小豆島 ふたり旅  

                                                           松本 文郎

昨夏、《地中海のような風景に出逢う瀬戸内海の楽園小豆島・豊島3日間》なるツアーに、台風11号が瀬戸内海へ接近中に出掛けた。瀬戸内・福山が故郷の私たち夫婦にはいささか照れくさいキャッチコピーの旅だが、敗戦後間もない(昭和23年)中学生時代の北木島・臨海学校で見初めたお千代にとっては、初めて訪れる小豆島だ。

 日程(2泊3日)の最終7月16日には台風が瀬戸内を通過する予報だが、新浦安駅前からリムジンバスで着いた羽田空港は快晴で、順調に飛ぶ機窓から瀬戸の島々を眺めながら定刻、高松空港へ着陸した。

一行43名を出迎えた添乗ガイドMさんの先導で観光バスに乗って高松港へ向かう。昼食は、各自が用意して、小豆島・土庄港へのフェリー(約1時間)で摂るとされていたので、羽田空港で求めた弁当とスケッチ用具を手に、船尾デッキのベンチに陣取った。

旅の楽しみの一つは<ハガキ絵>のスケッチで、団体ツアーでは、休憩・食事時間の中の速描だ。


広がる航跡の彼方の高松市街と背後の山並を描いている傍で、お千代は<一口弁当>(押し寿司と小さいおにぎりセット)を食べ始めた。海上はまだ穏やかで、強い日差しのデッキを吹き抜ける風が肌に心地よい。遠のいた屋島や左右に点在する島々を矢継ぎ早に描きながら、桟橋の売店で買ったかんビールを飲み、弁当をつまむ。フェリーといえば、去年晩秋の壱岐往路の玄界灘が荒れ、やっと出港した船は3~4メートルの波に揉まれにもまれた<ふたり旅>もあった。

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土庄港で待っていたバスで「中山千枚田」へ直行して20分の散策中に1枚、次の「寒霞渓展望台」では遠望の屋島をハガキ画紙の右上に入れた大パノラマ、ロープウェイ頂上駅と下りの車中で各1枚、フェリー船上での6枚と合わせ、計10枚を描いて大いに満足だった。

 全室が<シー・ビュー>の「ベイリゾートホテル・小豆島」のパノラマ大浴場の展望風呂で湯浴みし、地場山海の美味しい食材一杯の夕食を満喫。部屋に戻り一息ついて、ハガキ絵に彩色の手を加えた。

 翌朝、「二十四の瞳映画村」へ直行。海辺に移築された旧校舎と再現村を散策(80分)して、学校の前の砂浜に打ち寄せる波音を聴いていると、60余年前の一人の少年が、小豆島からそれほど遠くない北木島で、一人の美少女に魅せられたシーンが鮮やかに蘇った。

郷土の偉大な教育者森戸辰男が、「敗戦日本の復興は新しい教育で!」の想いで創設した広大付属福山校で出逢わなければ、私たちの縁(えにし)はなかったろう。

 無謀な戦争で多くの教え子の戦死を体験した壺井 栄が書いた小豆島の<女先生>物語は、後70年を経ても読み継がれている。「壺井栄文学館」で、武田美穂さんの挿絵入り本(第13刷)を旅の記念に購入して、記念館を見下ろす小さな社の高台から映画村の屋根の重なりと周囲の山と海をスケッチした。

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 次いで訪れた「オリーブ園」の散策では日本最古のオリーブの樹を白描(線描き)し、小豆島名物のオリーブを使った洋食ランチを堪能した。

バスに戻るとガイドのMさんから重大発表があった。日程最終日の「豊島行き」が台風接近で危うくなりそうなので、午後のスケジュールを芸術の島「豊島」の往復に変更するという。

土庄港から唐櫃港に向かうフェリーは揺れたが、玄海灘に比べればどうということはない瀬戸内の海だった。

棚田が広がる豊島唐櫃の「豊島美術館」(建築設計 西沢立衛)は、国際的アーティスト内藤礼とのコラボによるユニークな展示空間作品。NHK「新日曜美術館」で見たのが、この旅のきっかけだった。草原から円盤の屋根だけがのぞくコンクリートシェルの不思議な内部空間は、床に寝転がっている外国人男の昼寝の鼾が響きわたるほど音に敏感で、並んで横になった私たちの耳にフロアのあちこちに滲み出た水滴がつくる小さな流れの水音までが聴こえた。

 小豆島に戻ってホテルへの途上の「エンジェルロード」に寄る。運よく大潮の干潮時で飛石の小島との間に道が現れていて、<珍島物語㏌小豆島>の珍景を描く。同行の2人の女性が覗いて、「ステキなハガキ絵ですね。あとでスケッチブックを見せてください」と言った。

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 戻ったホテルの窓に、朝は居なかった沢山の貨物船(10数隻)が台風避難で舫っているのが見えた。湾内に強風が間歇的に吹いて、白い風波が船団を揺らしたのは翌朝のことだった。

テレビニュースが羽田=四国便の全面欠航を伝え、朝食後のロビー集合でMさんから、夕方に予定されていた「東京便」欠航の代替案を旅行会社の本社で検討しているから、とりあえずは、土庄港に近い「迷路のまち」を散策すると告げられる。その迷路で「尾崎放哉記念館」に出くわすことになる。漂泊の俳人の旧住処と由縁の西光寺が小豆島の「迷路のまち」の一角にあったとは、ご縁という外ない。伝記文学の名手吉村昭著『海も暮れきる』(文庫版)を記念館入口の棚に見つけて購入した。

