アラブと私
イラク3千キロの旅(39)
松 本 文 郎
「ビスミラ?」
隣席のユーセフの耳に小声でつぶやくと、「家で食事を始めるときに、いつも唱えます」テーブルの向かい側に掛けている主が告げた。
「戦時疎開した母の実家で一人だけクリスチャンの伯父貴は聖書の言葉を唱えました。他の家族は祈りが終わるまでは箸をとりませんでした。少年の私が、一緒にアーメンを唱えたのは、なんだか、伯父貴が気の毒に思えたからでした」
ユーセフが私に囁く。
「私の家は代々クリスチャンですが、神の恵みの食事への感謝は、心の中で唱えました」
「それぞれの家族の習慣ですからね。それでいいのではないですか」
だれにとはなくとりなす口調で、主が言った。 NTTクウエート事務所の単身赴任者が住んでいるフラットのコック(巡礼月にメッカに巡礼した者だけの「ハッジ」の称号をもつ)も、私たちが手をあわせて「頂きます」というのを、恵みの食事への感謝の祈りと受けとめている。
ローストチキンを食べていたアハラムが、「母ほど信心深くない父が日常唱える『ビスミラ』はただの習慣に見えますが、きのう明けた断食月(ラマダーン)の間だけは、クルアーンへの敬意がこめられていました」
「アハラムの言うとうりです。ラマダーンの断食をすると気持ちがとても清らかになり、日没後に許される食事のありがたさが身にしみて、アラーへの感謝を心から唱えたくなるのです。ズボラなムスリムの私でも……」
断食は、イスラム教に限らず、仏教・キリスト教・ユダヤ教でもなされるべきものとされるが、聖職者や特定の人だけではなく、ふつうの人たちが日常感覚で行うのがムスリムなのだ。
読者の参考に、ムスリムの「断食」のあらましを、以下に記しておこう。(私の体験以外の多くは、片倉もとこ著(『イスラームの日常世界』に拠る)
断食月の毎日の日の出から日没まで、ムスリム(イスラム教信者)は一切の飲料(水も)や食物を口にすることが禁じられている。喫煙も、ツバをのみこむのさえいけないという人もいる。
ムスリムが断食をするのは、食を断つこと自体が目的ではなく、短期的でも飢えを体験することで、食物を恵与する神への感謝と、食べることができない者の苦しみを知るためという。
「ビスミラ」のような神への感謝を唱える言葉は、ラマダーンの間は普段以上に大切だそうだから、アハラムの父親の弁はもっともだと思う。
ムハンマドの最初の断食は、ユダヤ教の贖罪の日の断食に倣ったもので、クルアーンを授けたのは、洞窟のきびしい断食のあとに聴いた神の声とされる。
その故事にちなみ、ラマダーンは、「栄光の月」クルアーンを授かった夜のことは、「ライラト・ル・カドル」と呼ばれてきた。
その夜は断食月の二十七日ごろとされ、この日をふくむ数日間は、とりわけ熱心な礼拝をする。
「ライラト・ル・カドル」の夜は、最も神の栄光に満たされた夜として、人々は集団で一夜を祈り明かすそうだ。
二十九日間の断食月のクライマックスの夜は、高揚した気分にあふれた町が眠りにつかず、どの礼拝所からもクルアーンを唱える声が静かな熱気をおびて流れ出る、と片倉さんは書いている。
ラマダーンの第一日目のどの朝刊トップにも、「おめでとう! 今日は、ラマダーン第一日」と書き立てるというが、元旦の朝刊紙面のめでたい雰囲気と似ているし、「ライラト・ル・カドル」のクルアーン詠唱は、除夜の鐘の音といえようか。
毎年訪れる断食月は陰暦のために太陽暦とずれを生じて過暑の夏になることもあるが、人びとは、季節にかかわらず、興奮と緊張をない交ぜにした気持ちで迎えるという。
私なら、冷たいビールを欠かせない季節なのに、水の一滴ものんではいけないのだから、たいへんな苦行である。
でも、ご安心あれ。
この宗教的な行は、比叡山や東大寺での荒行とはちがって、日没から日の出までは、断食が解除されるのである。
