アラブと私

イラク3千キロの旅(111)                 

                              松 本 文 郎

 

98後半)バスタブの溺死を免れ、ベッドに倒れこんで爆睡した私を翌朝起こしてくれたのは、ユーセフの強いノックだった。眠気眼で開けたドアから入ってきた彼の手に、昨夜告げられていた「土器」の紙包みがあった。バグダッド近郊の潅漑改良工事の現場監督をしていて見つけた古代の土器で、高さ20センチ、胴回り約10センチ、細い首の下の両脇に取手が付いている。胴には縦溝の素朴な模様がある。

「地中6メートル位でしたから、かなり古い年代のものでしょうが、これから行くイラク国立博物館の陳列棚で似ている土器を見つけましょう」と笑顔で言う。母親と朝食を済ませてきたユーセフを待たせ、食堂に下りる。冷い生のオレンジ・ジュースが喉を下ると、心身が一気にリフレッシュした。イド休暇の旅も最終日。夜中にはクウェイトに戻るので、充実した1日を過ごしたいと願う。

 

荷物をまとめてチェックアウト。駐車場のトヨペットクラウンに乗り込んだ。ユーセフの母親が持たせたクレーチャ、コーラ、オレンジがあるので、昼食と夕食は車中で済ませ、旅の残り時間を有意義に使うと決める。

 バグダッドのイラク国立博物館には、5千年以上の歴史をもつメソポタミア文明の考古遺物を擁する世界でも屈指のコレクションが6部門に構成された数多くのギャラリーに展示されていた。シュメール、アッカド、バビロン、アッシリア、アッバースの各帝国の遺物展示は、整然と区分されていた印象だが、写真を撮っていないので、詳細の記憶はない。

 博物館入口前に立つ彫像は、アッシュール・ナツィルパル2世。アッシュールの首都カルフの要塞内の神殿で発見され、神を崇拝してやまなかった王が完全な姿で出土した珍しいものという。玄関の両脇に、人の顔を持つ有翼の天馬の彫像があったようだが、1969年に訪れたペリセポリス(イラン)遺跡の中央階段レリーフの彫像に似ていた記憶がおぼろげに残っている。

館内の天井が高く、靴音やユーセフとの話声がよく響いた記憶もあるが、なんだか心許ない。アッシリアの財宝は、カルフの宮殿地下の王妃の墓から見つかった装飾品の数々や、要塞の井戸から見つかった象牙の彫刻などがある。王妃を美しく飾っていた耳飾り、ブレスレット、ベルトなどの素材は金(ある墓の副葬品には14キロも使われていた)のほか、ラピスラズリ、紅玉髄、水晶などの準宝石だった。

当時の工芸技術の水準は高く、宝石の加工技術はさまざまで、象牙彫刻も精巧だった。その様式からみて、これらの品々を作った職人たちがアッシリア帝国内だけでなく、周辺や西方の出身者もいただろうと思われた。

 

モースルからバグダドへ戻る途中の街はずれで遠望したアッシリア帝国最後の都ニネヴェからは、数万点もの楔形文字の文書が発掘され、軍事遠征の年代記、日常的な契約、書簡、行政文書のほかに、天文学や世界の様相などの科学的な探求記録もある。

 アッシリア王アッシュール・バニパル(前668―627)のエジプトの首都テーベ略奪の様子の記録に「アッシュール神とイシュタル神のご加護によって、私はこの町のすべてを両手に収めることができた。宮殿を満たすほどの銀、金、宝石。美しい色の亜麻の衣装、立派な馬、男女の住民。純銀の2本の高柱(重さ7万5千キロ)は神殿の門に立っていたのをアッシリアへ持ち帰った」とある。アッシリア人は、打ち負かした相手への残虐行為を克明に文章や絵に描写し、歴代の王たちは、略奪した品々の一覧を作っているが、侵略が富の流入をもたらし、毎年の貢物や租税が資産の増加につながったことが明らかになっており、征服地の住民の強制移住によって、帝国人口をはるかに上回る労働力を確保した。

 都市に作られた宮殿、神殿、庭園のすばらしさを寄り道で書いてきたが、それらの遺跡がみすぼらしいのは、泥の日干しレンガの建造物が崩れ、シリアの山中から運んだ杉材が腐食して、原形を失ったからである。都の町並みを美しく整えたアッシリアとバビロニアは、郊外の開発も進め、灌漑整備で農業振興に努めた。アッシリアでは、都市ニネヴェに水を引く灌漑が整備されたが、雨が少ないバビロニアでは、メソポタミア南部に灌漑網を張り巡らせて、人工的給水で作物を育てた。このインフラ建設には、外国から連れてこられた住民が動員されただろうと書かれたアラビア語の説明書きを、ユーセフが読んでくれた。

「私が現場監督で関わったバグダッド近郊の灌漑改修工事は、紀元前に建設されたものの上に重なっているのではないでしょうか。ホテルで差し上げた土器の年代を知るために、古代の生活用具を陳列する部門の室へ急ぎましょう!」

 夥しい生活用土器が並ぶギャラリーの説明を読みながらユーセフが解説してくれたのは、「生活土器の生産に従事したのは女性/初期の土器は細い矩形の粘土を輪積みして作ったので、厚く、ごつい感じ/自分の髪を梳いた櫛で模様をつけた櫛目模様/豊かな三日月地帯の原始農耕と共に無文土器が彩文土器へと発達したのは紀元前5千―3千年の頃」など。

古代の生活土器の出土した地層図も掲げてあり、ユーセフが見つけた6メートルの深度と胴の櫛目模様とから、4千―3千5百年前位かと推定した。

 このイラク国立博物館は、イラク戦争の騒乱に乗じて約1万5千点の像などが密売目的で略奪された。その後、イラク国内外で発見された約6千点の内約4千3百点を関係者の忍耐強い努力で回収した博物館は、今年(2013年)2月、展示の再開にこぎつけたと報じたが、モースル博物館で起きた、「IS」戦闘員による貴重な古代石像の破壊に対する反発を示すためという。

 

99)ユーセフからもらった櫛目引きの土器が、紀元前2千5百年~2千年位のものと勝手に断じた私は、その先の収蔵品を足早に見て、博物館を後にした。

「バグダッドへの往路の夜半に通過したシーア派の聖地カルバラ(『カルバラの戦い』「11」参照)の第3代イマームの聖廟に立ち寄り、今夜中にクウェイトへ着くのはかなりきつい行程です」トヨペットを飛ばしながら、ユーセフは言う。

 ユーセフがシーア派・スンニ派のイスラム史を話してくれたのは、サマーワの茶屋(往路)で休憩して、クレーチャ(ナツメヤシの餡、ココナツ、クルミなどをパイ生地で包んで焼いた菓子類)とペプシコーラを仕入れて、国道をかなり走ったときに遭遇した交通事故(「8」参照)がきっかけだった。

 前方に、テールランプを点滅させる車列が目にとまり、対向車線の車の合間を計って、徐行しながら事故現場を通り過ぎたとき、路肩の下で傾いた車のルーフに、白布で包んだ細長い荷物を見て不審そうな顔をした私に、「あれは、イランから運ばれてきたシーア派の人の遺体で、カルバラの聖廟に埋葬するためです」とユーセフが教えてくれたのである。

 カルバラにあるイマーム(預言者ムハンマドの血筋アリーとその子孫)の墓廟はシーア派教徒の聖地で、信者のための巨大な墓地があり、聖地での埋葬を遺言された家族は、イランから千キロを超す行程をものともせず遺体を搬送する。世界のイスラム教徒の約90%はスンニ派。

16世紀初頭にシーア派が国教となったイランでは国民の圧倒的多数を占めており、イラクやバハレーンでもシーア派は多数派で、パキスタン、インド、アフガニスタン、レバノン、サウジアラビア、クウェイトなどでは少数派だが、シーア派をめぐる状況は国ごとに異なり、シーア派とスンニ派の関係も多様で、両派の対立を教義面だけで捉えると、その背後にある政治的、経済的利害関係を見落とすことになると幾度も記してきた。

ともかく、シーア派とスンニ派との間には緊張や争いを経験しつつ共存してきた歴史の存在をしっかり認識することが大切だ。イラン・イラク戦争をした両国が共に、「IS」と戦っている今の情況を、教義の相違からだけで解明することできないと思われるが、カルバラへ向かう車中に戻る。

 

 カルバラへは、バグダッドからバスラへ向かう国道から分岐した道を行き、聖廟の広いパーキングにトヨペットを停める。車を降り、四隅にミナレットが立ち、長大な塀に囲まれた聖廟の門へと歩きながら、「異教徒がここへ入ることは許されていませんが、チーフとクリスチャンの私が妙なそぶりをしないかぎり大丈夫ですから心配されないように!」と耳元でユーセフが囁いた。

中に入ると、正面に荘厳なモスクの入口が見え、他の3面には林立する柱列に囲まれた回廊が巡っている。広場の中央に、水を張った小さなプールがあり、人々が手足を清め、蛇口の水で口を漱いでいる。

「モスクの中に入るのは遠慮して、この辺にしばらく居てから退出しましょう」

 回廊を担架のようなものを担いでゆく人たちがいて、白布に包まれた遺体が運ばれているのが見えた。回廊の奥に墓地があるのだろうか。

 1971年に訪れたこの聖廟で、30余年の後、「IS」の前身とされる「イラク・アルカイーダ」によるモスク破壊があったが、社会主義バース党のスンニ派政権下では、イランからの遺体搬送が日常的に行われていたのである。

 咎められることなくて聖廟を出た私たちは、一路、久しぶりのクウェイトをめざして、交代でハンドルを握った。                                                        (抄録 了)

 

完結のごあいさつ

『アラブと私 イラク千キロの旅』は、JCJ(日本ジャーナリスト会議)「広告支部ニュース」に9年間にわたり掲載されたものを、この《松本文郎のブログ》(開設・編集・管理:森下女史)に転載していただきました。長い間ご高覧の読者と関係者に、こころから感謝申し上げます。

 この長期連載の執筆を勧めてくださった矢野英典さん(JCJ会員・「憲法九条の会 浦安」元事務局長)が、われらが「見明川住宅団地」から故郷の讃岐へ帰られて、数年が経ちました。

 豪放快活だった矢野さんとの浦安での日々が懐かしく思い出されますが、これも。「サヨナラだけが人生だ」でありましょう。

『イラク3千キロの旅』の執筆は、ブッシュ(子)政権の“イラク侵攻”(2003年)が、イラクの旅(1971年)で出会った友人たちの暮らしと人生に、言葉を失うような悲惨を及ぼしたことへの憤りが動機でしたが、その侵攻が産んだ鬼子の「IS」の出現で、中東地域(イラク、シリア、リビア、イエメン)では今、非戦闘員・家族が現実の地獄絵に直面しています。

イラクで2番目の都市モスル(人口百万人)では今(2016師走)、政府軍による「IS」掃討作戦で多数の避難民や死傷者が出ています。45年前に訪れたモスルで出会った人びとの安否を想うと、胸が締めつけられます。

 

モスルの「IS」掃討作戦の行方

かつての戦闘で、人数で「IS」を圧倒していた政府軍が戦車・重火器を投げ出して敗走したのを米軍顧問団が深刻に受けとめ、政府軍・シーア派民兵の戦闘訓練に長期間取り組み、イラク・有志連合は、奪還攻撃の準備を数カ月かけて進めてきが、米海軍特殊部隊「シールズはモスルの北の前線の戦闘指導でクルド人戦闘員を支援しているときに、「IS」戦闘員に殺害されており、 米国はこの作戦に兵器を提供し、イラク警察やスンニ派戦闘員も参加している。米軍の無人機がモスル市街地の「IS」が潜伏しているとされる建物を爆撃したあと、地上軍が建物を虱潰しに捜索して「IS」を追い詰めるという。

 装甲車列がモスル市内に入った映像を見たが、45年前にトヨペット・クラウンで通った大通りの街並みはなかった。

 米軍無人機はどこで操作しているのだろうか。現地の情報に基づいて米国内で行うこともあるのだろうか。シリア政府側で、反政府軍やシリア国民の居住地(学校・病院までも)を空爆して国際社会の非難をあびているロシアは、米国のモスル空爆で、一般市民が殺戮されていると互いに非難の応酬だ。

 第1次世界大戦終結の折の英・仏・ロ3国の密約でオスマン帝国の版図に強引な線引きをしてシリア、イラクほかのアラブ諸国が生まれたのが、そもそもの“中東の悲劇”の発端であると、再三、記した。

「IS」は、2003年のイラク侵攻から3年後の2006年、反欧米を掲げるアルカイダなどイラク国内の過激派組織が合流して名称を変えながら活動を続け、2014年6月、イラク第2の都市モスルを占領し周辺都市を陥落させて、「イスラム国」という“国家”をつくったと一方的に宣言した。

 シリア北部のラッカを“首都”と主張し、拡大した支配地域で国家的統治機構や“県庁”のような行政機関、住民を監視する宗教警察をもつ。外国人戦闘員の多くは中東、北アフリカ、欧州等から集まり、80ケ国以上の1万5千人が参加しているという。(朝日新聞「用語解説」の抄録)

 イラクによるモスル奪還作戦は、百万市民を盾にする「IS」の土壇場のあがきで多くの住民死傷者が懸念されている。戦争でひどい目に遭うのは、いつでも、どこでも住民たちで、第2次世界大戦以後にも、強奪、強姦、殺戮の“インフェルノ”が世界各地に現出した。

米国のベトナム戦争のみならず、三笠宮崇仁親王は、“聖戦”を謳い文句にした関東軍の暴虐について、勇気ある証言を遺された。余談だが、三笠宮は古代オリエント学の泰斗で、この連載の第5回(バスラの公園で旧約聖書『創世記』の話をユーセフとした場面)で、親王著『文明のあけぼの』に、「ノアの洪水・箱舟」と『シュメル神話』の関わりについて、興味深い指摘があると記されている。

 

モスル攻防では、「IS」による住民殺戮の一方、イラク警察の制服を着た集団が、住民を殺害・拷問しているのを国際人権団体アムネスティ・インターナショナルが非難したとCNNが報じた。

 折しも米国新大統領にトランプ氏が選ばれた。頭角直後のスピーチや各国首脳らとの電話会談やオバマ大統領との会談ではこれまでの暴言は鳴りを潜めているが、中東地域への米国の関与にどんな“トランプ・ドクトリン”が出るのか。イラク・シリアの紛争地域には、アサド・シリア大統領、プーチン・ロシア大統領、エルドアン・トルコ大統領に加えてトランプ新米国大統領が加わり、“コワモテ”統治者のオンパレードの観がある。

 米国の軍産複合体による軍事介入、国連安保理の常任理事国やグローバル武器商人が紛争地に持ち込む武器弾薬が、平穏だった無辜の街や村を破壊し、住民の暮らしを絶望のどん底に落としている。“中東地域の悲劇”は、第1次世界大戦後とイラク侵攻後の二度にわたる欧米列強の謀略・介入から生じたと言っても過言ではなかろう。

 大規模なモスル奪還作戦に対する「IS」の抵抗は続いているが、数カ月ののちに「IS」が駆逐された場合、モスル復興のイメージと工程表は描かれているのだろうか。スンニ派・クルド住民が大多数のモスルが、シーア派イラク政府や国境を接するトルコ(オスマン帝国復活をにおわせるエルドアン強権政治)の思惑で、「IS」支配の傷跡修復に齟齬が生じないよう祈るばかりである。

 シリア・イラクの「IS」の弱体化が進み、外国から参加した戦闘員が出身国へ戻りつつあるとされるが、なかでも、中央アジア出身の戦闘員(数千人の試算がある)による新たなジハード(聖戦)拡散が懸念されている。その活動拠点と見込まれるのが、「フェルガナ盆地」だという。

 中央アジアは、ソ連が崩壊したあとで旧ソ連自治共和国から独立したカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンと中国新疆ウイグル自治区とに分かれ、ロシア、中国、イランの大国に囲まれて、テロが多発するアフガニスタン、パキスタンと国境を接している。

 石油、ガス、ウランなどのエネルギー資源、レアメタルなどの鉱物資源に恵まれた、世界の大国にとって地政学的に重要な地域、中央アジア諸国の国民の大多数はイスラム教スンニ派である。

ダンテの『神曲』の“インフェルノ”ではないが、イラク・シリアの住民が地獄の火中にある現状を、中東紛争“火つけ”の英・仏・ロの3カ国ほか大国が連携して“火消し”を務めるか、中央アジアの各種資源をめぐる覇権争いに現を抜かすかが、これからの「IS」のジハード拡散を左右すると思われる。 

アフガン・イラク戦争で独善的に世界の警察官を演じた米国で、トランプ次期大統領が指名した国務長官や元司令官・閣僚らが「強いアメリカをとり戻す!」ために何をするのか。世界中の耳目が注がれている。                                                     (了)





添付画像

写真は、英文Wikipediaから。
ダンテが神曲を手にして、フィレンツェの城壁の外に立っている。中央の螺旋状の道がついている山が煉獄。1465年に描かれたDomenico di Michelinoのフレスコ画。
出典:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dante_Domenico_di_Michelino_Duomo_Florence.jpg

2016/12/24 10:55 2016/12/24 10:55

アラブと私
イラク3千キロの旅(110)
                         
                            松 本 文 郎

(73後半)この『アラブと私』を書くきっかけが、9.11の報復で侵攻したイラクをメチャメチャにしたブッシュ大統領への憤りと、1971年の平和なイラクで、《バスラ・バグダッド・モースル往復3千キロの旅》を共にした土木エンジニアのユーセフやバグダッドの若い女性アハラムらの「今」に想いを馳せることだと、繰り返し述べてきた。そして、「イスラム国」の脅威に直面する国際社会情勢が「パレスチナ・ゲリラ」による事件が多発した当時とあまりにも似ていることに驚き、短絡気味に言えば、70年安保闘争で挫折した学生ら赤軍派が参加した一連の「ゲリラ事件」と、バブル崩壊日本の世直しを妄想した教祖麻原彰晃のオウム真理教によるサリン事件にどこか、「ISによるテロ」に通底するものを感じる。特定の政治思想や宗教教典を妄信・曲解する集団が、敵対者だけでなく仲間内にも及ぼす恐るべき残虐さである。
「IS」による諷刺画新聞襲撃事件と人質「処刑」を考えるキーワードに、「自由」「宗教」「民主主義」を挙げて拙論を述べるのは、次回としたい。
(74/96)前回末尾に予告した拙論を、345回「こぶし会」(30数年も続く談話会)で1時間半の「話」をした『イスラム国」について』(2015年2月・情報通信エンジニアリング協会ビル)の要約で記す。
 1.「イスラエル/パレスチナ問題」
 2.過激思想と「テロリズム」
 3.「宗教」「自由」「民主主義」
 4.日本の立ち位置と安倍政権の行方

 前回、イスラエル・パレスチナ問題に関わる体験(杉原千畝夫人の述懐・パレスチナ人オフィスボーイらの証言)を書いたが、「イスラム国」出現のきっかけがブッシュ元大統領政権のイラク侵攻だったとしても、その背景に、第2次世界大戦後に生じた「イスラエル・パレスチナ問題」があることを、しっかり認識する必要があろう。
 パレスチナ・コマンドの「テロ」を非難しながら、国連決議を無視したイスラエルの国家テロ(女性・子供を含む無差別大量虐殺)の非人道的な過剰報復の残虐無比を非難しないで「人道的云々」を声高に言うのは、まやかしと言うほかない。
 アラブ人とユダヤ人がセム族で同じ系統の民族だと知らない日本人は少なくないが、アラブという名称はセム語のアラバ(大砂漠)に由来し、紀元前2000年頃メソポタミアから移住してきたセム系諸族で、パレスチナの海岸近くに住みついた半農半牧の民がのちのユダヤ人、大砂漠の放牧民がアラブ人と呼ばれたのである。ヤハヴェを信じて団結したユダヤ人には他民族を蔑視する傾向があり、誇り高い砂漠の民アラブ人に反ユダヤの感情が流れ、紀元70年、ローマ帝国のエルサレム攻撃では、この感情を利用してアラブ人騎兵部隊を参加させ、パレスチナのユダヤ人を撃破して世界へ四散せしめる一方で、砂漠に砦を築き、アラブ人をアラビアの砂漠に押し込めたのである。ローマ帝国のやり口と、第1次世界大戦後の英仏によるアラブ分割(サイクスピコ協定)の欺瞞性の類似に慄然とし、「イスラエル・パレスチナ問題」の歴史の長さと奥深さに茫然となる。
 第2次安倍内閣のスタート時点で菅官房長官が、「この政権がつまずくとすれば、歴史問題だ」と報道陣に述べたのが印象的だったが、中国・韓国との歴史認識問題にとどまらず、数千年におよぶアラブの歴史を学んでいれば、ネタニヤフ首相と並んでの不用意なスピーチで日本の安全保障を危うくしかねない状況を招かずに済んだのではないか。
 先の上下院合同特別議会でオバマ大統領のイラン政策を猛列に批判したネタニヤフ首相演説に大統領が不快感を示したことで、これまで超党派でイスラエルを支持してきた民主・共和両党の支持者やユダヤ系米国人の間に大きな波紋が生じている。米国は、1948年の建国とその後の中東情勢の様々な変化の中でもイスラエル支持の立場を貫いて、毎年30億ドルの軍事援助を続けてきた。
 2年後退任のオバマ大統領の外交政策に対して保守派の揶揄が姦しいが、イランの核兵器・開発中止交渉は、イスラエルの安全保障だけでなく、中東和平にとっても重要な意味をもっている。米国との関係改善をめざしているイラン現政権は、「イスラム国」壊滅の戦闘に加わっており、1969年にOECD技術協力で訪問したイランで米・イの親密な関係を見た筆者は、交渉の行方から目が離せない。

 アラブ人とイスラム教の歴史に戻ると、ユダヤ人を世界へ放逐したローマ帝国によって砂漠へ押し込められたアラブの放牧民は、砂漠では多数の人間を養えず、数世紀ののち、ムハンマドのイスラム教と共に砂漠から四方へと進出し、イスラム(サラセン)帝国を建設した。ムハンマドの没後百数十年を経てバグダッドに帝都を築いたアッバース朝は1258年まで命脈を保ったが、イスラム帝国が6百年近く続いたのは、征服した他民族が敵対しないで税を払えば、その宗教や文化を容認して多様性を維持したからとされる。いまだに、アラビア人が「剣かクルアーンか」の態度で征服した諸国民がイスラムに改宗したと言われるが、「宗教」は、人生における最も重要な課題についての信念なので、心から納得しないかぎり、剣をもって迫られても易々と改宗するはずもなく、異教徒への武力征服は数年から数十年で終わっても、帝国内住民がイスラムの真義を理解して改宗するまでに数百年もかかった所が多いとされる。イスラム帝国終焉が十字軍による宗教戦争の結果ではなく、版図奪還だったとみるのが定説になってきたが、「イスラム国」が有志連合を十字軍と規定し、日本が十字軍に参加したと断定したのは史実をなぞったのか。かつてのイスラム帝国の版図を取り戻すという「IS」の最高指導者バグダディ(カリフを自任)の宣託は誇大妄想の極地の観があるものの、欧米各国で貧困と差別に苦しんでいるイスラム教徒(アラブ・アフリカ人移民と子弟)にとっては、神がユダヤ人に約束したカナンの地(旧約聖書)と同じ意味をもつのかもしれない。
「IS」の過激思想とテロリズムに関連して想起されたのは、パレスチナ・ゲリラに参加した「赤軍派」と「オーム教」による「サリン事件」だが、両者に共通するのは、容認できない世界や国の状況変革には殺人を含む破壊行為も辞さないという「過激思想」だ。「IS」へ参加する各国の若者には様々な動機があるだろうが、十把一絡げの〝異常な連中〟と断じると、赤軍派・オーム教による事件のように、対応や事後対策を誤る可能性がある。恐るべきサリン事件を起こしたオーム真理教に帰依した優秀な大学卒業生は、教祖麻原が唱えたミレニアム終末思想を妄信したとされ、その深層心理の解明を試みた某宗教社会学者が、マスコミの袋叩きに遭って沈黙させられたと記憶するが、「IS」をめぐって、また生半可は論議でおわることがあってはなるまい。人々が「IS」出現に戸惑っている今は、「宗教」とはなにかを考え、イスラム教の歴史に関する知見と理解を深める絶好のチャンスだ。 

 先日、オバマ大統領がリードした「IS」対策の国際会議での「若者への教育や啓蒙活動を地域中心に行う」提案は、ブッシュ元大統領の武断的姿勢とは一線を画した。米国のイラク帰還兵の5人に1人が,残虐極まる戦闘行為でPTSDを患い悲惨な生活に苦しんでいる中には学歴がなく職につけない黒人の若者(戦地でも帰国後もヤク漬け?)が多いとされ、黒人差別が根強い州では、無防備の黒人少年を無造作に射殺した警官が不起訴となって、地域暴動が起きるなども、同根だと思われるからである。
「テロ」と称された事件は古今東西を問わず枚挙にいとまなく、日本の近代では、水戸藩士の桜田門外事件、新撰組による吉田屋・池田屋襲撃事件、2・26事件などを知らない日本人はいないだろう。
 これらの「テロ」は「志」を共有する有志集団によるものだが、フランス革命・ロシア革命・明治維新等の反体制武装集団による革命運動も体制側から見れば「テロ」の範疇に入ると思われる。「IS」を非難して、極悪非道、残虐無比、言語道断等の言葉がテレビ・新聞報道で連発されているが、欧米列強の植民地支配、日本の朝鮮半島・中国大陸侵出や、日本やドイツが受けた都市無差別爆撃、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下、冷戦下の朝鮮・ベトナム戦争、9・11後のアフガニスタン・イラク侵攻でもこれらの言葉が当てはまる実態があったのを忘れてはなるまい。

「IS」をめぐる報道や論議に,「宗教」「自由」「民主主義」の言葉が飛び交っている。「イスラム教」という「宗教」については、この連載の各所での記述を参照していただき、ここでは、イスラム教徒が各自の日常生活を律する教典(クルアーン)の規律の一、二を記すにとどめる。
 酒や豚肉の飲食禁止は今でもまだ守られているが、ムハンマド時代の生活環境での賢明な「養生訓」だっただけでなく、欧米社会の豚を含む過剰な肉食やアルコール依存にみる心身の健康障害を予見していたとも言えるのではないか。文明が発達し、豊かな暮らしを享受できる現代でも、当時の規範を守っているのは、神の教えを盲信しているというより、その暮らし方を良いとし、感じるからではないか。
 フランスの公立学校で禁止された女性の服装について、いろいろな考え方や受け止め方の議論がある。ムスリム女子学生のスカーフは、「コーラン」の規定にあるのでフランス憲法の政教分離の理念に反するとして禁止されたが、風刺画事件で声高だった偏狭な「自由」の概念と同じく、とても奇異に感じたものだ。ムハンマドは、「慎ましい服装をしなさい」と言っているだけで、全身を隠すのか一部だけにするかは、「慎ましさ」の解釈で変わる。全身を隠す「ブルカ」はアフガニスタンの地方的な伝統で、イスラム教の普及前からあった風習というし、フランスの公立学校へ通う女子学生がスカーフを被らないと、「クルアーン」を守る両親から通学のための外出を許されないという。「女性の勉学は不要で、家にこもっていればよい」とするタリバンの女性抑圧の行為は、ムハンマドの教えにはないとされる。
 不躾かもしれないが、白いスカーフで髪を覆ったナイチンゲールの清楚さや映画「パルムの僧院」の修道女の美しさは、鳥肌が立つほどだったし、クウエイトの海辺を散歩していた若い女性の黒い被り物が風に煽られ、真紅のミニスカートが見えた瞬間のトキメキを鮮明に思い出す。美しい和服の女性が階段を上がるときチラリと見せる足首にドキリとするのも、露出の少ない衣装の方がかえってエロチックな事例である。女性の勉学を認めない男尊女卑の考えも、古今東西の男社会の規範として普遍的に存在してきた。日本も例外でなかったはずで、男女共学や女性の国政選挙権が認められたのは敗戦後の新憲法からである。ところで、安倍首相を取り巻く人たちに、戦勝国アメリカから押し付けられた日本国憲法より、大日本帝国憲法の精神に回帰したいと考える人が多いが、戦争末期の暗闇から出て、真青な8月15日の空を仰ぎ見た筆者には、「世迷言」としか思えない。
(75)「自由」は、フランス革命が人類社会にもたらした三つの理念の最も重要な一つと考えている私は、その定義が、「他人を害しないすべてをなし得ることに存する」とあるにもかかわらず、「他人が信じる宗教とその始祖を穢し、傷つける自由」を主張し、擁護するフランスの一部の政治家・学者・市民らの「理性」のレベルに、ただ驚いている。
 NHKテレビ番組「WISDOM」《広がる不寛容 多文化は共存できるか》(2月28日)の討論に参加した女性学究アラナ・レンティンさんは、表現の自由を言い募る反面で、イスラム教徒の子女の公立学校でのスカーフ着用の自由を法律で禁止したご都合主義について、「いまのフランスには偽善が多い」といった主旨の発言をし、パリ政治学院教授ファブリス・エペルボワンさんも、うなずいていた。香り高いフランス文化と感性豊かなフランス人を敬愛してきた筆者も、今回の事件で直視させられたムスリム移民への差別や異文化への不寛容さには、失望を感じることしきりである。
「政教分離」の理念は、民衆(市民)を支配してきた王権(法王を政治的に利用)の権力を市民革命で奪い取った歓びを掲げたものだが、キリスト教社会(国家を含む)の政治的儀式で聖書や司教が関わるものは少なくない。(大統領の就任式)「平等」「友愛」も然りで、この三つの「理念」は、市民社会と国民国家の原理である「民主主義」の土台となった一方で、「理性」を絶対視し、理性に基づけば社会変革のための暴力をも正当化しうるとしたことから、自由主義、全体主義、社会主義、共産主義などの諸理念を掲げる国家間に、己の〝正義〟を主張し、押し通そうとする紛争や戦争が連綿とつづいたのである。
 人間の生き方や社会の在り方について、パラダイムシフトが求められている類社会に生まれた「IS」という鬼子と、どう対していくのか。中東・アフリカ一帯でイスラム過激派組織によるテロ・戦闘が、拡大の一途をたどっている。
「チュニスの春」で長期軍事独裁政権を崩壊させて以降、比較的順調に民主化が進んでいたとするチュニジアで、国立博物館を訪れた大型クルーズ観光客が襲撃され、20余人(日本人3人も)が殺害された。イスラム過激派のハーレド・シャイブ容疑者ら実行犯2人が殺害され、20人あまりが逮捕されている。実行犯グループは、「IS」支持の組織とみられる。サウジと国境を接するイエメンでは、シーア派武装組織「フーシ派」が、首都サヌアを掌握して暫定政府樹立を宣言し、ハディ暫定大統領が逃れた南部に侵攻している。サヌアの2ケ所のモスクで起こった自爆テロとみられる爆発事件では、死者数が140人を超え「フーシ派」支持者が多くふくまれるという。スンニ派の「IS」が犯行声明を公開し、イスラム過激派同士の宗派対立を背景にした武力衝突が拡大している。
「IS」は、チュニジアの博物館襲撃事件に続いて、政府軍と戦闘中のシリア・イラクから他の中東地域にまで、勢力を拡張しているのだ。この情況下で、エジプトのシャルム・シェイクで開催されたアラブ連盟首脳会議が、アラブ合同軍創設の方針を明らかにした。その要因に、リビアでエジプト人キリスト教徒をISに殺害されたエジプトのIS・リビア拠点の報復空爆(2月)、イエメンのハディ元大統領を辞任に追い込んだ反政府フーシ派へのサウジ空軍の爆撃(3月)があるとされる。このアラブ合同軍は、中東全域で同時多発的に進行しているテロ・内戦(シリア,イラク、チュニジア、イエメン、ケニアなど)の深刻な情況に、「アラブ諸国がかつてない危機にさらされている」として創設されたという。泥沼の内戦が続くシリアでは、「イスラム国」が首都ダマスカス南部のヤルムークに侵攻したが、米軍などの空爆を受けながら、支配地域をほぼ維持していると報じられた。
 内戦前のシリアで、国連に登録したパレスチナ難民が約50万人いて、ヤルムークほか9ケ所の難民キャンプで生活していたが内戦の激化で多くの難民がキャンプを離れ、ヤルムークでは約18万人から1万8千人に激減していた。このキャンプに反体制派の武装勢力が入り込んでいるとした2013年以降、アサド政権に封鎖されて猛攻撃を受け、食料・医薬品搬入も止められ、戦闘の巻き添えや餓死で多くの市民が犠牲になり、シリアの人道危機を象徴する場所とされていたという。オバマ政権は、自国民を虐殺したアサド政権に正統性はないとして退陣を求めたこともあって、「IS」掃討で、手を組めないジレンマがあるとされる。朝日新聞の取材で、「IS」はシリア国内で内部抗争があるとみられ、今年に入ってから「IS」を脱退して「ヌスラ戦線」など他の過激派組織に参加する戦闘員が目立つという。統制された軍隊のイメージだった「IS」は最近、傘下各グループがそれぞれの思惑で攻撃している印象で、今回のような町の制圧は続くとしても、組織をあげての行動でないなら、支配が維持できるか疑問視する向きもある。イエメン南部には仏週刊新聞襲撃事件への関与を主張する「アラビア半島のアルカイダ・フーシ派」拠点があるが、それを支援しているイランは、イラク中部のティクリート奪還作戦のイラク軍とシーア派民兵の指揮にイラン革命防衛隊司令官を関わらせる一方で、イラン核開発協議が山場を迎えており、米国の中東政策はイランを巡り、各地で相反した構図になっているややこしさだ。
「IS」をはじめとするイスラム過激派の各地での活動拡大を見てくると、「自由と民主主義」の価値観を共有する有志連合と共に「IS」と戦うと高らかに宣言した安倍首相が、どこまで、有志連合参加のアラブ・欧米諸国の個別の思惑や利害関係の複雑さを理解しているのか、疑問を感じざるを得ない。
 民主党の自失で漁夫の利を得、衆参両院で連立与党の過半数を手にした安倍内閣が戦後レジームからの脱却を掲げて、不戦の平和主義を否定する一連の時代錯誤的な政策を強引に押しすすめる政治の立ち位置では、有志連合アラブ諸国の政治が、民主主義の定義からほど遠いものである実態も、さして気にならないのであろう。次回こそは、1971年のバグダッドにワープして、アメリカのイラク侵攻後、イラク人に略奪されたバグダッド国立博物館を訪ねることにしよう。
(76)(72)から4回に及ぶ寄り道で、「IS」に関する記事をたてつづけに書いたが、全篇随所でたくさんの寄り道をしてきたものだ。
 3回目のバスラのベリーダンサー・娼婦の話からティツィアーノの有名なヴィーナス像のモデルがベニスの高級娼婦の一人だったことや、イラク戦争5年目(2008年)のバスラの大油田地帯の利権を巡り、マリク首相が率いる政府軍とサドル師の民兵組織マフディ軍(シーア派同士)が戦闘中であるなどを書いて、道草をしている。
 それは初回に書いたように、『何でも見てやろう』の小田 実流に、1970年代前半のクウェイトでの仕事と生活を思い起しながら、あれから半世紀近くを経たアラブの現実との間を往還する意図の執筆だからである。
 眠りこむ寸前の湯舟から立ち上ったのは正解だった。極度の疲れで忍び寄った睡魔がバスタブでの溺死を招いたかもしれないからだ。モースル往復の旅はかなり強行軍だった上、バグダッドへ戻ってすぐ、アハラムらをディスコクラブへ招待したのだから。モースルの街(初期アッシリアの砦の町)では、ユーセフの知人(アッシリア東方教会の神父/ヤズィーディー教のクルド老人/ガレージの若主人)に次々に会い、モースルの歴史と現実について得難い話を聞き、大阪万博や日本の経済発展について話をして、濃密な時間を過ごした。「IS」のモースル侵攻で、少数民族のヤズィーディー教信者を山岳地帯へ追いやったり、女性たちを捕虜(奴隷)にしたと報じられたが、45年前の私は、迫害を受けた人らの洞窟住居を訪れ、お茶を戴いたのだ。
 モースルの博物館襲撃では、貴重な東西の文化遺産が破壊されるシーンがテレビ画面に映され、バーミヤンの岩山の巨大仏像が爆破されたときと同じ衝撃を受けた。「偶像」を禁止するコーランの教えの真意を全く理解していない「蛮行」と言うほかない。
 この程度の寄り道的記述なら、全体の筋道を混乱させないだろうし、《アラブと私》の執筆の意図からも、読者のご理解をお願いしたい。次回では必ずタイムスリップして、バグダッドのホテルへ戻るとしよう。 (続く)


