のレバノン音楽やインド映画のダンスシーンが好きなジャミーラは、踊りに目がありません」
目をこらすと、姉妹の周りに、50代くらいの外国人カップル数組とアラブ人の若いカップルや男同士のシルエットがうごめいている。踊っている娘らをみつめていた社長が、「明日、イラク国立博物館を訪ねられると仰いました。ロンドン、パリは勿論、エジプト、イランの国立博物館と比べても、収蔵品の種類や数量は多くないのですが、シュメール・古バビロニア・アッシリア・新バビロニア遺跡の出土品をご覧になって、遺構がほとんどないアッシリア帝国の都ニネヴェの往時を想像してくだされば幸いです」
「ええ。メソポタミア文明の建築・都市の想像図やウルのジッグラトなどの遺跡のことは、大学のオリエント建築史で学びましたが、風俗や暮らしにかかわる出土品が見れるのが楽しみです」「そんなご関心でご覧くだされば、うれしいです」「オリエントは、ラテン語の〈東〉で、古代ローマから見た東方世界を意味し、シリア、ヨルダン、イラク、イランなどの西アジアを中心に、トルコ、エジプトをふくむ地域です。オリエントや中国大陸の東の果ての日本も、〈日出る国〉と称されてきました」「日本の遺跡や遺物はどんな形で残されているのでしょうか」
「東京の国立博物館には、中国や朝鮮から渡来した品々や日本古来の文物がたくさん収蔵・展示されています。奈良の国立博物館や東大寺の正倉院には、多くの優れた仏像や聖武天皇が遺したシルクロードで運ばれたペルシャのガラスの水差し・楽器などの貴重な品々も収蔵・展示されています。都市や建築は、ギリシャ・ローマの石造とちがう木造ですから、自然災害や戦火による破壊と復興を重ねてきました」
「メソポタミアでは、石材、鉱物資源(金・銀・銅・鉛・鉄)、木材が少なかったので、《豊暁の三日月帯》の農耕・牧畜を背景にした都市文明が栄えて支配者・貴族層が現れると、水晶やメノウの装飾品や金、ラピスラズリ、象牙、トルコ石等の高価な財が交易で集まってきました。対価は、麦などの農産物や羊毛、肉、乳製品でした」「メソポタミアの諸王・帝国は強大化と版図拡張をめざし、その頂点に立ったのがアッシリア帝国だと、モースルでユーセフから聞きましたよ」「紀元前3200年頃のウルやウルクのシュメール人都市国家の交易・商取引記録の必要から楔形文字が始り、階級、職業、法律、文学、商業、度量衡など、現在の生活にある基本要素はすべて、早期メソポタミア文明で整えられました」
一呼吸したユーセフが続ける。「野生麦の改良・栽培や動物の家畜化が北シリアで行われて農耕・牧畜が始りましたが、年間降水量が2百ミリ以下では麦が育たず、灌漑の考案でユーフラテスから畑に水を引くことで農地面積は飛躍的に拡大しました。南メソポタミアの肥沃な三日月帯は灌漑も容易で、灌漑システムと運河の管理をふくめ、古・新バビロンの都市が生まれるきっかけになったのです」
「ユーセフはバグダッド郊外の灌漑用水路の改良工事でも、現場監督をしたんだよね」「ええ。その工事現場の地中6米から出た土器が実家に置いてあります。今夜、母親の所へ泊まりますので、明朝、イラクの旅の記念として差しあげたいと思います」「そんな貴重な遺物をもらって、いいのかい?」「私が持っているより、チーフのそばにある方がうれしいですから」「イラク国立博物館に展示されている土器と比べると、年代がわかるかもしれないよ」「そうですね。私が見た類似の土器は紀元前千数百年前のものでした」「思いもしないメソポタミアからのプレゼントに、ワクワクだよ。東京の国立博物館で見せびらかしたいくらいだよ」
はしゃぐ私にウインクをしたユーセフが、「チーフ! そろそろ9時ですよ」と囁いた。
