新・浦安残日録(6)

                   

 5月13日少年時代の原風景

 毎朝6時前後に目覚めてすぐの全身ストレッチ(約20分)は、24年前の「食道ガン手術」の入院中(4ケ月)に編み出した自己流で、ヨーガ基本ポーズ10数種、腹式呼吸・腹筋鍛錬、マッサージ(手首、首、頭蓋、目、鼻、耳)など、頭の天辺から爪先まで。

 洗面後の朝のカロリー摂取の〝お仕事〟はテレビを観ながらゆっくりと取り組む。定番のテレビ番組は、「ワールドニュース」に続くBS3chの「里山」「新日本風土記連動番組」と新旧の「朝ドラ」だ。

「里山」は、原爆投下前年に広島から疎開した福山郊外(両親の実家がある)の少年時代の原風景を思い起こさせるシーンが多く、〝終末〟意識のせいか、無性に懐かしさを覚える。

 今朝の風景は、九十九島の澪標(みおつくし)と多摩川の水源「水干」で、いずれも、広島・福山の幼・少年時代の記憶を鮮やかに呼び覚ましてくれた。

疎開先「引野村」(現・福山市引野町)の海は瀬戸内特有の遠浅さで、干潮時には澪(水径)がよく分かった。経済成長時代に日本鋼管(現西日本製鉄所・福山)の新工場誘致で埋め立てられ、潮干狩り/魚釣り/水泳などで楽しく遊んだ美しい場所は跡形もない。埋め立て前に数多く生息していた古代生物「カブトガニ」も姿を消した。

〝末期ガン〟と向き合って住む浦安の海も、山本周五郎の『青べか物語』の頃はノリ養殖が盛んな遠浅に「澪」があったが、広大な埋め立て地に市庁舎・中央図書館が建つ中町地区とディズニーリゾート、鉄鋼団地、高層住宅群が立ち並ぶ新町地区ができて〝日本でいちばん住みたい街〟のキャッチコピーが飛び交う街となった。

水源地といえば、昭和9年に生まれて10年住んだ広島市内を流れる7本の川(太田川の支流。「広島音頭」に〝七つ川の瀬〟の文句)の上流「白島」があり、春秋の休日、周辺のピクニックに恰好の低山に幼い私と父が行った記憶がある。母が、持ち帰ったゼンマイをアク抜きして煮たのも、食べものが乏しい戦時中の思い出だ。

ピクニックや市内の川へハゼ釣りに連れて行ってくれた父は、家族を疎開させ単身勤務の広島市で、原爆投下の翌々日2次被曝(帰省先福山から戻って入市)して原爆手帳を支給されたが、原爆症を発症することもなく、78歳で旅立った。

 私のアラブ在勤中(昭和46年)64歳で急逝して死に目に逢えなかった母は、かなり前から折りに触れて夢に出てきたが、最近、敗戦前後の若い父が現れるようになった。夢の〝呼び水〟に、「里山」のシーンがあるのかもしれない。



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5月14日ホタルの里の清流・棚田

 今朝の「里山」は、ホタルが生息する山里の清流と棚田のシーンで、松たか子さんのナレーションに、〝星垂る〟〝火垂る〟の表記、「江戸のほたる売り」「恋の蛍」の言葉があり、興味深く見た。

蛍は、疎開した母の実家の棚田の流れにいっぱい飛んでいたし、10年ほど前、「ふれあいの森公園を育てる会」のビオトープに蛍を飛ばす企画で、グリーンハウスの水槽で飼育した蛍をビオトープに放って近所のみなさんと一両日の宵を楽しんだ。ただ、清流といえないビオトープの流れでカワニナは生息できても、〝蛍の自生〟は望むべくもないことがよく分かった。

清流で忘れられないのは四万十川で、定年退職後まもなく、京大建築学科の学友N君の誘いで訪れた日本有数の清流だ。

彼は林業を営む病弱の父君の手伝いで留年して卒業したが、林業を継がずゼネコンに就職した。関東在住の同期会で時折り会うくらいだったが、京都の大学生活を共に過ごしたお千代と私に、なぜか好感をもってくれたようで、結婚45周年の私たちに、《四万十川・ふたり旅》へ招待してくれたのである。

綿密なスケジュール付きの招待旅行は、お屋敷での前後2泊と四万十川の源流から足摺岬までの3泊4日(計5泊6日)の思いがけない旧婚旅行だった。

昼過ぎの高知空港へ出迎えた彼は、アンパンマンの「やなせたかし記念館」に案内してから自邸へ向い、疲れがとれるからと入浴と昼寝を勧めてくれた。やさしい〝土佐いごっそう〟のいたれりつくせりのお接待に、私たちはいたく感激した。

黄昏どきから、浜にある彼の行きつけの鰹料理店でしこたまご馳走になって、美人ママのスナックでカラオケに興じさせてくれたが、シャイな彼は1曲も唄わなかった。

翌朝、彼の運転で2寺の巡礼と昼食をして、四万十川の源流まで案内してくれた。1台の車が通れる細い山道を入り、なんとか「四万十川水源」の標識が立つ林間にたどり着いた。彼の運転と案内なしには来れない場所だ。そこで飲んだ清らかな水の滴りが小さな流れとなり、紆余曲折を経て次第に大きな河となって太平洋へと下る川筋の旅の前途に、ワクワクした私たちだった。

水源からの下りは、ナビゲーターとなったN君が私に運転を任せ、曲がりくねった急な山道をガイドして、途中のJRの駅から、電車に乗って自邸へと帰って行った。

彼がたてた綿密な日程表を頼りに向かった最初の宿は竜馬脱藩の「祷原」に近い「星降る里のロッジ」。野趣に富む山菜料理を賞味して肌寒いテラスから眺めた〝満天の星空〟は息をのむほどだった。

 翌日は、曲がりくねって流れる四万十川を車窓の左右に眺めながら、赤鉄橋で名高い中村に着いて、N君が予約してくれていた川舟の船頭さん宅を探しあて、上屋付の美しい和船の貸切りで四万十川の上り下りを満喫した。

 船大工の船頭さん手づくりの新造の舟(土佐の檜・杉材)は木の香も新しく、やぐら炬燵の卓に差し向かい、鮎の佃煮で地酒を酌む贅沢な〝舟遊び〟をさせてもらった。

 漕ぎ寄せた中洲に降りて拾った平な丸石の表面に鮎が川藻を食べた跡が鮮やかに付いていた。かなり大きな石だが〝思い出〟にと持ち帰る。(国内外の旅行記念品の陳列ケースに収まっている)

船頭さんから、川岸に立つ灌木の小高い茂みが泥で汚れていたのは2ケ月前の洪水跡で、平水時より4、5メートル高い水位と聞き、〝清流四万十川〟の別の顔を見た。

 舟を下りて川原を散策し、お千代がススキの小径を歩いて行く後ろ姿を、赤鉄橋の全長を背景にした〝ハガキ絵〟に描いた。

 その日の宿は料理・民宿で、料理人の主人が獲ってきた鰻、川エビ、川のりほかの山海の美味を地酒を酌み合いながら堪能した。

 最後の泊地は、四万十川の河口から50キロ先の足摺岬で、太平洋を望む崖っぷちに立つ民宿だった。夕食前の部屋の窓際から、夕闇が迫る岬の風景をスケッチしたが、折しも台風が接近しており、強風に煽られる和紙を押さえて、思い切った筆致で速描した。夜半には、怖いくらいの物凄い風雨となり、なかなか寝付けなかった。

 翌日は雨がやんだ強風の中を、四国巡礼第38番札所「金剛福寺」へお参りした。この寺は第37番札所から50キロも離れていて、徒歩で巡る人たちの往復の長路は大変だったろう。

 

朝のテレビ番組「里山」を見て、遠い日の思い出を連綿と書いたことに、われながら驚く。

毎夜、1時間半ごとに小用に起きるが、朝まで数回の睡眠で見る夢々に、懐かしい故人が頻繁と登場するのも、〝終末〟の日々だからか。

忘れがたい〝旧婚旅行〟に招待してくれたN君はその後、広い庭のある豪邸を処分してマンションに移り住み、家族がいる東京の家に時々戻るほかは高知に一人住まいして、数年前、看取られることなく旅立ったと知った。合掌。

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 5月20日(「共謀罪」採決強行

 昨日の衆院法務委員会で「共謀罪」が強行採決された。この種重要法案の審議で採決前に首相が出席して質疑を行う慣例も無視された。

 犯罪の実行行為を処罰する「刑事法」の〝原則の大転換〟である法案の審議を巡る金田法相の覚束ない答弁の国会中継に、イライラさせられっぱなしだった。

 法相答弁の途中で副大臣や安倍首相が代弁する見苦しい場面に、法相の資質や理解不足が野党から指摘されたが、それは、この「法案」そのものに、法相自らが理解できない論理的なムリが歴然とあるからではないか。

 安倍首相が主張するように、国際社会から要請されている〝テロ対策法案〟なら、277もの犯罪について、テロとの関連性を逐一審議する必要があると思われる。

「共謀罪」の内容が心の中を裁く法律ではないかと懸念して、かつての「治安維持法」の再来の危険性を多方面の識者や戦前の特高警察の実体を知る一般の人たちが訴えている。

集団的自衛権行使の「安保関連法」や「特定秘密保護法」の強行採決に次ぐ、「共謀罪」の趣旨を含む「組織的犯罪処罰法」の慌しく強引な採決ぶりには、安倍一強政権の国家主義的な〝管理・監視社会〟への道筋がちらつく。

国会審議を軽視する安倍内閣の一連の国会運営は、反対意見や異論に対する〝聞く耳持たぬ〟驕慢さが目立ち、政府にたて突く政治組織や支持者に対して、「共謀罪」を適用した捜査・立件が行われないとの確証が明らかでなく思われる。

 創価学会の前身「日本創価教育学会」の創立者ら(牧口、戸田)が治安維持法や不敬罪で逮捕・投獄され、獄死した歴史的事実を考えると、長年、与党の一翼を担ってきた公明党の「共謀罪」への対応は、ワキが甘いのではないか。

 中学の時、父の書棚のジョージ・オウエルの「1984年」を読み、軍国主義という全体主義の恐ろしい時代から自由な民主主義の国に生まれ変わった日本を、少年の素朴さで喜んだものだ。

 だが、朝鮮戦争が勃発して、戦後保守内閣の右傾化を図るCIA(元内務官僚が協力?)工作活動の陰謀や事件が相次ぎ、60年安保反対が職場労組で議論された中で公安警察の内偵を体験して、政権の政策に反対する一般人国民までもが、〝監視〟されている恐ろしさを知った。

安倍政権は、「共謀罪」の運用では戦前のようなことは起きない万全の歯止めをすると答弁しているが、警察権力が、犯罪を実行する前から捜査・逮捕できる「共謀罪」を乱用すれば、なにが起きるか分からない。安倍首相が重用する女性閣僚らの政治思想、仏のルペン氏など極右勢力のそれと重なるとする見方もあり、安倍政権に批判的なマスコミや市民運動を押さえつける彼女らの言動を見過ごしてはならない。

 一強の強権力で政権批判を封じ込める安倍政権は、中国の一党独裁政権の〝民意弾圧〟を非難する資格を問われているのである。

「表現の自由は、基本的人権の土台であり、人間性の根ねっこ、真実の母である」(中国人権活動家・リウ・シアボー。国家政権転覆扇動罪で逮捕・11年の実刑判決)

 

5月2X日末期ガンと体重)

〝末期ガン〟宣告を受けてから毎日、就寝前の入浴時に体重を計ることを日課に加えた。ガン増殖には糖質が必要で、体内の糖質が不足すると脂肪や筋肉を燃やしてできる糖質を消費し、その結果、激ヤセするという。体重低下は、ガンの増殖活動の指標になると考える。

昨夏あたりから、長年変わらなかった60キロの体重が53キロ台まで低下していたが、5月半では52キロ台に近づいた。思えば52、53キロは新婚生活初期の体重だ。大学時代は48キロだった。

昭和33年に結婚して、高度成長時代と海外勤務の年月で中年太りして67キロになったが、食道ガンの大手術で60キロになってからの24年間は、その体重を維持してきた。

体重保持には、〝栄養とカロリー摂取〟が肝要で、ガンの閉塞で通り難くなっている食事を、いかにして通してゆくかが喫緊の課題だ。この〝大仕事〟に、ひたすら取り組む日々としよう。

 体重低下は、摂取する〝栄養とカロリー〟の出入りの差でも生じ、〝入り〟が限定されるなら〝出〟を制する必要がある。

栄養とカロリー摂取で基本とされる10種の食品「肉、卵、牛乳、油、魚、大豆、緑黄色野菜、芋、果物、海藻を組み合わせた〝お千代の料理〟のレパートリーから選んだ2、3のメニューをミキサーで流動化し毎食約2時間かける〝入リ〟では、安静な生活に必要な千6百キロカロリーを摂取できず、小箱1個で2百キロカロリの「高カロリー総合栄養食品」(3、4個)で補完している。

〝出〟では、宣告後の数日で書き上げて元職場OB会誌に寄稿した『晩節の〝選択〟』の執筆に精魂を傾けたカロリー消費が思いのほか大きくすぐ体重低下が起きたが、〝出入り〟のバランスは実に微妙だ。脱衣場の体重記録に記入する数字が気になるが、眠りの妨げにならぬようアタマからの消去を心がけている。

 

6月3日『続・晩節の〝選択〟』に着手

今日で〝末期ガン宣告〟から3ケ月が過ぎた。その間に戴いたお手紙や電話、見舞いの品などのお励ましに力を得、〝文ちゃん流〟の「生活習慣」と「生き方」でガンと向き合ってきた成果か、体重は52キロ前後で推移して下げ止まった状況を保っている。

この身に〝終末〟がいつ訪れるかは神のみぞ知るだが、朝目覚めてからの養生日課に、〝あせらず〟〝あきらめず〟取り組み、1日を安堵と感謝で終える日々を「一日一生」として積み重ねるだけだ。

 NTT本社OB「日比谷同友会」会報に寄稿した『晩節の〝選択〟』に、思いがけないほどの反響があり、メール・電話・手紙のファイル(「終末期」の交信)は5冊目となった。有難いことである。

 元職場上司・沖塩荘一郎さんがわが家へ持参してくださった済陽高穂著『がん再発を防ぐ「完全食」』は、氏ご子息のお嫁さんが余命3ケ月の末期がんをを宣告されたときに読まれ、「済陽式栄養・代謝療法」を実践したところ、5年も生き延びられたと聞いた。

がんと診断されたら、何を食べればいいか、何を食べたらいけないのか。進行がん患者に6割強の有効率のあるとされる「栄養・代謝療法」をすぐに取り入れた〝お千代の食事療法〟の日々ははや、3ケ月近くになる。

