晩節の〝選択〟 松本 文郎
3度目のガン告知
3月3日(雛祭り)、人生で3度目の“ガン告知”を受け、晩節の生き方の“選択”を迫られました。ガンの部位は、24年前(平成4年)の食道ガン手術の吻合部で、残った食道下部と胃を形成した「胃管」上部の接合箇所(喉下27センチ)。吻合部を塞ぐように大きい腫瘍は、末期の「胃腺ガン」と告げられました
昨夏辺りから、みぞおちに痛みと違和感が生じて、食べたものの通りが悪くなっていましたが、24年前の食道ガン手術以来、膵液・胆汁の逆流防止で上半身を斜めに起こして寝ていた姿勢が、その頃患った軽い頚椎症の辛い筋肉痛で乱れ、その結果で生じた強力な消化液の逆流による炎症と考えていました。
24年前の“ガン告知”はまさに青天の霹靂でしたが、即時入院と食道全摘出を静かな口調で勧める医師の前で、一瞬アタマが真っ白になった記憶はいまも鮮明です。
早期ガンの発見と10時間余の手術の成功で九死に一生を得させて下さった、元関東逓信病院消化器内科・桜井幸弘先生と外科・伊藤契先生が、24年を経て、今回の告知に関わられたのは、まさに運命的な“ご縁”というほかありません。
伊藤先生には、食道全摘手術からの24年間(関東病院を定年退職されてお茶の水の三楽病院へ移られてからも)、CEA(食道がんマーカー)血液検査と逆流による炎症防止薬の投薬で3ケ月毎にお世話になってきました。
今年に入って間もなく嚥下物の通りが難渋するようになり、伊藤先生から、「桜井消化器科内科」(桜井先生が10年前に定年退職して五反田駅前に開設)の受診を薦められました。桜井先生は、平成4年、東京中央健康管理所の胃のバリュウム検査で初めての胃カメラ検査を指示されて受診した関東逓信病院の担当医で、「軽い胃炎ですから、心配ないですよ、」と、カメラを引き上げるとき食道内部から目を離さずにいて、初期の食道ガンを見つけてくださったのでした。
胃の検診だけで終えられていたら私の今はないと感謝を新たにした、24年ぶりの再会でした。
「食道がんの大手術を受けた人の24年後の状態を見るなんてネ」と開始された内視鏡検査で、吻合部に生じた大きな腫瘍が「胃管」の入口を塞いでいる映像がモニターに映し出され、「これは大変なことになっています」とのご託宣。
腫瘍から採取した組織の「生検」による「胃腺ガン」の診断書と内視鏡検査の映像(FD)を預かり、三楽病院の伊藤先生に届けました。
伊藤先生の指示で、腺ガンの広がり状況を見るために撮ったCT画像で、あちこちのリンパ節に転移している様子が分り、もう手術をする段階ではなく、X線も効き難く、抗ガン剤治療だけが残る積極的治療と告げられたのです。
CT検査結果と治療方法について伊藤先生の話を一緒に聞いた妻お千代(千代子)の想いは、抗ガン剤による延命治療への望みと治療で苦しんだ挙句の“別れ”となる怖れの間で揺れているようでした。
自己免疫力を信じて
誰しも、一人で生まれてきて、一人で死ぬわけです。この世に“ご縁”を戴いて、両親、兄弟、妻、子供や孫と出会い、学友、職場・地域の友人知人と共に様々な日々を過ごしてきた、わが人生です。来年で結婚60周年を迎え、お千代からは、「女性の平均年齢までは、そばにいてね」と頼まれていた矢先、思いがけない事態に直面することになりました。
ガン告知の次の日曜日(3月5日)、息子・娘夫婦に家に来てもらい、晩節の生き方の“選択”を伝えて、みんなの意見を聞きました。
その“選択”は、一切の積極的抗ガン治療を受けず、これまでの生活習慣と生き方を続けて、享受している今の「生活の質」を可能なかぎり維持したい/ガンが増大して吻合部を塞ぎ、食事が通らなくなれば、伊藤先生と浦安の在宅診療医の連携で、介護保険によるケアマネージャー・介護支援チームのお世話で、在宅での終末(自宅で死を迎える)を穏やかに過ごすことです。
娘婿は仕事柄、ガンなど高齢者医療の現状に詳しく、私の選択に賛意を示し、息子・娘も同調してくれました。家族みんなが、“生活習慣”と“生き方”による自己免疫(治癒)力の活性化を信じてくれたことは、私にとって、力強い励ましです。
6日、三楽病院の受診で伊藤先生に家族会議(?)の様子を伝え、私が選択した晩節の生き方への支援を、妻と一緒にお願いしました。