戻ったバスで東京に戻る経路変更の詳細説明があり、午後1時半に新岡山港に向かうフェリー(台風来襲前の最後の便)に乗船し岡山駅から新幹線で帰京する/小豆島国際ホテルでの昼食の「ひしお丼」は取りやめ、土庄港待合所の食堂で各自済ます/旅行代金に含まれていた昼食代はフェリーで返却/各自の新幹線料金を岡山駅で徴収する、などだった。

食後まもなく乗船したフェリーの最前列客席で、強くなった風波のローリングに揺られている私たちの所へ「エンジェルロード」の女性2人が来て、スケッチブックを見せてと言う。ザックから取り出して渡すと、最初の1枚を見た途端に、「これは、和紙の里小川町のスケッチじゃないですか?!」と素っ頓狂な声を発した2人はなんと、小川町の地酒蔵元「晴雲」の親類だという。

 この旅の少し前の6月21日に参加した《細川和紙かみ漉き体験バスツアー》(浦安市国際交流協会と浦安市在住外国人の合同企画)で描いていたハガキ絵(5枚)を、スケッチブックに見つけてビックリした埼玉の女性2人だった。

《小川町へのバスツアー》総勢40余人の過半の外国人(タイ・中国、台湾、インド、米国)と「晴雲ランチ」で歓談した後、「酒蔵見学」をした老舗の店先に、小川町風景の数枚のハガキ絵が大きな額装で掲げられていた。

日本語研修で1年滞在中の若いタイ女学生に「ミスター・マツモトのハガキ絵の方が上手!」と耳元で囁かれたが、それらを描いたのが埼玉女性らの伯父様とは、なんと不思議な出逢いとご縁だ。この奇縁を認めた手紙に小川町のスケッチを同封して、酒蔵《晴雲》のご隠居に届けようと思いついた。

 思いがけない帰路変更でテンヤワンヤのガイドMさんは、キャンセルとなった「ひしお丼」(3千円)の金を船内で払い戻して岡山駅まで同行したが、JRの切符売場前で、ツアー客各々の行先毎の新幹線運賃(1万6千余円/1人)を集めるとき、ツアー約款には自然災害の日程変更で生じる参加客の損害を会社が負担することのない旨が書かれていると付言した。

 半時間後に乗車した「ひかり号」で約款を読んだ私は、眼鏡なしには読めない微細文字の文言を確認した。

1週間ほど経って、新幹線代の半分以下の復路航空運賃が口座へ振込まれ、格安ツアーの値打ちは半減したが、私たちにとっては新しい思い出となる旅だった。

この元少年・少女の「瀬戸内小豆島・ふたり旅」に、思いがけない後日譚があった。

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 日比谷同友会報の原稿と旅のハガキ絵(カラー)のコピーを2人の女性の親戚・蔵元「晴雲」へ送ったところ、ずっしりと重い宅急便で地酒《晴雲》(陶器入)が3本も届けられ、添えられた丁重な手紙(小川町の和紙便箋五枚)を読み、不思議なご縁を感じた。

 

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前略)、実は、去る5月に社長だった主人を亡くし、日常と社業、町の七夕まつりの協力、仏事にと追われ、新盆から新彼岸の間の今、少し息をつけています。

松本様は23年前に食道がんから再生され、10年来の前立腺がんは治療を受けられずにご活躍の由で、なによりと存じます。主人も前立腺がん(重粒子治療を受ける)、腎盂がん(抗がん剤、放射線等の治療繰り返す)などにかかり、最後は転移もあり亡くなりました。私は治療に消極的な考えでしたが、本人は、いろいろ手を尽くしたいと望み、選んだ結果、病院のお世話になりながらも自分の命が残り少ないと察し、仕事に打ち込み、私たちのため残務整理に最後まで尽くしてくれました。

(中略)祥子ちゃんと由美ちゃん(2人の女性)からのデンワで、松本御夫妻との出会いのあらましを聞き、私方のお酒をお送りするよう依頼を受けました。「素敵な御夫婦」と松本様の手早いスケッチの様子を聞かされ、お送り頂きました資料からも並外れた能力に圧倒されました。妹・姪からの依頼に私からのも加えてお届けしますので、「晴雲」古酒入りチーズケーキと一緒にご笑納ください。(後略)」

 

がんの闘病で亡なくなった「晴雲」社長の享年は書いてなかったが、御内儀への礼状でご冥福を祈った。

 日本人の3人に1人は「がん」で死亡するなか、京大建築学科卒業同期30名の内の関東在住(14名)の学友2人が、相次いで去年の花の季節に旅立った。

朝夕に訪れる「ふれあいの森公園」の桜が開花して冷雨に濡れていたときにS君、満開になってからN君の訃報が届いた。先に逝った黒川紀章君ら4人を加えて6人が鬼籍となった。4人の死因は「がん」だった。公園の芝生で四方に枝を張る大きな<一本桜>が散り始めた頃に、家族やグループの花見客で賑わう公園に3日通って描いた水彩画(20号)『残る桜も散る桜』を「浦安市美術展」へ出品して、友人知人の好評を得た。