あの拙文が、先輩・同僚・後輩の晩節の生き方の参考になったとの同友会事務局からの励ましを得て、『続・晩節の〝選択〟』を7月号に寄稿することにした。

 

今日は、「日比谷同友会」の総会当日でもあった。総会に続いて「講演会」、「懇親会」があり、毎年、顔をだして先輩方や同僚らと歓談してきたが、今の〝青天の霹靂〟の境涯では、到底ムリだった。

今年の講演は岡本行夫氏の『これから数年の世界を展望する』で、日ごろ聞いているテレビ・コメンテーターとしての見解を超えた新味の「話」を期待し、会報7月号の「講演録」を待とう。

 

 6月12日『続・晩節の〝選択〟』と参考文献

 思いがけない反響があった『晩節の〝選択〟』の続編を書き上げ、「日比谷同友会」事務局へ送信してホッとした。

日本では75歳以上の2人に1人がガンにかかり、3人に1人がガンで亡くなるとされるが、末期ガンの高齢者がいかに人生の終末を迎えるかに、「日比谷同友会」会員の少なからずの人たちが関心を持たれていると分り、いささか根を詰めて勉強し執筆したので、疲労困憊しているのを感じる。ここ10日間の〝栄養・カロリー摂取〟が疎かとなって体重の低下が目立ち、お千代にこっぴどく叱られもした。

執筆モチベーションとなった反響の手紙やメールには、ガン治療の経験者からだけでなく、ガンに罹った時、「治療」の選択・判断の参考にすると書かれたものもあり、〝ガン治療法〟や〝末期ガン〟に関する最近の参考文献数冊を入手して読んだ。中でも、続編末尾に記した『がん細胞を消していくために患者ができること』(監修・前山和弘医師)が大へん参考になった。

病院の「がん3大療法・標準治療」がうまくいかなかったり、発見されたとき〝末期〟と分る患者が多いこと、同じ〝病態〟の患者は1人としてなく、ひとりひとりが異なる遺伝子をもち、60兆個の細胞とそのキャラクターは患者毎に決まることなど、〝目からウロコが落ちる〟思いで読んだ。

 大病院で「標準治療」を金科玉条とする医師たちは、患者を診みずに、ガンそのものだけを診ているのではないか。スタンダード(標準)の患者などいないのに、「標準治療」のマニュアル的治療は本来、成り立たないのだと、まえがき「ガンは自分で治す時代」に書かれている。

また、米国の腫瘍内科研究者ケリー・ターナー氏(ハーバード大で学士号、カリフォルニア大で博士号取得)の『がんが自然に治る生き方』では、現代医学の治療を受けないでガンが治った人々の存在を知り、〝我が意を得たり〟だった。

千を超す症例の調査から導かれた9項目の、抜本的に食事を変える/治療法は自分で決める/

直感に従う/ハーブとサプリメントの力を借りる/抑圧された感情を解き放つ/より前向きに生きる/周囲の人の支えを受け入れる/自分の魂と深くつながる/「どうしても生きたい理由」をもつ のすべては、〝生活習慣〟と〝生き方〟として長く実践してきたことばかり。スバラシイ本との出会いに天啓を感じた。 

「ガン」は己の細胞が突然変異したもので「完全寛解」しても、再発の可能性があるのは糖尿病・リュウマチと同じとされる。ターナー博士の「9項目」は、ガンに罹った人だけでなく、ガンに罹りたくない人も読むとよい本だ。

 先端科学の粋を集めて進んできた「3大療法」でもガンを治すことは難しく、東洋医学等の補完代替療法を取り入れる臨床医、患者を人間全体としてとらえる「統合医療」(ホリスティック医学)をめざす病院が増えているのは、まさに〝同慶至極〟。

末期ガンの宣告に駆り立てられて書いた『晩節の〝選択〟』で、「一切の抗ガン治療は受けず、これまでの生活習慣と生き方を続けて、今の生活の質を可能な限り維持したい」の選択もまた、天啓のような気がしてならない。   

(続く)
2017/07/16 18:04 2017/07/16 18:04

新・浦安残日録(5)続・晩節の“選択”

続・晩節の“選択”            

(このエッセイは、「日比谷同友会」会報7月号に掲載予定原稿の転載です)

 

 会報4月号のエッセイ『晩節の“選択”』に書いた“末期胃腺ガン”の宣告から3ケ月が経過した。

「日比谷彩友会」「青桐日比谷句会」「こぶし会」ほか多くの会員(友人・知人)から、“選択”に同意・共感との電話・メール・手紙を戴き、ありがたく感謝している。 

日本では75歳以上の2人に1人がガンにかかり、3人に1人がガンで亡くなるとされるが、“末期ガン”の高齢者がいかに“終末”を過ごすかに同友会会員も関心を持たれていると拝察しての寄稿だった。

 

「ガンの進行状態から手術はできないし、放射線治療も胃腺がんには効かないでしょう」と医師に告げられたとき、“ピンピンコロリ”の願いは叶わないけれど、“終末”までの余命(長さは天寿だが)を自分らしく生き、過ぎ越した人生を振り返り、家族、友人知人との別れの機会をもつことができる!」と穏やかな気持ちだった。 

傍にいた妻のお千代が、抗ガン剤治療を勧める医師の言葉にしばし逡巡したが、治る可能性があるのなら、医師が勧めるどんな治療でも試させたいと願ってくれたのだろう。

 

「外科手術」「抗ガン剤療法」「放射線療法」はガンの3大療法と呼ばれ、健康診断やガン検診でガンと診断されると、ガンの種類、部位、進行状態によって治療方法が医師から伝えられるが、3大療法の組み合わせ、抗ガン剤の組み合わせに“標準治療”があるとされる。

ガンは昔の肺結核のように“いのちに関わる病”で、“ガン告知”を受けた患者や家族は、どんなことをしても「死」から免れたいと思うから、対症的にガンを除去、撲滅、縮小させる3大療法に頼りきることになり、医師や看護師がガンになっても近代医療の標準治療を選択するようだ。

 

極めて稀な早期のガンで食道全摘出を決断した私は、近代医療のお陰で今日までの長い余命を得たが、その翌年(1993年)、売れっ子テレビキャスターの逸見政孝さんが、数度のガン手術の挙句に壮絶な死を遂げことがテレビ各局で報じられた。

 有名な前田外科病院(現赤坂見附前田病院)を紹介され、「初期ガンですから、手術すれば完治します」と告知した担当医を信頼していたが、実際は「初期ではなく、ギリギリのところで全てのガンを取り除いたが、5年先での生存率はゼロに近い」と病院側で分かっていたという。

 

前田外科に全幅の信頼を置いていた逸見氏は、夫人が他の病院の診察(セカンドオピニオン)を勧めても、「自分が決めたことに対して一切口出しするな!」と激怒した上で転院した東京女子医科大学病院で、権威ある執刀陣の13時間にも及ぶ大手術を受けたものの、1ケ月後に生じた腸閉塞で絶食状態となり高栄養点滴を受けたが衰弱が進み、抗ガン剤の副作用で表情豊かな逸見氏の相貌とはほど遠くなったという。ほどなく迎えたクリスマスの夜半に亡くなったが、ガン発見から1年足らずの“ガンとの激闘”も空しく48歳の人生に幕が下ろされた。

 

『晩節の“選択”』追記で書いた柳田邦夫著『「死病」への序章』の西川医師のケースは、前立腺ガンを宣告されて受けた睾丸摘出手術と放射線治療のあと再発・再入院の抗ガン剤の副作用で激しい嘔吐・下痢と朦朧とした気分で仕事の意欲をなくした医師は、抗ガン剤治療を自らの意思で中断して病院を脱出した。「3大療法」の果てに開眼して1年、ガンの体験を克明に記した日記と1冊の著書『輝け 我が命の日々よ』を残して、旅立ったのである。

 逸見氏と西川医師の働き盛りの人生の終末となった“末期ガン”との向き合い方の“光と影”から多くを学ばせてもらった。

 

『晩節の“選択”』文末に書いたように、“末期ガン”で終末に向かう日々のことを、「松本文郎のブログ」の新連載『新・浦安残日録』に掲載しているので、ご覧くだされば幸いである。

その(4)に、以下の事項を記した。

・「老子」や『菜根譚』の生き方を実践する書家(私共夫婦が長年敬愛してきた)から勧められた民間療法の「シベリア霊芝(カバノアナタケ。ロシアのノーベル文学賞作家ソルジェニチンの小説『ガン病棟』で一躍脚光を浴びた漢方)の服用開始。

・“自宅で死にたい”ための「在宅ホスピス」の段取りで、市役所の老人介護保険認定申請と調査員の来訪、ホームドクター推薦の訪問医師決定など。(1ケ月後に「要介護2」の認定通知)

・栄養とカロリー摂取のための流動食の工夫(基本的10食品:肉、卵、牛乳、油、魚、大豆、緑黄色野菜、芋、果物、海藻から最低7品目を組み合わせる)と、補助栄養食品の積極摂取。

・全身ストレッチ、目・耳・鼻・頬のツボ指圧、顔面・首・頭皮のマッサージ、腹式・胸式呼吸法と朝夕の散歩・入浴(内湯湯治?)など30分のウオーミング・アップの励行。

・積極的な諸活動<唄う><描く><詩文を書く>の縮小・維持。

 この“生活習慣”と“生き方”が効を奏したのか、昨夏から減り続けた体重(6052キロ)が下げ止まる傾向が出てきた。

  

ガンが塞ぐ狭窄箇所を通る流動食は、なんとか通したいと焦るほど狭窄箇所に滞留するので、

2時間かけても予定の半分に満たないこともある。根を詰めて文章を書き絵を描くとカロリーを思いのほか多く消費し、0.5キロ前後の体重上下が生じる。523キロは新婚時代の体重で、その辺に落ち着いてくれればいいのだが、一喜一憂はストレスになる。

夜の入浴前の体重を、浴室の脱衣場の壁のグラフに記し“あせらず”“あきらめず”の言葉を添えている。食道ガンから生還して職場復帰して、書斎に“怖れず”“焦らず”“伸び伸びと”“楽しく”と大書した紙を貼り24年の年月を生きた。平均寿命を超えた寿命では、“怖れる”ものはなく、“伸び伸びと”“楽しい”日々を過ごせるように祈るばかりだ。

 

「ガン腫瘍が増大して吻合部が塞がり、栄養・水摂取が出来なくなれば入院して注入の措置をすればよい」と伊藤医師は三楽病院(乙羽信子さんの終末)のへ入院を勧めるが、伊藤医師と「在宅ホスピス」の訪問医との連携体制はを段取したので、よほどの事態(末期ガンの激痛の鎮静が在宅で不可能)でない限り、自宅の庭を眺めながら晩節の“選択”静かに「死」迎えたいと願っている。

 

24年前の“ガン告知”と4ケ月に及ぶ入院・手術の病院生活で、“ガン”や人間の“生死”について多くの本を読み考えを巡らせたが、今回も、書棚の本を数冊選んで再読した。

『死ぬための生き方』(新潮45編集部 編)/『100歳のことば100選』PHP文庫)/『人間について』(平凡社)

『死ぬための生き方』(新潮45編集部 編)は、各分野で優れた仕事をされた42名の執筆者が、西欧中世の“メメント モリ”(死を思え)という重い主題で書いたエッセイ集である。

 執筆当時で最高90歳から最低50歳までの幅があり、日中戦争、太平洋戦争、敗戦、高度経済成長の各時代を切り開き努力を重ねて“生きてきた”方々の真摯な文章に、“人は生きてきてきたように死ぬ”という姿が見えた。

100歳のことば100選』は、「新老人の会」主宰・日野原重明氏が満百歳で編著。多彩な分野

の長寿な人たちの“感銘することば”が収録されて、再び読んでも、励ましと安らぎを覚え、共

感を新たにした。

 

その<はじめに>に、百十歳をめざす日野原さんの実践が紹介されている。

・歩くこと。15千歩以上歩く努力をする。

・食べること。30歳のときの体重・腹囲を維持する。

・寝ること。ウツ向けに寝て2分で熟睡する。

・着ること。下着は薄着、寒暖の調整は上着で。

・考えること。集中していればお腹はすかない。

・書くこと。読書で引き出しを多くしておく。

・会うこと。会話は“ド”からではなく“ラ”から。

 これらの実践項目は、日野原さんの「成人病は生活習慣の乱れから」の持論とご自身の「生き

方」が土台にあり、信奉者の1人として私なりに努力してきた。

 

末尾の“私からひと言”は、「人生は50歳とか60歳で前半、後半と分かれるものではありま

せん。ハーフタイムは、だんだんあとにきます。そしてあとにくる人生のほうが濃縮するのです」

『晩節の“選択”』で引用した国立ガンセンター元総長杉村隆氏の「死とはその人の人生が短期間

に集積されて出てくるものではないか」と併せて、“終末を生きる”私への深い示唆である。

 

『人間について』は、日野原さんの本が刊行された年(前立腺進行ガンの治療を勧められた2011年)に見明川住宅の“夏祭り古本市”で見つけた好著だ。敬愛してやまない司馬遼太郎氏と山村雄一氏(臨床免疫学者,大阪大学元総長)の対談である。

 司馬さんは、「膨大な“経験則”の集積だった医学が“科学的”に進歩した結果、“科学”の自
己目的化から、人間の幸せをめざす“医学”の原点が忘れられるかもしれない。医学者は、人間というものを考える義務があり、知的総合者としての立場を失うとまずいことになる。“医者の哲学”、“患者の哲学”が必要だ」と述べ、生化学的方法を「ガン」に応用して基礎医学からガン臨床免疫学者になった山村さんと、人間を中心にした様々な問題を語りあっている。

 文学と医学の泰斗ご両人の含蓄と示唆に富む対談で、「人間に対して大きな恩恵をもたらしつつある医学の進歩に、“光明るければ影もまた濃し”の“影”に対する配慮が必要な時代」と強調されたのが印象的だった。

 私が、前立腺ガンの治療を避けたのは、この「対談」と「65歳からの前立腺ガンはほっておくのがよい」という本を読んで決めたのである。

 

「ガン治療」を受けない静かな終末を迎える“選択”をしたあとは、“末期ガン”に関する新刊図書を読んだ。近藤誠著『がん患者自立学』(晶文社2017.4刊)/阿部吉伸著『アクセル+ブレーキでがんを滅ぼす免疫療法』(幻冬舎2016.6刊)/前山和弘監修『がん細胞を徐々に消していくために患者ができること』(文昇堂20168刊)である。 
 
