アラブと私
イラク3千キロの旅(41)
松 本 文 郎
それにしても、アジア民族の主食である米が、アラブ料理のメインディッシュに使われているのには、いささか驚く。
マリクが、「ライス」や「シュガー」はアラビア語ですよと言ったので、さらにびっくりする。米の栽培が始ったのは七千年前のインド・中国とされるから、東南アジアから伝播した小麦が主食のアラブでも、イラク・エジプトの大河の灌漑による米の栽培は古代から行われていたのだろう。
イランのカスピ海周辺の米作地帯では、日本とそっくりの農村風景を目にするし、アラブ料理で使われるのはインド・バスマティ米が多いようだ。
アハラムは、マクルーバのレシピをていねいに説明したあと、ビリヤニ(焼き飯)、クッバ(米皮の卵型餃子)、ムハラビ(米粉のプティング)などもあると教えてくれた。
皮付き野菜の中身を取り出して詰め物をする、ドルマに似た料理は日本にもあるし、マクルーバ、クッバなどのレシピも、米が伝播した経路の各地の米料理法が加わりながら伝わったのだろう。
ひっくり返してつくる料理といえば、疎開した田舎で馴れない農作業をする母親代りにつくったオムライスを思い出した。
「マクルーバに比べたらおそろしく簡単な料理だけど、我流のオムライスを、家事の手伝いでよくつくりました。ジャミーラくらいの歳でした」
「お母さんのほかに女性はいなかったのですか」
同情的なまなざしのアハラムが訊ねた。
「九歳下の弟がいただけです。母子三人が疎開したあと、父は単身で広島の鉄道管理局に勤めていました」
広島という地名を耳にしたマリクが、、あわてて食べ物をのみこみ、「原爆を落とされたあのヒロシマですか?」
「そうです。父は、原爆投下の前日に休暇で田舎へ帰っていて被爆を免れましたが、住んでいた家の周辺や私が通っていた小学校はかなりの被害を受けました」
「お父さんが無事でよかったですね」
私の目をみて、アハラムがうなづいた。
「でも、投下の翌日には広島へ戻りましたから、地獄のような阿鼻叫喚を目の当たりにしたようですし、地上の二次放射能にはやられました」
ヒロシマ原爆のことを聞きたそうなマリクだが、ひっくりかえし料理の話で、ディナーの楽しさをひっくり返してはいけない。
アハラムも同じように感じたのか、
「フミオさん風オムライスのレシピは?」
「とても簡単ですよ」
太平洋戦争が始まった昭和十六年、国民小学校の一年だった私は、広島駅の日本食堂で初めて、オムライスというものを食べさせてもらったが、ハムとケチャップ入りの炒めご飯を玉子焼で包み、枕のかたちにしたてっぺんに日章旗が立っていた。
私のはというと、フライパンに焼いた玉子の上に、炒めたご飯・玉葱と人参のみじん切りをのせ、皿をかぶせてひっくり返すだけの簡単レシピ。
疎開先の父の実家が大きな農家で、米を分けてもらえたからできた、敗戦前後の食糧難時代ではましな夕食だった。
アラブの米料理を賞味したディナーの話題から、つい、戦時疎開した田舎の食事を披露することになった。
ところで、ウイキペディアで検索した、「世界の米料理」の記述にアラブ料理が欠如しているのは意外だった。
四〇年前にバグダッドの家庭で味わった米料理と類似のものは、広くアラブ諸国に分布しているはずなのに、どうして書かれていないのか訝しく想われる。
マクルーバのレシピで参考にさせていただいた酒井啓子さんの『イラクは食べる』(岩波新書)は、イラク料理を紹介する本と思われるかもしれないが、そうではなく、著者はイラク政治研究専攻の東京外国語大学大学院教授なのである。
同書で、二十種ほどの料理・菓子・飲物の写真が見られるが、レシピがあるのはその半分ほど。
この拙文を書き始めて間もなく出版された著述内容に共感する点が多々あるので、敬意を表して、カバーにある文章を転記させていただく。
米英軍によって「開放」されたイラクでは、イスラーム勢力が力を伸ばし、政治権力を握る一方で、イラク人どうしが暴力で対立する状況が生まれた。だが、どんな過酷な
環境にあっても、人びとは食べ続ける。
アラブのシーア派やスンナ派社会、クルド民族、そして駐留外国軍の現在を、祖国の