 日本人の死因筆頭の「がん」にどう立ち向かうかをテレビ・雑誌が大きく取上げるようになって久しいが、和やかな人柄の人気テレビキャスターの逸見さんは、がんに罹った多臓器の摘出手術を受けて壮絶な死を遂げ、早期発見の食道(がん)全摘出手術を受けた私は、23年後の今も元気で過ごしている。天寿というほかない。10年前から右肩上がりで上昇してきた前立腺PSAは、235.34020157月)→26407010月)→318.93020161月)と脅威的な数値だが、生活の質(QOL)に変化は生じないで、感謝しながら一日一日を過ごしている。

広大付属福山の9年後輩)が浦安に住んでいて、数値上昇の経過を告げる度に大いに不思議がるので、「60兆個の細胞の<いのちの動的平衡>が良好だから」との持論を繰り返し話している。

 壮年期以降の日本人男性の殆どが前立腺肥大・がんの治療体験があるとされ、高数値でも治療しないと公表した私に届いた沢山の人からの助言・忠告・共感・同意は、十人十色の内容だった。

 そもそも、「がん」(悪性新生物)は自分の細胞が変容したものだから、摘出、抗がん剤、放射線・重粒子治療等に加えて、免疫細胞(2兆個)の自己免疫力の活性化に関わる「生活習慣」と「生き方」が、医学的にもっと重視されるべきではないかと愚考する。

 数値上昇の果てに重大な事態が生じてターミナル・ケアを受ける場合に備え、ホームドクター(内科医)を訪ねると、浦安市ではいま、医師、看護師、介護士、ケア・マネージャーなどのグループによる自宅対応のシステム化が検討されていると知らされた。

そんなケアでターミナルを家族と共に過ごして看取られたケースを暮れのテレビ番組で見たが、

正月恒例の<鴨鍋パーティー>に集まった家族一同に、いま少しの天寿延長を願っていると伝えた。                                                                                                     (了)


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2016/02/28 20:25 2016/02/28 20:25


  続・安倍政権の行方

                                       松 本 文 郎 

 本誌139号(2014年1月)寄稿『秘密と公開』の末尾で、中国をめぐる日米間の温度差について触れたが、その後の安倍首相の我武者羅なリーダーシップの言動から、オバマ大統領の中国外交の真意をとり違える懸念が深まるばかりだ。
 米国の対中国外交戦略で思い出すのは、かつて、マッカーシズム(反共主義者・共和党上院議員・ジョセフ・レイモンド・マッカーシーの社会政治運動)が吹き荒れた時代とベトナム戦争中の米国の対中国政策を激変させた、ニクソン大統領の中国電撃訪問である。
『アラブと私』の連載で関連記事に触れたことがあるが、筆者のクウエート在勤(クウエート国電気通信施設近代化・技術コンサルタント・建築部門責任者)中の出来事だった。
 日本の頭越しに行われた「寝耳に水」の訪問に驚くと共に、段取りをしたキッシンジャー大統領補佐官のしたたかさと外交センスに舌をまいたのを憶えている。
 当時、ベトナム戦争への介入で国内批判を浴びて再選を断念したジョンソン大統領を引き継いだニクソンは、ベトナムからの名誉ある撤退を模索しており、中国の国連加盟が確実な国際情勢の中で、米国外交の中国に対する主導権を確保しようとしたである。
 世界をアッと驚かしたニクソン訪中は1949年の中華人民共和国成立以降、初めてのアメリカ大統領の中国訪問で、第2次世界大戦後の冷戦時代の転機となったとされる。
 この頃の中国は文化大革命による混乱が収束へ向かう一方、緊密だったソ連と袂を分かち、独自の路線を歩みはじめていた。
 1972年2月、北京を訪問したニクソンは、初日に毛沢東主席と会談し、周恩来首相との数回にわたる会談の成果として米中共同コミュニケを発表。中国共産党政府が統治する中華人民共和国を事実上承認したのである。
 その約半年後、「今太閤」のあだ名で親しまれた田中角栄首相が北京を訪れ、周恩来首相と肝胆相照らす会談をして、「日中共同声明」(日本国政府と中国人民共和国政府の共同声明)に調印した。
 これらの動きの前年(1971年)7月には、ジョンソン政権の国務長官キッシンジャーの北京極秘訪問とニクソン・ョックと呼ばれた「ニクソン大統領の訪中予告宣言」が先行しており、新しい東アジアの秩序形成を構想していたキッシンジャーは、中国をパートナーとして模索していたのである。
 日本抜きで事をはこぼうとしたキッシンジャーの動きを察知した日本政府と田中角栄は、米国の先手をとって「日中国交正常化」を果たすことを決断した。
「日中国交正常化」は、国際政治状況からみても差し迫った政策課題だったが、当時の自民党内は、中華民国(台湾)支持勢力(石原慎太郎・浜田幸一など親台湾派)が圧倒的で、様ざまな権益が絡んでおり、時間的制約の中で交渉にあたった外務官僚は隠密行動を余儀なくされた。
 日中国交回復を真剣にめざしていた田中角栄は、社会党委員長成田知己に親書を託して訪中させ、毛沢東に手渡す手配までしていたとされ、いかにも秀吉流「人たらし」を彷彿とさせる。
「日中共同声明」の調印がクウエート・テレビで報道された翌日、アラビア湾の魚市場で出会った中国人からいきなり握手を求められた。
 京大建築学科の学生のときの恩師西山夘三先生が、日中友好協会(1950年設立)理事だったこともあり、恩師の想いも重ねた固い握手を交わした筆者だった。対中国外交戦略のオバマ大統領と安倍首相との温度差のことで、1972年のニクソン大統領と田中首相の相次いだ中国訪問を引き合いにしたのは、東西冷戦の中での中ソ離反を見逃さずにすばやく東アジアの新秩序形成を構想した米国の世界戦略のしたたかさを思い起こす必要を感じたからである。安倍首相は再度の首相就任直後の所信表明演説で、「日米同盟を一層強化し、日米の絆を取り戻さなければならない」と述べ、日米安全保障の強化政策と見られる、「集団自衛権行使」のため憲法改正、米軍の機密保持のための「特別秘密保護法」「武器輸出三原則の変更」などの一連の法改正に前のめりで取り組んできた。その背景には、竹島・尖閣をめぐる韓国・中国との関係悪化があり、海洋大国をめざすかのような中国の牽制に、日米同盟強化策を急ぐことで、日本への信頼をつなぎとめる魂胆があったと思われる。
 ところが、絶対多数を手にした強気の安倍首相の靖国参拝が、中韓両国の猛烈な反発と東アジアの安定をめざすオバマ大統領の失望発言を招いてしまったのである。
 この米国政府の「失望」に、首相側近が「失望した」と応酬したことで、オバマ大統領の4月の訪日を目前に日米関係がきしみはじめ、不信感が募っている。
 衛藤晟一首相補佐官の「米国は同盟関係の日本を何でこんなに大事にしないのか」と萩生田光一・自民党総裁特別補佐の「共和党政権の時代には、こんな揚げ足をとったことはない。民主党政権だから、オバマ大統領だから言っている」の発言を、安倍首相自身が抱いている不満を代弁しているとみる首相に近い政府関係者もあると報じている。
 第2次安倍政権発足のとき、「政権が躓くとすれば歴史問題だ」と述べた管義偉官房長官の預言が的中しそうな情勢といえる。
 悲惨を極めるシリア内戦やクリミヤ半島の緊張した状況でオバマ大統領が軍事介入に逡巡するのは、単に共和党が非難する弱腰や米軍の縮小再編のためではなく、オバマ大統領の世界平和構築への理念に基づく判断と、キッシンジャーが構想した東アジアの新秩序形成戦略を受け継ごうとしているからではないか。
 太平洋戦争で米国と戦った日本は、「八紘一宇」のお題目で西欧列強の侵略からアジア全域を解放するとの理想を掲げ(実態は列強に伍しての侵略だったが)、1億国民を無謀な戦争に駆り立てた挙句、無残な敗戦を迎えたのである。残酷きわまる治安維持法を想起する「特定秘密保護法」の拡大施行や「集団自衛権」を閣議決定する暴挙がまかり通れば、国民皆兵制や日本軍の海外派遣などはアッという間に進められるのではないかと危惧するのは、下種の勘ぐりなのか。
 折しも、昨朝(3月7日)のNHK連続ドラマ《ごちそうさん》で、女主人公(め以子)の夫・次男に次いで赤紙が来てしまった大学生の長男が最後の夜を母親と過ごす寝室のシーンがあった。
 戦争に駆り出された若者の真情を吐露させた長男の語りを書きとめたので、安倍政権への警鐘として記しておきたい。

