アラブと私
イラク3千キロの旅(110)
松 本 文 郎
(73後半)この『アラブと私』を書くきっかけが、9.11の報復で侵攻したイラクをメチャメチャにしたブッシュ大統領への憤りと、1971年の平和なイラクで、《バスラ・バグダッド・モースル往復3千キロの旅》を共にした土木エンジニアのユーセフやバグダッドの若い女性アハラムらの「今」に想いを馳せることだと、繰り返し述べてきた。そして、「イスラム国」の脅威に直面する国際社会情勢が「パレスチナ・ゲリラ」による事件が多発した当時とあまりにも似ていることに驚き、短絡気味に言えば、70年安保闘争で挫折した学生ら赤軍派が参加した一連の「ゲリラ事件」と、バブル崩壊日本の世直しを妄想した教祖麻原彰晃のオウム真理教によるサリン事件にどこか、「ISによるテロ」に通底するものを感じる。特定の政治思想や宗教教典を妄信・曲解する集団が、敵対者だけでなく仲間内にも及ぼす恐るべき残虐さである。
「IS」による諷刺画新聞襲撃事件と人質「処刑」を考えるキーワードに、「自由」「宗教」「民主主義」を挙げて拙論を述べるのは、次回としたい。
(74/96)前回末尾に予告した拙論を、345回「こぶし会」(30数年も続く談話会)で1時間半の「話」をした『イスラム国」について』(2015年2月・情報通信エンジニアリング協会ビル)の要約で記す。
1.「イスラエル/パレスチナ問題」
2.過激思想と「テロリズム」
3.「宗教」「自由」「民主主義」
4.日本の立ち位置と安倍政権の行方
前回、イスラエル・パレスチナ問題に関わる体験(杉原千畝夫人の述懐・パレスチナ人オフィスボーイらの証言)を書いたが、「イスラム国」出現のきっかけがブッシュ元大統領政権のイラク侵攻だったとしても、その背景に、第2次世界大戦後に生じた「イスラエル・パレスチナ問題」があることを、しっかり認識する必要があろう。
パレスチナ・コマンドの「テロ」を非難しながら、国連決議を無視したイスラエルの国家テロ(女性・子供を含む無差別大量虐殺)の非人道的な過剰報復の残虐無比を非難しないで「人道的云々」を声高に言うのは、まやかしと言うほかない。
アラブ人とユダヤ人がセム族で同じ系統の民族だと知らない日本人は少なくないが、アラブという名称はセム語のアラバ(大砂漠)に由来し、紀元前2000年頃メソポタミアから移住してきたセム系諸族で、パレスチナの海岸近くに住みついた半農半牧の民がのちのユダヤ人、大砂漠の放牧民がアラブ人と呼ばれたのである。ヤハヴェを信じて団結したユダヤ人には他民族を蔑視する傾向があり、誇り高い砂漠の民アラブ人に反ユダヤの感情が流れ、紀元70年、ローマ帝国のエルサレム攻撃では、この感情を利用してアラブ人騎兵部隊を参加させ、パレスチナのユダヤ人を撃破して世界へ四散せしめる一方で、砂漠に砦を築き、アラブ人をアラビアの砂漠に押し込めたのである。ローマ帝国のやり口と、第1次世界大戦後の英仏によるアラブ分割(サイクスピコ協定)の欺瞞性の類似に慄然とし、「イスラエル・パレスチナ問題」の歴史の長さと奥深さに茫然となる。
第2次安倍内閣のスタート時点で菅官房長官が、「この政権がつまずくとすれば、歴史問題だ」と報道陣に述べたのが印象的だったが、中国・韓国との歴史認識問題にとどまらず、数千年におよぶアラブの歴史を学んでいれば、ネタニヤフ首相と並んでの不用意なスピーチで日本の安全保障を危うくしかねない状況を招かずに済んだのではないか。
先の上下院合同特別議会でオバマ大統領のイラン政策を猛列に批判したネタニヤフ首相演説に大統領が不快感を示したことで、これまで超党派でイスラエルを支持してきた民主・共和両党の支持者やユダヤ系米国人の間に大きな波紋が生じている。米国は、1948年の建国とその後の中東情勢の様々な変化の中でもイスラエル支持の立場を貫いて、毎年30億ドルの軍事援助を続けてきた。
2年後退任のオバマ大統領の外交政策に対して保守派の揶揄が姦しいが、イランの核兵器・開発中止交渉は、イスラエルの安全保障だけでなく、中東和平にとっても重要な意味をもっている。米国との関係改善をめざしているイラン現政権は、「イスラム国」壊滅の戦闘に加わっており、1969年にOECD技術協力で訪問したイランで米・イの親密な関係を見た筆者は、交渉の行方から目が離せない。