つまり、太陽が沈むと、その日の断食から開放されて、「イフタール」いう最初の食事を食べる。その語意は、英語のブレックファストと同じく、「断食を破る」である。
日没直後すぐに、待ちかねた食事をとるのは許されているものの、宗教上も健康上もよくないとされ、まず、ナツメヤシの一、二個を口に入れ、アンズをつぶしたカマルディーンというジュース
か甘草の根のスープを飲んでから神に感謝の祈りをささげ、食事にうつるのがよいとされる。
空腹で我慢できず、お祈りはあとまわしにして、腹を満たしてから礼拝する人も少なくない。
人びとは半日の断食から解き放たれ、おおいに飲み、おおいに食べ、水タバコをふかしながら、遅くまで互いに喋り合う。
夜のスーク(市場)に光があふれて、さまざまな食べ物が笑いさんざめきながら訪れる客たちを待っており、正月料理のような特別な品々も並ぶ。
アラビア半島の多くでは、サンブーサ(餃子の皮のようなものに羊のひき肉とチーズを包んで、油で揚げたもの)、アブダビ、カタールなどの湾岸地域では、ドーナツのようなラギーマートという断食月用の菓子がある。
ラマダーンの間につい食べ過ぎて太ってしまうのも、無理からぬことである。
ところで、アラビア語には、砂漠に沈む夕日、吹きわたる風、星空などの美しい自然の様を表現するヴォキャブラリーが驚くほどたくさんあると聞く。万葉集歌・俳句にみる表現の豊かさである。
そんな感性のアラビア人も、飲食解禁の日没の瞬間、家族・親族が集まり、たらふく食べ、飲み、お喋りに夢中なので、夕焼け空の美しさをめでるどころではないようだ。
断食している間は十分昼寝しているから、短い睡眠のあとは、断食が始まる日の出前に起きて、サフール(夜明け前の食事)をとる。ヨーグルト、スープ、ゼリー、マディール(羊や山羊の乳を干したもの)などの簡単な食べ物を口にして、また断食の半日が始まるのである。
主との会話に戻ろう。
「ご主人と娘さんたち断食は、クルアーンを忠実に守られている奥さんのためですか?」
「それもありますが、断食するとからだの調子がよくなるのです。アタマが冴え、仕事がはかどります。でも、旅先の外国では、その土地の生活に合わせるようにしています。クルアーンは、あくまでも自分自身を律する規範ですからね。守り方も各人の考えで違っていいと思いますよ」
二十世紀初めに土木建築会社を起こした曽祖父の近代精神を受け継いだ血か、彼が到達した独自の人生観かはともかく、このかなり柔軟な考えの持ち主は、アルコールもかなりいけそうだ。
「スンニ派の家に生まれた私が、実家がシーア派の妻と結婚したように、ムスリムとクリスチャンの間など、宗教・宗派が異なる結婚は時代と共にめずらしくなくなっていて、娘たちからあとは、もっと自由になるでしょうよ」
ここぞとばかり、ユーセフが主に訊ねた。
「アハラムの結婚相手の宗教・宗派へのこだわりは全くありませんか?」
「ええ、私たち夫婦がそうでしたから、アハラムも好きな男性と結婚すればいいのです。たとえ、私たちが反対しても、勝気なアハラムはきかないでしょうが……」
向かい合った席で、ユーセフとマリクは、互いの目を見合い、アハラムは、何気ないそぶり。
「バグダッドの人の生活近代化は、思いのほか、速いスピードで進んでいるようですね」
「サウジアラビアやヨルダンなど王政の国では、クルアーンの規律がまだ厳格に守られていますが、それも時間の問題かもしれません」
世界一金持の国クウエートの若者らが欧米人もビックリする奔放な生活を楽しんでいるのを見ていたので、石油埋蔵量の豊富は湾岸首長国連邦の海岸に、近代化の大波が押し寄せるのは間もない
ことかもしれない。
農業革命や産業革命を経てきた人類社会では、情報化と経済発展に基づく近代化が急速に進行し、長く守られてきた宗教的な礼拝・慣行もうすれるのではないか。
(続く)