アラブと私 
イラク3千キロの旅(24)
 
                               松 本 文 郎
 

 さて、オペラ「ナブッコ」では、新バビロニアの南ユダヤ国侵攻と多数のユダヤ人の強制連行の史実が、創作された複雑な人間模様と祖国への望郷の想いの背景に過ぎず、観衆にうけたのは、イスラエル人の捕囚たちがユーフラテス河畔で祖国への想いをこめて歌う「行け、わが想いよ」だったのである。
 イスラエルとパレスチナの問題は、イラクの旅を終えてクウエイトに帰ってから、しっかり記述することにして、話を元に戻そう。
 
「ところでオペラではナブッコの名前になっているネブカドネザル2世だけど、物語の筋書きでは史実とは逆の設定になっているんだよ」
「ナブッコを」ご存じない読者のために、アハラムたちに話したオペラの登場人物とあらすじを記しておこう。

【登場人物】
ナブコドノゾール王(ネブカドネザル2世)
イズマエーレ(エルサレム王ゼデキアの甥)
ザッカリーア(ヘブライ人の大司教)
アビガイッレ(ナブッコ王と女奴隷の間の子)
フェネーナ(ナブッコ王と正妻の間の子)

【第一幕】
・ナブッコ王と勇猛な王女アビガイッレに率いられた新バビロニア王国の軍勢がエルサレムを総攻撃しようとしている。
・狼狽するイスラエル人たちにザッカリーアは言う。「こっちは、ナブッコ王の娘フェネーナを人質にしているから安心だ」
・フェネーナとイズマエーレは相思相愛の仲だが、アビガイッレもイズマエーレに想いを寄せている。
・ソロモン神殿を制圧したアビガイッレは、「自分の愛をイズマエーレが受け入れれば、民衆を助ける」と告げるが、彼はそれを拒絶する。
・ナブッコ王が神殿に現れ、ザッカリーアが人質のフェネーナに剣を突きつけ、軍勢の退去を促したが、イズマエーレがフェネーナを救おうとしたので失敗。
・イスラエルの民衆はイズマエーレの裏切りを非難し、勝利したナブッコは町と神殿の完全な破壊を命じた。(史実に基づいているのは第一幕とイスラエル人の首都バビロンへの強制連行だけ。あとは、旧約聖書の記述に拠るかオペラ台本の創作である)

【第二幕】 
・女奴隷の子の出自の秘密を知ったアビガイッレは、ナブッコ王がフェネーナに王位を譲ろうとしているのに激しく嫉妬する。
・バビロニアの神官らは、「フェネーナが捕囚たちを解放しようとしている。ナブッコ王が死んだ虚報を流すので、王位を奪ってほしい」とアビガイッレを焚きつける。
・ザッカリーアは、神殿と祖国、民衆の信仰心復活を祈る。イスラエル人たちはイズマエーレの裏切りを詰問するが、ザッカリーアは「今や、フェネーナもユダヤ教に改宗した」と告げ、二人をかばう。
・アビガイッレと神官たちが現れ、フェネーナから王冠を奪おうとしたとき、死んだはずのナブッコ王が登場。「自分は、今や神だ」と誇った驕慢さが神の怒りにふれ、頭上に落ちた雷で精神錯乱に陥って、アビガイッレが王冠を手に入れる。

【第三幕】 
・玉座のアビガイッレが、異教徒たちの死刑命令をつくり、力を失ったナブッコに玉璽の押印を求める。
・ナブッコは、改宗したフェネーナも死刑になるのを知って、アビガイッレに取り消しを懇願するが、彼女は聞かない。
・イスラエル人の捕囚たちが、「行け、わが想いよ。黄金の翼に乗って」を歌う場面は、ここだ。
・ザッカリーアは、新バビロニアの滅亡と最終的なの勝利を予言して、人々を勇気づけようとする。