アラブ人とイスラム教の歴史に戻ると、ユダヤ人を世界へ放逐したローマ帝国によって砂漠へ押し込められたアラブの放牧民は、砂漠では多数の人間を養えず、数世紀ののち、ムハンマドのイスラム教と共に砂漠から四方へと進出し、イスラム(サラセン)帝国を建設した。ムハンマドの没後百数十年を経てバグダッドに帝都を築いたアッバース朝は1258年まで命脈を保ったが、イスラム帝国が6百年近く続いたのは、征服した他民族が敵対しないで税を払えば、その宗教や文化を容認して多様性を維持したからとされる。いまだに、アラビア人が「剣かクルアーンか」の態度で征服した諸国民がイスラムに改宗したと言われるが、「宗教」は、人生における最も重要な課題についての信念なので、心から納得しないかぎり、剣をもって迫られても易々と改宗するはずもなく、異教徒への武力征服は数年から数十年で終わっても、帝国内住民がイスラムの真義を理解して改宗するまでに数百年もかかった所が多いとされる。イスラム帝国終焉が十字軍による宗教戦争の結果ではなく、版図奪還だったとみるのが定説になってきたが、「イスラム国」が有志連合を十字軍と規定し、日本が十字軍に参加したと断定したのは史実をなぞったのか。かつてのイスラム帝国の版図を取り戻すという「IS」の最高指導者バグダディ(カリフを自任)の宣託は誇大妄想の極地の観があるものの、欧米各国で貧困と差別に苦しんでいるイスラム教徒(アラブ・アフリカ人移民と子弟)にとっては、神がユダヤ人に約束したカナンの地(旧約聖書)と同じ意味をもつのかもしれない。
「IS」の過激思想とテロリズムに関連して想起されたのは、パレスチナ・ゲリラに参加した「赤軍派」と「オーム教」による「サリン事件」だが、両者に共通するのは、容認できない世界や国の状況変革には殺人を含む破壊行為も辞さないという「過激思想」だ。「IS」へ参加する各国の若者には様々な動機があるだろうが、十把一絡げの〝異常な連中〟と断じると、赤軍派・オーム教による事件のように、対応や事後対策を誤る可能性がある。恐るべきサリン事件を起こしたオーム真理教に帰依した優秀な大学卒業生は、教祖麻原が唱えたミレニアム終末思想を妄信したとされ、その深層心理の解明を試みた某宗教社会学者が、マスコミの袋叩きに遭って沈黙させられたと記憶するが、「IS」をめぐって、また生半可は論議でおわることがあってはなるまい。人々が「IS」出現に戸惑っている今は、「宗教」とはなにかを考え、イスラム教の歴史に関する知見と理解を深める絶好のチャンスだ。
先日、オバマ大統領がリードした「IS」対策の国際会議での「若者への教育や啓蒙活動を地域中心に行う」提案は、ブッシュ元大統領の武断的姿勢とは一線を画した。米国のイラク帰還兵の5人に1人が,残虐極まる戦闘行為でPTSDを患い悲惨な生活に苦しんでいる中には学歴がなく職につけない黒人の若者(戦地でも帰国後もヤク漬け?)が多いとされ、黒人差別が根強い州では、無防備の黒人少年を無造作に射殺した警官が不起訴となって、地域暴動が起きるなども、同根だと思われるからである。
「テロ」と称された事件は古今東西を問わず枚挙にいとまなく、日本の近代では、水戸藩士の桜田門外事件、新撰組による吉田屋・池田屋襲撃事件、2・26事件などを知らない日本人はいないだろう。
これらの「テロ」は「志」を共有する有志集団によるものだが、フランス革命・ロシア革命・明治維新等の反体制武装集団による革命運動も体制側から見れば「テロ」の範疇に入ると思われる。「IS」を非難して、極悪非道、残虐無比、言語道断等の言葉がテレビ・新聞報道で連発されているが、欧米列強の植民地支配、日本の朝鮮半島・中国大陸侵出や、日本やドイツが受けた都市無差別爆撃、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下、冷戦下の朝鮮・ベトナム戦争、9・11後のアフガニスタン・イラク侵攻でもこれらの言葉が当てはまる実態があったのを忘れてはなるまい。
「IS」をめぐる報道や論議に,「宗教」「自由」「民主主義」の言葉が飛び交っている。「イスラム教」という「宗教」については、この連載の各所での記述を参照していただき、ここでは、イスラム教徒が各自の日常生活を律する教典(クルアーン)の規律の一、二を記すにとどめる。
酒や豚肉の飲食禁止は今でもまだ守られているが、ムハンマド時代の生活環境での賢明な「養生訓」だっただけでなく、欧米社会の豚を含む過剰な肉食やアルコール依存にみる心身の健康障害を予見していたとも言えるのではないか。文明が発達し、豊かな暮らしを享受できる現代でも、当時の規範を守っているのは、神の教えを盲信しているというより、その暮らし方を良いとし、感じるからではないか。
フランスの公立学校で禁止された女性の服装について、いろいろな考え方や受け止め方の議論がある。ムスリム女子学生のスカーフは、「コーラン」の規定にあるのでフランス憲法の政教分離の理念に反するとして禁止されたが、風刺画事件で声高だった偏狭な「自由」の概念と同じく、とても奇異に感じたものだ。ムハンマドは、「慎ましい服装をしなさい」と言っているだけで、全身を隠すのか一部だけにするかは、「慎ましさ」の解釈で変わる。全身を隠す「ブルカ」はアフガニスタンの地方的な伝統で、イスラム教の普及前からあった風習というし、フランスの公立学校へ通う女子学生がスカーフを被らないと、「クルアーン」を守る両親から通学のための外出を許されないという。「女性の勉学は不要で、家にこもっていればよい」とするタリバンの女性抑圧の行為は、ムハンマドの教えにはないとされる。
