アラブと私
イラク3千キロの旅(17)
松 本 文 郎
「やあ、おはよう」
「おはようございます」
「昨日はお疲れさん。よく眠れたかい」
「ええ、シャワーも浴びず、ぱたんきゅうでした」
「バスラからここまで、トイレ休憩だけで走ったんだ。きみは運転手としても大したもんだよ」
バグダッドまでの直線距離は二百五十キロだが、実際の道路距離は五割増にはなろう。幹線道路とはいっても、今の高速道路のようなものではない。
夜中前に無事バグダッドへ着けたのは、ユーセフの誠実ながんばりのおかげだと、ねぎらった。
「ところで、アハラムとの連絡はどうするのかね」
「これから電話してみますが、結果は朝食のときに報告します」
「あとで話すけど、明け方にけっさくな夢をみたよ」
「なんの夢ですか。楽しみにしてます」
身支度をととのえ食堂に行ったがユーセフはまだだったので、テラスのデッキチェアに掛けた。
チグリスの堤防沿いに立ちならぶナツメヤシの葉群が風にゆれている。日がすこし高くなったせいか、チグリスの川面は室で見たときより、輝きを増したようだった。
ユーセフは、アハラム嬢と電話でうまく話せたのだろうか。機転のきく彼のことだから、クウエートを発つ前に電話していたかも、と思ったりする。
しばらくして、にこやかな顔のユーセフがやってきた。
「お待たせしました。アハラムと話ができました」
「それはよかった。朝食を食べながら聞かせてよ」
ボーイの案内で、窓ぎわの卓に向きあって座る。
朝の定食メニューはイギリス式で、クウエートのホテルとおなじだ。ベーコン・目玉焼きはともかく、絞りたてのオレンジジュースが新鮮でうまい。
「食事の後に出かけて、アハラムに会いましょう」
「彼女の家はどこなんだい」
「バグダッドの郊外でここからそんなに遠くありません。市内を縦断するチグリス川が大きく蛇行している辺りで、農園や公園の多い、緑に囲まれたよい住宅地区です」
さすが、ユーセフはバグダッドの地理に詳しい。
「クウエートの最初の十日ほど、キミが迎えに来てくれホテルの朝の食堂で話したきりだから、彼女のことは何も知らないんだよ」
「それじゃ、私が何回か通訳しただけなんですか。でも、英語がほとんど分からない彼女と楽しそうに話していましたね」
「キミの通訳のおかげだよ。とりとめのない会話だったけど、あのネフェルティティのような黒い眼に引き込まれてしまったのさ」
「古代エジプトの后で理想的な美女とされますが、似ていますね。浅黒い肌でスリムな若いからだは、私の目にも眩しいです」
ホテルから、日本人単身スタッフ用のハワリ地区のフラットに移った私は、アハラムを忘れてはいなかったが、ユーセフとの間で話題にしたことはない。
だが、私の英語をアラビア語で通訳するユーセフの、アハラムへの口のきき方と物腰がとてもやさしかったのを、どこかで気にしていたのだ。
その気がかりは、バグダッドへの車中でも、頭をもたげていた。私は思い切ってユーセフに尋ねた。
「アハラムとは、ホテルにボクを迎えに来てくれたときに会っただけなのかい」
「いいえ、私が姉と住んでいるフラットに一度招いたことがあります。ヨーロッパの服や靴を買うために来て泊まったホテルへ、たまたまチーフを迎えに行って出会ったわけです」
それを聞いてさえいればアハラム嬢を誤解しないでおれたのに、とユーセフが恨めしかった。
事務所の外人スタッフと個人的な話はしないように心がけていたから、姉と一緒に住んでいることも、このとき初めて知ったのである。
「キミのお姉さんも、バグダッドからクウエートへ働きに来ているのかい」
「ええ、私たちの国がクーデターで王政を倒して、共和制になって十三年、バース党政権としてはまだ三年です。政治や経済の行方がよく分からないので、仕事のあるクウエートへ大勢出稼ぎにきています」
「彼女の実家のことをなにか聞いてたの?」
「ええ、フラットに招いたときにいろいろ聞きました。父親が、自営建設業で官公庁の仕事もしていて、クウエート郵電省のプロジェクト・コンサルタントの日本人事務所で働いている私に、関心をもったようでした」
旅先の気安さでもう一歩ふみこんだ私は、「キミは彼女をお嫁さんにする気でもあるのかい」いささか唐突だと思いながら、単刀直入に聞いてみた。
「利発で勝気なようですから、お嫁さんにするにはいいと思いますが、三人姉妹の長女だそうで、長男の私にはムリでしょう。姉は、いいお嬢さんだねと言っていましたが……」