「ジャミーラは夢中で踊ってるようだけど、大人の時間になると、アハラムに知らせてくるよ」踊る人たちの間を縫って姉妹の近くにいくと、アハラムはすぐに気づき、上気して汗ばんだ顔のジャミーラも、陶酔から覚めたようだ。3人で向き合って踊りながら、アハラムの傍に寄っていき、「9時になるから、お開きにしようか」「ええ。ジャミーラも十分踊って満足でしょう」
かかっていた曲が終わってホールがすこし暗くなった。ジャミーラが父親とユーセフがいるテーブルへ向うと、スローなムード音楽が流れた。ディスコで時おり仕組まれる‘チークタイム’である。私はためらうことなく、アハラムの手をとった。「1曲だけ踊ってくれませんか」「ええ、よろこんで」
離れて向き合っていた人たちが体を寄せ、抱き合って踊りはじめた。アハラムの背なかに掌をおいた瞬間、シフォンのブラウスの下のひきしまった筋肉がピクリとして、汗のしめりとほのかな温かさが指先に伝わる。
ミラーボールの断片的な光に浮かぶアハラムの顔に、魅惑的な微笑みが浮かんだ。そばで静かにゆれている初老の外国人カップルは、互いの腰に両手をあててチークしている。、思い切ってアハラムに頬を寄せると、しっとりして弾力のある頬が押しあてられた。鼻腔に感じる香りは、控えめな香水と髪の匂いが交りあっているようだ。
互いにからだをあずけて揺れていると、バスラからバグッダッドに着いた夜の夢で見た、千夜一夜物語の踊り子と再会した気分だった。サマーラの塔への遠出やホームパーティなど、思いがけない長い時間をアハラムと共にできたのは、忘れられない思い出となるだろう。アハラムがまたクウエイトへ来ることがあるとしても、会うことはないだろうと想いながらハグしたら、音楽がやんでホールが明るくなった。「アハラム! 一緒に踊れてうれしかったよ」
(続く)
イラク3千キロの旅(109)
(69後半/ブログでは91) 「いえいえ、そういうつもりでお訊ねしたのではありません。それぞれに個性的でよろしいんじゃないですか」「アハラムとジャミーラは私に似て外へ出たがりますが、ハディージャは、家にいて勉強するのが好きなようです」
「高校生の妹は、大学に進んで石油化学を専攻したいと言ってます。勉強が好きでない私は大学に行きませんでしたが・・・」とアハラム。「すごいですね。きっと、石油技術を身につけてイラクの近代化に役立ちたいと思われてるのではないですか」「そうしてくれると、いいのですが」「1昨年、ハクザール博士の紹介で会ったテヘラン大学の女子学生Nさんも、男子にまけないようにガンバルと言っていました」
社長は急に声をひそめて、「イランといえば、20年前のモサディク首相によるイランの石油国有化のあと、パーレビ国王は政権転覆と権力奪還に成功し、イラン石油を支配していたイギリスからアメリカへ鞍替えしましたが、いま石油国有化を模索するバース党政権の後ろ盾にソ連がいるので、なりゆきが心配ですよ」
思いがけない話がさらに続く。「社会主義のバース党政権はソ連を頼りにしていますが、サウジアラビアのファイサル国王の右腕のヤマニ石油相は、“国有化という伝家の宝刀”をイラクに抜かせず、OPECとメジャーとの石油戦争を避けた二人三脚をめざしています」「ヤマニ石油相はなかなかヤリ手ですね。アラブの石油資源の経済価値を独占してきたメジャーから奪還しようと、ガンバッテいるではないですか」
「彼は自由主義経済下の石油戦略の巧者ですが、イランのモサディク政権やバース党のような社会主義的な政策とは相いれないと思います」
