アラブと私
イラク3千キロの旅(21)
松 本 文 郎
古代伝説の「バベルの塔」から千三百年のあとの今様「サマーラの塔」で、アハラムとジャミーラの後姿を見守りながら下りてきたユーセフと私は、、手すりのない螺旋状のスロープから足を踏み外さずに地上に立ったとき、、ホッとした顔を見合わせた。
チグリスの川魚を焼いて食わせる店に行く途上で、現在(二○○九年)の「七不思議」を記しておこう。
近ごろは、観光宣伝、遺跡保全、自然保護などの思惑でさまざまな七不思議が選ばれているようで、スイスの「新世界七不思議財団」が、二○○七年に世界中に投票を呼びかけ、二十一の候補から選定・決定したのは左記である。
万里の長城と古代競技場のコロセウムは中世の選定のままで、インドのタジマハール、ヨルダンの古代都市遺跡ペトラ、ブラジル・リオデジャネーロのコルコバードのキリスト像、ペルーのインカ帝国遺跡マチュ・ピチュ、メキシコのマヤ遺跡チチェン・イッツアの五つが入れ替わっている。
ギリシャのアクロポリス、パリのエッフェル塔、チリ・イースター島のモアイ、英国のストーンヘンジ、日本の清水寺などは、選に漏れた。
二○一一年には、二回目の選出が予定されていて、二六一件の立候補があるという。
いつの日か、、国際宇宙ステーションやドバイの超々高層ビルが選ばれることがあるのだろうか。
バグダッドへ戻る道をしばらく走って、チグリス川の土手下にある、仮設小屋のような店に着いた。
店の横に並ぶバスタブを覗くと、大きな魚が値札をつけて泳いでいる。ヒゲがあるから鯉だと分かる。
ユーセフが、元気のいいのを指差して注文する。枯れ葦でゆっくり焼き上げるので時間は掛かるが美味いと言う。
日本の川原で釣った岩魚や鮎を、集めた枯れ枝の焚き火で焼く行楽を三人に話すと、アハラムは好奇のまなざしを私に向けた。
「日本での鯉料理は、焼くよりも、鯉こく(スープ)や甘辛く煮付けるのが多いんだよ」
「普通の家庭料理なんですか」とアハラムが聞く。
「以前はネ。私が子供のころの田舎では、池の鯉が貴重な蛋白源の一つだったけど、いまでは、地方の名物料理で食べるくらいかナ」
ユーセフが私の英語をジャミーラに通訳している。
「鯉を食べると精がつくと、病人や妊婦に食べさせることもあるよ」
戦時中に疎開した母の実家の溜池を干したとき、泥水のなかの五十センチもある鯉と格闘して抱き上げた興奮と感触が甦った。
「ユーセフが選んだ鯉には千ディナール(千円)のタグが付いてたけど、アハラムの家では川魚をよく食べるのかい」
「ええ、船で運ばれるアラビア湾の魚も売っていますが、新鮮な川魚を時々食べます。家で調理すれば、値段はそんなに高い魚ではありません。葦で焼く鯉は、ピクニック気分で来たときに、焼けるの待つのが楽しいんですよ」
「そうかい。どこの国でも、似たような楽しみ方があるもんだね」
「千夜一夜物語」のどこかに、この枯れ葦で焼く鯉のことが書かれていてもよさそうに思えてきた。
私は、思い切って夢の話をした。
「明け方に見た夢で、「アリババと四十人の盗賊」とそっくりの場面に遭遇したんだよ。盗賊に襲われた豪商を助けたボクとユーセフが邸宅に招かれ、歓待を受けたんだけど、宴会のたくさんのご馳走にこの焼いた鯉があったかもしれないネ」
話のゆきがかりで、盗賊たちに油を注いだ女奴隷のマルジャーナがアハラムだった夢のあらましを、ユーセフに話す。
豪商が耳元で、「もし、マルジャーナがお好みの女でしたら、一夜を共にしてください」と告げたとは言わなかった。
ユーセフのアラビア語訳を聞いたアハラムは、「まあうれしい。そんな夢を見てくださったのね」
大きな黒い瞳が、キラキラ輝いている。
「チーフの夢で、私も一緒に豪商を助けたなんて」
ユーセフもうれしそうな顔で笑っている。
「なんだか子供じみた夢で、恥ずかしいんだけどネ」
ニコニコして聞いているジャミーラは、アリババの話を知ってるのだろうか。
「桃太郎」の鬼退治の話をしてから、ジャミーラがアリババの話を知っているか訊ねてもらった。
「だれもが知ってる昔話だワ」
今どきの日本の中学生に「桃太郎」のことを訊ねても、同じ答えが返ってくるのか…。
わいわい話しているところへ、店の主が大きな銅の皿に載せた鯉をもってきて、中国料理でも主菜の鯉の丸揚げを扱うように、四人に取り分けてくれた。 キュウリ・トマト・レタスのサラダも大皿に盛られてきた。
ほぐした鯉にレモン・オリーブ油のドレッシングをつけて食べる。懐かしい味で、実においしい。
日本の五月のような心地よい川風が、屋外で昼食を楽しむ四人に、やさしく吹いてくる。
クウエートで丸焼きの鶏をテイクアウトするときホベツ(うすくて丸いパン)にくるんでくれるが、その鶏の油がしみたのが旨いように、オリーブ油をつけた鯉を千切ったホベツにくるんで、口に運ぶ。
遅い昼飯で腹が減っていたのか、みんなは黙々と食べている。
アハラムが一息つくのを見計らって声をかける。「ところでアハラム。クウエートのホテルの朝食で初めて出会ったときの私を、何者だと思ったの?」
「グッドモーニングと言われただけですから、どこの国の人か、まさか日本人だなんて思いもしませんでした」
「アハラムからチーフのことをきかれ、日本からみえた建築家だと教えました」、とユーセフ。
「へえ、ボクが日本人に見えなかっただなんてネ」
「チーフは、黙っていればアラブ人に見えますよ」
ユーセフは真顔で言った。
「それじゃ、ユーセフとボクがバグダッドに来ると知って、アハラムはどう思ったんだい?」
ちょっとためらう様子のアハラムだったが、「クウエート政府の大プロジェクト・コンサルタントの偉い方と聞いて、父の仕事にとってなにかいい話があれば、と思ってました」
いやはや、アハラムの親孝行の弁を聞かされて、ジプシーか娼婦と勘違いした助べえ根性を、完璧に叩きのめされた私だった。
「アハラム。ボクのクウエートの仕事の立場では、ご期待にはそえないのが残念だけど、お父さん思いのきみはほんとうに立派な長女だよ」
「思いがけない再会がうれしくて、つい失礼なことを言ってすみません。夕方おみえになる前に、父によく伝えておきますから…」
女奴隷のマルジャーナ(アハラム)と一夜を共にする前に目が覚めたのが、なんとも残念だった。
「ありがとう。お父さんに会うのを楽しみにしているからね」
(続く)