 近藤誠さんは、慶応大学医学部放射線科講師を長年務め、『患者よ がんと闘うな』(文芸春秋
1996刊)で“ガン治療”の常識を砕く一連の持論で毀誉褒貶の激しい人で、この衝撃的タイトルの著書は、私ガン手術の成功で生還し4年を経た年に刊行されて一世を風靡したが、早期発見と手術のお陰で命を長らえて、NTT建築総合研究所副社長を勤め上げた私には違和感を抱かせ、肯える論点もあるが、かなりの“極論”に感じられたので、以後の著作は“遠ざけて”きた。

 独特な持論の著作を列挙すると、『成人病の真実』『健康診断は受けてはいけない』『がん放置療
法のすすめ』『抗がん剤だけはやめなさい』『医者に殺されない47の心得』『免疫療法に近づくな』『がん治療の95%は間違い』『がん患者自立学』などがある。

 近著の『がん患者自立学』は『患者よ ガンと闘うな』から
20年の刊行、タイトルと対談者
の三砂ちづるさん(『死にゆく人のかたわらで』(幻冬舎2017.3刊)の著者)への関心から、“末期ガン宣告”から間なしに新聞広告でみつけ、妻と一緒に読んでいた。

 三砂さんは、ロンドン大学衛生熱帯医学院研究員と
JICA(国際協力機構)疫学者として世界
中で疫学研究と国際協力活動に携わって、“末期ガン”の告知を受けた夫が近藤さんの「セカンドオピニオン外来」を受診して2年後に亡くなるまで自宅で看取った人である。 

 「対談」の三砂さんは、わが国の病院医療の“患者への過剰な介入”について警鐘をならし続け
てきた近藤医師がなぜ、ガンを治療せず、放置したほうがいいと考えるようになったか、その根本を訊ねている。

 

なぜガン治療をしないかについて近藤さんは、ガンの性質が大きく関与しているとして、

・ガンの性質は、初めから運命的に決められており、再発し、転移するガンと発見が遅れても転移しないガンに分かれる。

・早期発見ならどんなガンでも治るというのは間違いで、早期ガンの死亡率は下がっていない。

の持論を述べている。

 “抗ガン剤治療”について近藤さんは、悪性リンパ腫や白血病などの「血液ガン」治療に、格段に進歩した抗ガン剤が成功しつつあると認めながらも、胃・肺・乳・子宮ガンなど、いわゆる「固形ガン」ではうまくいかないで、ガンの縮小率も非常に低く、寿命ものびたかどうかわからないとしている。

 

70年代以降、繰り広げられている激しい開発競争で生まれた抗ガン剤の乳ガンと卵巣ガンの縮小率は60~70%と高く、15%の完全寛解率(検査でガンがみえなくなること)とされていたが、検査方法がⅩ線撮影ではなく,CTPET・エコー・MRIではごく小さなガンもみつかり、完全寛解率は下がっているという。

 近藤医師によれば、高度な検査方法による微小ガンの発見で、放っておいても何年も生きられる人たちへの抗がん剤治療で、長生きできたように勘違いされているのだと、手厳しい。

 固形ガン治療の専門家・腫瘍内科医による抗がん剤治療では、次々と別のものを使う「乗り換え治療」の抗ガン剤の毒性で、延命どころか縮命が生じていると嘆じている。

 

 近藤医師の持説はと一線を画すと思われる阿部吉伸医師『アクセル+ブレーキでがんを滅ぼす免疫療法』で述べられている「抗がん剤治療」は、

・転移したガンには「局所治療」である手術・放射線治療は効果を発揮できず、「全身治療」の抗ガン剤治療しかない。(筆者のケース)

・ガン細胞を攻撃する抗がん剤治療に、「化学療法」「分子標的療法」「ホルモン療法」があり、日本に多い「化学療法」は、細胞のDNAに影響を与えて増殖を防ぐもので、分裂している細胞にしか効果がない。分裂している細胞は正常なものでも容赦なく攻撃する副作用や“薬剤耐性”により「乗り換え療法」となり、抗ガン剤の強い副作用で体力が消耗し、寝たきりになる危険を秘めている。

・転移したガン、転移の可能性のあるガンに保険診療で対抗するには「抗ガン剤」しかないが、抗ガン剤 の健康保険適用の“有効判定基準”は、○ガンが半分以下になった状態が4週間以上継続し、この現象が10人中3人に見られると“有効”と判定される。

 

だが、ガンが一旦は小さくなっても、1ケ月もすると再び大きくなり、認可された抗ガン剤でも、ガンが治るとは言えない。ガンは転移しても痛みがなければ比較的元気に生活し、旅行や趣味に興じることもできるが、抗ガン剤治療を始めると、強い副作用で吐き気・下痢、だるさなどが生じて外出すら難しく“生活の質”は極度に低下する。

抗がん剤治療を受けてもガンがまったく消えず副作用だけが残るケースが半分で、仮にガンが半分になっても、ガン細胞の分裂速度から約1カ月で元の大きさに戻ってしまうこともある。

 あっという間にもとに戻る治療のために何カ月も副作用で苦しむことや正常な組織や臓器がダメージを受けて免疫力や体力が衰え、寿命が縮む(縮命)ことを患者や家族は知らされていない。

 しかも、一般的な「化学療法」によるガンの治癒率(5年後生存率)は、絨毛ガン(90%)、睾丸腫瘍(75%)、悪性リンパ腫(50%)急性骨髄性白血病(20%)、卵巣ガン(⒑%)で、5種類はガン全体の10%に過ぎず、これら以外のガンは抗ガン剤では治療できないという。

 

 近藤・阿部両医師の著書を読んだのは、“宣告”から1ケ月たったころである。

 24年前の早期の食道ガン術後は、放射線・抗ガン剤の治療はなくて、70歳の4.6から7年後の30台に上昇した前立腺PSAでも、抗ガン剤治療を断ってきた。「抗ガン剤」の経験と知識はなくても、この2冊の本に鑑みて、私の“なにもしなかった選択”は、“当たり!”だったと思っている。

 

健康な人間でも日に5千個のガン細胞ができるが、ガンを発症しないのは、己に備わる免疫機能がガンの増殖を抑制しているから、と阿部さんの本で学んだ。つまり、自己免疫力がなんらかの原因で低下すると、免疫機能を担うリンパ球がガン細胞を見逃して、毎日発生するガン細胞から“生き残り”が出てガンが発症するという。

 

全身のリンパ節に転移した第4ステージの末期ガンを宣告された私に残された“抗ガン剤治療”を医師が勧めるのは、まさに、「標準治療」そのものなのである。

しかし、“効くかもしれない”というあいまいな可能性に賭けて、自己免疫力を低下させる「抗ガン剤」に頼り、大事な終末の日々を台無しにはしたくないのが私の“選択”だった。

 

“末期ガンの宣告”から3ケ月の日の朝、新聞受けから取り出した1面の広告欄から、『がん細胞を徐々に消していくために患者ができること』の活字が目に飛びこんだ。本誌4月号の追記で書いた『「死の医学」への序章』(柳田邦夫著)のように、末期ガンで「死」に直面する私が不思議な“出会い”をした本の2冊目だ。これらの本を路上と新聞受けに知ったことが、天啓のように思われた。

 

監修前山医師のクリニックには、病院の「標準治療」がうまくいかなかったり、発見されたとき“末期”とされた患者が多いそうで、同じ“病態”の患者は1人としてなく、ひとりひとりが異なる遺伝子をもち、60兆個の細胞とそのキャラクターが決まる。ガン細胞のキャラクターも患者自身のものだという。

  大病院で「標準治療」を金科玉条にする医師たちは、患者を診みずに、ガンそのものだけを診ているのではないか。スタンダード(標準)の患者などいないのに、「標準治療」のマニュアル的な治療は本来、成り立たないのだ、と<まえがき>「ガンは自分で治す時代」で述べている。

さらに、“医師と患者は対等”“医師にとって面倒な患者になる”“医師は、患者が使いこなす道具”という“逆転のすすめ”で、ガンを病院任せ、医者任せにせず、患者自身が勉強して、ガンを治すために自らができることを勧奨している。

 

 第1章「『劇的な寛解』に至るために実践してほしい3つの事柄」に、生活習慣を変える/治療法を自分で決める/サプリメントを正しく選ぶ、の3つがあるが、

その元に、『がんが自然に治る生き方 余命宣告から「劇的な寛解」に至った人たちが実践している9つのこと』があるいう。

著者のケリー・ターナー氏(ハーバード大で学士号、カリフォルニア大で博士号を取得)は腫瘍内科の研究者。自らの研究過程で、現代医学の治療を受けないでガンが治った人々の存在を知って衝撃を受けた人だ。

千を超す症例の調査から導かれた9項目の内容に目を見はった。抜本的に食事を変える/治療法は自分で決める/直感に従う/ハーブとサプリメントの力を借りる/抑圧された感情を解き放つ/より前向きに生きる/周囲の人の支えを受け入れる/自分の魂と深くつながる/「どうしても生きたい理由」をもつ。

 これら項目のすべては、“生活習慣”と“生き方”として、長く私が実践してきたことばかりではないか。なんという“スバラシイ”本との出会いだろう!

 

本稿の締め切り間際に知ったターナー博士の著書を、浦安中央図書館で探し、その詳細を知りたい気持ちがつのるが、前山医師の“3つの事柄”についてだけ、簡潔に記しておこう。

○生活習慣を変える

「ガン」は己の細胞が突然変異したもので「完全寛解」しても再発の可能性があり、糖尿病・リュウマチと同じとされる。ターナー博士の「9項目」は、ガンに罹った人だけでなく、ガンに罹りたくない人も読むといい本ではないか。

○治療法を自分で決める

 先端科学の粋を集めて進んできた3大療法ではガンを治すことは難しく、東洋医学等の“補完代替療法”を取り入れる臨床医、患者を人間全体として捉える「統合医療」(ホリスティック医学)をめざす病院が増えているというのは、まさに“我が意を得たり”だ。

“末期ガン”の宣告で、駆り立てられるように書いた『晩節の“選択”』で、「一切の抗ガン治療は受けず、これまでの“生活習慣”と“生き方”を続けて生活の質を可能な限り維持したい」の“選択”も、天啓のような気がしてならない。

○サプリメントを正しく選ぶ 

“老子の生き方”“菜根譚の暮らし”を実践する書家に勧められた「シベリア霊芝」の服用は、歴史と伝統と科学的根拠がある「ガン免疫療法」として、前山医師の「メディアートクリニック」などの臨床データの中に記されている。

 

60兆個の“いのち”の動的平衡」の考えに立つ私は、「ガン医療」の在り方を巡る論議に、「原発問題」と同じ“間違った技術論”がもたらした混迷を感じます。

『人間について』で、功利主義的になった“科学技術”が懸念されていましたが、「科学・技術」と「哲学」を総合した観点で人間・社会を見直す必要を痛感します。

『晩節の“選択”』はあくまでも、私という“オンリーワン”のスペシャルケースとしてお読み頂き、ご自身の夫々の“選択”をなさるよう祈念して筆を擱きます。

                                   (了) 

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2017/06/19 13:11 2017/06/19 13:11

新・浦安残日録(4)

  

はじめに)

新連載を寄稿した1ケ月後の内視鏡検査で“ガン告知”を、10日後には、〝末期ガン宣告〟を受けました。

この青天の霹靂の“宣告”は「食道全摘出手術」を勧められた24年前の早期食道ガンの告知から2度目の「死」との直面でした。

最初の“青天の霹靂”では、2人のドクター(消化器内科、外科)のお陰で再びのいのちを得たことを当時のNTT本社・社内誌「NTTジャーナル」のエッセイ欄に寄稿しておりましたので、今回もその後身「日比谷同友会会報」に『晩節の選択』を寄稿し、同文を(3)に掲載していただいた次第です。

宣告から数日間で性急に書き上げたこの拙文は、2人の恩人ドクターとの不思議な“縁”をNTT本社OBの方々へ伝えたい想いで筆を執りました。 

『新・浦安残日録』は、いつまで書けるか分りませんが、高齢者末期ガンの終末の日々を書き綴ってまいりますので、お読みくだされば幸いです。

 

3月8日野尻泰煌氏に会う

 内視鏡検査の桜井先生から「胃腺ガン」の告知を受けたあと、伊藤先生の指示でCT検査を受診した。その結果の“末期ガン宣告”を伊藤先生から一緒に聞いた妻のお千代は、手術できない状況の説明は理解したものの、放射線・抗ガン剤治療の可能性と是非については、思いあぐねているようだった。

 宣告から数日後、お千代がふと、「泰煌先生に電話してみる」と言った。
 野尻泰煌氏は、
30年前に彼女が師事した書家で、王義之に心酔して幼時から研鑽を積まれてまれて
きた作品は国際的にも評価が高く、日常生活では『菜根譚』の実践者である。息子と同年齢だが、私の墨彩画の励ましに手作りの「落款」を10数個も恵与くださり、展覧会出品作品などに使わせて戴いてきた。
 
 帝国ホテルの喫茶ロビーで“宣告”に至った経緯と心境に耳を傾けた氏は、「抗ガン治療」に対
する私の“選択”に賛同して、自身と門人の体験事例をていねいに話して下さった。中でも印象的だったのが「カバノアナタケ」で、ロシアのノーベル賞作家ソルジェニツインの小説『ガン病棟』で一躍脚光を浴びた「シベリア霊芝」の“免疫機能の活性化”で、身近な方々の高齢者末期ガンの進行が収束した事例だった。
 
 この“キノコ”の薬効を知っていた私に、産地の北海道から直送してくださることになった。

 

 3月1Ⅹ日市役所へ行く

 “末期ガンの宣告”のときの伊藤先生は、「ガンが大きくなって吻合部を塞ぎ、食事がとおらなくなったら、栄養剤を注入する対症療法で、かなりの間、思索や執筆はできますよ」と励ましてくださったが、その措置を「在宅ホスピス」で受けたいというのが私の「選択」だった。

 高齢者比率が高い浦安市では老人介護システムの構築が進み、特養老人ホームの訪問ボランティアとして8年間、月例「歌の花束」に参加してきた。

末期ガンで死ぬことに怖れはないが、ガンの苦痛に対処する緩和医療の訪問医や介護保険のことで、市役所を訪ねた。入口でぱったり出くわした浦安市合唱連盟理事長(浦安男声合唱団の仲間)のTさんに“末期ガン”を告げると、氏は絶句した。

 昼食前の時間だったが、担当課女性の親切な応対で、浦安市の老人介護支援の現状がよく分かった。吻合部の閉塞が起きた場合の「在宅ホスピス」の相談では、末期ガン緩和ケアの経験豊富な訪問医の情報と介護保険認定のための調査員派遣の手配を得ることができた。30年前に“終の棲家”として選んだ浦安市の老人介護支援の充実を実感しながら家に戻った。

 

