アラブと私
イラク3千キロの旅(111)
松 本 文 郎
(98後半)バスタブの溺死を免れ、ベッドに倒れこんで爆睡した私を翌朝起こしてくれたのは、ユーセフの強いノックだった。眠気眼で開けたドアから入ってきた彼の手に、昨夜告げられていた「土器」の紙包みがあった。バグダッド近郊の潅漑改良工事の現場監督をしていて見つけた古代の土器で、高さ20センチ、胴回り約10センチ、細い首の下の両脇に取手が付いている。胴には縦溝の素朴な模様がある。
「地中6メートル位でしたから、かなり古い年代のものでしょうが、これから行くイラク国立博物館の陳列棚で似ている土器を見つけましょう」と笑顔で言う。母親と朝食を済ませてきたユーセフを待たせ、食堂に下りる。冷い生のオレンジ・ジュースが喉を下ると、心身が一気にリフレッシュした。イド休暇の旅も最終日。夜中にはクウェイトに戻るので、充実した1日を過ごしたいと願う。
荷物をまとめてチェックアウト。駐車場のトヨペットクラウンに乗り込んだ。ユーセフの母親が持たせたクレーチャ、コーラ、オレンジがあるので、昼食と夕食は車中で済ませ、旅の残り時間を有意義に使うと決める。
バグダッドのイラク国立博物館には、5千年以上の歴史をもつメソポタミア文明の考古遺物を擁する世界でも屈指のコレクションが6部門に構成された数多くのギャラリーに展示されていた。シュメール、アッカド、バビロン、アッシリア、アッバースの各帝国の遺物展示は、整然と区分されていた印象だが、写真を撮っていないので、詳細の記憶はない。
博物館入口前に立つ彫像は、アッシュール・ナツィルパル2世。アッシュールの首都カルフの要塞内の神殿で発見され、神を崇拝してやまなかった王が完全な姿で出土した珍しいものという。玄関の両脇に、人の顔を持つ有翼の天馬の彫像があったようだが、1969年に訪れたペリセポリス(イラン)遺跡の中央階段レリーフの彫像に似ていた記憶がおぼろげに残っている。
館内の天井が高く、靴音やユーセフとの話声がよく響いた記憶もあるが、なんだか心許ない。アッシリアの財宝は、カルフの宮殿地下の王妃の墓から見つかった装飾品の数々や、要塞の井戸から見つかった象牙の彫刻などがある。王妃を美しく飾っていた耳飾り、ブレスレット、ベルトなどの素材は金(ある墓の副葬品には14キロも使われていた)のほか、ラピスラズリ、紅玉髄、水晶などの準宝石だった。
当時の工芸技術の水準は高く、宝石の加工技術はさまざまで、象牙彫刻も精巧だった。その様式からみて、これらの品々を作った職人たちがアッシリア帝国内だけでなく、周辺や西方の出身者もいただろうと思われた。
モースルからバグダドへ戻る途中の街はずれで遠望したアッシリア帝国最後の都ニネヴェからは、数万点もの楔形文字の文書が発掘され、軍事遠征の年代記、日常的な契約、書簡、行政文書のほかに、天文学や世界の様相などの科学的な探求記録もある。
アッシリア王アッシュール・バニパル(前668―627)のエジプトの首都テーベ略奪の様子の記録に「アッシュール神とイシュタル神のご加護によって、私はこの町のすべてを両手に収めることができた。宮殿を満たすほどの銀、金、宝石。美しい色の亜麻の衣装、立派な馬、男女の住民。純銀の2本の高柱(重さ7万5千キロ)は神殿の門に立っていたのをアッシリアへ持ち帰った」とある。アッシリア人は、打ち負かした相手への残虐行為を克明に文章や絵に描写し、歴代の王たちは、略奪した品々の一覧を作っているが、侵略が富の流入をもたらし、毎年の貢物や租税が資産の増加につながったことが明らかになっており、征服地の住民の強制移住によって、帝国人口をはるかに上回る労働力を確保した。
都市に作られた宮殿、神殿、庭園のすばらしさを寄り道で書いてきたが、それらの遺跡がみすぼらしいのは、泥の日干しレンガの建造物が崩れ、シリアの山中から運んだ杉材が腐食して、原形を失ったからである。都の町並みを美しく整えたアッシリアとバビロニアは、郊外の開発も進め、灌漑整備で農業振興に努めた。アッシリアでは、都市ニネヴェに水を引く灌漑が整備されたが、雨が少ないバビロニアでは、メソポタミア南部に灌漑網を張り巡らせて、人工的給水で作物を育てた。このインフラ建設には、外国から連れてこられた住民が動員されただろうと書かれたアラビア語の説明書きを、ユーセフが読んでくれた。
