アラブと私
イラク3千キロの旅(42)

                             松 本 文 郎 

  
 私の顔をじっと見て、アハラムが訊ねた。
「私には読めません。日本の運勢占いは、手相や人相が多いですね。アハラムは、『コーヒー占い』ができますか?」
「私もできませんが、母にはできますよ。フミオさんが飲まれたら、底を見せてきましょうか」
 この席にいない奥さんは、私の人相が見えず、カップの底の模様だけで運勢を読むしかない。
「ええ、お願いします。こんなに美味しい料理をつくられるアハラムのお母さんに、運勢を見てもらえるとはうれしいですね」
 コーヒーを飲み干したカップをソーサーにかぶせて、アハラムに渡した。
 アハラムがキッチンへ去ると、マリクが、
「トルココーヒーを飲む習慣は、オスマントルコに長く支配されていたからでしょう。フミオさんは占いを信じますか?」
「いいえ。でも、『いわしのアタマも信心から』という諺が日本にもあります。古今東西、人間は、頼りにする何かを求めているのでしょうね」
「コーヒー占いは、もっと遊びにちかいものだと思います。占いは、古代から行われてきましたが、旧・新約聖書では邪悪な行いとされていますし、宗教的に同根のイスラムでも同じです」
 そこへアハラムが戻ってきた。
「フミオさんの運勢はとてもすばらしくて、家族も仕事もうまく行くと出ているそうですよ」
 明るい声でそう告げたが、ためらいがちに、
「ずっと先のことですが、人生での大きな岐路に立たれるかもしれないのが、気がかりだとも」
 私は即座に答えた。
「クウエートへ出発する前の送別会で酔った勢いで、仲間たちが勧めるまま、街の手相見に占ってもらったら、生命線の先が二股に分かれていると言われました。なんだか、不思議な符合ですね」
「母は、コーヒー占いを楽しんでいるようですが、私は、運勢は自分の力で開いていくしかなくて、占いに一喜一憂する生き方はしないつもりです」 
 きっぱりした口調でアハラムが言った。
「アハラムの考えに賛成ですね。仏教的な考えでは、一生は因縁で決まるとされますが、人の力でどうしようもない運命があるとしても、流れに棹をさすのは自分だから、やり方次第で流れつく先も変ると思います」
 アハラムやマリクと話しながら、高校・大学生時代に逍遥した哲学・宗教書の人生論や世界観を思い出していた。


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 みんながコーヒーを飲み終えたところで、主が、ソファに移ってもう少し歓談してはと言う。
「ありがとうございます。でも、明日の朝早く、モースルに向かいますので、そろそろ失礼しようかと思っています」
「モースルへ行かれるなら、あそこで起きたことをお話しておきましょう。マリクがまだ小学生だった一九五九年のことです」
「いったい何があったのですか。それを伺ってから失礼することにします」
 曽祖父の代からバグダッドで建設業を営む主に招かれたホームパーティーで、甥っ子のマリクを話し相手に仕向けてくれた彼がどんな人なのか、よく分からずにいた私は、暇するときになって、何か重要な話があるといわれて、身構えた。
それは、バスラからバグダッドに向かうとき、ユーフラテスに架かる橋のたもとで警備兵に検問された緊張感を思い出させ、モースルでの言動に注意を促す類のものだった。
主の話に、塩野七生著『十字軍物語Ⅰ』に拠る補足を加えると、以下になる。

 モースルはバグダッドの北西部に位置し、古代遺跡ニネヴェと世界有数の石油生産でしられる大きな都市である。
 モースルの市民はほとんどアラブ人だが、周辺には、アラブと異なる歴史と言語をもつクルド人が住み、国境を接するトルコ、シリア、イランにも分散している。
 クルド人が住む土地は、ティグリス川の上流で高い山々が連なる山岳地帯だが、イラクで森林があるのはこの山々の斜面だけだ。

 この山岳地帯には、十一世紀末の第一次十字軍の頃から豊かな油田があり、べっとりした黒い液体に火を点けると燃え上がることや、モースルの地名に由来する薄地の高級綿製品モスリンの産地としても知られていた。