不躾かもしれないが、白いスカーフで髪を覆ったナイチンゲールの清楚さや映画「パルムの僧院」の修道女の美しさは、鳥肌が立つほどだったし、クウエイトの海辺を散歩していた若い女性の黒い被り物が風に煽られ、真紅のミニスカートが見えた瞬間のトキメキを鮮明に思い出す。美しい和服の女性が階段を上がるときチラリと見せる足首にドキリとするのも、露出の少ない衣装の方がかえってエロチックな事例である。女性の勉学を認めない男尊女卑の考えも、古今東西の男社会の規範として普遍的に存在してきた。日本も例外でなかったはずで、男女共学や女性の国政選挙権が認められたのは敗戦後の新憲法からである。ところで、安倍首相を取り巻く人たちに、戦勝国アメリカから押し付けられた日本国憲法より、大日本帝国憲法の精神に回帰したいと考える人が多いが、戦争末期の暗闇から出て、真青な8月15日の空を仰ぎ見た筆者には、「世迷言」としか思えない。
(75)「自由」は、フランス革命が人類社会にもたらした三つの理念の最も重要な一つと考えている私は、その定義が、「他人を害しないすべてをなし得ることに存する」とあるにもかかわらず、「他人が信じる宗教とその始祖を穢し、傷つける自由」を主張し、擁護するフランスの一部の政治家・学者・市民らの「理性」のレベルに、ただ驚いている。
NHKテレビ番組「WISDOM」《広がる不寛容 多文化は共存できるか》(2月28日)の討論に参加した女性学究アラナ・レンティンさんは、表現の自由を言い募る反面で、イスラム教徒の子女の公立学校でのスカーフ着用の自由を法律で禁止したご都合主義について、「いまのフランスには偽善が多い」といった主旨の発言をし、パリ政治学院教授ファブリス・エペルボワンさんも、うなずいていた。香り高いフランス文化と感性豊かなフランス人を敬愛してきた筆者も、今回の事件で直視させられたムスリム移民への差別や異文化への不寛容さには、失望を感じることしきりである。
「政教分離」の理念は、民衆(市民)を支配してきた王権(法王を政治的に利用)の権力を市民革命で奪い取った歓びを掲げたものだが、キリスト教社会(国家を含む)の政治的儀式で聖書や司教が関わるものは少なくない。(大統領の就任式)「平等」「友愛」も然りで、この三つの「理念」は、市民社会と国民国家の原理である「民主主義」の土台となった一方で、「理性」を絶対視し、理性に基づけば社会変革のための暴力をも正当化しうるとしたことから、自由主義、全体主義、社会主義、共産主義などの諸理念を掲げる国家間に、己の〝正義〟を主張し、押し通そうとする紛争や戦争が連綿とつづいたのである。
人間の生き方や社会の在り方について、パラダイムシフトが求められている類社会に生まれた「IS」という鬼子と、どう対していくのか。中東・アフリカ一帯でイスラム過激派組織によるテロ・戦闘が、拡大の一途をたどっている。
「チュニスの春」で長期軍事独裁政権を崩壊させて以降、比較的順調に民主化が進んでいたとするチュニジアで、国立博物館を訪れた大型クルーズ観光客が襲撃され、20余人(日本人3人も)が殺害された。イスラム過激派のハーレド・シャイブ容疑者ら実行犯2人が殺害され、20人あまりが逮捕されている。実行犯グループは、「IS」支持の組織とみられる。サウジと国境を接するイエメンでは、シーア派武装組織「フーシ派」が、首都サヌアを掌握して暫定政府樹立を宣言し、ハディ暫定大統領が逃れた南部に侵攻している。サヌアの2ケ所のモスクで起こった自爆テロとみられる爆発事件では、死者数が140人を超え「フーシ派」支持者が多くふくまれるという。スンニ派の「IS」が犯行声明を公開し、イスラム過激派同士の宗派対立を背景にした武力衝突が拡大している。
「IS」は、チュニジアの博物館襲撃事件に続いて、政府軍と戦闘中のシリア・イラクから他の中東地域にまで、勢力を拡張しているのだ。この情況下で、エジプトのシャルム・シェイクで開催されたアラブ連盟首脳会議が、アラブ合同軍創設の方針を明らかにした。その要因に、リビアでエジプト人キリスト教徒をISに殺害されたエジプトのIS・リビア拠点の報復空爆(2月)、イエメンのハディ元大統領を辞任に追い込んだ反政府フーシ派へのサウジ空軍の爆撃(3月)があるとされる。このアラブ合同軍は、中東全域で同時多発的に進行しているテロ・内戦(シリア,イラク、チュニジア、イエメン、ケニアなど)の深刻な情況に、「アラブ諸国がかつてない危機にさらされている」として創設されたという。泥沼の内戦が続くシリアでは、「イスラム国」が首都ダマスカス南部のヤルムークに侵攻したが、米軍などの空爆を受けながら、支配地域をほぼ維持していると報じられた。