添付画像

2016/10/09 20:42 2016/10/09 20:42

アラブと私

イラク3千キロの旅(109)

 

(69後半/ブログでは91) 「いえいえ、そういうつもりでお訊ねしたのではありません。それぞれに個性的でよろしいんじゃないですか」「アハラムとジャミーラは私に似て外へ出たがりますが、ハディージャは、家にいて勉強するのが好きなようです」

「高校生の妹は、大学に進んで石油化学を専攻したいと言ってます。勉強が好きでない私は大学に行きませんでしたが・・・」とアハラム。「すごいですね。きっと、石油技術を身につけてイラクの近代化に役立ちたいと思われてるのではないですか」「そうしてくれると、いいのですが」「1昨年、ハクザール博士の紹介で会ったテヘラン大学の女子学生Nさんも、男子にまけないようにガンバルと言っていました」

 社長は急に声をひそめて、「イランといえば、20年前のモサディク首相によるイランの石油国有化のあと、パーレビ国王は政権転覆と権力奪還に成功し、イラン石油を支配していたイギリスからアメリカへ鞍替えしましたが、いま石油国有化を模索するバース党政権の後ろ盾にソ連がいるので、なりゆきが心配ですよ」

 思いがけない話がさらに続く。「社会主義のバース党政権はソ連を頼りにしていますが、サウジアラビアのファイサル国王の右腕のヤマニ石油相は、“国有化という伝家の宝刀”をイラクに抜かせず、OPECとメジャーとの石油戦争を避けた二人三脚をめざしています」「ヤマニ石油相はなかなかヤリ手ですね。アラブの石油資源の経済価値を独占してきたメジャーから奪還しようと、ガンバッテいるではないですか」

「彼は自由主義経済下の石油戦略の巧者ですが、イランのモサディク政権やバース党のような社会主義的な政策とは相いれないと思います」

ディスコクラブへ招いた客人との会話としては、いかがなものかと思ったが、新聞記者マリクとは違う世代と立場の経営者から聞きたくて、「バース党をどう見ているのですか。さしつかえなければ、お話をうかがいたいです」「甥っ子から聞かれたかもしれませんが、“バース”は、アラビア語で“復興”の意味です。イギリスなどが線引きしたアラブ諸国を解体してアラブ人による統一国家『アラブ連合』建国をめざすアラブ社会主義復興党の略称が、『バース党』なんです」「その『アラブ連合』は、亡きナセルが構想したのと同じでしょうか」

「根は一つだと思います。その起源は20世紀初頭で、ミシェル・アフラクというシリアの思想家の基本的な政治信条を掲げるインテリと少壮将校らの限られた集団でした」「まだイラク王国のころですね」「ええ、バース党の第1回党大会はダマスカスで開かれ、1950年代後半はシリアを本拠にイラク、レバノン、ヨルダン、イエメンに支部がおかれました。でも、理想主義的ロマンティストのナセルは、アフラクの政治思想であるアラブ諸国の解体実現に性急で、エジプト以外の国との間に大きな温度差がありました」

 バース党の歴史を話した建設会社社長の生真面目な一面に驚いたが、近くのテーブルにいる欧米人を気にした私は社長に顔を寄せ、小声で話を続けた。

「オスマン帝国や西欧列強に支配されたアラブ諸国のバラバラな存在の統一と、アラブ民族の永遠の使命を担うことを綱領に掲げたバース党の考えはよしとしても、自由主義陣営が支配的なこの地で、ソ連側に旗色を鮮明にするのは現実的とは思えません」「労働者階級に熱烈に支持されたナセルが、国内のインテリ層に人気がなかったのに通じるお話ですね」

「ソ連はナセルの汎アラブ主義を支援しましたが、エジプトとシリアのアラブ連合共和国は長続きしませんでした。2国以外のアラブ諸国でこの路線をとったのはリビア、チュニジア、モロッコでした」「汎アラブ主義のバース党の綱領は社会主義にアラブ民族主義が混ぜ合わさったもので、憲法に掲げた人民民主主義はソ連型の民主主義のように総書記が強い権限を持ち、宗教との関わりも曖昧なのでイスラム主義と摩擦を生んでいて、アラブ民族特有の問題もあるのです。膨大な数の部族から成るアラブ民族は、それぞれの利害の主張に走りやすく、近代的な国民国家として成熟するまでには多くの障害を乗り越えなければならないでしょう」

「かのアラビアのロレンスも、そんな述懐をしたようですね」「エジプト・シリアのアラブ連合共和国の建国間もなく、双方出身の官僚と軍人の間に権力闘争が生じた上、シリア出身の軍人によるクーデターが勃発してシリアは連合から離脱しました。さらに、イラク・シリア両バース党に熾烈な権力争いが起ったところにスンニ・シーア派の宗教間対立も加わりました」「スンニ派とシーア派の宗教的な対立では、一体、何が問題なのですか」「普通の暮らしにはほとんど問題はなく、政治的権力や経済的利害を巡る争いが宗教的対立の色彩を帯びて見えるだけと思っていますが」

「ご夫妻と娘さんたちの日常生活で問題が生じることはありませんか」「敬虔なモスレムでクルアーンの教えを守る妻は、自分の考えを私や娘たちに押し付けることはなく、あまりクルアーンに忠実でない私たちの行いに口出しはしません。ここへお連れする外国のお客さんたちからも、同じ質問をよくされます」「招待させていただいた場所ではどうかと心配でしたが、それを伺い気がラクになりました。ところで、ソ連の人らが来ているといけませんから大きな声では言えませんが、マリクには話しましたが、私たちは、敗戦直前のソ連参戦とシベリア抑留などのイヤな想い出があり、彼らには好感をもてないできました。明朗快活なアメリカに比べ、どことなく不気味なコワサを感じるのです」

「あなたの国が日露戦争で勝利した時、世界中は勿論ですが、アジアの小さな国が大国ロシアを負かしたので、祖父の世代が喝采した言い伝えがあります」「ロシア皇帝の大国を赤色革命で倒して生まれたソ連ですが、敗戦間際の参戦は、彼らが支配していた満州に日本が侵攻したことへの報復だけでなく、日露戦争の雪辱があったかもしれません」

(70)「ところで、明日は、クウエートに戻られるそうですね」と社長が訊ねた。「私たちのイドの休暇は明日で終わりです。午前中に国立イラク博物館を見て、バスラに向かう帰路の途中、カルバラ廟へ立ち寄るつもりです」

 アハラムと話に興じていたユーセフが聞きつけて、私たちの会話に加わった。「バスラからバグダッドへの往路で、カルバラを通過する前後に、ムハンマドの血縁のフセインが惨殺された《カルバラの悲劇》(イスラム共同体がシーア派とスンニ派に分裂するきっかけの史実)をチーフに話したところ、帰り道で寄りたいと言われたのです」「そうなんです。もう夜中近い時刻でしたが、ユーセフの熱の入った語りが、日本の平家物語の壇ノ浦悲劇を熱演する講談師と重なりました」「このシーア派の聖地に埋葬する死体をルーフに載せたイランからの車を何台も追い抜いたことで、チーフが関心をもたれたのでしょう」

 

ユーセフが熱弁をふるった《カルバラの悲劇》は、(13)(14)に記した。「カルバラの戦い」から千4百年を経た1980年代、カルバラの名が戦争の作戦名に登場した。イラン・イラク戦争のイラン側《カルバラ作戦》の由来がこの「カルバラの戦い」とされるのは、シーア派原理主義が統治するイランらしい命名だ。また、9.11後のイラク戦争の米軍侵攻の際、カルバラ市一帯での会戦でイラク軍の強固な抵抗に遭った米軍が撤退を余儀なくした記憶もある。この地は、俗にいうパワースポットなのか?

2008年8月。治安回復が伝えられたカルバラのシーア派宗教行事に参加した3百万人以上の信者を狙ったテロで、多数の死傷者が出た。宗教間対立をねらうテロリストにとって巡礼団は格好の標的で、道路脇の自動車爆弾や女性の自爆によるとされた。これは、残留米軍やイラク政府軍を手こずらせた「イラク・イスラム国」の前身集団によるものか。

 腕時計を見ると、8時半を過ぎていたが、9時までには30分ある。外国人との社交の場で政治と宗教を話題しない方がよいとはアタマにあったが、イスラムの国のイランとイラクを相次いで訪れたのもなにかの縁と想われ、シーア派の話をつづけことにした。

 ディスコ音楽が鳴り響くフロアで踊る人たちも増えてきた。「アハラム! ボクたちはお父さんともう少し話がしたいので、ジャミーラと踊ってきたらどう?」その言葉を待っていたかのようなジャミーラは、アハラムの手をとってフロアに向かう。ほの暗いホール照明にミラーボールがふり撒く光がきらめき、群れ踊る人影が浮かび上がる中へ、ふたりは入っていった。

「シーア派の奥さんはご家族一緒にカルバラの聖廟に行かれたことはありますか」かなり立ち入った問かけを、社長の反応次第で中断するつもりだったが、「フセインの殉教祭(アーシュラー)の時期に何回か訪ねたことがあります。毎年のムハッラム月(イスラム・ヒジュラ歴の1番目の月)の最初の10日間、フセインの死を悼む行事があるのです」「その行事のことはテヘランで聞きました。黒い喪服で身を包んだ人々が、鎖の束を自分の胸や背に打ちつけ、声を合わせて行進するそうですね」「バグダッドの公道で見たことはありませんが、惨殺されたフセイン一家の痛みを味わい、シーア派の連帯を示すものとされます」

「スンニ派・シーア派の異なる家系出身のご夫妻の家庭の日常で、こうした行事が支障になることはないのでしょうか」「特にありません。あなたは、ラマダーン後のイド・アルの祝日の間にイラクの旅をされていますが、ラマダーンは、断食をする月の名前です」「ラマダーンは、断食を意味する言葉ではない?」「ええ、ラマダーンはヒジュラ歴(純粋な太陰暦で、太陽暦とは毎年11日ほど早まり、約33年で季節が一巡)の第9月、イスラム教徒の義務の一つとして日の出から日没までは飲食を絶つ、《サウム(断食)》月のことです」

なにごとも訊いてみるものだと想っていると、ユーセフが、「ラマダーン明け‘断食’の習慣は、ムハンマドが3百人ほどの信者とマッカの大規模な隊商を襲おうとしたとき、その阻止にやってきたマッカの部隊を返り討ちにできたことをアッラーの恩寵として記念したのが始まりです」「へえ、そうなんだ」「ムハンマドが勝利したのはヒジュラ歴624年の第9月でした」「クウエートを発つ前の晩、パキスタン人コックのハジが教えてくれたけど、断食の開始と終了を決めるのは長老らによる新月確認だってね」

「でも、雲やサンドストームなどで新月が確認できなかったら1日ずれます。夏は太陽が沈まない極地帯では、近隣国の日の出・日没時間に合わせる調整もあるそうです」「それにしても、大陰暦は大陰太陽暦のように約3年に1回の閏年の調整がないから、同じ季節が巡ってくるのに33年もかかるんだねえ」 

歴史に強いユーセフが、「世界で最初に大陰太陽暦を用いたのは紀元前2千年前のメソポタミア文明ですが、イスラム教が広まってからの西アジアでは用いなかったようですね」「断食月のラマダーンが終わってから数日ですが、お宅では、第1月の殉教祭の10日間も断食されるのですか?」「いいえ、敬虔なモスレムの妻もラマダーンの断食行事を家族一緒にするだけです。断食といっても1ケ月の完全な絶食ではなく、日没から日の出までの間は飲食できるので、馴れてしまえばどうということはありません。お腹がすいている上にご馳走を親族が集まって楽しむ習慣なので、ラマダーンが来るのが待ち遠いくらいですね」

「日本を発つ前に注意されたのは、外国人や旅行者は断食の慣習を免除されるが、イスラムの神聖な慣習に敬意を表して人前での飲食は慎むことでした」「旅行者のほか、重労働者・妊婦・産婦・病人・乳幼児・断食できない高齢者なども免除される、柔軟性と巾のある慣習です」

「日本では僧や修験者が人間の欲望からの解脱を求めて相当長期間の断食(水は飲む)をすることがありますし、病気治療や美容が目的の短い断食をする人たちもいます」と言うと、ユーセフが、「宗教的な慣習と暮らしの関係は時代や社会と共に変化してきて、クウエートやサウジアラビアとイラクでは、《クルアーン》に基づく生活慣習の守られ方に、大きな差異がありますね」「宗教上の由来は知らないけど、極暑の砂漠生活でブタを食べないとか酒を飲まないというのは、ムスリムでなくても分かる、暮らしの知恵だね」

「サウジでは公開処刑がありますし、非イスラム教の外国人がラマダーン期間中、公共の場で飲食や喫煙をすれば国外追放だそうですよ」「立憲君主制度のクウエートでも、エレベーターの中でアバイヤ(全身を覆う黒い布)を着た女性に挨拶の声をかけた日本人が国外追放になった話を聞いたボクも気をつけなければね」

アラビア湾の海岸で近くを歩いていたアバイヤの若い女性に出会ったとき、海風に煽られた黒い布の下の真紅のミニスカートが見えても平然としていたことがあった。エレベーターのケースは婦人の老亭主が訴えたもので、女性自身の申告ではなかったのではなかろうか。

「バグダッドの未婚女性でアバイヤを着ているのは、《クルアーン》を厳守する家庭なのでしょうか」と訊ねると、「そうかもしれませんが。私の妻が外出する時にアバイヤを着けるのは自分でやっていることで、私が命じているのではありませんからね」「欧米では美人の若い奥さんを他人に見せたがるくらいですから、いずれこの慣習もなくなると思います」とユーセフ。「日本の家庭婦人が‘奥さん’と呼ばれるのは、妻は家の奥に居て家事に専念し、あまり人前には出ない方がよいとした夫が少なくなかったからなんですよ」

「今でもそうですか」と社長が訊ねた。「都会では限られていても、地方ではまだ少なくないでしょう。私の母は戦時中から進歩的女性でしたから、‘夫に3歩おくれて歩け’という風習を嫌がり、敗戦前の2人連れの外出は好きでなかったと聞きました」「私にとっての《クルアーン》は、自分らの生活を律する教えですから、王制の統治権力や宗教的権威で強制されるのは好みません。イラクでは、そうした考えが一般的になりつつありますよ」

「お宅のラマダーンは、日本の盆と正月のように、家族が集い、親族が寄り合って、ご馳走を食べて歓談する慣習に似ていると思います」「こうした場所へ妻を連れてきたくても遠慮するでしょうが、それは慣習からだけでなく、次女のように性格的なものもあるでしょう。アハラムやジャミーラが結婚すれば、欧米のライフスタイルで暮らすのはまちがいないと思います」

 その二人の踊る姿を、ミラーボールの光が照らし出す人の群れに探した。

(71前半)アハラムとジャミーラは、踊っている20人ばかりの人の群れのなかで、すぐに見つかった。ベイルート風アレンジのディスコ音楽に乗ってゆったりと体を動かしているアハラムと向き合うジャミーラは、手足を激しく動かす奔放な踊りに陶酔しているように見える。「お嬢さんたちは楽しそうに踊ってますよ」「アハラムが踊ることはめったにありませんが、テレビ番組のレバノン音楽やインド映画のダンスシーンが好きなジャミーラは、踊りに目がありません」

 目をこらすと、姉妹の周りに、50代くらいの外国人カップル数組とアラブ人の若いカップルや男同士のシルエットがうごめいている。踊っている娘らをみつめていた社長が、「明日、イラク国立博物館を訪ねられると仰いました。ロンドン、パリは勿論、エジプト、イランの国立博物館と比べても、収蔵品の種類や数量は多くないのですが、シュメール・古バビロニア・アッシリア・新バビロニア遺跡の出土品をご覧になって、遺構がほとんどないアッシリア帝国の都ニネヴェの往時を想像してくだされば幸いです」

「ええ。メソポタミア文明の建築・都市の想像図やウルのジッグラトなどの遺跡のことは、大学のオリエント建築史で学びましたが、風俗や暮らしにかかわる出土品が見れるのが楽しみです」「そんなご関心でご覧くだされば、うれしいです」「オリエントは、ラテン語の〈東〉で、古代ローマから見た東方世界を意味し、シリア、ヨルダン、イラク、イランなどの西アジアを中心に、トルコ、エジプトをふくむ地域です。オリエントや中国大陸の東の果ての日本も、〈日出る国〉と称されてきました」「日本の遺跡や遺物はどんな形で残されているのでしょうか」

「東京の国立博物館には、中国や朝鮮から渡来した品々や日本古来の文物がたくさん収蔵・展示されています。奈良の国立博物館や東大寺の正倉院には、多くの優れた仏像や聖武天皇が遺したシルクロードで運ばれたペルシャのガラスの水差し・楽器などの貴重な品々も収蔵・展示されています。都市や建築は、ギリシャ・ローマの石造とちがう木造ですから、自然災害や戦火による破壊と復興を重ねてきました」

「メソポタミアでは、石材、鉱物資源(金・銀・銅・鉛・鉄)、木材が少なかったので、《豊暁の三日月帯》の農耕・牧畜を背景にした都市文明が栄えて支配者・貴族層が現れると、水晶やメノウの装飾品や金、ラピスラズリ、象牙、トルコ石等の高価な財が交易で集まってきました。対価は、麦などの農産物や羊毛、肉、乳製品でした」「メソポタミアの諸王・帝国は強大化と版図拡張をめざし、その頂点に立ったのがアッシリア帝国だと、モースルでユーセフから聞きましたよ」「紀元前3200年頃のウルやウルクのシュメール人都市国家の交易・商取引記録の必要から楔形文字が始り、階級、職業、法律、文学、商業、度量衡など、現在の生活にある基本要素はすべて、早期メソポタミア文明で整えられました」

一呼吸したユーセフが続ける。「野生麦の改良・栽培や動物の家畜化が北シリアで行われて農耕・牧畜が始りましたが、年間降水量が2百ミリ以下では麦が育たず、灌漑の考案でユーフラテスから畑に水を引くことで農地面積は飛躍的に拡大しました。南メソポタミアの肥沃な三日月帯は灌漑も容易で、灌漑システムと運河の管理をふくめ、古・新バビロンの都市が生まれるきっかけになったのです」

「ユーセフはバグダッド郊外の灌漑用水路の改良工事でも、現場監督をしたんだよね」「ええ。その工事現場の地中6米から出た土器が実家に置いてあります。今夜、母親の所へ泊まりますので、明朝、イラクの旅の記念として差しあげたいと思います」「そんな貴重な遺物をもらって、いいのかい?」「私が持っているより、チーフのそばにある方がうれしいですから」「イラク国立博物館に展示されている土器と比べると、年代がわかるかもしれないよ」「そうですね。私が見た類似の土器は紀元前千数百年前のものでした」「思いもしないメソポタミアからのプレゼントに、ワクワクだよ。東京の国立博物館で見せびらかしたいくらいだよ」

はしゃぐ私にウインクをしたユーセフが、「チーフ! そろそろ9時ですよ」と囁いた。

「ジャミーラは夢中で踊ってるようだけど、大人の時間になると、アハラムに知らせてくるよ」踊る人たちの間を縫って姉妹の近くにいくと、アハラムはすぐに気づき、上気して汗ばんだ顔のジャミーラも、陶酔から覚めたようだ。3人で向き合って踊りながら、アハラムの傍に寄っていき、「9時になるから、お開きにしようか」「ええ。ジャミーラも十分踊って満足でしょう」

 かかっていた曲が終わってホールがすこし暗くなった。ジャミーラが父親とユーセフがいるテーブルへ向うと、スローなムード音楽が流れた。ディスコで時おり仕組まれる‘チークタイム’である。私はためらうことなく、アハラムの手をとった。「1曲だけ踊ってくれませんか」「ええ、よろこんで」

離れて向き合っていた人たちが体を寄せ、抱き合って踊りはじめた。アハラムの背なかに掌をおいた瞬間、シフォンのブラウスの下のひきしまった筋肉がピクリとして、汗のしめりとほのかな温かさが指先に伝わる。

ミラーボールの断片的な光に浮かぶアハラムの顔に、魅惑的な微笑みが浮かんだ。そばで静かにゆれている初老の外国人カップルは、互いの腰に両手をあててチークしている。、思い切ってアハラムに頬を寄せると、しっとりして弾力のある頬が押しあてられた。鼻腔に感じる香りは、控えめな香水と髪の匂いが交りあっているようだ。

 互いにからだをあずけて揺れていると、バスラからバグッダッドに着いた夜の夢で見た、千夜一夜物語の踊り子と再会した気分だった。サマーラの塔への遠出やホームパーティなど、思いがけない長い時間をアハラムと共にできたのは、忘れられない思い出となるだろう。アハラムがまたクウエイトへ来ることがあるとしても、会うことはないだろうと想いながらハグしたら、音楽がやんでホールが明るくなった。「アハラム! 一緒に踊れてうれしかったよ」
                             (続く)

添付画像


2016/08/29 12:49 2016/08/29 12:49

アラブと私

イラク3千キロの旅(108)

 

(89)ふと目覚めて時計を見ると半時間も経っていないではないか。車窓の左に畑やナツメヤシの木立が見えているのは、モースルからずっとチグリス川を離れていた国道が川の西岸に近づいたからだろう。

「もうお目覚めですか。間もなくアッシュール遺跡の大きなジッグラトが右手の砂漠に見えてきます」「遠くからでも眺めておけというご託宣だろうね」「そうかもしれません。なにしろ、紀元前3千年紀の初めにまで遡り、南のシュメル地方に古くから伝わる女神イナンナ(アッシリアではイシュタル)への信仰を物語る神殿遺跡が発掘されたところです。シュメルの最高神エンリルに捧げられた神殿の存在を示す史料もあります」「ウル遺跡のジッグラト(日干し煉瓦を積んだ聖なる塔)は大学の西洋建築史で教わった」「紀元前21世紀、都市国家アッシュールが政治的に独立して、ジッグラトは都市神アッシュールがエンリルにとって代わったシンボルで、周りには広大な神域をもつアッシュール神殿が営まれたのです」  

 モースル近郊で遠望したクンジュクの丘にあるニネヴェ遺跡はアッシリア帝国の最後から2番目の王が建設した都市だが、このアッシュールは帝国最初の古代都市で、経済基盤は遠くアナトリア中央部に及び、前19世紀までに植民地都市を築きあげていた。その後のアッシュールは、ニネヴェと同じような国際的交易の拠点としてゆるぎない地位を保ち、前14世紀から前9世紀まで栄えたという。

 モースルに向かうときはサンドストーム気味の悪い視界だったのが、今日は打って変わる晴天の下に、小山のよう日干し煉瓦の巨大な塊のジグラットが、国道からかなり離れた所に崩れかけたピラミッドのようにうずくまっている。ユーセフは車を停めた。

車外に出て辺りを見回すと、左手のチグリス川がナツメヤシの並木の向こうにきらめき、ジッグラトを望む側の路肩には、黄色の小さな花をつけた野の草がちらほらと風に揺れている。

「もうすぐ12時です。まもなく着くバイジの町でトイレ休憩を考えましたが、ここらの草地で用をたして、宿のオッカサンがもたしてくれた弁当と昨夜の残りのペプシコーラで、簡単なピクニックランチにしませんか」「草地に座ってジッグラトを眺めながらのランチとは、すばらしいじゃないか!」

 後部座席から弁当の包みとペプシコーラを抱えてきたユーセフは、座りよい草地に並べた。包みには朝食に出たクッバ・モースルと特産チーズが入っていた。「朝食でクッバ・モースルを美味しいとチーフが云われたので、オッカサンに頼みました」

円形のクッバ・モースルは8つの楔形に切られていて食べやすく、コーラによく合った。はるか彼方に見える小山のようなジッグラトは、西洋建築史の図版で見たウルのジッグラトのように、数層階に日干し煉瓦を積み上げた構築的な形態をほとんど残していない。

ジッグラトは高い所を意味し、シュメルが起源と教わったが、バビロニア語では「天の山」を意味し、平原ばかりのメソポタミアの各都市の守護神の聖域に神を天から迎えるために造られ、バベルの塔もジッグラトの一つという。「ジッグラトのような聖なる塔がなぜ造られたのか、知っていれば教えてくれないか」「詳しいことは知りませんが、メソポタミアの諸都市の守護神の聖域に造られたのは、各都市の間で王たちの勢力争いが繰り返される中で上下関係ができると、その守護神同士の関係も大系づけられたからとされます。シュメルの大いなる神々のアン、エンリル、エンキなどのために、それぞれが守護する都市の聖域中央にジッグラトが建設されましたが、初めは数十センチの高さの神殿土台にすぎなかったそうです」「古代の王たちが己の統治権力を神意に基づくとしたのは、どこも同じなんだね。メソポタミアのジッグラトと日本の歴代天皇家が祀る伊勢神宮はかなり似ているようだ」「神と民のあいだに位置して神意を授かる権力者らは、神を民から隔てるために神域を何重もの周壁で囲い、聖所を高みへと押し上げていきました」「素材や形態は異なっても、神域を民から隔てる神殿と神域の構成は、伊勢神宮でも全く同じだよ」

 それにしても、伊勢神宮の20年毎の式年遷宮の伝統は、飛鳥時代に天武天皇が定め、第1回を持統天皇が行って以来、戦国時代の中断や延期がありはしたが、千数百年も行われてきたわけで、天皇の君主的象徴性を利用する権力者らの思惑はともかく、さまざまな建築・工芸技術と祭祀儀礼の伝統文化の伝承はわが国の貴重な文化遺産だ。

 万物に霊魂が宿るとする「古代神道」(八百万の神)の自然崇拝・信仰には、「神」が人間を造り、自然を与えたとする旧約聖書とは対照的に、人間も自然の一部で、生きとし生けるものが互いに関わりあって生かされているとする人間観があり、「日本書紀」に拠って天皇を神格化した復古神道(安倍首相をとりまく中に信奉者が少なからずいるようだ)は、古代神道から作為的逸脱をした思念と云わざるをえない。

(注)これを書いた2014年8月、ISIS(イラク・シリア・イスラム国)という過激派武装集団の侵攻がもたらしたイラク北部の危機的情勢が続く中、オバマ大統領は攻撃機や無人機による武装集団拠点の空爆を開始した。

シリア内戦への軍事介入をためらったオバマ大統領がなぜ踏み切ったのか。推論や憶測が飛び交っているが、ブッシュ政権とは対極的なオバマ大統領は、軍事介入よりも外交的解決に重きを置くことでEU諸国など国際社会の共感を得つつあったのに、アメリカの国内事情から再び、パンドラの箱を開けてしまったようだ。(ISISに関する「横道」記述は省略)

「出発するとしようか!」「ここでランチを食べたので、バイジの町に寄らずにバグダッドへ直行ですネ」

「バグダッド郊外までは一本道だから、ボクが運転しよう。アハラムたちに再会する楽しみで眠気がすっ飛んだよ」「バグダッドの市街地に入る手前で交代しましょう。ホテルに着いたらシャワーを浴びて、一休みしてください」

 3日ぶりでトヨペットクラウンのハンドルを握った私はエンジンをかけ、バグダッドめざして国道1号線を走り始めた。「昨日はサンドストームでたいへんだったけど、今日はよく晴れてよかった。ガレージでの点検・整備のお蔭で調子もいいね」「そうですね。さっき運転した感じではなにも問題ないようでした」

 荒れ地に定規で引いたような国道が真直ぐ伸びているのをフロントガラス越しに見つめながら、120キロで走る。「今夜のディスコクラブへのアハラムたちの招待は、先方にどう伝えたのかな」「アハラムのオヤジさんはとても感謝していました。モースルから帰ってきてお疲れだろうから、ホテルでゆっくり休まれてから、クラブでお会いできればとのことでした」「オヤジさんも来てくれるだろうね」「はい。アハラム・ジャミーラふたりのご招待で十分ですが、家とクラブの車の送迎は恐縮なので、自分の車に乗せて来るそうです」「それはよかった。キミも随分と疲れてるだろうから、バグダッドまで一眠りするといいよ」「ありがとうございます。ではそうさせてください」

 モースルで、クルドの老人、キリスト教会牧師、ガレージの若い主ら3人の知人に引き合わせてくれたユーセフは、さすがに疲れていたのだろう。助手席を少し倒して目を閉じて、5分も経たずに寝息が聞こえてきた。モースルでは思いがけない人たちといろいろな話ができたが、チグリス川の護岸工事の監督で滞在した折のユーセフの知人・友人との出会いでは、またとない体験をさせてもらった。

 助手席のユーセフはよく寝入っている。4日前にクウエートを発ってからずっと運転や案内で心身共に疲れが溜っているに違いない。

 クウエート着任後半月の仮住いしたガルフホテルとNTTコンサルタント事務所の送り迎えをしてくれたユーセフが、朝の食堂で出会ったアハラム嬢に強い関心を示した私を、どんな風にみていたのか。

アハラムをクウエートの金持ちたちを目当ての女性とばかり思い込んでいた私に、バグダッドでアハラムに再会するまで、彼女と家族のあらましを知っていながら私に告げなかったユーセフの気持ちがよく分からない。アハラムの従兄までもが、アハラムに再会したがってたのは私だと思ったようだが、もしかしてユーセフは、アハラムを結婚相手と考えていたのかも知れない。

ユーセフと私は、ネフェルティティのような美女アハラムに魅せられて、バグダッドへやって来た男2人というところなのか。オヤジさんは、お目付け役ではなく、運転手として彼女たちに同行するそうだから、余計なことは考えないでホームパーティーの返礼として、大いに接待するとしよう。

 晴天の下を順調に車を走らせ、バグダッド近くの路肩でユーセフと運転を交代してホテルに着いたのは、4時ちょっと前だ。7時にクラブでお会いすると電話で伝えるようユーセフに頼んでから室に入った私は、ベッドにバタンと大の字で倒れこんだ。

(90)ふと目覚めると、腕時計は5時を回っていた。モースルでの疲れがどっと出て大の字のままで寝入ったようだ。シャワーを浴び、ディスコ・クラブに出かけるカジュアル・スーツを鞄からとり出した。ホームパーティーの返礼招待にふさわしいクラブをアハラムの父親から聞き出したユーセフは、案外と機転の利くエンジニア。彼女の父(曽祖父が創業した建設会社の4代目社長)は官公庁発注の公共建築を受注していると聞いていたから、こんなクラブを営業的な社交の場として使っているのであろう。官庁工事の受注を巡る営業接待は古今東西、変わらないようだ。イギリス委任統治のイラク王国から共和制になって16年のバグダッドでも、建設業にかぎらず、各方面でイギリスの影響が色濃いと思われる。

 よそ行きのスーツ姿のユーセフが運転する車は、建物がひしめく市街地から少しはずれた閑静な地区にやって来た。クラブは、高いレンガ塀に囲まれた広い敷地の中央にあり、ゲートの脇に門番がいた。ユーセフが告げた予約をリストで確かめた門番は、「ヤッラ!(どうぞ)」と言って、遮断棒を上げた。

 バグダッドのクラブ建物もテヘランと同じような大きな平屋で、明るい照明のロビーに入るとレセプションとクロークのカウンターがある。レセプショニストに招待客を待つと告げ、ロビーのソファに座りこんだ。

「7時までに15分ほどあるけど、それにしても、こんなクラブへ中学生のジャミーラを連れてくるなんて、あのオヤジさんもなかなか進んでるネエ」

「老舗の建設会社の社長さんだから、イギリスなど外国に出かける機会が多いでしょう。世俗的スンニ派の家柄なのでシーア派の奥さんの敬虔な人柄とはかなり対照的ですね」

「アハラムは3人姉妹と言ってたけど、上の妹さんには会ってないよね」

「なんでも、高校生のその人はお母さんに似ていて、お父さん似のアハラムやジャミーラのように社交的ではなく人見知りするタチだそうです」

「ユーセフ。そろそろ見える頃だからポーチへ出て待っていてくれないか」彼が席を立ってほどなく、娘たちをエスコートしたオヤジ社長がにこやかなほほ笑みを顔一面にたたえ、私のソファに近づいてきた。「ヤアヤア! ごきげんいかがですか。ご招待に感謝します」「ようこそ! お嬢さんたちをお連れくださってありがとうございます。このクラブへはよくお出でになるのですか?」「いえ、大切な客人をお招きする時だけですよ」

 ジャミーラは、薄い生地の花柄のロングドレスで大人びて見え、アハラムは、ディスコダンス向きのミニスカートで細い美脚がきれいだった。レセプショニストの連絡で、ディスコ音楽が漏れていたドアからチーフウエイターらしいのが出てきて、「ご案内します」と先導した。20米四方ほどの広間の真ん中はダンスフロアで、それを囲んでテーブルが並び、奥の方に、ビュッフェスタイルの大きなテーブルと飲物サービスのコーナーが見えた。

 天井のミラーボールが輝いているほかは、客席毎の卓上ランプが白いテーブルクロスを照らしているだけで、他の客の顔が見えないような間接照明が、広間全体に落ち着いた雰囲気を醸している。

 4人が席に着くとすぐ、「モースルはいかがでしたか?」とオヤジさんが訊ねた。「お宅に招かれたとき、マリクさんからモースルについていろいろと聞いていましたが、ユーセフのお蔭でいろんな人たちと出会い、思いがけない話を聞くことができました」

「それはよかったです。古代から要衝の地であるモースルは古い街ですが、クルド族が多く住み、大量の石油が発見されたキルクークは、これから大きく発展する地域で、先進各国の資本が目をつけるでしょうし、建設工事の見込みはバグダッドよりも有望と思われます」

 ホームパーティーでは寡黙だった社長が、かなりのレベルの英語でしゃべるのに驚いたが、若い新聞記者の甥っ子のマリクに花を持たせたのだろうと気づき、アハラムもしゃべれるのだろうと思いながら、彼女に眼を向けた。「アハラムさんはここへ来たことはありますか」「ええ。高校を出てからですが、父がお客夫妻を招待するとき、母親の代わりに同伴しています」「妻は敬虔なシーア派の家族の出で、人様の前に出るのを遠慮しますので、アハラムが代わりを務めてくれて、助かっています」「日本では、仕事上の接待に妻を同伴することはほとんどありませんが、こちらでは欧米並みなのですね」そのまま話がつづきそうなので、ユーセフに、アハラムたちと料理を取りにいくように勧めた。

