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  1. 2010/08/04 「喜寿の会」に参加して                  
  2. 2010/02/06 お手紙

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「喜寿の会」に参加して 

               
 
新緑の彩りが日増しに濃くなっています。

   喜寿の眼にかくも眩しき新樹かな  ふみを

「喜寿の会」の賑やかで楽しい時間をみなさんとご一緒できて、とても幸せでした。卒業して初めて再会した学友もあるなど、感慨深い会となりました。
 振り返ると、昭和58年、鞆の由緒ある旅館の一泊同期会以来、沖野上、箱根、宮島を経て、ふるさと福山の「喜寿の会」にたどり着きました。
 鞆で10人も参加された恩師のお姿は、もう箱根ではありませんでしたし、今回の会でご冥福を祈った、鬼籍に入った学友たちは23人を数えました。
諸行無常というほかありません。                 合掌

  想えば、食道がん手術で生死の境を彷徨い、再びのいのちを授かった私も、喜寿を迎えることができました。その間、同じ食道がん手術を相次いで受けた山岡・上野両君は、私の再生につづいてくれると期待しましたが、還らぬ人となり残念です。
 ご自身や伴侶の病気・介護などを抱える暮らしのなかで、会の企画・準備に尽力いただいた地元の学友諸兄姉に、こころから感謝します。 

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  当日は1時前に福山駅に着き、“手づくりの地図”の中から、これまで機会をもてなかった場所を選んで、訪れました。
 まず、「福寿会館」へ上ってお茶をのみました。お千代の一族・安部和助の住まいで、占領軍に占拠された後で市へ寄贈した建物です。喫茶室の老婦人によれば、“ハート・ブレンド”に付けられたクッキーは、身障者らが焼いたもので、店が忙しいときは、手伝いに来てもらう由。わが浦安男声合唱団の定期公演の市文化会館ロビーでも同じですと話しました。

 外へ出て、会館と福山城が重なる風景をスケッチしてから、福山八幡宮へ行きました。森本重次先生ご夫妻に仲人をお願いして結婚式を挙げた氏神様の近くです。50余年経って、沖縄で戦死した夫に代って女手一つで4人の遺児を育てたお千代の母・私の両親は亡く、森本先生も鬼籍に入られました。

 一昨年秋(お千代の母親の25回忌の前年)、結婚50周年記念を兼ねた旅をしました。、輸送船に乗り込んだ鹿児島を起点に、奄美から沖縄本島を経て戦地に赴いた跡を慕いながら、摩文仁の丘の礎(イシジ)に詣でました。案内所で、膨大な戦死者の中から「広島県・安部文七」を探して、やっと見つけた礎に刻まれた父親の名を、お千代は掌でいつまでも撫でていました。

 神社からホテルに向かう道筋に人権平和資料館があり、立ち寄りました。
 二度訪れた文学館の裏手の気づけなかった場所でしたが、展示物や資料は、しっかりした理念“人類社会の悲惨な戦争は、人間の自由と尊厳が守られていないところに起きる”に貫かれていて、軍国主義日本の犠牲になった同胞の無念さに想いを馳せました。それにしても、小泉元首相の知覧での涙は、一体なんだったのでしょうか。
 憲法にある、人権の14条、平和の9条、森戸辰男が起案したとされる、暮らしの26条の大切さを、あらためてこころに刻みました。
 巡回中の『アジアの子どもたちの絵日記展』も見ました。
  「文ちゃんの画文展」(大阪・東京で各5回)の絵を道端で描く私を囲んで見ていた、タイ・カンボジャ・ベトナム・インドネシアの子供たちの仲間がグランプリをとった絵日記作品は、「HUMAN RIGHTS & PEACE」の貴重なメッセージだと感じました。
 
  「喜寿の会」の参加申し込みで、鞆へのバスツアーは不参加でした。昨年5月、お千代の母親の25回忌の折に、栗原賢治さんが奥さん共々、お嬢さんの運転で私たちを案内してくださったからです。また、8年前の盆の墓参の際にも鞆の町を訪ねたし、その翌年には、縁故疎開で2年通学した引野国民小学校の卒業55周年記念同窓会で、一泊していました。でも、ホテルのロビーで久々の学友らの顔を見た途端、往復のバスの中で語り合う時間ができることに気づき、参加を申し込みました。

  「喜寿の会」では、故人らへの献花・黙祷や懐かしい曲のデュオ合奏もあり、宴たけなわのあちこちで、テーブルを巡って行き来する姿が見られました。
 後半は、岡田 潔さん(ペンネーム:峰田保雄)作詞“幻の学友会歌”を岩佐伴子さんのピアノで斉唱し、和田公弘さんが校歌の作詞者について話したりして、あっという間にお開きとなり、二次会へ席を移しました。