ディスコクラブへ招いた客人との会話としては、いかがなものかと思ったが、新聞記者マリクとは違う世代と立場の経営者から聞きたくて、「バース党をどう見ているのですか。さしつかえなければ、お話をうかがいたいです」「甥っ子から聞かれたかもしれませんが、“バース”は、アラビア語で“復興”の意味です。イギリスなどが線引きしたアラブ諸国を解体してアラブ人による統一国家『アラブ連合』建国をめざすアラブ社会主義復興党の略称が、『バース党』なんです」「その『アラブ連合』は、亡きナセルが構想したのと同じでしょうか」
「根は一つだと思います。その起源は20世紀初頭で、ミシェル・アフラクというシリアの思想家の基本的な政治信条を掲げるインテリと少壮将校らの限られた集団でした」「まだイラク王国のころですね」「ええ、バース党の第1回党大会はダマスカスで開かれ、1950年代後半はシリアを本拠にイラク、レバノン、ヨルダン、イエメンに支部がおかれました。でも、理想主義的ロマンティストのナセルは、アフラクの政治思想であるアラブ諸国の解体実現に性急で、エジプト以外の国との間に大きな温度差がありました」
バース党の歴史を話した建設会社社長の生真面目な一面に驚いたが、近くのテーブルにいる欧米人を気にした私は社長に顔を寄せ、小声で話を続けた。
「オスマン帝国や西欧列強に支配されたアラブ諸国のバラバラな存在の統一と、アラブ民族の永遠の使命を担うことを綱領に掲げたバース党の考えはよしとしても、自由主義陣営が支配的なこの地で、ソ連側に旗色を鮮明にするのは現実的とは思えません」「労働者階級に熱烈に支持されたナセルが、国内のインテリ層に人気がなかったのに通じるお話ですね」
「ソ連はナセルの汎アラブ主義を支援しましたが、エジプトとシリアのアラブ連合共和国は長続きしませんでした。2国以外のアラブ諸国でこの路線をとったのはリビア、チュニジア、モロッコでした」「汎アラブ主義のバース党の綱領は社会主義にアラブ民族主義が混ぜ合わさったもので、憲法に掲げた人民民主主義はソ連型の民主主義のように総書記が強い権限を持ち、宗教との関わりも曖昧なのでイスラム主義と摩擦を生んでいて、アラブ民族特有の問題もあるのです。膨大な数の部族から成るアラブ民族は、それぞれの利害の主張に走りやすく、近代的な国民国家として成熟するまでには多くの障害を乗り越えなければならないでしょう」
「かのアラビアのロレンスも、そんな述懐をしたようですね」「エジプト・シリアのアラブ連合共和国の建国間もなく、双方出身の官僚と軍人の間に権力闘争が生じた上、シリア出身の軍人によるクーデターが勃発してシリアは連合から離脱しました。さらに、イラク・シリア両バース党に熾烈な権力争いが起ったところにスンニ・シーア派の宗教間対立も加わりました」「スンニ派とシーア派の宗教的な対立では、一体、何が問題なのですか」「普通の暮らしにはほとんど問題はなく、政治的権力や経済的利害を巡る争いが宗教的対立の色彩を帯びて見えるだけと思っていますが」
「ご夫妻と娘さんたちの日常生活で問題が生じることはありませんか」「敬虔なモスレムでクルアーンの教えを守る妻は、自分の考えを私や娘たちに押し付けることはなく、あまりクルアーンに忠実でない私たちの行いに口出しはしません。ここへお連れする外国のお客さんたちからも、同じ質問をよくされます」「招待させていただいた場所ではどうかと心配でしたが、それを伺い気がラクになりました。ところで、ソ連の人らが来ているといけませんから大きな声では言えませんが、マリクには話しましたが、私たちは、敗戦直前のソ連参戦とシベリア抑留などのイヤな想い出があり、彼らには好感をもてないできました。明朗快活なアメリカに比べ、どことなく不気味なコワサを感じるのです」
