新・浦安残日録(7)


6月1Ⅹ日(体重の減少傾向)

 『続・晩節の選択』の執筆でガンバリ、体重が52キロから51キロ台に下がったのが、気にはなる。肥満の人が「糖質制限」をすると体重が減るそうだから、その逆をヤルとよいのだろうが、粥でも閉塞箇所に停滞しがちで、思うほどの量が摂取できずに、低迷がつづいている。

 ただ、米飯類の摂取を減らす「糖質制限」では、肥満脂肪を燃やして糖質に変える過程で、抗酸化や免疫細胞(NK、T細胞)を活性する物質が増えるというから、昨夏からの体重10キロ低下で、わが末期胃腺ガンの進行を阻んできたのではないか。
 空梅雨で猛暑つづきのこの頃だから夏ばてかもと気休めを思いながら、それなりの「生活の質」を享受しているのは幸せだ。


6月1Ⅹ日(「みなづき会」のこと)

 第48回「みなづき会展」がいつものように京橋「くぼたギャラリーで開催された。創設から約50年間、6月(水無月)に開かれてきたが、来場者の足元のわるい梅雨の季節にした由来を知らない。その案内ハガキに、「今年3月、思いがけない末期ガンの宣告を受けましが、なんとか、2点を出品します。心ならずも、会場ではお目にかかれませんが、4月以降に描いた〝春色〟をご高覧くだされば幸いに存じます」と書いた。

「みなづき会」は、NTT建築部門の絵画グループで、創始した先輩らは鬼籍に入られて久しく、定年退職後に参加した私も、すでに長老の一角を占める。
 20余名会員の高齢化が進み、50回展を節目に会を閉じる話が出て数年、作品搬出入を宅急便に託す会員が過半を占める中で、電車に乗って持参するのにこだわってきたが、〝末期ガン宣告〟を受けて、今年は宅急便すると事務局へ連絡した。

 事態を知った2、3の仲間に、「見舞いに家を訪ねたい」と言われ、思い切って身柄だけを電車でギャラリーへ運び、会場の飾付けを終ったとき、「生前葬儀の〝故人挨拶〟をさせてください」と冗談めいて話すと、「もう会えないかもと思ってお訪ねしようとした」人たちに、自宅ホスピスで〝終末〟を待つ人間の思いのほかの元気さをよろこんでもらえた。


6月19日(父の日の「南房総行き」)

 今年も「父の日」がやってきた。いつもは、「お祝い」のポチ袋をくれる娘夫婦と、南房総1泊の旅に出た。最後の「父の日」になるかもしれぬと感じた敬司・晶子〝お二人さん〟の心遣いのプレゼントだ。

 この二人には、いろいろな機会に国内外の旅に誘ってもらった。英国の主権返還2年前の香港(平成7年)、その2年後のハワイ(孫の遥大が2歳未満で航空運賃無料)、平成12年から7年間は婿ドノが在勤のバンコクに招かれて、毎回2週間の滞在で、タイ国内の各地、近隣諸国(カンボジャ、ベトナム、インドネシア)を訪ねた。私たちだけのプライベイトツアー(各国の世界文化遺産をゆったりした日程で訪ねる)を予約してくれたお陰で、現地ガイドの案内の傍でたくさんのスケッチやハガキ絵を描き、エッセイをつけた「文ちゃんの画文展」を大阪・東京で7回も開けたのもうれしい思い出だ。

 17日の昼過ぎにわが家を出て、川崎経由で「海ほたる」へ立ち寄り、〝ハガキ絵〟を1枚描いた。その日の宿は、仏映画『グランブルー』の監督・マイヨールさんが定宿にした「ポルトメゾン・グランブルイン」。ワンちゃん同伴OKで、愛犬琴ちゃん共々にチェックイン。白が基調の瀟洒なインテリアとご主人一家のホスピタリティがあふれる宿である。