難しい「食道全摘手術」を執刀された伊藤先生(当時35歳前後)は、当時、「先生のお陰で再びのいのちを戴きました」と感謝した私と妻に、「松本さんの生命力のお手伝いをしただけです」と謙虚に応えられ、回診の折、ベッドわきのミヒャエル・エンデ著『モモ』(Momo)を見つけ、「私も読みましたよ」とやさしく言われた「仁術」の医師です。
最高の徳のある医術を「仁術」といいますが、“人偏に二”の文字が示すように、医師と患者の2人で取り組む医療の意味もあるとされ、深い“ご縁”の伊藤先生に3度目の“いのち”をお預けするのは、願ってもない幸いと感じています。
食道ガン手術と再生
最初の初期食道ガンの告知は、「幸運にも初期で見つかったガンは内視鏡手術でも取れますが、まだ若い松本さん(58歳)には再発の可能性もあるので、全摘出手術を受ければ最低20年は請け合います」と言われた関東逓信病院消化器内科部長(日本における内視鏡開発の先駆者)の「余命○○です」ではなく、「○○年を保証します」のご託宣に心底ビックリしながらも、なぜか、「では、よろしくお願いします」と即答した私でした。
“告知”を病院の公衆電話から妻に知らせると、「医師に返事をする前に相談してほしかった」と叱られましたが、ご託宣より4年もの長い“再びのいのち”を得させていただいた私です。
腹部と背部を開く「食道全摘出手術」は当時の最新術式で、旧式では胸部を開いて心臓と肺の裏側の食道切除に20時間以上かかったそうです。胃ガンや肺ガンに比べて大へん羅病率の低い食道ガンですが、私の生還後の数年間で高校・大学の学友4人が手術を受けましたが、早期発見でなかったためか、2年以内に鬼籍に入りました。小澤征爾さんと桑田佳祐さんが同術式を受けてお元気で復帰されているのは、本当に“ご同慶の至り”です。
“鬼手仏心”伊藤先生の見事な手術のお陰で、手術中の輸血や術後の抗ガン剤投与もなかった私は、食べたものが喉から十二指腸へ直通の“新しい消化管”(食道残部+胃管)を馴化させる特製“愛妻弁当”を持って会社へ通勤する日々が半年ほど続きました。柔らかく調理されたおかずを50回も噛んで飲み込むには時間がかかりましたが、根気よく続けた結果、会社の仲間も驚く回復ぶりで、その後も体力増強と健康維持に努め、自律的に組み立てた生活習慣(食事・運動・睡眠など)をひたすら実践して、今日に至っています。
2度目の前立腺ガン
今から6年前、前立腺PSAが30(基準値の7倍強)を超えて受けたMRI検査で、担当医から「進行ガンと思われるから、早く薬事治療を始められた方がいいですよ」と勧められました。
高齢者に多い前立腺ガンは、元職場仲間の関心も高いので、《日比谷同友会(NTT本社OB・約3千4百人)》の会報に寄稿したエッセイの中で触れたところ、前立腺ガン手術や治療を経験した多くの友人知人の助言や忠告、同会健康相談室の小西敏郎氏(NTT東日本関東病院元副院長)からも治療を勧められましたが、「生活の質(QOL)を変える可能性のある治療は受けません」と治療しないことを決意してから5年余がなにごともなく過ぎました。
ところで、2月末の血液検査の前立腺PSAは558の脅威的な数値で、「胃腺ガン」を撮ったCT検査映像に、前立腺ガンと思われる(断定は「生検」に拠る)ものがはっきり見えると告げられました。
人事を尽くして天命を待つ
近代的医療の進歩発展の成果の一つ「食道全摘出手術」で再びのいのちを得た私は、決して、“積極的ガン治療”に否定的な考えをもってはいません。ガンの種類、年齢、生活・仕事環境等、様々な要素が複雑にからむ「ガン治療」には、百人百様のケースがあるでしょう。
病院の「ガン治療」の現状は、消化器・呼吸器・泌尿器等に専門分化した医師や手術・放射線治療、抗ガン剤治療を得意とする医師たちが、“検査で見つけたガンを小さくしたり、取り除いたりする”のが専門で、そのガンでどんな生活上の支障が生じるのか、その痛みがどんなもので、患者をどんな風に苦しめるのかを専門的に研究している人は少ないのではないでしょうか。
つまり、病院勤務の専門化した医師の役目は、手術・放射線治療・抗ガン剤治療など基本的な医療介入をして症状を無くし、軽くし、痛みを抑え、死ぬ時期を延ばしたり(かえって短くなることも!)するもので、患者の生活上の不具合を想像したり、対処することを求めるのは難しい
と思われるのです。どんな医療介入で「生活の質」にどんな支障が出るのか、「余命○○」と宣告された患者の延命になっているかを、しっかり考え、治療方法を選択するのは患者自身なのです。