「あなたの国が日露戦争で勝利した時、世界中は勿論ですが、アジアの小さな国が大国ロシアを負かしたので、祖父の世代が喝采した言い伝えがあります」「ロシア皇帝の大国を赤色革命で倒して生まれたソ連ですが、敗戦間際の参戦は、彼らが支配していた満州に日本が侵攻したことへの報復だけでなく、日露戦争の雪辱があったかもしれません」
(70)「ところで、明日は、クウエートに戻られるそうですね」と社長が訊ねた。「私たちのイドの休暇は明日で終わりです。午前中に国立イラク博物館を見て、バスラに向かう帰路の途中、カルバラ廟へ立ち寄るつもりです」
アハラムと話に興じていたユーセフが聞きつけて、私たちの会話に加わった。「バスラからバグダッドへの往路で、カルバラを通過する前後に、ムハンマドの血縁のフセインが惨殺された《カルバラの悲劇》(イスラム共同体がシーア派とスンニ派に分裂するきっかけの史実)をチーフに話したところ、帰り道で寄りたいと言われたのです」「そうなんです。もう夜中近い時刻でしたが、ユーセフの熱の入った語りが、日本の平家物語の壇ノ浦悲劇を熱演する講談師と重なりました」「このシーア派の聖地に埋葬する死体をルーフに載せたイランからの車を何台も追い抜いたことで、チーフが関心をもたれたのでしょう」
ユーセフが熱弁をふるった《カルバラの悲劇》は、(13)(14)に記した。「カルバラの戦い」から千4百年を経た1980年代、カルバラの名が戦争の作戦名に登場した。イラン・イラク戦争のイラン側《カルバラ作戦》の由来がこの「カルバラの戦い」とされるのは、シーア派原理主義が統治するイランらしい命名だ。また、9.11後のイラク戦争の米軍侵攻の際、カルバラ市一帯での会戦でイラク軍の強固な抵抗に遭った米軍が撤退を余儀なくした記憶もある。この地は、俗にいうパワースポットなのか?
2008年8月。治安回復が伝えられたカルバラのシーア派宗教行事に参加した3百万人以上の信者を狙ったテロで、多数の死傷者が出た。宗教間対立をねらうテロリストにとって巡礼団は格好の標的で、道路脇の自動車爆弾や女性の自爆によるとされた。これは、残留米軍やイラク政府軍を手こずらせた「イラク・イスラム国」の前身集団によるものか。
腕時計を見ると、8時半を過ぎていたが、9時までには30分ある。外国人との社交の場で政治と宗教を話題しない方がよいとはアタマにあったが、イスラムの国のイランとイラクを相次いで訪れたのもなにかの縁と想われ、シーア派の話をつづけことにした。
ディスコ音楽が鳴り響くフロアで踊る人たちも増えてきた。「アハラム! ボクたちはお父さんともう少し話がしたいので、ジャミーラと踊ってきたらどう?」その言葉を待っていたかのようなジャミーラは、アハラムの手をとってフロアに向かう。ほの暗いホール照明にミラーボールがふり撒く光がきらめき、群れ踊る人影が浮かび上がる中へ、ふたりは入っていった。
「シーア派の奥さんはご家族一緒にカルバラの聖廟に行かれたことはありますか」かなり立ち入った問かけを、社長の反応次第で中断するつもりだったが、「フセインの殉教祭(アーシュラー)の時期に何回か訪ねたことがあります。毎年のムハッラム月(イスラム・ヒジュラ歴の1番目の月)の最初の10日間、フセインの死を悼む行事があるのです」「その行事のことはテヘランで聞きました。黒い喪服で身を包んだ人々が、鎖の束を自分の胸や背に打ちつけ、声を合わせて行進するそうですね」「バグダッドの公道で見たことはありませんが、惨殺されたフセイン一家の痛みを味わい、シーア派の連帯を示すものとされます」