 3月18日浦安男声合唱団

浦安男声合唱団(「浦男」)の第13回定期演奏会の“ワンステージ参加”の最初の練習日。末期ガンなど思いもしない昨年秋、団長Kさんからの誘いで参加を申し込んでいた。

「浦男」に入ったのは22年前である。「食道ガン手術」で再びのいのちを与えられた心境の変化で、「浦安市民第九合唱団」の公募に応じてコーラスを始めたのがきっかけだった。

 同じ頃に混声合唱団「洋(うみ)」にも入団して多くのステージ(「第九」30余回、各合唱団の定期演奏会など)を踏み、「洋」を東京文化会館小ホールでの定演を期に、「浦男」は第11回定演で退団した。

平均寿命を超えた晩節に入り、人生の長い年月、毎週金・土曜の夜をお千代と一緒に過ごさなかったことに終止符を打ったのである。

『晩節の選択』に記した6年前の「前立腺進行ガン」の告知に人生の終末に向けた「断・捨・離」を決意し、定年退職後に楽しんだ〈唄う〉〈描く〉〈詩文を書く〉諸活動の戦線縮小を図ったのだ。

 10月の本番ステージを踏めるかは、ガンの状態次第で不確実だが、親しい仲間と声を合わせる練習が自己免疫力を高めると信じて、月1回の練習参加を決めた私は、“ワンステメンバー”とで30余人の初練習を大いに楽しむことが出来た。

明日にでも親しい団員にだけは、“末期ガン”のことをメールで伝えよう。

 

3月2Ⅹ日統合/分断の岐路

EU(欧州連合)の原点であるローマ条約制定の祝賀式典がローマで開かれ、EU離脱を決めた英国を除く27カ国の首脳が出席した。

英国をはじめとする欧州各国に広がるEU離脱のナショナリズムを懸念してか、共同宣言には国ごとに統合の速度の多様化を容認する文言が盛り込まれたようだ。ドイツとオーストリアは極右政党の台頭を押しとどめたものの、ルペン氏の動向が注目されるフランス大統領選挙を目前に、加盟各国は分断か統合かの岐路に立っているのである。

国境の壁を取り払って、ヒトやモノの行き来を盛んにして、2度の大戦で荒廃した欧州と世界の平和と繁栄を築くことをめざす、人類社会の壮大な実験がピンチに直面しているのだ。

フランスは、EUの前身の創設以来の60年間、ドイツと共に欧州統合を引っ張ってきたが、その国が反EUに転じる事態が起これば大変なことになる。

 欧米国民のかなりの部分に、既存エリート層による政治支配やグローバル化による格差拡大に対する怒りが強まっているのは確かだが、欧州統合や移民をやり玉にするのは、庶民を欺くポピュリズムのそしりを免れないだろう。

EU加盟諸国がこれまで培ってきた価値観を共有し強調して、統合危機の難関を乗り越え、人類社会の理想実現に立ち向かってほしい。

ルペン氏にエールをおくるトランプ米国大統領と肝胆相照らしたとする安倍首相は、明治憲法の昔に戻ろうとする時代錯誤の取り巻き支持者らと共に、その立ち位置をどうするのだろうか。

 

 3月25日明海大歯科診療所

 この歯科診療所のお世話になって10年が近い。施設長下島先生の患者へのわけ隔てない真摯、親切な応対に感謝し受診してきた。お千代も先生の大のフアンで、息子、娘一家もお世話になっている。

 治療後の短い会話で“仏像鑑賞”がお好きと知り、仏像の拙画(縮小コピー)の額装を差し上げた折、食道ガン手術を受けたことも伝えていた。

先生は、形成された胃管が食べたものを十二指腸へ通過させるだけの機能しかなく、胃の消化機能に替わる歯の咀嚼力の維持が大切として、虫歯治療、部分入歯作成、クリーニングなどの診療を計画的に進められたなかで、「無用の親知らずは元気なうちに抜いておくのがいいでしょう」と言われ、昨年の秋、順次、処置してくださった。

“宣告”後の初めての受診で、“末期ガン”の事態と「在宅ホスピス」の選択を告げ、『晩節の選択』を渡すと、「うちの診療所でも在宅ケアに応じますから、安心してください」とやさしく言われた。

「人事を尽くして、天命を待つ」を着実に実践する決意を新たにした。

 

 3月27~9日(“人事を尽くして”

27日、市役所の介護保険認定の調査員が来訪。担当課の窓口で私が話した内容をちゃんと受け継いだ丁寧な質問(心身の状態、日常の生活、家族・居住環境など)に感心した。

訪問調査の結果と主治医(三楽病院・伊藤医師)の意見書による1次判定と、保険・医・福祉専門家による2次判定で、認定審査をするという。

 介護保険認定の審査は「要介護(居宅・施設での介護サービス、1~5)」「要支援(介護予防サービス)1~2」「非該当(自立)」に区分し、申請から30日以内に届くそうだ。

 市役所へ自転車で行ったくらいだから、日常生活では自立しているといえようが、閉塞が起きれば、たちどころに“要介護”になるので認定申請をした旨を説明したが、どんな結果になるか。

 翌28日、ホームドクターの吉野医院を訪ねた。

 浦安へ越して(平成元年)からかかりつけの女医だが、定年退職後は風邪もひかず、12年前に市からの通知で前立腺PSAの血液検査を受けたときから久しぶりの受診だった。 

 これまで三楽病院での3ケ月ごとの血液検査では5本も採血した上に結果を聞きにまた出かけるので、カロリーと栄養の摂取がギリギリの状態ではとても負担になるのを懸念して、「在宅ホスピス」の相談方々の久しぶりの受診だった。

“末期ガン”の終末を「在宅ホスピス」で過ごしたい旨を告げて、『晩節の選択』のあらましを話した。吉野医師は、訪問医として「小林クリニック」を勧めたが、それは、市役所の窓口で示された2、3の候補の一つだった。

女医・小林院長は、高齢者の末期ガン患者の在宅医療の経験が豊富で、わが家に近い住まいと聞き、紹介状をもらうことにした。

「在宅ホスピス」が必要なのは、ガンが肥大して吻合部が閉塞したときで、にわかに生じるものではないだろうと、当面の血液検査(1本)を吉野医院でとお願いすると、年輩のベテラン内科医は、ハキハキした明るい声で、「体重が激減して人生終末を抗ガン剤で苦しみたくない人に、多項目(抗ガン治療」に必要)血液検査はいりません」と、患者の気持ちに添うホームドクターらしく言われた。

29日、初めての「小林クリニック」で紹介状を出して、吉野医院と同じように状況の説明をした。紹介状に目を通しながら私のかなりの長い説明を黙って聞いたあと、テキパキと“オトコっぽい”印象の小林院長はおもむろに口を開き、「ご自身で状況をちゃんと把握され、終末の生き方をしっかり考えていられますね。末期ガンといっても、すぐに閉塞が起きることはなく、起きてもすぐに死ぬわけではありません。在宅ホスピスは引きうけますから、三楽病院から主治医の紹介状をもらってください」と、あっけないほど乾いた口調で話した。

 老人介護保険申請をして調査員の来訪もあったというと、「松本さんのいまの状態では、要介護認定はないでしょうから、必要になれば私が手配します」と“けんもほろろ”に宣われた。

 “末期ガン”の宣告をした伊藤医師に、「閉塞が起きたときは三楽病院へ入院して栄養補給の対症療法をすればいいのです」と言われたのを思い出した。

あのとき、「在宅ホスピス」を希望すると応じたら、「訪問介護医でうまくやるのは大へんですよ。入院すれば、四六時中、スタッフが対応して、ご家族の心配もありませんからね」と、いかにも大病院の医師らしい口ぶりだったが、この小林医師なら信頼してまかせられるとの信頼感が湧いてきた。

 

 4月Ⅹ日日比谷彩友会)

日比谷彩友会はNTT本社OBの「日比谷同友会」の〈お楽しみ倶楽部〉に登録し助成金を受けている絵画同好会である。〈唄う〉〈描く〉〈詩文を書く〉の三つの趣味活動でまだ、「断・捨・離」を免れている一つだ。

年1回の展覧会、春秋のスケッチ旅行、絵画研究会に10数年にわたり参加してきたが、4月4日の研究会に出す作品は、〝宣告〟の時点では描けていなかった。

 春秋の研究会講師は「白日会」副会長深澤孝哉氏よる懇切丁寧な講評を、長年にわたり戴いてきた。1月に来た研究会の案内へ出席の回答をしたままで、今回の事態は、会員の誰にも知らせていなかった。

体重が激減して体力がない身では、元電電公社の本社社屋「NTT日比谷ビル」の会場に行けないが、来年は見れないかもしれない「ふれあいの森公園」の『春爛漫』を描き、お千代に持参してもらうことにした。

 1昨年の春、この公園の一角の『一本桜』『』を描いた絵が、「日比谷同友会会報」4月号の表紙絵に選ばれたのを偶然と思えないのは、あの春の桜が咲き初めて間もなく冷雨がつづき、満開の時期がかなり遅れたのに前後して、親しい友人が相次いで急逝したからである。会報の末尾に書いた「表紙のことば」の、『残る桜も』の小文「古代から日本人に愛されてきた桜にはいくつかの想いを抱いています。妙義山麓の満開の桜を描いたとき、唐突に、縄文人もここで花見をしたにちがいないと直感。(中略)。悔しいのは、敷島のやまとごころを人問わば朝日に匂う山桜かなの本居宣長が、山桜の“みやび”こそが大和心だとしたのを曲解し、軍国主義が発意した特攻隊の讃歌とされ、『同期の桜』の歌の流行で戦場に散った兵士と散り際の桜を重ねる風潮が生じました」を書いた。

 お千代は『春爛漫』(10号色紙ヨコ2連)を携えて代理出席し、手紙と『晩節の選択』の原稿コピーを参加会員20余名に手渡して、深澤先生の懇切な講評をいただいたことを報告し、翌日、多くの会員から励ましのメールをもらった。

 

4月Ⅹ日(“残日録を書く”こと

 朝日の夕刊に作家古井由吉氏の新刊『ゆらぐ玉の緒』を扱ったインタビュー記事(柏崎歓)が掲載されていた。随筆風というのか随想風というのか。8作の短編は、作家自身の日常を淡々と書きつづるようにして始まるとする「作品」について、古井さん自身の言葉が列挙されており、私の今の心境と重なって、興味深く読んだ。

「時間というものが、過去現在未来という一直線の流れじゃなく、混ざったり集まったりしてるように感じることがあるんです」「突然今自分がどこにいるかわからないような、空間という自明なものが見慣れないものに見えてくることがある。(中略)空間と時間が壊れてしまうんじゃないか。そう思ってしまう」

 書名の「玉の緒」とは魂を体につなぎとめる緒で、『ゆらぐ玉の緒』とは、人間の精神が固定されず、ゆらゆら揺れ動いている状況をさすそうだ。

「人はやっぱり、安定しているように見えることも実ははかないということを踏まえて生きる必要がある」「人間には、揺らいでいるときじゃないと見えてこないものがあるんじゃないか」

 記事の末尾にある80歳作家の言葉「もうひとしきり書きたい気持ちがあるんです。年を取って書くのに時間がかかるし、ちゃんと書いているのか不安になる。でも、そういう書き方じゃないと出てこないこともあると思うんです」にも大いに共感して、この「残日録」を書いている。

 

 4月11日青桐日比谷句会

 この句会に参加して久しいが、第2火曜日の月例会が来るはやさに驚きながら、相変わらず、日常的即興句を出句してきた。

 3月例会(14日)は“宣告”から日も浅かったが、〈詩文を書く〉趣味の一つの中断を躊躇い、事態のあらましを伝える手紙を添えた7句を、「日比谷同友会の事務局の手を煩わしてメールで届けた。 通常は兼題10句をNTT日比谷ビルの会議室に持ち寄る句会だが、4月は吟行が予定されていて、生憎の花の雨となった。

 今回のメール投句に添えた手紙に、「花の雨の吟行となりましたが、“雨もまた佳し”でしょうか。先月は1時間半かかった流動食が通り難くなってきて、今は2時間以上かけてカロリー摂取の“大仕事”に励んでいます。

減り続ける体重は50キロ近くになりましたが、人生でいちばん大切な終末を、お千代と一緒に過ごす在宅ホスピスの日々を、「一日一生」の想いで生きています。

 吟行の六儀園には数年前の“夜桜見物”に一家で行きましたので、今朝目覚めてすぐに当時の情景を思い出して詠んだ即興句をお届けしますので、よろしくお願いします」と記した。

 句会参加者の投句は10句、欠席投句は7句で、その中からの3句。

 足止めの田鶴橋(たづばし)に寄る花筏

 末期ガン残花のいのち愛おしむ

 わが妹と偕老同穴花の山

 田鶴橋は回遊式庭園の中の島に架けられている橋で、妹山と背山のある島に渡ることを禁じる“足止め”があり、その情景を2句に詠みこんだつもりだ。

                                  (続く)

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2017/05/20 04:02 2017/05/20 04:02

ブログの読者各位

 

今年も桜の開花予想が始まったと喜んでいた矢先の3月3日(雛祭りの日)に、末期ガンの告知を受けました。その経過と心境を記した拙文『晩節の“選択”』を、不躾ながらお届けしますので、ご覧下されば幸いです。 

拙文に記した昨夏からの経過ですが、24年前の食道がん手術の吻合部に生じた「胃腺がん」はかなり大きく、食べたものの通過を邪魔し、多くのリンパ節に拡がった末期のステージなので、手術できず、X線も効き難く、抗がん剤治療だけが残る積極的治療手段と告げられました。

 ガンが塞いでいる吻合部の隙間はやっと内視鏡が通るくらいですから、食事は、流動的に調理したものを毎食1時間半くらいかけて、狭い隙間をトロリ、トロリと通過させています。

それでは十分なカロリーと栄養が摂取できず体重が5,6キロ減りましたので、娘婿(「味の素」の関連事業部門幹部)が届けてくれる総合栄養補助食品類を補完的に摂取しています。

拙文に書いたのは、「自分の“こころ”と“からだ”を丸ごと“抗がん治療”に投げ出すな!」との“内なる声”に従い、自然の一部である“いのち”を司る“摂理”にゆだね、“いま ここ”を生きぬこうとの想いです。

この「摂理」は宇宙(自然)の森羅万象を支配する理法で、ビッグバン以前の宇宙もカバーする概念(=神?!)と、私は理解しています。

 西洋近代的な考えでは、ガンに罹ったとき、近代医学に立脚した医師が勧める抗がん治療を頼りにして、最後の手段まで“ガンバッテ”闘うのが、人間らしい生き方とされるようです。

『人事を尽くして天寿を待つ』という言葉がありますが、“人事”には、近代医学的な“知見”(ニンゲンのからだとこころについては30%くらいしか判っていない?)の他に、示唆に富み、信じるに足る、古今東西の“知恵”や“叡智”があります。