それにしても、短期間滞在したホテルで、何度か朝食を一緒した若い女性に気をひかれたのはいいとしても、なんの根拠もなく、ジプシーだの娼婦だのと勝手に思い込んだ自分が恥ずかしかった。
「電話では父親とも話しましたが、チーフと一緒 に来たと知って、夕方からホームパーティを開いて、チーフをメインゲストで招待したいと伝えるように頼まれました」
そんな人の娘さんをバグダッドの第一夜の夢で、アラビアンナイトの豪商の女奴隷として見たのは、アハラムを、クウエートで招かれたパーティで出会った北欧の若いギャルたちと同じとみたからにちがいない。
いやはやなんとも軽薄な助べえ根性ではないか。
「父親は、アハラムのクウエートでの買い物に一緒に来たことがあるそうで、もしかすると、郵電省の仕事の下請けをやりたいのかもしれませんね」
不思議な夢見の思いがけない展開に驚きながら、バグダッドでの日々が、『千夜一夜物語』を地でゆくことを願っている自分がいた。
「ご招待はお受けするとして、夕方まで、アハラムとどこか行くところはないだろうか……」
「彼女たちはドライブが好きでしょうから、建築家のチーフがよくご存知の、サマッラのミナレットとクテシフォンのアーチを見に行ってはどうでしょう。彼女の父親も勧めていました」
ユーセフとアハラムの父親がそんなことまで今朝の電話で話したのかと、誠実のかたまりに見えていたユーセフが、只者ではないようにも思えてくる。
ミナレットはモスクの四隅に建つ塔のことだが、サマッラの塔は、外周にスパイラル状につけられた通路を歩いて上部に登れるユニークな建造物である。
クテシフォンのレンガ造アーチと共に西洋建築史の図版にあったのをよく憶えていた。
バグダッド博物館や市内の遺跡などは、モスルへ行ったあとで、ゆっくり見学すればいいだろう。
はやる気持ちを楽しみながら、アハラムとの再会に出発しようとしたそのときだ。ラマダン明け休暇「イラク3千キロの旅」を私に勧めたのがユーセフだったと、ふと思い出したのである。
(続く)
イラク3千キロの旅(17)
松 本 文 郎
「やあ、おはよう」
「おはようございます」
「昨日はお疲れさん。よく眠れたかい」
「ええ、シャワーも浴びず、ぱたんきゅうでした」
「バスラからここまで、トイレ休憩だけで走ったんだ。きみは運転手としても大したもんだよ」
バグダッドまでの直線距離は二百五十キロだが、実際の道路距離は五割増にはなろう。幹線道路とはいっても、今の高速道路のようなものではない。
夜中前に無事バグダッドへ着けたのは、ユーセフの誠実ながんばりのおかげだと、ねぎらった。
「ところで、アハラムとの連絡はどうするのかね」
「これから電話してみますが、結果は朝食のときに報告します」
「あとで話すけど、明け方にけっさくな夢をみたよ」
「なんの夢ですか。楽しみにしてます」
身支度をととのえ食堂に行ったがユーセフはまだだったので、テラスのデッキチェアに掛けた。
チグリスの堤防沿いに立ちならぶナツメヤシの葉群が風にゆれている。日がすこし高くなったせいか、チグリスの川面は室で見たときより、輝きを増したようだった。
ユーセフは、アハラム嬢と電話でうまく話せたのだろうか。機転のきく彼のことだから、クウエートを発つ前に電話していたかも、と思ったりする。
しばらくして、にこやかな顔のユーセフがやってきた。
「お待たせしました。アハラムと話ができました」
「それはよかった。朝食を食べながら聞かせてよ」
ボーイの案内で、窓ぎわの卓に向きあって座る。
朝の定食メニューはイギリス式で、クウエートのホテルとおなじだ。ベーコン・目玉焼きはともかく、絞りたてのオレンジジュースが新鮮でうまい。
「食事の後に出かけて、アハラムに会いましょう」
「彼女の家はどこなんだい」
「バグダッドの郊外でここからそんなに遠くありません。市内を縦断するチグリス川が大きく蛇行している辺りで、農園や公園の多い、緑に囲まれたよい住宅地区です」
さすが、ユーセフはバグダッドの地理に詳しい。
「クウエートの最初の十日ほど、キミが迎えに来てくれホテルの朝の食堂で話したきりだから、彼女のことは何も知らないんだよ」
「それじゃ、私が何回か通訳しただけなんですか。でも、英語がほとんど分からない彼女と楽しそうに話していましたね」