 夕食前に、宿の前景を〝ハガキ画仙〟にスケッチして一寸昼寝した間に、お千代と娘夫婦は琴ちゃんを連れて、車で千倉海岸へ行ったという。
 
  私たちの夕食がセットされたアルコーブの席で、ビール・ワインの3人とジュースで乾杯した私は、メニューからクラムチャウダーとハンバーグを選んで、シェフにミキサーにかけてもらい、ポルトメゾンご自慢の味を満喫した。流動食しか通らない身の、味覚と食欲に変わりないのがうれしい。翌朝は6時、ストレッチのウオーミングアップをして宿の近くを散歩し、農家とその裏山をスケッチして戻った。リッチな朝食の後は前日のハガキ絵の彩色に加筆してから、スケッチ道具を旅行カバンに仕舞った。10時のチェックアウトで、月2回の朝市があると宿の主人に教えられて魚市場へ直行したが、昨日の好天とうって変わり、間もなく雨になる雲行きだった。市場に着くとすぐに降りはじめ、朝市会場の人影はまばらだった。地場の魚のうまそうな生干しの2、3種を買う。

 雨の中を、昨夕、琴ちゃんが散歩した千倉海岸へ行き、水面から出た岩が重畳する海岸を寸描した。帰路は猛烈な土砂降りとなり、ワイパーが激しく動くフロントガラスに目を凝らす晶子の安全運転で無事に浦安に着き、スーパーで両家の買い物をして、わが家まで送ってもらった。
 
〝冥土の土産〟といえば大げさになるが、本当にうれしい「父の日のプレゼント」だった。


6月25日(83歳の誕生日)

  伊藤先生(H4年の食道全摘出手術の執刀医)に〝末期ガン〟の宣告で、「余命○○」と言われなかったのは、私の〝死生観〟への心配りと感謝している。「余命3ケ月」もよくある話で、この誕生日を迎えられるかは確かではなかったのだ。
 恒例で、晶子夫婦はいつものベイカリーのケーキを持参して、「来年もまたね」と〝終末〟の父親をはげましてくれ、

  スナック《銀座・春香》の裕貴チャンから届いた向日葵の花束には、「またご一緒にデュエットしましょう!」のカードが添えられていた。店のオーナー・森下女史は、「松本文郎のブログ」の開設・編集・管理者(8年來)で、浦安男声合唱団の定期演奏会や見明川住宅の夏祭りで数回、会場やわが家へ来てもらった。
 戴いた花束・果物に感謝して、すぐ色紙に描くように日頃心掛けているので、〝絵ハガキ〟のコピー原版を作ったあとの原画を額装して裕貴ちゃんへの返礼とした。84歳の誕生日は〝神のみぞ知る〟だ。


6月26日(養生の〝慰問箱〟が届く)

 うれしい〝家族の集い〟につづいて、今日は、ダンボール箱の宅急便が届いた。
 親しい友人堀竹さん(京大建築学科の2年後輩、34年に電電公社建築局)夫妻の慰問袋(箱)で、家庭菜園の京野菜のほか、ミキプルーン(ミネラル・ビタミンが豊富で免疫力増強効果)や夫人手作りの砂糖煮キンカン・砂糖漬夏ミカンの瓶が入っていた。

 NTT建築技術開発室長の仕事をしっかり支えてくれた堀竹さんを後継者に推薦したが、私のNTT建築総合研究所への転出後の平成4年、食道ガンで長期入院を余儀なくしたときも、ありがたい励ましをもらった。

「前立腺進行ガン」で治療を医師に勧められたが、抗ガン治療を受け入れなかった平成13年の暮れ、新鮮野菜の食事療法の一助にと、自家菜園の無農薬京野菜いっぱいのダンボール箱が届いた。その友情に感謝して、色紙に描きエッセイをつけて、《文ちゃんの画文展》の出品作品に加えた。〝慰問箱〟を開き、あい変わらぬ心尽くしの友情に、すぐに横浜へデンワして、お千代共々、久しぶりの昔話もして、感謝の気持ちを伝えた。
  

7月Ⅹ日(都議会選挙と自民党惨敗)

 2日の都議選は小池知事代表「都民ファーストの会」の49人が当選(公明党などの支持勢力と合わせ79人)の圧勝で過半数64議席を大きく上回る一方で、自民党は現有57議席から半分以上減らす23議席の惨敗だった。

