アラブと私 
イラク3千キロの旅(14)
 
              松 本 文 郎 
                        
「ユーセフ。キミはエンジニアでクリスチャンだというのに、イスラムの歴史に詳しいんだね」 
「そうでもありません。『カルバラの戦い』の物語は、アラビア半島を統一したイスラム教の創始者であるムハンマドの跡目争いの話ですから、誰でも知っています」
「そういうことなら、日本にも平家物語という、時の政治権力の軍事集団だった平家と源家の軍記物語があるんだ。ボクの年代ならほとんどの人が知ってるよ」
 平家一門の栄枯盛衰を記した長大な叙事詩的物語は、仏教的な無常観で貫かれ、盲人法師に語られて伝わったという。琵琶の伴奏で語られる「壇ノ浦」の平氏全滅のシーンが、子供心にも涙を誘ったのをおぼえている。
「ボクら日本人が読んだり聴いたりする軍記ものでは、強い方より弱い方、勝った側より負けた側に、同情や贔屓が集まる『判官びいき』というのがあるんだけど、アラブではどうかね」
「争いや戦争をするからには勝つ方がいいにきまってますが、崇拝する人物や英雄が殺される話には、やはり同情しますね」 
 全滅したフセインとその仲間たちが埋葬された地カルバラはその後シーア派の聖廟となり、殺されたイマームを慕う教徒が自らの死後、この地への埋葬を願うようになって二十世紀の今日まで続いている。
 一方、捕虜になったフセインの女性親族たちは、病気で戦いに参加できなかったフセインの息子と共にクーファ経由でダマスカスに連行されたという。
 その後解放された遺族たちはメディナに戻ることができ、フセインの息子が第四代イマームになったので、ムハンマドの血縁は保たれたようだ。
 源平の争いの歴史でも、源義頼が平清盛を討とうとして起こした平治の乱で義頼が敗れた年に生まれた義経は、捕らえられたが死を免れたために、平家壊滅の「壇ノ浦の戦い」で活躍した。
 幼いときに講談社の絵本で読んだ牛若丸の物語は、ユーセフにとっての「カルバラの戦い」と殉教した第三代イマームのフセインの物語に重なるようだ。
 平家を滅ぼした戦勝功労者の義経は、後白河法皇の計略で異母兄の頼朝に追われる身となって各地を放浪した挙句、自殺して果てた。
 清盛が牛若丸を殺していたなら、この若き悲劇の英雄は存在せず、「義経記」や「判官びいき」の言葉も生まれなかっただろう。
 私は、ユーセフの熱のはいった口演に応えようと歌舞伎の『勧進帳』『船弁慶』のシーンのさわりを話してやった。
『勧進帳』で放浪途上の義経一行が、忠実な家来、武蔵坊弁慶の主を想う真情と機知で「安宅の関」を無事に通過するくだりは、話しながらウルウルとくるところ。
 アラブから帰国して五年後に長唄を習い始めたが、吉住小桃次師に教えていただいた演目は三十余りで、『勧進帳』『船弁慶』にも出演した。
『船弁慶』も源平合戦の物語の一つで、能・歌舞伎など日本の芸能文化の洗練された出し物だが、主人公は、武蔵坊弁慶ではなく、平家の武将、平知盛だ。
 源氏に滅ぼされた清盛後、頭梁にかつがれた三男の宗盛が凡庸なために源氏との戦いに対処できず、 平家一門の運命は知勇に抜きんでたこの知盛に託されたのである。
 知盛が率いる平家は源氏の内紛に乗じて、一旦は勢力をもりかえしたが、義経の奇襲戦法に追い詰められた壇ノ浦で一族もろともに滅亡。
 平家物語に、「見るべきものは見つ、今はただ自害せん」と言って、二領の鎧を重石の代わりに着て、海に没したとある。
 いつの時代の戦争も、多くの人間が殺し、殺されるという愚行であり、今も進行しているアフガンやイラク、ガザ地区などでの殺戮と暴力の応酬もまさにそうである。
「人間はなぜ戦争するのか」は、私のライフワーク『私的・人間の探求』の重要なテーマの一つ。
 古代ギリシャのホメロスが書いたとされる二大叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』や中国の『三国志演義』などは、本格的な戦記物語の古典であり、貴重な文化遺産である。
 源平の合戦が日本文化に鮮明な足跡を残したのは、卓越した文学作品『平家物語』があったからだろう。
『アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)』も、アラブ民族の争いでカリフや王朝交代が絶えないイスラムの歴史を色濃く映しだしているではないか。   
 先日(二○○九年四月)、三国志の映画「レッドクリフⅡ」をみたが、少年時代に映画好きの父親とみたエノケン主演の「水滸伝」を思い出した。
 戦記物語には、さまざまな歴史人物の数奇な運命が描かれ、良くも悪くも、戦争という過酷な状況の中ならではの人間の姿が鮮やかに表されている。

「カルバラの戦い」から数年後、シーア派の一団は、フセインを死に追いやった自責の念から、幾度かの殉教覚悟の蜂起でウマイヤ朝への抵抗運動をした。
 その中に、初代イマーム・アリーとハウラという女性の間に生まれたフセインの異母兄弟を救世主とみなす反ウマイヤ朝運動「ムフタールの乱」があり、一時はクーファを支配するほどだったが、二年後には鎮圧されてしまった。
 ほかの抵抗運動もすべて政治的な完敗に終わったシーア派は、政治への関与に否定的となり、預言者の孫を惨殺させてしまった罪をあがなう追悼儀礼を行う宗教的な運動に向ったという。
 まだ、カルバラについて記したいことがあるが、詳細はクウェイトへの帰路に立ち寄った折りとして、見出しだけにとどめよう。
☆七世紀の「カルバラの戦い」から千四百年を経た一九八○代、カルバラの名が戦争の作戦名に登場。イラン・イラク戦争でのイラン側の「カルバラ作戦」で、由来は「カルバラの戦い」という。
☆イラク戦争の米軍侵攻の際、カルバラ市一帯での会戦でイラク軍の強固な抵抗に遭った米軍は撤退を余儀なくされた。
☆二○○八年八月。治安回復が伝えられたカルバラのシーア派宗教行事に参加した三百万人以上の信者を狙ったテロで、多数の死傷者が出た。宗教間対立 
をねらうテロリストにとって、巡礼団は格好の標的だという。道路脇の自動車爆弾や女性の自爆による。
☆イラク戦争の激戦地にもなったカルバラの子ども病院で、ここ数年、がん患者が異常に増加している。
「いままで見たことがない」症例の子どもも多く、米軍のすさまじい空爆と関係ありそうと医師の話。 ベトナム戦争の空爆で発生した奇形児を思い出す。
☆二○○九年春。戦闘終結後初めて、バグダッドに滞在する外国人らがカルバラの街を訪れたとの新聞記事。オバマ大統領の和平政策に期待したい。
 
「カボチャの馬車」ならぬトヨペット・クラウンを深夜十二時前にバグダッドへ着けようと、ユーセフは、先行車のない一本道をひた走った。 
 真夜中のバグダッド入り。アリババならぬ私が手にするものは、どんな旅の得物だろうか。
                                                   (続く)





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2009/05/13 15:46 2009/05/13 15:46
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