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 翌早朝の公園で、“朝飯前”のスケッチを2枚しました。教会風の結婚式場と新緑に囲まれた鮮やかな朱色のモニュメントです。
 鞆では、ボランティア・ガイドの町内ツアーから離れて、港の一角に座り込み、常夜灯と蔵の見える風景を描きながら、ガイドの後をついて歩く学友の列も見ていました。
 仙酔島へ渡る船の上と鯛網に因む郷土料理を賞味した後の浜で、即興の絵も描きました。6点のスケッチの縮小コピーを貼り合わせたシートをご笑覧ください。
 このあたりで、私の近況を書かせていただきます。
 相変わらずの、描き/唄い/詩・文を書く/日々ですが、外国の若者らに20余年も日本語を教えているお千代の現役活動をサポートして、週5日の主夫業もちゃんとこなしています。
 安い旬の食材を選んでメニューを考えるのは、建築の設計に似て、とても楽しい仕事ですネ! すっかり嵌ってしまいました。
 和・洋・中華とそのミックスの“シェフ・ブン”独自の家庭料理レシピは、かなり豊富になりつつあります。

 ディズニーリゾートこと浦安での、「文化交流サポート浦安」と「浦安国際交流センター」のNPO活動で多くの出会いがあり、浦安男声合唱団の団員暦も15年になるなかで、浦安合唱連盟創立20周年記念歌の作詞者の栄誉も得ました。毎週土曜日4時間の練習で仲間と切磋琢磨し合って臨む定期演奏会の歓びと、二つの絵画グループ展・市美術展・ホテルの特設市民ギャラリーなどに出品して大勢の知人や市民に見ていただく嬉しさは、喜寿の心身を支える力の源になっています。日本ジャーナリスト会議「広告支部ニュース」(月刊)に連載中のエッセイ『アラブと私』は、20年来の「韓国音楽友の会」のご縁のお陰で、T新聞社開設「松本文郎のブログ」に転載されています。もうご覧になっている学友もありますが、関心のある方はインターネットで、<松本文郎>の4文字で検索してくだされば、すぐに出てきます。
  「エッセイ」のほか、「絵・文」「コーラス」「文ちゃん雑記」「ポエム」などの“引出し”で、描き/唄い/詩・文を書く/日々からの作品やメッセージが掲載されています。
 お互い、残る天寿の日々がいかほどかは分かりません。人の基本的本能は、①「生きたい」②「知りたい」③「仲良くしたい」の三つで、①と②が科学、②と③が文化、①と③が宗教を生み出したそうです。

 三つの本能に素直に従い、文化、科学、宗教のジャンルを横断的に逍遥できればと願う私ですが、この卓見は、脳神経外科医の林 成之著『脳に悪い7つの習慣』(幻冬社新書)に書かれており、ぜひの一読をお勧めします。
 栗原さんが挨拶で触れられた養老孟司さんも、動物の一種である人間が、自然の恵みに感謝し、他の生きものと仲良く共存する大切さを説いています。 万葉の時代に遡る「和」の魂を、異質なものを調和・融合して新たな創造をめざすものと捉えれば、日本人は、紛争・戦争の絶えない人類社会を変えてゆく民俗的資質を、先祖から受け継いでいることになります。 天寿の残日を、自在なこころで元気に過ごしてまいりましょう。


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2010/08/04 12:59 2010/08/04 12:59

お手紙

お手紙 2010/02/06 15:16

Eさん こんばんは!

 立春前夜祭の宵のひと時を楽しく過せて、うれしかったです。 初めてご一緒したSさんも楽しんでくださったようですが、節分の豆まきには遅いご帰宅となり、奥さんに角がはえていたのかどうかが、いささか気がかりです……。

 春香伝vs源氏物語やキリスト生誕の裏話など、あれこれの幅広い歓談はとても面白く、愉快でした。 あなたのライフワークが「人間探求」だと聞いたのは初めてでしたが、お世話になっている「松本文郎のブログ」に連載中の 『アラブと私』が、「私的(文ちゃんの)・人間の探求」の一環であるのと重なって、やはり、歌謡曲『引き潮』の歌詞、“あなたとの出会い(マンナム)は私の歴史です!”のままだナ、と運命的なものを感じました。

 帰宅して一息ついてつけたテレビで、1960年代後半の若者たちのカリスマだった

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フォークの岡林信康の番組をやっていました。 この時代はまさに、Sさんや前にお連れしたNさんらの青春真っ只中と思われましたので、つい最後まで見てしまいました。
 お若いあなたは岡林信康をご存じないと思われますので、感動したさわりだけを紹介させてください。

