アラブと私 
イラク3千キロの旅(33)
 
                          松 本 文 郎 

 
 ユーセフと一緒にボーラスを郵電省に訪問したとき、私が述べたのは、「日本人は無宗教と見られているようですが、敬虔に神仏に祈る日本人のこころは、キリスト教やイスラム教のような世界宗教の信者のそれと変わりはないでしょう」(10)だったのだが、むしろ、アジア人の原初的な自然崇拝(アニミズム)の方が、既成の三大宗教の頑なさよりも、より純粋な宗教心のように思われる。

 一神教の出現前の人類社会は、みんなアニミズムだったのである。いつの間にか、私たちの会話に聞き耳立てていたらしいユーセフが肯いている。
「アッバース朝の宮廷料理でお聞ききしたいのですが、さぞかし贅を尽くしたものだったのでしょうね」
「ええ、それはもう! 民びとから見ればびっくりするような料理ばかりですよ」
「たとえば、どんなものでしょうか」
「<シャルバート>というデザートひとつとっても、それはたいへんなシロモノです。材料はナツメヤシの一種と砂糖など一般的ですが、それをつくるために遠くの高山から雪を運んで作らせたそうです」
「日本で三百年続いた徳川幕府の大奥、ハーレムの一種ですが、にも似たような話がありますよ。山岳地帯の城主が山の氷室に貯蔵していた氷塊を、将軍への暑中見舞いに苦労して運ばせました」
「このシャルハードは、ラマダーン明けの喉の渇きを癒すのにぴったりです。ひょっとして、食事の後で出されるかもしれませんよ」
 アハラムが微笑んだのは、そうですよということなのか……。
 それにしても、アル・マアムーンというカリフは、開明君主の称号をもつだけあって、その合理主義的な統治の下で、「文明の移転」という事象が出現したのである。
 つまり、ギリシャ文化とオリエント文化を融合したヘレニズム、イラン、インドなど先行した文明の文献をアラビア語に翻訳した「知恵の館(バイト・ル・ヒクマ)」を開設したのが、このカリフだった。
「現代世界は、欧米の西洋近代がもたらした知見・技術で動かされていますが、それを可能にしたのは、人類の古典的な知恵をアラビア語を介して伝承したアル・マアムーンの先見の明ではないでしょうか」
この偉業をなしたイスラム帝国最盛期の傑出した統治者カリフの血が、アラブとイラン相半ばするとは知らなかった。
「私も不勉強でしたが、そうしたことが分かれば、アラブを産油国としてしか見ていない欧米人たちも、考えを変えなければなりませんね」

 暗黒の中世の桎梏から解き放たれたルネッサンスは、イスラム世界の存在なくしてありえなかったのではないか。
 西洋近代以前のイスラムは、学術、文化、産業、経済、社会、技術などの全分野で西洋に優り、その栄光の耀きはヨーロッパの人たちにはまぶしかったにちがいない。長い中世の抑圧に苦しんでいたヨーロッパ人の目に、イスラム世界の絢爛たる都市文明は、魅力と映るよりむしろ脅威を感じさせ、嫉妬させたのではないか。

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地であるイエルサレムをセルジューク・トルコに占領され、キリスト教徒は十字軍を送り込んだが、(12)で述べたように、法衣の下に鎧をつけて版図拡大を意図したのであって、純粋な聖地奪回の戦いではなかったとするのが、今日の歴史学では通説になってきた。
 十字軍以来、ヨーロッパ人が抱いたイスラムへのコンプレックスの根は深く、ゆがんだイスラム観は強く残っているが、そのなかで、イスラムを正当に理解しようとした人たちもいた。
 カトリック教徒のリルケ、ゲーテなどもイスラムに傾倒し、ヴィクトリア女王は「隠れイスラム教徒」の噂が立つほどだったという。

「知恵の館には、図書館・研究所・翻訳センターがあり、カリフ自身もよく訪れて、学者たちとの討論をリードしたそうです。優れた諸文明をアラビア語に翻訳・記録し、維持・融合しながら、自らのものにしていったのです」
「イスラム文明とかアラビア文明と呼ばれているものですね」 
「そうです。アッバース朝では、ムスリムによる非ムスリムの支配が原則でしたから、才能のある者は人種・宗教の別なく自由に活動できました。多くの百科全書派的な天才が輩出しました」

 話に夢中で、テーブルの前菜も少し残っているし、アラックのお代わりはまだしていない。アハラムが気をきかして、、羊肉のパテと揚げたレンズ豆の「タブーラ」を皿にとってくれた。ホブズで掬って食べた「ホムス」のレンズ豆は、ゆっくり煮てミキサーにかけ、ごまペーストを加えてどろどろにしたと、アハラムから聞いていた。

添付画像
 皿に取り分けてもらった「タブーラ」を味いながら、アラックのグラスを空けた。
「私たち日本人も、朝食のおかずに煮豆をよく食べたものです。一家のおばあさんがゆっくりと時間をかけて煮るのが習わしでしたが、今の都会では店で買います。豆を揚げたりはあまりしませんが、このレンズ豆はパテとよく合ってますね」

