新・浦安残日録(号外2)
家で終末を迎える日々
今年3月、末期ガンの宣告を受けて、一切の「ガン治療」を受けず「終末」に臨むと決意した『晩節の選択』(「新・浦安残日録(3)」)、『続・晩節の選択』(同5)に心境と経過を書きましたが、25年前の食道(ガン)全摘出手術執刀・伊藤契先生(3年前にNTT東日本関東病院を退職→お茶の水・三楽病院)は、2月の内視鏡・CT検査に次ぐ9月半ばの検査で、問題の「胃腺ガン」(ステージ4)は形状・数値共に増大して,予断を許さない状況と思ってくださいと告げられました。
また、2月のCT画像で「胃腺ガン」と共に映っていた「前立腺ガン」も、PSA数値が490.63から1020.70に倍増して、全身のリンパ節に転移の可能性があるとされました。
食道ガンの手術吻合部(喉下27センチ)の「胃腺ガン」がさらに大きくなり、細い内視鏡が通る穴が塞がるのは時間の問題で、流動食・水の摂取ができず、「ステント装着」か「腸瘻」による延命の検討を勧められた私は、抗ガン剤治療同様、いま享受している「生活の質」を損なう措置は受けず、祖父母らの往生のように、食事と水が摂れなくなり、意識が朦朧として自宅の“終末”を迎えたいと申しました。
伊藤先生は、付き添った妻のお千代と娘の晶子に、「ご本人の“選択”に同意されるのですね?!」と何度も念を押されてから、「浦安市内の訪問医と連携して穏やかな“家での終末”をサポートしますし、万一、ガンで激痛を生じた場合、入院してホスピス病棟の緩和ケアで“終末”迎えられると、ご家族も安心ですよ」と言われました。
平成4年の早期食道ガン手術の成功で再びの命を与えてくださった伊藤先生には、術後の経過検診と再発チェックのマーカ検査を受け、無事に5年過ぎたあとも、3ケ月毎の血液検査をお願いして4半世紀後の“末期ガン宣告”まで続けたのは、命の恩人の先生との関係を保っていたい一心からで、“ご縁”というほかありません。
6年前に「前立腺ガン」の治療を勧めた関東病院・泌尿器科の受診を辞退し、外科の伊藤先生の血液検査項目に加えられたPSA数値は、脅威的に上昇を続けてきましたが、65歳からの前立腺ガンには何もしないのがよい!との“説”を選んだ私に、「医師が治療法を提案しても、最終的に患者の意志を尊重しますので、これからもPSA血液検査の結果を見守りましょう。ガンが暴れることなく、寿命を全うされるように願っています」と仰った伊藤先生ですが、今も、「生活の質」の阻害は何も起きていません。
浦安在住のT氏(広大附属福山高9年後輩。天皇陛下の前立腺ガンを診断)は、セカンドオピニオンを求めたとき、「PSAが200超えても寿命を全うされた例はありました。松本先輩の生命力にはほんとうに驚いています」でした。
「前立腺進行ガン」の治療を受けなかった理由は、「何もしないほうがよい」の説を頼りにしただけではなく、「抗ガン自己免疫力」を活性化する良い生活習慣(食事・運動・睡眠)と「生き方」(趣味・社会貢献・家族関係等)に努めてきたからで、進行ガンでも、「生活の質」に支障をきたす変化(劇症・転移)を生じていないのが、その証と信じています。
「末期胃腺ガン」の宣告で一切の「抗ガン治療」を受けない“選択”をしたのも、「前立腺ガン」で実践した自己流の“免疫力活性化”を経験していたからですが、「前立腺ガン」との違いは、元々狭小な25年前の手術箇所(食道下部)に生じたガンが“栄養・カロリーの通過”を妨げているので、「生活習慣」の「食事」でできるのは、細い穴から千キロカロリー前後を1日かけて摂ることだけです。
「運動」は、25年前の入院中に編み出した、自己流リハビリの日課ストレッチ(頭部から手足の指先までの“体全体”に30超のポーズ)と長短・緩急とりまぜた120回の腹式呼吸を、起きがけの30分かけてヤルほか、朝夕2回の散歩です。
「睡眠」は、体重低下(昨夏60キロ→3月54キロ→9月50キロ)による体力減少のリカバリーに大切ですが、昼寝を含めて8時間以上を確保しているので問題ないと思っています。
そこで、“自己免疫力活性化”の主な手だけとして、生きる意欲・生き甲斐をもてる「生き方」で“終末”までの日々を過ごそうと、やりたいアレコレの日付けを手帳に書きこみました。