内戦前のシリアで、国連に登録したパレスチナ難民が約50万人いて、ヤルムークほか9ケ所の難民キャンプで生活していたが内戦の激化で多くの難民がキャンプを離れ、ヤルムークでは約18万人から1万8千人に激減していた。このキャンプに反体制派の武装勢力が入り込んでいるとした2013年以降、アサド政権に封鎖されて猛攻撃を受け、食料・医薬品搬入も止められ、戦闘の巻き添えや餓死で多くの市民が犠牲になり、シリアの人道危機を象徴する場所とされていたという。オバマ政権は、自国民を虐殺したアサド政権に正統性はないとして退陣を求めたこともあって、「IS」掃討で、手を組めないジレンマがあるとされる。朝日新聞の取材で、「IS」はシリア国内で内部抗争があるとみられ、今年に入ってから「IS」を脱退して「ヌスラ戦線」など他の過激派組織に参加する戦闘員が目立つという。統制された軍隊のイメージだった「IS」は最近、傘下各グループがそれぞれの思惑で攻撃している印象で、今回のような町の制圧は続くとしても、組織をあげての行動でないなら、支配が維持できるか疑問視する向きもある。イエメン南部には仏週刊新聞襲撃事件への関与を主張する「アラビア半島のアルカイダ・フーシ派」拠点があるが、それを支援しているイランは、イラク中部のティクリート奪還作戦のイラク軍とシーア派民兵の指揮にイラン革命防衛隊司令官を関わらせる一方で、イラン核開発協議が山場を迎えており、米国の中東政策はイランを巡り、各地で相反した構図になっているややこしさだ。
「IS」をはじめとするイスラム過激派の各地での活動拡大を見てくると、「自由と民主主義」の価値観を共有する有志連合と共に「IS」と戦うと高らかに宣言した安倍首相が、どこまで、有志連合参加のアラブ・欧米諸国の個別の思惑や利害関係の複雑さを理解しているのか、疑問を感じざるを得ない。
民主党の自失で漁夫の利を得、衆参両院で連立与党の過半数を手にした安倍内閣が戦後レジームからの脱却を掲げて、不戦の平和主義を否定する一連の時代錯誤的な政策を強引に押しすすめる政治の立ち位置では、有志連合アラブ諸国の政治が、民主主義の定義からほど遠いものである実態も、さして気にならないのであろう。次回こそは、1971年のバグダッドにワープして、アメリカのイラク侵攻後、イラク人に略奪されたバグダッド国立博物館を訪ねることにしよう。
(76)(72)から4回に及ぶ寄り道で、「IS」に関する記事をたてつづけに書いたが、全篇随所でたくさんの寄り道をしてきたものだ。
3回目のバスラのベリーダンサー・娼婦の話からティツィアーノの有名なヴィーナス像のモデルがベニスの高級娼婦の一人だったことや、イラク戦争5年目(2008年)のバスラの大油田地帯の利権を巡り、マリク首相が率いる政府軍とサドル師の民兵組織マフディ軍(シーア派同士)が戦闘中であるなどを書いて、道草をしている。
それは初回に書いたように、『何でも見てやろう』の小田 実流に、1970年代前半のクウェイトでの仕事と生活を思い起しながら、あれから半世紀近くを経たアラブの現実との間を往還する意図の執筆だからである。
眠りこむ寸前の湯舟から立ち上ったのは正解だった。極度の疲れで忍び寄った睡魔がバスタブでの溺死を招いたかもしれないからだ。モースル往復の旅はかなり強行軍だった上、バグダッドへ戻ってすぐ、アハラムらをディスコクラブへ招待したのだから。モースルの街(初期アッシリアの砦の町)では、ユーセフの知人(アッシリア東方教会の神父/ヤズィーディー教のクルド老人/ガレージの若主人)に次々に会い、モースルの歴史と現実について得難い話を聞き、大阪万博や日本の経済発展について話をして、濃密な時間を過ごした。「IS」のモースル侵攻で、少数民族のヤズィーディー教信者を山岳地帯へ追いやったり、女性たちを捕虜(奴隷)にしたと報じられたが、45年前の私は、迫害を受けた人らの洞窟住居を訪れ、お茶を戴いたのだ。
モースルの博物館襲撃では、貴重な東西の文化遺産が破壊されるシーンがテレビ画面に映され、バーミヤンの岩山の巨大仏像が爆破されたときと同じ衝撃を受けた。「偶像」を禁止するコーランの教えの真意を全く理解していない「蛮行」と言うほかない。
この程度の寄り道的記述なら、全体の筋道を混乱させないだろうし、《アラブと私》の執筆の意図からも、読者のご理解をお願いしたい。次回では必ずタイムスリップして、バグダッドのホテルへ戻るとしよう。 (続く)
イラク3千キロの旅(110)
松 本 文 郎