「スンニ派・シーア派の異なる家系出身のご夫妻の家庭の日常で、こうした行事が支障になることはないのでしょうか」「特にありません。あなたは、ラマダーン後のイド・アルの祝日の間にイラクの旅をされていますが、ラマダーンは、断食をする月の名前です」「ラマダーンは、断食を意味する言葉ではない?」「ええ、ラマダーンはヒジュラ歴(純粋な太陰暦で、太陽暦とは毎年11日ほど早まり、約33年で季節が一巡)の第9月、イスラム教徒の義務の一つとして日の出から日没までは飲食を絶つ、《サウム(断食)》月のことです」
なにごとも訊いてみるものだと想っていると、ユーセフが、「ラマダーン明け‘断食’の習慣は、ムハンマドが3百人ほどの信者とマッカの大規模な隊商を襲おうとしたとき、その阻止にやってきたマッカの部隊を返り討ちにできたことをアッラーの恩寵として記念したのが始まりです」「へえ、そうなんだ」「ムハンマドが勝利したのはヒジュラ歴624年の第9月でした」「クウエートを発つ前の晩、パキスタン人コックのハジが教えてくれたけど、断食の開始と終了を決めるのは長老らによる新月確認だってね」
「でも、雲やサンドストームなどで新月が確認できなかったら1日ずれます。夏は太陽が沈まない極地帯では、近隣国の日の出・日没時間に合わせる調整もあるそうです」「それにしても、大陰暦は大陰太陽暦のように約3年に1回の閏年の調整がないから、同じ季節が巡ってくるのに33年もかかるんだねえ」
歴史に強いユーセフが、「世界で最初に大陰太陽暦を用いたのは紀元前2千年前のメソポタミア文明ですが、イスラム教が広まってからの西アジアでは用いなかったようですね」「断食月のラマダーンが終わってから数日ですが、お宅では、第1月の殉教祭の10日間も断食されるのですか?」「いいえ、敬虔なモスレムの妻もラマダーンの断食行事を家族一緒にするだけです。断食といっても1ケ月の完全な絶食ではなく、日没から日の出までの間は飲食できるので、馴れてしまえばどうということはありません。お腹がすいている上にご馳走を親族が集まって楽しむ習慣なので、ラマダーンが来るのが待ち遠いくらいですね」
「日本を発つ前に注意されたのは、外国人や旅行者は断食の慣習を免除されるが、イスラムの神聖な慣習に敬意を表して人前での飲食は慎むことでした」「旅行者のほか、重労働者・妊婦・産婦・病人・乳幼児・断食できない高齢者なども免除される、柔軟性と巾のある慣習です」
「日本では僧や修験者が人間の欲望からの解脱を求めて相当長期間の断食(水は飲む)をすることがありますし、病気治療や美容が目的の短い断食をする人たちもいます」と言うと、ユーセフが、「宗教的な慣習と暮らしの関係は時代や社会と共に変化してきて、クウエートやサウジアラビアとイラクでは、《クルアーン》に基づく生活慣習の守られ方に、大きな差異がありますね」「宗教上の由来は知らないけど、極暑の砂漠生活でブタを食べないとか酒を飲まないというのは、ムスリムでなくても分かる、暮らしの知恵だね」
「サウジでは公開処刑がありますし、非イスラム教の外国人がラマダーン期間中、公共の場で飲食や喫煙をすれば国外追放だそうですよ」「立憲君主制度のクウエートでも、エレベーターの中でアバイヤ(全身を覆う黒い布)を着た女性に挨拶の声をかけた日本人が国外追放になった話を聞いたボクも気をつけなければね」
アラビア湾の海岸で近くを歩いていたアバイヤの若い女性に出会ったとき、海風に煽られた黒い布の下の真紅のミニスカートが見えても平然としていたことがあった。エレベーターのケースは婦人の老亭主が訴えたもので、女性自身の申告ではなかったのではなかろうか。