 西洋近代的な現代科学技術の成果は人類社会の進歩発展の基盤ではありますが、人間が自然より上位にあるとするルネッサンス以来の人間中心主義的なパラダイムは、見直しを迫られているように感じています。国際社会が直面している“ニンゲンの混迷”はその一つでしょう。

 人間には「天寿」があって、百歳を超えて生きる人もあれば、どんなに健康に留意したり、アンチエイジング的な努力をしても、平均寿命にとどかないで彼岸に旅立つ人もあります。

 「天寿」の残日がいかほどか分かりませんが、一日、一日の生活をお千代に支えられ、“宇宙の摂理”(Something Great)への感謝と祈りと共に過ごしたいと願っています。  


2017325日                             松本文郎 拝


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2017/03/26 17:09 2017/03/26 17:09

晩節の〝選択〟                松本 文郎

 

 3度目のガン告知

3月3日(雛祭り)、人生で3度目の“ガン告知”を受け、晩節の生き方の“選択”を迫られました。ガンの部位は、24年前(平成4年)の食道ガン手術の吻合部で、残った食道下部と胃を形成した「胃管」上部の接合箇所(喉下27センチ)。吻合部を塞ぐように大きい腫瘍は、末期の「胃腺ガン」と告げられました

昨夏辺りから、みぞおちに痛みと違和感が生じて、食べたものの通りが悪くなっていましたが、24年前の食道ガン手術以来、膵液・胆汁の逆流防止で上半身を斜めに起こして寝ていた姿勢が、その頃患った軽い頚椎症の辛い筋肉痛で乱れ、その結果で生じた強力な消化液の逆流による炎症と考えていました。

24年前の“ガン告知”はまさに青天の霹靂でしたが、即時入院と食道全摘出を静かな口調で勧める医師の前で、一瞬アタマが真っ白になった記憶はいまも鮮明です。

早期ガンの発見と10時間余の手術の成功で九死に一生を得させて下さった、元関東逓信病院消化器内科・桜井幸弘先生と外科・伊藤契先生が、24年を経て、今回の告知に関わられたのは、まさに運命的な“ご縁”というほかありません。

 伊藤先生には、食道全摘手術からの24年間(関東病院を定年退職されてお茶の水の三楽病院へ移られてからも)、CEA(食道がんマーカー)血液検査と逆流による炎症防止薬の投薬で3ケ月毎にお世話になってきました。

今年に入って間もなく嚥下物の通りが難渋するようになり、伊藤先生から、「桜井消化器科内科」(桜井先生が10年前に定年退職して五反田駅前に開設)の受診を薦められました。桜井先生は、平成4年、東京中央健康管理所の胃のバリュウム検査で初めての胃カメラ検査を指示されて受診した関東逓信病院の担当医で、「軽い胃炎ですから、心配ないですよ、」と、カメラを引き上げるとき食道内部から目を離さずにいて、初期の食道ガンを見つけてくださったのでした。

胃の検診だけで終えられていたら私の今はないと感謝を新たにした、24年ぶりの再会でした。

「食道がんの大手術を受けた人の24年後の状態を見るなんてネ」と開始された内視鏡検査で、吻合部に生じた大きな腫瘍が「胃管」の入口を塞いでいる映像がモニターに映し出され、「これは大変なことになっています」とのご託宣。

腫瘍から採取した組織の「生検」による「胃腺ガン」の診断書と内視鏡検査の映像(FD)を預かり、三楽病院の伊藤先生に届けました。

伊藤先生の指示で、腺ガンの広がり状況を見るために撮ったCT画像で、あちこちのリンパ節に転移している様子が分り、もう手術をする段階ではなく、X線も効き難く、抗ガン剤治療だけが残る積極的治療と告げられたのです。

 CT検査結果と治療方法について伊藤先生の話を一緒に聞いた妻お千代(千代子)の想いは、抗ガン剤による延命治療への望みと治療で苦しんだ挙句の“別れ”となる怖れの間で揺れているようでした。

 自己免疫力を信じて

誰しも、一人で生まれてきて、一人で死ぬわけです。この世に“ご縁”を戴いて、両親、兄弟、妻、子供や孫と出会い、学友、職場・地域の友人知人と共に様々な日々を過ごしてきた、わが人生です。来年で結婚60周年を迎え、お千代からは、「女性の平均年齢までは、そばにいてね」と頼まれていた矢先、思いがけない事態に直面することになりました。

 ガン告知の次の日曜日(3月5日)、息子・娘夫婦に家に来てもらい、晩節の生き方の“選択”を伝えて、みんなの意見を聞きました。

 その“選択”は、一切の積極的抗ガン治療を受けず、これまでの生活習慣と生き方を続けて、享受している今の「生活の質」を可能なかぎり維持したい/ガンが増大して吻合部を塞ぎ、食事が通らなくなれば、伊藤先生と浦安の在宅診療医の連携で、介護保険によるケアマネージャー・介護支援チームのお世話で、在宅での終末(自宅で死を迎える)を穏やかに過ごすことです。

 娘婿は仕事柄、ガンなど高齢者医療の現状に詳しく、私の選択に賛意を示し、息子・娘も同調してくれました。家族みんなが、“生活習慣”と“生き方”による自己免疫(治癒)力の活性化を信じてくれたことは、私にとって、力強い励ましです。

 6日、三楽病院の受診で伊藤先生に家族会議(?)の様子を伝え、私が選択した晩節の生き方への支援を、妻と一緒にお願いしました。

難しい「食道全摘手術」を執刀された伊藤先生(当時35歳前後)は、当時、「先生のお陰で再びのいのちを戴きました」と感謝した私と妻に、「松本さんの生命力のお手伝いをしただけです」と謙虚に応えられ、回診の折、ベッドわきのミヒャエル・エンデ著『モモ』(Momo)を見つけ、「私も読みましたよ」とやさしく言われた「仁術」の医師です。

最高の徳のある医術を「仁術」といいますが、“人偏に二”の文字が示すように、医師と患者の2人で取り組む医療の意味もあるとされ、深い“ご縁”の伊藤先生に3度目の“いのち”をお預けするのは、願ってもない幸いと感じています。

 食道ガン手術と再生

最初の初期食道ガンの告知は、「幸運にも初期で見つかったガンは内視鏡手術でも取れますが、まだ若い松本さん(58歳)には再発の可能性もあるので、全摘出手術を受ければ最低20年は請け合います」と言われた関東逓信病院消化器内科部長(日本における内視鏡開発の先駆者)の「余命○○です」ではなく、「○○年を保証します」のご託宣に心底ビックリしながらも、なぜか、「では、よろしくお願いします」と即答した私でした。

“告知”を病院の公衆電話から妻に知らせると、「医師に返事をする前に相談してほしかった」と叱られましたが、ご託宣より4年もの長い“再びのいのち”を得させていただいた私です。

腹部と背部を開く「食道全摘出手術」は当時の最新術式で、旧式では胸部を開いて心臓と肺の裏側の食道切除に20時間以上かかったそうです。胃ガンや肺ガンに比べて大へん羅病率の低い食道ガンですが、私の生還後の数年間で高校・大学の学友4人が手術を受けましたが、早期発見でなかったためか、2年以内に鬼籍に入りました。小澤征爾さんと桑田佳祐さんが同術式を受けてお元気で復帰されているのは、本当に“ご同慶の至り”です。

“鬼手仏心”伊藤先生の見事な手術のお陰で、手術中の輸血や術後の抗ガン剤投与もなかった私は、食べたものが喉から十二指腸へ直通の“新しい消化管”(食道残部+胃管)を馴化させる特製“愛妻弁当”を持って会社へ通勤する日々が半年ほど続きました。柔らかく調理されたおかずを50回も噛んで飲み込むには時間がかかりましたが、根気よく続けた結果、会社の仲間も驚く回復ぶりで、その後も体力増強と健康維持に努め、自律的に組み立てた生活習慣(食事・運動・睡眠など)をひたすら実践して、今日に至っています。 

 2度目の前立腺ガン

今から6年前、前立腺PSA30(基準値の7倍強)を超えて受けたMRI検査で、担当医から「進行ガンと思われるから、早く薬事治療を始められた方がいいですよ」と勧められました。

高齢者に多い前立腺ガンは、元職場仲間の関心も高いので、《日比谷同友会(NTT本社OB・約3千4百人)》の会報に寄稿したエッセイの中で触れたところ、前立腺ガン手術や治療を経験した多くの友人知人の助言や忠告、同会健康相談室の小西敏郎氏(NTT東日本関東病院元副院長)からも治療を勧められましたが、「生活の質(QOL)を変える可能性のある治療は受けません」と治療しないことを決意してから5年余がなにごともなく過ぎました。

ところで、2月末の血液検査の前立腺PSAは558の脅威的な数値で、「胃腺ガン」を撮ったCT検査映像に、前立腺ガンと思われる(断定は「生検」に拠る)ものがはっきり見えると告げられました。

人事を尽くして天命を待つ

近代的医療の進歩発展の成果の一つ「食道全摘出手術」で再びのいのちを得た私は、決して、“積極的ガン治療”に否定的な考えをもってはいません。ガンの種類、年齢、生活・仕事環境等、様々な要素が複雑にからむ「ガン治療」には、百人百様のケースがあるでしょう。

病院の「ガン治療」の現状は、消化器・呼吸器・泌尿器等に専門分化した医師や手術・放射線治療、抗ガン剤治療を得意とする医師たちが、“検査で見つけたガンを小さくしたり、取り除いたりする”のが専門で、そのガンでどんな生活上の支障が生じるのか、その痛みがどんなもので、患者をどんな風に苦しめるのかを専門的に研究している人は少ないのではないでしょうか。

つまり、病院勤務の専門化した医師の役目は、手術・放射線治療・抗ガン剤治療など基本的な医療介入をして症状を無くし、軽くし、痛みを抑え、死ぬ時期を延ばしたり(かえって短くなることも!)するもので、患者の生活上の不具合を想像したり、対処することを求めるのは難しい

と思われるのです。どんな医療介入で「生活の質」にどんな支障が出るのか、「余命○○」と宣告された患者の延命になっているかを、しっかり考え、治療方法を選択するのは患者自身なのです。

高齢者の末期ガンと向きあっている私の「ガン治療」の選択は、近代医療の積極的な「抗ガン治療」の知見だけでなく、古今東西に伝わる“病気養生”の知恵(智慧)を加えたいのです。

6月25日で満83歳になり平均寿命を超えた身で、積極的な抗ガン治療を選ばなかったのは、決して“座して死を待つ”ではなく、「天は自らを扶く者を扶く」を信じて、自分なりに精一杯の努力をし、「人事を尽くして天命を待つ」との“選択”です。

世の多くの男たちは伴侶より先に逝くことを望んでいますが、どちらが先かを選べるものではありません。敬愛する人たち(城山三郎、永六輔、新藤兼人さんら)はそれぞれの最愛の伴侶に先立たれ、追慕の日々を過ごされました。後に残された者の悲しみを想うと、結婚60周年記念日が間もなくのお千代と一緒に過ごす日々の長いことを願わずにはおれません。

人事を尽くす①:食事(栄養)

心身の健康を維持するには、基本的な栄養素の蛋白質・糖質・脂質とそれらを活性化する蛋白質とアミノ酸が体内に十分あることが大切なのに、食べたものの通りがとても悪くなった現在は、これらの栄養素をできるだけ食事で摂取し、不足分をいかにして補うかが、日々の課題であり、私の“大仕事”となりました。

胃腺ガンが狭めている吻合部をなんとか通過さようと、お千代が24年前に工夫して作ってくれた3大栄養素に富む柔らかい食事をしっかり咀嚼して食べ(毎食、1時間半以上かかります)、不足分は、娘婿が関わる総合栄養補助食品事業部の製品を数種、補完的に摂取しています。

近代医療の埒外の“民間療法”と呼ばれる「食事療法」や「薬事療法」で、末期的ガン治療に大きな効果があった記録・報告は少なくありません。妻のお千代が友人や知人から聞いてきた、根菜(大根・人参・蓮根・長いも・牛蒡等)スープや緑黄色野菜の生ジュースを毎日作ってくれています。

また、ロシアでは古くから薬効が知られ、ノーベル賞作家・ソルジェニツインの『ガン病棟』で一躍脚光を浴びた「カバノアナタケ」(シベリア霊芝、サルノコシカケの1種)が免疫機能を活性化する「β―グルカン」を多量に含有し、これを服用した高齢者の末期の肺ガンが消えたという知人の勧めで、普通のお茶のように日に数回飲み、「味の素」社が開発中の試供品(免疫力を高め回復をサポートする「シスチン」「テアニン」を多く含む)も服用しています。

 いま一番の気懸かりは、吻合部の悪性腫瘍が大きくなって生命保持に必須の栄養と水分を摂取できなることです。そうした深刻な状況を迎えないために、2度目のガン告知で治療をしないでも「生活の質」に特に変化もなく過ごせた事実を踏まえ、その“生活スタイル”の継続を“選択”したのです。

それは、「人事を尽くして天命を待つ」の実践で、自律的「生活習慣」(心身の健康に望ましい食事・運動・睡眠)と「地域での生き方」(定年退職後から楽しんできた<唄い><描き><詩文を書く>の趣味や特養老人ホームへの月例訪問、近所の公園を育む会のボランティア活動)等が自己免疫力の活性化をもたらした経験をさらに続ける“選択”です。

人事を尽くす②:ストレッチなど

末期ガンの高齢者だからこそ、心身を柔軟にして、血行をよくする全身のストレッチや朝夕の散歩を励行しています。

目覚めてすぐのストレッチは24年前の入院中(4ケ月)に自己流で編み出して続け、ヨーガの基本ポーズを含む10種と顔面(鼻・耳・喉・全体)と頭蓋・頭皮のマッサージもやります。

始めと終わりにする緩急の腹式呼吸と合わせ20分ばかりの日課で、ドーパミン・セロトニン・アドレナリンが脳内に湧き出し、朝型高血圧が安定するのを実感します。

 朝夕の散歩は、住まいに近い川沿いの遊歩道と近隣公園内の周回とで5、6千歩くらいですが、ひたすら歩くのではなく、川の魚たち〈稚鮎、スズキ、ボラ等〉と鳥たち(川鵜、鴨・鷺類)や街路樹の桜並木、公園の木立・花壇などの四季折々を楽しみながら散策しています。

 カロリー不足になる前は、週2、3回プール(水中歩行や水流利用の各種運動)に通っていましたが今は中止して、筋肉量低下を少しでも防ごうと、自転車でスーパーへ買い物に行きます。