(73後半)この『アラブと私』を書くきっかけが、9.11の報復で侵攻したイラクをメチャメチャにしたブッシュ大統領への憤りと、1971年の平和なイラクで、《バスラ・バグダッド・モースル往復3千キロの旅》を共にした土木エンジニアのユーセフやバグダッドの若い女性アハラムらの「今」に想いを馳せることだと、繰り返し述べてきた。そして、「イスラム国」の脅威に直面する国際社会情勢が「パレスチナ・ゲリラ」による事件が多発した当時とあまりにも似ていることに驚き、短絡気味に言えば、70年安保闘争で挫折した学生ら赤軍派が参加した一連の「ゲリラ事件」と、バブル崩壊日本の世直しを妄想した教祖麻原彰晃のオウム真理教によるサリン事件にどこか、「ISによるテロ」に通底するものを感じる。特定の政治思想や宗教教典を妄信・曲解する集団が、敵対者だけでなく仲間内にも及ぼす恐るべき残虐さである。
「IS」による諷刺画新聞襲撃事件と人質「処刑」を考えるキーワードに、「自由」「宗教」「民主主義」を挙げて拙論を述べるのは、次回としたい。
(74/96)前回末尾に予告した拙論を、345回「こぶし会」(30数年も続く談話会)で1時間半の「話」をした『イスラム国」について』(2015年2月・情報通信エンジニアリング協会ビル)の要約で記す。
1.「イスラエル/パレスチナ問題」
2.過激思想と「テロリズム」
3.「宗教」「自由」「民主主義」
4.日本の立ち位置と安倍政権の行方
前回、イスラエル・パレスチナ問題に関わる体験(杉原千畝夫人の述懐・パレスチナ人オフィスボーイらの証言)を書いたが、「イスラム国」出現のきっかけがブッシュ元大統領政権のイラク侵攻だったとしても、その背景に、第2次世界大戦後に生じた「イスラエル・パレスチナ問題」があることを、しっかり認識する必要があろう。
パレスチナ・コマンドの「テロ」を非難しながら、国連決議を無視したイスラエルの国家テロ(女性・子供を含む無差別大量虐殺)の非人道的な過剰報復の残虐無比を非難しないで「人道的云々」を声高に言うのは、まやかしと言うほかない。
アラブ人とユダヤ人がセム族で同じ系統の民族だと知らない日本人は少なくないが、アラブという名称はセム語のアラバ(大砂漠)に由来し、紀元前2000年頃メソポタミアから移住してきたセム系諸族で、パレスチナの海岸近くに住みついた半農半牧の民がのちのユダヤ人、大砂漠の放牧民がアラブ人と呼ばれたのである。ヤハヴェを信じて団結したユダヤ人には他民族を蔑視する傾向があり、誇り高い砂漠の民アラブ人に反ユダヤの感情が流れ、紀元70年、ローマ帝国のエルサレム攻撃では、この感情を利用してアラブ人騎兵部隊を参加させ、パレスチナのユダヤ人を撃破して世界へ四散せしめる一方で、砂漠に砦を築き、アラブ人をアラビアの砂漠に押し込めたのである。ローマ帝国のやり口と、第1次世界大戦後の英仏によるアラブ分割(サイクスピコ協定)の欺瞞性の類似に慄然とし、「イスラエル・パレスチナ問題」の歴史の長さと奥深さに茫然となる。
第2次安倍内閣のスタート時点で菅官房長官が、「この政権がつまずくとすれば、歴史問題だ」と報道陣に述べたのが印象的だったが、中国・韓国との歴史認識問題にとどまらず、数千年におよぶアラブの歴史を学んでいれば、ネタニヤフ首相と並んでの不用意なスピーチで日本の安全保障を危うくしかねない状況を招かずに済んだのではないか。
先の上下院合同特別議会でオバマ大統領のイラン政策を猛列に批判したネタニヤフ首相演説に大統領が不快感を示したことで、これまで超党派でイスラエルを支持してきた民主・共和両党の支持者やユダヤ系米国人の間に大きな波紋が生じている。米国は、1948年の建国とその後の中東情勢の様々な変化の中でもイスラエル支持の立場を貫いて、毎年30億ドルの軍事援助を続けてきた。
2年後退任のオバマ大統領の外交政策に対して保守派の揶揄が姦しいが、イランの核兵器・開発中止交渉は、イスラエルの安全保障だけでなく、中東和平にとっても重要な意味をもっている。米国との関係改善をめざしているイラン現政権は、「イスラム国」壊滅の戦闘に加わっており、1969年にOECD技術協力で訪問したイランで米・イの親密な関係を見た筆者は、交渉の行方から目が離せない。