「おかあさん ぼくは おそかれはやから こうなるやろうとおもうてて もししぬとしたら さいごにだれをまもりたいやろうとおもうたら それは おかあさんやった!」

「おかあさんは いちばんだいじなことを おしえてくれたで いきているいうことは いかされていきとるということやて ぼくは いのちのぎせいのうえになりたったいのちのかたまりなんやて!」
「せやから ぼくのいのちは すりきれるまで つかいたいとおもうてた!」

「ぼく やりたいこと いっぱいあるんや もう いっぺんやきゅうしたいし おさけとかものんでみたいし くだらんことでけんかしてなぐりあいのけんかもしてみたいし おとうさんみたいに じぶんをかけてしごとしてみたいし おかあさんみたいに だれかをあほみたいにすきになってみたい!」

「ぼくは ぼくにそれをゆるさんかったじだいをぜったいにゆるさへん ぼくは このくにをかえてやりたい!」 

「せやから はってでもかえってくるさかい いきかえらせてや あそこでまた ごはんたべさせてな!」 

 母親は、長男の寝床に近づき、息子を抱きしめながら、
「まかせとき! まかせとき!」
 次のシーンは、“学徒動員の行進”の写真と同じ服装に赤いタスキと布カバンを斜に掛けた長男が、一人で立ち去ってゆく後姿に頭を垂れる母親がいた。

 安倍政権は、一体どこへ向かおうとしているのだろうか。メルトダウンした深刻な原発事故処理の目途もない運転再開と輸出促進/A級戦犯合祀の靖国神社参拝で東アジア不安定と同盟国の懸念/独りよがりの歴史観で戦後日本の60余年を否定/不戦の平和主義を掲げる憲法九条改定への無謀な言動等。内閣総理大臣が絶対君主であるかのような児戯にも似た国会答弁をする安倍首相に、再びの機会と一定の支持率を与えている日本国民は、彼に何を期待しているのか。安倍首相が叫ぶ「日本を取り戻す!」の行方は、《ごちそうさん》のセリフ「ぼくは、この国を変えてやりたい!」と真逆であるのは確かだ。



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2014/03/24 19:41 2014/03/24 19:41