 人事を尽くす③:睡眠

 睡眠は健康にとって重要な要素です。夜の睡眠は6時間前後(約1時間の昼寝)で1時間半毎にトイレに起きますが、その都度の“寝入り”はよくて朝の目覚めも爽快です。朝のストレッチと併せて、体と脳がリフレシュし、気分よく、食欲もあり、一日が意欲的に始まります。

 眠りにつく前の今日一日の無事を感謝し、明日の心地よい目覚めを祈願する習慣で、良い眠りを享受していると感じています。

 人事を尽くす④:趣味あれこれ

定年退職後の自在な時間の中、少年時代に好きだった音楽<唄い>・絵画<描き>・文芸<詩文を書く>日々を楽しむようになりました。これらの趣味の文化的な活動が心身に及ぼす影響と与えるエネルギーは計り知れません。

男声・混声のいくつかの合唱団に所属して30余回の「第九」演奏会や各合唱団の定期演奏会の練習・ステージを楽しんできましたが、昨年秋の日本建築学会男声合唱団30周年記念演奏会を最後に、合唱団活動から身を引きました。

数年前まで、個展『文ちゃんの画文展』を大阪・東京で開き、手作りの「画文集」を頒布した以降は、2つの「絵画グループ展」と「浦安市美術展」への出品だけとなりました。

詩文では、NTT社歌『日々新しく』、浦安合唱連盟創立20周年記念歌『みんなの歌』ほかがありますが、これからも、終末に向かう日々の想いを書いて「松本文郎のブログ」へ掲載します。

昨年の暮れに8年余の長期連載『アラブと私 イラク3千キロ』を完結して『新・浦安残日録』をスタートしたのも、なんだか、“天命”のように思えてくるのです。

人事を尽くす⑤:終の棲家と地域

29年前に浦安を終の棲家と決めたのは、ディズニーランドがあるからではなく、海と川のあるこの街に私たちが、瀬戸内ふるさと福山の原風景に通じるものを感じたからでした。

 会社人間のころの人付き合いは職場関係の人々が中心でしたが、定年退職後は地域にある複数の合唱団、俳句の会、小説・エッセイの文芸クラブ、絵画クラブなどの文化活動やボランティア活動で、地域在住の知人友人がたくさんできました。見明川テラスハウス住宅地(481戸)自治会・住宅管理組合・シニアクラブの関わりでも、近隣の人たちとほどよい親しさのお付き合いをいただいています。

“終の棲家”は終末を迎える場所ですから、末期ガンの身にこれからどんな事態が生じたとしても、病院ではなく、自宅で介護を受けて、家族に囲まれて死を迎えたいのです。

 食事が十分にとれない現状では、これまでの活動範囲を縮小するほかなく、「ふれあいの森公園を育む会」や特別養護老人ホーム訪問の《歌の花束》(毎月)の社会的ボランティア活動は当面は休止させてもらい、自己免疫力の維持に有効な「生活習慣」の自律的実践に専念する日々を積み重ねたいと思っています。

末期ガンでもやりたいことがある

私が“選択”した末期ガン養生を支えているのは、食事(栄養)/運動(ストレッチと散歩)/睡眠などの「生活習慣」のひたむきな実行で活性化した「自己免疫力」で、前立腺ガンの治療を受けない5年余をなにごともなく過ごせた事実です。

 こうした「自己免疫力」による末期ガンの進行遅延や治癒の可能性を伊藤先生は否定されてはいませんが、「現然とあるガンが吻合部を塞ぎ食事が通らなくなれば、栄養補助材を注入する対症療法をほどこせばよく、思索や文章執筆は続けられますよ」と揺れる不安一掃の言葉を下さっています。

慌しい現代社会を駆け抜けるように生きたときは、我々はどこから来たのか/我々は何者か/我々はどこへ行くのかというゴーギャンの画題の人類社会の根源的な問いについてしっかり考える余裕はありませんでしたが、人生の終末期で末期ガンを宣告された今、青春時代から続けてきた“思索”の総括を、可能な限りやりとげたいのです。

 日比谷同友会会報(2017年新年号)に寄稿したエッセイ『トランプ政権についての新年所感』に書きましたが、国際社会の政治、経済、社会の混迷の深刻化を目の当たりにして、天与の残日がどれほどか知る由もない身でも、生を享けたこの国と国際社会の行方について、思索と執筆に勤しむ晩節が一日でも長いことを願ってやみません。

 私の“からだ”を形づくり、私の“こころ”を働かせている60兆個(37兆個?)の細胞は、死滅/生成を繰り返しながら、新陳代謝をしています。

 その細胞が“ガン化”した細胞も私の一部ですから、高齢者の末期ガンには積極的抗ガン治療で敵対するよりも、2兆個の自己免疫(治癒)細胞らが活性化する“生活習慣”と“生き方”とで柔軟に向き合う方が、穏やかな終末を迎えられると信じて、終末期の森羅万象を「松本文郎のブログ」の『新・浦安残日録』に書いてゆこうと念じています。                       (2017.324深更)


添付画像

2017/03/25 17:16 2017/03/25 17:16

新・浦安残日録(2)

                               
(2017年)

 1月5日(新春挨拶状を出し終える)
 3日に配達された年賀状は約30通だった。元旦“新春挨拶状”を元日から昨日までに出した。
 戴いた人にだけ新春挨拶状を出すことにして10数年経って300通台に落ちついていたのが、急に減ったのは、昨年亡くなったり、高齢・病気・介護などの事情で年賀状をやめた人が急に増えたからではないか。
 でもうれしいのは、昭和53年から5年間勤務した関西から、いまも10通近い年賀状を戴くことだ。“人と人との良いつながり”が人生を楽しく幸せにしてくれる。
 現役時代の年末に出した印刷年賀状(千2百通)でも宛名だけは手書きしていた。公私共につながりのある人々のフルネームを万年筆で書くのは、年賀の気持ちを表わし、名前を忘れないためでもあった。
 非常勤になり半減してからは“プリントごっこ”で趣向の賀状を作成。百枚ほど刷ると原版が摩耗して数版に及んでも、年末恒例の楽しい作業だった。
 ここ10年余り、新春挨拶状の両面をパソコンとプリンターで作成し、宛先の名前と添文を手書きしてきたが、通数が減ってずいぶん楽になった。戴いた賀状の内容に合わせる添文は、平素ご無沙汰の方々と気持を通わせる文通でもあり、当分はこのままの賀状交歓を続けたいと思う。
“パソコン手づくり”が容易になって、家族写真に愉快なコメント付きの賀状が増えたのもうれしい。
 欠礼の挨拶状には、60代後半で急逝した元職場の仲間家族からのものも数通あり、故人の面影を脳裏に浮かべながら添文を書いている。
 インターネットのeメールが普及して久しいが、SNS時代に入って、“スマホ”などの携帯端末が情報コミュニケーションの主役である。電車の中で“スマホ”を動かしている乗客は9割前後(どんなアプリを利用しているか分からないが)で、もっぱら読書や会話、居眠りを楽しむ筆者には、“異常な光景”に見える。
 フェイスブックやツイッターが世界を動かしている事実は、「アラブの春」以降の出来事やトランプ氏の毎日をみればわかるが、“出会い系サイト”の少女らの生態や高齢者相手の振り込め詐欺などの“影”の増殖もおおいに気がかりだ。
 通勤途上の路上でうつむいて歩きながらスマホを操っていては、四季折々の自然の移り変わりを楽しむゆとりはなく、お互いの喜・怒・哀・楽にわずかな言葉でヤリトリするだけでは、勘違いや誤解による怒りや憎しみの感情が誘発されるのではないか。
 年賀状といえば、奈良時代に始まった年始回りの風習が、平安時代には貴族や公家に広まり、それができない遠方の人に文書による年始挨拶をしたのが始まりという。この風習は韓国、中国、台湾にもあるようだが、欧米ではクリスマスと新年の挨拶が一緒のクリスマス・グリーティングカードだ。お年玉付き郵便はがきの発行枚数が2008年の41億3千6百万枚をピークに減少に転じたのは、eメールやSNSサービスで年始挨拶をする人たちが増えたからと思われるが、「日本郵便」が巻き返しを図る知恵と力はいかに。

 1月7日(新春七福神めぐり)
 日比谷同友会のイベント案内メールで、小石川の「新春七福神めぐり」にお千代と参加した。数年前にふたりで歩いた「谷中七福神めぐり」から久しぶりの七福神だ。
 東京都にある七福神は、墨田川、深川、日本橋、港、東海、池上、元祖山手、新宿山手、谷中、下谷、小石川にあるが、小石川のは“東京で最も新しい”という。
 募集人員30名の参加者が地下鉄茗荷谷駅の地上出口に集まった。去年の「江戸・東京街歩き」(牛込・神楽坂)で一緒だったMさんの顔もあり、出発待ちの間、お互いの近況などを話した。M氏(8歳下)は京大工学部の後輩でNTTの電気通信系の技術者だが、京大元総長松本紘さんと同級生と言ったので、梅津昇一氏主宰「USフォーラム」で『日本の大学変革』の講演を聞いたとき質問して言葉を交わしたと告げ、ひとしきり話が弾んだ。 
 イベント主催者の挨拶のあとで目印の旗を先頭に出発した。歩いた順に、寺院と祀られている七福神を記すと、深光寺(恵比寿)→徳雲寺(弁財天)→極楽水(弁財天)→宗慶寺(寿老人)→真珠陰(布袋尊)→福聚院(大黒天)→源覚寺(毘沙門天)→東京ドーム(福禄寿)である。“弁財天”が2カ所に、“福禄寿”が東京ドームの一角に在(おわ)したところが「小石川七福神」のユニークさか。ポカポカ陽気の中を歩いて急坂を上がると深光寺の境内だ。集印帖を忘れて来たが、ここで頒布されていた「集印色紙」を求めて、最初の「印」を戴く。
“めぐり”“街歩き”で画仙紙ハガキにスケッチするのも楽しみで、今回も七福神すべてを描くこうと、まずは恵比寿様を白描(線描き)した。
 Mさんが寄ってきて、「相変わらず速いですネ!」とクロッキーを覗き込んだ。
 真珠院の境内では、右手に布袋様、左手に“平和観音”(観世音菩薩)が安置されていた。徳川家康の生母於大の方の甥水野忠清が創建した(1647)水野家菩提寺と知ったので、水野勝成公が初代藩主(1619~39)の福山藩を故郷にもつ私たちは、近代的な(鉄筋コンクリート)本堂に丁寧にお参りして本尊の阿弥陀如来を描かせてもらった。
 福聚院は、境内右手の幼稚園の奥に本堂があり、御本尊はインド・中国・韓国経由で伝来とされたという大黒天(木製)は、文京区の指定文化財である。
 寺伝では、孝徳天皇の時代、高麗国の大臣が日本に帰化し朝廷に仕えたときに護持していたという。幼稚園のグランドの端に祠が二つ並び、大黒様と唐辛子地蔵が鎮座していらした。
 この“めぐり”の全歩行距離は3キロ弱。各寺院はマンションが並ぶ大通りから入った住宅地に点在している。各寺の御本尊を描くとすぐに次の場所へ移動して、みなさんが着く前に描き始め、グループの歩きに遅れないように心掛けた。
 最後のお参り場所は、東京ドームがある広い構内の小高い丘で、細い径の突き当りの祠に立派な福禄寿像が祀られていた。お参りの行列の先頭の横に立って線描のペンを走らせた。
 昼食は各自ということで、昼時で混みあっていたスターバックスに運よく二人の空席を見つけ、看板メニューのスパゲッティーを注文。お千代共々に満足した味は七福神めぐりの“御利益”か。
 
 1月10日(「青桐日比谷句会」の初句会)
 「青桐日比谷句会」は、日比谷同友会「お楽しみ倶楽部」登録の各種同好会の一つで、毎月第2火曜日の例会は、日比谷同友会事務局(元電電公社本社・日比谷電電ビル2階)の会議室で催している。
 この句会の前身は古く逓信省時代に遡るが、今は二つの旧会の名前を連ねている。高齢化でかなりの方々が鬼籍で、会員の出入りもあり、大正15年生まれの長谷川正人さんが会長だ。
 プロの俳人が主宰する結社ではない気楽な同人会は、前月に選んだ兼題句を持ち寄って互選・披講したあと、提出句のすべてを知り合いの俳人へ届けて選句してもらい、結果は幹事から郵送される。
 句会参加者は5つの兼題に10句を提出するが、郵送・メールによる欠席投句は7句である。
 古今の名句によく学んでいると思われるベテラン会員には高校生や20代の頃から俳句をやっている人たちもいて、レベルの高い句を提出している。
 句会前日か当日に慌てて句作する態の私は、日常身辺のことを“ツブヤク”類だが、天然の美を愛し、史的風土を行脚して果てた俳人・芭蕉や真摯な生きざまを貫いた良寛を畏敬するも近寄りがたく、一茶や蕪村の飄逸さを敬愛して、近づきたいと願う。
 昨秋に選句者轡田幸子さんが体調をこわされて替わりの選者を探した結果、会員Nさんの紹介で渡辺舎人氏にお願いすることになった。渡辺氏は、中村草田男に師事。俳誌『すめらぎ』代表で、萬緑同人、俳人協会会員という。
 初句会から参加されて丁寧に批評されると幹事の案内にあり、ぜひ参加(旧年中、諸事繁忙でファクス・メールによる欠席投句が多かった)するつもりが、生憎、絵画グループ「みなづき会」の新年会と重なり、初回からのメール投句を余儀なくした。
 昨夕、晩酌のほろ酔い気分でひねり出した(?)7句を日比谷同友会事務局へメール送付して、幹事へ届けてもらったが、忙しい方々の手数をとることが多く、申し訳なく想いつつ感謝している。メール投句した句は、
 初夢や富士鷹茄子のいづれなく
 大寒や〝村上の鮭〟給はれり
 雪女郎ホワイトアウトへ消えゆけり
 寒すずめ一茶恋しと遊びをり
 蠟梅や芳香に誘はれ歩く路地
 初夢や妻を抱きて覚めにけり
 大寒や八十路日課のストレッチ
 なんとも感覚的な句だが、兼題を目にして即興的に浮かぶ稚拙な句をあまり整えず、イメージの鮮度にこだわる“文ちゃん風”作句は確信犯的だ。 
 中村草田男門下の渡辺舎人氏がどんな批評をしてくださるか、郵送の選句結果を“見てのお楽しみ”か?!
 