「バグダッドの未婚女性でアバイヤを着ているのは、《クルアーン》を厳守する家庭なのでしょうか」と訊ねると、「そうかもしれませんが。私の妻が外出する時にアバイヤを着けるのは自分でやっていることで、私が命じているのではありませんからね」「欧米では美人の若い奥さんを他人に見せたがるくらいですから、いずれこの慣習もなくなると思います」とユーセフ。「日本の家庭婦人が‘奥さん’と呼ばれるのは、妻は家の奥に居て家事に専念し、あまり人前には出ない方がよいとした夫が少なくなかったからなんですよ」
「今でもそうですか」と社長が訊ねた。「都会では限られていても、地方ではまだ少なくないでしょう。私の母は戦時中から進歩的女性でしたから、‘夫に3歩おくれて歩け’という風習を嫌がり、敗戦前の2人連れの外出は好きでなかったと聞きました」「私にとっての《クルアーン》は、自分らの生活を律する教えですから、王制の統治権力や宗教的権威で強制されるのは好みません。イラクでは、そうした考えが一般的になりつつありますよ」
「お宅のラマダーンは、日本の盆と正月のように、家族が集い、親族が寄り合って、ご馳走を食べて歓談する慣習に似ていると思います」「こうした場所へ妻を連れてきたくても遠慮するでしょうが、それは慣習からだけでなく、次女のように性格的なものもあるでしょう。アハラムやジャミーラが結婚すれば、欧米のライフスタイルで暮らすのはまちがいないと思います」
その二人の踊る姿を、ミラーボールの光が照らし出す人の群れに探した。
(71前半)アハラムとジャミーラは、踊っている20人ばかりの人の群れのなかで、すぐに見つかった。ベイルート風アレンジのディスコ音楽に乗ってゆったりと体を動かしているアハラムと向き合うジャミーラは、手足を激しく動かす奔放な踊りに陶酔しているように見える。「お嬢さんたちは楽しそうに踊ってますよ」「アハラムが踊ることはめったにありませんが、テレビ番組のレバノン音楽やインド映画のダンスシーンが好きなジャミーラは、踊りに目がありません」
目をこらすと、姉妹の周りに、50代くらいの外国人カップル数組とアラブ人の若いカップルや男同士のシルエットがうごめいている。踊っている娘らをみつめていた社長が、「明日、イラク国立博物館を訪ねられると仰いました。ロンドン、パリは勿論、エジプト、イランの国立博物館と比べても、収蔵品の種類や数量は多くないのですが、シュメール・古バビロニア・アッシリア・新バビロニア遺跡の出土品をご覧になって、遺構がほとんどないアッシリア帝国の都ニネヴェの往時を想像してくだされば幸いです」
「ええ。メソポタミア文明の建築・都市の想像図やウルのジッグラトなどの遺跡のことは、大学のオリエント建築史で学びましたが、風俗や暮らしにかかわる出土品が見れるのが楽しみです」「そんなご関心でご覧くだされば、うれしいです」「オリエントは、ラテン語の〈東〉で、古代ローマから見た東方世界を意味し、シリア、ヨルダン、イラク、イランなどの西アジアを中心に、トルコ、エジプトをふくむ地域です。オリエントや中国大陸の東の果ての日本も、〈日出る国〉と称されてきました」「日本の遺跡や遺物はどんな形で残されているのでしょうか」
「東京の国立博物館には、中国や朝鮮から渡来した品々や日本古来の文物がたくさん収蔵・展示されています。奈良の国立博物館や東大寺の正倉院には、多くの優れた仏像や聖武天皇が遺したシルクロードで運ばれたペルシャのガラスの水差し・楽器などの貴重な品々も収蔵・展示されています。都市や建築は、ギリシャ・ローマの石造とちがう木造ですから、自然災害や戦火による破壊と復興を重ねてきました」