安倍政権の行方 
               
                                             松 本 文 郎 

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 押しつまった師走は“脱兎のごとし”だが、わが国の民主主義の将来の根幹をゆるがすと懸念される「特定秘密保護法案」を参両院で強行採決した安倍政権は、先日の靖国参拝にいたる一連の国の安全と国益を損ねかねない言動を“脱兎のごとく”遮二無二に押し進めている。
 あの法案は、日本の安全保障にとって支配的軍事力をもつ同盟国アメリカからの「軍事機密漏えい」を防ぐ法律制定の要請がきっかけと思ったが、安倍首相や石破幹事長らの我武者羅としか言いいようのない猪突猛進ぶりには、当のアメリカもその真意を計りかねているようにみえた。
 アベノミクスによる円安・株価上昇に勢いを得たような靖国参拝(首相自身の信念と背後からの圧力に基づくものと思われる)には、戦後歴史の否定(戦後レジームからの脱却)と認識する中国・韓国からの猛反発のみならず、安保同盟国のオバマ政権の失望に加え、EUからもアジア地域の不安定化への懸念が表明されている。
 安倍首相は参拝の真意を丁寧に説明して誤解(?)を解きたいと言っているが、太平洋戦争のA級戦犯の靖国合祀(その昭和53年からは昭和天皇も今の天皇も参拝をしていない)が、軍国主義日本の侵略を受けた被害国のみならず、米国までもが、無条件降伏をした日本がまだ戦争の正当化を主張していると誤解しないかと危惧される。
 因みに、真珠湾奇襲攻撃で始まった戦争で、「打ちてし止まん鬼畜米英」のスローガンで愛国心を掻き立てられた日本国民は「一億火の玉」となり、米国国民は、「リメンバー・パールハーバー」を掲げ、互いの国家威信をかけた徹底報復の総力戦となった。

 9・11多発テロに報復を誓ったブッシュ政権が、「テロへの報復」を錦の御旗に掲げた(真珠湾奇襲攻撃への怒りで米国民が一致団結した再演)ように、「特定秘密保護法」の法案審議の政府答弁では、国家の安全が仮想敵国や「テロ」の黒い影に脅かされていると国民に印象づけようとする論調が目立った。
 日本の尖閣諸島国有化による日中政治外交関係の悪化と竹島や従軍慰安婦問題等の日韓の歴史問題をめぐる応酬など、東北アジアの友好親善関係に不穏な波風が立つなかの法案の提出だった。
 真珠湾攻撃が国際法の「通告」(遅延事情もあったようだが)なしで行われたことが東洋の野蛮な「ジャップ」への徹底的な報復を米国民に誓わせ、他方、奇襲成功の大勝利に酔いしれた日本国民は無謀にも、侵攻中の中国に加えて東南アジア諸国に一気に戦域を拡大し、68年前の悲惨な敗戦への坂道を転げ落ちたのである。
 今年の憲法記念日に寄稿した拙稿にも書いたが、戦争を知らない政治家の安倍首相が、太平洋戦争の開戦当時の東条内閣の閣僚だった祖父岸信介元首相(A級戦犯被疑者)に吹き込まれたかのような「大東亜戦聖戦論」に添う言動を繰り返すこと自体が、中国・韓国の反日感情を煽って国の安全を危うくしているのではないか。


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 世界第2位の経済大国となった中国が向う先が那辺かには、論議が分かれるであろう。しかし、軍事大国となる前提での仮想敵国視で、憲法九条改正、特定秘密保護法案、国家安全保障会議(日本版NSC)設置などを矢つぎ早やで打ち出し、日米安保同盟の強化を見せつける政策は、軍国主義日本の侵略を忘れない中国や韓国の警戒心をいたずらに強めるだけではないか。
 かつての日中友好条約締結の際、周恩来と田中角栄とで“棚上げ”された尖閣諸島の領土問題の“パンドラの箱”を開けたのは、日本による国有化だったのではないか。安倍政権とその支持者が戦争の歴史認識を捻じ曲げようとする動きに中国、韓国、東南アジア諸国が不安を募らす不穏な状況は、憲法に基づく平和主義(不戦の誓い)を堅持する国民が草の根レベルで深めてきた友好親善を台無しにする極めて遺憾な事態と云わざるをえない。
 凶暴なグローバル金融資本の跋扈が引き起こした世界経済不況からの立ち直りさなかに直面した原発事故処理の先が真っ暗な上に、アベノミクスの行方も定かでない超高齢老人大国日本が、近隣諸国と友好親善関係を保つことなくして、国民のいのちと暮らしをどうやって守ってゆけるというのか。
 平均寿命を超えた私(戦争中の言論統制の残酷さを目の当たりにした)は、敗戦の日に仰ぎ見た青空のように眩しい自由を実感した少年だった。
 特定秘密保護法案に対しては、自民党内部にも反対意見があり、憲法学者、ノーベル賞科学者、映画監督・俳優、言論人、各種有識者や新右翼の論客までもが反対を表明し、朝日新聞の最近世論調査では、70%以上の人びとが反対している。
 私と同世代の作曲家服部公一さんは、「日本は負ける」と云った叔父が特高警察にしょっぴかれ、頭の上をB29が飛んでいるのにラジオが「安全」を繰り返していたので、幼心にも、隠されることへの警戒心が芽生えたと、朝日新聞連載の「意義あり」で述べている。
 漫画家小林よしのりさんのコメントは、特定秘密保護法案は安倍首相のマッチョイズムの表れで、中国や韓国が反日を強めるなかで軍事・経済的に強い国を目指す姿勢を示せば国民がついてくると思っているが、長く政権にしがみつくための演技にもみえる。本当に「この国のため」と考えているのか、秘密に触れればわしも逮捕? 戦前の治安維持法は共産主義運動の規制が目的だったのに、無関係の人間が捕まって拷問を受けた。「戦前みたいにはならない」とみんな、タカをくくってないかと云っている。