 テーブルの端で、ニコニコしながら私とマリクの真面目な会話を聞きながらアラックを飲んでいた主が、お代わりを促してくれた。
 招かれた家の主を横に、甥っ子とばかり話していたのに気づかされた私は、「ご主人。アラックという酒はいつごろからアラブで飲まれているのですか?」

 声を掛けられたのがうれしかった様子で、「かなり昔からでしょう。ナツメヤシやぶどうのような糖度の高い果実を発酵・蒸留してつくりますが、語源は、「汗がにじみ出る」とか「少量の水」の意味で、蒸留や蒸留物を指していたようです。中近東では、イラク・シリアを中心にエジプト・スーダンなど北アフリカでも伝統的な蒸留酒です」

 ウィキペディアによると、この中近東の蒸留技術が各地に伝播し、土地古来の醸造酒を蒸留した地方色豊かな「アラック」がつくられるようになったとある。 例えば、トルコではアラックから派生した「ラク」、ギリシャでは「ウーゾ」、英語・スペイン語・ポルトガル語では、アラックとほぼ同じ発音のようだ。元朝の料理書『飲膳正要』にある「阿刺吉酒」はアラックの漢語音写で、回方(イスラム世界)からもたらされたと紹介されているという。十四世紀、アラックの呼称のままモンゴル高原や華北に伝来して広く愛飲された。日本には江戸時代に長崎経由で輸入され、「阿刺吉」「阿刺基」と書いて「あらき」と呼んだとある。北原白秋の詩にも、「阿刺吉の酒」」とあった気がするが……。
 アラックはきっと、バビロン王朝でも飲まれていたにちがいない。
 
 立ち上がったマリクが、テラスから居間へ入って行った席に、グラスを持った主がやってきた。
「フミオさんと私の甥っ子は気が合ったのか、話が弾んでいましたね。あなたがメソポタミアの歴史にお詳しいのには心底驚き、感心しました」
「私は、アラブの歴史に関心をもつ建築家として、基本的なことしか知りません。クウエートの仕事は、国際化する情報社会の基本インフラの電気通信施設を構築することですが、ラマダーン明け休みを利用してこの地を訪ねました。古い建造物は残っていなくても、バグダッド博物館の収蔵品を見るのが楽しみです。明日は、ぜひ見学したいと思います」
 アラックを何杯もロックで飲んでいる主はいける口らしく、ウイスキーの手土産は正解だった。
 白濁した水割りのアラックは、クセがなくて飲みやすい。主が勧めるままにグラスを重ねる。
「バグッダドには日本車がたくさん走ってますし、私の会社でも、トヨタの小型トラックを数台使っています。大型はベンツですが……」 
「それはうれしいですね。乗り具合はどうですか」
「故障が少ないし、ディーラー駐在の日本人技術者が親切で腕がいいのです」
「サンドストームのような過酷な条件下では、メンテナンス体制がしっかりしていないと、車の販売は伸びませんからね」
「ところで、去年は日本で国際博覧会がありましたね。盛況でしたか?」
「ええ、私はNTTパビリオンの基本計画に携わり、貴重な体験ができました。開催地大阪は、徳川幕府が江戸(東京)に遷都した十七世紀初頭まで、奈良の平城京と京都の平安京につづく政治・経済の中心地でした」
「日本で開くのは初めてだったのですか」
「そうです。でも、江戸幕府末期のパリ国際博覧会に出展して、ヨーロッパに日本の文化を知らしめ、世界の多様な文物を知る、わが国初の機会になりました。それから間もない明治維新で、国家近代化の道に踏み出したのです」
「イラクでは、あの強大なロシア艦隊を破った日本がよく知られています。その五年前(一八九九年)のイラクはオスマン帝国の中央集権下で、ドイツがバグダッド鉄道の敷設権を手に入れました」
「イラク王国独立の一九三二年までは、イギリス軍のバグダッド占領や中南部の反英暴動を経て、委任統治が続きましたね」
「曽祖父は、若くして土建会社をつくり、ドイツの大手会社の下請けで鉄道建設の仕事を始めて成功しました」
「ほう! そうですか! 失礼ですが、あなたは何年のお生まれですか?」
「一九二五年です。まだイギリスの委任統治下でしたが、その年に、モースルのイラク帰属が国際連盟で決定されています」
「ユーセフから聞いたのですが、二年前のモースルで内戦が起こり、町の道路が血の川になったそうですね」
「とても悲惨でした。あの地域には、昔から多くのクルド族が住み、歴史的な経緯も複雑です。彼らは、イラン・トルコ国境沿いにも定住してきた少数民族なのです」
「ヨーロッパ列強が、オスマン帝国を滅ぼした後のアラブの地に勝手に線引きしたのが、いろんな紛争や問題を起こしているではないですか?」
「そのとうりですが、オスマン帝国がメソポタミアから北アフリカまでのアラブ全域を手中に収めた、十六世紀からの四百年間も他国の統治下でした」

 小さな土建会社の四代目社長が、架空庭園を築造した新バビロニア王国・ネブカドネザル2世に仕えた土木技術者の末裔のような気がしてきた。


                                                                     (続く)

2010/07/21 18:40 2010/07/21 18:40
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