「官庁工事のコンサルタントのイギリス人技師で週末はクウエートに戻る人がいます。子供さんたちがアメリカンスクールに行っているからで、夫妻だけならバグダッドに住むのが普通です」「実は、テレコムセンター工事の工期がエジプトの国営建設会社の都合で長引きそうで、7月には、妻が2人の子供たちを連れてやってきます」「それはいいですね! 日本人のエンジニアは単身赴任の人たちがほとんどで、欧米人から、夫婦仲でもわるいのかと冷やかされていますよ」

「外国の建設会社が受注した工事の現地協力的な仕事もされているのですか?」「ええ、バース党政権の国家近代化政策で、石油収入を財源にした官庁発注の大型ターンキー工事(発電所、港湾・空港、テレビ放送局、電話局などの建設で、建物と収容する施設・機器類の全体工事を一括して完成・引き渡す契約方式)が増えてきました。キルクークだけでなく、バスラなどもこれから大いに発展する地域で、期待しているのですが・・・」「じゃあ、アハラムさんや妹さんたちにも、土木・建築の技術者のおムコさんを見つけなければなりませんね」「そうです。彼女らがその気になればですがね。そんなムコたちと一緒に仕事ができれば、会社の将来はおおいに安泰でしょう!」

 料理の皿を手にした3人が戻ってきた。まだ客の数はチラホラで、両隣の四人掛けの卓は空いている。

 フロアでは、3、4組の男女がディスコダンスを楽しんでいる。「今しばらくは社長と話しているから、キミたちはたくさん食べて、ディスコを楽しむといいよ」とユーセフに告げた。うれしそうな微笑みを返した娘らだが、ジャミーラがウインクを寄こしたのにはビックリ。

 ビュッフェ料理の大テーブルにはさまざまな料理が所せましと並べられている。

 アルコール飲料はテーブルでウエイターに注文するので何にするか社長に訊ねると、ワインを所望する由。モースルのワインもいけたが、ここは恰好をつけて、お薦めのワインをウエイターに訊ねた。間もなく、1本のボトルを抱えたチーフウエーターが、そそくさと席にやってきた。「最近は、フランス人のお客様も多くて、これは評判のボトルです」「ボクはワインに詳しくないから、キミを信じてそれに決めよう!」

 少量の赤ワインが注がれたグラスを振って、香りを嗅ぎ、口に含んで型通りのテイスティングをしてみせた。さすがにいい味だったが、勘定で、やや後悔悔したほど、〝良いお値段〟だった。

 ユーセフたちのテーブルに目をやると、彼らも大いにはしゃいでいる。如才なさではイギリス人をカミさんにしているイラク人同僚のアルベヤティに比べて晩生の感が否めないユーセフが、2人の若い娘を相手に顔を火照らしてしゃべくりまくっている。

お喋りだけでなく、アハラムとディスコ・ダンスを踊って仲よくしてくれるといいのだが。

 いつの間にか客の数も増えて、フロアの周りのテーブルで人影が動くのが目立つようになった。

 ディスコ音楽はテヘランで聴いた曲が多く、懐かしい『Those were the days』もあったが、ベイルートスタイルのアラブ音楽もかかったので、ジャミーラをフロアに誘った。

「サマーラの塔」へ行く途中の車の後部座席の上に膝で立ち、腰をくねらせて踊った彼女は、6、7組の男女が揺れ動くフロアの真ん中に出て、私とゴーゴーのモンキーダンスを始めた。ふと客席に目をやると、オヤジさんがユーセフたちのテーブルで私たちの踊りを見ている。ジャミーラは踊りが大好きらしく、キラキラした目で私を見つめ、両手と腰をうち振って踊りに興じている。向こう見ずな年頃の奔放な動きにロングドレスの花柄が大きく揺れて、少女の摩訶不思議な色気を発している。

(91前半)アップテンポの曲が響きわたるフロアの中央で、あどけなさの残る顔を上気させ、額に汗を浮かべて踊っているジャミーラは、やはり無邪気な少女だった。ディスコダンスは離れて向き合う2人が、それぞれに好き勝手なポーズで踊れるところが新鮮で、社交ダンスが古くさくさえ思えたものだ。初めてこのダンスを体験したのは、大阪万博の基本構想策定チームに在籍したときで、民間から招いたプロデューサーのT.A.氏に連れられて行った「赤坂ムゲン」だった。オープンして間もないこのディスコが会員制のころで、一流有名人(三島由紀夫、丹下健三、若手で小澤征爾、篠山紀信、三宅一生,横尾忠則、渡辺美佐、コシノジュンコ、加賀まりこさんらが会員だった。超モダンなインテリアと照明・音響システムはサイケデリックで、横尾忠則は日本を代表するサイケデリック・アーティストだった。フロアより高いステージでは超ミニの若い女性がゴーゴーを奔放に踊り、粋人田辺茂一氏(紀伊国屋書店社長)がステージに上がったとの伝説もあった。ゴーゴーのリズムには、どこかベリーダンスに通じる身ぶりもあり、ジャミーラの自在な動きは実にサマになっていて、周りのひとたちも、自由なスタイルでダンスを楽しんでいる。

添付画像
「ムゲン」で覚えた「ヒップ同士のごあいさつ」を頻発するカップルを、ジャミーラに目で知らせると、すぐにくるりと回転して、ゴムマリのような弾みをぶつけてきた。踊りのカンは抜群だ。3曲ほど踊り、テーブルへ戻ってすぐ、「ユーセフ! アハラムと踊らないのかい?」と訊ねると、「私にはあんな踊りはムリですよ」だった。このディスコでかかる音楽は、「ムゲン」のような激しいR&Bではなく、ベイルート風の抒情的なアラブ音楽が多い。ジャミーラと踊る前にかかった「Those were the days」(悲しき天使)はメリー・ホプキンスが唄い世界中で爆発的に流行した曲で、テヘランのディスコでもかかったし、イラン電気通信研究所の基本設計コンサルタントのカウンターパート・ハクザール博士(ドイツ留学、夫人はドイツ女性)がプライベイトに招待してくれたクラブで、グ・グーシュ(イランの美空ひばりと称された)の歌を聴いたのが初めてだった。

 メランコリックなメロディーが気に入り、帰国してすぐにレコードを買い、英語で唄えるようになっていた。それをアハラムにつげると、「バグダッドでも流行ってますよ。クウエートで招かれたホテルのダンスパーティでもかかっていました」「ところで、社長さんには3人お嬢さんがいられるそうですが、真ん中の方にはお宅でも、お目にかかりませんでしたね」「はい。あの子はこの2人と違って母親似のとても内気な性格で顔見知りするタチで、ご挨拶もできず失礼しました」     (続く)



2016/07/24 14:57 2016/07/24 14:57

アラブと私

イラク3千キロの旅(107)

             

62/ブログは84以下同じ)キャブレターのフィルター・クリーニングで、エンジンの調子はよさそう。サイドブレーキを緩めながら、「これからアッシリア帝国の最盛期の城壁都市ニネヴェに向かいます。センナケリブ王のニネヴェ遷都やバニパル王の広大な版図と栄華についてお話した(52参照)ので、都城ニネヴェの壮大なイメージはお持ちでしょう」「2千年ものアッシリア帝国の情景を、現地に立って妄想を逞しくするのが楽しみだナ」

 車は、昨日モースルに入ったときの大通りに出た。「モースルに着いてここを走ったとき、10年前の軍事政権内の叛乱鎮圧に、カセム首相による空爆で数千人の血が流れた道と聞いたが、モースルの少数民族のクルド・アシリア人の末裔は、数十年前までは大量殺戮の対象にされたんだね」「これから向かう遺跡のある地域はクルド人居住者が多く、こちら側のモースル市と近傍には圧倒的にスンナ派アラブ人が居住しています」「イラクの石油をめぐるスンナ派バース党政権とクルド族の間の紛争には、歴史・地勢的な背景がありそうだね」

 2つの地域を結ぶ橋を渡った私たちは、ニネヴェ遺跡の丘をめざして走った。歴史に刻まれた残忍さで版図を拡大し、何代もかけてニネヴェに城壁都市を拡大建設したアッシリア帝国の武人諸王は、他方で、古典に憧れ美を愛し、それらを子孫に伝えようとした。紀元前7世紀、これから訪れるクンジュクの丘にバニパル王が建設した図書館から発掘された遺物に、粘土板に書かれた王室の記録、年代記、神話、宗教文書、契約書、王室による許可書、法令、手紙、行政文書などが発見された。

図書館を設立しバニパル王は、バビロンの王を打ち破ってアッシリア帝国の最後から2番目の王位についたが、その帝国版図はかつてどの帝王も治めたことのない広大さを誇り、イラン高原から小アジアやナイルの谷にまで及んだという。「間もなく着く遺跡には、クンジュクとネビ・ユヌス2つの丘があります。この辺りには、紀元前7千年から人が居住を始めた古い土地で、バグダッド工科大学の古代史の講義では、新石器時代の痕跡があると学びました」「メソポタミア文明はチグリス・ユーフラテス両河に囲まれた三日月地帯に栄えたとされるけど、ここ北の大地の方がずっと古いんだね」

 行く手の小高い丘にイスラム教寺院のミナレットが見えてきた。「あれがネビ・ユヌスの丘です。尖塔は、『ヨナ書』の預言者ヨナの墳墓に建てられ石造の美しいモスクで、城壁で囲まれています」「その北にある丘がクンジュクなの?」「あそこが、アッシリアの王城跡で、南西に、最初に帝都を建設した王のセンナケリブ宮殿、北に、アッシュール・バニパル宮殿があったのです」

ユーセフの説明では、「並び立つものなき巨大な宮殿」と王が呼んだセンナケブリ宮殿の建設に9年を要し、庭園に水を引く何マイルもの運河をつくり、アルキメデスの回転翼で宮廷内に水を引きこんだという。これはまるで、バビロンの空中庭園のようだ。「バビロン」は、紀元前6百年代の新バビロニア王国の首都で、ネブカドネザル2世大王の最盛期の繁栄のなかで建設された由来を(19)の末尾で記述。 

ユーセフが車をとめたのは二つの丘のパノラマをかなり近くに展望する広い荒野の堤だった。所どころ草木が生えているだけで、淡い褐色のひろがりの野原を延々と囲んでいる堤が城壁跡という。「チーフ。ニネヴェは、ごらんのような荒野と小高い丘の連なりの遺跡です。バグダッドで仕事している工科大学時代の友人の話では、バース党政権は伝統的な文化の継承や遺跡の調査・復旧に力をいれるそうですから、10年もすれば、クンジュクの丘の王城跡に、門、城壁、宮殿、図書館、ひょっとして空中庭園などが再現するかもしれません。ここからはひたすら車を走らせますので、ランドスケープをアタマに刻んで、最盛期のニネヴェを想像しながらバグダッドへ戻りましょう」「OK。崩れた日干し煉瓦の堆積を見てガッカリするよりその方がいいと思うよ。ところで、モースルにいたキミはこの遺跡を訪れたことはあるのかい」「ナビ・ユニスには、モースルで仕事をしたころの巡礼月の祭日に訪れました。日当たりのいい丘の斜面に腰かけ、遠くまで広がる荒野、眼下のチグリス、川向うのモースルの街など眺めていると、周りに多勢の人が家族づれでやってきました。つつましく見える女性の黒いアバイヤ(外衣)が風にあおられ、朱や金色の装飾がのぞいた艶やかさにドキッとしたのを憶えています」

モスレムの聖地ナビ・ユニスにはたくさんの墓があるから、巡礼月の祭日は、日本のお盆やお彼岸のように家族で墓参りをするのかと想像した。

 二つの丘のパノラマを眺めて妄想にふけった私が、「そろそろ出発しましょうか」とユーセフに促され、ふと見下ろした堤の先に、アネモネの一群が咲いていた。

63/85)ユーセフ。あそこにアネモネが咲いてるよ。アハラムへのニネヴェの土産に摘み採りたいけど、バグダッドまで保つだろうか」「チーフ。摘むのはよしたほうがいいです。萎れるだけでなく、この花にはアッシリア王の娘スミュルナにまつわるコワイ伝説があって、アハラムも知ってるかもしれませんからネ」「そんな伝説があるなんて! 摘むのはよすから、バグダッドへの車の中でそれを聞かせてくれないか」

 ニネヴェの遺跡を見はるかす堤に咲くアネモネにどんな伝説があるのか。クンジュクとネビ・ユヌスの丘を見納めて、トヨペットクラウンの助手席に座った。「じゃ出発しますよ」「エンジンの調子はよさそうだから3時過ぎにはバグダッドへ着けそうだね」「途中の町でトイレ休憩をしながらでも大丈夫です」

道中、ユーセフとしゃべる時間はいっぱいあるが、アハラム父娘を市内の有名クラブへ招待してあるので、昨晩の睡眠不足をカバーする居眠りもしておきたい。ユーセフが語りはじめた興味深い伝説の概略は以下である。

 アッシリア王の家系は代々、愛と美の女神アプロディーテを信仰していたが、王女スミュルナが女神の祭祀を怠り、激怒したアプロディーテは、王女が実の父親に恋するように呪いをかけた。實父を愛し、思い悩んだ王女は、乳母に気持ちを打ち明け、彼女の手引きで一夜を共にしたが、明かりの下でわが娘と知った王は怒り、殺そうと追いかけた。王女は逃げのび、彼女を哀れに思った神が没薬(スミュルナ)の木に変えた。その幹の中で育まれて生まれ落ちたのがアドーニスという。アプロディーテはアドーニスの美しさに惹かれ、自分の庇護下においたが、アドーニスは狩猟の最中に野猪の牙にかかって死ぬ。女神は嘆き悲しみ、自らの血を彼が倒れた大地に注ぎ、芽生えたのがアネモネだという。

 アッシリア帝国全盛期のニネヴェの遺跡を立ち去ろうとして、たまたま見つけたアネモネに、こんな伝説があるとは全くのオドロキだった。「アッシリア遺跡の地にそんな伝説の花を見たのはよい思い出になるけど、土木エンジニアのキミがいろんなことを知っているのには感心するよ」「そう云ってくださるのはうれしいです。少年のころからギリシャ神話や国の歴史に関わる説話を読むのが好きでしたから」

 クンジュクの丘にバニパル王が建てた図書館へ津々浦々から集められた粘土板文書に、ホメイロスの2大傑作もあり、アッシリアの王女とアネモネの花との関係がユーセフの語った説話としてこの地に伝った可能性もあるのではないか。

 ギリシャ神話のアプロディーテは、オリンポス12神の1柱。美において誇り高い最高の美神とされるが、元来は、古代オリエントは小アジアの豊穣の植物神・植物を司る精霊・地母神とみられ、生殖と豊穣を司る春の女神でもあった。バニパル王が図書館に集めさせた大量の粘土板のギリシャ神話を読み、アラビアへまで逃げてきたフェニキア王家の王女の顛末を、アッシリア王家の物語に書き換えさせたのではないか。

 アドーニスの名はアラブ民族のセム語が起源で、フェニキア神話の植物の神という。旧約聖書のアドナイと関係があるとされ、美少年の代名詞としても使われていて、ヘシオドス『神統記』のアプロディーテはクロノスが切り落としたウーラノスの男性器にまとわりついた泡(アプロス)から生まれたとされ、西風が彼女に魅せられて運んだキプロス島に上陸した時、アプロディーテから美と愛が生まれたとある。美と愛は、エロスと深いかかわりがあることを物語るすばらしい神話。

 ニネヴェ遺跡でアネモネを見つけ、イラクの説話にギリシャ神話が関わっているのをユーセフに教えてもらえたのも、アネモネの花の季節だからこそだ。

「メソポタミアの古代史には、互いに興亡を重ねたペルシャやギリシャ・ローマの文明がおおいに影響していると思いますね」「そうした歴史があったから、中世イスラムが、ギリシャ・ローマの文明をヨーロッパへ伝達して、人間社会の近代文明が今にあるという立派な役割を果せたのさ」「クリスチャンの私でも、そのことに誇りをもちます」「世界の国々に興亡の歴史があるけど、ユーラシア大陸の東端の島国の日本では、建国以来、外からの侵略もなく、中国・朝鮮半島を経て到来した異国文化を自国風土と伝統文化で咀嚼し、日本独自のものを構築してきたわけで、インドやペルシャ、ギリシャ・ローマの文化的恩恵を受けたことに感謝してるんだ」

 モースル市街から遺跡に向かうとき通った橋に戻り、バグダッドへの幹線道路をひた走る車は、気合いの入ったエンジン音を響かせている。「もうすこし話をしてから居眠りさせてもらいたいので、運転の方を頼むよ」「昨夜はよく眠りましたから、いつでも後ろの席で横になってください」「ありがとう。だけど居眠りはこの助手席でいいよ」

 膝下の床に置いたカセットデッキのスイッチを入れると、後ろの窓に並ぶ二つのポータブル・スピーカーからイラクのアラブ音楽が流れ出た。「1時間ちょっと走るとアッシュール遺跡ですが、モースルへ来るときは眠られていたので、その辺の風景はご覧になっていません。そこまでは話をしていませんか?」「うん、そうしよう。クルドの老人の横穴住居に祀られたドラゴンを見たとき、日本古代の神話の記録(古事記)と楔形文字に書かれたシュメルの洪水神話がそっくりと云った、あの話のつづきをしたいんだ」(41参照)省略。

64)「シュメル神話の最大の特徴が『天地創造神話』で、その神々が、「天空神」ほか数百もいるとは、日本の『八百万の神々』に通じるね」「その八百万の神々について話してくださいませんか」

エンジンの調子が戻ったトヨペットクラウンを飛ばす真剣なユーセフ横顔を見て、日本の宗教の原点の「神道」について、知っているかぎりを伝えたくなった。「前にも話したけど、日本の神話の神々も、中東・オリエントの多神教的な神々のように、人間と同じ姿をした「人格神」がたくさんいるんだ。それらは人々に恩恵を与える守護神だけど、祟る一面もあってとても畏れられたんだ」「アネモネ伝説の女神アプロディーテと同じですね」「日本の宗教の原点とされる「神道」の神々は自然物や自然現象を畏れて神格化したものだよ。古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動植物や火、雨、風、雷の中に、神々しい何かを感じとったのさ」「人類の宗教心の始りはみんな同じですねえ。洞窟で戦々恐々と暮らした原始人が、言葉をもつ前から自然の脅威と恵みに対して感じたのが超越的な存在としての《神》です」

「そうだね。初めは一人の人間か、せいぜい家族にとっての神々だったが、群れや集落にとっての守護神になり、しだいに、強力な権力者の守護神になっていった」「自然は人間に恩恵をもたらし、時には危害を及ぼすので、これを、古代人は神々しい何かの怒り(祟り」と感じて、怒りを鎮め、恵みを与えられるように祈り、崇敬するようになったのが、《神》と呼ばれるものですね」「四大文明の『メソポタミア文明』のシュメルの神々が中東・オリエントの最初の《神》で、やがて後代、ヘブライ人(ユダヤ・イスラエル人)の神・ヤハゥエを生み、さらには、キリスト教のイエス、イスラムのアッラーが生じ、どれも根っこは一つなんだね」「シュメルの自然神が唯一無二の《神》になっていく過程には、文明の発達と共《神》を守護神とした絶大な王権力もありましたね」「そして、旧約聖書の『天地創造』で、万物創造主・主宰者としての『全能の神』が出現した」「日本の『神道』の神々は、万物の創造主としての存在にならなかったのですか」「日本の民間信仰では、中国から渡来した仏教の仏と、自然を崇拝・信仰する原始宗教的な八百万の神々を一緒に祀ることが、明治の初めまでつづいていたんだよ」

 少年のユーセフがメソポタミア・ギリシャ神話に親しんだように、「古事記」を読んでいた私は、八百万の神々を身近に感じていても、歴代の天皇が人間ではなく『現人神』(生きた神様)とは、子供心にも信じられなかった。ユーセフの熱心な問いに応えていると、戦争中に喧伝された、「神国日本」「現人神・天皇」「撃ちてしやまん鬼畜米英」等のプロパガンダが思い出された。「日本が第2次世界大戦で欧米列強(キリスト教国)と戦ったとき、1億の国民は、現人神の天皇統治の『神国日本』は絶対に敗けないと耳にタコができるほど吹きこまれたんだよ」「「日本の古代国家では仏教が国教だったのではないですか?」「国家安全の守護のために国分寺を各地に建てた奈良時代から、日本古来の神々と外来の仏教とを結びつけた『神仏習合』という信仰があったんだ」「それなのになぜ、神道を国教にする動きが生まれたのですか?」「徳川幕府の長い鎖国から目覚める契機となった、西洋列強からの開国要求がきっかけだった。〝開国〟か〝攘夷〟かで、国論が2分した明治維新前後の風雲急を告げる機運の中の攘夷派は、儒教・仏教の影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想を抱き、平田篤胤の復古神道を、欧米列強に拮抗する頼りにしたんだ」「復古神道では、天皇をキリストのような神の子としているのですか?」

 次々に問いかけるユーセフの好奇心に、戦争中の「現人神」の胡散臭さに辟易していた私もたじたじだった。「クリスチャンの私は、キリストを神だとは信じていませんが、戦争中の日本の人たちは天皇を神と信じていたのですか?」「微妙だね。優れた近代科学技術・社会制度をもつ欧米のキリスト信者が、ローマ帝国の権力に殺されたキリストを神の子と信じたのと同じような人たちもいたが、『天皇機関説』の学者と同じ考えの人も少なくなかったんだ」「天皇は、自分を『現人神』と思っていたのでしょうか?」「さあね。無謀な戦争の敗戦を迎えた時、天皇から藪から棒に、『朕は人間である』と告げられた国民は、ビックリ仰天したんだ」

 一息つこうと、疾走する車の左右を見わたしている私にユーセフが告げた。

「昼までに小さな町バイに着きますから、トイレ休憩をしてなにか食べましょう。そこからアハラムが待つバグダッドへはノン・ストップですよ!」

65)は、「天皇機関説」と敗戦時の「鈴木内閣」(鈴木貫太郎首相は、『エコノミック・ヒットマン』を届けてくれた鈴木重信氏の母方)」について長い「横道」の記述。(省略)

66前半)バグダッドへ向かう車中では、ユーセフの先祖・セム族(アラブ起源)が征服したシュメル人の「天地創造神話」の神々が、「ヤハゥエ」「キリスト」「アッラー」など同根の「唯一神」に変遷した話となり、ユーセフが訊ねた日本の「天地創造神話」については、「古事記」の国生み神話がシュメル神話や東南アジアの同種の神話に類似していると話したが、天皇をキリストのような「神」と信じていたのかときかれたのを思い出し、少年時代に体験した天皇(「現人神」)の写真を拝まされた苦い想いが蘇り、ユーセフとの会話から脱線し、天皇機関説事件や昭和天皇の信任が厚かった鈴木貫太郎のことにまで、つい筆が走ってしまった。

 それは本誌に2度も書いた「安倍政権の行方」のイヤな気分の延長でもあった。明治維新で近代国家の道を歩きはじめた日本は、古代社会の権力構造の頂点に天皇を据えた「日本書紀」から千数百年を経た明治憲法の第1条で、「万世1系の天皇が大日本帝国を統治する」とし、天皇家の永続性を統治者としての正統性に結びつけ、「国体」と称したのである。

 安倍首相自身がまさか、昭和軍国主義を牽引した連中が天皇を「現人神」と祭りあげて、その権威を利用し、国民を無謀な総力戦に巻き込んだ二の舞を演じるつもりとは思いたくないが、妙な取り巻きの言動や自民党の憲法改正案に天皇主権もどきの時代錯誤もはなはだしい考えがあると仄聞すると、居ても立ってもいられない。

昭和天皇の意に反して天皇独裁国家を演出した者らと、北朝鮮の金王朝独裁を支えている者らは似た者同士ではないか。

 太平洋戦争の戦況が不利になると、「神国日本」には「神風」が吹いて鬼畜米英に勝つなどとの奇天烈な呪文が唱えられたが、安倍首相のお友達とされるNHK経営委員(女性)の言動に通じるものがある。

 中国の強硬な海洋進出がもたらす緊張関係に拮抗するかのように、集団的自衛権・武器輸出緩和・無人機配備などを矢つぎばやにうち出す安倍政権だが、世界第2の経済大国になったばかりの中国は、国内にさまざまな矛盾を抱えたままに「中2病」の様相を呈しているわけで、日本だけがむやみに居丈高になって、燃えあがる緊張関係に油を注がなくても、ASEAN・欧米諸国の反発や批難を受けて強硬路線を変えざるをえないのではないか。

 中国政府が主導する反日運動が、国内問題への国民の関心を逸らす狙いがあるのは否めないが、東京都知事の尖閣諸島買い上げ発言から国有化に及んだ尖閣問題に加え、沖縄の米国基地へ強硬配備されたオスプレイが中国大陸まで航続距離を有すること、それを搭載できる空母の建造・配備等、日本が中国をむやみに刺激している事実がある。

 集団的自衛権の行使範囲を無限定にする動きは、かつてアジア進出の欧米列強への対抗を理由に大陸に侵攻した関東軍や自由と民主主義を「錦の御旗」に他国への武力介入をしてきた米国の二の舞になりはしないか。

「ユーセフ。シュメル神話と古事記の話が天皇家の由来の話にまでなったが、キリストを『「現人神』と信じないクリスチャンのキミに、天皇をキリストのような《神》と信じた昭和の日本人をとうてい理解できないだろうね」「ええ。進化論を知り、人間が月の石を持ち帰った今では、神話の世界と現実をごちゃまぜにするわけにはいきませんよ」「ムハンマドが、キリスト像の偶像崇拝を排したのは、さすがだよ」

「多神教のシュメル人の神々が1神教のヤハゥエ・キリスト・アッラーへと進化したのでしょう」「西洋近代の科学技術を学んだキミは、イスラム教のバース党政権と宗教排斥の社会主義のソ連がどんな技術協力関係を結ぶのか気にならないか」「ホテルで昨晩、チーフが話してくださったことを考えると、ソ連も米国もイラクの石油がほしいだけかもしれません。バース党とソ連が同じ社会主義政権でも油断できない気持ちです」「そこまで言うこともないだろうけど」「大阪万国博のお話では、ソ連より米国への関心が圧倒的だったようですし。機会が与えられればアメリカの方を訪れたいですね」「クウエートのプロジェクトが終わったら、それをめざしてみるといいかもね」「でもそれは見果てぬ夢でしょう。クウエートで一緒に住んでいる姉にいつまでも家事の世話をしてもらうわけにいきませんから、ワイフを見つけるのが先ですね」「アハラムなんか、とてもいいんじゃない?」

 120キロで飛ばしている真剣な横顔をチラと見て、ユーセフの反応を待った。「ワルクないですね。スリムな美人だし、父親は建設会社の主ですからね。でも、アハラムはなかなかのしっかり者ですから、私なぞ眼中にないでしょうよ」「当たって砕けろというから、父親と一緒に招待している今晩のクラブで当たってみたら?」

 少しでも早くバグダッドへ着きたい気分になってきた。「アッシュール遺跡が見える辺りまで眠らないつもりだったけど、もう眠るから、バイジの町が近くなったら起こしてくれないか。このまま運転してもらっていいのかな」

「大丈夫ですから、今晩のためにもよく眠っておいてください」

 目をつむる前に辺りを見回すと、人家や畑などはなく、茫漠とした砂漠の広がりの彼方に丘陵が連なっているだけだった。        

                                  (続く)



添付画像

2016/06/19 02:40 2016/06/19 02:40

アラブと私

イラク3千キロの旅(106)

              

(79)ガレージにいとまを告げようとした時にハッサンの要請で始めた大阪万博の話のあらましを記述。

《人類の進歩と調和》がテーマの「日本万国博覧会」は、高度経済成長を遂げてアメリカに次ぐ経済大国になった象徴的なイベントとして、東京オリンピックのような国家プロジェクトだった。

多くの企業・研究者・建築家・芸術家らが、パビリオン建設、映像・音響などのイベント・展示物制作に起用され、京大の恩師西山卯三教授と東大の丹下健三教授が万博会場の総合設計者に選ばれた。丹下健三チームには西山先生のゼミで筆者と一緒だった黒川紀章(東大大学院・丹下研究室出身)、菊竹請訓などの若手建築家がおり、西山先生から、筆者がNTTから出向して西山チームに参加してくれないかとの打診があった。恩師からの出向のお誘いは許可されず、思いがけず、NTTパビリオンの建築チーム編成をするよう指示され、「基本構想会議」のメンバーになった。

外部招聘メンバーには、現在も各界で活躍している錚々たる顔ぶれが集められ、いまふり返ってもゾクゾクする。

総合プロジューサーは京都未生流家元の浅野翼氏。NHK・和田勉、TBS・萩元晴彦と今野勉(のちテレビマンユニオン設立)、映画監督・恩地日出男、詩人・谷川俊太郎、画家・横尾忠則、音楽家・武満徹らが居並んだ会議は、当時の売れっ子たちが出揃う夜中に催され、熱い討論が繰り広げられた。

「基本構想会議」は外部メンバーの提案・意見を聞くのが目的だったが、席上、若気の至りで言いたい放題の発言をして公社幹部の逆鱗に触れた筆者は更迭されて、横須賀電気通信研究所設計チームに鞍替えさせられ、職場の仕事との出会いには、人生と同じ運命的な一面があることを痛感した。

 研究所の設計が終わった途端、イラン国電気通信研究所の建築基本計画技術指導の海外出張命令を受けた。クウエート国電気通信コンサルタント事務所の現地建築チームの責任者任命の辞令が出たのは、その翌年のことだった。(省略)

「日本のことを知りたかったのでお訊ねした世界万博のことから原子力のことまでも話してくださり、ほんとうに勉強になりました」

(80)ガレージの店先のテーブルに座ってから2時間余りが経っていた。「つい長居をしてしまいました。お仕事の邪魔になったのではないですか」「とんでもない! こちらこそいろいろと教えていただきありがとうございました」

 ガレージ奥の居住部分に引こんだ彼は、しばらくして、一本のワインを抱えてきた。「モースルのワインです。教会で出されたのと同じ自家製です。この辺りでは良いブドウが採れてうまいワインが出来るのです。ユーセフと今夜の宿で飲んでみてください」

「イラクの未来は、あなたたち若い技術者のものですよ。長いオスマン帝国やイギリスの支配からやっと抜け出したお国の近代化がうまく行くように祈っています!」「戦争で敗れた日本の復興にガンバッテこられたバッシュモハンデス・マツモトにたいへん刺激を受けました。イラクの石油と日本の家電製品や車などで交易が盛んになることを願っています」

 ユーセフが予約していた宿は、ベッドと小机だけの小さな部屋が並ぶ廊下に、共用のトイレ・シャワーが2ケ所ある。部屋に入るなり、からだをベッドに投げ出して横になった。大の字になってユーセフが出合せてくれた人たちの風貌と人柄をなぞって、その背景にある風土と歴史に思いを馳せた。

 古代初期アッシリアの砦の町だったモースルは、ニネヴェに首都を築いたアッシリア帝国滅亡(紀元前609年)の後、シリアとアナトリアを結ぶ幹線道路のチグリス川渡河点として栄えて、重要交易拠点としてペルシャ・アラブ・モンゴル・オスマン諸帝国が去来する要衡の地となった。

 ペルシャのササン朝を滅ぼしたアラブ人たちのムスリム史上初の世襲ウマイヤ王朝の首都として、繁栄の絶頂期を迎えたモースル。

 古代から数千年に及ぶ諸王国の興亡のなかで、この地には数えきれないほどの人間の血が流れ、アッシリア東方教会信者の末裔の牧師やハッサンには、先祖の悲惨な運命もあった。

 モースルは、第1次世界大戦の戦後処理でオスマン帝国が解体された1921年まではトルコの1行政州。イラク自体が、バグダッド・バスラ・モースルの3行政州を、イギリスが統合して作った新しい国である。

 行政州と云っても帝国の威令が及んだのは一部の都市部だけで、地方では有力な部族が跋扈して、諸侯乱立の状態だった。住民の大半がイスラム教徒だが、ジャズィーラ(島)と呼称されたバグダッドやモースルのスンニ派社会がシリアに抜ける交易圏だったのに対し、バグダッド以南のメソポタミアと呼ばれた地域のナジャフ、カルバラーはシーア派社会の聖地として、イランやインドからの巡礼や留学の往来で一つの経済圏を成していた。

 数千年にわたって色々な民族・文化が往来し、興亡を重ねてきたモースルで、ムスリムではない2人のクリスチャンとクルドの民族宗教ヤズィーデー信者の老人との出会いに感謝したとき、ドアにノックの音がした。「少しは眠られましたか?」

「いやネ。シャワーを浴びたら案外と疲れがとれて、キミが会わせてくれた人たちのことを考えていたんだ」「チーフはやっぱり建築家ですね。教会の牧師やハッサンとの話の幅広さに示された好奇心や知識欲には、並々ならぬものを感じましたよ」

「じゃ、ハッサンにもらったワインを飲みながら、夕飯にしよう。道中で食べるようにとアハラムが持たせてくれたクレーチャが昼飯がわりだったので、腹が空いているだろう」

 ベッドカバーの上に向き合って胡坐をかいて、ホテルの近くの店で買ったシシカバブーとホベツの包を開いて、倹約ひとすじの旅の夕食を始める。

「出会ったばかりのハッサンといろんな話ができてよかったね。教会の牧師さんもだけど、日本の若者との時局談義と変わらない感じだった」「大学出のインテリたちですから、バース党政権のイラクがどうなるのかを真剣に考えているのでしょう」「よく知らないボクに警戒心を抱かず、フランクな応対をしてくれたのは、とにかくキミのお蔭さ」「チーフが一所懸命にアラブのことを考えているのが、彼らに伝わったからですよ」「そういえば、この旅にご一緒するまでのチーフと、こんな話をしたことはなかったですね。差支えなかったら、ソ連の社会主義をどうみておられるか、聞かせてくださいませんか。日本の敗戦前後にソ連軍が唐突に参戦したので、イヤな感じをもたれていると仰っていましたので」

「中国大陸にいて捕虜になった日本兵を60万人もシベリヤに抑留して、厳寒の地の過酷な強制労働で1割もの死者が出た残酷さがね」「国際条約では、捕虜を強制労働に使役するのは禁止されているのではないですか」「そうだけど、日本軍もやっていたようだから、なんとも言えないところもあるんだ」

(81)「ソ連に対するボクらの国民感情には複雑なものがあるんだよ」「どういうことですか?」

「明治維新以後の富国強兵政策の果ての日露戦争で勝った日本の国家統治者と、ロシアの芸術文化に魅了されていた知識人の間には大きな感情の隔たりがあったんだ」「オスマン帝国の支配下にあったイラクで、極東に日本という国があるのを知ったのは、強大なロシア帝国との戦争に勝ったときと言ってもいいくらいですが、国民にはいろいろな想いがあったのですね」

 クレーチャを頬張ったユーセフは、ペプシで流し込みながら、私の話をうながした。

「日露戦争の戦勝国日本は世界の人々に、欧米列強に伍した1等国と認められたけど、調子づいた軍部が政治権力を握って軍国主義への道を突っ走った挙句の敗戦だった」「日本がポツダム宣言を受託し無条件降伏した8月15日以降も、関東軍の指揮下の部隊は、激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたため、マッカーサーの戦闘停止命令は、8月19日のソ連軍の本格的停戦と日本軍の武装解除まで実行されず、ソ連軍の作戦は、9月2日の日本との降伏文書調印も無視して続けられて、満州、朝鮮半島北部、南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を支配下に置いた9月5日になって、ようやく終了したんだ」「日露戦争に負けたことへの報復でしょうか?」「ロシア民族の南下政策はロシア皇帝を倒した革命後のスターリンにも引き継がれたのかも」「ルーズベルトがソ連参戦の条件として千島列島と樺太をソ連領として容認するとモロトフ外相に伝えていたそうだから、ソ連はアメリカの足元をみていたんだろう。関東軍兵士らのシベリア抑留の強引なやり口も、そうした状況で行われたのだと思う」