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 劇作家永井 愛さんは、国旗・国歌法が成立した当時の総理大臣の言明と正反対の現実が、特定秘密保護法にも生じる懸念を述べていた。「日の丸・君が代問題」は憲法を盾に争えるが、秘密保護法では、何の秘密に触れたかが分からないまま罪に問われかねず、国旗・国歌法以上に暴走するおそれがある。安倍首相が目指す国づくりをしていくうえで、軍事や原発などについて隠したい情報を国民が調べるのを封じることが目的と思われても仕方ない。
 多様な価値観や歴史認識を持つ人たちの懸念と重なるような法案反対デモの人々を「テロ」まがいの集団と呼ばわった石破幹事長の暴言は、日本記者クラブの会見で、特定秘密保護法で指定された秘密を:報道機関が報じることについて、「何らかの方法で抑制されることになると思う」と報道規制の必要がある考えを述べるまでエスカレートしたあげく発言の撤回・訂正を余儀なくされたが、安倍政権の馬脚が現れたとしか言いようがないのではないか。
「国際ペン」からの懸念表明も、言論の自由と情報公開をめざす世界の潮流に逆らう日本政府への牽制であろうが、オバマ大統領は、在日米国大使に元大統領ケネディの息女を任命して日米の絆を強化する一方で、中国との戦略的友好関係の進展を探っているようだ。中国の「防空識別圏」(ADIZ)」の設定に、安倍政権はいち早い撤回要求と民間機の事前飛行計画通告をしないことを表明したが、米国は民間航空機についての通告差し止めはせず、むしろ、日中間に、日韓同様の緊急連絡システムを設置するように促したのである。
 やや唐突と思われる中国の防空識別圏設定の意図は推測するほかないが、尖閣諸島を圏内に入れたのが尖閣問題への日米の温度差を見極めるためとすれば、米国の柔軟な反応からみて、成功したのではないか。
 中国の歴史的な中華思想や最近の「海洋大国」志向を警戒する論議もあるが、中国本土までの航続距離をもつオスプレイの沖縄基地配備や日米合同の島しょ防衛軍事演習などが中国に与える緊張感を念頭に置かないと、問題の海・空域で不測の事態が暴発する可能性もありうるのだ。第一次安倍政権では中国訪問を先行させたのに、今回は関係悪化に拍車をかけるばかりの安倍首相だが、オバマ政権の対中国外交戦略を見誤って、ニクソンの電撃的中国訪問の後塵を拝した田中角栄元首相の二の舞を演じないように願うばかりである。
「少子高齢化」日本の未来には、アジア地域の安定と近隣諸国との親善友好が不可欠なのである。


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2013/12/30 17:00 2013/12/30 17:00


岩谷時子さんと私
                    
                      
                            松本 文郎

 
 敬愛していた岩谷時子さんが亡くなった。享年97は、強い絆で結ばれてマネージャーを30年も務めた越路吹雪さん(享年56)とくらべ、たいへん長寿での逝去だった岩谷さんとの「ご縁」をいただいたきっかけは、30年ほど前のNTT社歌『日々新しく』の歌詞の社内公募で、昭和60年の民営化で制定された社歌の歌詞募集に、詩作が好きだった私も応募したのである。
 それまでの社歌『日本電信電話公社の歌』は、電気通信の社会的な役目を高い調子で詠いあげた詩に、荘重な曲がつけられていた。
 旧社歌の心を継承しながら、情報社会の新しい電気通信を拓く私たちにふさわしい、どんな詩を書くかが眼目だった。
 電電公社がスタートした昭和27年とくらべれば、日本人の音楽感覚もずいぶん変ってきて、メロディー・リズム共に昔日の感があった。
 そうだ、リズムだ! 社歌より先に制定された新社章のダイナミック・ループのように、生命の無限運動を表す、身も心もはずむリズムこそ新生NTTにふさわしい。
 とっさに、佐野元春の『ヤング・ブラッド』を思い出してターンテーブルにドーナッツ盤をのせ、あのリズミカルな曲が流れだすのを聴いて、エンピツを手にした。
 作詩といえば、広大付属福山校一期生の私たちが中学2年で創設した音楽部(クラリネットの私は、1級下でピアノの安部千代子に一目惚れし、10年後に妻とする)の活動で作詩・作曲した童謡を市の公会堂で発表して以来、人生の折にふれ、心に感じる「悲喜こもごも」を書き綴ってきた。
『ヤング・ブラッド』のリズムに乗り、からだを軽くゆすりながら、胸にとどめていたフレーズを書き始めた。


1.人びとの心つないで コミュニケーション
  励ましを 望みを その声を その顔を
  山河はるか 空のはてまで
  シグナルにのせて はこぶ歓び
  日々新しく NTT
  世界とともに
  われらNTT われらは
2.人びとの仕事支えて コミュニケーション  
  ・・・・
3. 人びとの社会結んで コミュニケーション 
  ・・・・