「メソポタミアでは、石材、鉱物資源(金・銀・銅・鉛・鉄)、木材が少なかったので、《豊暁の三日月帯》の農耕・牧畜を背景にした都市文明が栄えて支配者・貴族層が現れると、水晶やメノウの装飾品や金、ラピスラズリ、象牙、トルコ石等の高価な財が交易で集まってきました。対価は、麦などの農産物や羊毛、肉、乳製品でした」「メソポタミアの諸王・帝国は強大化と版図拡張をめざし、その頂点に立ったのがアッシリア帝国だと、モースルでユーセフから聞きましたよ」「紀元前3200年頃のウルやウルクのシュメール人都市国家の交易・商取引記録の必要から楔形文字が始り、階級、職業、法律、文学、商業、度量衡など、現在の生活にある基本要素はすべて、早期メソポタミア文明で整えられました」
一呼吸したユーセフが続ける。「野生麦の改良・栽培や動物の家畜化が北シリアで行われて農耕・牧畜が始りましたが、年間降水量が2百ミリ以下では麦が育たず、灌漑の考案でユーフラテスから畑に水を引くことで農地面積は飛躍的に拡大しました。南メソポタミアの肥沃な三日月帯は灌漑も容易で、灌漑システムと運河の管理をふくめ、古・新バビロンの都市が生まれるきっかけになったのです」
「ユーセフはバグダッド郊外の灌漑用水路の改良工事でも、現場監督をしたんだよね」「ええ。その工事現場の地中6米から出た土器が実家に置いてあります。今夜、母親の所へ泊まりますので、明朝、イラクの旅の記念として差しあげたいと思います」「そんな貴重な遺物をもらって、いいのかい?」「私が持っているより、チーフのそばにある方がうれしいですから」「イラク国立博物館に展示されている土器と比べると、年代がわかるかもしれないよ」「そうですね。私が見た類似の土器は紀元前千数百年前のものでした」「思いもしないメソポタミアからのプレゼントに、ワクワクだよ。東京の国立博物館で見せびらかしたいくらいだよ」
はしゃぐ私にウインクをしたユーセフが、「チーフ! そろそろ9時ですよ」と囁いた。
「ジャミーラは夢中で踊ってるようだけど、大人の時間になると、アハラムに知らせてくるよ」踊る人たちの間を縫って姉妹の近くにいくと、アハラムはすぐに気づき、上気して汗ばんだ顔のジャミーラも、陶酔から覚めたようだ。3人で向き合って踊りながら、アハラムの傍に寄っていき、「9時になるから、お開きにしようか」「ええ。ジャミーラも十分踊って満足でしょう」
かかっていた曲が終わってホールがすこし暗くなった。ジャミーラが父親とユーセフがいるテーブルへ向うと、スローなムード音楽が流れた。ディスコで時おり仕組まれる‘チークタイム’である。私はためらうことなく、アハラムの手をとった。「1曲だけ踊ってくれませんか」「ええ、よろこんで」
離れて向き合っていた人たちが体を寄せ、抱き合って踊りはじめた。アハラムの背なかに掌をおいた瞬間、シフォンのブラウスの下のひきしまった筋肉がピクリとして、汗のしめりとほのかな温かさが指先に伝わる。
ミラーボールの断片的な光に浮かぶアハラムの顔に、魅惑的な微笑みが浮かんだ。そばで静かにゆれている初老の外国人カップルは、互いの腰に両手をあててチークしている。、思い切ってアハラムに頬を寄せると、しっとりして弾力のある頬が押しあてられた。鼻腔に感じる香りは、控えめな香水と髪の匂いが交りあっているようだ。
互いにからだをあずけて揺れていると、バスラからバグッダッドに着いた夜の夢で見た、千夜一夜物語の踊り子と再会した気分だった。サマーラの塔への遠出やホームパーティなど、思いがけない長い時間をアハラムと共にできたのは、忘れられない思い出となるだろう。アハラムがまたクウエイトへ来ることがあるとしても、会うことはないだろうと想いながらハグしたら、音楽がやんでホールが明るくなった。「アハラム! 一緒に踊れてうれしかったよ」
(続く)
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