「皇帝の支配下で搾取・抑圧された人民を解放した共産主義政権らしくないやり方ですね」「ソ連共産党の指導者スターリンは、ヒットラーのナチスドイツと苦しい戦いをして勝ち抜いたが、政敵や不穏な同胞の粛清(シベリアの強制労働・大量虐殺)をやった恐ろしい一面をもつ人物でもあったんだ」「軍国主義時代の日本では、共産主義的な思想は弾圧されたのでしょうね」「共産党は非合法化されたので、党員やシンパは地下にもぐって活動したんだ。ソ連へ密入国したり、官憲の監視をかいくぐって中国の革命家らを支援したり・・・」

「ミスター・マツモトは、資本主義・社会主義両陣営の東西冷戦をどうみているのですか?」

「思想的に先鋭な学生も少なくなかった京大生のころ、マルクスの『資本論』や毛沢東の『矛盾論』などは読んだけど、学生運動には参加せず、ノンポリ的な学生だった」「それらの本から学ばれたことはなんですか」「多感な若者の一人として、人類社会を二分している資本主義と社会主義の光と影について知り、さまざまな社会矛盾や人間疎外にどう立ち向かうかを学ぼうと・・・」

 ユーセフはグラスを手にしたまま、訊ねた。

「マルクスから学ばれたことをかいつまんで話してくださいませんか」「ボクが高校・大学生だったころの日本は、東西冷戦下での朝鮮戦争勃発後、軍事特需の工業生産活況が戦後経済復興の口火となり、サンフランシスコ対日講和条約・安全保障条約の調印で、資本主義の西側陣営に組み込まれたんだが、同時に、マルクスが『資本論』で説いた矛盾や疎外が生じる資本主義的社会を変革する社会主義への関心が高まったんだ」「イラクの社会主義・バース党政権はイギリスに支配されてきた石油資源を国家の近代化のために開発・活用しようとして、親ソ的な外交路線をとっていますが、ソ連のような社会主義国に、帝国主義的な支配のおそれはないのでしょうか」

「それはなんともいえないね。東西冷戦の下で、スターリンのソ連が世界の共産主義化をめざしたのは、自由市場経済よりも国家計画経済の方が人類社会により繁栄と平和をもたらすという思想に基づいているというが、どこかおっかないような気もしている。2年前にモスクワで開かれた「世界共産党会議には、日本、中国、北朝鮮、北ベトナムの共産党は欠席しているよ」「それは、ソ連が、エンゲルスとマルクスが想い描いた国家社会像と違う方向へ向かっているとみているからでしょうか」「スターリンの圧政的な権力統治とロシア帝国時代の覇権主義と南下政策に懸念を抱いたのかもしれないね」

「社会主義国の動静で、共産党独裁政権の中国で5年前(1966年)に始まった《プロレタリア文化大革命》では、封建的文化、資本主義文化を批判して、新しく社会主義文化を創生するとして、政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動がおこなわれていて、当初は、思い切った自浄作用の実践だと感心したものの、紅衛兵という少年少女による全国的な粛清運動で党権力者や知識人だけでなく、一般人民に多数の犠牲者が出たり、儒教・仏教など伝統文化の破壊と経済活動の長期停滞が生じているらしい」「欧米の自由主義陣営では、社会主義大国のこうした状況をみて、資本主義の勝利として喧伝しているようですが・・・」

「資本主義的社会の高度経済成長が進行中の日本でも、昨年(1970年)の「70安保闘争」の挫折と共に、社会変革への関心が急速に弱まったと感じているよ」「ミスター・マツモトは社会主義ではダメだと感じていられるのでしょうか?」

ユーセフの目が鋭くなった。

「そうでもないよ。戦争中、官憲の監視の目をくぐって社会主義思想の文献を熱心に読んだ若者や知識人のなかに、弾圧で転向したり、戦後、企業経営者として日本の復興に活躍した人物は少なくないけど、社会人になっても是々非々的ノンポリで通してきたボクは、学生時代に受けたマルクスの社会思想の骨子だけは持ちつづけているんだ」

「マルクスが『資本論』で予見した資本主義社会の行方は、まだ正しいと思われているのですね」

 こころなしか、ユーセフの顔が和んで見えた。

「少なくとも、スターリンのソ連や文化大革命の中国は、マルクスの思想に忠実ではなかったと言えるのではないだろうか」

 ユーセフの熱心な質問に答えながら、いつの間にか、大学生時代の仲間との論争や万博基本構想の策定の場での論議にも出た『資本論』をめぐる熱い想いがよみがえってきた。(省略)

(82)私のベッドの上に広げていたクレーチャの箱とコップを手にしたユーセフが、自分の部屋へ戻っていったあとで、すぐ眠りにつこうとしたが、アタマが冴えていてなかなか寝つけない。

 教会の牧師やガレージの主と話したことのなかで、言い足りなかったことや言い過ぎたことが気になりはじめたのだ。いちばん気になってきたのは、CIAの影だ。

 イギリス支配のイラク石油会社が収奪してきた石油資源を国有化によりイラク国民の手に取り戻すバース党政権の動きが高まっていると聞くと、20年前のアングロイラニアン石油(BPの前身)国有化の騒動とCIAの暗躍が思い出される。

1951年、イラン議会で石油国有化法案が可決されてモサディクが首相に就任したが、2年後、CIAが動いて、パーレビ国王によるモサディク解任と米国が主導したイラン石油協定成立と国際合弁会社の設立があいついだ。

 モサディクが自国の石油をイギリスから取り戻す国有化に成功したとき、日本人出光佐三が率いる小さな石油会社は、BPの妨害をものともせず、イラン石油の買い取りに奔走・成功して気を吐いた。イラクのモースルにCIAの影がちらつくのは、バース党社会主義政権に肩入れしながらイラクの石油を狙うソ連の南下政策をけん制する米国の動きの一つだろうか。

 イラクの隣国クウエートの電気通信技術コンサルタント事務所の建築班チーフが関わる問題ではない。私的な旅での言動がCIAの耳目にとらえられるのは、絶対に避けなければならない。

 1969年春に2ケ月ほど滞在したテヘランで、パーレビ国王の背後でCIAが策動していると、滞在年数の長い日本人から告げられたことは既に書いた。 

国際万博を開催するまでになった高度経済成長を持続するために中東石油を確保しなければならない日本のアラブ外交戦略はどうなっているのか。

クウエートへ着任して間もない日本人会の会合で、アラビア石油の山下太郎なるすごい人物の話や、傑物出光佐三がイラン石油を国有化した愛国者モサディクと肝胆相照らし、イラン石油を収奪してきたBPの向こうを張って、輸入契約に漕ぎつけた武勇伝を聞いた内容を横道で記述。(省略)

 サイドデスクの時計をのぞくと10時だった。

 ガレージと宿へ帰ってからの話で、工科大学卒の若者のハッサンとユーセフが自国イラクの近代化に熱い想いを寄せていると知った私は、彼らの民族意識と愛国心にいたく共感していた。

 イラク・バース党についてはなにも知らないが、ナセルが牽引したアラブナショナリズムやシリアのバース党とは一線を画す政治・経済路線を歩んでいるように感じた。

 近代的なイラクの国家建設を担うユーセフたちエンジニアの関心は、東西冷戦下の資本主義陣営の欧米諸国と社会主義陣営ソ連の科学技術・文化芸術・生活の豊かさの比較にあると思われる。

 イランの国有化がアメリカCIAの暗躍と国王の裏切りで転覆し、国民から信頼されていた首相の更迭・失脚の果てに、石油メジャーによる支配に逆戻りしたことを、ユーセフらエンジニアたちやマリクのような言論人たちは、よく知っているにちがいない。

 世界3大文明の一つメソポタミアの地に、念願の旅をしている建築家としては、イラクの現実的な問題にやや深入りしすぎているようだ。

 残る2日の「イラクの旅」は、ニネヴェ遺跡とバグダッド博物館の見学に集中するとしよう。

 今夜の夢に、ニネヴェが繁栄した往時の壮大な都市の姿とアハラムが出てくるといいのだが・・・。

 

                                                                    (続く)


添付画像

2016/05/04 23:43 2016/05/04 23:43

アラブと私

イラク3千キロの旅(105)

 

 

添付画像
(72後半・73)外交官としての重大な訓令違反で、帰国した後にどんな厳罰が待ち受けているか分からなかったが、群がる人びとにビザ発給を告げると、大きな歓声が湧いたという。

 杉原の決断を後押しした幸子夫人は、そのときのことをまざまざと思い起こすような眼をされたが、緊迫した状況下で死の恐怖に曝されている人間の命を救う決断を夫と共にした誇りのようなものを感じた。

 杉原千畝氏は難民へのビザ発給の条件不備に関する外務省との論争を避けるために、さまざまな手立てを講じて、表面上は遵法を装いながら、「外国人入国令」の拡大解釈を既成事実化した。

 一時に大量のビザを手書きしたために万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続いた。一日が終わるとベッドに倒れこみ、痛くて動かなくなった腕を夫人がマッサージして、ソ連政府や日本から再三の退去命令を受けながらの1ケ月、寝る間も惜しんでビザを書き続けた。

杉原は、外務省からのベルリンへの移動命令が無視できなくなると、領事館内のすべての重要書類を焼却。家族と一緒に、ホテル「メトロポリス」に移ったが、領事印を荷物に梱包してしまったので、ホテルでは、仮通行書を発行し、ベルリンへ向かう列車に乗ってからも、窓越しに手わたされるビザを書きつづけ、6千余人を救うために発給されたビザは番号が記録されているものだけでも、2千百93枚にのぼった。

 動き出した列車の窓から「許してください。私にはもう書けません。みなさんのご無事を祈っています」と頭を下げた千畝の姿が目に焼き付いています、と幸子さんは語った。

 列車と並んで、泣きながら走っていた人たちは、「私たちはあなたを忘れません。きっともう一度、あなたにお会いしますよ」と叫び、千畝たちの姿が見えなくなるまで見送っていたという。

 

 壮絶を極めた第2次世界大戦は日本とドイツの無条件降伏の受託で終わり、昭和22年に帰国した杉原に対する外務省の態度は、思いのほかに厳しいもので、人道主義の立場でビザを寝る間を惜しんで発給した杉原は、軍国主義から平和主義の国に生まれ変わった日本で、詳しい理由も告げられないまま解任された。

 外交官として国の命に背いた杉原千畝は、長い失意の時を過ごしたあと、語学の能力を活かして、企業の海外駐在員として働き、75歳で鎌倉の自宅に隠棲したものの、依然として名誉は回復されなかった。

 1968年、突然、イスラエル大使館から電話があり、大使館に行くと、ビザ発給交渉にあたったユダヤ人ニシェリが、千畝が発行したビザを手にしていた。二人は固く握手して、その後は幸せだったかと聞かれた千畝は、「いま、幸せだったとわかった」と答えたという。

 1985年(昭和60年)、85歳になっていた杉原千畝氏に対して、イスラエルは、その勇気を最大限に讃えて、「諸国民の中の正義の人賞」を贈り、エルサレムの丘の上に顕彰碑を建立した。

 彼の命がけの人道的行為は、世界の人々の知るところとなり、祖国では解任された外交官から、世界の「人道の人、チウネスギハラ」になった。

 しかし、日本外務省は杉原の存在を無視し続け、祖国での名誉回復がなされぬままに、翌年、鎌倉の自宅で波乱に満ちた生涯を閉じた。

 1991年、ビザ発給の現場であるリトアニアの首都ヴィリニュスに、1992年には、岐阜県加茂郡八百津町に「杉原千畝記念碑」が建立され、2000年、都内の外交史料館では、名誉回復を象徴する「杉原千畝氏を讃える顕彰プレート」の除幕式が催された。

 挨拶に立った河野外務大臣は、故杉原千畝氏と幸子夫人らの遺族に対して、「外務省とご家族との間にご無礼があった。(中略)極限的な局面において、人道的かつ勇気ある判断をした素晴しい先輩だ」と語り、戦後の外務省の対応についてその非礼を初めて認め、正式に謝罪したのである。

 その喜びを千畝氏の墓前に報告した幸子夫人の胸には、煩悶する千畝氏にビザ発給を決断させた時のシーンがまざまざと甦ったという。

 この後の記述で、スティーブン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』に触れ、千百人のユダヤ人を救ったドイツ人実業家(ナチス党員から変心)が杉原千畝とは対極の人間だったこと、「シオニズムとパレスチナ問題」を、この記事の前月起きた「アルジェリア人質拘束事件」の要因とする米国政府の見方等を書いているので、本文を参されたい。

(74)米国政府の中に、「アルジェリア人質拘束事件」が「パレスチナ問題」に関わっている見かたがあるとの新聞報道があったが、一体どういう脈絡があるというのか。

9・11では、その要因の一つにイスラエルへの肩入れがあったとされたが、アルジェリアの事件は、フランスのマリへの唐突な武力進攻が引き金の一つとされた。

 フランスは旧マグリブ諸国の宗主国であり、アルジェリア独立戦争で政治的混乱が生じて以来、多くの民族が存在するマグリブ地域では、様々な紛争が起こり、今回の事件はアフリカにおけるアル・カイーダ・「イスラム・マグリブ諸国のアル・カイーダ機構(AQIM)」による2002年以来の反乱の一部とみられている。

「アルジェリア戦争」(1954~62年)は、宗主国フランスによる1830年からの長い支配に対するアルジェリアの独立戦争だが、その対応をマスメディアが頻繁に取り上げた。

 ここにまた、「号外」で書いたロスチャイルド家が登場すめぐるフランス中央政府と軍部が分裂し、内戦的事態に至ったことは、仏現代史の汚点となされた。

 フランス軍による現地村落の住民虐殺を「忘却政策」の報道規制で忘れさせようとしたものの、90年代に「記憶の義務運動」が起き、アルジェリア戦争での拷問・テロなどの非人道的な記録をることになる。

 第1次世界大戦の厖大な戦費を英国に援助したユダヤ人豪商ロスチャイルド(仏語読みは、ジェイムズ・ド・ロチルド)は以前から北アフリカとその周辺、パレスチナなどの資源調査を行い、鉄鉱石(1990年代になっても枯れることなく、アフリカ大陸第四位の生産量を誇り、巨大な富を生みつづけた)などの有用な資源を得ようとフランス軍派兵のために8千万フランもの天文学的な資金を提供して戦争を起こさせたことが分かっている。

 彼らが開通させた「北部鉄道」(1846年)はフランス・ベルギー・ドイツを結ぶロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)資産の中枢となり、鉄鋼、機械、石炭、金属、石油、建設、海運、電機、観光、食品を含むフランス最大の企業グループ(コングロマリット)に成長した。

 アルジェリアの大地で大量に生産されるようになった大麦、ハード小麦、ソフト小麦、オート麦は当時の商社・財閥にとって資産上極めて大きな意味をもち、いくつもの多国籍企業を育てる下地となった。

 19世紀末からは石油生産(アフリカ第3位)が始まり、1956年から巨大天然ガス田ハッシ・ルメル(ロシアを除くと世界第1位の埋蔵量)が発見され、さらに莫大な富を生み出すことになる。1830年の侵略から132年間、フランスはアルジェリアを支配。ロスチャイルド家の壮大な目論見は、見事に成功したのである。

 

「アルジェリア人質拘束事件」は、イナメナス付近の天然ガス精製プラントでイスラム系武装集団が引き起こしたものだが、襲撃された施設はアルジェリアの国営企業ソナトラック/英国・BP/ノルウエー・スタトイルなどの合弁企業が経営し、建設には、化学プラント建設に実績のある日本の日揮も参加していた。

 事件勃発時の現場には、7百人のアルジェリア人と百人の外国人がおり、ガーディアン紙によると、武装勢力は、米・仏・英国人(資源を搾取しているとみなされてか)を人質の標的にするよう指示されていたというが、50年余りも現地の天然ガスプラント建設に貢献してきた日揮の人たちから10人もの犠牲者が出る事態になった要因は、小泉政権が2003年のアメリカのイラク進攻を支援する自衛隊を派遣して以来、アラブ人の目に米国の手先になりさがった日本との見方が広がり、今回の事件で日本人の犠牲者が最大だった背景とされている。

 この事件が重大なのは、アル・カイーダが中東、アフリカ、アジアにも拠点をもち、これからも同じような事件が繰り返される可能性があるということであろう。

 安倍首相は、21日付の首相官邸のfbページで、「無辜の市民を巻き込んだ卑劣なテロ行為は決して許されるものではなく、断固として非難します。(後略)」とテロとの闘いに臨む決意を述べたとされるが、イスラエル政府の国連決議を無視したパレスチナの人びとへの理不尽な行為を、北朝鮮の国際社会への挑発的暴挙と同じように非難するのが、公正な態度というものではないか。

(75)アメリカを中心とした欧米諸国の国際石油資本(石油メジャー)によるエネルギー利権支配へのアラブ・アフリカ産出国の民衆の反発と、独裁的軍事政権が崩壊した「アラブの春」についてはかなり寄道をして書いてきたが、今回の事件は、第1次大戦の終結に端を発する根深いものだ。

 この事件が「パレスチナ問題」にかかわるとのアメリカ政府筋の見かたの根底には、第1次大戦で英・仏が手に入れた植民地的統治国の長い支配と搾取・抑圧に対する民族主義の抵抗運動があると思われる。 ロスチャイルド家はユダヤ系ドイツ人の一族で、初代マイアー・アムシェル・ロートシルト(1744~1812年)がフランクフルトに開いた古銭商・両替商に端を発し、ヴィルヘルム一世との結びつきで経営の基礎を築き、ヨーロッパに支店網を設けて5人の息子に担当させ、彼らの相互協力で世界の「ロスチャイルド」になった。

 ロンドン支店のネイサンは、第1次大戦の戦費をイギリスに援助したほか、スエズ運河の買収資金を提供し、パレスチナでのユダヤ人居留地の建国を約束させた、「バルフォア宣言」などで政治にも多大の影響をもった。

 東郷元帥率いる日本艦隊の奇跡的戦勝で、世界の強国ロシアを破った日本は、「ロスチャイルド」が日本に紹介したニューヨークのユダヤ人銀行家の支援で成功した外債募集の資金で軍備を充実させて、ロシアから領土と満州の鐡道利権などを手にしたが、賠償金を獲得できなかったため、金利を払いつづけ、日露戦争で最も利益を得たのは、その銀行家だったという。

 中世から20世紀までのヨーロッパで数百年も君臨したハプスブルグ家が、大戦後に解体されて2百年近くなる現在、狂暴化した金融資本主義の渦中の金融グループとしてのロスチャイルド家が、グローバリズムの伝道者のような活動を展開しているのは、世界の近現代史の背景として、好奇心をそそられる。

 

ジョン・パーキンス著「エコノミック・ヒットマン」のさまざまな事例に触れたように、第2次大戦後のアメリカは、世界中の開発途上国(旧植民地)の資源・労働力・市場などを経済的に支配する多国籍企業の中核的存在で、グローバリズムの旗を振りかざしながら、世界第1位の経済大国として君臨してきた。

 かつての植民地宗主国が築きあげた国際的経済協定を、第2次世界大戦後の脱植民地化で独立した国の経済支配に今も利用していることが、16~20世紀のヨーロッパの植民地主義を彷彿とさせて、「新植民地主義」と呼ばれている。

また、現代のラテンアメリカでの大国による小国への内政干渉が帝国主義時代の列強諸国の行動に似ているとして、「経済的帝国主義」の意味でも使われているようだ。

 シオニスト的なユダヤ人ロビイストが跋扈する米国連邦議会の様子を聞くにつけ、イスラエルの右派政権が強行するパレスチナの人びとへの傍若無人な行動を抑えるのは、2期目のオバマ大統領にとっても容易ではないだろう。

 ロビイストの中でロスチャイルド家がどんな位置を占めているか知らないが、初代からの政商的な才覚のDNAはさらに進化して、相応な影響力を及ぼしているのであろう。

「神が約束したシオンの丘のエルサレムへ帰ろう」とユダヤ人の歴史的な特権を主張するシオニストとは関連ない団体だろうが、良識あるイスラエルの人びとの歴史認識と世界平和への意欲に期待したい。

(76前半)前回の末尾に記した安倍首相のアルジェリアのテロ事件に対する決意の一部は、1月28日の所信表明演説の冒頭だった。(以下全文引用)

「事件発生以来、政府としては、総力を挙げて情報収集と人命救助に取り組んでまいりました。

 しかしながら、世界の最前線で活躍する、何の罪もない日本人が犠牲となったことは、痛恨の極みです。残された御家族の方々のお気持ちを思うと、悲痛の念に堪えません。

 無辜(むこ)の市民を巻き込んだ卑劣なテロ行為は、決して許されるものではなく、断固として非難します。私たちは、今般の事件の検証を行い、国民の生命・財産を守り抜きます。国際社会と引き続き連携し、テロと戦い続けます」

 所信表明演説のまくら言葉とはいえ、ポピュリズム丸出しの官僚的作文というほかない。

 これでは、9.11のアメリカ同時多発テロの原因を検証することなく、(日米同盟のくびきで)自衛隊のイラク派遣に踏み切った小泉政権と変わらない。

 前回、唐突に政権を投げ出したことを反省して、国家のかじ取りをつかさどる重責を改めてお引き受けるとも表明しているが、イラクはじめ各地で手詰まり状態のブッシュ政権末期、イラクの戦地まで出かけ、自衛隊に檄をとばしている。

「国家国民のために再び我が身を捧げんとする私の決意の源は深き憂国の念にあります。危機的状況にある我が国の現状を正していくためになさなければならない使命があると信じるからです」 

「外交政策の基軸が揺らぎ、その足元を見透かすかのように、我が国固有の領土・領海や主権に対する挑発が続く、外交・安全保障の危機に直面しています」

 前者には、自衛隊員を前に奇妙な自決を敢行した三島由紀夫の演説に重なるものを感じ、後者は、前回の首相就任時に憲法改正を最大目標にした意気込み、そのままである。

(76後半・77)アベノミクスとTPPの危うさについて記しているが、「横道」が長くなるので、省略。関心ある方は、本文を「松本文郎のブログ」でお読みください。

(78)横道」は、クウエートから千5百キロを走ってきたトヨペットクラウンのキャブレター点検で訪れたモースルのガレージの場面(68)のあとも長く続いた。

紀行文からの逸脱への読者の戸惑も懸念され、折しも生じた東日本大震災を契機に、『文ちゃんの浦安残日録』(新カテゴリー)を「ブログ」に設けてもらった。

傘寿を迎え、前立腺がんPSAが40.34の今、「残日」がどれくらいか分からないが、子や孫が生きる日本の将来と世界の平和を願い、教受するいのちを燃やして書き続けていきたい一念だ。

それでは、(71)のガレージの場面に戻ろう。

 

 そろそろ暇を告げようとした矢先、思いがけず、ハッサンが大阪万博のことを聞きたいと言う。

 「日本での万博を、どうして知ったのですか?」

「新聞やラジオで知りました。アラブ諸国からはクウエート、サウジアラビア、アブダビ、アラブ連合(エジプト・シリア)がパビリオン参加しました。イラクができなかったのはザンネンでした」ユーセフもなにか言いたげだったが、それとは別のことを、自慢げに告げた。

「バッシュモハンデス・マツモトは、クウエートに来られる前に、NTTパビリオンの基本構想を議論するチームのメンバーだったそうだよ」

「クウエートのプロジェクトに関わる4年前で、建築家としてとても、よい経験でした」

「どんなことを議論されたのですか」

「NTT(日本電信電話公社)は、電気通信事業の独占的公共企業体ですから、情報化社会を支える情報通信技術とサービスの開発成果を、いかに未来への夢があふれる展示にするかでした」

「どんな技術やサービスでしょうか」

 モースル工科大学機械科卒で若くしてガレージを開いたオーナーは、敗戦の灰塵跡から25年で経済復興を成し遂げ、世界万博を開催するまでに発展した日本の科学技術に強い関心をもっているようだった。

 私は、「でんでんパビリオン」の基本構想策定のブレーンストーミングを思い出して、ハッサンの好奇心に応えることにした。

                                (続く)

2016/03/26 21:58 2016/03/26 21:58

アラブと私

イラク3千キロの旅(104)

 

」前回(103末尾のレジュメ(63)のアウン・サン・スーチー関連記事(2012年6月)のように、最近(2015~6年)の状況変化に対応してレジュメ(原文抄録)が長くなります。

 

63残64)オランダの植民地インドネシアへ侵攻した日本軍司令官・今村均から要請を受けたスカルノら民族主義者(オランダの囚われから解放された)は、独立の民衆総力結集運動を組織。日本軍に協力しオランダ軍・連合軍と戦った。日本敗戦2日後、スカルノはインドネシア国民の名で独立を宣言。オランダは、イギリス・オーストラリアの協力をえて軍隊を派遣して再植民地化に乗り出したが、インドネシア独立の武装勢力が日本軍の放置武器と元日本軍将校らの支援を得たゲリラに苦戦した上、オランダへの国際的非難もあって、ハーグ条約締結の紛争解決でインドネシアへの主権移譲を余儀なくした。

 大統領に就任したスカルノは、第1回アジア・アフリカ会議をバンドンで開催して、インド・フィリピン・中国などの新興独立国のリーダーの1人として脚光を浴びた。

 冷戦下でのスカルノ政治のキーワードは、「ナサコム」(ナショナリズム・宗教・共産主義から造語)で、国内のさまざまな対立勢力の団結を訴える調停者として、インドネシア共産党と国軍との拮抗状況を巧みに利用したが、「反植民地主義」「反帝国主義」を掲げてソ連・中国・北朝鮮へ接近したスカルノを危険視した米国(「ドミノ理論」)は、CIAによるスカルノ失脚を画策したという。

 スカルノは急速な戦後復興をみせていた日本と経済開発中心の親密関係を選択。日本政府開発援助に呼応した商社活動が始まり、1人の若い女性(「日東貿易」の秘書)がスカルノのもとへ送り込まれて数年後に第3夫人となったのが、デヴィさんだ。赤坂の高級ナイトクラブ「コパカバーナ」で働いていた彼女をスカルノに紹介した人物は戦時の外務省情報部の下で「児玉機関」を運営した「昭和のフィクアー」児玉誉士夫とされる。彼女は、コーポレイト・クラシーの常套的手段(統治権力者への有効な処方)の1つの「女」だったのか。

 欧米諸国との険悪関係から食糧不足とインフレ悪化が進行する経済状況下のスカルノは、日本の資金援助を非常に重視したにちがいない。デヴィ夫人は、ODAや日本への資源輸出に積極的にかかわり、スカルノと池田勇人首相を繋ぐ仲介役を務めたとされるが、このシンデレラ物語は1965年の軍事クーデター(スハルトら右派軍人による)で終わりを迎えた。

クーデター後のデヴィ夫人(「東洋の真珠」と称され、社交界の華として多くの要人を魅了、交友を得ていた)を、日本政府・企業財閥が援護することはなかったというから、パーキンスらの画策と大同小異だったのか。

65前半)A級戦犯容疑をCIAへの協力でのがれて戦後政治の黒幕で暗躍した児玉誉士夫は、岸信介・椎名悦三郎らと創設の「日韓協力委員会」で韓国利権に関与(財界の鞍馬天狗の綽名をもつ瀬島龍三も)について記述。児玉・瀬島らが果たした役割は、パーキンスらのコーポレイト・クラシーと重なるのではないか。

 児玉に関して興味深い資料(2007年に機密解除・公開された米国公文書館保管「CIA対日工作機密文書」)に、「児玉はプロのウソつきで悪党・ペテン師・大泥棒だが、情報工作の能力は全くなく、金儲け以外に関心はない」と書かれているのは手厳しい。

60年安保闘争の拡大阻止を命じた岸首相に、ヤクザ・右翼を使う世話役を任された児玉は、これら暴力組織・政治家らに繋がる「力」と、表裏の資金源(「児玉機関」が管理していた旧海軍秘密資金・時価3750億円も)からの「金」で、日本で最も影響力をもつ政財界の黒幕大物と呼ばれた。

65後半)1979年の「イスラム革命」と、その後浮上したイラン核開発疑惑について抄録。

「イスラム革命」は、コーポレイト・クラシーに操られたイラン近代化(資本主義経済成長)で、石油会社と腐敗した関係にあるパーレビ国王一族と一握りの実業家だけが利益の恩恵を受け、イスラム世界が汚されるのを憎み、阻止した革命。

 西欧化政策をとったパーレビ王政の脱イスラム化でチャドル着用を後進性の象徴として禁止したことに国民の不満・反発が高まっていたが、王政打倒後はイスラム法でチャドル着用を義務化。

 イラン国電気通信研究所・建築計画の技術指導の筆者がテヘランに滞在した1969年の状況は、タクシー運転手は秘密警察なので王政批判は禁句。夜の街には、性の享楽場所、酒が飲めるディスコクラブ、歌謡ショーが楽しめるキャバレー等があった。「イスラム革命」では、中国文化大革命のような激変が生じたのだ。

(65)を書いた2012年のイランは、核開発疑惑に対する米国主導の国際的経済制裁が課せられていたが、敗戦後まもなくの友好関係で制裁に柔軟な態度だった日本も、米国の強硬姿勢に追従せざるをえなくなった。

当時のイランの国際的イメージは反米・イスラエルで西洋的な価値観を全面的に否定する頑迷な印象だったが、革命9ケ月後のアメリカ大使館占拠事件と9・11後のブッシュの「悪の枢軸」糾弾とで、印象がステレオタイプ化したようだ。

 元毎日新聞テヘラン支局長(2005~8年)が、大使館占拠の首謀者(学生)の話を『イランはこれからどうなるか』に書いているので再録。「革命によりパーレビ王政は崩壊しましたが、国外に逃れた国王をアメリカが受け入れたのです。国王はアメリカを後ろ盾に強権を振るいつづけた人物です。アメリカは国王を利用して反革命を企てる危険があったので、それを防ぐのが(反革命の拠点とみられた)アメリカ大使館を占拠した最大の目的でした」

 同著では、革命直後に発足したリベラル派主体のバザルガン暫定内閣の外相が、「国王の入国を認めれば、イランの反米路線を決定づけるパンドラの箱を開けることになる」と米国側に警告したとも記されている。時のカーター政権は人道的な配慮で国王を受け入れたようだが、占拠した学生グループが押収・公開した機密文書で、米国大使館がスパイの巣だったことを訴えたとある。

 イランの革命は「西(資本主義)でも東(社会主義)でもなく」を理念としており、革命直後は反米一辺倒ではなかったが、革命成功で亡命先のフランスから急きょ帰国したホメイニ師は、第2次大戦中からパーレビ国王の独裁的は西欧化政策に不満を表明。白色革命(1963年)の諸政策にひそむ国王の性格を非難して抵抗運動を呼びかけて逮捕され、釈放後、彼を恐れた国王から国外追放を受けて亡命していた。

 白色革命の政策は、英米・日本への石油輸出の豊富な外貨収入による工業化を中心に据え、西欧的な世俗化だけでなく、イランの内情や国民生活を顧みない急激な改革で貧富の格差が増大。これに反発した国民の抵抗運動のシンボル的存在が、ホメイニ師だった。

 ホメイニ師はソ連嫌いで反共産主義者だったとされ、対米政策では「良くもなく、悪くもなく」で、革命後は米国との国交断絶をせず、大使館も閉鎖されなかったが、リベラル派のバガルザン暫定内閣が占拠事件に反発して総辞職してからのイランにとって、「諸悪の根源はアメリカ」に集約されていった。

 バザルガン暫定内閣の副首相だった人物は、「国王はアメリカの操り人形となって、アメリカから『ペルシャ湾の警察官』に任じられ、大量の米国製武器を購入して石油収入を浪費しました。さらに秘密警察を創設して国民を抑圧しました。こうしたことが革命への導火線になったのです」と語っている。

 国王が「操り人形」だったかには異論もあり、国王がアメリカを利用していたとの指摘もある。

誇り高いとされるペルシャ人国王の性格を考えると、その両方だったのかもしれない。

 国王の側近ドク(「エコノミック・ヒット・マン」の登場人物)に、鼻を削ぐ酷い拷問を課した独裁者のパーレビ国王は、CIA顔負けのしたたか者とも考えられる。

66)海外出張先のイランとイラクでCIAの暗躍を知ったに過ぎない筆者が、この種の国家情報機関について特に関心をもっているわけではないが、敗戦後の占領下で起きた下山・三鷹・松川事件の「国鉄三大ミステリー事件」の下山事件では、国鉄総裁下山氏の怪死事件の背後に米軍防諜局(CIC)の関与を指摘する論調があったのを、おぼろげに憶えている。

第2次世界大戦後の東西冷戦下の朝鮮戦争に日本をまきこむ「占領政策の逆コース化」の時期に、「国鉄三大ミステリー事件」は起きている。

松川事件では、ドッジラインによる緊縮財政下の大量人員整理に反対した日本共産党の影響下の国鉄と東芝松川工場の労働組合員の共同謀議による犯行との見込み捜査が行なわれたとされる。

昭和25年の第1審で20人の被告全員が有罪(うち死刑5人)だったのが、昭和28年の第2審では17人(4人)となり、裁判が進むにつれて被告らの無罪が明かるみに出て全員が無罪となり、最後は未解決事件とされた。

 他方、国粋的右翼活動家や大陸から帰国した元軍人らによる祖国赤化防止の反共運動もあった。

高名な政財界人や「日本の黒幕」・児玉誉士夫らが、CIAと関わりがあったことは前述した。

 松川事件の第1審は朝鮮戦争が始まった年で第2審は終結の年だったが、広津和郎が中央公論で「無罪論」を展開したのがきっかけとなって、多くの著名人が支援活動に参加し、世論の関心を高めたことも記憶にある。その作家・知識人には、宇野浩二、吉川英治、川端康成、志賀直哉、武者小路実篤、松本清張、佐多稲子、坪井栄などの錚々たる名前がある。

 

そろそろモースルの旅の場面に戻って、古代イラク・ニネヴェ遺跡のことなどを書こうとした矢先、九月に大統領選挙を迎えるオバマ大統領が、内戦化したシリア情勢の打開に向け、反体制派支援の非軍事的関与をCIAに命じたとロイター通信が報じた。

先に、『イランはこれからどうなるのか』を紹介したが、イランでの長年に及ぶCIA活動が、反米的運動とイスラム原理主義の政権を生み、アサド政権と組んで反イスラエル的な動きをしているなかでオバマ大統領がCIAに極秘指令を出したことに驚く。

ジョン・パーキンスが言っているように、経済的な国家侵略でのCIAの出番は減っていても、他国の政権移行への介入にその謀略活動が欠かせないとみえる。

 

「アラブの春」の行方は長期独裁政権が崩壊した国々のこれからの民主化の進展にかかっており、アサド政権の傍若無人な民衆殺戮が止まぬシリアを巡る欧米諸国とロシア・中国の対立に、東西冷戦の幻影を見る思いがする。

 8月4日の朝日(朝刊)は国連とアラブ連盟のシリア担当合同特使・アナン前国連事務総長の突然の辞任表明を報じた。アナン氏支持を打ち出しながら内部対立に終始し有効な手立てを講じられなかった安全保障理事会への抗議という。