 意外なほどスラスラと三番までの歌詞がノートに並んだ。
 人びとのコミュニケーション。呼びかわす声と声の響きをつたえ、微笑みをかわす顔々の輝きを送るNTTのテレコミュニケーション。独占的公共企業体の事業サービスよりも開かれた自由な電気通信を求める人びとに、NTT社員が力を尽くして応える時代がやってきたのだ。
 地球をめぐるサテライトが中継する世界の人たちの「ハロー」。宇宙の果ての惑星までも届け! 人びとの歌声。響け! 新しい時代の社歌のはずむ調べ。
 何者か耳元でささやいていうかのように、詩句が湧いてきた。
 ワープロのキーをたたき、吐き出された1枚の紙を手にした私は、それなりの満足を感じていた。一息に書いた詩だが、自分の想いが素直に表わされていると思った。
 第1稿を投函したのは締切日の2日前。翌日は、「つくば万博・NTTパビリオン」の建築工事の完成検査に赴いて宿泊したホテルの室で、第1稿の投函後に気になった箇所のヴァリアントを2篇書き、翌朝、現場事務所の検査打ち合わせの前に更に手を加え、午後、東京に戻ってから投函した。 応募規定で、1人で幾つ出してもよかったのだ。
 締切りの2月28日から、新生NTT誕生の4月1日を経て、3、4月がまたたく間に過ぎた。ほどなく、「歌詞」の選考が、補作詩者岩谷時子さんと作曲者前田憲男さんを交えて進んでいると知った私には、この顔ぶれがとてもうれしく思えた。優等生的なまじめ一辺倒の電電公社時代では考えられない新鮮なセンスを感じたからだ。
 岩谷さんは、私がよく唄っていた越路吹雪さんの数々の歌の訳詩・作詞者として憧れていた方で、前田さんは、高名な編曲者でNHKテレビによく出演されて、しゃれた音づくりをする音楽家だった。
 この素晴らしいコンビならきっと、新生NTTにピッタリの新しい社歌が生まれるだろう。
 佐野元春のアップテンポの『ヤング・ブラッド』を聴きながら書いた詩がお二方のセンスにかなり合っていると感じた私は、いささか、入選の期待を胸に、選考結果の発表を待った。
 5月初めに広報部から、「松本さんが応募された詩が、最優秀賞で新社歌の歌詞に選ばれました」と報せの電話があった。(応募作品は約千8百点)「補作詩の岩谷時子先生の手がかなり加えられていますが、松本さんの詩心は変わっていないと思います」
 その日、広報部から借りたデモテープ(演奏・東京ニューシティー/合唱・東京混声)を家で聴くと、私の詩にない出だしのフレーズが、軽快なテンポで力強く鳴り響いたが、応募した詩の言葉に岩谷さんの言葉が加えられた歌詞は、自分の詩と言えるかどうかと思うほどに変容していた。
 私の詩を素材にして岩谷さんが構成された歌詞の完成度はとても高く、素晴らしかった。
 新生NTTの船出には、五十路に入ったばかりの私をゆさぶるものがあり、その想いをこめた詩の心を大切にしながら、詩情あふれる言葉を補ってくださった岩谷さんに、感謝の気持ちを書いた手紙を出した。
 NTT社歌『日々新しく』の発表があった日の本社講堂で初めてお目にかかった岩谷さんは、「たくさんの応募作品から松本さんの詩を選んだのは、そこに “確かな人生がある ”と感じたからです。ずいぶん手を加えて失礼だったかしら」という意味のことを、ほほえみながら仰った。
 やさしさとあたたかさにあふれる歌詞・訳詩を書かれる岩谷さんらしいお心遣いが、身にしみてありがたかった。
 NTT社歌『日々新しく』は、上条恒彦さんの歌唱指導と前田憲男さんのピアノ伴奏で、発表会参列者の力強く高らかな声が、講堂をゆるがした。
 感動の一瞬に、こみあげてくるものがあった。目の前のステージに立つ上条さんの朗々とした声にさそわれて、私も大きな声で唱和した。
 この歌声は、NTTの全国組織に中継されたが、制定後の現場(電話局等)の始業前に、30万人社員が一斉に唄ったことも、なつかしい思い出だ。

  「日々新しく」
            作  詩 松本文郎
            補作詩 岩谷時子
            作編曲 前田憲男
 
 風の音に 耳をかたむけ
 問いかけるものに 応えよう
 虹を架け虹を跳び 進む自由こそNTT
 かなえよう あなたの希望(ねがい) 
 日々新しく われらは生きて
 たしかな手ごたえ 喜びあおう 
  みんなの想いを支え 力をつくすNTT

 人の声を 結ぶ宇宙に
 かぎりない夢を あずけよう
 過去から未来へと 翔ける翼こそNTT]
 信じよう かがやく光
 日々新しく われらは生きて
 ゆたかな社会を 築いて行こう
 みんなの心をつなぎ、幸せ祈るNTT

 空に響く 愛の言葉
 山川を越えて とどけよう
 励ましとその文字を 送るつとめこそNTT
 高めよう 暮らしの文化
 日々新しく われらは生きて
 無限に役立つ 誇りを持とう
 みんなの地球をめぐり 世界と共にNTT

 
  人びとの心をつなぎ、人びとの仕事を支え、人びとの社会をむすぶ、テレコミュニケーション。人びとの生活、人びとの人生、人びとの幸せと平和にとって、なによりも大切なものは、コミュニケーションではなかろうか。
 世界の人びとがこの地球で、末ながく共に生きる上で果たすテレコミュニケーションの役割は、かぎりなく大きい。
 