 60人を擁立した自民党の惨敗は、「加計問題」や、稲田防衛大臣の蒙昧な選挙活動、相次いだ安倍チルドレン2年生のスキャンダルが影響したとされるが、「安保関連法」「特別秘密保護法」「共謀罪」法案等の国会軽視の強行採決や安倍首相が選挙戦最終日の街頭演説で露わにした傲慢不遜な政治姿勢に対して放たれた〝都民の一矢〟だったのではないか。

 豊洲移転問題への煮え切らなさで〝小池劇場〟が不入り傾向にあった小池陣営は、公明党との選挙協力と自民党の国政批判を鮮明にした共産党の選挙戦活動から多くの浮動票を獲得する〝漁夫の利〟を得たと感じた。


7月19日(日野原さん逝去)

 敬愛してきた日野原重明さんが19日逝去された。享年105。
 戦前(1941年)からの聖路加病院勤務の中で、「成人病」と呼ばれた病気を「生活習慣病」と改称して病気予防につなげる提唱をし、国内の民間医療機関初の人間ドックを導入(1954年)した。
 医師と対等に接する患者を大切にする医療に着目し、臨床研修の改革、看護教育の充実、看護師務の拡充などを求めてきた。考え抜かれた「食事法」やストレッチで健康保持に努め、縦横無尽の多忙な年月を過ごし、自立して社会に貢献する新しい老人像の「新老人の会」会長として、全国で講演し、「生き方上手」等の幅広い著書は2百冊を超える。

 体調不良の入院中と3月23日(私の〝末期ガン宣告〟後)に戻った自宅で書いた『静養日誌』に、「庭の樹木の緑が日に日に濃くなる様子・・・・」「だんだん強くなる太陽の光を受けて夏に向かおうとしている植物の生命力・・・・」とあり、日野原さんと軌を一にして〝終末〟を過ごしている親しみを覚えた。

 朝日新聞コラム『105歳・私の証 あるがまま行く』(7月8日付)に載った、カナダ生まれの医師ウィリアム・オスラーを偲ぶ一文(絶筆)の末尾は、「医学にヒューマニズムを取り戻し、患者を全人的にとらえようとしたオスラーの理念は、『全人医療』という言葉とともに、これからも確実に日本社会に根を張っていくことでしょう」だった。

 106歳の誕生日を自宅の庭で催すのを楽しみにしていた日野原さんの想いは叶わなかったけれど、いのちを守る医療への献身、さまざまな社会貢献、戦争反対の平和憲法擁護など105歳人生の大往生だった。合掌。


7月29~8月7日(初めて〝慌てた〟顛末)

7月29日(土)の朝食のポテトスープがいつものように通らず、毎食飲む「サルノコシカケ」「緑色野菜ジュース」も停滞気味で、閉塞部にかるい痛みを感じた。ノドに指をいれて吐くと、停滞した塊が粘りの強い唾液と一緒に出てきた。これまでにない事態にいささか慌てた。

「松本さんは『抗ガン剤治療』をしないのですから、いずれは塞がり、水も通らないようになりますよ」と異口同音に告げた桜井・伊藤医師の言葉がアタマをよぎった。

 そんな調子が終日つづき、この状態が8月連休中に起きたらと思うと、不安な気持ちがつのってきた。いざというときを考え、お千代と相談して、翌日、子供らに来てもらい、善後策を話し合った。

「味の素」の医療関係食品の事業部門幹部のムコ殿は、食事採取が困難な高齢者や消化器系ガン患者への「措置療法」に詳しく、「閉塞しそうな場合には、『ステント装着』『胃・腸廔』で水と栄養の摂取をするとよいですよ」と、桜井先生の再診を勧めた。

 翌1日(月)、桜井先生の予約を取り、2日、晶子の車で五反田の「さくらいクリニック」へ行った。前回から5カ月経過したガン患部の閉塞状況の内視鏡検査をお願いすると、「『ステント装着』を施術する消化器内科の方が手っ取り早いから、伊藤先生の病院へ行きなさい」と、「ステント装着」の可否などの詳しい説明・助言をしてくださった。