 アサド政権軍と反体制派の戦闘が続くシリア北部アレッポの住民が隣国トルコへ脱出する一方で、自宅から身動きできず食料が不足して人命が危険に晒されている状況に対して、アナン氏は、「どのようにシリアを救うべきか、去り行く私の助言」(フィナンシャルタイムズ電子版掲載)で、

アサド大統領の退陣なしに内戦を沈静化するのは困難としている。

 シリアでは2011年3月の非暴力的な反政府デモが武力紛争に発展し、これまでに1万9千人以上の犠牲者が出たとされ、イスラエルと長年対峙して中東和平のカギを握ってきたシリアの行方に世界各国が重大な関心を寄せている。

 シリアへの経済制裁を主張する欧米にロシア・中国が異を唱え、安保理がアサド退陣への有効な手立てを立てられずにきたが、欧米、ロシア、中国のそれぞれの立場と思惑は複雑にみえる。

 反アサド政権で結束するサウジアラビアやカタールなどアラブ諸国は、住宅地で重火器を使用しているアサド政権非難決議案を国連総会に提出するが、採択されても加盟国への法的拘束力はない。

 1日のロイター通信などに、オバマ大統領は、アサド政権の退陣に向けて反体制派が必要な支援を提供するようCIA(米中央情報局)に極秘の指令を出したとある。ただ、米政府による反体制派への武器供与には、「武器を増やしても平和的な政権移行は実現できない」と否定的で、反体制への武器供与はカタールやサウジアラビアによる銃器に限られているという。

 アナン氏の唐突な辞任表明は、シリアに派遣されている国連停戦監視団の存在意義を揺るがせ、19日までに任期延長を決めた安保理で拒否権を持つ米仏は、撤退を明言するようになった。

 アサド政権へ戦闘へリなどの武器提供を続けているロシアのプーチン大統領にとって、シリア国民の人権や生命の危険より、中東のヘソとなったシリアを欧米の意のままにさせるわけにいかないのだろう。

 米国の政治経済に絶大な影響力を持つユダヤ人にとってイランとシリアの緊密関係は最大関心事だろうが、イスラエルはイラクとシリアの原発を不意打ち空爆で破壊した前歴があり、イランで同じことを実行する構えもみせている。オバマ政権は懸命にその自制を促してきたが、シリアの反体制派支援で、どんな動きをCIAに求めているのだろうか。

 国連は内戦状態にある国の民衆の自由と生命を守る役割を果たすべきだが、安保理事会が拒否権発動で機能せず、総会の決議も法的拘束力がないとなれば、欧米・ロシア・中国・アラブ諸国の思惑が入り乱れるなかで、多くの死傷者・難民に救いの手は届かない。

 自由と民主主義を錦の御旗に侵攻したブッシュ政権は、フセインの統治下でそれなりに暮らしていたイラク国民に国家分裂の危機を与えただけでさっさと引き上げてしまった。 

原稿締切りの8月5日(2012年)の午前中にここまで書き、浦安市立中央図書館の「図書館講演会」に出かけた。『震災後の今、考えなければならないこと』と題した池澤夏樹氏の2時間講演の内容は、震災後の早い時期に現地入りした池澤さんが、知人と共にしたボランティア活動の得難い支援体験のエピソードと震災前から感じていた「人間が制御できない原子力と脱原発」の想いから、ブッシュ政権のイラク侵攻への憤りまでの幅広いものだった。

 池澤さんが演題からは横道とも思えるイラク侵攻に言及したのは、福島第1原発事故が、原子力村と揶揄される、「政・財・官・学」の閉鎖空間で取り返しのつかない大きな間違いを犯したと同じように、世界の警察を自認する米国統治者と側近グループがホワイトハウスの密室で、国連を離れた単独行動を決めて、平和だったイラク国民の生活をメチャメチャにしたことへの憤りからと受けとめ、大いに共感した。

66末尾)カレンさん(浦安在住・米国女性で筆者に『国境のない男』(カール・ヴォネガット)を推奨)と「九条の会浦安」事務局長の矢野英典さん(この連載執筆を勧めた人)を自宅に招いて歓談したことを記した。

                                   (了)

添付画像

2016/01/12 17:11 2016/01/12 17:11

アラブと私
イラク3千キロの旅(103)

                               松本 文郎

「アラブと私」の序章「イラク3千キロの旅」(連載77回)から本章「NTTクウェイトコンサルタント在勤日録(1970~1974)」へ入る前、序章各回のレジュメ掲載を“読者ガイド”として続けています。
(78~  )

(59)コーポレイト・クラシーとアメリカ政府(政権が代われば政策も変わる)との関係は、組織的に堅固な結びつきではなく、NSA(国家安全保障局)やCIAとの連携・情報交換には時々の粗密があったようだ。
 パーキンスは、イラン近代化の「白色革命」(背後に米国ケネディー政権)のムハンマド・レザー・パフラヴィー2世国王(シャー・ハン・シャー)が、宗教指導者ホメイニーらによって追い出されると知っていたCIAが、その情報を自分のコンンサルタント会社(メイン社)に伝えなかったことで彼らとの関係のあやうさを思い知った。
 亡命したエジプトでガン宣告を受けて米国NYの病院へ向かったパフラヴィー2世国王は,米国保守派の圧力で国外退去を余儀なくされた。
 パーキンスは、その国王をパナマに受け入れたトリホス将軍と理解・信頼し合う親しい間柄で、メイン社百年の歴史で最年少パートナーのパーキンスは、パナマのインフラ整備の革新的総合基本計画策定の調査・経済予測担当だった。
 トリホス将軍は、植民地主義時代のパナマ運河条約を改め、運河支配権をパナマ人に委ねる交渉をカーター米国大統領としていたが、米国保守派は、国家防衛のカナメであり、南米の富を米国の商業的利益に結びつけている運河を手放すカーターの動きに憤っていた。
 パーキンスは、「1975年、パナマに植民地主義の居場所はない」と題した文をボストングローブ社に送り、社説欄に掲載された。
「パナマ運河の長期・効率的運営には、パナマ人自身の責任で運営する手助けが最良の策。アメリカ独立から2百年の1975年には、 植民地主義の居場所がパナマにないことを 理解し、行動する」
 コーポレイト・クラシーのルール(途上国指導者を対外援助ゲームの負債に絡め、借金まみれにする)に反して、誠実な指導者トリホスを支持したパーキンスは、トリホス政権から多くの契約を受注し、純粋に経済的見地からメイン社ビジネスに貢献した。
 作家グレアム・グリーンの署名記事『五つの国境を持つ国』に、「カーター大統領の意思を削ごうとして米情報機関が、パナマ軍上層部を賄賂で抱き込み、条約交渉を妨害しようとしている」とあり、トリホスの周辺をジャッカルらが徘徊しはじめた、とパーキンスは思った。
 コーポレイト・クラシーの世界帝国の拡大を図るシステムの、腐敗を拒む国家統治有力者への酷い仕打ちで、ラテンアメリカの歴史は英雄の死体に満ちているという。
 コロンビアでのポーラという女性との出会いでパーキンスの心境は大きく変わり、「自分の心の奥底をのぞきこみ、EHMの仕事を続けるかぎり、幸福はない」と述懐している。インドネシア・イラン・パナマ・コロンビアの経験は、コーポレイト・クラシーが軍事力で制圧できなかった(ベトナム)ことを経済力で成し遂げようとしていると、パーキンスに自覚させた。
(60)グローバルな「世界帝国」構築をめざす大企業・銀行・政府官庁などコーポレイト・クラシーは、感染症・飢餓・戦争をなくすのに必要な通信網・輸送などのシステムを所有し、その気になれば、世界を根本的に変えられる。だが、利己的で貪欲な物質万能・商業主義にもとづくシステムなので、かつての帝国と同じように、手当たりしだいになんでもつかみ取り、食らい尽くすことで富を蓄積するため、手段を選ばないことを理解したパーキンスは、彼自身の役割の是非を考え始めた。
 パーキンスは、5大陸の国々で働く米国企業人(正式なEHMではない)やメイン社のエンジニアの多くが、邪悪な事柄に手を染めている自分の行為がもたらす結果にはまるで無知で、海外の生産拠点は、中世の荘園や南部の奴隷労働ではなく、現地の人々が貧乏から這い上がる手助けだと思いこんでいると気づいた。
 良心に照らせば、辞めたい気持ちに疑念はなかったが、コーポレイト・クラシーの版図拡大のほか、金・優雅な暮らしと権力の魅惑に加え、入ったら抜けられない世界と警告されていたことが、アタマから離れなかった。
 悩みを聞いてくれたポーラと繰り返し話した彼は、EHMの仕事で得られる金や冒険の魅力が、もたらされる不安や罪の意識のストレスに、決して引き合わないと納得。
 ポーラは、「EHMになるために教えられたことはすべてウソだったのよ。あなたの生活もウソだった。最近の自分の記事と履歴書を見た?」と言った。メイン社の企業誌『メインラインズ』に掲載されていた内容は驚くべきものだった。
(61)書かれていたのは真っ赤なウソではないが、意図的なごまかしがあった。グローバル化時代の世界帝国構築に添って活動するメイン社の意図を隠し、公式文書を重視する社会で見破れない歪曲や改ざんがあった。
 己の生き方についてポーラから指摘される以前のパーキンスは、自分の履歴書と記事に誇りさえ感じていたが、うわべを取り繕い、もっともらしく拵えられた人生を象徴するものに思えてきた。
 それらが社会的に認知されてきたのは、多くの企業・国際金融機関・各国政府の信頼を得るメイン社だからで、学位証書や医師・弁護士のオフィスを飾る資格証明書と同じような彼の信頼性の証(有能なエコノミストで、著名コンサルタント会社の責任ある地位に就いて、世界をより文明化された豊かな場所にするため、各地を飛び回っている)だった。
 だが、彼がNASにスカウトされ,連絡係としての軍との繋がりについては、なんの記載もなく、驚くほど数字を膨らませた経済成長予測を作成する圧力を受けたこと、インドネシアやパナマなどの国に返済不可能な借金をさせるのが主な仕事だという事実は、一言も触れられていない。
 サウジアラビアから米国への継続的な石油供給とサウド家の支配権維持の約束、オサマ・ビン・ラディンへの資金提供や、ウガンダ元大統領イディ・アミン(国際的な犯罪者)の身の安全を確保支援するなどの契約締結の手助けをしてきたパーキンスの役割が判らないような記述だった。
 パーキンスがこの世界に入ってわずか10年間に、世界情勢は大きく変化し、コーポレイト・クラシーはいっそう巧妙に進化していた。
 パーキンスは、彼の仕事の専門事項を知り、修士・博士号をもつ優秀な部下たちをEHMの仲間に引き入れ、豪華なホテルで眠り、高級レストランで食事し、財産を築く一方で、世界の貧しい国々で貧富の格差や飢餓に苦しむ人々を増やし続けている罪の意識を感じ始めた。
 彼の部下らは、パーキンスが体験したNSAのウソ発見器や特殊訓練とは無縁で、世界帝国の使命を口にすることもなく、エコノミック・ヒット・マンの言葉も知らず、一生抜けられないと釘をさされることもなかった。
 進化したコーポレイト・クラシーのシステムは、CIA・ジャッカル・軍隊が背景にひそむ国家統治者の誘惑・強制から、はるかに巧妙なものに変容していた。
 金融アナリスト、社会学者、エコノミスト、計量経済学者、潜在価格専門家などの部下の肩書はどれ一つ、彼らがEHMだとは示していないし、世界帝国の利益のため働いていると仄めかしていなかった。
 皮ジャケットを脱いだ工作員は、ビジネス・スーツで身だしなみを整え、5大陸のそこかしこへ入り込み、腐敗した政治家が自国に借金の足枷をかけ、貧困に苦しむ人びとを搾取工場の組み立てラインへ身売りするように促がす。
 履歴書や記事の文字の裏側はモラル的におぞましいだけでなく、最終的に自滅を免れないシステムに部下共々に縛り付けられていると、パーキンスは不安でたまらなくなった。それは、彼がパナマ・ホテルでグレアム・グリーンと出会う6年前、「イラク3千キロの旅」(1971年)の頃という。
 ポーラがこれら文書の行間に隠された意味を読み取らせ、人生の分かれ道へ導いてくれたとパーキンスは思った。
(62)ここに記すのは、パーキンスがインドネシアの地域調査(メイン社とインドネシア政府・アジア開発銀行・米国国際開発庁の契約書にある基本計画による)で、2、3日各地を歩いたときのエピソードで、バンドンのオフィスを管理する女性の息子ラシー(ユーモア感覚をもつすばらしい教師)と仲間たちのことだ。
 ラシーは、「あなたが知らないインドネシアを見せてあげる」と、彼をスクーターで町に連れ出し、いろいろな人に会わせた。
 ある夜の小さな喫茶店で若者のグループに紹介され、一緒に食事し、音楽を聴き、クローヴシガレットの香りのなかで冗談を交わし、笑い合い、そのころ味わったことのない幸せを感じた。打ち解けた若者らに、インドネシアの現状やベトナム戦争のことを訊ねると「非合法な侵略」に恐怖を感じると口々に訴え、パーキンスも同意見と知りホッとした様子。
 このラシーとの体験でメイン社チームとは別行動をしたい気持ちになり、ある夜、「ダラン」(インドネシア名物の人形芝居)を見に行く。その夜の出し物は古典的な物語と現代の出来事を組み合わせたもので、「ラーマーヤナ」の物語のあとで、リチャード・ニクソンの人形が、星条旗模様の山高帽に燕尾服のアンクル・トムの格好で登場。背景に中東と極東の地図が現れ、国名がそれぞれの位置に留め金でぶら下がっている。
 ニクソン人形はつかつかと地図に近づいて、ベトナムの国名を自分の口に押し込もうとして、「おお苦い! こんなものはもういらん!」と叫び、三つ揃えのスーツを着た従者人形が持つバケツに投げ込み、次々の国をつかんでは、同じ動作をくりかえした。
 それは東南アジア諸国ではなく、パレスチナ、クウェイト、サウジアラビア、イラク、シリア、そしてイランだったが、バケツに放り込む度にニクソン人形は、「イスラム教徒の犬」「ムハンマドの怪物」「イスラムの悪魔」の罵りの言葉を叫んだ。
「ダラン」見物の群衆は、激しく興奮し、辺りには笑いと衝撃と怒りが混然として、ラシーの通訳で分かったニクソンのセリフにいたたまれない気持ちになったパーキンスは、怒りの矛先が自分に向けられないかと恐ろしくなった。インドネシアの国名を手にしたニクソン人形は、「これも世界銀行にくれてやろう。どれくらいの金が搾り取られるだろう!」とバケツに投げ込もうとした瞬間、物陰から別の人形が飛び出した。それは、カーキ色のスラックス姿のインドネシア男性で、シャツにバンドンの有名政治家の名前が書かれていた。
 ニクソンと従者の間に立ちはだかった彼は、「やめろ! インンドネシアは独立国だ!」と、握りこぶしを高くかざして叫ぶと、従者が別の手に持っていた星条旗を槍のように使って政治家を刺した。観客は、不満や非難の声を発しながら、拳を振り回した。
 それから行った喫茶店で、ラシーと友人たちは、今晩の芝居でニクソンと世界銀行を風刺する寸劇をやるとは知らなかったと言い、隣の席の若者は、「インドネシア人は政治に強い関心をもっている。アメリカ人はああいう劇を見に行かないのか」と訊ねた。
 テーブルの向かいの美人学生(大学で英語を専攻)が、「あなたが関わっているアジア銀行や米国国際開発庁でも同じじゃないの?」と言い、別の女子学生が、「アメリカ政府は、インドネシアもどこもみんな、搾取しようとしているんだわ。石油を全部手に入れてから、放り出すんだわ」と付け加えた。
 インドネシア語を習い、彼らの文化を知りたがっているのは調査チームで彼だけと知ってもらいたかったパーキンスは、「あの反米劇で、ベトナムのほかはスラム教の国ばかり選んだのはなぜだろう」ときいてみた。
「だってそういう計画だもの、ターゲットはイスラム世界なのよ!」美人学生が笑い声を立てながら言った。
(63)パーキンスも黙ってはいられなかった。
「アメリカが反イスラムと決めつけるべきじゃない」「あらちがうの?」と彼女は言う。
「アーノルド・トインビーの『試練に立つ文明』や『世界と西欧』を読んでごらんなさいよ。21世紀はキリスト教徒とイスラム教徒の争いになるって書いてあるわ。世界の指導者アメリカが世界を支配下におさめて、史上最大の帝国になろうとしているからよ。今はソ連が行く手を阻んでいるけれど、彼らには信仰がないから、長くは続かないと」
 若者の1人が言った。「私たちイスラム教徒の信仰は魂で、崇高な力なんです。その信仰心はキリスト教徒よりも強いんです。世界中のだれもが、あなたたちのような暮らしをしているのではないと認識し、強欲でなく、利己的でもなくなることですよ」
「私たちの国では貧困の海で溺れている人がたくさんいるのに、助けを求める声を聞こうともせず、過激派とか共産主義者のレッテルを貼り付けているのよ。虐げられた人々をより酷い貧困と隷属に追いやるんでなく、心を開いて、ちゃんと考えなくちゃいけないのよ」数日後、人形芝居の中で殺されたバンドンの人気政治家が、轢き逃げにあって死んだ。
「アメリカは石油を全部手に入れたら、インドネシアを放り出す」と女子学生が言ったように、オランダ領東インド時代から植民地支配を受け、太平洋戦争で日本が侵攻したのも、石油を確保するためだった。
 太平洋戦争のさなかの対オランダ独立運動でインドネシアと親密な関係をもった日本が、急速な経済成長による復興ぶりをみせていたので、独立の英雄スカルノは、経済開発中心の親密な関係継続を選択し、日本人女性を第3夫人に迎えた。
 米国のコーポレイト・クラシー戦略と日本のODAは、目的・手段で異なると思われるが、恩恵に浴さない一般民衆には、大同小異に見えたであろう。
 これを書いた時点(2012年)で、タイの国際会議に出席したアウン・サン・スーチー氏(1988年から軍事政権に自宅監禁されて以来、初めての外国訪問)のスピーチの概要が報じられた。「ミャンマーにとって利益になるような投資をお願いしたい。汚職・不平等を助長せず、特権階級を潤さず、雇用創出につながる投資を期待します」
 パーキンス告白のコーポレイト・クラシーや日本をふくむ先進各国の開発援助攻勢が、国家統治者一族・取り巻きら一部特権階級に偏った利益をもたらしたことにクギを刺したものだ。
 今(2015年12月)のミャンマーでは、国の近代化・民主化と経済政策などの諸課題を巡り、アウン・サン・スーチー氏がどんな力量をみせるか、世界が注視している。     
                                                                                                   (続く)



添付画像



2015/12/20 00:35 2015/12/20 00:35

アラブと私
イラク3千キロの旅(10

                               松本 文郎

(前承)毎回のレジュメ掲載が続きます。

(48)数回の道草の後、(43)のバグダッドのホームパーティ場面に戻るので、その末尾を読者の便宜に再掲。

(若い記者マリクは、バルク政権の政策・統治の現状を歓迎している口ぶりで、「モスルの内戦は昨年5月で収まりクルド族も落ち着いたのでもう心配ないでしょう。叔母のコーヒー占いで道中安心と出ましたから、フミオさんは運勢が強いですネ」) 

 食後のトルコ・コーヒーで、モスルへの旅が「吉」と出たとこで心尽くしのもてなしに謝意を述べると、アハラムがキッチンへゆき、クレーチャの包みを持ってきた。ドアから顔を出した母親が、「道中で召し上がれ」と言っていると分り、「美味しい食事に感謝します」と英語で応えた。

 モスルへの道はバスラ・バグダッド間のようではないから高速運転に気を付けるよう忠告した主人らと握手をして家を辞した。

 ホテルに戻りシャワーを浴び、ベッドに倒れこむようにして眠った。

翌朝、モスルへ向かうトヨペットクラウンで、モスルに近いキルクーク大油田をめぐるクルドと中央政府の緊張関係や治安状況を話し合った。

(49)NTTコンサルタンント事務所では、現地雇用アラブ人と政治・宗教を話題にしない不文律だったが、ユーセフなら大丈夫と、カセムの電撃的王政転覆と共和制革命、社会主義バース党のバクル大統領がイラク石油(IPC)国有化に向けソ連との関係を強化している等、ホットな話をした。

 前日にアハラムらと行ったサマーラの塔を過ぎた小さな町のトイレ休憩後に運転を交代した。

 1時間ほど時速百キロで走るとアクセルのレスポンスに違和感があり、30分ほどでエンジン音がおかしくなった。

 目を覚ましたユーセフが、バグダッドへの途上のサンドストームでキャブレターが目詰まりしたようだと言い、40キロほど先のガレージで清掃してもらうと、元の調子に戻った。

(50)モスルの街の大通りを走ると、カセム政権がナセル主義のシャワフ大佐の反乱を鎮圧した時(10年前)、この道に数千人の血が川のように流れたと知る。

 アラブの再統一運動をめぐって、バース党内の反共産主義・ナセル派やその支持者の市民が弾圧され、虐殺されたという。

 ユーセフがチグリス川護岸工事の現場監督をしていたとき知り合った東方正教会の神父と会い、自家製ワインの接待を受け、スンニ派モスレム、クルドの宗教ヤズィディー教徒、キリスト教徒らが混じるモスルの複雑な社会の不安定さを聞いた。

(51)モスルの歴史は、ペルシャ、十字軍、モンゴル、オスマントルコが去来した要衝の地で、「古代から交通・交易に便利な処には大勢の人の血が無惨に流されました」「初期アッシリアの砦の町だったモスルでは、アッシリア人と東方教会信者が民族浄化の目に遭いました」と神父は言った。

 イラクで少数派のキリスト教聖職者に、政治情況について訊ねると、「バクルのバース党はイスラム的価値をアラブ民族文化の重要な要素としても、他の宗教を否定せず、私有財産も認めています」「イラク共産党は宗教を否定するソ連社会主義的で、親近感はもてませんが、植民地支配をうけてきたイラクは、ソ連の科学技術・工業化支援には期待しています」と応えた。

 ユーセフと神父は、「イラク・バース党はシリア・バース党とのつながりを弱め、周辺のアラブ諸国への影響力を強めて、農・工業近代化と社会の不平等是正に取り組んでいる革命指導評議会メンバーの中心は、サダム・フセインという人物」、「イラクの石油をめぐって、バース党政権とクルド人との間に問題が生じる懸念はある」と話した。

(52)バース党のイラク石油(IPC)国有化の可能性については、イラン石油を国有化したモサデクが皇帝派のクーデター(CIAが暗躍)で失脚した先例を挙げて、イラクでもCIAの情報活動があるかもしれないと言う。

 話の風向きが怪しくなってきたので、教会を辞して向かったのは、ヤズィディー教徒老人が住む横穴式住居だった。チグリス川右岸の白い岩山を掘った住居は、川と道の両壁の窓の光でかなり明るくて、風通しもよい。

 護岸工事監督の頃、横穴住居に関心をもった土木技術者のユーセフが訪れて親しくなった人で、川が覗ける一角に、とぐろを巻いたドラゴンを祀る祠があるので、チーフを案内したと言う。

 ヤマタノオロチに似ていているドラゴンに驚愕したことを老人に伝えると、日本の神話に似た洪水の伝説があると言われて、またビックリ。

5千年前のシュメル神話の大洪水物語は、この地に侵入した諸民族に受け継がれ、古代バビロニアの『ギルガメッシュ叙事詩』、旧約聖書の『ノアの箱舟』につながったのだろうか。

(53)筆者は「国情報通信国際交流会」会員だが、代表幹事の氏は、『アラブと私』を読まれて、若い私のアラブ体験を羨ましがられたが、メソポタミアの肥沃な三日月地帯に農業が発生した1万年前の「ヤンガードリアス・イベント」、8千年前の「ミニ氷河期時代」の地中海の水位上昇による黒海形成を教えて下さった。

 150回に及ぶ交流会の月例会の講演者には、東大大学院教授高山博(西洋中世史専攻、異文化交流研究/異文化接触論)、同教授山内昌之(地域文化研究専攻、日本アラブ対話フォーラム/日中・日韓歴史共同研究)らの興味深い話が多く、連載執筆の勉強になった。

 また、執筆参考文献として、『アラビア湾のほとり』(牟田口義郎著・クウェイト帰国後の1979年に読む)志賀重昴著『知られざる国々』、『中東の石油』(土田豊・中東調査会理事長著)について記述。

(54)この連載(自称・創作的ノンフィクション)に太い背骨を与えてくれた文献は、『エコノミック・ヒットマン』(副題・途上国を食い物にするアメリカ)で、元職場で親交の深い氏から郵送され、通読して「目からウロコ」を感じた本だ。モスルにCIAが入っているかも、と書いたのを読んですぐに届けてくれたようだった。

 著者のジョン・パーキンスは「イラク3千キロの旅」の1971年、「エコノミック・ヒットマン」(EHM)になる訓練を受けていた。その目的は、「世界各国の指導者たちを、アメリカの商業利益を促進する巨大なネットワークに取り込み、最終的に、それらの指導者を負債の罠に絡めとって忠誠を約束せざるを得なくさせ、政治・経済・軍事的な必要が生じたとき、いつでも彼らを利用する。彼らが元首としての地盤を固めるには、空港、発電所、工業団地などを国民に与えさせる」プロジェクトへの参加だという。

 1970年代はじめの米国経済は重大な変化の時を迎え、ケインズ的アプローチを政府に提唱して、ベトナム戦争の軍事力投入・資金配分の戦略決定に辣腕をふるったロバート・マクナマラの「攻撃的リーダーシップ」が、政府高官らや企業幹部たちのモットーにされていた。

 パーキンスが命がけでこの「本」を世に出したのは、企業・銀行・政府の集合体(コーポレイトクラシー)が「世界帝国」の構築をめざす中で、米国のエンジニアリング・建設会社が膨大な利益を得る巧妙なシステムが暴走する結果を目にしたからという。

(55)「EHM」のターゲットの開発途上国での経済成長は統治権力者ら一握りの人間に巨利を与え、国民の大多数を、ますます絶望的状況に置いている。

 コーポレイトクラシーは経済・政治的力を発揮して、教育・産業界やメディアが資本主義社会の仕組みの正当性を人々に信じさせるように仕向けたが、「成功者」の贅沢な暮らし・豪華マンション、自家用ジェット等は、「消費、消費、消費」と駆り立てるモデルだったと、パーキンスは書いている。

「EHM」は、法外な給料でシステムの思いのままに操られているが、コーポレイトクラシーが狙った国々で「EHM」が失敗すれば、更に邪悪なヒットマン・ジャッカルの出番となり、ジャッカルが失敗すれば、軍隊が出動するという。

 パーキンスは、脅しや買収に屈して執筆を中断していたが、9.11の惨劇が起き、イラクが再び戦火に覆われたことで、真実を語り、過去の過ちをきちんと伝えなければ、祖国アメリカと人類の未来は築けないと決意し、この「本」を書いた。その想いを序文から引用しよう。

「世界の資源を強欲に奪い合い、隷属的制度を押し進めるシステムを生み出す経済優先社会に、どれほど搾取されているかを多くの人びとが知れば、だれもそんな社会を容認しなくなると確信する」/「ごく一部が豊かさを享受し、大半は貧困・汚毒・暴力に圧倒されている今の世界で、自分がどんな役割を果たしているかを改めて考えるために」/「読者が、全ての人のための思いやり、民主主義、社会正義へと向かう道を進もうと誓うことを願う」/「歴史上、帝国はことごとく崩壊してきた。互いに支配権を争って、多くの文化を破壊し、自らも滅びの道をたどった。他者の搾取で得た繁栄を長く謳歌した国家や国家連合は、存在したためしがない」

(56)前回、『エコノミック・ヒットマン』の序文の引用に終始したのは40余年前のイランとイラクで体験した事象の暗部が、この「本」で明るみに出されたように思われたからである。

テヘランの電気通信研究所/建築基本計画の技術指導に赴いた1969年は、シャー・ハン・シャー(王のなかの王)の尊称で呼ばれたイラン皇帝が、独裁的統治でイランの近代化を進めていた。モスルの神父が話したように、米英が画策した皇帝派クーデターに関与したCIAがいるから気をつけるようにテヘラン在住のフィクサー的な日本人に忠告されことは、何度も書いた。

 シーア派が多いイスラム国イランで、思いのほかの欧米的ライフスタイルを体験したが、皇帝の背後で米国政府とヨーロッパの協力者たちが、反米感情の強いイラクやリビアに代わる政権を世界に示そうとしていたとジョン・パーキンスは記している。

「EHM」として、1975~1978年にイランを頻繁に訪れた彼は、歴史上、政治的紛争の絶えない国であることを念頭に、かつてモサデク政権を転覆させたCIAの乱暴なやりかたは避けたそうだ。彼が働くコンサルタント会社は、北のカスピ海に面する観光地から南のホルムズ海峡を見わたす秘密海軍基地など国中のプロジェクトに関わった。

 1977年のある日、パーキンンスのホテル部屋のドアの下に押し込まれていた一通の手紙の主は、政府当局から有名な過激派と教えられていた男だったが、イラン国内の状況把握が任務で好奇心旺盛な彼は、危険な賭けになるかもしれない謎めく男に会いにいくことにした。

(57)その男と会い、別の重要人物の所へ連れていかれたことで、パーキンスのイランを見る眼が豹変した。それまで彼は、強力で民主的はアメリカ企業と政界の友人たちが、どれほどのことをイランでできるかを世界にみせつけようと、単純かつ精力に活動していたのだ。

 その人物はテヘラン郊外の砂漠のオアシス(マルコポーロより何世紀も昔からの)のヤシの林に囲まれた粗末な泥の小屋にいた。「ここにいるのは米国の最高学府の博士号をもつ人ですが、名前は言えないのでドクと呼んでください」と告げられる。

「ドク」は絨毯が敷かれた薄暗い土間の車椅子で数枚の毛布にくるまれ、「ミスター・パーキンス!歓迎するよ」とアクセントのない、しゃがれた声で言った。

「私は今は廃人だが、昔の私はキミのように元気で国王の信頼厚い側近だった」

その口調には怒りよりも悲しみが色濃く感じられた。

「アイゼンハウアー、ニクソン、ドゴールら、世界の指導者たちとも親しく付き合った。彼らと国王は、イランを資本主義に導く手助けをする私を信頼し、私は国王を信じていた。イスラム国イランを新時代に導き、ペルシャ帝国の理想を実現するのが、国王と私の使命だとね」毛布のかたまりが動き、車椅子が軋んで向きを変えるとドクの横顔が見えた。のび放題の髭、妙にのっぺりした輪郭の顔の鼻は、そぎ落とされていた。

 国王の父親がナチ協力者としてCIAの手で退位させられた「白色革命」を手助けしたドクは、イランの石油を国有化したモサデク首相が失脚させられ、自宅監禁中に死んだ悲運を悔いているようだったと、パーキンンスは書いている。

「ドクは、宗教指導者らと親しく、宗教派閥の底に共通する流れは全土に広がっています」

連れの男がパーキンスの耳元で囁くと、ドクの嗄れ声が続いた。

「アメリカのマスコミも、国王と親しい取巻き連中としか話さず、広告主の石油会社のコントロールで都合のいい話しか聞きたがらない。ミスター・パーキンスにこんな話をするのは、イランから手を引くように会社を説得してほしいからだ。キミたちはこの国で大儲けができると考えているようだが、それは幻想だよ。今の政権は遠からず破滅する。それにとって代わるのは、キミたちとは全く相いれない人びとだよ」

「国王はもう安泰ではいられまい。イスラム世界は腐敗した彼を憎悪している。アラブ・インドネシア・アメリカなど世界中のイスラム教徒とりわけ、このイランの人たちがね!」

「EHM」のパーキンスがイランで体験したことがあまりに衝撃的だったので、4回に亘りレジュメを記した。こんな恐るべきことが筆者がテヘランにいた頃にあったと、40余年後に知ったのである。

(58)そろそろ1971年のモスルの場面に戻りたいが、CIAが操っていた国王政権の末路の要約を、パーキンスの「本」から引用しておきたい。

 1978年(三木武夫特使が、急遽、クウェイトなどアラブ諸国を歴訪)に、テヘラン・インターコンチのロビーで大学時代の親友ファルハドと10年ぶりに再会したパーキンスは、彼から「明日、両親が住むローマに行くが、航空券1枚を余分に持っているから一緒にイランを出るといい。イランは大変なことになるんだ」と告げられる。驚いたことに、ファルハドはパーキンスの10年間の全てを知っていたという。

 ローマで会ったファルハドの父親は将軍として身を挺して国王を暗殺から守っていたが、ここ数年、驕慢で強欲な正体を露わにした国王に幻滅。中東に溢れているアメリカへの憎悪は、イスラエルを支持して、腐敗した支配層や独裁政権の後ろ盾になっているからだと言った。

「そもそもは1950年代のはじめに、モサデクを失脚させたことだが、それが賢いやり方だとキミらちも私たちも考えた。だがそれが今は、キミらと私たちを苦しめているのだ」

 ドクから聞いたことがファルハドの父親の口から出たことに、パーキンスは驚いた。

「私の言葉をしっかり覚えておきなさい。国王の失脚は手始めにすぎず、イスラム世界がどこへ向かうかを予告するものだ。私たちの怒りは、砂漠の砂の下で長くくすぶり続けたが、間もなく地上に噴出するのだよ」

 パーキンスがローマでファルハドの父親と会った2日後、イラン暴動のニュースが世界を駆け巡った。ホメイニ師ら宗教指導者たちの王政打倒運動によって国王は支配力を失い、イラン国民の怒りは激しい暴動となって爆発した。

 1979年1月、国王はエジプトへ亡命。その地でガンと診断されてニューヨークの病院へ向かった。ホメイニ支持者らは国王をイランへ戻せと要求したが、アメリカ政府が拒絶(国民はシャーのアメリカ滞在を批判)した同年11月、イスラム教徒の武装集団がテヘランのアメリカ大使館を占拠し、52人のアメリカ人を人質に444日間も立て籠もった。

 カーター大統領が人質解放の交渉に失敗した翌年4月、特殊部隊のヘリによる救出を決行したものの、作戦は失敗してカーター政権の息の根を止めた。

 かつての誇り高き「王のなかの王」はエジプトへ戻り、ガンで死ぬ結末を迎えたが、イランの砂漠のはずれの泥の小屋に逼塞していた「ドク」の予言は、現実となった。                             

                                  (続く)


添付画像

2015/11/24 19:57 2015/11/24 19:57

アラブと私
イラク3千キロの旅(101)