  1月1Ⅹ日(ふたつの「新年会」)
  青桐日比谷句会の初句会を“欠席投句”し、絵画仲間の「みなづき会」の新年会に出た。非常勤顧問になって参加してから皆勤で出品してきたが、昨夏、第47回展を開いた会では、いまや高齢者の一人。
 鬼籍に入られた生誕百年を超える諸先輩に比べればまだ若造だが、NTT建築部門の同期O君が半年前に急逝し、今年の新年会に姿がないのが寂しい。
 この歳になればいろいろの病に罹る会員も増え、3年後輩のG君が、「レビー小体型認知症」を告白したのは昨年の新年会。彼らしい真摯な勇気に感心したが、空間・時間感覚が乱れる日常の生活には、言いしれぬ苦しみがあるだろう。
 数十年間、「新年会」会場は渋谷の中華飯店「井門」だったが、数年前、「パンダ・レストラン」と改名したのは、家族客の獲得戦術か、経営者が替わったかであろう。
 O君も出席予定だったが、彼を介助して同伴する奥さんの体調がわるくなり、ドタキャンとなった。私の差し向かいの彼の空席にビールや紹興酒を注ぐ仲間が次々やってきて、歓談が弾んだ。
 2時間余がアッと言う間に過ぎてお開きとなり、2次会はいつものように、近くの喫茶店へ移動した。
 電電公社の本社建築局で共に仕事した先輩・後輩の会員(22名)がOBになって久しいが、仕事柄の同じ趣味で春秋のスケッチ旅行や「みなづき会展」への出品を楽しんできた。七面倒な幹事役を長く務めた後輩らも70代半ばとなり、第50回記念展までは続けてくれるようだが、その先は“ケ・セラ・セラ”だろう。
 4日後は「三二会」(電電公社本社・入社同期の会)の新年会だった。昭和32年の本社幹部候補採用で入社した76名から業務(事務)系を除く事業部門の電気通信・建築技術系及び研究部門の面々である。
 32年年卒業の京大建築学科の同期生で鬼籍入りが半ばを超えた(黒川紀章君も)のに対して、同じ年頃の「三二会」では、過半がまだこの世にいる。
 とはいえ、本人自身や伴侶の病気・介護が増えて、年2回の会合(新年会・暑気払い)出席者が30人前後から急に20人を割るようになり、5、6年前までの2泊3日の夫人同伴推奨の旅行も遠い思い出となりつつある。
 昨秋の〝案内メール〟に今後の定例会合の継続の可否を問うアンケートがあり、「新年会」冒頭で幹事が提案した“サヨナラ「新年会」”は、全員の拍手で賑やかに始まった。
 平均寿命を超えた私たちは“川の流れのように”「生老病死」をあるがままに生きてゆくだけだ。
 
 1月1Ⅹ日(朝夕の散歩風景)
 日課の朝夕の散歩は、ほぼ毎日の楽しみになっている。早朝のコンビニの“曳きたてコーヒー”を伝平橋のたもとのローソンの店先(JR京葉線の高架下で、脚部の耐震補強工事のため休業中)でなく、若潮通りのバス停「見明川住宅」に近いファミリーマートで買うので、そこから伝平橋までの7百歩が加わり、橋を渡り、見明川遊歩道をへて「ふれあいの森公園」を一周すると約3千歩の散歩になる。
 起きがけの寝室でのストレッチのウオーミング・アップとで、歩くほどにアタマが活性化してくる。夕方の自宅と公園の往復は2千歩だから、散歩だけで日に最低5千歩である。
 八十路老人の散歩は歩数や速さにこだわることなく、道すがら目にする草花や耳にする鳥たちの声に“命の輝き”を感じ、歓び合って、エネルギーをもらっているのだ。
 伝平橋の上から眺める早朝の東京ベイの空の光は瞬く間に変化するが、公園のベンチで見上げる日没前後の夕焼けの“光のページェント”は次々に変容して飽きることなく、川向うの家屋や並木が宵闇に包まれるまでつづく。
 遊歩道沿いの寒風に揺れる桜並木の枝の花芽に、春を待つ想いを重ね、川面を覗きこむと、人の気配に敏感な鴨の数羽が、岸辺の岩の間から流れの中へ泳ぎ出た。つがい3組と1羽のオスだが、その“片割れ”(独り者か、やもめ)にニンゲン的な感情移入をする自分に苦笑する。
 薄曇りの朝は、晴天で見明川中央歩道橋の上から眺めるスカイツリーの姿はない。公園のビオトープの池の浅瀬で1羽の青サギが身動きもせずに立っている。目をこらすと、深みにいつも見えていた赤白2匹の小さな鯉の赤いのがどこにもいない。
 今朝とは限らないが、よく来ている青・白サギのどちらかの“朝食”になったのだろうか。
 池とグリーンハウスの間の斜面に立つ紅白2本の梅の木の紅梅は終りかけ、白梅が盛んに咲いている。花びらに鼻をつけても一向に香りがない。スーパーの仏花の菊もほとんど芳香がないが、安い量産用の品種改良の結果なのか。
 五感を満たしてくれる花々が“造花もどき”なのは侘しいが、朝夕の散歩が、健康寿命を長引かせてくれているのは確かだ。

 2月Ⅹ日(トランプ大統領の行方)
 第45代米国大統領に就任したトランプ氏の連邦議会議事堂前の就任式の演説は、どこか革命を成就した首魁の演説のようでもあった。「あまりに長い間、この国の首都の小さな集団が政府の恩恵にあずかる一方、国民はそのつけを背負わされてきた」「ワシントンは栄えたが、国民はその富を共有しなかった」「首都ワシントンから権力を移して国民に戻す」「既得権層は市民を守らなかった」「今日の日は、国民が再びこの国の支配者になった日として記憶される」など。
 この“トランプ節”をワシントンの政治家やそれを支えた行政府・軍関係者らはどんな気持ちで聞いたのか。演説のしめくくりでは、「私たちは新たな時代の幕開けにいる。宇宙の謎を解き、地球を疫病の悲劇から救い、明日の新たなエネルギー、産業、技術を活用するときだ」「この国の新たな誇りは、私たちの魂を奮い立たせ、前を向かせ、分断を癒す」
「肌の色が黒でも褐色でも白であっても、私たちには国を愛する赤い血が流れている。この輝かしい自由を謳歌し、偉大な星条旗に敬礼する」「みなさんの声、希望、夢は、米国の運命を決め、努力、慈悲、そして愛が、永遠に私たちを導いてくれる」と、恫喝的言動で“国民の分断”を扇動したトランプ氏のものとは思えない言葉をちりばめて、まるで別人の演説のようだった。
「私たちは再び米国を強くし、再び米国を豊かにし、再び米国を誇り高い国にし、再び米国を安全な国にする。そして、ともに再び米国を偉大な国にする」と両腕を振り上げ、得意のポーズをした。
 これらのトランプ演説を、日本の中小企業労働者や農業生産者は、さぞ羨ましく想ったのではなかろうか。
「アベノミクス」を“アホノミクス”と揶揄して、安倍政権の経済政策を批判してきた浜矩子・同志社大学大学院教授は、トレンプ大統領を生んだアメリカ格差社会の状況は、革命が起きてもおかしくないと述べているが、EU離脱を“静かな革命”と表現したメイ首相の元大英国と米国(アングロサクソンの姉妹国)に、軌を一にして革命的変化が起きたのである。
 反オバマ的でドラスティックな政策転換を図るトランプ政権をとりまく世界には多くの難問が待ち構える。英国のEU離脱/パレスチナ問題/欧州への難民・移民流入/シリア内戦/ウクライナ危機/南シナ海をめぐる緊張/中台関係のきしみ/北朝鮮の核・ミサイル開発等々である。
 これらの問題に対するトランプ氏のツイッターのコメントには、大統領選挙中と同じ乱暴な放言が少なくないが、お得意の商売上の“ディール”の言辞なのか。
 移民政策、経済、安全保障、外交のあらゆる分野で矢継ぎ早に大統領令にサインし、ツイートを連発するなか、恫喝的な言辞が目立つトランプ流の政治手法に、国内の支持者の公約実行への拍手と歓声が沸く一方で、反対者の抗議デモが全米各地に広がり、国際社会には困惑と懸念の波紋がひろがっている。
 日本のマスコミ報道に“とんでもない大統領”の情緒的な論調が少なくない中、米アカデミー賞監督オリバー・ストーン氏の朝日のインタビューが目についた。
 トランプ大統領に激しい批判の言葉をぶつけていたストーン監督が、「トランプ氏がプラスの変化を起こせるように応援しようじゃありませんか」と述べたのは正にサプライズだったが、一貫して戦争反対の立場を貫いてきたストーン監督は、クリントン氏の“介入主義”を懸念した白人高学歴層がトランプ氏に投票した事実を念頭においているようだ。
 日本のマスコミが政治家の言動を予測し論評するときにあいまいさを伴うのは、日本の保守政治家や各派閥の利害や人脈は読めても、思想的背景が不明瞭だからではないか。その点で欧米の政治家・政党の言動には、背景にある哲学的、政治的な思想が比較的見えやすいと、感じている。
 トランプ大統領の右腕と目されるバノン氏外の側近、議会承認が進まない行政府長官についても、「オルタナ右翼」「リバタリアニズム」などの観点からの分析が有効ではなかろうか。
                                  (続く)


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2017/02/20 03:51 2017/02/20 03:51

新・浦安残日録(1)

                 

2016年

12月1Ⅹ日見明川周辺の冬の朝

6時前後に目覚めて行う頭のてっぺんから足先までのストレッチは、食道(がん)全摘出手術後の20数年、休まずに続けている朝の日課だ。

前夜1時過ぎの就寝でも5分たたずに寝入るのが“ニクラシイ”と宣うお千代(3時前後まで眠りにつけず深夜ラジオを聴く)の起床は遅い。彼女が起きて朝食を作る前に淹れるモーニングコーヒーの湯を沸かし魔法瓶に入れてから散歩に出るのも日課。

歩くコースはほぼ決まっている。テラスハウス・住宅地(全481戸)内の林(桜と欅の並木が囲む小山)の落葉を踏む感触と音を楽しみ、JR京葉線(舞浜―新浦安)に並走する「若潮通り」が見明川をまたぐ伝平橋のたもとのローソンに入る。店先のコーヒーメーカーで“朝一番”のコーヒー(100円)を淹れてもらうとき、ネパール女性ブッダさんが店番だと「ラッキー!」

 温かい紙コップを手に橋の歩道から東京湾を望めば、両岸に鉄鋼加工工場の船荷用クレーンが並んでいるが、かなり前からトラック輸送に替わり今は使われていない。

 平成元年に杉並の社宅から引っ越した浦安市は今、東京ディズニーリゾート(年間訪問者数は3千万人超)ほか、鉄鋼の集積・加工(日本最大)工場と大手メーカー・流通業者の倉庫が林立し、普通地方交付税を受けない優良自治体で、“うらやま市”とか“住みたい街日本一”、と全国的に人気の街だ。

 早朝の陽光に川面と湾が煌めいているのを背に、見明川(江戸川と東京湾を結ぶ水路)沿いの遊歩道を川上へと歩く。左手の車道の両側の桜並木“桜のトンネル”は江戸川の土手まで続いている。

並木が葉桜になる頃は稚鮎の群が遡上し、6月になると、4、50センチのスズキが水面近くを悠然と泳ぐ。冬は鴨などの水鳥が、春には川鵜や白・青サギが、水面にのぞく岩の上から稚魚らを狙う光景の四季の移り変わりも、散歩の楽しみの一つ。

 水路を5分ほど遡った所に架かる「見明川歩道橋」を渡るとき、右側に見明川住宅地・テラスハウス群、左手上流に、スカイツリーが見える。

橋の階段を下りると「ふれあいの森公園」である。約6百メートルの周回路に囲まれた広い芝生の右手に、グリーンハウス、ビオトープ、田んぼや小さな森がみえる。公園とテラスハウス住宅団地は、海寄りの「若潮通り」から1ブロック奥のバス通りを隔てて隣接しているので、自宅から直行すると徒歩3分で、「ふれあいの森公園」に着く。

 ベンチで一息つく目の前の遊歩道をウオーキングの人の列が朝の挨拶をして通り過ぎる。「ふれあいの森公園を育む会」に入った折に寄贈したビオトープの絵(詩文付)の大きな額がグリーンハウスに掲げられ、夏の花壇の水遣りもする私には顔見知りの人たちだ。

 芝生のあちこちに建つ数本の裸木の梢が快晴の空に広がり、幼児の遊び場の脇の菜の花畑の黄色が目に鮮やかだ。目覚めの後のストレッチと朝の散歩で、60兆個(新しい知見では37兆個?)の細胞たちが大いに活性化されることに感謝して、私の1日が始まる。

 

 12月1Ⅹ日「歌の花束」「若鶴会」

 歌を唄うのが好きであれこれのグループに属し、「浦安男声合唱団」を一昨年の定期演奏会後、「日本建築学会男声合唱団」を先月の《創立30周年記念コンサート》を最後に辞去したが、特養老人ホーム《愛光園》訪問ボランティアグループの「歌の花束」のクリスマス会/「童謡を歌う会 浦安」の納会/「端唄若鶴会」の年次発表会/ホテルオオクラ東京ベイ・チャペルの「クリスマスコンサート」などは恒例の〝唄う〟年末行事。

 第3木曜日が月例訪問の「歌の花束」の日は快晴で、海辺に建つ《愛光園》へ20分ほど自転車を走らせて1時前に着くと、6人の仲間らは歌詞カードをそろえ始めている。童謡・唱歌・歌謡曲を一緒に唄う30人余の入居者のために作った大きな文字の歌詞10曲分をファイルから出して唄う順に整え、各曲の練習を一通りやるのが準備のルーチンだ。

 入居者の部屋と会場の送迎もボランティアの役目で、二つの階から参加希望の入居者(80~100歳前後)の車イスを押して介助する。

 司会進行を引き受けた今回、サンタクロースの帽子・白髭をボランティア仲間にも内緒で準備し、会が始まった途端にその扮装で登場したサプライズに、“やんや”の歓声が湧く大成功だった。

その日唄った歌はほとんどがクリスマスソングで、介護職員さんの出番もあって大いに盛り上がった。

3日後の日曜は「若鶴会」恒例の“師走”発表会。市文化施設「WAVE101」の小ホールの舞台に出た。この会に参加したのは8年前。《愛光園》の訪問ボランティアグループ同士の親睦会で出会ったYさん(端唄師匠若宮千代鶴・「若鶴会」主宰)からのお誘いだった。

 Yさんは《愛光園》訪問の邦楽同好会「江戸の華」の主宰でもあり、長唄稽古歴20年の私をメンバーに誘い、年1回のプチ舞台を催したが、現在は活動冬眠中。

 今年の第8回「若鶴会」では、『夜の雨』『伽羅の香り』/『江戸祭り』/『春雨』/『伊勢音頭(全員)』の4つに出たが、『春雨』は、昨年の舞台で『五月雨』を踊った若柳賀津樹さん(立方)と共演した。『夜の雨』は江戸後期に端唄から派生した“歌沢”で、さらりとした端唄に対し、ていねい・たっぷりに渋みと品格を加えて唄う特徴を心掛け、ほぼ満席の来聴の方々から盛んな拍手を戴いた。