【第四幕】 
・監禁されているナブッコは神に許しを乞い、忠臣たちは彼を救出する。
・ナブッコは、フェネーナを助け、王位を取り戻すことを誓う。
・イスラエル人が処刑されようとした時、ナブッコが登場して、バビロニアの神々を祀った祭壇の偶像破壊を命ずる。
・ひとりでに崩壊した偶像を見て神の奇跡を信じたナブッコは、異国の神エホバ(ヤハウェ)を讃え、イスラエルの民の釈放と祖国への送還を宣言して、群集はエホバ賛美に唱和する。
・形勢不利と見たアビガイッレは服毒し、ナブッコとフェネーナに許しを乞いながら息絶える。
・ザッカリーアがナブッコを「王の中の王」と讃え、幕が下りる。
 
 聞き終わったアハラムが、解せない顔で呟いた。
「ネブカドネザル2世は、メディアから嫁いできた王妃アムティスのために「空中庭園」を作らせた王なのに、オペラでは、どうして女奴隷に子供を産ませたりしたのかしら?」
「ネブカドネザル2世が王妃を愛していたとしても、タジマハールを造ったシャー・ジャハーンのように、権力者には側室がいたり、ハーレムもあっただろうからね。それにしても、アハラムは案外と純情なんだね。ただ、ネブカドネザル2世がユダヤ教に改宗するという筋書きは、荒唐無稽だと思うね」と私。
「いまどきの若い女性のアハラムには、不倫のように思えるのでしょう。唯一神のユダヤ教成立以前の宗教はみんな多神教でした。キリスト教文化を基盤とするヨーロッパ人が、新バビロニア国王がエホバのユダヤ教に改宗したとする物語を創作した意図は、私には分かる気がします」 キリストの祖先の一人ヨセフに因む名をもらったユーセフらしい反応だった。
「それにしても、王女が人質にとられた国の王の甥に恋し、異母姉妹が恋敵になる筋書きは、いかにも、オペラらしい人間模様の展開だよね。アハラムは、外国の近代小説なんかを読んでるのかい?」
「本屋に、輸入された英米の雑誌や小説がありますが、私の英語では読めません。Mrマツモトは読むのですか?」
「うん。アメリカの現代小説は、英会話の勉強にはもってこいなんだ。ところでアハラム。Mrなんてやめて、「フミオ」の名で呼んでくれていいよ」

ウィキペディアの「ユダヤ教」に拠ると、バビロン捕囚の五十年間、政治・宗教のエリートのほとんどが異郷バビロンの地での生活を強いられ、王国も神殿もない状況に置かれた結果、イスラエル民族の歴史を根本的に見直すことになった。
 民族神ヤハウェへの深刻な葛藤と省察のあとで、国はなくてもユダヤ教団として生きる道を選ぼうと、大胆な宗教改革が行われた。
 圧倒的な政治・経済を誇る異教の地バビロンで、「ヤハウェこそが、世界を創造した唯一の神だ」とするイスラエル民族のアイデンティティを確立した。
 バビロン捕囚の終焉の始まりは、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝のペルシャ帝国皇帝キュロス2世(大キュロス)の寛大な政策による、祖国への段階的帰還からだった。
 ユダヤ人としてのアイデンティティを確立した彼らは、エルサレムの復興、教典の編纂、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)の再建など、イスラエル復興への活動に力を尽くした。
 現代のイスラエルは、新バビロニア王国があったバグダッドの原子炉を奇襲の空爆で破壊し、かって屈辱の捕囚から開放してくれたペルシャの末裔たちイランとは、核攻撃も辞さないほどの敵対的関係にある。
 
 英語とアラビア語が行き交う三人の談論がつづく
傍らではいつのまにか、満腹したジャミーラが椅子の背にもたれて眠むりこんでいた。
 今夕のホームパーティの話題にしたい、イスラムの生活習慣やコーランの教えなどは、バグダッドへ戻る車の中で、アハラムに訊くとしよう。
                    
                                   (続く)




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2010/02/23 10:24 2010/02/23 10:24
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