 伊藤先生の予約が取れるまでに生じる緊急事態に備えて、3月末にホームドクター吉野先生の紹介で受診した浦安の訪問医「小林クリニック」に見せたいと、2月末の内視鏡検査の映像コピーを作成してもらって持ち帰った。
 
  翌2日、お茶の水・三楽病院伊藤先生の7日午後の電話予約を取ったあと、「小林クリニック」の再診で〝ガン映像CD〟を見せようとすると、小林医師の口から意外な言葉が飛び出した。

「私はガン専門医ではなくて、病院の「ガン治療」で見放された末期ガン患者の在宅緩和ケアと看取りをするだけですから、ガンの進行状況は三楽病院の伊藤先生に聞いてください。この映像は見ません」
「在宅緩和ケア」は病院の主治医と訪問医との密接な連携でと思っていた私はビックリして、緩和ケアのためにも、患部の状態を知る必要があるのではと聞くと、「患者の末期的な苦痛を鎮めるのにその必要はありません。あなたはまだ緩和ケアをする状態ではないけれど、あなたのようにアレコレ言う患者とは相性が悪く、うまくやれないような気がする」と初回とはうって変わるケンマクに仰天した。
 
  再診の目的だった連休中のクリニックへの連絡について訊ねると、「日頃は忙しい私ですから、ずっとお休みします。私の訪問「緩和ケア」を受けていないあなたの電話は受けません。主治医の方へ連絡してください」だった。
 こんな調子では先が思いやられ、頼りにならないと分かってよかったと、「患者との相性で治療を左右するような方とは思いませんでした。ザンネンです」とだけ言って辞去した。
 
  帰る道すがら、「小林クリニック」のホームページ資料(「緩和ケア」の様々な措置項目を列挙)を渡して連携をお願い(4月7日)した伊藤先生が、「こんなに書かれていても、訪問医ではそんなにうまくはやれないし、ご家族もたいへんですよ。病院だと、24時間なにも心配することはありません」と言われたのを思い出した。
 
  8日の午後、晶子の車で三楽病院へ行った。伊藤先生は5カ月ぶりの内視鏡・CT検査(予約が多く、9月半ばとなる)の予約を取り、何か起きたらいつでも病院へ来てください。すぐ入院できますからね」と言われた。心配げに聞いていたお千代と晶子はホッとして「最後まで、伊藤先生をお頼りしますのでよろしくお願いします」と頭を下げた。

 初めて〝慌てた〟一連の日々だったが、〝終末〟の道筋がはっきりしたので、気が楽になった。


8月6・9日(平和祈念式典)

  戦後72年目のヒロシマ・ナガサキ平和祈念式典の黙祷に、自宅ホスピスのテレビを介して参加した。原爆投下の前年、広島から縁故疎開して被曝を免れたが、休暇で疎開先の実家へ帰省していた父は、投下の2日後、広島駅から宇品の鉄道管理局までの道や川に累々と重なる数多の焼死体を目にした。

  松井広島市長は「平和宣言」で、「核兵器禁止条約」の締結促進に本気で取り組むことを安倍政権に求めたが、続くこども代表の「平和への誓い」(平成7年、世界のこどもたちの「こども平和のつどい」で集約した平和への決意が始まり)に目を見張った。
「原子爆弾が投下される前の広島には、美しい自然がありました。大好きな人の優しい笑顔、温もりがありました。一緒に創るはずだった未来がありました。広島には、当たり前の日常があったのです」

  この冒頭の言葉は、皆実町国民小学校4年生まで10年住んだ私の想いでもある。「(中略)広島の街は、焼け野原となりました。広島の街を失ったのです。当時小学生だった語り部の方は、『亡くなった母と姉を見ても、涙が出なかった』と語ります。感情までも奪われた人がいたのです。大切なものを奪われ、心の中に深い傷を負った広島の人々」
 この想いは、郷土作家・井伏鱒二の小説『黒い雨』や映画『夢千代日記』の〝静かな怒り〟の表出に通じる。