 彼のビッグヒットの歌に、『山谷ブルース』や『友よ』がありますが、1969年の東大安田講堂占拠解除の後、なぜかフォークからロックに転じた彼は、1970年(私も関わった大阪万博)の全日本フォーク・ジャンボリーで『私たちののぞむものは』を絶唱し、若者たちを熱狂の坩堝に巻き込みました。
 その歌詞、“私たちがのぞむものは、生きるよろこびなのだ…、社会のための私たちではなく、私たちのための社会なのだ…”には、危うい政権運営に明け暮れる鳩山内閣がめざす“理念”に通低するものがあります。
 カリスマと呼ばれることをの望んでいなかった岡林は、翌1971年、『俺(おいら)いちぬけた』を発表して人前から去り、岐阜や京都で百姓をして自給自足の暮らしをしたそうです。
 自然の営みと共に2年を過ごした彼は、やはり、歌が好きだったことに気づき、美空ひばりに書いた『ある女の詩』をきっかけに、紅白連続17回出場で飛ぶ鳥を落とす勢いだった“演歌の女王”と意気投合して、紅白でも唄われた『月の夜汽車』を提供しました。 歌から離れての2年間の百姓生活の中で、“自然のいのちの流れに従うしかない…”と、それまで縁のなかった演歌を書く衝動に駆られたといいます。それが、『風の流れに』でした。
 天才少女と呼ばれて9歳から歌の世界に入り、“女王”の名をほしいままにしているかにみえた美空ひばりは、岡林信康がカリスマと呼ばれた人気絶頂の中で感じていた“淋しさ”を共有していたのです。“山のつつじを一緒にいつか 摘みに行こうよ すてきだぜ…”の情景が、そんな思い出ひとつ持たない“ひばり”のこころに、しみ入ったのでしょう。 

 テレビに映った、29歳の岡林と38歳の“ひばり”のえも言えぬ和やかで親しさにあふれた表情が印象的でした。 その映像とともに流れた、「女王なんて名前は返上したいワ」とのひばり(むしろ加藤和枝)さんの想いが、痛切に響いてきました。
 番組の後半で、2007年の日比谷野外音楽堂のコンサートでの『山谷ブルース』を唄う場面につづいて、今年2010年正月、ひばり宅を訪問し、1975年にカンバックした岡林のステージの応援に駆けつけた“ひばり”が唄った、『風の流れに』の録音カセットテープを見つけました。
 それをきっかけに、岡林信康は、美空ひばりの歌13曲をカバーするCDを出すことを決意します。それもジャズピアニスト山下洋輔と一緒にでした。 まだ、ツタヤには出ていないでしょうから、少し待ってから借りることにします。(ああ、年金暮らしの哀しさよ!デス)そのCDに入っているかどうかわかりませんが、岡林さんがひばりさんへのオマージュとして書いたと思われる、『レクイエム・麦畑のひばり』はこころにしみるいい歌でした。
 星野哲郎門下生(研究科をふくめて2年間、六本木の作詩教室へ通いました)私も、いつか、カラオケにのるヒット曲を書いて、建築家の私が設計した家に、60年も待ったお千代を住まわせる見果てぬ夢を見続けたいと願っています。
 あなたが唄う“ひばりの歌の先生”を自認しているお店のお客さんは、この岡林信康のことをご存知でしょうか? 近く来られたときに、訊ねてみられてはいかが?

 追記:

 ところで、苦労人の三輪明宏が母を偲んで書いた労働歌『よいとまけの歌』が好きですが、前述の『山谷ブルース』の歌詞にある”中略、俺たち居なくなりゃ、ビルも道路も出来ゃしない、誰も分かちゃくれないか…”には、ハコモノ時代が終わりそうないま、一入の感慨をいだきます。
 それは、私の建築家修行時代の昭和33年、グループの一員として設計参加した中国電気通信局庁舎(日本建築学会賞)の設計監理・現場監督をしたときに提案して実現しなかったことがあります。
 建設に関わった労働者全員(単純労働従事者の大半は東北地方からの出稼ぎ者)の名前を書いた銘板を建物に取り付けることでした。
 法隆寺や東大寺の屋根裏などに、棟梁たちの名前が書いてあったのを知っていたので、”若気の至り”で思いついたことで、ふりかえってみれば、『山谷ブルース』の詩と重なる想いでした。
 
 あなたのご出勤を待ちながらSさんと語り合った中に、大阪万博プロジェクトなどもあったので、ふと思い出した”蛇足”です。 お礼のメールを打ち始め、思いの外長いものになってしましました。
 明日は、浦安男声合唱団の練習日で、3月7日の「浦安市合唱祭」で唄う歌の暗譜を求められています。 事務局長のSさんらの依頼を受けたNさんが、ラトビア語の逐語訳の労作を提供してくださったお陰で、なんとか憶えることができそうですが、よく寝ておくことも大切です。

 このメールは、お店にご一緒したNさん、Sさんにも,CCでお届けしておきます。

 では、おやすみなさい。               文ちゃんより

       


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