アラブ人とイスラム教の歴史に戻ると、ユダヤ人を世界へ放逐したローマ帝国によって砂漠へ押し込められたアラブの放牧民は、砂漠では多数の人間を養えず、数世紀ののち、ムハンマドのイスラム教と共に砂漠から四方へと進出し、イスラム(サラセン)帝国を建設した。ムハンマドの没後百数十年を経てバグダッドに帝都を築いたアッバース朝は1258年まで命脈を保ったが、イスラム帝国が6百年近く続いたのは、征服した他民族が敵対しないで税を払えば、その宗教や文化を容認して多様性を維持したからとされる。いまだに、アラビア人が「剣かクルアーンか」の態度で征服した諸国民がイスラムに改宗したと言われるが、「宗教」は、人生における最も重要な課題についての信念なので、心から納得しないかぎり、剣をもって迫られても易々と改宗するはずもなく、異教徒への武力征服は数年から数十年で終わっても、帝国内住民がイスラムの真義を理解して改宗するまでに数百年もかかった所が多いとされる。イスラム帝国終焉が十字軍による宗教戦争の結果ではなく、版図奪還だったとみるのが定説になってきたが、「イスラム国」が有志連合を十字軍と規定し、日本が十字軍に参加したと断定したのは史実をなぞったのか。かつてのイスラム帝国の版図を取り戻すという「IS」の最高指導者バグダディ(カリフを自任)の宣託は誇大妄想の極地の観があるものの、欧米各国で貧困と差別に苦しんでいるイスラム教徒(アラブ・アフリカ人移民と子弟)にとっては、神がユダヤ人に約束したカナンの地(旧約聖書)と同じ意味をもつのかもしれない。
「IS」の過激思想とテロリズムに関連して想起されたのは、パレスチナ・ゲリラに参加した「赤軍派」と「オーム教」による「サリン事件」だが、両者に共通するのは、容認できない世界や国の状況変革には殺人を含む破壊行為も辞さないという「過激思想」だ。「IS」へ参加する各国の若者には様々な動機があるだろうが、十把一絡げの〝異常な連中〟と断じると、赤軍派・オーム教による事件のように、対応や事後対策を誤る可能性がある。恐るべきサリン事件を起こしたオーム真理教に帰依した優秀な大学卒業生は、教祖麻原が唱えたミレニアム終末思想を妄信したとされ、その深層心理の解明を試みた某宗教社会学者が、マスコミの袋叩きに遭って沈黙させられたと記憶するが、「IS」をめぐって、また生半可は論議でおわることがあってはなるまい。人々が「IS」出現に戸惑っている今は、「宗教」とはなにかを考え、イスラム教の歴史に関する知見と理解を深める絶好のチャンスだ。
先日、オバマ大統領がリードした「IS」対策の国際会議での「若者への教育や啓蒙活動を地域中心に行う」提案は、ブッシュ元大統領の武断的姿勢とは一線を画した。米国のイラク帰還兵の5人に1人が,残虐極まる戦闘行為でPTSDを患い悲惨な生活に苦しんでいる中には学歴がなく職につけない黒人の若者(戦地でも帰国後もヤク漬け?)が多いとされ、黒人差別が根強い州では、無防備の黒人少年を無造作に射殺した警官が不起訴となって、地域暴動が起きるなども、同根だと思われるからである。
「テロ」と称された事件は古今東西を問わず枚挙にいとまなく、日本の近代では、水戸藩士の桜田門外事件、新撰組による吉田屋・池田屋襲撃事件、2・26事件などを知らない日本人はいないだろう。
これらの「テロ」は「志」を共有する有志集団によるものだが、フランス革命・ロシア革命・明治維新等の反体制武装集団による革命運動も体制側から見れば「テロ」の範疇に入ると思われる。「IS」を非難して、極悪非道、残虐無比、言語道断等の言葉がテレビ・新聞報道で連発されているが、欧米列強の植民地支配、日本の朝鮮半島・中国大陸侵出や、日本やドイツが受けた都市無差別爆撃、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下、冷戦下の朝鮮・ベトナム戦争、9・11後のアフガニスタン・イラク侵攻でもこれらの言葉が当てはまる実態があったのを忘れてはなるまい。
「IS」をめぐる報道や論議に,「宗教」「自由」「民主主義」の言葉が飛び交っている。「イスラム教」という「宗教」については、この連載の各所での記述を参照していただき、ここでは、イスラム教徒が各自の日常生活を律する教典(クルアーン)の規律の一、二を記すにとどめる。
酒や豚肉の飲食禁止は今でもまだ守られているが、ムハンマド時代の生活環境での賢明な「養生訓」だっただけでなく、欧米社会の豚を含む過剰な肉食やアルコール依存にみる心身の健康障害を予見していたとも言えるのではないか。文明が発達し、豊かな暮らしを享受できる現代でも、当時の規範を守っているのは、神の教えを盲信しているというより、その暮らし方を良いとし、感じるからではないか。
フランスの公立学校で禁止された女性の服装について、いろいろな考え方や受け止め方の議論がある。ムスリム女子学生のスカーフは、「コーラン」の規定にあるのでフランス憲法の政教分離の理念に反するとして禁止されたが、風刺画事件で声高だった偏狭な「自由」の概念と同じく、とても奇異に感じたものだ。ムハンマドは、「慎ましい服装をしなさい」と言っているだけで、全身を隠すのか一部だけにするかは、「慎ましさ」の解釈で変わる。全身を隠す「ブルカ」はアフガニスタンの地方的な伝統で、イスラム教の普及前からあった風習というし、フランスの公立学校へ通う女子学生がスカーフを被らないと、「クルアーン」を守る両親から通学のための外出を許されないという。「女性の勉学は不要で、家にこもっていればよい」とするタリバンの女性抑圧の行為は、ムハンマドの教えにはないとされる。
