アラブと私
イラク3千キロの旅(32)
松 本 文 郎
「このアラックはアルコール度が四〇%です。水で割ると白く濁るので、「ライオンの乳」の別名があります。私はロックで飲みますが、フミオさんはどうなさいますか」
「面白そうだから水で割ってください。あまり酒に強くはないですし……」
グラス三分の一ほどのアラックは、水が注がれた瞬間に白獨した。
「テーブルの料理は、アラックによく合う前菜ですから、どうぞ」
父親は、まだ料理を皿にとっていない私に勧めるものの、中国式に客の皿に料理をとることはしない。
アハラムは私に料理の説明をしようと、それぞれの皿を指さしながら、アラビア語でユーセフに伝えている。
それによれば、出ているのは「メッツェ」という前菜のいくつかで、オリーブ・ラディシュ・チーズの盛り合わせ、サラダの「タブーラ」、「ホムス」とよぶひよこ豆料理だという。「ホブズ」(平べったいパン・前出は「ホベツ」と表記)も出ている。
タブーラは、羊肉のパテの薄切りと揚げレンズ豆にレタスとトマトがのせてあり、ニンニク・レモン・各種スパイスのドレッシングがかけてある。
ホムスは典型的な前菜だそうで、一晩水につけたひよこ豆を鍋で一、二時間煮て、ミキサーにかけ、ごまペーストの「タヒニ」とニンニク・塩を加えてどろどろになるまでかき混ぜ、レモン汁をかけて出来上がりという。
浅めの皿に盛られたホムスの中央にオリーブ油をかけ、煮豆・パブリカ・みじん切りパセリが飾りにのせてある。
「ホムスを、ホブズで掬って食べてください」
アラックによく合うといわれ、ひよこ豆もごまも好物だから、アハラムを真似て、千切ったホブズで掬って口に運んだ。
「日本の夏のビールには、茹でた枝豆がよく合いますが、これは、アラックにぴったりですね。アラブではよく豆類を食べるのですか」
「ええ、よく食べます。聖書にも、古代エジプト人がレンズ豆やひよこ豆などを食べていたと書いてありますよ」
若いマリクだが、新聞記者だけのことはある。
「アラブの食文化に興味をおもちなら、『アッバース朝の社交生活』という英訳本があって、当時の宮廷料理(七五○―一二五八)の飲食について知ることができます」
料理や食材のことをよく知っている従兄の一面をみたアハラムは、驚いているようだった。
「アッバース朝といえば、バグダッドに都を遷した王朝ですよね」
「よくご存知ですね。アラブ帝国の都は正統カリフ時代のメディナ、ウマイヤ朝のダマスカスを経て、アッバース朝第二代カリフ(アル・マンスール)がチグリス川畔のバグダッドに新都を築きました」
「大学の西洋史で学んだのですが、アッバース朝の発端は、アラビア半島からビザンツ文化圏に北上したウマイヤ朝がアラブ貴族優先の社会だったので、対抗するイラン人中心の非アラブ系・新ムスリムの反乱が起こり、それが「アッバース革命」のきっかけになったそうですね」
「いやいや。私よりずっとお詳しいので、びっくりです。」
「アッバース朝の宮廷料理の本があるようですが、ダマスカスからバグダッドへ遷都したアラブ帝国は、たいへん栄えたようですね」
「ええ、第七代カリフのアル・マームーン(在位八一三―八三三)のときが黄金期とされますが、革命後のイラン人との混血でアラブの血が薄まり、帝国のイスラム化が進みました。アッバース朝の最初の百年は、アラブ帝国がイスラム帝国になった黄金時代でした」
「私が建築を専攻した京都大学では、最初の二年は教養学部で学び、多方面の講義を聴くことができ、西洋史も聴講しました。図書館で『京大西洋史』を読みましたが、精緻な研究と魅力的な記述で名高い本です。その本に、当時のバグダッドは東西貿易の拠点として未曾有の繁栄を誇り、都市文化の発達で学術の一大中心地だったとありました」
「それはうれしいですね。遠いアジアの日本の人がバグダッドの歴史にくわしいなんて、思いがけないことです」
「いえいえ、歴史の大筋を学んだだけですよ。それにしても、アッバース朝の時代に、アラブとイランの混血が進んだというのは、今のイラクとイランの関係を考える上で、重要な事柄ですね。私は、一昨年(一九六九年)、テヘランに二ヶ月滞在しましたよ」「やはり建築の仕事ですか」
「ええ、イラン電気通信研究所の建築的基本計画の技術指導でした。オフィシャルパスポートで派遣され、帰国前に、イラン国の招待で古都イスファハンや史跡ペルセポリスを案内してくれました。同行したイランの電気通信技術者のお膳立てともてなしが至れり尽くせりで、実にすばらしい旅でした」
「第七代のアル・マアムーンの半分の血はイラン人で。イスラム帝国代々の宰相を出したペルシャ系の名門バルマク家の出です。父親は、『千一夜物語』によく出るカリフのハールーン・アル・ラシードで、母親はハーレムに使えたイラン人奴隷でした」
「ペルシャといえば、世界七不思議の『架空庭園』が、ペルシャ軍のバビロニア帝国征服で破壊されたのが紀元前五三八年ということですね。アハラムに、メディアから輿入れした王妃を慰めるために、夫のネブカドネザル2世が建設したと話しました」
マリクとの英語でのやりとりを、ユーセフとなにやらアラビア語ではなしているアハラムに聞かせようと、「アハラムは、そんな男性と出会うのは、いまどきムリでしょうと言ってましたよ」
「ジャミーラのような少女たちは、こんな夢物語に憧れるでしょうが、しっかり者のアハラムは、歴史上の人物で絶大な力と富を手中にした統治権力者の特権を、かなり覚めた目で見ていると思います」
従妹をしっかり者と言ったマリクの表情に、彼女を好ましく想っていると感じさせるものがあった。いかにも新聞記者らしい彼の語り口が続く。
「エジプト・ナイルの河沿いの肥沃な土地に栄えた歴代王国と同じように、チグリスとユーフラティスに挟まれた沃地のメソポタミアには、四千八百年前のシュメール初期王朝や三千九百年前のバビロン第一王朝、ネブカドネザル2世の新バビロニアなどの栄枯盛衰がありました。それら王国・王朝の物語は、歴史の彼方に遠ざかりましたが、第七代カリフが成したバグダッド再興の偉業は、この地に生まれた私たちの誇りです」
私は建築史の泰斗村田教授の講義を思い出した。
「たくさんの小さな部族を束ねた王国や王朝に権力と富が集中して、壮大な都城や墳墓が造られました。歴史的建築遺産は、人類社会の歩みを示す足跡だと思います」
「エジプトの遺跡はピラミッド・オベリスク・神殿などは石造でよく保存されていますが、バグダッド近辺の古代建造物は日干しレンガなので、ほとんど崩壊してしまいました。砂を固めたレンガが、元の砂漠に還えるのもインシャーラ(アラーの思召し)でしょうか」
マリクは、徒然草を書いた兼好法師の自然観というか、宗教的な思弁に通じるものを披瀝した。
私はすかさず、「徒然草」の出を唱えて、「アラブの思想を培った砂漠とは対照的に、アジア、特に日本では「水」だと感じています」
「私はムスリムでもクリスチャンでもありませんが、人間の知を超えた大きな存在を否定はしませんよ」
「クウエート郵電省の建築技術顧問ボーラス氏も同じ考えのようでした。カイロ大を出たエジプト人建築家で、奥さんはフランス人ですが」ね」
(続く)
16世紀に描かれたバビロンの空中庭園れたバビロンの空中庭園
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