 
                                 松本 文郎
 
 前回に続き、(31)からの梗概を記します。

(31)アハラムの家のテラスで、ビールを飲みながら従兄のマリクとの歓談が弾む。新聞記者の彼は、3年目のバース党政権が、英国統治以来のイラク旧体制を社会主義的な社会に変える路線を走っていると誇らしげだった。この(31)を書いた時点(2010.6)のNHK「クローズアップ現代」で、オックスフォード大のアダム・ロバーツ教授が、ブッシュに加担したブレア政権の歴史的視点の欠如に言及。英国統治下のイラク中南部の大規模反英大暴動(1920年)の歴史的教訓を全く学んでいないと指摘した。
(32)マリクが、「ライオンの乳」(アラック)(40度)を水割りでどうぞと言い、それによく合う前菜をアハラムが運んできた。ユーセフが、それら「メッチェ」「タブーラ」「ホムス」などの説明をし、マリクは、アラブの食文化に興味をお持ちなら、『アッバース朝の社交生活』の英訳本がいいですよ、と言った。
 私は、京大教養学部の「京大西洋史」で、東西貿易の拠点だったバグダッドが、未曽有の繁栄を誇る都市文化の発達で、中東の学術中心地だったと学んだと告げた。
 マリクと私のやりとりをユーセフと喋っていたアハラムが聞き耳を立てていたが、マリクの表情に、従妹を好ましく想っていると感じさせるものがあった。
(33)ギリシャ文化とオリエント文化を融合し、ヘレニズム・イラン・インドなど先行文明の文献をアラビア語に翻訳した「知恵の館」を開設した、開明君主カリフのアル・アマムーンが話題となり、アラブを単なる産油国としてしか見ていなかった不明を恥ずかしく想い、「中世の抑圧」に苦しんだヨーロッパは、イスラム世界の絢爛たる都市文明に、魅力より脅威、嫉妬さえ感じたのではないかとも思った。
 アハラムの父親がテラスに出てマリクと入れ替わる。アラックをロックで飲む彼はイケル口だ。学校などの公共建築を主に手がける建設会社社長は、トヨタの小型トラック数台を使っているが、(大型はベンツ)ディーラー駐在の日本人技術者が親切で腕もいいとほめた。
 彼が生まれた1925年のイギリス統治委任のとき、モスルのイラク帰属が国際連盟で決まったと言う。
 大阪万博のことを訊ねられ、NTパビリオンの基本構想についてひとくさり話をする。
(34)(35)執筆は2010年8月。ヒロシマ・ナガサキ原爆投下から65周年だった。広島市の平和祈念式典会場に響きわたった「ヒロシマの願いを世界へ、未来へ伝えていくことを誓います」の男女小学生の高らかな声に触発され、小田 実流の「道草」をして、戦争と原爆の記述に終始。
(36)(16)~(35)の梗概。
(37)キッチンで母親を手伝っていたアハラムの声がして男4人がテラスからリビングへ移ると、いろんな料理の大皿をサービステーブルに並べていた。準備が整うまでと、大阪万博で米ソが競った科学技術展示やそれに次ぐレベルに敗戦後25年で追いついた日本の技術進歩と経済発展について、マリクは熱心に質問した。東西冷戦下の中東石油が重要な戦略的資源で、イラン民族主義者モサデクの石油国有化紛争後、英国を盟主にした反共軍事同盟(バグダッド条約)を米国が結成(アラブで唯一参加したイラクを、ナセルが非難)したことなど、いかにも新聞記者らしい話題が続いた。
(38)アハラムが、「サービステーブルから好きな料理をとって下さい。ミスター・マツモトには、私が説明しながら選んであげます」と言う。ホームパーティの主客は、招待側が選んでくれる料理を食べるものと聞いていた。カバブ、ドルマなど馴染みのアラブ料理とエイドのお祝いの特別料理(大勢の親族が集まる伝統的な典型は、子羊の丸焼き)の、鶏に米と松の実をつめたローストチキンを取り分けてもらう。
 みんなが料理をとって席につくと、家の主が、「ビスミラ!」と言い、「アラーの神への感謝です」と隣席のユーセフが教えてくれた。
(39)「母ほどは信心深くない父が断食月(ラマダーン)期間中に唱えた「ビスミラ!には、クルアーンへの敬意が感じられました」とアハラムが言うと、主は、「ラマダーンの断食をすると気持ちが清らかになり、日没後に許される食事のありがたさが身にしみて、アラーへの感謝を心から唱えたくなるのです」と応じた。
 断食月の断食は、食を断つこと自体が目的ではなく、29日間の軽い飢餓感体験を通じ、食物を恵与する神への感謝と食物の乏しい者の苦しみを知るためとされる。
 断食月(陰暦)が極暑の夏になることもあり、日の出から日没まで水一滴さえ口にしない苦行。
(40)ムスリムが順守する「生活規範」の時代的変化について、アラブ社会の近代化が進めば、保守的な王国は別として、欧米的ライフスタイルの普及が、「生活規範」に対する若い世代の考えを変える可能性はあるという。敬虔なムスリムの妻の料理上手を自慢する主が薦めるいろんな料理を、アハラムの解説で賞味。主が唱えた「ビスミラ!」はクルアーンに忠実な習慣というより、その信奉者の妻の美味な料理への感謝ではないか。
 料理の皿の数々の写真を挿入した「ブログ」の編集人・森下女史の尽力に感謝したい。
(41)イラクの家庭料理を賞味しながら、いささか驚いたのはアラブ料理のメインディッシュにアジア民族の主食のコメが使われていることだ。
「ライス」「シュガー」はアラビア語だとマリクが言ったのでまたビックリ。米栽培は7千年前のインド・中国とされるが、イラク・エジプト(東南アジア伝来の小麦が主食)などでは大河の灌漑による米栽培が古代から行われていたようだ。アハラムは、イラクの家庭料理で手間をかける「マクルーバ」(ひっくり返しご飯)のレシピを説明し、そのほかに、「ビリヤニ」(焼き飯)、「クッパ」(米粉皮の餃子)、「ムハラビ」(米粉のプディング)などがあると教えてくれた。
 ウイキペディア検索「世界の米料理」に、40年前に賞味したイラクの米料理の記述がないので、酒井啓子著『イラクは食べる・日常と革命』を参照したが、その終章の扉に「マクルーバ」の写真があるのは、ブッシュの「フセイン政権ひっくり返し」とその後のイラク政権の「ひっくり返し」の連鎖を皮肉るウイットと感じた。
(42)デザートの「クレーチャ」を食べていると「トルコ・コーヒー」が出た。マリクの説明では、450年前のオスマン帝国時代のイスタンブールでの伝統的飲み方は、ヨーロッパ、中東、北アフリカ、バルカン諸国に共通しているという。飲み終わったカップをソーサーの上にひっくり返して、カップの底に残る模様から運勢を読む「コーヒー占い」を、前年、テヘランの宿のマダムに教えてもらった。
「占い」は、聖書では邪悪な行いで、イスラムでも同じだが、遊びの感覚で、私のカップの模様をキッチンから出ない母親に見せて、「マツモト」の運勢を占ってもよいかとアハラムが言う。結果は、「素晴らしい運勢で家庭も仕事もうまく行くと出ている」「ずっと先に、人生の大きな岐路があるようなのが気がかり」で、22年後、(1992年夏)“食道(がん)全摘出手術”で生死の岐路に立つ。
 もっと歓談をと主が勧めたが、翌朝のモースル行きが早いので暇を告げると、カセム政権下(1959年)の陰惨な親ナセル派市民(クルド人が主)数千人殺害事件(イラク共産党民兵による)だけは、ぜひ話しておきたいと言う。
(43)折しも晴天の霹靂の「チュニジアの春」の報が世界を駆け巡った。チュニジアなど中東・北アフリカ地域は1次産業・観光業以外の産業が乏しい中の人口増加で、若者の失業が深刻化。
 この地域で軍事独裁政権の長期化と腐敗による富の分配の不平等で貧富格差が生じ、インフレが進行するアルジェ・イエメン・ヨルダン・エジプト・サウジアラビア・モーリタニア等の国々に、「チュニジアの春」に触発されたデモや焼身自殺が相次ぐ。イスラムでは自殺は禁じられているのでよほどの事態と世界が注目。政権側は、フェイスブック・ツイッター・ユーチューブを遮断する情報統制で対抗。
 アハラムの父親の「モースルの流血事件」について、牟田口義郎著『アラビア湾のほとり』を参照。1960年~70年代のアジア・アフリカ諸国の軍事クーデターによる列強からの独立闘争、王政から共和制への移行、独裁的指導体制による急進的改革などを記述。
(44)アラブ諸国でイラクほど雑多な少数民族を抱える国はなく、人口の1割のクルド人のほか、東部のイラン人、その他の地区のアルメニア人、アッシリア人、カルディア人、トルクメン人等が住んでいる。
 第1次大戦後の英国中東政策でフセインの3男のファイサルを親英派の王にすえてから、カセムによる王政打倒までイラク王国を維持したのは、オリエントのビスマルクと呼ばれたヌリ・サイド。バグダッド生まれの彼は、マッカ太守フセインがアラビアのロレンスと起こした「砂漠の反乱」に参加してロレンスの信頼を得て、ダマスカスの駐留司令官に任じられたが、大戦後のエネルギー源が石炭から石油に切り替わるのを見通した英国は、サイドにイラクを託した。それにしても、ロレンスやサイドは「チュニジアの春」の市民レベルの覚醒と抗議行動は予見できなかっただろう。
 太守フセインが結んだ「フセイン・マクマホン協定」は、英・仏・ロの陰謀的密約の「サイクスピコ協定」により裏切られ、パレスチナへのユダヤ人の入植を認めた「バルフォア宣言」に至り、今日まで熾烈な紛争が続いている。
(45)第二次大戦後のアラブの王政から共和制への軍事クーデターの革命戦士だったムバラク大佐(エジプト)とカダフィー大佐(リビア)が大統領で君臨した長期独裁政権が3、40年のあと、若者中心の「市民民主革命」の大きなうねりで崩壊寸前。遡る1957年、アイゼンハワーは、バグダッド条約強化の中東特別教書「アイク・ドクトリン」を出し、反共軍事同盟の加盟国にソ連侵略がなくても、加盟国が共産主義の脅威による救いを求めれば、アメリカは即座に武力介入するとしたが、ナセルの「アカ」の脅威を拡大解釈した強引なものとして、「石油ドクトリン」の綽名がついた。1958年のイラク軍事革命の数カ月前、エジプト・シリアは合邦してアラブ連合を結成し、これに対抗したイラク王国はヨルダン王国と結び、アラブ連邦をつくった。
 ダマスカスを訪問したナセルは、カイロ・ダマスカスに都をおき十字軍と戦ったイスラムの英雄サラディン(クルド族の傑物。シリア・エジプト・メソポタミアを統治しスンニ派支配下に)に譬えられ、熱狂的な歓迎を受けたという。
 ここまで書いた書斎が突然大きく揺れ、書棚から数冊の本が机の脇に落ちた。建築家として初めて体験した未曽有の東日本大地震だ。
(46)ここ浦安の深刻な液状化被災でインフラ不全の暮らしを強いられたこと、福島原発事故の放射能汚染の右往左往などは、「道草」として記す事柄ではないので、「松本文郎のブログ」に『文ちゃんの浦安残日録』のカテゴリーを設けた。
 巨大地震の報道の陰で、リビア情勢は風雲急を告げたが、オバマ大統領は「新政権はリビア国民が決めること」で、フセイン打倒の先制攻撃をしたブッシュとちがって、地上軍投入に組みしないドクトリンを出した。
(42)でアハラムの父親が話したカセム政権によるモースルの大量殺戮事件の背景のイラク石油(IPC)の本拠地キルクーク大油田(クルド族が多く住む地方だが、石油収入は地元民に十分には還元されない)のことを、『アラビア湾のほとり』の引用で詳述。IPCは、バース党政権のバクル大統領により国有化(1972年)。カセム政権は親IPC・CIAだったのか。
(47)福島原発事故の惨状に苛立ち、「道草」の禁を破り、朝日新聞社公募「東日本大震災の復興構想・提言論文」応募の『これからのエネルギー政策と脱原発』について記した。ヒロシマ原爆を疎開で免れた私の積年の願いの「核兵器廃絶」と原発事故の放射能汚染による地球生命の危機を重ねた拙文。
「道草」引用の「天声人語」にチャレンジャー爆発事故調査のノーベル賞学者ファインマン博士が、「失敗確率は毎日打ち上げても300年に1度とされていたが、ロシアンルーレットのようなもの」と批判し、日本の原発事故確率が50億分の1(隕石に当たるようなもの)とされていたのは「神話というより法螺の類」と述べた旨が書かれていた。
 節電を志す暮らし、工場電力消費の工夫、少子高齢化、人口減少などで、将来的な電力使用量は減るから、ドイツのように「脱原発」を国家政策に掲げることが、日本人の喫緊の課題(憲法9条も)ではなかろうか。
 
 次回は、ホームパーティーの場面に戻ります。
                                 (続く)


添付画像

2015/09/19 21:58 2015/09/19 21:58

アラブと私

イラク3千キロの旅(100)

                                 松本 文郎 

 

イドの休日のバスラ・バグダッド・モスル往復の「イラク3千キロの旅」は、同行したイラク人土木技師ユーセフのお蔭で有意義で忘れがたいものとなった。

この紀行文にこめた想いは、44年前に共に仕事をし、家族ぐるみの付き合いをしたアラブの人々の往時のすがたと現在(2015)直面している過酷な現実の、言葉を失うほどのギャップを伝えたい孫の世代に、アラブの人々の命と暮らしを守る側に立ってほしい祈りでもある。

最近のアラブ情勢では、トルコ・シリア国境付近で「IS」・トルコ・シリア反政府軍が三つ巴の戦いが繰り広がり、米国無人機の誤爆による一般市民の死傷者が報じられ、イラク国内では、サダム・フセインが強権で束ねていたスンニ派・シーア派・クルド族の3共同体の統治が極めて不安定な情況にある。

「イラク3千キロの旅」を始めた南部地域バスラにはシーア派が多く、中部のバグダッドと周辺には両派のイラク人、北部のモスルにはスンニ派・クルド族が多いが、モスルは、「IS」の手中に落ちたままだ。

これらの地域は、オスマン帝国を破って委任統治したイギリスがイラク王国の三州としたもので、旅をした1971年は、王政が軍事クーデターで倒され、イラク共和国が成立して13年、バース党政権成立から3年が経過していたが、9・11後のイラク侵攻を断行したブッシュ(子)政権が、イラクを一つの国と呼べないほどの混迷に貶めたのである。

現在のアラブ諸国の惨状が、欧米列強の傲慢なアラブ政策の帰結と揶揄されるゆえんだ。

『アラブと私』を書き始めた2008年の時点では、15万人のイラク市民死者、国内外4百万人の難民が出ている惨状だ。NTTコンサルタント事務所で仕事の苦楽を共にしたイラク人ユーセフやアルベアティの家族らは今、どこで、どうしているのだろうか。

『アラブと私』の序章「イラク3千キロの旅」から、「NTTクウェイトコンサルタント」在勤日録(1971年~1974年)へ移る前に、7年の長期に及んだイラクの旅の梗概を記して読者の便に供したい。

 

(1)今(2015年)から44年前のラマダン(禁欲月)明けの休日を利用した「イラク3千キロの旅」へ、バグダッド生まれの若い土木技師ユーセフとハワリ・フラット(単身寮)を出発したトヨペットクラウンは、キラキラと青緑色に輝くアラビア湾に別れを告げて、バスラへの国道をひた走る。右手砂漠の数キロごとに、NTTコンサルタントによる設計・工事監理の無線送・受信所や衛星通信地上局を望む。クウェイトへの物資運搬の動脈の道を、時速140キロで飛ばすと、すれ違う大型トレーラーの側へ吸い込まれそうになる。

(2)クウェイトに近いバスラは、酒が飲め、クラブでベリー・ダンスも楽しめる男たちのオアシス。クウェイトで出会ったアハラム嬢は、正体が分からぬままにバグダッドへ帰って行ったが、この旅で再会できるか、「インシャーラ(神のみぞ知る)」というほかない。

(3)社会主義バース党が支配する共和国イラクの近代化途上にあるバスラ(1971年)は長閑に賑わっていたが、ブッシュ政権がパンドラの箱を開け、バスラ油田の利権をめぐるシーア派同士の内戦で多数の死傷者が出た場所だ。

(4)バスラはティグリス・ユーフラテス川が合流したシャト・アル・アラブ河が流れる古代からの町。旧約聖書の「エデンの園」やアラビアンナイトのシンドバッド島など神話や物語のスポットがあり、中東への影響力を保ちイラク支配を強めた大英帝国の戦略的拠点でもあった。

(5)5千年前にバスラ地域に住んだシュメル人は文字を創出。湿地の葦のペンで楔形文字を粘土板に書いた「シュメル神話」に「ノアの箱舟」の原型の大洪水物語がある。サダム・フセインが湾岸戦争時のシーア派ゲリラ掃討作戦で湿地帯への流水を止めたので、地帯規模が劇的に縮小。 

(6)旨いカバーブで腹ごしらえの後。ユーセフが運転するトヨペットクラウンでバグダッドへ。座席後部においたソニーのステレオ・コンポからのアラブ音楽を聴きながらユーフラテスを北上。川の写真を撮って警備兵の検問を受ける。この川はノアの箱舟、メソポタミア成立、アレキサンダーのペルシャ征服、イスラムのバグダッド攻略、モンゴル侵入、オスマン帝国の支配・敗退など、さまざまな民族・文明とかかわってきた。

(7)砂漠の幹線道路の高速運転は危険がいっぱい。ユーセフの腕とBGMに身をまかせ、眠りこむ。目覚めて、アハラムのことを話しているうちに、サマーワへ着いた。トイレ休憩に寄ったあの町が、30数年後、小泉首相が決めた陸上自衛隊の駐留で憲法九条の問題になるとは思いもしなかった。この地のシーア派住民は、国連の経済制裁下でのフセイン政権に見捨てられていたとされる。

(8)夜間走行に入って、交通事故の現場に遭遇する。シーア派の聖地カルバラに埋葬する遺体を運ぶ車が事故に巻き込まれていた。

(9)サマーワで仕入れたパイ菓子クレーチャとペプシコーラで、走行しながらのエネルギー補給。砂漠の中の一本道で雷雨の直撃を受ける。稲妻の閃光のなか、車上に2体の遺体を積んだタクシーを追い抜いたユーセフと死生観について語り合う。

(10)死生観や神の存在については、クウェイト郵電省のエジプト人顧問建築家ボーラスとも話したことがあり、またあとで触れることもあろう。

カルバラのイマームの聖廟の由来をユーセフから聞く。ムハンマドの後継者をめぐるシーア・スンニ両派の抗争の歴史は、桜井啓子著『シーア派』(岩波新書)に拠らせていただく。

(11)異なる宗教・宗派間の戦争・紛争は、表向きは教義に基づくようにみえても、共同体の維持と版図の拡大を意図した統治権力の争奪ではないか。フセイン・ブッシュ両大統領の戦争の背景には、イラクの油田確保をめぐる攻防の影が透けている。

(12)大統領の任期終了前にバグッダッドを訪問したブッシュは、イラクの記者に靴を投げられて、イラク侵攻の大義が怪しくなったブッシュ政権の2期目の支持率は史上最低。マリキ首相の政権下、治安、行政サービス、インフラ整備はフセイン時代より悪化し、国民生活は困窮を深めているとされる。「チェンジ」を掲げて登場したオバマ大統領の英断で、事態はどのように変わるのだろうか。

(13)(14)「カルバラの戦い」と「平家物語」に古今東西の戦記物語に共通する悲哀を見る。

人間が殺しあい、傷つけあう戦争や紛争の愚行を、世界宗教の始祖たちは異口同音に戒めているのに。人間の限りない欲望が侵略を誘う一方で、遠征の大移動の結果、多様な文明・文化の交流が生じた。

(15))~(14)の梗概。 

(16)真夜中に着いたバグダッドのホテルで、私が見た夢は、なんと、『アリババと40人の盗賊』の場面だった。財宝を奪われた豪商の依頼で盗賊をやっつけた私とユーセフが、豪華な招宴の席で女奴隷のアハラムに再会する不思議なシーンだ。 

(17)「イラク3千キロの旅」はユーセフの誘いで始まった。バグダッドに実家がある彼は、旅の前、アハラムとどんな連絡をしていたのだろうか。

アハラムが妹ジャミーラを伴いサマーラの塔へ郊外ドライブするのを、建設会社を営む父親に、ホテルからの電話でOKさせたのは、さすが。

(18)アハラムの家近くの公園で、朝方の夢に出た、魅惑的な黒い瞳のアハラムと再会。12歳のジャミーラと私は後部席、アハラムは助手席のトヨペットクラウンをユーセフが運転。アハラムのうなじから肩への浅黒い肌は、ネフェルティティ・イン・バグダッドだ。

(19)紀元前3千年代末のメソポタミアの古代都市バビロンと、紀元前6百年代の新バビロニア王国の首都は、バグダッドの南80キロの地点。北の郊外に立つサマーラの塔はスパイラルの回廊をもつ高さ50メートルの小ぶりで単純な形態だ。イスラム帝国が千3百余年を遡る伝説の「バベルの塔」様の建造物を造ったことに興味を引かれた。9・11跡地に建設中の5百米を超えて全米一になるタワー、イスラム国ドバイでの超々高層ビルの建設ラッシュは、「バベルの塔」が神の怒りに触れたように、キリスト・イスラム教それぞれの「神」への冒涜とならないのか。

(20)アハラム姉妹の後を歩いてサマーラの塔を上り下りしながら、ユーセフは、バベルの塔と空中庭園をもつバビロンが、いかに壮大な建造物の集合体の都市だったかを誇らしげに語った。

 古代から近代までの王・皇帝など権力者たちは、権勢を誇る建造物を後世に伝えようと、想像を絶する莫大な金と労働力を費やしたものだ。

(21)その中で、「世界の七不思議」に挙げられた建造物にも時代的な変遷がある。「新世界七不思議財団」による選定候補の一つとしての日本の清水寺は選に漏れた。塔から降りた私たちは、チグリスの川魚を焼いて食べさせる店で遅い昼食をとりながら歓談した。アハラムからは、私との最初の出会いや父親の仕事のことを聞き、彼女をジプシーの娼婦と勘違いした助平根性を猛省する。

(22)建築土木工務店を営む家の長女アハラムは、都市バビロンの建造物の話にも興味を示す。

 夕方招かれている私たちの歓迎ホームパーティでの話題を探しているうち、王妃のため空中庭園を造らせたネブカドネザル2世のエルサレム侵攻と「バビロン捕囚」由来のオペラ『ナブッコ』に及ぶ。ナブッコとはネブカドネザルのこと。

(23)旧約聖書に基づいて書かれたワーグナーのオペラの話は、ユーセフのアラビア語と英語の介在で、アハラムと私の間を盛んに飛び交った。『ナブッコ』初演の1842年当時のイタリアは絶対王政の都市国家郡に分かれ、1848年には、マルクスの『共産党宣言』が出て、王政から共和制に「チェンジ」するヨーロッパの過渡期だった。(この回から、「序章」を早く終わらせて本題に入るため、記述量を倍増することにした)

(24)昼食の歓談の後、バグダッドへ戻る車中でムスリムの聖典・生活規範であるクルアーンについてアハラムとユーセフから話を聞いたものを、ウイキペディアの記事で補強した。一神教のユダヤ・キリスト・イスラム3教は、同じルーツをもちながら、互いの神を認めないで争ってきたが、現在のムスリムの宗教多元主義者は、「ムスリムはクルアーンを、他の宗教はそれぞれの天啓を尊べばよく、天啓に優劣はない」としている。

(25)(26)クルアーンにある女性関連規程の「男尊女卑」「隔離」「ヴェール」「一夫多妻へのアハラムの考えを聞いたが、イスラムの女性観の記述では、中田香織さんの「アッサラーム」誌の引用記事、片倉もとこ著『イスラームの日常生活』などに多くの示唆を受け、感謝。イラクの近代化を目指す共和制バース党政権下では政教分離を掲げているなど、ユーセフとアハラムが、キリスト教とイスラム教の歴史を学校で学んでいたからこその話がいろいろとできた。

(26)(27)ユーセフがアハラムたちを送っている間にホテルで一休みし、ホームパーティに備える。アハラムの父親に会うのは少々気が重い反面、楽しみでもあった。ユーセフが仕入れてきた花束とクウエートからもってきた闇のジョニ黒を携え、アハラムの家を訪ねる。にこやかに出迎えた父親は、如才なく愛想のいい人のようで、ホッとする。遠来の客への社交的心遣いか、甥の新聞記者を招いたり、昼食とドライブ中の話題をユーセフから聞きとったりの、周到なもてなしに感心する。彼の家系は、信心深いシーア派に比べ世俗的とされるスンニ派で、アルコールもご法度でなく、私の好物のビールも用意されていた。新聞記者のマリクが来てから、英語での真面目な話がおおいに弾む。アハラムの母親が客の前に姿を見せないのは、実家がシーア派で、生活規範の「ハディース」に遵っているからと、理解を求められた。

 執筆中の折りしも、ブッシュの要請でイラク戦争に参戦したイギリスのブレア政権の「政治判断」の是非を巡り、「独立調査委員会」による徹底調査が始まったと知る。オックスフォード大教授アダム・ロバーツ氏はNHK「クローズアップ現代」国谷キャスターのインタビューで、ブレア労働党政権の歴史的視点の欠如に言及。イギリス軍のイラク占領下の1920年に中南部で起きた大規模な反英暴動の歴史から何も学んでいないと指摘している。オスマン帝国の支配下でドイツがバグダッド鉄道の敷設権を手にしたころ、土木建築の会社を起こしたのが初代。アハラムの父親は4代目という。テラスの卓に夫人ご自慢のイラク料理の前菜のあれこれと並び、古代アラブが発祥の地の酒アラックが供された。マリクが、「アラブの食文化を知るには、当時の宮廷料理も書かれている『アッバース朝の社交生活』の英訳本がよい参考書」と教えてくれる。

(28)イスラム帝国最盛期の首都バグダッドが、中世を桎梏から開放した西洋ルネッサンスに重要な役割を果たしたとは……。イラクの家庭料理を賞味し、アラクを飲みながら、アッバース朝とイラク・イランの関わりの歴史を巡る歓談がつづく。(1969年、イラン電気通信研究所の建築計画の技術協力の任務終了後、古都のイスファハンと遺跡ペルセポリスの小旅行に招待されたシーンが眼に浮かんだ)新バビロニアの空中庭園はペルシャ軍に破壊され、ペルシャの首都ペルセポリスは、古代マケドニアのアレキサンダー大王に破壊された。古代帝国の興亡の証しの遺跡を訪ねる旅は建築家を志した私の夢。その一つのバグダッドに、いま私は居る。小さな土建会社の4代目社長が、新バビロニアの首都建設に携わった土木技術者の末裔のように思えてきた。

(29)この稿執筆の今(2010年)は8月10日早朝だ。ヒロシマ原爆(6日)・ナガサキ原爆(9日)から、65年が過ぎた。広島市の平和記念式典の会場に響きわたった「ヒロシマの願いを、世界へ、未来へ伝えていくことを誓います」との男女小学生の高らかな声に触発されて、小田 実流の「道草」で原爆と戦争の記述に終始した。

(30)16)~(29)の梗概。

 この梗概を書いている今(2015年)もまた、ヒロシマの原爆投下から70年目の6日だ。

 アメリカでは今もなお、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下が太平洋戦争を終わらせ、米軍の本土上陸作戦で失われたかもしれない百万人米兵の命を救ったとの大義名分が、多くの国民に信じられているという。だが、帝国海軍が全滅した当時の日本は、戦闘物資も食料もない国家壊滅寸前で、原爆投下の真の目的は、ウラン・プルトニュウム2種類の原爆の人への影響を見極める実験だったことが明らかにされている。(広島の比治山に設置されたABCCの実態ドキュメンタリー)

 キューバ危機のとき、沖縄に配備されていた核搭載ミサイルの発射命令が、現地司令官の機転で回避されたが、当時のソ連・中国の同じミサイルは、米軍基地のある沖縄と日本に照準が合わされていたという。

人類のみならず地球上のあらゆる生命を絶滅の危機にさらす核爆弾が東西冷戦終結後の核軍縮で大幅に削減されたとはいえ、いまだに、恐るべき数の核ミサイルが設置されているのだ。

煮え切らない論戦がつづく「安全保障法制国会」で北朝鮮や中国の脅威を言い募る安倍首相は、米国と一体で、核の先制攻撃にも加担するのだろうか。

世界で唯一の原爆被曝国である日本は、今こそ、核廃絶運動を先導し、憲法九条の不戦の誓いを世界の平和遺産として、力強くアピールしなければならないとの想いが、『アラブと私』を書きつらねる81歳老人の胸にある。

31)からあとの梗概は、次回以降につづく。

                                  (続く)


添付画像
2015/09/02 16:53 2015/09/02 16:53

アラブと私

イラク3千キロの旅(99)

                             松 本 文 郎 

 

 ユーセフからもらった櫛目引きの土器が、紀元前1500年~2000年位のものと勝手に断じた私は、その先の収蔵品を足早に見て、博物館を後にした。

「バグダッドへの往路の夜半に通過したシーア派の聖地カルバラで、『カルバラの戦い』(11)の第3代イマームの聖廟に立ち寄り、今夜のうちにクウェイトへ着くのは、かなりきつい行程ですよ」

トヨペットを飛ばしながら、ユーセフは言う。

 

連載初期を読まれていない方々の便宜に、なぜカルバラがシーア派の聖地になったのか、往路のユーセフが語ったイスラム史の概略を再録する。 

発端は、ムハンマドの血筋アリーのカリフ就任に対してシリア総督のムアーウィヤが「バイア」(臣従の誓い)を拒否したことである。

 ウスマーンと同族のムアーウィヤは、ウスマーンが殺されたあとウマイヤ家の長となるが、彼の父は長い間ムハンマドに敵対した人間だった。この父子は、ムハンマドが630年にメッカを征服したとき改宗したが、その信仰心の程度については評価が分かれるとされる。

 つまり、ムハンマドやアリーが属するハーシム家とウマイヤ家とのあいだには、イスラム史初期から共同体の指導権をめぐる確執があったのだ。

 ハーシム家打倒を目論むムアーウィヤが一部の教友を従えてアリーに戦いを挑んだのは656年のことだが、この戦いでアリーのカリフ就任を不快に思っていたムハマンドの未亡人アーイシャ(2代目カリフのアブー・バクルの娘)がラクダに乗って戦場に現れたので、「ラクダの戦い」と呼ばれているという。

 戦いに勝ったアリーは、アーイシャをメディナに戻し、自らは歴代カリフが住んだメディナを離れ、イラク中部の都市クーファへ移った。

 ムアーウィヤはその後もアリーへの臣従の誓いを拒み、657年、両軍は再び、ユーフラテス上流のスイッフィーンで戦火を交えることになった。

 この戦いは勝敗が決まらず、調停の道を模索したアリーの妥協的な態度に失望した一派が袂を分かち661年、アリーは離脱者と呼ばれたこの一派の刺客の手によりクーファで命を落とした。

彼の死で、4代に亘った「正統カリフの時代」は幕を閉じ、シリア総督ムアーウィアは、ウマイヤ朝を開き初代カリフに就任した。

 その後、カリフの位はウマイヤ家の男子によって世襲されることになり、政権から追われたアリーの支持者たち(シーア派)は、ムアーウィアをカリフと認めず、アリー以前の初代から3代までのカリフの正統性も否定した。

 ユーセフが語るイスラム史の始まりを聞いたら、シーア派とスンニ派の当初の対立は、イスラム教典の解釈の違いなどではなく、共同体の統治権をめぐる権力の争いだと思えてきた。

人類史上、異なる神を信仰する宗教間の争いで、信仰上の対立はあるにせよ、共同体の維持と版図の拡大こそが重要な目的だったにちがいない。「カルバラの戦い」は、ムハンマドやアリーが属したハーシム家と帝国の第2期を築いたウマイヤ家との共同体統治権をめぐる確執の果てにあった。

 アリーのような預言者ムハンマドの血筋だけ,後継資格をもつ「イマーム」とした当時のシーア派は、アリーを初代イマームと呼び、イマームの位はムハンマドの末娘ファーティマとアリーとの間に生まれたハッサン・フセイン兄弟をへて、弟フセインの子孫へと引き継がれたとみなしている。

 イスラムの少数派でありながら、「イマーム」を中心にすえた宗教思想で独自の存在を続けてきたのがシーア派である。

「カルバラの戦い」当時のシーア派は、イスラム史で「正統カリフ時代」と呼ばれる歴史認識さえも、否定していたのである。

 シーア派にくみしない人たちは多数派であるが、党派性はもたず、アリーをふくむ4代のカリフをウマイヤ朝のカリフと同じように認め、コーランを正しく理解する知識の源として、ムハンマドの言行(スンニ)を重んじ、その収集に努めたので、「スンニ派」と呼ばれるようになったという。

 当時のシーア派の拠点は、アリーが居をかまえたことがある都市クーファにあり、ダマスカスを拠点に勢力拡大するウマイヤ朝からの自立をめざした。

680年、ムアーウイアの死をカリフ位奪還の機とみたクーファのシーア派は、第3代イマームに就いてメディナにいたフセインに再三、密使を送り、ウマイヤ朝への反旗を翻すように要請した。

しかし、ムアーウイアの指名で第2代カリフになっていた息子のヤズィードは、この動きを察知し、クーファのシーア派決起を封じ、4千の兵士をクーファの北西70キロ、ユーフラテス川の西20キロにあるカルバラにさし向けた。

 カルバラの荒野に到着したフセインの軍勢は、水補給源のユーフラテス川への道を敵軍に遮断され、渇きに苦しみながら惨敗し、フセインとその軍勢は灼熱の砂漠に果てた。

 フセインの首はヤズィードが待つダマスカスへ送られ、遺体は仲間や兵士の遺体と一緒にカルバラの地に埋葬されたという。

 

ユーセフがシーア派・スンニ派のイスラム史を話してくれたのは、サマーワの茶屋で休憩して、クレーチャ(ナツメヤシの餡、ココナツ、クルミなどをパイ生地で包んで焼いた菓子類)とペプシコーラを仕入れ、国道をかなり走ったときに遭遇した交通事故(8・参照)がきっかけだった。

 前方に、テールランプを点滅させる車列が目にとまり、対向車線の車の合間を計って、徐行しながら事故現場を通り過ぎたとき、路肩の下で傾いた車のルーフに、白布で包んだ細長い荷物を見て不審そうな顔をした私に、

「あれは、イランから運ばれてきたシーア派の人の遺体で、カルバラの聖廟に埋葬するためです」とユーセフが教えてくれたのである。

 カルバラにあるイマーム(預言者ムハンマドの血筋のアリーとその子孫)の墓廟はシーア派教徒の聖地で、信者のための巨大な墓地があり、聖地での埋葬を遺言された家族は、イランから千キロを超す行程をものともせず、遺体を搬送する。

 世界のイスラム教徒の約90%はスンニ派で、16世紀初頭にシーア派が国教となったイランでは国民の圧倒的多数を占めており、イラクやバハレーンでもシーア派は多数派である。

 パキスタン、インド、アフガニスタン、レバノン、サウディアラビア、クウェイトなどでは少数派だが、シーア派をめぐる状況は国ごとに異なり、シーア派とスンニ派の関係も多様で、両派の対立を教義面だけで捉えると、その背後にある政治的、経済的利害関係を見落とすことになると、幾度も記してきた。

 ともかく、シーア派とスンニ派との間には緊張や争いを経験しつつ共存してきた千年を超す歴史の存在を、しっかり認識することが大切だ。  

 イラン・イラク戦争をした両国が共に、「IS」と戦っている今の情況を、教義の相違からだけで解明することできないと思われるが、カルバラへ向かう車中に戻るとしよう。

 

 カルバラへは、バグダッドからバスラへ向かう国道から分岐した道を行き、聖廟の広いパーキングにトヨペットを停めた。

 車を降り、四隅にミナレットが立ち、長大な塀に囲まれた聖廟の門へと歩きながら、

「異教徒がここへ入ることは許されていませんが、チーフとクリスチャンの私が妙なそぶりをしないかぎり大丈夫ですから、心配されないように!」

とユーセフが、耳元で囁いた。

 中に入ると、正面に荘厳なモスクの入口があり、他の三面には、林立する柱列に囲まれた回廊が巡っていた。

 広場の中央に水を張った小さなプールがあり、人々が手足を清め、蛇口の水で口を漱いでいる。

「モスクの中に入るのは遠慮するのがよいでしょう。この辺にしばらく居てから退出しましょう」

 回廊を担架のようなものを担いでゆく人たちがいて、あの白布に包まれた遺体が運ばれているのが見えた。回廊の奥に、墓地があるのだろうか。

 