高齢者の末期ガンと向きあっている私の「ガン治療」の選択は、近代医療の積極的な「抗ガン治療」の知見だけでなく、古今東西に伝わる“病気養生”の知恵(智慧)を加えたいのです。
6月25日で満83歳になり平均寿命を超えた身で、積極的な抗ガン治療を選ばなかったのは、決して“座して死を待つ”ではなく、「天は自らを扶く者を扶く」を信じて、自分なりに精一杯の努力をし、「人事を尽くして天命を待つ」との“選択”です。
世の多くの男たちは伴侶より先に逝くことを望んでいますが、どちらが先かを選べるものではありません。敬愛する人たち(城山三郎、永六輔、新藤兼人さんら)はそれぞれの最愛の伴侶に先立たれ、追慕の日々を過ごされました。後に残された者の悲しみを想うと、結婚60周年記念日が間もなくのお千代と一緒に過ごす日々の長いことを願わずにはおれません。
人事を尽くす①:食事(栄養)
心身の健康を維持するには、基本的な栄養素の蛋白質・糖質・脂質とそれらを活性化する蛋白質とアミノ酸が体内に十分あることが大切なのに、食べたものの通りがとても悪くなった現在は、これらの栄養素をできるだけ食事で摂取し、不足分をいかにして補うかが、日々の課題であり、私の“大仕事”となりました。
胃腺ガンが狭めている吻合部をなんとか通過さようと、お千代が24年前に工夫して作ってくれた3大栄養素に富む柔らかい食事をしっかり咀嚼して食べ(毎食、1時間半以上かかります)、不足分は、娘婿が関わる総合栄養補助食品事業部の製品を数種、補完的に摂取しています。
近代医療の埒外の“民間療法”と呼ばれる「食事療法」や「薬事療法」で、末期的ガン治療に大きな効果があった記録・報告は少なくありません。妻のお千代が友人や知人から聞いてきた、根菜(大根・人参・蓮根・長いも・牛蒡等)スープや緑黄色野菜の生ジュースを毎日作ってくれています。
また、ロシアでは古くから薬効が知られ、ノーベル賞作家・ソルジェニツインの『ガン病棟』で一躍脚光を浴びた「カバノアナタケ」(シベリア霊芝、サルノコシカケの1種)が免疫機能を活性化する「β―グルカン」を多量に含有し、これを服用した高齢者の末期の肺ガンが消えたという知人の勧めで、普通のお茶のように日に数回飲み、「味の素」社が開発中の試供品(免疫力を高め回復をサポートする「シスチン」「テアニン」を多く含む)も服用しています。
いま一番の気懸かりは、吻合部の悪性腫瘍が大きくなって生命保持に必須の栄養と水分を摂取できなることです。そうした深刻な状況を迎えないために、2度目のガン告知で治療をしないでも「生活の質」に特に変化もなく過ごせた事実を踏まえ、その“生活スタイル”の継続を“選択”したのです。
それは、「人事を尽くして天命を待つ」の実践で、自律的「生活習慣」(心身の健康に望ましい食事・運動・睡眠)と「地域での生き方」(定年退職後から楽しんできた<唄い><描き><詩文を書く>の趣味や特養老人ホームへの月例訪問、近所の公園を育む会のボランティア活動)等が自己免疫力の活性化をもたらした経験をさらに続ける“選択”です。
人事を尽くす②:ストレッチなど
末期ガンの高齢者だからこそ、心身を柔軟にして、血行をよくする全身のストレッチや朝夕の散歩を励行しています。
目覚めてすぐのストレッチは24年前の入院中(4ケ月)に自己流で編み出して続け、ヨーガの基本ポーズを含む10種と顔面(鼻・耳・喉・全体)と頭蓋・頭皮のマッサージもやります。
始めと終わりにする緩急の腹式呼吸と合わせ20分ばかりの日課で、ドーパミン・セロトニン・アドレナリンが脳内に湧き出し、朝型高血圧が安定するのを実感します。
朝夕の散歩は、住まいに近い川沿いの遊歩道と近隣公園内の周回とで5、6千歩くらいですが、ひたすら歩くのではなく、川の魚たち〈稚鮎、スズキ、ボラ等〉と鳥たち(川鵜、鴨・鷺類)や街路樹の桜並木、公園の木立・花壇などの四季折々を楽しみながら散策しています。
カロリー不足になる前は、週2、3回プール(水中歩行や水流利用の各種運動)に通っていましたが今は中止して、筋肉量低下を少しでも防ごうと、自転車でスーパーへ買い物に行きます。
人事を尽くす③:睡眠
睡眠は健康にとって重要な要素です。夜の睡眠は6時間前後(約1時間の昼寝)で1時間半毎にトイレに起きますが、その都度の“寝入り”はよくて朝の目覚めも爽快です。朝のストレッチと併せて、体と脳がリフレシュし、気分よく、食欲もあり、一日が意欲的に始まります。