不躾かもしれないが、白いスカーフで髪を覆ったナイチンゲールの清楚さや映画「パルムの僧院」の修道女の美しさは、鳥肌が立つほどだったし、クウエイトの海辺を散歩していた若い女性の黒い被り物が風に煽られ、真紅のミニスカートが見えた瞬間のトキメキを鮮明に思い出す。美しい和服の女性が階段を上がるときチラリと見せる足首にドキリとするのも、露出の少ない衣装の方がかえってエロチックな事例である。女性の勉学を認めない男尊女卑の考えも、古今東西の男社会の規範として普遍的に存在してきた。日本も例外でなかったはずで、男女共学や女性の国政選挙権が認められたのは敗戦後の新憲法からである。ところで、安倍首相を取り巻く人たちに、戦勝国アメリカから押し付けられた日本国憲法より、大日本帝国憲法の精神に回帰したいと考える人が多いが、戦争末期の暗闇から出て、真青な8月15日の空を仰ぎ見た筆者には、「世迷言」としか思えない。
(75)「自由」は、フランス革命が人類社会にもたらした三つの理念の最も重要な一つと考えている私は、その定義が、「他人を害しないすべてをなし得ることに存する」とあるにもかかわらず、「他人が信じる宗教とその始祖を穢し、傷つける自由」を主張し、擁護するフランスの一部の政治家・学者・市民らの「理性」のレベルに、ただ驚いている。
NHKテレビ番組「WISDOM」《広がる不寛容 多文化は共存できるか》(2月28日)の討論に参加した女性学究アラナ・レンティンさんは、表現の自由を言い募る反面で、イスラム教徒の子女の公立学校でのスカーフ着用の自由を法律で禁止したご都合主義について、「いまのフランスには偽善が多い」といった主旨の発言をし、パリ政治学院教授ファブリス・エペルボワンさんも、うなずいていた。香り高いフランス文化と感性豊かなフランス人を敬愛してきた筆者も、今回の事件で直視させられたムスリム移民への差別や異文化への不寛容さには、失望を感じることしきりである。
「政教分離」の理念は、民衆(市民)を支配してきた王権(法王を政治的に利用)の権力を市民革命で奪い取った歓びを掲げたものだが、キリスト教社会(国家を含む)の政治的儀式で聖書や司教が関わるものは少なくない。(大統領の就任式)「平等」「友愛」も然りで、この三つの「理念」は、市民社会と国民国家の原理である「民主主義」の土台となった一方で、「理性」を絶対視し、理性に基づけば社会変革のための暴力をも正当化しうるとしたことから、自由主義、全体主義、社会主義、共産主義などの諸理念を掲げる国家間に、己の〝正義〟を主張し、押し通そうとする紛争や戦争が連綿とつづいたのである。
人間の生き方や社会の在り方について、パラダイムシフトが求められている類社会に生まれた「IS」という鬼子と、どう対していくのか。中東・アフリカ一帯でイスラム過激派組織によるテロ・戦闘が、拡大の一途をたどっている。
「チュニスの春」で長期軍事独裁政権を崩壊させて以降、比較的順調に民主化が進んでいたとするチュニジアで、国立博物館を訪れた大型クルーズ観光客が襲撃され、20余人(日本人3人も)が殺害された。イスラム過激派のハーレド・シャイブ容疑者ら実行犯2人が殺害され、20人あまりが逮捕されている。実行犯グループは、「IS」支持の組織とみられる。サウジと国境を接するイエメンでは、シーア派武装組織「フーシ派」が、首都サヌアを掌握して暫定政府樹立を宣言し、ハディ暫定大統領が逃れた南部に侵攻している。サヌアの2ケ所のモスクで起こった自爆テロとみられる爆発事件では、死者数が140人を超え「フーシ派」支持者が多くふくまれるという。スンニ派の「IS」が犯行声明を公開し、イスラム過激派同士の宗派対立を背景にした武力衝突が拡大している。
「IS」は、チュニジアの博物館襲撃事件に続いて、政府軍と戦闘中のシリア・イラクから他の中東地域にまで、勢力を拡張しているのだ。この情況下で、エジプトのシャルム・シェイクで開催されたアラブ連盟首脳会議が、アラブ合同軍創設の方針を明らかにした。その要因に、リビアでエジプト人キリスト教徒をISに殺害されたエジプトのIS・リビア拠点の報復空爆(2月)、イエメンのハディ元大統領を辞任に追い込んだ反政府フーシ派へのサウジ空軍の爆撃(3月)があるとされる。このアラブ合同軍は、中東全域で同時多発的に進行しているテロ・内戦(シリア,イラク、チュニジア、イエメン、ケニアなど)の深刻な情況に、「アラブ諸国がかつてない危機にさらされている」として創設されたという。泥沼の内戦が続くシリアでは、「イスラム国」が首都ダマスカス南部のヤルムークに侵攻したが、米軍などの空爆を受けながら、支配地域をほぼ維持していると報じられた。
