「喜寿・ひかり」紀行
松本文郎
喜寿の今年、福山へ里帰りをした。広大付属福山校第1期生の「喜寿の会」へ出席するためである。去年6月、妻お千代の母文子さんの25回忌で帰って以来、1年ぶりだ。駅前のニューキャッスルホテルでの受付開始は2時、会が始まるのは5時半なので3時ごろ着けば十分だが、会場に近い福山城のあたりを散策したいと思い、昼過ぎに到着する「ひかり」を選んだ。平日の早朝だから自由席で大丈夫と思いつつ、念を入れて指定席を買う。65歳で年金暮らしとなってすぐ会員登録したジパング倶楽部の30%割引は大助かりだが、「のぞみ」には割引がない。年金暮らしの老人などに、急ぐ用事はないだろうと言わんばかりである。西下する新幹線長距離列車のほとんどは「のぞみ」で、「ひかり」は新大阪で乗り換えなくてはならない。とはいうものの、出張で全国を飛び回っていた現役時代でも、「のぞみ」のスピードの慌しさでは車窓からの風景が楽しめず、できるだけ「ひかり」に乗ることにしていた。
東京駅のコンビニで、缶ビール・タコちくわ・ゆで卵と赤飯・鶏五目のおにぎり・茶を仕入れ、ホームにいる列車の指定席に座った。車内はガラガラで、新大阪まで、隣席に人はこないとふんだ。
二人掛けを仕切る肘掛を押し上げた隣席に「喜寿の会」の案内資料や道中で読む本を置き、コンビニの品々を前のテーブルに並べた。
私の列車の旅に、缶ビールは欠かせない。
発車して車窓の風景がほどよい速さで流れ、缶のプルを引いて「プシュ」という響きを聴くのは、至福の瞬間だ。ビールといっても家で愛飲している第3のビール「のどごし」である。
品川と新横浜で3分の1ほどの席が埋まったが、隣席は空いたままである。久しぶりに再会する学友たちの顔の記憶を確かめようと、還暦から5年ごとに参加した1泊同期会の集合写真やスナップを眺めながら、朝食のおにぎりを食べていると、小田原に着いた。乗客が増えてきたと思ったら、隣席の切符を持つ若い女性が立っていた。でも、周辺を見回すとまだ空席だらけだ。とっさに、「貴女の席に私のいろんなものを並べていますので、空いている前の窓側に座っていただけませんか」と聞くと、自分の席に座りたいと仰る。ごもっともである。急いで広げていたものを抱えて、前列の空席に移る。 あわてて前列に移動する私を見る女性の表情は、ホッとしていた。ほどなく熱海に着くと、私が移った席の客も乗ってきて、私を睨んで立っている。私はそそくさと、おにぎり・お茶のビニール袋と資料や本を抱え、また自席に舞い戻る羽目となった。空席のほとんどは指定の客で埋まった。
東京駅でガラガラでも、終点の新大阪までの停車各駅でかなりの乗降客があると考えなかったのは、やはり歳のせいだろうか。隣席の指定券をもつ人に、なんてバカなお願いをしたのかと後悔する。その若い女性は、サンドイッチとジュースの朝食を黙々と摂っている。出会いの頓馬な珍問答に臆した私は、話しかけるチャンスをつかめぬままに、15年前からの同期会の写真と60年前の卒業アルバムをつぶさに見ることに集中した。そうこうしてうちに、今朝の早起きとビールのほろ酔いで眠くなってきた。どのくらいかして、ふと目覚めた私の左肩に、女性が寄りかかっているのに気がついた。彼女との間の肘掛は、私が上げたままである。
ヘンな爺さんに見られただろうと消気ていた私は、なんだか嬉しくなって、身じろぎもしないで眼をつむりつづけた。
またウトウトしたらしく、静岡駅到着を知らせるアナウンスで眼が覚めた。左の肩が急に軽くなって、女性が降り支度を始めた。
立ち上がって通路に出た横顔に、「妙なお願いをしてごめんね」と挨拶すると、ちょっと微笑んだ彼女は、「いいえ」と言って出口へ向かった。
それから新大阪までの隣席は、空いたままだった。
再び隣席にひろげたスナップ写真を眺め、同期会で話をしたい顔を捜す。一人ひとりと交わす話題を考えていると、60余年前の学び舎での懐かしいシーンが蘇ってくる。
音楽部の管弦楽演奏会や県コンクール優勝、美術部のスケッチ会や展覧会、文芸部の同人誌作成、朝の放送当番の原稿を朝刊から抜書きした放送部活などのあれこれが、次々に脳裏に浮かんでは消える。
何度目かの“ふるさと同期総会”はおそらく、この「喜寿の会」で最後になるのではないだろうか。
1年前から企画・準備してくれた実行委員の幹事諸兄姉は、なにかと大変 だっただろう。
思い出に耽るにはほろ酔いにかぎると、車内販売のおネエさんからビールを買う。残念ながら、利幅が小さい第3のビールは売っていない。
ほどのよいスピードの「ひかり」の車窓を流れる風景に眼をやりながら、青雲の志に燃えた若き日々に思いを馳せた。浜松、豊橋、名古屋を過ぎたのは知っていたが、いつの間にか眠り込んだようだ。
