アラブと私
イラク3千キロの旅(31)
松 本 文 郎
「エー? バスラのことをご存知とは! ユーセフから聞かれたんですね。私は大のビール党なんです」
そう応えながら、朝方の夢で見たアラビア商人の客人のもてなし方の周到さが思い出された。
かっての日本人の「おもてなし」の細やかさは、来日した外国人(アインシュタインやチャップリンをふくめ)から賞賛されたものだが、日本人の専売特許ではないことを、イラクの旅の後のアラブ滞在でも思い知ることになる。
黄昏がせまるテラスでグラスを掲げて乾杯した。長いドライブと熱烈討論とで疲れた心身を、冷えたビールとチグリスからの夕風が癒してくれる。アハラムは、オレンジジュースを飲んでいる。
「私の英語は仕事柄、アハラムよりましでしょうが、日本のことをたくさんお聞きしたくて、国営新聞の記者をしている甥っ子を呼んでいます。お差し支えないでしょうね。市役所幹部の弟の次男です」
「ご一緒にどうぞ、いろいろのご配慮をありがとうございます」
「妻は、出てきてご挨拶いたしません。実家が敬虔なムスリムでクルアーンの教えを守ってきました。でも、ご挨拶のつもりで、得意のイラク料理を準備している最中です」
「クルアーンやハディースは、クウエートに来る前に少し勉強しましたし、今日も、女性に関する規律のことで、アハラムさんのお考えも伺いました」
「そうですか! アハラムの世代は、家内のような頑な生活態度は旧弊と思うかもしれません。でも、性急に近代化を推し進めるだけでなく、ハディースの生活規範の大事な部分は受け継いでほしいです」
英語が達者という甥っ子さんが現れるまでの会話は、アハラムとの会話と同じやり方で、ユーセフが仲立ちしてくれている。
「それにしても、クウエートに着任して一週間ほど滞在したホテルでアハラムさんと出会い、こうして再会できるなんて、ほんとうに夢のようですよ」
「アハラムに聞きましたが、ドライブの車の中で、ジャミーラが貴方の横ではしゃいで踊ったり、居眠りしている間に、空中庭園とオペラ『ナブッコ』や、クルアーンとハディースの女性観までずいぶん幅広い話をされたとか」
「ええ、イスラム文化への好奇心から、ついお堅い話題が多くなって、アハラムさんに呆れられたのでは、と気にしていました」
「いいえ、日本の建築家の熱い探究心に、アハラムはとても感動していますよ」
父親の言葉にアハラムが肯いたとき、「アッサラム・アレイコム」と言いながら、若くてハンサムな青年が、居間からテラスへ出てきた。
「アレイコム・サラーム」
私は、椅子から立ち上がって握手し、「マツモト」は憶えにくいから、ファーストネームで「フミオ」と呼んでくださいと告げた。
「ではそう呼ばせていただきます。私はマリクです」
「新聞記者をされてると伯父さんから伺いました」
「ええ、父と兄が官僚なので、私は、対照的な世界の仕事を選んだのです」
なぜかアハラムの目を見つめながら放ったマリクの言葉に、決然とした語気が感じられた。
もしかしてこの青年は従妹のアハラムに気があるのではと思わせる、なにかがあった。
アハラムは、さりげなく居間に入っていった。
「今日のドライブで、アハラムさんから聞きましたが、バース党による近代化政策で、お国はどんどん変わっているそうですね」
「はい。バース党が政権の座についてまだ三年ですが、イラク支部ができたのは約二十年前ですから、イギリスの統治下で成立したイラク王国の旧体制を社会主義的な社会に変える路線を走ってきました」
「そういえば、アハラムさんの名前は、エジプトの国営新聞と同じ[夢]ですね」
「この伯父が付けたようですが、最初の子に自分のの夢を託したかったのでしょう」
伯父さんはニコニコしながら、「エジプトの新聞とは関係ないですよ。でも、新しい時代の夢を実現する女性に育ってほしいと願ったのです」
アハラムがビールを満たしたグラスを手に戻り、マリクに手渡した。
「フミオさん! ビールのお代わりはいかが」
「はい、いただきましょうか」
日本では、テーブルに置いてあるビールをグラスに注ぎ足すが、アラブでは、ヨーロッパに倣ってか、別の場所でグラスに注いで出すようだ。
ユーセフがマリク青年(以下マリク)とアラビア語で挨拶をし合っていると、アハラムが、大きな銀の盆に前菜のような二、三の料理と私のビールのお代わりをもってきた。
「母ご自慢のメインディッシュは、リビングで召し上がっていただくといってます」
甥っ子とユーセフのアラビア語のやりとりを聞いていた父親が、
「ではもうしばらくテラスに居りましょう。どうぞ、料理を召し上がってみてください。フミオさんは、アラックを飲まれたことがありますか?」