「生き方」では、年金生活入りの自由時間で始めた<唄う><描く><詩文を書く>趣味を楽しんできたなかで、《お楽しみ倶楽部》の「青桐日比谷句会」(月例メール投句)、「こぶし会」のレジュメ編集と同友会事務局への送付、「日比谷彩友会」の研究会・展覧会出品のほか、「みなづき会」(NTT建築仲間)、「浦安男声合唱団」等の練習、家族誕生日、月刊誌「日本ジャーナリスト会議『広告支部』ニュース」の原稿の締切り日などを手帳に書きこみました。
4月:「『彩友会』春季研究会」出品、「浦安男声合唱団」(2017年定演)ワン・ステージメンバー練習参加。
5月:「みなづき会展」作品準備・搬入。「浦男」のワンステ練習。孫・遥大20歳の誕生日。
6月:南房総への1泊家族旅行、83歳誕生日。
7月:第88回「都市対抗野球大会」。
8月:音楽家植野雅子50周年記念公演。
9月:「日比谷彩友会展」作品制作・搬入。
10月:第8回混声合唱団「バローロ」定演。
「浦男」定期演奏会・ワンステ出演。
これらの一つ一つを実行して達成できたときは、歓びと充実感で「自己免疫力」が大いに活性化するのを感じましたが、夢中で絵を描いたり、合唱練習(3時間)に必要なエネルギーは思いのほか大きく、カロリー不足による疲れと体重低下がテキメンで、その都度、妻のお千代にたしなめられました。
4月の「絵画研究会」では、作品制作が前日までかかって疲労困憊し、お千代が持参し代理出席してくれましたが、5月の「みなづき会展」では小康を得、搬入・飾りつけ当日に電車で持ち込んで、建築仲間の会員と久しぶりに会い、『晩節の選択』のあらましを話しました。
“末期ガン”の進行のせいか、次第に体重が減り、「栄養・カロリー摂取」に難渋しながらも、 “宣告”を受けたときは危ぶまれた孫・遥大の20歳誕生日を祝ってやり、6月には、娘婿一家の段取りで南房総の洒落た民宿の団らんで、“生きていること”の幸せをかみしめました。
手帳に書きこんだイベントで最も躊躇ったのは、7月の「都市対抗野球戦」の応援でした。
ここ10数年、NTT社歌「日々新しく」の作詞者としてNTTの野球チームが出場するとき招待され、数多の応援団と共に「社歌」を3回(試合開始前・7回・終了後)も唄えるのを楽しみに、お千代と一緒にドームへ出かけ、応援してきました。
「都市対抗野球」といえば、私が建築局設計課長のとき「電電東京」が初優勝した後は、電気通信事業の“民営化”と“組織再編”の激動のなかで、“野球どころではない”時代がありました。
NTT東日本が優勝候補の一角を占めるようになったのは、持株の会長三浦惺さんが東日本の社長に就任された頃からだったと思いますが、あれから10余年の間ずっと、応援に行く度に三浦さんの熱心な応援の後姿を拝見しました。
そして昨夏。準々決勝で敗れ、今年こそはと待ち構える矢先、青天の霹靂の“末期ガン宣告”でした。
6月からの猛暑が痩せ細った体を追い撃ちして、体重51キロとなり、東京ドームへ出かける体力もなく、お千代が義弟や友人を誘ってドームへ通ってくれましたが、準決勝戦は9回裏のサヨナラホームランで“劇的”な勝利をし、大喜びで帰宅しました。
連日35度を超す極暑の炎天下に応援に出かけるのは止められると懸念しましたが、「涼しくなって出かけても7回の「社歌」までに着くワ」とOK!!多少のムリをしても、やりたいことをやったときに「自己免疫力」が活性化するので、優勝戦の応援で社歌を唄えばパワーがでると思ってくれたようです。
ドームも割れる歓声がこだます招待席に座ると、4対4の同点で出塁した攻撃に、全員総立ちとなり応援ウチワを打ち振っている最中でした。
7回攻撃前の「社歌」斉唱には間に合いませんでしたが、満席のNTT応援団が高らかに唄った熱気の余韻を感じるなか、ランナー1・2塁/2アウトで、1番バッターの下川がボックスに立つと、「頼むぞ!下川!」の耳をつんざく声援に包まれての一振りが、3点逆転の“大ホームラン”となりました。
狂喜する万余の応援団の怒涛のうねりの一角で、小躍り・ハイタッチした私たちは、「思い切って来てよかったネ!」と言い交わしました。
余勢を駆ったNTT東日本は、9回でも執拗な攻撃をつづけて3点を挙げ、10対4の大差で優勝を果たし、“もう、ドームで「社歌」を唄うことはない”と力をふりしぼった私には、まさに“奇跡的”な36年ぶりの優勝の瞬間でした。“まさか”のことが起きたのです!