 イスラム教徒のモースルの領主は、キリスト教徒のエデッサの領主との間で自領拡大の戦いに明け暮れていたが、十字軍を、宗教を旗印とする軍勢ではなく、版図拡大の侵略者とみていたようだ。
 十字軍の重要人物の一人であるカトリック教徒のボードワンに、エデッサの領主が、モースルの領主を攻めてくれと要請したのも、宗教とは関係のない領土をめぐる問題に過ぎなかったようだ。
 イスラム支配下のイエルサレム奪還を思いたったローマ法王ウルバン二世は、全ての世俗君主の上に立つ法王の権威を誇示するため、何十万もの第一次十字軍を東方に送り出した。
 一方、イエルサレムを支配していたイスラムは、メッカへの巡礼を重要視していて、キリスト教徒のイエルサレム巡礼には、総体的に理解をもっていたとされる。
 十一世紀初頭のエジプトのカリフだったアル・ハキムによるイエルサレム聖墳墓教会の破壊や、セルジューク・トルコが支配したパレスチナ一帯で起きたヨーロッパからの巡礼団襲撃などがあるが、それらは強奪の域を超えるものでなく、西欧キリスト教世界を悲憤慷慨させるようなものではなかったという。
 法も秩序もないに等しい中世での聖地への巡礼は、ヨーロッパから中近東への長旅の途中で強盗に襲われる危険に加えて、怪我人や病人も多く、イエルサレムにイタリア商人の寄付で建てられた巡礼者用の医療施設は、イスラム支配下でも営まれたのである。
 ただ、イスラム教徒が自画自賛する「イスラムの寛容」とは、「ジズヤ」という人頭税を払いさえすれば、イスラム教以外の宗教の信仰を認めるというもので、イスラムが征服する前のビザンチン帝国に住むたキリスト・ユダヤ教徒とイスラム教徒とが対等だったわけではない。
 教会の鐘や馬行の禁止、イスラム教徒が通り過ぎるのを道の端で待つなど、異教徒に課せられた制約もあった。
 話をモースルにもどそう。

 この一帯には古くから、大勢のクルド人が住んでおり、少数民族として、ネストリウス派・キリスト教徒のアッシリア人やトルクメン人もいて、民族的・政治的に複雑な問題を抱えてきた。モースルで一九五九年に起きたのは、前年の王政廃止と共和制革命で誕生した軍事政権(カセム准将を長とするクーデターで、ファイサル二世、イラー皇太子、サイド首相を殺害)の内紛の弾圧だった。
 この内紛は、世界に衝撃を走らせたイラク革命政権樹立の実際の指揮者で副首相・内相に就いたアレフ大佐が、革命後二ヶ月でカセム首相により解任・逮捕されたことに始まる。

 冷戦のさ中、、世界の石油埋蔵量の三分の二以上をもつ中東は西側の国際石油資本(メージャー)にとって、「赤の魔手」から石油を守ることが急務で、イランの民族主義者モサデグが起こした石油紛争と同じ事態の中東への広がりが懸念された。
 アレフ大佐は熱烈なナセル主義者で、革命の直後、アラブ再統一運動の指導者と崇拝されていたナセル大統領に、イラクとアラブ連合との統合を申し入れていた。
 カセム首相は、アラブ連合と合邦されて手中の権力を失うのをおそれ、「ナセルはイラクを奪おうとしている」との理由で、アレフ大佐らを反逆罪で逮捕・監禁し、親ナセル派(バース党と親派の青年将校)の粛清政策がすすめられた。

バース党(アラブ復興社会党)はアラブの再統一をめざす反共主義者の集団だったので、カセム首相は、バース党の弾圧に急神してきた共産党の力を借りて、開発相のフワード・リカビ(イラクバース党書記長)を解任。カセム暗殺容疑で死刑を宣告した。
これに対抗したナセル主義者のシャワフ大佐が、一九五九年三月、モースルに立てこもって反乱の火の手を上げたが、空軍爆撃というカセム首相の非常手段で失敗、殺害された。

 モースルへ乗りこんできた共産党民兵によって血祭りにあげられたナセル派市民は、数千人にのぼるとされた。イラクが赤化するのではないかと世界から見られたのはこのときである。
 イラクの共産主義者には少数民族出身が多いが、彼らは、少数民族の不満から共産党へ走ったようである。
「イラク人のイラク」をめざしたカセム首相政権は安定するどころか、増大しすぎた共産党の勢力をおそれて、その分裂を画策するはめとなる。
 
折りしも、北アフリカのアラブ国家チュニジアの政変と大統領の亡命が報じられ、イスラム教が国教の国に突然起きた革命の情報が、世界を駆けめぐっている。

                                                                (続く)


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2011/01/29 13:25 2011/01/29 13:25
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