記憶と結びついた料理や食卓の風景をもとに描く。
その終章に、二○○三年の米英中心の対イラク軍事攻撃とフセイン政権崩壊後に起きたことは、さまざまな「ひっくり返り」事件だったと述べられている。
『アラブと私』を、対イラク軍事攻撃を主導したブッシュ元大統領を揶揄する朝日新聞「天声人語」の引用で書きはじめたが、「ひっくり返しご飯」の写真・レシピを終章の扉に選んだ著者のウイットは、なかなかのものだ。
酒井さんは、米英と有志連合軍がフセイン政権をひっくり返した後に期待したリベラル親米政権樹立を、イスラム政権がひっくり返して成立したことを「ひっくり返し」の連鎖だと捉える。
長年行政の中心にいたテクノクラートたちが、ひっくり返されて国外へ逃れたあと、社会の底辺にいた若者たちが入れ替わったのは、イラク国内だけでなく、他国への軍事介入を主権侵害とする国際政治の常識がひっくり返され、植民地支配と糾弾された外国の介入が、「復興」や「人道支援」と名づけられていると指摘する。
ひっくり返し過ぎに気づいた米政権にとって、このイラクの政治的混乱とイスラム化の進行は、長年バース党政権をひっくり返すことを希求してきたイスラム主義者たちの「革命」であり、頭痛の種になっているとも分析している。
フセイン政権の崩壊以降のイラクの右往左往の混乱状況は、パンドラの箱を「ひっくり返した」ブッシュ政権の大きな誤算といえよう。
マクルーバのレシピにかこつけると、米の上にいろいろな食材を重ねのせるとこは、民族主義・イスラム主義、スンニ派・シーア派、世俗主義・原理主義などが混在するイラク情勢そのままだ。
米国のご都合主義的な中東政策の結果を如実に示している「ひっくり返しご飯」ではある。
歌と同じように、食べ物も過ぎた日々を思い出させるわけで、カバブとドルマを食べたあのとき、オムライスをつくった少年のころの無謀な戦争の結末と再興の二十五年を思い出したのだった。
あれから四十年。アハラムと家族たち、そしてユーセフは、どんな暮らしをしてきたのか。
ディナーのテーブルに戻ろう。
ユーセフによると、断食の慣習は、彼の実家の家族や数十年前の西欧のキリスト教たちも行っていたという。完全な断食ではないが、復活祭前に、キリストの断食苦行の追体験として、質素な食事を摂り、菓子やタバコなど嗜好品の一つを我慢したという。
だが、仕事の効率重視の近代化で、この慣習もしだいに行われなくなり、修道的禁欲生活を実践する人たちにかぎられるようになったという。
デザートには、クレーチャが出た。バグダッドへ来る途中のサマーワで仕入れたあの菓子だ。
国外へ出稼ぎに行くイラク人の多くは、母親や妻に作ってもらったこのお菓子を持参するのですね、とユーセフの受け売りをした。(9・参照)
「ええ、日持ちしますからね。旅先の栄養補給にとてもいいのです。ラマダーンでたくさんつくりましたから、お好きでしたらホテルへお持ち帰りください」
「ありがとう。明日はモスールへ日帰りしますのあちで、車のなかで頂くことにします」
クレーチャをつまんでいる私に、アハラムが、トルココーヒーをサーヴしてくれた。テヘランでよく飲んだコーヒーである。
「お宅ではトルココーヒーをよく飲むのですか」
「そうです。クウエートなど湾岸諸国でよく飲むアラビアコーヒーは、遊牧民が飲んできたもので、都会ではトルココーヒーが飲まれますね」
マリクの説明では、約四百五十年前のオスマン帝国時代のイスタンブールで飲まれ、ヨーロッパに広まった伝統的な飲み方は、中東、北アフリカ、バルカン諸国に、いまも共通しているそうだ。
アラブではカフワ・アラビーア、ギリシャ人には、ギリシャコーヒーまたはビザンチンコーヒーとよばれているとのこと。
粉末のコーヒーと砂糖を煮立ててカップに注ぎ、粉が沈んでから上澄みを飲むのである。
「フミオさん。飲んだあとのカップをソーサーにかぶせてひっくり返して、カップの底に残った粉の模様を見てください」
「それは、『コーヒー占い』ですね。テヘランで教えてもらいましたよ」
「フミオさんの運勢が、読めますか?」
(続く)