アラブと私
イラク3千キロの旅(4)
松 本 文 郎
ベリーダンスから娼婦、あげくに、「ウルヴィーのビーナス」のモデルの話にまで、道草してしまった。
小田 実の流儀をなぞるにしても、あまりに度が過ぎてはと、「イラク三千キロの旅」に戻ろうとしていた矢先に、バスラのシーア派同士の内戦が報道され、つい書きくわえてしまった。
その気持ちは、この紀行文が私の自分史の一環になるといっても、当時の自分を懐かしむだけにとどまっては、読者の関心を引かないと思うもの。
アラブ滞在記の最初の章をイラクの旅から始めたのも、40余年前のイラクから想像もできなかった今を並列に書くことで、私にとってのイラクと友人たちへの想いを伝えたいからだ。
モスルどころかバグダッドにいつたどり着くのかと思われても、こんな調子で旅をつづけてみたい。
バスラの街の中心を流れるシャト・アル・アラブ
河は、70キロ北でチグリス・ユーフラテスが合流した下流の呼称で、合流点のクルナという小さな町は、旧約聖書のエデンの園があったとされる場所。
ギリシャ語で食堂を「タベルナ」というが、まさか、エデンの園は今危ないところだから「クルナ」、ではなかろう。
河堤に大きな林檎の木が立ち、その下に当時の木の化石といわれる幹が横たわっている。
立札にアラビア語と英語で、「われわれの父アダムが「地上の楽園」を象徴して、チグリス・ユーフラテスの流れが出会うこの聖なる地に聖樹を植えた」とある。
ユーセフに、「イスラム教徒の多いイラクなのに、アダムをわれわれの父というのかね」と冷やかすと、「キリスト教もイスラム教も根は一緒ですからね」と、クリスチャンはウインクした。
立札の下方に、「紀元前2千年、ここでイスラエル民族の先祖アブラハムが祈った」とも書かれている。
人類が最初に言葉をもったのは7万5千年前というが、考古学の発達で、神話の世界も次第に色褪せてくるのは、少々さみしい気もする。
シャト・アル・アラブは、バスラからアラビア湾のファオ港までの百キロをゆったりと流れ下る。
川幅は2、3百米で、水深は中央で13米という。
1万トン級の外洋船がバスラの港まで遡上できるように浚渫したとユーセフが教えてくれた。さすが、
土木技術者だけのことはある。ただ、アラビア湾の影響で最大で2米の干満の差が生じるという。
両岸に林立するナツメヤシが落とす緑の影が川面にゆれる風景は、印象派の絵そのものだ。
堤防の下を走る車から、ナツメヤシの並木の間をすべるように行く大型船を見ると、まるで陸の上を動いているようだ。
バスラ港の歴史は、イギリスが中東への影響力を保ち、イラク支配を強め、アングロ・ペルシャ石油会社を支えるために機能的な埠頭と荷揚施設を建設したことに始まる。
第二次世界大戦が終るまでに、近代的なドックやクレーン設備が整備され、シャト・アル・アラブの浚渫とともに、港湾の規模・機能が拡充されてきた。
かって、大英帝国が中東に注いだ軍事的、政治的戦略エネルギーのものすごさを思い知る。
ロレンスが夢想した、アラブ民族の列強支配からの脱却と自立は、生易しいものではなかった。
川岸のあちこちに釣竿を手にした人たちがいて、
そののんびりかげんは、なぜか、敗戦後の少年の頃に疎開先の田舎で経験したものだ。
ユーセフが釣り人に聞くと、ナマズ、フナ、コイ、ハヤ、チヌが釣れるようだ。アラビア湾の遠浅の海でキスやチヌを釣るのが、クウェートの休日の楽しみになっていた私だが、先の長い旅ではそれもできない。
もうひとつ、シャト・アル・アラブで触れておきたいのは、シンドバッド島と呼ばれる中洲のこと。
なんとここは、アラビアンナイトのシンドバッドが航海に出発したところだそうだ。
シンドバッドの大冒険と比べるのはおこがましいが、これから未知の国イラク三千キロの旅が始まるバスラに、思いもしなかった神話や物語の場所があることを知り、この国への好奇心が倍加した。
この中洲全体が公園になっていて、レストランもあり、ナツメヤシの葉陰のテーブルに陣取って、ビールでのどを潤した。
ユーセフは、車の運転があるのとアルベヤティの
ように酒好きでないので、生オレンジ・ジュースをジョッキで飲んでいる。
今3月のクウェートなどこの地域の気候は、灼熱前のしのぎやすい季節で、日本では5月中旬のような風が、かるく汗ばんだ肌に心地よい。
辺りを見回すと、公園のあちこちで庭師や掃除夫らが働いており、水が撒かれた花壇や芝生の鮮やかな色が目にしみる。ナツメヤシの林が囲む園内に、ブーゲンビリアやバラなどの花々がよく手入れされている。
イラクの旅のあとに待つクウェートの過酷な仕事と厳しい気候を想うと、旅の最初の地バスラの街に「エデンの園」があったという故事が面白かった。
「エデン」はヘブライ語で歓喜の意だが、旧約聖書の「創世記」に、神がつくった人間のアダムとイヴが禁断の木の実を食べて追放された園とある。
この木の実は人間が手にした「知恵」とされるが、人類社会の歴史が、他の生き物には見られない愛憎や善悪、戦争と平和などの光と影で織なされていることをみると、人間の知恵とはなにかを考えるのに、なかなか含蓄のある説話だと思う。
ただ、旧約聖書を神話の一つとみる私は、人類が知恵に秀でた頭脳をもったのは、神の掟を破ったからではなく、進化の過程での突然変異の結果だとする方をとる。
「エデンの園」があったとされるバスラで、イラク人シーア派同士の内戦状況をみるにつけても、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が神の掟とする殺戮や報復の禁止を、それぞれの信奉者がどのように受けとめているのかと問いたくなる。
知恵を得て「エデンの園」を追放されたとする人類は、しばしば混迷の極に直面してきたが、神の手を借りずに、その知恵で克服できるかどうか。
いまも、人類に課せられている宿題であろう。
私が子供や孫への遺言としたい『私的人間探求』の著述は、そんな想いから着手したばかりだ。
建築家の私は、人間居住環境としての都市と自然、古今東西の都市の興亡、産業革命に発する工業社会の自然環境の汚染・破壊などに関心をもちつづけてきた。
バスラに近いウルは、古代文明のさきがけの都市国家があったところで、旧約聖書に「カルディアのウル」とあり、アブラハムの故郷とされる。
ウル周辺は広大な湿原をふくむ水郷で、農業生産の豊かな恵みがウル王朝の繁栄を支えた。大学の西洋建築史の講義で学んだシュメル王朝のジグラットは、エジプトのピラミッドに劣らず壮大な建造物である。
ところが、5千年にわたり人間と多くの生物種に恵みを与えてきたこの一帯の環境悪化が報じられている。
旧約聖書の「ノアの洪水」と関係があるらしい。
(続く)