 「(中略)未来の人に戦争、戦争の体験は不要です。しかし、戦争の真実を正しく学ぶことは必要です。一人一人の命の重みを知ること、互いを認め合うこと、まっすぐ、世界の人々に届く言葉で、あきらめず、粘り強く伝えていきます。広島の子どもの私たちが勇気を出して、心と心を繋ぐ架け橋を築いていきます」
 「平和への誓い」を聴く首相の顔がアップされたが、薄目を開けたり閉じたりする落ち着かない表情に、世界唯一の原爆被爆国の首相として、「核兵器禁止」に立ち向かう毅然とした決意は読み取れなかった
 
  長崎・田上市長の今年の「平和宣言」は昨年とはうって変わり、「核兵器禁止条約」への交渉不参加の政府批判を鮮明にした。「(前略)安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器に寄って国を守ろうとする政策を見直して下さい。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください」

 「(中略)核兵器のない世界を目指して、リーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加していない姿勢を、被爆地は到底理解できません。(中略)唯一の戦争被曝国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を進めてください。日本の参加を国際社会は待っています」
 
  9日午後の被爆者代表の要望を安倍首相が聞く会合でも、長崎県平和運動センター被曝者連絡協議会川野議長が「要望書」を手渡すとき、「あなはどこの国の総理ですか。私たちをあなたは見捨てるのですか」と強い口調で抗議したが、安倍総理のこころにどう響いたのだろうか。
 ヒロシマ・ナガサキは、こども代表が「平和への誓い」で述べたように〝平和を考える場所〟〝平和を誓う場所〟〝未来を考えるスタートの場所〟として、「世界平和発信基地」であり続けてもらいたい。


8月15日(72回目の敗戦日)
 
  政府主催「全国戦没者追悼式」での安倍首相は、不戦の決意を表明したが、細川護熙首相ほか歴代の首相が言及してきたアジア諸国への「深い反省」「哀悼の意」には今年も触れなかった。天皇陛下は、「深い反省」という表現を含めて昨年と同じ「おことば」を述べられた。
 
  第2次安倍政権発足後の安倍首相は、政府主催の追悼式を「だれのために開く式なのか」と疑問視し戦没者・遺族向けと未来志向重視の内容に改めた。第2次内閣発足のインタビューでの菅官房長官の「安倍内閣が躓くとしたら、おそらく歴史認識問題だろう」との主旨発言を鮮明に憶えているが、欧米で右翼愛国主義とみなされる安倍首相の取り巻きやチルドレン閣僚らの相次ぐ歴史改変の言動に反発した中国・韓国では、国民的規模の「反日運動」が盛んになった。

  これを、国内の諸問題から国民の目を反らす政治権力の企みとするだけでは、日本軍の残虐行為による〝加害〟の犠牲になった数多のアジア諸国の人々の気持を理解できず、高齢化した被害者たちの反発をまねくだけだろう。あの戦争を〝聖戦〟と呼び、多大の被害を与えたアジア諸国に反省の意を表さないのは、昭和天皇の戦争関与について苦悩してこられた今上天皇御夫妻の「アジア諸国友好親善」へのご努力に水を差し、戦後日本を築いてきた私たちの〝平和への願い〟に悖もるものだ。
  テレビ画面から眼を移した自宅ホスピスの曇天の庭の花々を眺める私に、疎開先で敗戦〝玉音放送〟を聞いて仰いだ、眩しい空の青さが蘇った。
 
  夜のNHKスペシャル「戦慄のインパール作戦」では、あの戦争で最も無謀な「作戦」の実態を知り、文字通りの〝戦慄〟を覚えた。
 作戦の実行責任者・牟田口廉也第15軍司令官が書き残した身勝手な自己弁護に対し、牟田口司令官の身辺で作戦の一部始終を記録した斎藤博圀少尉の日記・証言の慄然とする〝乖離〟に刮目した。戦死者約3万・戦病死者4万人の6割が、遅れた作戦中止後の退却路(白骨街道など)の飢餓で死んだという。
 