「キミの通訳のおかげだよ。とりとめのない会話だったけど、あのネフェルティティのような黒い眼に引き込まれてしまったのさ」
「古代エジプトの后で理想的な美女とされますが、似ていますね。浅黒い肌でスリムな若いからだは、私の目にも眩しいです」
ホテルから、日本人単身スタッフ用のハワリ地区のフラットに移った私は、アハラムを忘れてはいなかったが、ユーセフとの間で話題にしたことはない。
だが、私の英語をアラビア語で通訳するユーセフの、アハラムへの口のきき方と物腰がとてもやさしかったのを、どこかで気にしていたのだ。
その気がかりは、バグダッドへの車中でも、頭をもたげていた。私は思い切ってユーセフに尋ねた。
「アハラムとは、ホテルにボクを迎えに来てくれたときに会っただけなのかい」
「いいえ、私が姉と住んでいるフラットに一度招いたことがあります。ヨーロッパの服や靴を買うために来て泊まったホテルへ、たまたまチーフを迎えに行って出会ったわけです」
それを聞いてさえいればアハラム嬢を誤解しないでおれたのに、とユーセフが恨めしかった。
事務所の外人スタッフと個人的な話はしないように心がけていたから、姉と一緒に住んでいることも、このとき初めて知ったのである。
「キミのお姉さんも、バグダッドからクウエートへ働きに来ているのかい」
「ええ、私たちの国がクーデターで王政を倒して、共和制になって十三年、バース党政権としてはまだ三年です。政治や経済の行方がよく分からないので、仕事のあるクウエートへ大勢出稼ぎにきています」
「彼女の実家のことをなにか聞いてたの?」
「ええ、フラットに招いたときにいろいろ聞きました。父親が、自営建設業で官公庁の仕事もしていて、クウエート郵電省のプロジェクト・コンサルタントの日本人事務所で働いている私に、関心をもったようでした」
旅先の気安さでもう一歩ふみこんだ私は、「キミは彼女をお嫁さんにする気でもあるのかい」いささか唐突だと思いながら、単刀直入に聞いてみた。
「利発で勝気なようですから、お嫁さんにするにはいいと思いますが、三人姉妹の長女だそうで、長男の私にはムリでしょう。姉は、いいお嬢さんだねと言っていましたが……」
それにしても、短期間滞在したホテルで、何度か朝食を一緒した若い女性に気をひかれたのはいいとしても、なんの根拠もなく、ジプシーだの娼婦だのと勝手に思い込んだ自分が恥ずかしかった。
「電話では父親とも話しましたが、チーフと一緒 に来たと知って、夕方からホームパーティを開いて、チーフをメインゲストで招待したいと伝えるように頼まれました」
そんな人の娘さんをバグダッドの第一夜の夢で、アラビアンナイトの豪商の女奴隷として見たのは、アハラムを、クウエートで招かれたパーティで出会った北欧の若いギャルたちと同じとみたからにちがいない。
いやはやなんとも軽薄な助べえ根性ではないか。
「父親は、アハラムのクウエートでの買い物に一緒に来たことがあるそうで、もしかすると、郵電省の仕事の下請けをやりたいのかもしれませんね」
不思議な夢見の思いがけない展開に驚きながら、バグダッドでの日々が、『千夜一夜物語』を地でゆくことを願っている自分がいた。
「ご招待はお受けするとして、夕方まで、アハラムとどこか行くところはないだろうか……」
「彼女たちはドライブが好きでしょうから、建築家のチーフがよくご存知の、サマッラのミナレットとクテシフォンのアーチを見に行ってはどうでしょう。彼女の父親も勧めていました」
ユーセフとアハラムの父親がそんなことまで今朝の電話で話したのかと、誠実のかたまりに見えていたユーセフが、只者ではないようにも思えてくる。
ミナレットはモスクの四隅に建つ塔のことだが、サマッラの塔は、外周にスパイラル状につけられた通路を歩いて上部に登れるユニークな建造物である。
クテシフォンのレンガ造アーチと共に西洋建築史の図版にあったのをよく憶えていた。
バグダッド博物館や市内の遺跡などは、モスルへ行ったあとで、ゆっくり見学すればいいだろう。
はやる気持ちを楽しみながら、アハラムとの再会に出発しようとしたそのときだ。ラマダン明け休暇「イラク3千キロの旅」を私に勧めたのがユーセフだったと、ふと思い出したのである。
(続く)
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