1971年に訪れたこの聖廟で、30余年の後、「IS」の前身とされるイラク・アルカイーダによるモスクの破壊があったが、社会主義バース党のスンニ派政権下では、イランからの遺体の搬送が、ごく日常的に行われていたのである。

 ところが、1980年のイラン・イラク戦争でフセイン(スンニ派)大統領側についた米国が、9・11のイラク侵攻ではシーア派のマリキ首相を担ぎ、今は、「IS」との戦いにイランの精鋭部隊も参加させる、その場しのぎの「ご都合主義」の結果が、「IS」出現と各地での残虐行為を招いたとされている。

 

 咎められることもなくて聖廟を出た私たちは、一路、久しぶりのクウェイトをめざして、交代でハンドルを握った。

 振り返ると、イド休日のイラクの旅は5泊6日に及び、私とユーセフが願ったアハラムとの再会だけでなく、思いがけない数々の出会いの連続だった。

 その各々のシーンを想い起こし、2015年の今のイラクの危機的状況を前にした81歳老人に、言いつくせない哀しみと怒りがこみあげる。

 

 折しも、《NTTクウェイト・コンサルタント業務50周年記念の集い》が神田・学士会館(6月15日)で催された。1965年の契約締結から10年後の1975年のプロジェクト完成を偲ぶ、久しぶりの集いだった。

 このプロジェクトは、電電公社(NTT)初の海外コンサルタント業務に国内外で従事した総勢百五十余名の関係者が、電電記念日の「総裁表彰」を受けた画期的なもので、「クウェイト会」の初会合は、私が帰国した翌年(1975年)に開催され、家族同伴で最長在勤となった私は、米澤 滋総裁(当時)から記念品を戴く栄に浴した。

「50周年記念の集い」の幹事を買って出た私は、久しぶりの2時間ばかりの歓談のよすがとして、出席予定者のプロジェクトへの想いと近況を記した文を募り、プロジェクト完成当時の資料と共に編集した手作りの『冊子』(A4版122頁)を「集い」の10日前に出席者へ届けた。

このアイデアは、大学仲間の5年毎の同期会と同期入社の総会に際しても、数回にわたり好評を得ていたので、今回も、同じ役割を果たせて幸いだった。

 

足かけ7年という思いのほか長い連載となった『アラブと私』の序章「イラク3千キロの旅」を無事に終えた後には、《NTTクウェイトコンサルタント業務》の目玉であるテレコムセンター建築工事現場の熾烈な日々が待っている。

3年間(1971年~1974年)におよんだ『アラブと私』の続きをご高覧くだされば幸に存じます。

      (続く)



添付画像
絵の説明 ↑ <フサインの殉教>
フサインの殉教」(「カルバラーの悲劇」)は、第4代カリフのアリーの子であるフサインが,イラクのカルバラーにおいてウマイヤ朝軍によって殺害された事件である





2015/07/13 01:38 2015/07/13 01:38


アラブと私
イラク3千キロの旅(98)

                              松 本 文 郎 


(94)から4回に及ぶ寄り道で、「イスラム国」に関する記事をたてつづけに書いたが、思えば、これまでも随所で寄り道をしてきたものだ。
 1970年からの4年間在勤したクウェイトとアラブへの想いで書いてきた《アラブと私》が、足かけ8年で、『イラク3千キロの旅』(バスラ・バグッダッド・モースル往復5泊6日)の記述が(97)にまでなったのは,あちらこちらでの寄り道のせいである。
 3回目のバスラのベリーダンサー・娼婦の話から、ティツィアーノの有名な絵のヴィーナス像のモデルがベニスの高級娼婦の一人だったこと、イラク戦争5年目(2008年)のバスラの大油田地帯の利権を巡り、マリク首相が率いる政府軍とサドル師の民兵組織マフディ軍(シーア派同士)が戦闘中であるなどを書いて、道草をしている。
 初回に書いたように、『何でも見てやろう』の小田 実流に、1970年代前半のクウェイトでの仕事と生活を思い起しながら、あれから半世紀近くを経たアラブの現実との間を往還する意図の執筆だからである。
 ではタイムスリップで、(93)のバグッダッドのホテルへ戻るとしよう。

 眠りこむ寸前の湯舟から立ち上ったのは正解だったようだ。極度の疲れで忍び寄った睡魔が、バスタブでの溺死を招いたかもしれないからだ。モースル往復(1泊2日)の旅はかなり強行軍だった上に、バグダッドへ戻ってすぐアハラムらをディスコクラブへ招待したのだから。モースルの街(初期アッシリアの砦の町)では、ユーセフの知人ら(アッシリア東方教会の神父/ヤズィーディー教のクルド老人/ガレージの若主人)に次々に会い、モースルの歴史と現実について得難い話を聞き、大阪万博や日本の経済発展について話をして、濃密な時間を過ごした。
「イスラム国」のモースル侵攻では、少数民族のヤズィーディー教信者を山岳地帯へ追いやったり、女性たちを捕虜(奴隷)にしたと報じられたが、45年前の私は、迫害を受けた人らの洞窟住居を訪れ、お茶を戴いたのだ。
 モースルの博物館襲撃では、貴重な東西の文化遺産が破壊されるシーンがテレビ画面に映され、バーミヤンの岩山の巨大仏像が爆破されたときと同じ衝撃を受けた。
「偶像」を禁止するコーランの教えの真意を全く理解していない「蛮行」と言うほかない。
 この程度の道草的記述なら、全体の筋道を混乱させないだろうし、《アラブと私》の執筆の意図からも、読者のご理解をお願いしたい。

 バスタブの溺死を免れ、ベッドに倒れこんで爆睡した私を翌朝起こしてくれたのは、ユーセフの強いノックだった。  
 眠気眼で開けたドアから入ってきた彼の手に、昨夜告げられていた「土器」の紙包みがあった。
 バグダッド近郊の潅漑改良工事の現場監督をしていて見つけた古代の土器で、高さ20センチ、胴回り約10センチ、細い首の下の両脇に取手が付いている。胴には縦溝の素朴な模様がある。
「地中6メートル位だからかなり古い年代のものでしょうが、これから行くイラク国立博物館の陳列棚で、似ている土器を見つけましょう」と笑顔で言う。
 母親と朝食を済ませてきたユーセフを待たせ、食堂に下りる。冷い生のオレンジ・ジュースが喉を下ると、心身が一気にリフレッシュした。イドの休暇の旅も最終日。夜中にはクウェイトに戻るので、充実した一日を過ごしたいと願う。荷物をまとめてチェックアウトして、駐車場のトヨペットクラウンに、2人は乗り込んだ。
 母親がユーセフに持たせたクレーチャとコーラ、オレンジがあるので、昼食と夕食は車中で済ませ、2人の旅の残りの時間を有意義に使うと決める。
 バグダッドのイラク国立博物館には、5千年以上の歴史をもつメソポタミア文明の考古的遺物を擁する世界でも屈指のコレクションが、6部門に構成された数多くのギャラリーに展示されていた。
 シュメール、アッカド、バビロン、アッシリア、アッバース各帝国の遺物展示は、整然と区分されていた印象はあるが、写真を撮っていないので、詳細の記憶はない。
 紀元前9百年から紀元539年のアッシリア帝国とバビロニア帝国の歴史については、寄り道でその概略を記したが、旧約聖書の「バビロン捕囚」のネブカドネザル2世が、被害者(イスラエル人)の視点で書かれている残虐なイメージの反面で、豊かな都市文化・文学世界・洗練された官僚制度をもったことが、考古学的調査と楔形文字(19世紀に解読)とで明らかになった。
 博物館の入り口前に立つ彫像はアッシュール・ナツィルパル2世。アッシュールの首都カルフの要塞内の神殿で発見され、神を崇拝してやまなかった王が完全な姿で出土した珍しいものだという。
 玄関の両脇に、人の顔を持つ有翼の天馬の彫像があった記憶だが、1969年に訪れたペリセポリス(イラン)遺跡の中央階段レリーフの彫像に似ていた印象だけ、おぼろげに残っている。
 館内の天井は高く、靴音やユーセフとの話声がよく響いた記憶もあるが、なんだか心許ない。
 アッシリアの財宝は、カルフの宮殿地下の王妃の墓から見つかった装飾品の数々や、要塞の井戸から見つかった象牙の彫刻などがある。
 王妃を美しく飾っていた耳飾り・ブレスレット・ベルトなどの素材は、金(ある墓の副葬品には14キロも使われていた)のほかに、ラピスラズリ、紅玉髄、水晶などの準宝石で、工芸技術の水準は高く、宝石の加工技術はさまざまで、象牙彫刻も精巧だった。
 その様式から、これらの品々を作った職人たちがアッシリア帝国内だけでなく、周辺や西方の出身者もいただろうと思われた。
 モースルからバグダドへ戻る途中の街はずれで遠望したアッシリア帝国最後の都ニネヴェからは、数万点もの楔形文字の文書が発掘され、軍事遠征の年代記、日常的な契約、書簡、行政文書のほかに、天文学や世界の様相などの科学的な探求記録もある。
 アッシリア王アッシュール・バニパル(在位・前668―627)のエジプトの首都テーベ略奪の様子の記録に、「アッシュール神とイシュタル神のご加護によって私はこの町のすべてを両手に収めることができた。宮殿を満たすほどの銀、金、宝石。美しい色の亜麻の衣装、立派な馬、男女の住民。純銀の2本の高柱(重さ7万5千キロ)は神殿の門に立っていたのをアッシリアへ持ち帰った」とある。
 アッシリア人は、打ち負かした相手への残虐行為を克明に文章や絵に描写しているが、浮彫の中に、センナケリブ王の兵士が、イスラエルを支援したエジプト人らしい2人の皮をはいでいるのがあった。
 アッシリア・バビロニア帝国共に、恐怖という手段で服従をかちとったようで、軍の出動では力の行使に容赦はなかった。
 歴代の王たちは、略奪した品々の一覧を作っているが、侵略が富の流入をもたらし、毎年の貢物や租税が資産の増加につながったことが明らかになっており、征服地の住民の強制移住によって、帝国人口をはるかに上回る労働力を確保した。
 都市に作られた宮殿、神殿、庭園のすばらしさを寄り道で書いてきたが、それらの遺跡がみすぼらしいのは、泥の日干しレンガの建造物が崩れ、シリアの山中から運んだ杉材が腐食して原形を失ったからである。
 都の町並みを美しく整えたアッシリアとバビロニアは郊外の開発も進め、灌漑整備で農業振興に努めた。アッシリアでは都市ニネヴェに水を引く灌漑が整備されたが、雨が少ないバビロニアではメソポタミア南部に灌漑網を張り巡らせて、人工的給水で作物を育てた。このインフラ建設には、外国から連れてこられた住民が動員されただろうと書かれたアラビア語の説明書きを、ユーセフが読んでくれた。
「私が現場監督で関わったバグダッド近郊の灌漑改修工事のインフラは、紀元前に建設されたものに重なっているのではないでしょうか。ホテルで差しあげた土器の年代を知るために、古代の生活用具を陳列する部門の室へ急ぎましょう!」
 夥しい生活用の土器が並ぶギャラリーの説明を読みながらユーセフが解説してくれたのは、
・生活土器の生産に従事したのは女性。
・初期の土器は細い矩形の粘土を輪積みして作ったので、厚く、ごつい感じ。
・自分の髪を梳いた櫛で模様をつけた櫛目模様。
・豊かな三日月地帯の原始農耕と共に、無文土器が彩文土器へと発達したのは、紀元前5千―3千年の頃。 などだった。古代の生活土器の出土した地層図も掲げてあり、ユーセフが見つけた6メートルの深度、胴の櫛目模様とから、4千―3千5百年前位ではないかと推定する。
 考古的遺物といえば、電気通信研究所建築基本計画の技術指導でテヘランを訪れる(1969年)途上、電電公社の技術協力で稼働していた同種の施設見学で立ち寄ったハリプールで、古代都市のタキシーラで発掘されたという仏頭(掌に入る大きさ・ヘレニズムの影響が明確なかたち)入手した時を思い出した。
 駐在の日本人所長が地元村長から贈られたものを譲り承けたが、考古的遺物は国外持出し禁止と聞き、罰当たりにも、下着に包んでトランクの底へ隠して、テヘランへ向かった。
 それをユーセフに話すと、「仏頭よりも遥かに古いですが、美術品ではないからノープロブレムでしょう」と言う。
 村長からとはいっても、あの仏頭は百パーセント信用できるわけではないと半信半疑だったが、ユーセフからの土器は、彼自身が現場で見つけたものだから間違いはなかろう。帰国後、上野の国立博物館で判定してもらうのが楽しみだ、と思った。
 このイラク国立博物館は、2003年のイラク戦争の騒乱に乗じて、約1万5千点の像などが密売目的で略奪された。その後、イラク国内外で発見された約6千点の内約4千3百点を関係者の忍耐強い努力で回収した博物館は、今年(2015年)2月、公開展示の再開にこぎつけたと報じられた。
 これは、モースルの博物館で起きた、「イスラム国」戦闘員による貴重な古代石像の破壊への反発を示すためだという。
「イスラム国」が公開した動画でハンマーを振う戦闘員の1人がカメラに向かって、「イスラム教で禁止されている偶像崇拝の象徴を、宗教的な見地から破壊する」と主張していたが、当局者や専門家らは、大きすぎて「イスラム国」の資金調達が目的の密売が不可能な像を破壊したにすぎないと見ているという。
 破壊された石像もヘレニズムの影響があるものに見えたが、多様性を重んじる寛容なイスラムが伝えてきた東西の貴重な文化遺産が、蒙昧極まる連中によって瓦礫に帰したのは、実に腹立たしいことだ。
「イスラム国」の寄せ集めの戦闘員の中の不心得者が、こうした蛮行を重ねれば、制圧した地域の人心は彼らから離れるに違いない。
 ただ、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダなど元植民地主義国からやってきた戦闘員の一部に、かつて侵略した植民地から略奪した考古的遺産や美術品が、自国の国立博物・美術館に陳列されているのをよしとしない人間もいると思われる。
 前6世紀のバビロニアに建てられたイシュタル門は、青い釉薬をかけたレンガが美しく、模様の龍と牡牛は町の入口を守るものとされていたが、この門を発掘したドイツ人は、丸ごと持ち帰り、古代中東建築を代表的な遺構として、ベルリンの中東博物館に展示されている。エジプトへ遠征したナポレオンが国へ持ち帰ったパリの巨大オベリスク、ロンドンの大英博物館で見たエジプト・ミーラの数々と副葬品、イラクの最古の都市ウルから出土した、王の死後の世界を描いてある貴重な考古的遺産など、枚挙にいとまはない。
 所属男声合唱団の初の海外公演をソウルの女性合唱団と世宗文化会館ホールで共催して、慶州の仏国寺を訪ねたとき拝観した大日如来座像を日本軍が持ち帰ろうとしたが、巨大すぎて諦めたことを女性ガイドに言われ、恥ずかしい想いをした。
 ネブカドネザル2世が豪語した略奪のようなはるか彼方の時代はともかく、自由・平等・友愛のフランス革命後の世界でも、侵略先の文化遺産を戦利品とみる、国家的略奪行為があったのだ。
 元赤軍派のゲリラ事件やオーム事件でも、無差別な殺人行為を正当化する身勝手な理屈を述べ立てたが、「イスラム国」戦闘員のまねをする人間が日本に現れはしないかと危惧した矢先、奈良など各地の寺社仏閣の文化遺産を傷つける事件が起きたのである。
 安倍首相の前のめりの「イスラム国」対決宣言は、世界に誇るわが国の類まれな仏像の毀損を防ぐに十分な防御システムがあると、確信してのことか。      
                                  (続く)



添付画像

ペルガモン博物館ベルリン)のイシュタル門

2015/06/11 18:13 2015/06/11 18:13



アラブと私

イラク3千キロの旅(97)

 

                                        松 本 文 郎 

 

 中東・アフリカ一帯でのイスラム過激派組織によるテロ・戦闘が、拡大の一途をたどっている。

「チュニスの春」で長期軍事独裁政権を崩壊させて以降、比較的順調に民主化が進んでいたとするチュニジアで、国立博物館を訪れた大型クルーズ観光客が襲撃され、20余人(日本人3人も)が殺害された。

 イスラム過激派のハーレド・シャイブ容疑者ら実行犯2人が殺害され、20人あまりが逮捕されている。実行犯グループは、「イスラム国」支持の組織とみられる。

 サウジと国境を接するイエメンでは、シーア派武装組織「フーシ派」が、首都サヌアを掌握して暫定政府樹立を宣言し、ハディ暫定大統領が逃れた南部に侵攻している。

 サヌアの2ケ所のモスクで起こった自爆テロとみられる爆発事件では、死者数が140人を超え、「フーシ派」支持者が多くふくまれるという。

スンニ派の「イスラム国」が犯行声明を公開して、イスラム過激派同士の宗派対立を背景にした武力衝突が拡大している。

「イスラム国」は、チュニジアの博物館襲撃事件に続いて、政府軍と戦闘中のシリア・イラクから他の中東地域にまで、勢力を拡張しているのだ。

 この情況下、エジプトのシャルム・シェイクで開催されたアラブ連盟首脳会議が、アラブ合同軍創設の方針を明らかにした。

 創設の要因には、リビアでエジプト人キリスト教徒をISに殺害されたエジプトのIS・リビア拠点の報復空爆2月)、イエメンのハディ元大統領を辞任に追い込んだ反政府フーシ派へのサウジ空軍の爆撃(3月)があるとされる。

このアラブ合同軍は、中東全域で同時多発的に進行しているテロ・内戦(シリア,イラク、チュニジア、イエメン、ケニアなど)の深刻な情況に、「アラブ諸国がかつてない危機にさらされている」として創設されたという。

イラクのジャファリ外相はアラブ合同軍について、「イラクはアラブ諸国の支援を必要としているが、地上軍派遣は望まない」と明言し、空爆については、「イラク政府との調整のためのドアは開かれている。ただし、イラクの独立と尊厳に沿った作戦でなければならない」と語ったという。

ジャファリ外相は、湾岸戦争の時のPTSDでもかかえているのだろうか。

 アラブ合同軍は、イラク軍のクウエート侵攻で勃発した湾岸戦争(1990年6月)でアメリカ海兵隊と共にクウエート市内に侵攻したが、それは海兵隊と多国籍軍地上部隊がイラク軍戦車部隊を全滅させイラク軍9千名を捕虜にした後からだった。

 そのとき米国に空軍基地を提供した母国サウジへ反旗を翻したオサマ・ビンラディンは9・11を引き起こしたが、サウジアラビアが今回のように、他国に対して積極的軍事行動を行うのは極めて異例とされる。

サウジの空爆にもかかわらず、2014年から急速に勢いを増した「フーシ派」の勢力は衰えていないようだが、追放されたハディ元大統領を支援するサウジアラビアは、イエメンが「フーシ派」に支配された挙句、イエメン・サウジの国境近辺に住むシーア派部族と結びつくことを危惧しているのだろうか。

自衛的先制攻撃とでもいう「戦争」を、アラブの隣国に仕掛けることで、宗派間代理戦争が他のアラブ国へ波及し、イエメンが第2のシリアになることが危惧される。

 

「イスラム国」の出現は、イラク侵攻の間違いを犯したブッシュ元政権の無謀な戦争に、イスラム過激派が反発したのが原因とされるが、強権的なフセイン元大統領が束ねていたスンニ・シーア両派やクルド族の利害衝突のパンドラの箱を開けてしまったのでる。

 有志連合に入っているアラブ諸国(サウジアラビア、ヨルダン、バーレーン、アラブ首長国連邦)は、米国、オーストラリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、オランダ、英国と共にシリア・イラク空爆に参加している。

 これらアラブ諸国が連帯を強め、アラブ合同軍の結成に動くまでに、二つの大きな節目があった。一つは、1978年にバグダッドで開催された「アラブ連盟」の首脳会議でイスラエルと単独和平を結んだエジプトをアラブ連盟から追放したことであり、もう一つは、湾岸戦争前夜、フセインのイラク側につくかクウエート側(つまり米国)につくかで分れたたとき、連盟に復帰していたエジプトが主催国としてやや強引に「イラク非難決議」を押し通してアラブ連盟が分裂したことである。

 議事を進めようとするムバラク元エジプト大統領にリビアのガダフィ大佐が拳を振り上げて抗議する姿が、当時のテレビ番組で映された。

 

1978年から30年前のエジプトは、パレチナ人を追い出した地へのイスラエル建国に反対して戦いを挑んだパレスチナ戦争(第1次中東戦争)で敗れた。なにがなんでも建国・独立を果たしたいイスラエルに、バラバラに戦ったアラブ諸国が各個撃破されたのである。エジプトの腐敗したムハンマド・アリ朝を革命(1952年)で倒した新生エジプト指導者ナセルは、アスワンに巨大ダムを建設するための融資をアメリカ、イギリス、世界銀行に申し入れて好意的な反応を得ていたが、エジプト軍再建のためのソ連製武器が港に着き始めたことで、融資撤回の通達を受ける。ナセルによる歴史的な「スエズ国有化宣言」は、通達から1週間後(1956年7月26日)に行われたが、スエズ運河会社の収入で巨大ダムを自力で建設する意図を持つものだった。その日は、ファルーク国王が追放されて4年目の記念日で、ナセルは、ムハンマド・アリ広場にあふれた群衆に向かって演説した。

「私は発表する。私がいま諸君に語っているこの時間に、万国スエズ運河会社はこの世から消えた。

いまや運河はわれわれのものだ。スエズ運河は、ハイダム建設を十分にまかなってくれるだろう」

「運河を掘ったのはエジプト人で、中途で12万人のエジプト人労働者が犠牲になった。運河は、エジプトの利益に奉仕すべきだったが、反対に、エジプトが運河に属するようになった。帝国主義者の陰謀に頼り、国家の中の一国家をなしていた運河会社の権利を、われわれは今日、取り戻した。

私はエジプト人民の名において、この権利を守りぬくことを宣言する!」

 そのほかの言葉は、群衆の熱狂と興奮の渦の中にかき消されたという。

 長年に亘りアラブ世界を支配してきた西欧列強向けた民族的挑戦として、アラブ民族主義の連帯意識を鼓舞した、まさに歴史的瞬間だった。

 このスエズ危機に国連が介入して解決策を模索中、イスラエル軍が突如、シナイ半島に侵入し、イギリス・フランス軍は、「エジプト・イスラエル間の戦闘からスエズ運河を守るため」と称して、ポートサイトに上陸したのが第2次中東戦争だ。

 イスラエルの侵入意図は、行動開始の4日前にエジプト、シリア、ヨルダンが結んだ軍事同盟の包囲を断ち切ることで、イギリス・フランス・イスラエル3国の共謀による侵略戦争だったと後でわかったという。

 この地域紛争は、3国に対して「核の脅し」をして世界危機へエスカレートしたが、アメリカの必死の工作で、国連軍が3国と交代する条項を含む停戦決議が国連安保理で採決されて幕を閉じた。

 ユダヤ系イギリス人の歴史家アイザック・ドイッチャーの『非ユダヤ的ユダヤ人』には、

「イスラエルは恥知らずにも、ヨーロッパの破産しかけている帝国主義英仏両国の最後の共同利益であるスエズ運河会社とエジプトを手中に置こうとする最後のあがきの中で、古い帝国主義の手先として行動した。(中略)イスラエルは、道義的にも政治的にも全く悪い方の側についたのである」と書かれている。

 ナセルは3国に攻められ戦場では完敗したが、何も得るところがなく撤退した侵略者との戦争には勝ち、一躍、アラブ民族主義の英雄になった。

一世を風靡した第3世界のリーダーにのし上がった「ナセル時代」の幕開けだった。

 ナセルは国有化宣言の公約に基づく全株主に対する補償を予定より1年早く完了し、スエズ運河は名実ともにエジプトのものとなった。

 ソ連の援助で工事を開始したアスワンハイダムは10年かけて1970年に完成したが、ナセルは過労がたたって、翌年1月に予定された公式の完成記念式典の3ケ月前に急逝した。

 クウエート・テレコムセンターの工事現場で、建設業者のエジプシャン・カンパニーが主催した。追悼式典に、コンサルタント事務所に着任して間もない筆者が参加させてもらった話は、連載(1)に書いた。

 

 ナセルの後を継いだサダト大統領がイスラエルに奇襲を仕掛けて始まった第4次中東戦争では、冷戦下の米ソの応援合戦もあり、「サダトの戦い」と称された十月戦争は、通常兵器では史上最大の戦争だった。

 その2年後に閉鎖が8年続いた運河を再開して1975年6月に記念式典を主宰したサダトは、1978年度ノーベル平和賞を受賞した翌年にはイスラエルと平和条約を結んだので、エジプトはアラブ連盟から追放されたのである。

それからは、アラブ諸国がまとまることはなく、アラブ連盟がかつて掲げてきた「アラブの連帯」はタテマエに留まり、アラブの人びとの心を繋ぎとめるのは、アラブという民族的共通性ではなく、イスラムという宗教的共通性がアラブ政治を動かしてきたとされる。

 だが、次第に勢力を拡大する「イスラム国」へ百を越す様々な国々からの参加者が後を絶たない状況の分析は、しっかり複眼的に行う必要があると思われる。

 中東・アフリカでテロ・紛争・内戦を起こしているイスラム過激派の相互関係も実に複雑だ。

・シリア・イラク(「イスラム国」)

・チュニジア(アンサール・アルシャリフ)

・イエメン(フーシ派・アラビア半島のアルカイダ)

・ケニア・ソマリア(アル・シャバーブ)

・アルジェリア(マグレブ諸国のアルカイダ)

・ナイジェリア(ポコ・ハラム)

・リビア(アンサール・アルシャリフ)

・パキスタン(パキスタンのタリバン運動)

これら過激派が国内外で起こす襲撃事件が報じられない日はないほどである。

 ケニア東部ガリッサの大学構内に侵入して多くの学生(147人)を射殺したのは隣国ソマリアを拠点とするイスラム過激派「シャバブ」が犯行声明を出した。

 学生寮に侵入して警備員を殺害して、イスラム教徒の学生を外に出し、キリスト教徒の学生だけを選んで殺害し、約8百人の学生の内、3百人の所在が不明という。

 日本人観光客が多く訪れる(筆者の娘婿一家もかつてサハリを訪問)ケニアでは最近、シャバブによるテロが多発しており、首都ナイロビの大型ショッピングセンターが襲われ、67人が殺害された(2013年)後も、東部中心にキリスト教徒ら数十人が殺害されるテロが起きている。

 

ナイジェリアの大統領選では、「ポコ・ハラム」のテロを抑え込めなかった現職大統領に国民の非難が集中し、最大野党の元最高軍事評議会議長が(83年のクーデターから85年まで国家元首に)当選して政権交代が行われた。

 選挙妨害を宣言していた「ポコ・ハラム」は、投票日の投票所などを襲って40人以上を殺害。今後もテロや誘拐を頻発させるとみられ、新政権にとって、激化する過激派をどう封じ込めるかが喫緊の課題とされている。

 イラク政府軍が掌握したティクリート市では、スンニ派が多数を占め、スンニ派国家の建設をめざす「イスム国」を支持する住民も少なくないので、シーア派主導の政府が率いる作戦は「侵略」とみなされる恐れもあったという。

 マリク元首相に率いられてスンニ派市民を虐殺した政府軍の残党と思われるシーア派民兵らが、スンニ派住民の住宅に放火・略奪し、モスクへの過剰攻撃をした報告が相次いだので、空爆をした米軍が、シーア派民兵の前線からの撤退をイラク政府に要求したとされる。

 今後、新たに市民の被害が確認される可能性もあり、政府が地元住民の支持を得られるかどうかが、作戦の成否を左右すると思われる。

 

泥沼の内戦が続くシリアでは、「イスラム国」が首都ダマスカス南部のヤルムークに侵攻したが、米軍などの空爆を受けながらも、支配地域をほぼ維持していると報じられた。

 ヤルムークはダマスカス中心部から約5キロ。アサド政権が受けた衝撃は、大きいとみられる。

 ヤルムークにあるシリア最大のパレスチナ難民キャンプ(約1万8千人)の大半は制圧されたとされる。ヤルムーク南部は、「イスラム国」と対立するアルカイダ系「ヌスラ戦線」支配下だったが、「イスラム国」に共鳴する現地のヌスラ戦闘員が、ISの侵攻を手助けしたとの情報もある。

 内戦前のシリアで、国連に登録したパレスチナ難民が約50万人いて、ヤルムークほか9ケ所の難民キャンプで生活していたが内戦の激化で多くの難民がキャンプを離れ、ヤルムークでは約18万人から1万8千人に激減していた。

 このキャンプに反体制派の武装勢力が入り込んでいるとした2013年以降、アサド政権に封鎖されて猛攻撃を受け、食料・医薬品搬入も止められ、戦闘の巻き添えや餓死で多くの市民が犠牲になり、シリアの人道危機を象徴する場所とされていたという。

 オバマ政権は、自国民を虐殺したアサド政権に正統性はないとして退陣を求めたこともあって、「イスラム国」掃討で、手を組めないジレンマがあるとされる。

朝日新聞の取材では、「イスラム国」はシリア国内で内部抗争があるとみられ、今年に入ってから、「イスラム国」を脱退して「ヌスラ戦線」など他の過激派組織に参加する戦闘員が目立つという。

 統制された軍隊のイメージだった「イスラム国」は最近、傘下の各グループがそれぞれの思惑で攻撃している印象で、今回のような町の制圧は続くとしても、組織をあげての行動でなければ支配が維持できるかどうか疑問とみる向きもある。

イエメン南部には仏週刊新聞襲撃事件への関与を主張する「アラビア半島のアルカイダ・フーシ派」拠点があるが、それを支援しているイランは、イラク中部のティクリート奪還作戦のイラク軍とシーア派民兵の指揮にイラン革命防衛隊司令官を関わらせる一方、イラン核開発協議が山場を迎えており、米国の中東政策はイランを巡り、各地で相反した構図になっているややこしさだ。

 

「イスラム国」をはじめとするイスラム過激派の各地での活動拡大を見てくると、「自由と民主主義」の価値観を共有する有志連合と共に「イスラム国」(IS)と戦う、と高らかに宣言した安倍首相が、どこまで、有志連合参加のアラブ・欧米諸国の個別の思惑や利害関係の複雑さを理解しているのか、疑問を感じざるを得ない。

 民主党の自失で漁夫の利を得、衆参両院で連立与党の過半数を手にした安倍内閣が戦後レジームからの脱却を掲げて、不戦の平和主義を否定する一連の時代錯誤的政策を強引に押しすすめる政治の立ち位置では、有志連合アラブ諸国の政治が、民主主義の定義からほど遠いものである実態も、さして気にならないのであろう。

次回は、一九七一年のバグダッドにワープして、アメリカのイラク侵攻後、イラク人に略奪されたバグダッド国立博物館を訪ねることにしよう。

              (続く)




2015/04/08 15:49 2015/04/08 15:49

アラブと私 イラク3千キロの旅(96)

                          松 本 文 郎 


 
 世界中を震撼させた「イスラム国」メンバーによるフランス「風刺画新聞社襲撃」と日本人二人を含む「人質処刑」を論じるキイワードとして、「自由」「宗教」「民主主義」を挙げた前回を承け、拙論を述べてみたい。
 その中に、第345回「こぶし会」(三十数年続く談話会)で話した『「イスラム国」について』(二○一五年二月二十三日・情報通信エンジニアリング協会ビル)の梗概(項目は左記)の一部も加えたい。
 1.「イスラエル・パレスチナ問題」
 2.過激思想と「テロリズム」
 3.「宗教」「自由」「民主主義」
 4.人類社会と「動的平衡」
 5・日本の立ち位置と安倍政権の行方
 
 前回、イスラエル・パレスチナ問題に関わる体験(杉原千畝夫人の述懐・パレスチナ人オフィスボーイらの証言)を書いたが、「イスラム国」出現のきっかけがブッシュ元大統領政権のイラク侵攻だったとしても、その背景に、第二次世界大戦後に生じた「イスラエル・パレスチナ問題」があることを、しっかり認識する必要があろう。
 パレスチナ・コマンド(ゲリラ)の「テロ」を非難する一方で、国連決議を無視したイスラエルの国家テロ(女性・子供を含む無差別大量虐殺)の非人道的過剰報復の残虐無比を非難しないで「人道的云々」を声高に言うのは、まやかしと言うほかない。
 そもそも、アラブ人とユダヤ人がセム族で同じ系統の民族だと知らない日本人は少なくないが、アラブという名称はセム語のアラバ(大砂漠)に由来し、紀元前二○○○年頃メソポタミアから移住してきたセム系諸族の中、パレスチナの海岸近くに住みついた半農半牧の民がのちのユダヤ人、大砂漠の放牧民がアラブ人と呼ばれた。
 ヤハヴェを信じて団結したユダヤ人には他民族を蔑視する傾向があり、誇り高い砂漠の民アラブ人に反ユダヤの感情が流れたという。
 紀元七○年、ローマ帝国のエルサレム攻撃では、この感情を利用してアラブ人騎兵部隊を参加させたが、パレスチナのユダヤ人を撃破して世界へ四散させた一方で、砂漠に砦を築いて、アラブ人をアラビアの砂漠に押し込めたのである。
 それにしても、ローマの帝国支配のやり口と、第一次世界大戦後の英仏によるアラブ分割(サイクスピコ協定)の欺瞞性の類似に慄然とし、「イスラエル・パレスチナ問題」の歴史の長さと奥深さに茫然となる。
 第二次安倍内閣のスタート時点で菅官房長官が、「この政権がつまずくとすれば、歴史問題だ」と報道陣に述べたのが印象的だったが、中国・韓国との歴史認識問題にとどまらず、数千年におよぶアラブの歴史を学んでいれば、(スピーチ作成黒子も)ネタニヤフ首相と並んだ不用意なスピーチで日本の安全保障を危うくしかねない状況を招かずに済んだのではないか。
 先日、上下院の合同特別議会でオバマ大統領のイラン政策を猛列に批判したネタニヤフ首相演説に大統領が不快感を示したことで、これまで超党派でイスラエルを支持してきた民主・共和両党の支持者やユダヤ系米国人の間に大きな波紋が生じている。
 米国は、一九四八年の建国とその後の中東情勢の様々な変化の中でもイスラエル支持の立場を貫いて、毎年三○億ドルの軍事援助を続けてきた。
 二年後退任のオバマ大統領の外交政策に対して保守派の揶揄が姦しいが、イランの核兵器・開発中止交渉は、イスラエルの安全保障だけでなく、中東和平にとっても重要な意味をもっている。
米国との関係改善をめざしているイラン現政権は、「イスラム国」壊滅の戦闘に加わっており、
一九六九年にOECD技術協力で訪問したイランで米・イの親密な関係を見た筆者は、交渉の行方から目が離せない。