「私が現場監督で関わったバグダッド近郊の灌漑改修工事は、紀元前に建設されたものの上に重なっているのではないでしょうか。ホテルで差し上げた土器の年代を知るために、古代の生活用具を陳列する部門の室へ急ぎましょう!」
夥しい生活用土器が並ぶギャラリーの説明を読みながらユーセフが解説してくれたのは、「生活土器の生産に従事したのは女性/初期の土器は細い矩形の粘土を輪積みして作ったので、厚く、ごつい感じ/自分の髪を梳いた櫛で模様をつけた櫛目模様/豊かな三日月地帯の原始農耕と共に無文土器が彩文土器へと発達したのは紀元前5千―3千年の頃」など。
古代の生活土器の出土した地層図も掲げてあり、ユーセフが見つけた6メートルの深度と胴の櫛目模様とから、4千―3千5百年前位かと推定した。
このイラク国立博物館は、イラク戦争の騒乱に乗じて約1万5千点の像などが密売目的で略奪された。その後、イラク国内外で発見された約6千点の内約4千3百点を関係者の忍耐強い努力で回収した博物館は、今年(2013年)2月、展示の再開にこぎつけたと報じたが、モースル博物館で起きた、「IS」戦闘員による貴重な古代石像の破壊に対する反発を示すためという。
(99)ユーセフからもらった櫛目引きの土器が、紀元前2千5百年~2千年位のものと勝手に断じた私は、その先の収蔵品を足早に見て、博物館を後にした。
「バグダッドへの往路の夜半に通過したシーア派の聖地カルバラ(『カルバラの戦い』「11」参照)の第3代イマームの聖廟に立ち寄り、今夜中にクウェイトへ着くのはかなりきつい行程です」トヨペットを飛ばしながら、ユーセフは言う。
ユーセフがシーア派・スンニ派のイスラム史を話してくれたのは、サマーワの茶屋(往路)で休憩して、クレーチャ(ナツメヤシの餡、ココナツ、クルミなどをパイ生地で包んで焼いた菓子類)とペプシコーラを仕入れて、国道をかなり走ったときに遭遇した交通事故(「8」参照)がきっかけだった。
前方に、テールランプを点滅させる車列が目にとまり、対向車線の車の合間を計って、徐行しながら事故現場を通り過ぎたとき、路肩の下で傾いた車のルーフに、白布で包んだ細長い荷物を見て不審そうな顔をした私に、「あれは、イランから運ばれてきたシーア派の人の遺体で、カルバラの聖廟に埋葬するためです」とユーセフが教えてくれたのである。
カルバラにあるイマーム(預言者ムハンマドの血筋アリーとその子孫)の墓廟はシーア派教徒の聖地で、信者のための巨大な墓地があり、聖地での埋葬を遺言された家族は、イランから千キロを超す行程をものともせず遺体を搬送する。世界のイスラム教徒の約90%はスンニ派。
16世紀初頭にシーア派が国教となったイランでは国民の圧倒的多数を占めており、イラクやバハレーンでもシーア派は多数派で、パキスタン、インド、アフガニスタン、レバノン、サウジアラビア、クウェイトなどでは少数派だが、シーア派をめぐる状況は国ごとに異なり、シーア派とスンニ派の関係も多様で、両派の対立を教義面だけで捉えると、その背後にある政治的、経済的利害関係を見落とすことになると幾度も記してきた。
ともかく、シーア派とスンニ派との間には緊張や争いを経験しつつ共存してきた歴史の存在をしっかり認識することが大切だ。イラン・イラク戦争をした両国が共に、「IS」と戦っている今の情況を、教義の相違からだけで解明することできないと思われるが、カルバラへ向かう車中に戻る。
カルバラへは、バグダッドからバスラへ向かう国道から分岐した道を行き、聖廟の広いパーキングにトヨペットを停める。車を降り、四隅にミナレットが立ち、長大な塀に囲まれた聖廟の門へと歩きながら、「異教徒がここへ入ることは許されていませんが、チーフとクリスチャンの私が妙なそぶりをしないかぎり大丈夫ですから心配されないように!」と耳元でユーセフが囁いた。