眠りにつく前の今日一日の無事を感謝し、明日の心地よい目覚めを祈願する習慣で、良い眠りを享受していると感じています。
人事を尽くす④:趣味あれこれ
定年退職後の自在な時間の中、少年時代に好きだった音楽<唄い>・絵画<描き>・文芸<詩文を書く>日々を楽しむようになりました。これらの趣味の文化的な活動が心身に及ぼす影響と与えるエネルギーは計り知れません。
男声・混声のいくつかの合唱団に所属して30余回の「第九」演奏会や各合唱団の定期演奏会の練習・ステージを楽しんできましたが、昨年秋の日本建築学会男声合唱団30周年記念演奏会を最後に、合唱団活動から身を引きました。
数年前まで、個展『文ちゃんの画文展』を大阪・東京で開き、手作りの「画文集」を頒布した以降は、2つの「絵画グループ展」と「浦安市美術展」への出品だけとなりました。
詩文では、NTT社歌『日々新しく』、浦安合唱連盟創立20周年記念歌『みんなの歌』ほかがありますが、これからも、終末に向かう日々の想いを書いて「松本文郎のブログ」へ掲載します。
昨年の暮れに8年余の長期連載『アラブと私 イラク3千キロ』を完結して『新・浦安残日録』をスタートしたのも、なんだか、“天命”のように思えてくるのです。
人事を尽くす⑤:終の棲家と地域
29年前に浦安を終の棲家と決めたのは、ディズニーランドがあるからではなく、海と川のあるこの街に私たちが、瀬戸内ふるさと福山の原風景に通じるものを感じたからでした。
会社人間のころの人付き合いは職場関係の人々が中心でしたが、定年退職後は地域にある複数の合唱団、俳句の会、小説・エッセイの文芸クラブ、絵画クラブなどの文化活動やボランティア活動で、地域在住の知人友人がたくさんできました。見明川テラスハウス住宅地(481戸)自治会・住宅管理組合・シニアクラブの関わりでも、近隣の人たちとほどよい親しさのお付き合いをいただいています。
“終の棲家”は終末を迎える場所ですから、末期ガンの身にこれからどんな事態が生じたとしても、病院ではなく、自宅で介護を受けて、家族に囲まれて死を迎えたいのです。
食事が十分にとれない現状では、これまでの活動範囲を縮小するほかなく、「ふれあいの森公園を育む会」や特別養護老人ホーム訪問の《歌の花束》(毎月)の社会的ボランティア活動は当面は休止させてもらい、自己免疫力の維持に有効な「生活習慣」の自律的実践に専念する日々を積み重ねたいと思っています。
末期ガンでもやりたいことがある
私が“選択”した末期ガン養生を支えているのは、食事(栄養)/運動(ストレッチと散歩)/睡眠などの「生活習慣」のひたむきな実行で活性化した「自己免疫力」で、前立腺ガンの治療を受けない5年余をなにごともなく過ごせた事実です。
こうした「自己免疫力」による末期ガンの進行遅延や治癒の可能性を伊藤先生は否定されてはいませんが、「現然とあるガンが吻合部を塞ぎ食事が通らなくなれば、栄養補助材を注入する対症療法をほどこせばよく、思索や文章執筆は続けられますよ」と揺れる不安一掃の言葉を下さっています。
慌しい現代社会を駆け抜けるように生きたときは、我々はどこから来たのか/我々は何者か/我々はどこへ行くのかというゴーギャンの画題の人類社会の根源的な問いについてしっかり考える余裕はありませんでしたが、人生の終末期で末期ガンを宣告された今、青春時代から続けてきた“思索”の総括を、可能な限りやりとげたいのです。
日比谷同友会会報(2017年新年号)に寄稿したエッセイ『トランプ政権についての新年所感』に書きましたが、国際社会の政治、経済、社会の混迷の深刻化を目の当たりにして、天与の残日がどれほどか知る由もない身でも、生を享けたこの国と国際社会の行方について、思索と執筆に勤しむ晩節が一日でも長いことを願ってやみません。
私の“からだ”を形づくり、私の“こころ”を働かせている60兆個(37兆個?)の細胞は、死滅/生成を繰り返しながら、新陳代謝をしています。
その細胞が“ガン化”した細胞も私の一部ですから、高齢者の末期ガンには積極的抗ガン治療で敵対するよりも、2兆個の自己免疫(治癒)細胞らが活性化する“生活習慣”と“生き方”とで柔軟に向き合う方が、穏やかな終末を迎えられると信じて、終末期の森羅万象を「松本文郎のブログ」の『新・浦安残日録』に書いてゆこうと念じています。 (2017.3.24深更)