内戦前のシリアで、国連に登録したパレスチナ難民が約50万人いて、ヤルムークほか9ケ所の難民キャンプで生活していたが内戦の激化で多くの難民がキャンプを離れ、ヤルムークでは約18万人から1万8千人に激減していた。このキャンプに反体制派の武装勢力が入り込んでいるとした2013年以降、アサド政権に封鎖されて猛攻撃を受け、食料・医薬品搬入も止められ、戦闘の巻き添えや餓死で多くの市民が犠牲になり、シリアの人道危機を象徴する場所とされていたという。オバマ政権は、自国民を虐殺したアサド政権に正統性はないとして退陣を求めたこともあって、「IS」掃討で、手を組めないジレンマがあるとされる。朝日新聞の取材で、「IS」はシリア国内で内部抗争があるとみられ、今年に入ってから「IS」を脱退して「ヌスラ戦線」など他の過激派組織に参加する戦闘員が目立つという。統制された軍隊のイメージだった「IS」は最近、傘下各グループがそれぞれの思惑で攻撃している印象で、今回のような町の制圧は続くとしても、組織をあげての行動でないなら、支配が維持できるか疑問視する向きもある。イエメン南部には仏週刊新聞襲撃事件への関与を主張する「アラビア半島のアルカイダ・フーシ派」拠点があるが、それを支援しているイランは、イラク中部のティクリート奪還作戦のイラク軍とシーア派民兵の指揮にイラン革命防衛隊司令官を関わらせる一方で、イラン核開発協議が山場を迎えており、米国の中東政策はイランを巡り、各地で相反した構図になっているややこしさだ。
「IS」をはじめとするイスラム過激派の各地での活動拡大を見てくると、「自由と民主主義」の価値観を共有する有志連合と共に「IS」と戦うと高らかに宣言した安倍首相が、どこまで、有志連合参加のアラブ・欧米諸国の個別の思惑や利害関係の複雑さを理解しているのか、疑問を感じざるを得ない。
民主党の自失で漁夫の利を得、衆参両院で連立与党の過半数を手にした安倍内閣が戦後レジームからの脱却を掲げて、不戦の平和主義を否定する一連の時代錯誤的な政策を強引に押しすすめる政治の立ち位置では、有志連合アラブ諸国の政治が、民主主義の定義からほど遠いものである実態も、さして気にならないのであろう。次回こそは、1971年のバグダッドにワープして、アメリカのイラク侵攻後、イラク人に略奪されたバグダッド国立博物館を訪ねることにしよう。
(76)(72)から4回に及ぶ寄り道で、「IS」に関する記事をたてつづけに書いたが、全篇随所でたくさんの寄り道をしてきたものだ。
3回目のバスラのベリーダンサー・娼婦の話からティツィアーノの有名なヴィーナス像のモデルがベニスの高級娼婦の一人だったことや、イラク戦争5年目(2008年)のバスラの大油田地帯の利権を巡り、マリク首相が率いる政府軍とサドル師の民兵組織マフディ軍(シーア派同士)が戦闘中であるなどを書いて、道草をしている。
それは初回に書いたように、『何でも見てやろう』の小田 実流に、1970年代前半のクウェイトでの仕事と生活を思い起しながら、あれから半世紀近くを経たアラブの現実との間を往還する意図の執筆だからである。
眠りこむ寸前の湯舟から立ち上ったのは正解だった。極度の疲れで忍び寄った睡魔がバスタブでの溺死を招いたかもしれないからだ。モースル往復の旅はかなり強行軍だった上、バグダッドへ戻ってすぐ、アハラムらをディスコクラブへ招待したのだから。モースルの街(初期アッシリアの砦の町)では、ユーセフの知人(アッシリア東方教会の神父/ヤズィーディー教のクルド老人/ガレージの若主人)に次々に会い、モースルの歴史と現実について得難い話を聞き、大阪万博や日本の経済発展について話をして、濃密な時間を過ごした。「IS」のモースル侵攻で、少数民族のヤズィーディー教信者を山岳地帯へ追いやったり、女性たちを捕虜(奴隷)にしたと報じられたが、45年前の私は、迫害を受けた人らの洞窟住居を訪れ、お茶を戴いたのだ。
モースルの博物館襲撃では、貴重な東西の文化遺産が破壊されるシーンがテレビ画面に映され、バーミヤンの岩山の巨大仏像が爆破されたときと同じ衝撃を受けた。「偶像」を禁止するコーランの教えの真意を全く理解していない「蛮行」と言うほかない。
この程度の寄り道的記述なら、全体の筋道を混乱させないだろうし、《アラブと私》の執筆の意図からも、読者のご理解をお願いしたい。次回では必ずタイムスリップして、バグダッドのホテルへ戻るとしよう。 (続く)
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