「社歌」斉唱の7回の勝ち越しホームランとその後の追加得点シーンを目の当たりにし、表彰式後の「社歌」を万感の想いをこめて唄いました。
東京ドームで唄う「社歌」で思い出すのは、平成26年の5月、NTT西日本社長村尾和俊さんから公用私信が届き、社長就任以来、「スマート光ライフ」の普及の夢にとりくむなかで社員と“ワクワク感”を共有するために、社員が一丸となって熱く唄い上げられる「社歌」を思いつき、ほとんどすべての職場で流し、各種会合・イベントも唄っていること、その詩が、“使命”と“夢”を日々新しい感覚で訴えてくれるなどと書かれていました。
民営化後の全国の職場で流されていた「社歌」は、式典と東京ドームの応援だけと思っていただけに、面識のない村尾さんからのご丁寧な手紙に感動して、すぐ返信を出し、そのいきさつを本誌「エッセイ」に寄稿しましたが、村尾さんの事業経営路線の成果で平成28年度に“黒字化”したのはまさに快挙でした。
そんな歓びにひたりながら力を入れ過ぎた疲労は激しく、息も絶え絶えでやっと家へ辿り着きました。
翌日から2日ばかり、“死んだように”なっていましたが、天与としか思えない36年ぶりの「優勝」の歓びを反芻するうち、60兆個の細胞たちが元気に蘇るのを感じました。
つづく猛暑でも、気力だけは保っていましたが、体重が2キロ(8月半ば51キロ→9月上旬49キロ)下ったので、伊藤先生の勧めで、半年ぶりに内視鏡・CT検査を受け、「胃腺ガン」の形状・マーカー数値が大きくなっているから、体重維持に努めるように強く言われました。
でも、私に残された“ガン免疫力の活性化”の手だてが、<唄う><描く><詩文を書く>ことしかなく、9月下旬の「日比谷彩友会展」の作品として、見舞いに戴いた果物と自家菜園野菜を2枚の色紙に描き、お千代と共に京橋のギャラリーへ持ち込み、仲間のみなさんに会うことができました。
そして、お千代が出演する「バローロ定期演奏会(10月14日・紀尾井ホール)」は、招待した中学・高校・大学の学友やNTT建築部門の親しい人たちほか20余人と会える“生前葬の場”とみなしていたので、娘夫婦の車で出かけました。ダメモトで招待した伊藤先生も思いがけなく来聴され、賑やかな歓談が弾んだ終演後のロビーは、まさに“冥土の土産”となりました。
めざしてきたイベントの達成感でこころは満たされましたが、体重はなんと44キロ台にまで下がり、10月20日の診察では、「これまでは季節単位と見ていましたが、これからは月・週単位で考えてください」と告げられました。
「自己免疫力」を信じる私には、終末が近づいているとは思えず、「1カ月後の診察日にまた、お目にかかります」と言って診察室を出ました。
その翌々日は「浦男」の定期演奏会でした。
“末期ガン宣告”の前にワンステージ出演を決めて、4、5月は練習に参加しましたが、6月からずっと猛暑とイベントで体力を消耗して、3時間の練習に耐える余力はなくて、9月も休むと連絡したとき、なんとか本番だけはと念じていた気持ちを察して、「松本さんは全8曲を暗譜されているので、本番にはぜひ出てください」と、30年近く一緒に唄ってきた親しい幹部団員に励まされました。
当日は生憎の雨で、衆院選挙と重なりましたが、お千代に付き添われて楽屋入りし、第3ステージの男声合唱組曲『沙羅』全曲を暗譜で唄い終えて、終演後、来聴の友人・知人とロビーで言葉を交わし、手帳に書きこんだイベントのすべてを達成できて、お千代が「やったね!」と喜んでくれました。文化会館大ホールの隅々にまで届けとばかり、力をふり絞って唄い、エネルギーを使い果たしたので、その疲労回復には3日ほどかかりました。
体重は44キロすれすれを維持していましたが、伊藤先生が予告された終末を念頭に、お千代と晶子の手配でケアマネージャー/訪問看護士/訪問医のよいチームが決まり、訪問サービスが始っています。
自分の「死生観」に基づいた“祖父母らのような”「終末」を全うする気持ちに変わりはありませんが、「一日でも長く生きて!」と親身に介護する家族を想うと、こころが揺れます。
終末がくるのが月単位とすれば、せめて、新年を迎えて「おめでとう!」を言い、孫遥大の成人式を祝い、さらに望めば、結婚60周年記念の「厳島詣で」を達成できればと願っています。
(2017.11月吉日 記)