この列車の終着駅新大阪到着を予告するアナウンスで目が覚めた。
乗り換え時間は9分あるから、慌てることはない。
間もなく入線した広島行「ひかり」の指定号車はグリーン車タイプだった。通路を挟んで大きな座席が二つづつ並んでいる。
ホームに面した窓側席に落ち着いたころ、3人の男の子と母親らしい人がやってきて、私の隣にまんなかの年ごろの子を、反対側に2人を座らせた。彼女の席はどこなのだろうかと思っていると、さっさと降りて行った。
窓近くのホームにいた男性の横に並んだ彼女は、車内を覗いながら話をしている。どうやら、だんご3兄弟(?)を見送りにきた両親のようだ。
3兄弟の方は、席に座るやいなやカバンから取り出したゲーム機に夢中だ。ホームで発車のベルが鳴り始めても、窓の外で見送っている両親に誰も気づかず、ゲームの画面から顔を上げない。
両親に同情した私が、隣の子に教えてやろうとしたとき、ホームから一番離れている窓側の末っ子がふと顔を上げて、ホームに立っている両親を見た。
彼から知らされた2人はとっさに顔を上げ、動き出した窓に手をふったが、すぐに熱中していたゲームに戻った。ホームを見つづける私の視野から、列車を背にして歩く両親が消えた。
なんともあっさりとした親と子の見送りシーンは、微笑ましかった
子供だけの列車の旅を目の当たりにした私に、懐かしい想い出が蘇った。太平洋戦争が始まる前年のことである。
昭和9年生まれの私は、原爆投下の前年まで、父が勤める広島鉄道管理局がある広島市に住んでいた。毎年夏休みには、父母の実家がある福山の田舎へ一週間ばかり行くのが楽しみだった。
いつも母親と一緒なのに、昭和15年の夏だけは、なぜか独りで行くことになった。5歳の私には大冒険に感じられる旅だったが、翌年小学生になる私を一人前に見てくれたようで、うれしかった。当時の国鉄には家族パスなるものがあった。私たちには2等パスが出されていたが、切符を持つ乗客で満席になれば、3等へ移らねばならなかった。
広島駅では母が見送ってくれた。蒸気機関車の煤煙が流れるホームに立つ母を、開けた窓から身を乗り出して、いつまでも手を振ったのを憶えている。
3時間半の車窓の沿線風景を楽しめたが、今の新幹線なら23,4分だ。時間短縮には仰天だが、トンネル区間の多い車窓は味気ない。
福山駅へ伯父が迎えに来てくれるからなにも心配はない。2等車には空席が目立ったが、発車して間もない検札で、1人のオジサンが3等へと移った。
新大阪からの3兄弟の末っ子は、あのときの私の年頃ではないか。ゲームの邪魔はしたくなかったが隣の子に聞くと、自分は小学3年で、兄ちゃんが6年、弟は来年小学生になるという。
3人が夢中になっているゲーム機は、色ちがいの同機種である。3人兄弟の若い父親は仕事もたいへんだろうに、高価なゲーム機をおそろいで与えている。ほどよく年がはなれて仲のよい3兄弟は、ご両親の大事な宝ものだ。楽しそうな笑い声の方に目をやると、お兄ちゃんが、ジャレかかる下の弟を上手に遊ばせている。駅で座席まできた母親に頼まれたのだろうか。娘婿一家の孫遥大(ようた)も、ゲームを楽しむ時間をうるさく制限されながら、今春、念願の中高一貫校に入学した。私たち夫婦にあやかるためと聞いたが、婿殿のお世辞というものであろう。私たちが広大付属福山中学校の1期・2期生で出会ったのは昭和23年。60余年の間、共に学び、家庭をつくり、子供たちを育ててこれたのは、高校受験の勉強をしなくていい中学・高校生活が充実していたからでしょう、と婿殿に言われたのだが、そのとうりだと思いたい。ただ、“だんご3兄弟”の長男だから姉妹がいなくて、敗戦前後の疎開生活で、農事や炊事の手伝いや9歳・12歳年下の弟たちの面倒をみさされたのが、その後の人生で役に立ったとも思う。
疎開して離れ座敷に住まわせてもらった本家の一人息子が戦死してから、毎晩のように本家の仏壇の前で、祖父母、伯父伯母、従姉らと一緒に唱えた般若心経を、門前の小僧よろしく憶えてしまった。
還暦前後から、先輩・知人の年忌に招かれたときに般若心経を唱えるようになったが、奥様方からは、「まだお若いのに、よくご存知ですね」と言われたものだ。
昨年は、妻の母親の25回忌で福山に帰り、菩提寺の住職に和して唱えた。夫が沖縄戦で戦死した後、末っ子の妻を含む2男2女を女手一つで育て上げた人である。
私の家族は、疎開のお陰で原爆を免れたが、比治山の下の皆実町小学校の同級生らで被爆した者は、どうなったのかと胸が痛む。