中に入ると、正面に荘厳なモスクの入口が見え、他の3面には林立する柱列に囲まれた回廊が巡っている。広場の中央に、水を張った小さなプールがあり、人々が手足を清め、蛇口の水で口を漱いでいる。
「モスクの中に入るのは遠慮して、この辺にしばらく居てから退出しましょう」
回廊を担架のようなものを担いでゆく人たちがいて、白布に包まれた遺体が運ばれているのが見えた。回廊の奥に墓地があるのだろうか。
1971年に訪れたこの聖廟で、30余年の後、「IS」の前身とされる「イラク・アルカイーダ」によるモスク破壊があったが、社会主義バース党のスンニ派政権下では、イランからの遺体搬送が日常的に行われていたのである。
咎められることなくて聖廟を出た私たちは、一路、久しぶりのクウェイトをめざして、交代でハンドルを握った。 (抄録 了)
〈完結のごあいさつ〉
『アラブと私 イラク千キロの旅』は、JCJ(日本ジャーナリスト会議)「広告支部ニュース」に9年間にわたり掲載されたものを、この《松本文郎のブログ》(開設・編集・管理:森下女史)に転載していただきました。長い間ご高覧の読者と関係者に、こころから感謝申し上げます。
この長期連載の執筆を勧めてくださった矢野英典さん(JCJ会員・「憲法九条の会 浦安」元事務局長)が、われらが「見明川住宅団地」から故郷の讃岐へ帰られて、数年が経ちました。
豪放快活だった矢野さんとの浦安での日々が懐かしく思い出されますが、これも。「サヨナラだけが人生だ」でありましょう。
『イラク3千キロの旅』の執筆は、ブッシュ(子)政権の“イラク侵攻”(2003年)が、イラクの旅(1971年)で出会った友人たちの暮らしと人生に、言葉を失うような悲惨を及ぼしたことへの憤りが動機でしたが、その侵攻が産んだ鬼子の「IS」の出現で、中東地域(イラク、シリア、リビア、イエメン)では今、非戦闘員・家族が現実の地獄絵に直面しています。
イラクで2番目の都市モスル(人口百万人)では今(2016師走)、政府軍による「IS」掃討作戦で多数の避難民や死傷者が出ています。45年前に訪れたモスルで出会った人びとの安否を想うと、胸が締めつけられます。
(モスルの「IS」掃討作戦の行方)
かつての戦闘で、人数で「IS」を圧倒していた政府軍が戦車・重火器を投げ出して敗走したのを米軍顧問団が深刻に受けとめ、政府軍・シーア派民兵の戦闘訓練に長期間取り組み、イラク・有志連合は、奪還攻撃の準備を数カ月かけて進めてきが、米海軍特殊部隊「シールズはモスルの北の前線の戦闘指導でクルド人戦闘員を支援しているときに、「IS」戦闘員に殺害されており、 米国はこの作戦に兵器を提供し、イラク警察やスンニ派戦闘員も参加している。米軍の無人機がモスル市街地の「IS」が潜伏しているとされる建物を爆撃したあと、地上軍が建物を虱潰しに捜索して「IS」を追い詰めるという。
装甲車列がモスル市内に入った映像を見たが、45年前にトヨペット・クラウンで通った大通りの街並みはなかった。
米軍無人機はどこで操作しているのだろうか。現地の情報に基づいて米国内で行うこともあるのだろうか。シリア政府側で、反政府軍やシリア国民の居住地(学校・病院までも)を空爆して国際社会の非難をあびているロシアは、米国のモスル空爆で、一般市民が殺戮されていると互いに非難の応酬だ。
第1次世界大戦終結の折の英・仏・ロ3国の密約でオスマン帝国の版図に強引な線引きをしてシリア、イラクほかのアラブ諸国が生まれたのが、そもそもの“中東の悲劇”の発端であると、再三、記した。
「IS」は、2003年のイラク侵攻から3年後の2006年、反欧米を掲げるアルカイダなどイラク国内の過激派組織が合流して名称を変えながら活動を続け、2014年6月、イラク第2の都市モスルを占領し周辺都市を陥落させて、「イスラム国」という“国家”をつくったと一方的に宣言した。
シリア北部のラッカを“首都”と主張し、拡大した支配地域で国家的統治機構や“県庁”のような行政機関、住民を監視する宗教警察をもつ。外国人戦闘員の多くは中東、北アフリカ、欧州等から集まり、80ケ国以上の1万5千人が参加しているという。(朝日新聞「用語解説」の抄録)