「アラブの伝統的な酒と聞いていますが、まだです」
「いい機会ですから、飲んでみてください。イラク料理に、ぴったりなんですよ」
そう言って、アハラムに目配せした。
黄昏が深まり、ビールでほんのり火照った顔に、チグリスの夕風がひんやりと心地よい。
当時から四〇年たって、あのバグダッドの夕べののどかさを滅茶苦茶にしたのはいったいだれなのかと思う。
イギリスでは今年(二○一○年)、七年前のイラク戦争への政治判断の是非を巡り、「独立調査委員会」による徹底検証が始まった。
八十人以上の関係者への聞き取りは、個人的責任の訴追のためではなく、関係者の証言から将来への教訓を得る目的だとされる。ブッシュ元大統領からの要請に無条件で応じたブレア元首相への六時間におよぶ質疑では、「戦争の大義の大量破壊兵器が見つからずに参戦の判断をしたことを反省しているか」と問われ、「責任は感じているが、反省はしてはいない」と答えていた。一流の歴史学者二人をふくむ五人の「独立調査委」には、内閣・省庁の公文書・電子メールの機密文書へのアクセスが認められ、一部はインターネットで公開されているという。「調査委」会場周辺には多数の民衆・戦死者遺族が押しかけ、野党や世論の反対を押し切って参戦を決意した、ブレア氏への怒りの表情を露わにしていた。
元官房長官は、強力な権限を有するブレア政権の閣僚の一部グループが内閣を牛耳じり、その閣僚らの意見が既定の政策とみなされ、それを覆すような意見は出しにくい状況だったと証言している。
九・一一の同時多発テロへの報復を果敢に決断したかに見えたブッシュ元大統領が、テロ以前から、イラク元大統領サッダム・フセインを抹殺する機会を狙っていたことが、米国内で報道されている。大統領の任期終了を目前にしたブッシュの、大量破壊兵器の情報がCIAによって誤って伝えられたと責任逃れに汲々とした醜い顔が目に浮かぶ。間違った情報で参戦を決断した責任は感じているとしたブレア氏の方は、大量破壊兵器の存在は、機密情報によって明白だと信じたのだ、と証言。
オックスフォード大教授のアダム・ロバーツ氏は、NHK「クローズアップ現代」の国谷キャスターのインタビューで、ブレア労働党政権の歴史的視点のなさに言及。イギリス軍によるイラク占領下の一九二○年に、中南部で起きた大規模な反英暴動の歴史的教訓からまったく学んでいないと指摘していた。
また、イギリス国民はアメリカのプードルになるのを嫌がっており、ブレアはイギリスの言い分を、もっとブッシュにぶつけるべきだったと述べた。
イラク自衛隊派遣を即断した小泉元首相、沖縄の基地問題で弱腰だった鳩山元首相にも当てはまる言ではなかろうか。
ドイツととフランスもブッシュの強引なイラク戦争には反対だったが、ブレア内閣外務省顧問(国際法専門)も、安保理のお墨付きがない開戦には強く反対したという。
ブレア元首相の誤った情報に基づく政治的判断で一兆円の軍事費と自国・イラク両国民に多くの戦争犠牲者を出したイラク戦争。その徹底検証をめざして、喚問・質疑はつづけられ、今年末、最終報告書が出るという。
国民の政治家と政治システムへの不信に応じて、ブレア政権閣僚の元ブラウン首相が「独立調査委員会」を設置したことに、やはり日本が民主政治を学んだ国だなと思ったものの、議会議員による経費の不正使用にみる政治家の質の低下が透けて見える。
小鳩政権も政治と金、沖縄基地問題らで迷走して国民の政治不信を深め、内閣支持率の急落を招いて座礁したが、なんとかだけは沈没は免れたようだ。
労働組合勢力の支持で初めて政権交代にこぎつけた民主党政権は、歴史の教訓に学ばなかったブレア政権の轍を踏まないようにしなければなるまい。
わが国で、太平洋戦争の徹底検証がなされていれば、敗戦後六十余年の日本の歩みはかなり違ったかもしれない。政権交代の成否は、まさに正念場を迎えている。片やブッシュの戦争と金融資本主義の暴走で混迷したアメリカに復元力をもたらしたオバマ政権。片や、経済格差や人権問題を内包しつつも、世界第二の経済大国になろうとしている社会主義中国。その狭間をゆく日本丸は、どこをめざし、どんな経済・外交戦略を駆使して航海するのか。家の中から、アハラムがアラックの瓶とグラスをのせた盆を運んできた。米英両国元首脳に敵視されたサダム・フセインが大統領に就任するまであと九年のバグダッドの夕べに戻ろう。
(続く)
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