昨夏、浦安戦没者遺族会の「みたま祭り」で忠霊塔公園の会場に懸ける、「箱ぼんぼり」の揮毫を美術協会会員の女性画家を通じて依頼された。「靖国問題」を理由に揮毫を断る会員が少なくないと聞いた私は、戦死者の死をムダにしないためにこそと、“世界平和”を祈願す短歌をぼんぼり6個の紙面に揮毫して奉納した。被爆者の屍(しかばね)ただよふ川なかに蟹を捕らへて食(は)みしと聞けり
原爆に焼き付けられし人影の薄れゆきてもその忌忘れず
洞窟の島人たちを殺したる兵に岳父の無なかりしを信ず
断崖(クリフ)より珊瑚礁(リ-フ)の青の水底へ身を投げ果てし乙女らかなし
原爆の歌には、緑樹の間に立つ原爆ドーム、岳父への鎮魂歌には、遥かな青い海原を望む断崖の墨彩画を描いた。
私もまた、死に直面したことがある。18年前に告知を受けた食道がんだ。幸いにも、鬼手仏心の外科医・看護士、職場仲間・家族らのお陰で、再びのいのちを与えられた。
生まれ変わった気持で己の半生を振り返ったとき、いかに多くの人々との出会いがあったか、今の自分があるのはそのお陰なのだ、と気づいた。その想いを随想『人生は出会いです』にこめ、職場OB会会報に寄稿した。新大阪から乗ってきた3兄弟との出会いも、なにかのご縁である。倉敷を過ぎたころ、末っ子の“福山にいつ着くのだろうか”と訊ねている声が聞こえてきた。私は、とっさに切符を見て時間を告げた。私も福山で降りと知って気を許したのか、私のように姉妹はいないと言う3人は、“だんご3兄弟”の長男である“喜寿老人”に話しかけてきた。
福山のおばあちゃんの家へ遊びに行くところで、駅におばあちゃんが迎えにきていると言う。祖母のニックネームを連発する3人は、おばあちゃんがよほど好きなのだろう。疎開した私も、両親の実家の祖父母から可愛がってもらったものだ。少年時代の日々のさまざまなシ-ンが、車窓を流れる長年見慣れた風景と重なって、なつかしさがこみ上げる。こちらの席にやってきた末っ子が、私の顔にゲーム機をくっつけるようにして写真をとろうとする。とっさにカメラをカバンから出し、3人を撮った。うまく撮れていたら送るので住所を書いてと紙をさし出すと、長男クンは書けないと言う。まさか、6年生で自分の住所を書けないはずはないから、きっと、知らない人に教えてはいけないと言われているにちがいない。私は、再会する学友らに持ってきた「ふれあいの森公園・ビオトープ」の絵と詩のコピーの1枚を取り出して、裏に、住所とメールアドレスを書いて渡した。個人情報の悪用への過剰反応が云々される世の中だが、駅のホームに並んでいた人の良さそうな両親を見た私に、躊躇はまったくなかった。
ちょうどそこへ、福山到着の予告アナウンスが聞こえた。
ゲーム機を手にした3人に、早くカバンにしまって降りる準備をするようにと告げる。まるで、親類のオジサンになった気分である。周りの乗客が、私たちのやりとりをニコニコしながら見ている。
忘れものをしないで、と促がしながら通路に並んだ。停車した窓の外に、福山城の天守閣が額の絵のように収まっていた。
ホームですぐに、おばあちゃんらしい人を探したが、辺りには居ない。
末っ子が、かなり離れたところから走ってくる男性を見つけて、手を上げた。まだ若く見えるが、どうやらおじいさんらしい。
子供たちにサヨナラをと思う間もなく、その男性と3人はエスカレーターの方へ早足に歩いて行った。着替えとスケッチ用具を入れた車付きキャリーを引いた私もあとを追った。
すこし遅れて改札口に着くと、おばあちゃんにワイワイとまつわりついている3人がいた。せっかくのご対面をお邪魔してはいけないと、そのまま、改札を通り過ぎる。
同期会が開かれるニューキャッスルホテルは駅から1,2分なので、荷物を預けてまた駅に戻った。3時までは、福山城の辺りを散策するためだ。
1時前で、お腹がすいていたので、あなご鮨でも食べようかと駅の飲食街を歩いていると、背後のご婦人から声をかけられた。振り返ると、3人兄弟のうれしそうな顔が並んでいるではないか!
よく見つけてくれたもんだと、こちらもうれしくなる。
車中でのことは聞かれている様なので、お孫さんたちの住所を教えていただけないかと伺う。おばあちゃんはすぐ携帯を取り出して探してくれたが、途中で操作を間違えられ、傍で見ていたおじいちゃんの手助けで、なんとか住所の聞き書きができた。
下車してから30分近く経ってからの思いがけない再会に、不思議なご縁を想いながら、同期会出席で里帰りした幸せを、しみじみと感じていた。「ひかり」車中での二つの出会いは、「喜寿の会」のすばらしいプレリュードだった。
2日間の同期会は、懐かしさと楽しさに満ちた再会と歓談の時間・空間を与えてくれるものとなるにちがいない。私は、そう確信した。 (2010.7.11)