 再び、アラブ人とイスラム教の歴史に戻ろう。
 ユダヤ人を世界へ放逐したローマ帝国によって砂漠へ押し込められたアラブの放牧民は、砂漠では多数の人間を養えず、数世紀ののち、ムハンマドのイスラム教と共に砂漠から四方へと進出して、イスラム(サラセン)帝国を建設した。ムハンマドの没後百数十年を経てバグダッドに帝都を築いたアッバース朝は一二五八年まで命脈を保った。
 イスラム帝国が六百年近く続いたのは、征服した他民族が敵対しないで税を払えば、その宗教や文化を容認して多様性を維持したからとされる。
 以前欧米で、アラビア人が「剣かクルアーンか」の態度で征服した諸国民が争ってイスラムに改宗したと言われたが、いまだに、誤解したままの人が少なくない。なにしろ「宗教」は、人生における最も重要な課題についての信念なので、心から納得しないかぎり、剣をもって迫られても易々と改宗するはずもなく、異教徒への武力征服は数年から数十年で終わっても、帝国内住民がイスラムの真義を理解して改宗までには、数百年もかかった所が多いとされる。イスラム帝国の終焉が十字軍による宗教戦争の結果ではなく、版図奪還だったとみるのが定説になってきたが、「イスラム国」が有志連合を十字軍と規定し、日本が十字軍に参加したと断定したのは、史実をなぞったのか。かつてのイスラム帝国の版図を取り戻すという
「イスラム国」の最高指導者バグダディ(カリフを自任)の宣託は、誇大妄想の極地の観があるが、欧米各国で貧困と差別に苦しんでいるイスラム教徒(アラブ・アフリカ人移民と子弟)にとっては神がユダヤ人に約束したカナンの地(旧約聖書)と同じ意味をもつかもしれない。
「イスラム国」の過激思想とテロリズムに関連して想起されたのは、パレスチナゲリラに参加した「赤軍派」と「オーム教」による「サリン事件」で、両者に共通するのは、容認できない世界や国の状況変革には殺人を含む破壊行為も辞さないという「過激思想」である。
「イスラム国」へ参加する各国の若者には様々な動機があるだろうが、十把一絡げに異常な連中と断じると、赤軍派・オーム教の場合のように事件への対応や事後対策を誤る可能性がある。恐るべきサリン事件を起こしたオーム真理教に帰依した優秀な大学卒業生は、教祖麻原が唱えたミレニアム終末思想を妄信したとされ、その深層心理の解明を試みた某宗教社会学者が、マスコミの袋叩きに遭って沈黙させられたと記憶するが、「イスラム国」をめぐって、また生半可は論議でおわることがあってはなるまい。人々が「イスラム国」出現に戸惑っている今は、「宗教」とはなにかを考え、イスラム教の歴史に関する知見と理解を深める絶好のチャンスだ。 

 先日、オバマ大統領がリードした「イスラム国」対策の国際会議での「若者への教育や啓蒙活動を地域中心に行う」提案は、ブッシュ元大統領の武断的姿勢とは一線を画した。だが、対象の若者がイスラム教徒に限定されるならば、若者の心理を逆なでするオソレがあるのではないか。米国のイラク帰還兵の五人に一人が,残虐極まる戦闘行為でPTSDを患い悲惨な生活に苦しんでいる中には学歴がなく職につけない黒人の若者(戦地でも帰国後もヤク漬け?)が多いとされ、黒人差別が根強い州では、無防備の黒人少年を無造作に射殺した警官が不起訴となって、地域暴動が起きるなども、同根だと思われるからである。
「テロ」と称された事件は古今東西を問わず枚挙にいとまなく、日本の近代では、水戸藩士の桜田門外事件、新撰組による吉田屋・池田屋襲撃事件、二・二六事件を知らない日本人はいないだろう。
 これらの「テロ」は「志」を共有する有志集団によるものだが、フランス革命・ロシア革命・明治維新等の反体制武装集団による革命運動も体制側から見れば「テロ」の範疇に入ると思われる。
「イスラム国」を非難して、極悪非道、残虐無比、言語道断などの言葉がテレビ・新聞報道で連発されているが、欧米列強の植民地支配、日本の朝鮮半島・中国大陸侵出、日本が受けた無差別爆撃、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下、東西冷戦下の朝鮮・ベトナム戦争、9・11後のアフガニスタン・イラク侵攻でも、これらの言葉が当てはまる実態があったことを忘れてはなるまい。

「イスラム国」をめぐる報道や論議に、「宗教」「自由」「民主主義」の言葉が飛び交っている。
「イスラム教」という「宗教」については、この連載の各所での記述を参照していただき、ここでは、イスラム教徒が各自の日常生活を律する教典(クルアーン)の規律の一、二を記すにとどめる。
 酒や豚肉の飲食禁止は今でもまだ守られているが、ムハンマド時代の生活環境での賢明な「養生訓」だっただけでなく、欧米社会の豚を含む過剰な肉食やアルコール依存にみる心身の健康障害を予見していたとも言えるのではないか。
 文明が発達し、豊かな暮らしを享受できる現代でも、当時の規範を守っているのは、神の教えを盲信しているというより、その暮らし方を心からよいと想い、感じるからではないか。
 フランスの公立学校で禁止された女性の服装について、いろいろな考え方や受け止め方の議論がある。ムスリム女子学生のスカーフは、「コーラン」の規定にあるのでフランス憲法の政教分離の理念に反するとして禁止されたが、風刺画事件で声高だった偏狭な「自由」の概念と同じく、とても奇異に感じたものだ。
 ムハンマドは、「慎ましい服装をしなさい」と言っているだけで、全身を隠すのか、一部だけにするかは、「慎ましさ」の解釈で変わるものだ。
 全身を隠す「ブルカ」はアフガニスタンの地方的な伝統で、イスラム教普及の前からあった風習というし、フランスの公立学校へ通う女子学生がスカーフを被らないと、「クルアーン」を守る両親が、通学のための外出をさせてくれないという。ちなみに、「女性の勉学は不要で、家にこもっていればよい」とするタリバンの女性抑圧の行為は、ムハンマドの教えにはないとされる。
 不躾かもしれないが、白いスカーフで髪を覆ったナイチンゲールの清楚さや映画「パルムの僧院」の修道女の美しさは、鳥肌が立つほどだったし、クウエイトの海辺を散歩していた若い女性の黒い被り物が風に煽られ、真紅のミニスカートが見えた瞬間のトキメキを鮮明に思い出す。美しい和服の女性が階段を上がるときチラリと見せる足首にドキリとするのも、露出の少ない衣装の方がかえってエロチックな事例である。女性の勉学を認めない男尊女卑の考えも、古今東西の男社会の規範として普遍的に存在してきた。日本も例外でなかったはずで、男女共学や女性の国政選挙権が認められたのは敗戦後の新憲法からである。
 ところで、安倍首相を取り巻く人たちに、戦勝国アメリカから押し付けられた日本国憲法より、大日本帝国憲法の精神に回帰したいと考える人が多いようだが、戦争末期の暗闇から出て、真青な八月十五日の空を仰ぎ見た筆者には、「世迷言」としか思えない。

「自由」はフランス革命が人類社会にもたらした三つの理念の最も重要な一つと考えている私だ。
 その定義が、「他人を害しないすべてをなし得ることに存する」とあるにもかかわらず、「他人が
信じる宗教とその始祖を穢し、傷つける自由」を主張し擁護するフランスの一部の政治家・学者・市民らの「理性」のレベルに、ただ驚いている。
 NHKテレビ番組「WISDOM」《広がる不寛容 多文化は共存できるか》(二月二十八日)の討論に参加した女性学究アラナ・レンティンさんは、表現の自由を言い募る反面で、イスラム教徒の子女の公立学校でのスカーフ着用の自由を法律で禁止したご都合主義について、「いまのフランスには偽善が多い」とった主旨の発言をし、パリ政治学院教授ファブリス・エペルボワンさんも、うなずいていた。
香り高いフランス文化と感性豊かなフランス人を敬愛してきた筆者も、今回の事件で直視させられたムスリム移民への差別や異文化への不寛容さに、失望を感じることしきりである。
「政教分離」の理念は、民衆(市民)を支配してきた王権(法王を政治的に利用)の権力を市民革命で奪い取った歓びを掲げたものだが、キリスト教社会(国家を含む)の政治的儀式で聖書や司教が関わるものは少なくない。(大統領の就任式)
「平等」「友愛」も然りで、この三つの「理念」は、その後、市民社会と国民国家の原理である「民主主義」の土台となった一方で、「理性」を絶対視し、理性に基づけば社会変革のための暴力も正当化しうるとしたことから、自由主義、全体主義、社会主義、共産主義などの諸理念を掲げる統治国家間に、紛争や戦争が連綿とつづいたのである。
 人間の生き方やその社会の在り方に関する社会的・政治的見解である「思想」を掲げ、それぞれの「正義」「大義」を主張して争ってきた人類社会に生まれた「イスラム国」という鬼子と、人類の普遍的「理念」とされる三つの原理「自由」「平等」「友愛」は、どのように関わり合うのか。
  次回も「寄り道」を続けて、人類社会の土台とされる「民主主義」の現実について考察したい。                                                                                     (続く)

添付画像


2015/03/07 16:53 2015/03/07 16:53

アラブと私 

イラク3千キロの旅(95) 

                              松 本 文 郎 

 

 前回の文末に書いたように、1971年の旅のバグダッドへ戻るつもりだったが、「イスラム国」(この呼称に異論もあるが、当面は新聞・テレビ報道に倣いたい)に捉えられていた2人の日本人が惨殺されるという、思いがけない事件が起きてしまい、今回も、寄り道を続けることにしたい。

 

 この残虐極まりない事件の発端が、安倍首相の中東歴訪でのエジプトとイスラエルの首脳を前にしたスピーチだったのではないかと、かなりの人たちが感じたのではないか。

 パレスチナ問題で強硬姿勢のネタニヤフ首相とイスラエルの国旗の前に並んで、「テロとの戦いに取り組む」と宣言し、難民向けの人道支援に限られているにもかかわらず、「イスラム国」と戦う国々を支援すると居丈高に言ったことである。

 私たちは、日本人2人が「イスラム国」の人質になっていることを1月20日の衝撃的な報道で初めて知ったが、湯川遥菜さん(昨年8月)と後藤健二さん(昨年10月)の行方不明を把握した安倍政権は、情報連絡室(官邸)、対策室(外務省)、現地対策本部(ヨルダンのアンマン)に設置していたのである。

 また、昨年の11月ごろからは「イスラム国」の関係者とみられる脅迫メールが後藤夫人に届き、今年1月初めに20億円余りの身代金を要求してきたなどの一連の経緯をつかみ、中東歴訪に出発直前の1月上旬には、フランス風刺画新聞社などを対象にした連続テロが発生し、容疑者の1人は「イスラム国」のメンバーを自称していた。

残忍非道の「イスラム国」が起こしている緊迫した情勢の中東への出発に踏み切ったのは、今回の大きな目的の一つが「イスラム国」と最前線で向き合う訪問国への支援で、日程変更は「テロ」に屈することになるからだったという。

安倍首相は最初の訪問地エジプトで中東政策のスピーチを行い、「イスラム国」対策として総額2億ドル程度の人道支援を打ち出した。

首相スピーチを非難する最初の殺害予告映像が公開されたのは、その3日後だった。

現在のエジプトは「アラブの春」の民主革命後の選挙で選ばれたムルシ大統領(ムスリム同胞団が出身母体)を軍事クーデターで追放したシーシ国防相が現憲法を停止し、最高憲法裁判所長官が暫定大統領として「実務者内閣」を設けている国だが、安定した統治状況と言えるのだろうか。

 現地新聞の安倍首相の2億ドル支援スピーチは、小さい扱いだったとされる。

 昨年の11月、「アラブの春」のデモ隊に発砲を命じて殺人罪に問われていたムバラク元大統領に対する審理を無効とし、事実上の無罪を言い渡したので、ムバラク氏に近い軍出身のシーシ政権に、民主化運動を主導した若者たちが反発することもあろうが、それを軍隊が抑圧するなら、「アラブの春」とは、一体なにだったのか。

 エジプト軍司令官兼務シーシ国防相による軍事クーデターを非難したオバマ政権と「自由と民主主義」の価値観を共有すると声高な安倍首相とのエジプト暫定政権への立ち位置はどうなのか。

 イスラエルでは、首相に同行した産業・経済人がイスラエルが保有するハイテク武器のノウハウ導入を、「武器輸出3原則」見直しの中で期待していると報じられる一方で、安倍首相は、ユダヤ人6千人の命を救った駐リトアニア在カウナス日本領事館領事代理杉原千畝氏のことを誇らしげに話し、イスラエ・パレスチナ和平の仲介役を買って出たという。

 長年のパレスチナ問題が一向に進展しない複雑な情況下、「イスラム国」により拘束された日本人を救出する立場にある首相として、極めて不用意なスピーチではなかったか。

 杉原千畝氏夫人の幸子さんとは短歌同人の仲間として親しくさせてもらった時期があり、(73)で、幸子さんから聞いた「国家の命令に違反してまでも国を超えた人道的立場を貫いてユダヤ人の命を救った千畝氏の勇気ある人道的行為」の臨場感あふれる話を記していたので、その一部を再録しておきたい。

 

1940年7月27日の早朝、領事館で執務に就こうとしていた杉原の眼に、窓の外で2、3百人の群衆が激しく手をふって盛んに何かを訴える様子が飛び込んだ。ナチスドイツのポーランド侵攻によって、祖国を追われたユダヤ系ポーランド人たちだとすぐに察知したという。

 第3帝国建設を標榜し、ユダヤ民族の絶滅を目論んだ独裁者ヒトラーのナチスドイツの手から、命からがら逃れてきた群衆は、「ナチスの迫害からのがれるために、日本通過のビザを発給してもらいたい」と嘆願したのである。

 人道的見地から「通過ビザ」を発給したい旨を外務省に打電した彼への外務大臣松岡洋右の回答は、「行き先国の入国手続きを完了した者に限り、そうでない場合は、通過ビザを与えないように」であったという。

 幸子夫人によると、領事館の前に群衆が現れて4日が過ぎ、クリスチャンだった夫は、外交官として外務省の指示に沿うべきか、目の前で命乞いをする 人々を助けるか、人間としての悩みに煩悶していたという。

 夫が苦吟する姿を見るに見かねた夫人は、彼の背中を押すように、「私たちがあとでどうなるかは分かりませんが、領事代理の権限でビザを出してあげてください」と励まし、杉原氏は「そうか、ではそうするとしよう」とつかえていたものが吹っ切れた様子だったと話された。

 外交官としての重大な訓令違反で、帰国した後にどんな厳罰が待ち受けているか分からなかったが、群がる人びとにビザ発給を告げると、大きな歓声が湧いたという。

 杉原の決断を後押しした幸子夫人は、そのときのことをまざまざと思い起こすような眼をされたが、緊迫した状況下で死の恐怖に曝されている人間の命を救う決断を、夫と共にした誇りのようなものを感じた。

 夫君とそうしたやりとりをする前、難民たちのなかに憔悴した子供らの姿を目にとめた幸子さんの心に、旧約聖書の預言者エレミアの「哀歌」の「町の角で、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のため、主にむかって両手をあげよ」の1節が、突然、浮かんだそうだ。

 杉原千畝氏は、難民へのビザ発給の条件不備に関する外務省との論争を避けるためのさまざまな手立てを講じ、ソ連政府や日本から再三の退去命令を受けながらの1ケ月、寝る間も惜しんでビザを書き続け、外務省からのベルリンへの移動命令が無視できなくなると、重要書類を焼却して家族とホテル「メトロポリス」に移ったが、領事印を荷物に梱包してしまったので、ホテルでは仮通行書を発行し、ベルリンへ向かう列車に乗ってからも、窓越しに手わたされるビザを書きつづけた。

 動き出した列車の窓から「許してください。私にはもう書けません。みなさんのご無事を祈っています」と頭を下げた千畝の姿が目に焼き付いています、と幸子さんは語った。

 列車と並んで、泣きながら走っていた人たちは、「私たちはあなたを忘れません。きっともう一度、あなたにお会いしますよ」と叫び、千畝たちの姿が見えなくなるまで見送っていたという。

6千余人を救うために発給されえたビザは番号が記録されているものだけでも、2千百余枚にのぼった。

 人道主義の立場でビザを寝る間を惜しんで発給した杉原氏は、軍国主義から平和主義の国に生まれ変わった日本なのになぜか、詳しい理由も告げられないまま解任されたのである。

 外交官として国の命に背いた杉原氏は、長い失意の時を過ごしたあと、語学の能力を活かして、企業の海外駐在員として働き、75歳で鎌倉の自宅に隠棲したものの、依然として名誉は回復されなかった。

 1985年(昭和60年)、85歳になっていた杉原千畝氏に対して、イスラエルは、その勇気を最大限に讃えて、「諸国民の中の正義の人賞」を贈り、エルサレムの丘の上に顕彰碑を建立した。

 これにより、彼の命がけの人道的行為は、世界の人々の知るところとなり、祖国では解任された外交官から、世界の「人道の人、チウネスギハラ」になったのである。

 しかし、日本外務省は杉原氏の存在を無視し続け、祖国での名誉回復がなされぬままに、翌年、鎌倉の自宅で波乱に満ちた生涯を閉じたのである。

 1991年、ビザ発給の現場であるリトアニアの首都ヴィリニュスに、1992年には、岐阜県加茂郡八百津町に「杉原千畝記念碑」が建立され、2000年、都内の外交史料館で名誉回復を象徴する「杉原千畝氏を讃える顕彰プレート」の除幕式が催された。

 挨拶に立った河野外務大臣は、故杉原千畝氏と幸子夫人らの遺族に対して、「外務省とご家族との間にご無礼があった。(中略)極限的な局面において、人道的かつ勇気ある判断をした素晴しい先輩だ」と語り、戦後の外務省の対応について、その非礼を初めて認め、正式に謝罪したのである。

 その喜びを千畝氏の墓前に報告した幸子夫人の胸には、煩悶する千畝氏にビザ発給を決断させた時のシーンがまざまざと甦ったという。

 朝鮮女性慰安婦問題でも極めて相異なる歴史観をもつ安倍首相と河野元外務大臣の立ち位置とが、まさに両極なのがよく分かるエピソードだ。

 2人の日本人「処刑」事件で、在シリア・ヨルダン日本大使らがどんな働きをされたかしらないが、気高く不屈な精神の持主の外交官への戦後の外務省の無礼を詫びた河野外務大臣とは対極的な外交感覚の安倍首相が、氏の業績を「言挙げ」したのを、故杉原千畝氏と幸子夫人さんは、決して喜ばれてはいないと思うのである。

 

 ところで、イスラエル・パレスチナ問題の発端は、「ユダヤ人が迫害されるのは国をもたないからで、かつて神が示してくれた約束の土地、シオンの丘のエルサレムに帰ろう」という「シオニズム」の思想である。

 この運動は第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害や大虐殺(ホロコースト)によって強められ、大戦後、ユダヤ人への同情が高まり、建国への弾みがついた。

 ユダア人資産家たちが政治力をもつ米国内でのシオニズム運動は、1946~1948年にかけて、イスラエル国家建設のため米国議会や大統領の支持を獲得する上で、影響力をもっていた。

 ナチスの迫害を逃れ米国に亡命していたユダヤ人は豊富な資金力で、米国議会に対する強力なロビー活動を続け、その中核はアメリカ・イスラエル公益事業委員会(AIPAC)で、イスラエルに不利な投票をした上・下両院の議員を次の選挙で落選させる実績をもつ。

 1947年の国連によるパレスチナの地の分割決議は、賛成33ケ国、反対13ケ国、棄権十ケ国で可決されたが、その背後では、アメリカが各国に対して活発な働きかけをしたためだった。

 ユダヤ人の人口はパレスチナ人の3分の1だが、56.5%の土地をユダヤ国家に分割した不公平なものだった。

1948年2月、アラブ連盟加盟国はカイロでイスラエル建国の阻止を決議し、アラブ人テロが激化するなかの同年4月、ユダヤ人のテロ組織のイルグン・レヒ混成軍がエルサレム近郊のディル・ヤシーン村で村民大虐殺を行い、恐怖に駆られたパレスチナアラブ人の大量脱出が始まった。

 5月、イギリスのパレスチナ委任統治が終了し、国連決議181号(通称、パレスチナ分割決議)を根拠に独立宣言したイスラエルが5月14日に誕生した。

 それと同時に、アラブ連盟5ケ国(エジプト、トランスヨルダン、シリア、レバノン、イラク)の大部隊が、独立阻止をめざしてパレスチナに進攻し、第1次中東戦争(イスラエル独立戦争またはパレスチナ戦争)が勃発したのである。

 数次に及ぶ中東戦争の後、イスラエルに対するパレスチナ解放のゲリラ指導者だったアラファトは、イスラエルとの歴史的な和平協定を結んでパレスチナ暫定自治政府をつくり、ノーベル平和賞(1994年)を授与された。

 しかし、両者の和平プロセスは、イスラエルのラビン首相暗殺をきっかけに幾度も危機を迎え、2000年、イスラエルの後の首相シャロンが、エルサレムの神殿の丘にあるイスラム教の聖地に踏み込んだ事件で起きたハマスなど非PLO系の組織が主流の「インティファーダ運動」で、両者の対立は決定的となった。

 パレスチナ人の自爆攻撃とイスラエルの攻撃が相次ぎ、ガザ・ヨルダン川西岸地区の状況は悪化の一途をたどり、現在に至る。

 アラファトは2004年に死去したが、暗殺説もあり、和平協定締結の両当事者はこの世にない。

 2人の日本人拘束事件で現地対策本部が置かれたヨルダンの人口の半ばはパレスチナ人であり、石油を産出しない非力な国は、フセイン一世国王以来、欧米とアラブ諸国との狭間の巧妙な外交でしのいできたようだ。

和平でなく、イスラエルとの戦闘を呼びかけるイスラム主義勢力と「イスラム国」の関係は分からないが、アンマンにはCIAの地域センターがあるとされ、一連の事件の指揮は、ヨルダン政府の背後のCIAが執っているとの憶測もある。

 現地対策本部の人員増強がされなかったこと、事件の推移について「特別秘密保護法」を盾に、国会答弁をウヤムヤにしている安倍政権には出る幕はなかったのではなかろうか。

国に準ずる共同体組織「イスラム国」の「テロ」は、アルカイダが先制攻撃にも出るのとは異なり、「攻撃された場合の防御」が特徴とされている。

昨年来の米国人ジャーナリストらの「処刑」は空爆開始に対抗したもので、そうでない場合は、人質を身代金と引き換えに解放してきた。

安倍政権が「十字軍への参加を志願した」との「イスラム国」の判断は、小泉政権による自衛隊のイラク派遣の延長線上に「積極的平和主義」が

あるとみるだけでなく、集団的自衛権行使や憲法九条の改正を押し進め、米国と一緒に地球の裏側ででも戦争に参加しようとする安倍政権を、明確に敵対視しているにちがいない。

首相が「十字軍への参加を志願した」とみなす「イスラム国」による2人の日本人の「処刑」で、中東各地のNGO・NPOの難民支援活動に支障が出始めており、進出している日本企業の社員・家族の緊張と不安はたいへんだろうと、家族共々のアラブ在勤四年の経験をもつ筆者の胸は痛む。

 アフガニスタンで井戸掘り・潅漑工事に献身している中村医師や難民キャンプでボランティアの支援活動に勤しむ日本人若者たちの尽力と誠意の賜物として、アラブの人たちの親日的まなざしがあるのだ。

「罪の償いをさせる」の言葉を吐いた安倍首相の顔が、9・11直後のブッシュ大統領に重なるが、分けのわからない極悪非道の連中の敵愾心を煽って、世界中にいる日本人を標的にさせることが、首相が繰り返す「国民のいのちと財産、国益を守る」第1番の方策なのかどうか。

 福島原発の事故処理の見通しも定かでない中、各地の辺鄙な場所に立地する原発の「テロ」対策や2020年の東京オリンピックを不安なく楽しめるような警備システムを、どうするつもりか。

 

 筆者が家族と共に在勤した(1970~1974年)クウエイト国電気通信技術コンサルタント事務所で雇っていたパレスチナ人オフィスボーイのイスマイルが、ディル・ヤシーン村での虐殺を激しい怒りをこめて話したことがあったが、それは、日本赤軍創立メンバー・最高幹部の奥平剛士が、テルアビブ空港で乱射事件を起こしたあとで射殺されたとテレビが報じたときだった。

 若いのに立派な口ひげをはやしてオジサン顔のイスマイルが、いつも見せる人なつっこい笑顔とは真逆の形相で、「バッシュモハンデス! ニッポンの若者の快挙を称えます! まるで神風特攻ですネ!」と叫び、私に抱きついてきた。

 そんな政治的な言動を、それまで全く見せなかった彼をやや訝しく感じながら対応に困った当時が思い出される。

 事務所には、ヨルダン人の運転手のイムランとオフィスボーイのワヒッドもいて、イスマイルのように激した喜び方ではなく、静かに握手を求めてきたが、日頃、温厚そのものの人柄のイムランが、「私の村では、女子供もろとも、ほとんどの村人が1日で殺されました」と言い、ワヒッドは、「私たちは、あのイスラエル国がつくられる以前のようにユダヤ人たちと仲良く一緒に暮らしたいのです」と呟いた。

 いずれにしても、クウエイトに来てすぐ起きたライラなどによる連続4機ハイジャック事件の時のアラブ人たちの激しい反応を思い出して、いきなり非難がましい論評を述べるのだけはさし控えたのだった。

 ヨルダン人とは違って、イスラエルに理不尽に祖国を奪われたイスマイルは、イスラエルの国家テロによる大量虐殺に比べ、コマンドによる空港襲撃事件の復讐を、生ぬるいくらいにしか考えていないようだった。

 事件後に日本から届いた新聞で、奥平剛士が、京大建築学科の後輩と分かり驚いたが、岡本公三(よど号事件グループの岡本 武は次兄)と安田安之の3人がコマンド(パレスチナ・ゲリラ)と共に、手榴弾と自動小銃で民間人26人を殺害、100人以上を殺傷した事件だった。

翌年起きたパレスチナ・ゲリラによる日本大使館の占拠事件の直前、大使館から日本人社会に、赤軍派最高指導者重信房子がクウエイトに入国・潜伏している情報があるので、人目のない沙漠に出ることを控えるようにとの通知があった。奥平は1971年に重信房子と偽装結婚をして、日本からレバノンのベイルートへ出国していたのである。

 その重信房子が最高指導者になった日本赤軍は、レバノンのベカー高原を根拠地で「革命運動」を自称し、1970年代から1980年代にかけて、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などのパレスチナの極左過激派と連携して一連のハイジャックや空港内乱射事件などの無差別殺人を起こした。

 さらには、外国公館の政府要人やハイジャックした飛行機の乗客を人質に身代金や仲間の奪還を目論む事件を起こしたり、外国公館の攻撃で多数の民間人を巻き込むテロ事件を繰り返して、世界各国から非難を受けた。

 

 筆者がこの『アラブと私』を書くきっかけが、9.11の報復で侵攻したイラクをメチャメチャにしたブッシュ大統領への憤りと、1971年の平和なイラクで「バスラ・バグダッド・モースル往復3千キロの旅」を共にした土木エンジニアのユーセフやバグダッドの若い女性アハラムらを偲ぶことだったと、これまで繰り返し述べてきた。

そして、「イスラム国」の脅威に直面する世界・中東情勢が、「パレスチナ・ゲリラ」による事件が多発した当時とあまりにも似ていることに驚き、短絡気味に言うと、70年安保闘争で挫折した学生ら赤軍派が参加した一連の「ゲリラ事件」と、バブル崩壊の日本の世直しを妄想した教祖麻原彰晃のオウム真理教によるサリン事件には、どこか、「イスラム国」による「テロ」と通底するものを感じている。

 それは特定の政治思想・宗教教典を妄信・曲解する集団が、敵対者だけでなく仲間内にも及ぼす恐るべき残虐さである。

「イスラム国」による諷刺画新聞襲撃事件と人質「処刑」を考えるキーワードに、「自由」「宗教」「民主主義」を挙げて拙論を述べるのは、次回としたい。

 ちなみに、フランス革命の「人および市民の権利宣言」(人権宣言)の「自由」の定義が、「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する」とだけ記しておこう。

                

     (続く)

添付画像

2015/02/24 19:54 2015/02/24 19:54

アラブと私
イラク3千キロの旅(94)

                     松 本 文 郎 
 
 前回(93)は、「イラク3千キロの旅(バスラ・バグダッド・モースル往復)」の復路で、モースルからバグダッドに戻り、アハラムらをディスコ・クラブへ招待した一夜までを書いた。今回は、翌日に訪れたバグダッド国立博物館のシーンを書こうとした矢先に、「イスラム風刺画」掲載のフランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」の事務所が襲撃されて記者ら12人が死亡、数人が重体の衝撃的な事件が起きた。この状況に直面して1971年のバグダッドへ戻る気分ではなく、事件を契機に、「イスラム国」をめぐる記述の「寄り道」をさせていただきたい。

 「ISIS」(イスラム国)という過激派武装集団がイラク北部に侵攻して、イラクが危機的状況に陥ってから、はや1年が経過した。
 この武装集団の前身「イラク・イスラム国」は、米国のイラク侵攻3年後(2006年)、反米抵抗活動家ザルカーウィーがウサマ・ビン・ラディンが率いるアルカイーダに忠誠を誓った「イラクの聖戦アルカイーダ組織」と繋がっていたとされ、アメリカ空軍によるザルカーウィー殺害を転機に、イラクの複数のイスラム主義グループを統合して「イラク・イスラム国家」となった。シリア内戦で欧米諸国とサウジアラビア・カタール等の湾岸諸国が支援していた反シリア政府のイスラム過激派武装勢力(「イスラム国」)が体制を立て直したシリア政府軍に追われて隣国イラク北部に侵入、3万人ものイラク政府軍を蹴散らした(英紙ガーディアン)ことも(89)の冒頭に書いた。
 
 事件関連の新聞報道(朝日)とウイキペディアの関連記事の抄録と、拙論のいくつかを記す。
・「シャルリー・エブド」(数万部発行)は左派寄りの風刺新聞でイラストを多用し、フランス国内外の極右、カルト教団、カトリック、イスラム教、ユダヤ教、政治等に関して調査報道をしている。
・これまでも、フランス当局からの警告を受けてきたのに、2011年、ムハンマドを女性に見立てた半裸のイラストを複数掲載してイスラム団体に批判され、火炎瓶が投げ込まれた事務所が全焼。 
・2014年9月、フランスが米国につづいて、「イスラム国」への空爆に踏み切ったのに対して、「イスラム国」との連携を主張する組織が、アルジェリアでフランス人男性を誘拐・殺害する事件が起き、翌10月には、「イスラム国」がムハンマドの首を切る漫画を掲載した。
・12人の犠牲者の中には、風刺漫画家ジャン・キャビュもいて、彼は、別の風刺新聞「カナール・アンシェネ」に所属していた時、福島原発事故に関連して、奇形の力士がオリンピック競技に出場するという風刺画を発表している。
 日本国内では、放射能汚染に慄く福島の人びとの心情を逆なでするとしての反発が多かったが、欧米では、「ユーモアを解さない日本人」の論評もあった。朝日新聞パリ=特別編集委員・冨永格氏の記事『奔放な風刺 仏の伝統』が興味深い内容を伝えている。
・フランスのカリカチュール(風刺)は、モリエール(17世紀の喜劇作家)以来の伝統であり、
19世紀以降は活字メディアを中心に文化の一角を占めて、政財界のスキャンダルを報じて有力者から怖れられてきた、
・「カナール・アンシェネ」(週刊紙・1915年創刊)のモノクロ風刺画は名物だが、「シャルリー・エブド」は、よりどぎついカラー漫画が売りで、文字で説明しにくい性的表現が多い。
・デンマーク紙で物議を醸した預言者ムハンマドの風刺画を転載した件で有名で、独自描き下ろし漫画を多数載せた特集号は、増刷を重ねて40万部を売った。
・7日の最新号は、「フランスではテロがおきていない」の表題で、過激派らしい男が「1月末までまだ時間がある」とうそぶく絵を載せた。
・パリ第1大学のパトリック・エブノ教授(メディア史)は、「風刺はフランス大衆に受け入れられてきた。あらゆる権力や不寛容と闘い、表現の自由の限界に挑みつづけてきたジャーナリズムなのだ」と語った。
・襲撃事件による損失は大きいが、表現の自由を守ろうという機運が改めて高まるのは間違いない。
 
 冨永氏がインタビューしたパトリック・エブノ教授のコメントに、「あらゆる権力や不寛容と闘い、表現の自由の限界に挑みつづけてきたジャーナリズム」とあるが、「シャルリー・エブド」を指すのか、「風刺」を伝統とするフランスのジャーナリズム全般を意味するのかが、よくは分からない。2005年9月、デンマークの保守系紙が掲載したムハンマドの風刺画(頭に巻いた黒い布から導火線が伸びている)など12枚を、ノルウエー紙が再掲載して、イスラム世界に反発が広まった。神聖な預言者を風刺対象にしたこと、イスラムで厳しく禁止されている偶像崇拝に関わるものだからである。当の保守系紙は掲載を謝罪したが、その後に、フランス、ドイツなどの欧州諸国の新聞が「表現の自由」を理由に風刺画を転載し、イスラム世界の反発は激化した。
 憂慮すべき事態を起こした新聞社へのアナン国連事務総長の批判や、シラク大統領の「挑発行為を非難する。表現の自由はフランス社会の重要な要素だが、寛容の精神と宗教も配慮してその権利を行使すべきだ」や、イギリスの外相の「言論の自由は尊重するが、侮辱し、いわれもなく扇情的になることはすべきではない」など、「風刺画」がイスラム社会への挑発となって反発も過激になるとして、掲載した欧州各紙を非難した。  
 9日23時半からのNEWS・WEBに出演した池内恵氏(東京大学準教授・イスラム問題に詳しい)のコメントは、
「フランスにとっての「言論の自由」はアメリカにとっての資本主義と同じように最も重要なもので、フランスは神が決めた規範に従うのではなく、人間性の発現である理性に拠って「人間の自由」を守ってきた国。今回のテロ事件は、その中枢をねらった殺人行為で、二つの異なる価値観の衝突と言えましょう」だった。
 池内氏とパトリック・エブノ教授のコメントが、「人間の自由」と「言論の自由」に対する野蛮なテロと断じるだけで、以前のシラク大統領の風刺画への批難、移民との融和を求めてきたフランス国民について言及したのかどうか。人類普遍の理念を掲げるだけで、テロの原因である異なる宗教への「言論・表現の暴力」の是非を問わなければ、事件の複雑で深刻な背景は論評できないのではなかろうか。
 人間本来の理性の自立で超自然的な偏見(旧い宗教?)を取り払うという啓蒙思想は、フランス革命に大きな影響を与え、「自由・平等・博愛」の旗印で、カソリック支配や絶対王政統治下の民衆に「人間の自由」をもたらし、近代社会の基盤を築いたことは、フランス人の大きな誇りだろう。
 エブノ・池内両氏は 「人間の理性」を重視する西洋近代の学術基盤であるギルシャ・ローマの文化を伝承したイスラム文化の人類への貢献や、「イスラム国」などの言動がムハンマドの教えと対極であるとことを述べて欲しかった。ムハンマドは、ユダヤ教のモーゼ、キリスト教のキリストを預言者として、天啓を受けた自身も預言者だと、偶像崇拝を禁じた。エルサレエムの地がこれら3宗教の聖地とされるのは、その歴史的経緯から同根の宗教だからである。池内氏の「神が決めた規範」が、「クルアーン」(コーラン)を意味するのなら、旧・新約聖書を学び、とり入れたムハンマドの啓典「クルアーン」の信仰は人間の生き方や暮らしを律する規範で、敬虔なキリスト教徒のバイブルと変わらない。
「クルアーン」については『アラブと