アラブと私
イラク3千キロの旅(35)
松 本 文 郎
今朝のテレビ朝日「スーパーモーニング」の中で、漫画『はだしのゲン』の作者の中沢啓治さんは、「戦争と原爆は、決して起こしてはならないし、なくさねばならない」と語っていたが、その根底には、被爆した母親の火葬で骨が残らなかったという鮮烈な実体験があるようだ。
被爆直後のヒロシマで、溶けた皮膚を身体から垂らしてさまよう人たちを描いたシーンについて、「有りのままを描こうと思ったが、あまりにも凄まじいので、読者が怖がらないように抑えた」とも話していた。
原爆の惨禍を時代背景や世相風俗と共に描いた『はだしのゲン』は、国内外の評価が高く、単行・文庫本の累計発行部数が一千万部を超え、映画、ドラマ、アニメ、ミュージカル、絵本や、講談化もされていると、ウィキペディアにある。
さらに、二○○七年にウイーンで開催のNPT(核拡散防止条約運用検討会議)の初回準備委員会で、日本政府代表団がその英訳版を加盟国に配布したとあり、外務省が「漫画外交」を展開していたことを初めて知った。
「マンガ」は、カラオケ、アニメ、ゲーム、和食、東京ファッションなどと共に、日本発信の市民文化として世界に広まっている。
再軍備を狙うかのような憲法改正の論議ではなく、官民一体で、不戦の国の「文化外交」を推進して、世界平和に貢献すればいいのではないか。『はだしのゲン』の原画の全てが、広島平和記念資料館に寄贈されているのも立派なことだ。
被爆者が自らの悲惨な体験を語ることは、国内でさえ、近年ようやく、広がりを見せ始めている。
原爆病が伝染するという誤解や奇形児が生まれる恐れから、家族にさえ話すことも避けてきたのだが、被爆後の人生を苦しんで高齢を迎えた今、核廃絶の歩みの遅さに危惧を抱き、次世代に遺言する語り部になろうとしているのだ。
友人で元職場の同僚建築家Mさんは、ここ数年、被爆者仲間と、小・中学校での語り部を精力的に行ってき、先ごろの市広報誌で紹介されている。
家族にも話したことがなかった「思い出したくない記憶」を外で話し始めたのは、子供や孫たちをあのような辛い目に遭わせたくないので、戦争や原爆のことを考えてもらいたかった」とインタビューで述べている。
十二歳のときに長崎で被爆した彼は、退職後に、「浦安被爆者つくしの会」に入り、小・中学校で被爆体験講和を五年行い、現在、会長を務める。「原爆投下の歴史問題だけでなく、六十五年たった今も今後もつづくであろう、被害の実態、被爆後の生活・人生への影響を伝えたい。原爆が直接被爆者の子孫にまでも影響を与え、目に見えない被害者がたくさんいることを知ってもらいたい。被爆者だけが戦争の被害者ではなく、戦争を体験した人びとは、みんな心の傷を負っている。講話活動が、戦争のことをもっとよく知り、考えていくきっかけになればと願う」
同じ職場の電気通信技術者だった先輩Kさんも、代表を務めるJCBL(NPO地雷廃絶日本キャンペーン)の活動で朝日賞を受賞されているが、八十三歳でキャンペーン活動を牽引されている。
八月一日に発効したクラスター爆弾禁止条約を記念し、「JCBLへいわかるた」の読み札公募があり、応募したところ、「え」「か」「へ」の三枚が選に入った。
「え」永遠に廃くせ 悪魔の兵器
「か」片手片足 地雷の爪あと
「へ」下手な言い訳 正義の戦争
増上寺で開かれたJCBL主催の、クラスター爆弾のない世界に向けてタイコを響かせようとの「和太鼓コンサート」に招かれて夫婦で鑑賞した。
演奏会後の懇親会の席で招待客の佐高 信さんが、条約に加盟していない米国、ロシア、中国を「ならずもの国家」呼ばわりしたので、いかにも辛口評論家らしいと感じた。
クラスター爆弾は、ばら撒かれた多数の子爆弾が不発で残り、市民を殺傷し、子供の犠牲が多い非人道的兵器の象徴的存在で、この爆弾の製造・使用・備蓄とそれらへの協力を禁じる条約に、百八カ国が署名し、三十八カ国が批准している。