  モンスーンの密林で疲弊した兵士が水を飲みたがって砂降りの雨にうたれながら死に、退路に横たわる兵士の肉を襲って喰うのが猛獣だけでない実態を苦悩にゆがむ顔の高齢元兵士が、ふり絞るような声で告白した。
 作戦を大本営に提案して作戦責任者を命じられた牟田口司令官は、満州の盧溝橋事件の強硬な司令官で、作戦遂行の見通しがない報告を無視しつづけ、7万2千余人の膨大な戦死・戦病死者を生じせしめたが、戦後、自己弁護の講演をしたり、中華レストラン「ジンギスカンハウス」社長になったという。

 第15軍司令官とは対極の人物と思われるのは、第16軍司令官今村均であろう。
 オランダ領東インド(インドネシア)攻略の蘭印作戦を指揮。9日間でオランダ・イギリス・アメリカ・オーストラリア軍約8万を無条件降伏させた後、軍政指導者としての能力を発揮し、オランダが流刑したインドネシア独立運動指導者のスカルノら政治犯を釈放。資金・物資援助、現地民の官吏登用等で独立を支援する一方、オランダ軍から没収金で各所に学校建設し、日本軍の略奪等不法行為を厳禁して、現地住民の治安・慰撫に努め、捕虜のオランダ軍人にも寛大な軍政を敷いた。
 
  敗戦後、第8方面軍司令官としてオーストラリア軍の軍法会議で死刑にされかけ、現地住民の証言で禁固10年が確定。第16軍司令官時代の責任を問うオランンダ軍の裁判では無罪とされた。 昭和24年、巣鴨拘置所で服役することになったが、多くの元部下たちが収容されている環境の悪い「マヌス島刑務所」行きをマッカーサーに直訴し、「日本で初めて、真の武士道に触れる想いだった」と許可。禁固10年の刑期満了後に帰国した。
 帰国後は、自宅の一隅の〝謹慎小屋〟に自らを幽閉し、戦争責任を反省する回顧録を出版。印税は戦死・戦犯刑死者の遺族のために費やされたという。
 
  大岡昇平の『野火』にも、兵站が途切れた南の島で孤立した日本兵同士が〝食い合った〟話が書かれているが、そうした実相を無視した為政者の戦没者への愛国的美化は、鎮魂どころか、その魂を汚すものとの想いが込められている。
 跡取りを戦病死でなくした本家の伯母が、「生きて帰りんさいよ」と出征前の一人息子に言った記事が、中国新聞に載った事実を伯母の通夜の席で知って、〝軍国の母〟を演じなかった伯母への敬意を弔辞で述べた思い出もある。
 
  苦難の道程の果てに帰国できた兵士たちの証言では、死んでゆく兵士が「天皇陛下万歳」を叫ぶのは稀で、たいていは母や父の名を呼んだという。安倍政権のチルドレン・閣僚たちが、報道カメラの放列の中をこれ見よがしに靖国の参拝する光景を苦々しく見てきたが、支持率回復を期した改造後は、安倍首相以下閣僚で参拝した者はなく、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の常連と辞任した稲田元防衛大臣(昨年の戦没者追悼式に欠席)の姿がテレビカメラに捉えられていた。

 「靖国参拝」を政局の思惑で左右し、遺族会などの〝票田〟へのアピールに利用する政治家たちの参拝では、己の意志に反して戦場に散った若き特攻隊員や、上層部がいち早く逃げて、見捨てられて死んでいった消耗品扱いの兵士らの魂は到底、鎮まらないであろう。
  マスコミのカメラ放列の前をシタリ顔で参拝する政治家たちが戦争を美化することなく、その実相を知り、人目につかないようにして、〝真の哀悼〟を捧げるよう、望んでやまない。

 
8月17日(9月号の原稿を送付)

 「広告支部ニュース」掲載の『文ちゃんの新・浦安残日録』は、5月初めの近況から途絶えていたので、その続きを9月号に載せたいと連休中にガンバリ、なんとか書き上げた。
 ガン患部の詰まりに慌てた状態は収まり、以前の通り具合に戻った。体重の低下傾向が気になるが、栄養摂取を〝あせらず〟やって、夏を乗り切りたいものである。 

                                  (続く)


添付画像

2017/08/20 00:29 2017/08/20 00:29
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