 会場近くのホテルでの鉢洗い(打上げ)は例年通りで、“美味しき酒”のほどよい酔い加減でお開きとなった。

 

12月1Ⅹ日二つの忘年会

 今日は、忘年会のダブルヘッダーだった。

森羅万象を話題にする月例の「こぶし会」)は、第364回で忘年会付きだった。毎回、2人の会員が1時間半の持ち時間で「話題」を提供して談論風発するが、今回の提供者は、桑原守二氏(元NTT副社長・BHN名誉会長)の『最近のICTの話題』と筆者の『トランプ次期米国大統領と国際社会』だ。

 桑原氏は、サムスン電子・ギャラクシーノートの発火事件とリチウム電子の特性/中国のAI躍進と棋士との囲碁対決/富士通パソコン事業の中国レノボ傘下/ソフトバンク・サウジアラビアの投資ファンド設立/ATTのタイムワーナー買収(通信・放送の融合)/IOTはNTTが民営化以前に提唱した理念「INS」、の6項目。

松本は、英国のEU離脱とトランプ次期米国大統領の出現をアングロサクソン姉妹国で軌を一にして生じた国民の分断現象とし、欧米諸国にみる同様の社会状況は、かつてサッチャー・レーガンが推進した新自由主義的グローバリズムに伴う社会格差解消を求めており、アダム・スミス(「道徳感情論」)やマルクス(「資本論」)が論述していた“資本主義と人間”の原点に立って、新たな社会変革を模索する節目ではないかとした。

 乱暴で品性を欠くトランプ氏が次期大統領に就任した後、ロシアのプーチン、中国の習近平、トルコのエルドアン、フィリピンのドゥテルテ等の強権的な統治者とどのように向き合い、国際社会を動かしてゆくのか。混迷が深刻化する中での安倍政権の外交戦略に錯誤のないことを願うばかりだ。

 昭和56年に創設された「こぶし会」の最長老は大正10年生まれ。今年2人が鬼籍に入り、会員の闘病や家人介護で例会欠席者が増え、高齢化がさらに進むだけに、忘年会では、「(生)老病死」の話題に終始した。

 1年前の宴会は、余興の男声カルテットを皮切りに、懐かしい歌(軍歌も!)の数々で賑やかだったが、カルテットの一人北川泰弘さん(地雷廃絶日本キャンペーン元代表)は、転倒が原因の脳梗塞を患って、ただ今リハビリ中だ。早い復帰をお祈りする。

 

もう一つの忘年会は、浦安国際交流協会の英会話グループが新浦安のホテルで催していて、「こぶし会」会場の情報通信エンジニアリング協会(渋谷)から駆けつけなければならない。

このグループは、来日して4半世紀を超えた米国女性ジニーさんをチューターに、毎週月曜日の午後、“森羅万象を英語で喋る集い”を市施設「マーレ」で楽しんで、足掛け8年になる。

「こぶし会」の月例は第4月曜日でその日の英会話はいつも欠席するが、暑気払いや忘年会での2次会(カラオケ)には、自他共の“大好きニンゲン”は“皆勤”してきた。

 来日当初の8年、新潟のキリスト教系高校で英語を教えたジニーさんは、味噌汁、納豆、日本酒などの「和」の食品が欠かせない暮らしというが、シアトルの大学で「ジャパノロジー(日本研究)」を専攻しただけあって、日本の伝統文化をふくむ森羅万象への造詣の深さは“オドロク”ばかり。

宴会半ばで中座して渋谷から新浦安のホテルに着くと、忘年会(昨年より1時間早く開始)は2次会のカラオケルームに移り、歌合戦はおおいに盛り上がっていた。幹事の女性に「飲み物と唄いたい“歌”を早く注文してネ!」とあわただしく促される。

歌大好きアメリカ女性・ジニーさんは、音感抜群で、日本語の歌もたくさん唄えて、ちあきなおみのファンでもある。歌謡曲の女性歌手では美空ひばりと双璧をなす彼女の名曲『喝采』と『黄昏のビギン』をジニーさんとシェアしながら唄った。

 カラオケ参加のメンバーで、第20回『砂時計』(ソロとコーラスのコンサートの昨年の演奏会)の私のソロ歌唱(『サントワ マミー』『サンタ ルチア』『白い花の咲くころ』)を聴いた人らのオダテに乗り、さだまさし『風に立つライオン』とシナトラ『マイウエイ』も唄わせてもらった。

 東日本大震災後は“歌の力”がよく話題になるが、特養老人ホーム訪問ボランティアグループの経験でも実感している。認知能力がかなり低下している高齢入居者が童謡・尋常唱歌をそらんじて唄う様子に、ボランティアのモチベーションは高まる。

 今年も二つの忘年会をは“はしご”できて、ご機嫌の帰宅となった。

 

12月2Ⅹ日プーチン大統領の山口招待

 安倍首相は11年ぶりに来日するプーチン大統領を地元山口の長門市に招いた。日ロ平和条約締結に向けた基本合意を交わす“歴史的”な場面にしたい思惑のようだったが、予定より約2時間半遅れて到着してすぐ始まった首脳会談で、条約締結の前提となる北方領土問題については最低限の共通認識すら得られず、肩すかしに終わった。

 翌日の首相官邸での首脳会談後の共同記者会見で、北方四島での“共同経済活動”の実現に向け協議を始めることで合意したと発表したそのポイントは、平和条約締結問題を解決する双方の決意を確認/北方四島で共同経済活動を行うため、特別な制度についての交渉開始を合意/共同経済活動は、平和条約締結問題に関する双方の立場を害さないという認識で一致/元島民の墓参など自由往来の改善検討で合意/「8項目の経済協力プラン」に基づく80事業の推進で合意。だった。

今年で4回目(通算16回目)の会談の合意としては甚だ空疎きわまりない内容で、これまで一体なにを話してきたのかと思わざるを得ない。

プーチン大統領は、1956年の日ソ共同宣言に従っていずれ歯舞、色丹の2島を引き渡すにしても、主権まで渡すかは分からないとする“0島返還”の立場を全く動かず、むしろ、日米安保条約に言及し、ロシア海軍の太平洋での活動が制約されることに懸念を示し、将来米軍基地がおかれる可能性のある島の返還など、とんでもないと主張している。

 北方四島での共同経済活動を、「ロシアの法律に基づいて行われる」と主張したプーチン大統領に対して、「平和条約締結問題に関する双方の立場を害さない」とのあいまいな表現でお茶を濁したようだ。

 こうしたプーチン大統領の強硬姿勢の背景には、トランプ次期米国大統領が、プーチン氏との親交が長いティラーソン氏(エクソンモービルの最高経営責任者)を国務長官に選出したことで、ロ米の関係改善が芽生えて、日ロ関係打開のモチベーションが弱まった情況変化がうかがわれる。 

 山口の旅館の晩餐で“ウラジミール”を連発した安倍首相に、終始、“ミスター・アベ”で返したとされるプーチンは、中曽根康弘元首相が、日の出荘(別荘)を「ロン・ヤス関係」発祥の地としたときのロナルド・レーガン元大統領に比べ、オソロシイ人物ではなかろうか。

 池上彰著『世界を動かす巨人たち(政治家編)』で第1番目に挙げられているのがプーチン氏で、その項目には、クリミア半島併合で、核戦力を臨戦態勢に置く準備をしていた/スパイ活動に憧れてKGBに入り、ベルリンの壁崩壊と東ドイツ崩壊に直面/KGBの後身のロシア連邦保安庁(FSB)長官に就任。エリチン大統領を一族の汚職事件から救って第1副首相に/チェチェン過激派の仕業とされた一連のアパート爆破事件は、FSBの謀略との疑惑/その疑惑を告発したプーチン批判者リトビネンコが英国で毒殺され、強権的政治手法の批判記事を精力的に書いた女性新聞記者は何者かに射殺された/2期目で政権基盤を固め、メドベージェフとのタッグで3期目大統領に就任。憲法改正で計20年在任可能なウルトラC。

 プーチン大統領来日の数日前にNHKが放映したドキュメンタリー風プーチン伝記(制作米国)では、国有財産を友人に分け与え、企業経営者から巧みに供与された蓄財などの資産総額は4百億ドル(推計)という。(前歴のある総務大臣は、放映に“難癖”をつけたかっただろう。)

 プーチン大統領は、バルト海から黒海にいたる広大な版図の権力を掌握してロシア帝国を打ち立てた初代ロシア皇帝ピョートル大帝を尊敬し、かつてのロシア帝国の再びの栄光を夢見ているとされる。国家主導のドーピング問題やプーチン政権の腐敗構造への国内批判はあるが、裏腹な言動のプーチン氏の支持率は圧倒的に高い。

 前のめりの言動が目立つ安倍首相が、国際外交の荒海で米ロの“強い指導者”に翻弄されず、「日本丸」をちゃんと操船できるかを見守りたい。

 

122Ⅹ日安倍首相の真珠湾訪問

 安倍首相は、オバマ大統領と共に真珠湾を訪れた。

慰霊のあとのスピーチでは、「歴史に稀な、深く結ばれた同盟国になった」と述べ、敵国同士だった日米が“希望の同盟”になったのは“寛容の心”がもたらした“和解の力”だと強調したが、真珠湾攻撃や太平洋戦争への歴史認識には触れず、過去への反省や謝罪への言及はなかった。

 スピーチの後、真珠湾攻撃を生きのびたという元兵士と言葉を交わして抱き合った安倍首相は、広島訪問で被曝者代表の老人を静かに抱き寄せたオバマ大統領の「核なき世界」の訴えを否定するトランプ次期大統領を信頼し、価値観を共有してゆくつもりなのだろうか。

 戦勝国の米国に押し付けられた日本国憲法を否定して“戦後レジームからの脱却”を唱える復古的な取り巻き連中と距離をおくことが、果たして、安倍首相にできるのか。首相の訪問中に靖国神社参拝を敢行した稲田防衛大臣は、あの太平洋戦争をアジアにおける日本の“聖戦”と本当に信じているのか。こんな閣僚を任命した安倍首相の真珠湾訪問には、米国民が不可解を感じているのではないか。

 昨年4月の米国議会で演説した安倍首相は、「先の大戦に対する痛切な反省」「アジア諸国民に苦しみを与えた事実」に言及してはいるが、オバマ大統領の広島訪問のあとを受けた真珠湾訪問の機会に、満州事変以来の10年に及ぶ中国への侵略(米国は中国を支援)や東南アジア諸国で失われた膨大な無辜の命への慰霊に言及すれば、中国、韓国をふくむ国際社会に対しても“寛容”大切さと“和解”の力を訴えられたであろうと想われる。

オバマ大統領が述べた日本語「お互いのために」は、世界や地域の平和と安定を願うもので、中国、韓国とも交わしあうべき言葉だが、中国外務省筋の安倍首相訪問への反応は、「アジアの被害国にとって何度も抜け目のないパフォーマンスをするより、1回の誠実で深い反省の方が意義がある」「加害者の誠実な反省の基礎があってこそ、被害者との和解が真実で信用できるものになる」だった。

 やたらと居丈高なトランプ次期大統領の就任前の安倍首相の真珠湾訪問とスピーチは、いささか美辞麗句な感じはあるものの、格調の高いものといえる。

そこに述べられた戦争がもたらす悲惨への言葉「最後の瞬間、愛する人の名を呼ぶ声。生まれてくる子の幸せを祈る声。一人ひとりにその身を案じる母がいて、父がいた。愛する妻や恋人がいた。生長を楽しみにしていた子どもたちがいたでしょう。それら、すべての思いが絶たれてしまった。その厳粛な事実を思うとき、かみしめるとき、私は言葉を失います」は、真珠湾で戦死した兵士にあてられたものだが、そのまま、中国や朝鮮半島、アジア諸国で亡くなった人たちに向けられてもよい言葉ではなかろうか。

 オバマ大統領の「人間は歴史を選ぶことはできない。しかし、その歴史から何を学ぶかを選ぶことができる」を、安倍首相はどんな気持ちで聞いたのか。

 

2017年)

1月4日新年正月の家族行事)

2016年の“去年今年”は、国際社会の混迷が深刻化するなかだった。

年が明けると結婚60周年1年前となる私たちは、バカ騒ぎ気味の「紅白歌合戦」を敬遠して別の番組を見た後、「安曇野の蕎麦」の年越しそばを食べ、「除夜の鐘」中継の一打一打を聴きながら、世界の人々の暮らしの平和を祈った。

 近くに住む息子夫婦と数年続けた深夜の「初詣」も、去年は自転車で駆けつけた舞浜海岸の「ご来光礼拝」もしなかったのはやはり、歳のせいというものだろう。

 元日は、娘婿の横浜の実家から毎年届く「樽酒・眞澄あらばしり」の屠蘇と、お千代が腕を振るった瀬戸内の正月料理の祝いの膳に向きあってゆっくりと味わった。

 その日に届いた年賀状は180通ほどで昨年より約百通減った。現役時代に千2百枚だったが非常勤となって半減した後はほとんど変わらず、やむなく、戴いた人にだけ元日以降に出したので、一昨年までの10数年間で、ようやく3百通ほどになった。

 現役のころはデザインした賀状の印刷を外注したが、非常勤の身となり、「プリントごっこ」の手作りと万年筆の宛名書きにこだわり、年末は大仕事(?)だった。

 昨年の年賀状には、息子・娘婿らと3家族の恒例ホーム・パーティーの集合写真を配したが、今年は、昨年の出雲大社旅行(偕老同穴の契りを結んで60年近くまで連れ添ったお礼参り)のツーショットにした。

 わが家のホーム・パーティは娘婿家族がタイ在勤から帰国してからの十数年は“鴨すきパーティー”で、大量の合鴨と太ネギを大きな南部鉄のすきやき鍋で焼く大盤振る舞い、みんなが楽しみにしてくれている。

 昨年は婿どの家族の実家訪問が3日で、わが家は元日だったが、今年はその逆だった。慶応大に推薦入学した遥大(外孫)は体育会卓球部の新人でガンバッテいるが、有名な「水谷隼」選手とのツーショットの写真は、私たちのうれしい宝もの。

 パーティー食材の買物は私たちが年末にしておいたが、〝鍋奉行〟は息子で、嫁の陽子さんもマメに手伝ってくれて、お千代は大助かりだった。たらふく食べて飲んで、にぎやかに談笑したあとは目出度くお開きとなった。

 車で5分の高層マンションに住む婿殿の一家は、アルコールが入っているので3台の自転車に乗って、息子らは“スープの冷めない距離”のテラスハウスへ仲良く手をつないで帰って行った。

                                  (続く)


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