生物・化学兵器などの大量破壊兵器を禁止する条約作りには各国政府は取り組んできたが、市民を巻き込む非人道兵器の削減・禁止には、及び腰だった。流れを変えたのは、NGOやJCBLのようなNPOで、欧州の国々に働きかけ、対人地雷禁止条約が一九九九年に発効した。
クラスター爆弾禁止条約は、この民間参加型をさらに発展させ、非人道兵器の製造企業への投融資を行う銀行・証券会社に圧力をかけるまでになっている。
ベルギーのNGOのリストに、クラスター爆弾製造の融資をした日本の3メガバンクと大手証券会社が挙げられ、融資を禁じる内規改訂や、株式運用の対象から外す動きも起こった。
社会派経済評論家のなかでも最硬派の佐高さんは、そうしたなかで、批准どころか、加盟もしていない大国を、「ならずもの」呼ばわりしたのだ。
六十五年を経た敗戦の記念日は、あと二日だ。
疎開先の小学五年の夏休み。本家が耕筰していた煙草の葉を畑から採取し、乾燥室に吊るす縄に編む手伝いをする木陰で、あの声を聞いた。
クマ蝉の盛んな鳴き声とラジオの雑音のせいか、初めて聞く天皇の声はくぐもっていた。
驚きや感動よりも、「ああ、やっと終わったのか」という虚しさだけが実感された。
唯一人の跡取り息子を戦争でうしなった伯父・伯母も一緒に聞いた。軍国少年にされていた私には、二人の気持ちをうかがい知る由もなかった。
「玉音放送」は、八月十四日の御前会議での昭和天皇が、ポツダム宣言の受託と無条件降伏の断を下し、「この際、私としてなすべきことがあれば、何でもいとわない。私は、いつでもマイクの前に立つ」と発言して実現したとされる。
その日の深夜、戦争終結を伝える天皇の詔書が録音されたが、録音盤をめぐる反乱軍との攻防はよく知られている。
その一週間前のヒロシマ・ナガサキ原爆の合間の八日、福山は爆撃で人口密集市域の大半を消失していた。
福山市人権平和資料館に展示のアメリカ軍資料によると、九十一機の爆撃機が投下した焼夷弾は約十八万本で、一人当たり三本とある。
三月十日の東京大空襲は、焼夷弾攻撃の最初で最大の罹災者百十六万を出しながら、原爆投下の陰になりがちだが、出撃機数三三四機、投下爆弾一、七八三トン、死傷者数約十二万五千人である。福山空襲の三倍強の爆撃で、二百三十七倍の死者が出ている。
東京に比べ圧倒的に狭い地域の福山に投下された爆弾の数の物凄さに驚くが、住民の八十四%の被災人口が四万七千三百二十六人、犠牲者が三五四人、重軽傷者は八六四人だったのは、三月十日から八月八日までに空襲された日本各都市の状況から、避難第一の心構えができていたからなのだろうか?
都市の住宅密集地への焼夷弾攻撃は、軍事産業の中小工場が住居地域に混在していることを理由に行われたが、福山の攻撃地域の設定から見ると、都市周辺から中心部に向かって焼き払う無差別爆撃であり、住宅を焼き払い、住人を殺戮して戦意を喪失させる戦法だったとみられている。
市域から約四キロ離れた高台の家から見た福山炎上は、まるで映画をみているようだった。
原爆投下が全面降伏の受諾を早めたとの説には疑義があるとされる今、勝てないと分かった時点でもっと早く終戦していれば、、昭和天皇も消極的だったとされる太平洋戦争の犠牲は、国の内外でずいぶん少なくて済んだはずだ。
憲法九条の会の呼びかけ人の一人澤地久枝さんが、「敗戦までの一年間で、犠牲者の九割が生じた」として、情勢判断と終戦処理の誤りを糾弾しているのは、さすがだと思う。
日本で三百万人、アジアの一千万人の戦争犠牲者を想うと、むべなるかなである。
終戦が一年早ければ、本家の長男も妻千代子の父も戦死しなくてよかったのだ。
彼女が病身を削るようにして取り組んだ調査で、ミッドウエイ海戦双方の全戦没者を特定して書いた『記録 ミッドウエイ海戦』は、第三十四回の菊池寛賞を受賞した。
二○○八年には、朝日賞を受賞している。
(続く)