イラクによるモスル奪還作戦は、百万市民を盾にする「IS」の土壇場のあがきで多くの住民死傷者が懸念されている。戦争でひどい目に遭うのは、いつでも、どこでも住民たちで、第2次世界大戦以後にも、強奪、強姦、殺戮の“インフェルノ”が世界各地に現出した。
米国のベトナム戦争のみならず、三笠宮崇仁親王は、“聖戦”を謳い文句にした関東軍の暴虐について、勇気ある証言を遺された。余談だが、三笠宮は古代オリエント学の泰斗で、この連載の第5回(バスラの公園で旧約聖書『創世記』の話をユーセフとした場面)で、親王著『文明のあけぼの』に、「ノアの洪水・箱舟」と『シュメル神話』の関わりについて、興味深い指摘があると記されている。
モスル攻防では、「IS」による住民殺戮の一方、イラク警察の制服を着た集団が、住民を殺害・拷問しているのを国際人権団体アムネスティ・インターナショナルが非難したとCNNが報じた。
折しも米国新大統領にトランプ氏が選ばれた。頭角直後のスピーチや各国首脳らとの電話会談やオバマ大統領との会談ではこれまでの暴言は鳴りを潜めているが、中東地域への米国の関与にどんな“トランプ・ドクトリン”が出るのか。イラク・シリアの紛争地域には、アサド・シリア大統領、プーチン・ロシア大統領、エルドアン・トルコ大統領に加えてトランプ新米国大統領が加わり、“コワモテ”統治者のオンパレードの観がある。
米国の軍産複合体による軍事介入、国連安保理の常任理事国やグローバル武器商人が紛争地に持ち込む武器弾薬が、平穏だった無辜の街や村を破壊し、住民の暮らしを絶望のどん底に落としている。“中東地域の悲劇”は、第1次世界大戦後とイラク侵攻後の二度にわたる欧米列強の謀略・介入から生じたと言っても過言ではなかろう。
大規模なモスル奪還作戦に対する「IS」の抵抗は続いているが、数カ月ののちに「IS」が駆逐された場合、モスル復興のイメージと工程表は描かれているのだろうか。スンニ派・クルド住民が大多数のモスルが、シーア派イラク政府や国境を接するトルコ(オスマン帝国復活をにおわせるエルドアン強権政治)の思惑で、「IS」支配の傷跡修復に齟齬が生じないよう祈るばかりである。
シリア・イラクの「IS」の弱体化が進み、外国から参加した戦闘員が出身国へ戻りつつあるとされるが、なかでも、中央アジア出身の戦闘員(数千人の試算がある)による新たなジハード(聖戦)拡散が懸念されている。その活動拠点と見込まれるのが、「フェルガナ盆地」だという。
中央アジアは、ソ連が崩壊したあとで旧ソ連自治共和国から独立したカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンと中国新疆ウイグル自治区とに分かれ、ロシア、中国、イランの大国に囲まれて、テロが多発するアフガニスタン、パキスタンと国境を接している。
石油、ガス、ウランなどのエネルギー資源、レアメタルなどの鉱物資源に恵まれた、世界の大国にとって地政学的に重要な地域、中央アジア諸国の国民の大多数はイスラム教スンニ派である。
ダンテの『神曲』の“インフェルノ”ではないが、イラク・シリアの住民が地獄の火中にある現状を、中東紛争“火つけ”の英・仏・ロの3カ国ほか大国が連携して“火消し”を務めるか、中央アジアの各種資源をめぐる覇権争いに現を抜かすかが、これからの「IS」のジハード拡散を左右すると思われる。
アフガン・イラク戦争で独善的に世界の警察官を演じた米国で、トランプ次期大統領が指名した国務長官や元司令官・閣僚らが「強いアメリカをとり戻す!」ために何をするのか。世界中の耳目が注がれている。 (了)
写真は、英文Wikipediaから。
ダンテが神曲を手にして、フィレンツェの城壁の外に立っている。中央の螺旋状の道がついている山が煉獄。1465年に描かれたDomenico di Michelinoのフレスコ画。
出典:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dante_Domenico_di_Michelino_Duomo_Florence.jpg