 後日、新社歌制作をプロデュースした「電通」主催の「打上げパーティー」に妻のお千代と共に招かれて出席した。
 ビュッフェ・スタイルの気さくな雰囲気の宴会の場に電通側の制作関係者が多く、NTTからは広報部門の人たち数人と私たちだけだった。
 歌詞選考・制作のアーティストとして選ばれた岩谷さんと前田さんは、電通側のお立場と見受けられた。
 電通の担当部門局長の堅苦しい挨拶もなくて、和気藹々に始まったパーティーだったが、驚いたことに、岩谷さんご自身でみつくろわれた料理を盛った皿を、お千代のために運んでくださったのである。
 4年間の海外勤務でパーティーのふるまいには慣れていた私たちよりも、一歩先んじて示された岩谷さんのホスピタリティーに、いたく恐縮し、感激したのも、いまだ忘れられない思い出だ。
 岩谷さんから差しのべられた親しさに甘えた私は、応募詩の想いや詩作の経緯を述べながら歓談させていただいた。締切日が迫った2月最後の日曜日の朝、「社歌に応募する詩はできたんですか」とお千代に訊ねられた食卓を陣取り、佐野元春のリズミカルな曲を聴きながら書いたフレーズに、前田憲男さんが、出だしから3連音符が並ぶピッタリの曲を付けられてほんとうにビックリしていることも、ざっくばらんに話した。紹介された制作関係者の1人、東宝音楽出版(株)社長石川浩司氏には、「社歌らしくない社歌を作ってくれと言われた児島 仁常務の一言でこの歌ができました」「補作された岩谷さんが、この詩しかないといって最後に選ばれたのが松本さんの詩でした」と告げられたのも、うれしかった。
 歓談がはずむなか、私たち夫婦にアテンドしてくれていた電通の人が私たちのテーブルにやってきて、「松本さんはシャンソンがお好きと、NTTの広報部長からうかがいましたが、なにか得意な歌を唄われませんか。前田憲男先生が伴奏してもいいとおっしゃっていますので」と告げた。
 似たようなことが、海外勤務から本社に戻って一年後の近畿電気通信局第一建築部長のときにもあった。報道関係者を招いた恒例暑気払の余興のトップバッターをT通信局長に命じられて、客人の歌をうながす役目で、越路吹雪の十八番『ろくでなし』を披露したのだが、各社の取材記者の方々からヤンヤの喝さいをいただいてしまい、まじめに唄いすぎたと後悔したが、後の祭りだった。
 このときは、電通に招かれた客人としての余興だからと腹をくくり、唄わせてもらうことにした。
 同じテーブルの岩谷さんも、にこにこしながら勧めてくださるので、ほろ酔いも手伝って、「では、岩谷先生訳詩の『サン・トワ・マミー』を唄わせていただきます」と言いながら席を立った。
 電通の人からことの次第を告げられた前田さんは、待ってましたとばかりに、会場のコーナーに置かれたグランドピアノに向かいながら、私を手招きされたのである。
 余興のアナウンスに、あちこちのテーブルでのさんざめきが一瞬、静かになった。
 唄う前に一言と、お招きへの謝辞と長年憧れた岩谷時子さんに捧げる歌を前田憲男さんのピアノで唄う、思いがけない光栄への感謝を述べた。
 若気の至りといえばそれまでだが、よくも恐れ気もなくやってのけたものと、いま想う。
 後で聞いたことだが、人前では絶対に歌を口にしない前田憲男さんが、ピアノを弾きながら私の歌にハモッテいたのは、よほどゴキゲンだったのではないかという。シャイで言葉少ない前田さんのやさしさは、夢中で唄っていた私の耳には聞こえなかったのがザンネンだった。
『サン・トワ・マミー』と『ろくでなし』は岩谷時子さんの名訳で、越路さんのシャンソンの中でも私の大好きな歌である。自分勝手なペースの歌にピッタリ息を合わせてくださる前田憲男さんのピアノ伴奏にのりながら『サン・トワ・マミー』を唄い終えると、いくつかの「アンコール」の声があがった。客人としてどう反応すべきかを一瞬迷ったが、ほろ酔いのアタマの自制心がはたらいて、ピアノの椅子に座ったままの前田さんに会釈し、岩谷さんとお千代がいるテーブルに戻った。
「松本さんの『サン・トワ・マミー』はとてもすてきでしたヨ! 戴いた手紙で感じたままのお人柄がよく出てましたネエ」
「文郎さんも私も、越路さんのシャンソンが大好きなのです」とお千代が云った。
「お手紙にもありましたが、あなた方は中学校の音楽部からの幼馴染だとか。うらやましいほどの仲よしですネエ」
「昭和32年に電電公社建築局に入社した私は、同志社を卒業したお千代が海外関連部局に入社した翌年の秋に結婚しました」
「じゃあ、コーちゃんと内藤法美さんより1年先輩のカップルですよ」と云われた岩谷さんに、「越路さんと内藤さんのご夫妻は、文字通りの鴛鴦カップルですね」とお千代が応じた。
「コーちゃんは歌だけの人に見えるでしょうが、あれで、家事一切を仕切っていて、お掃除は名人レベルですから・・・」
 そのコーちゃんに末期の胃がんが見つかり、手術の甲斐もなく亡くなったのは5年前だ。
 岩谷時子さんと越路吹雪さんとが歌手とマネージャーの関係を超えた深い信頼と愛情の絆で結ばれていたことは、岩谷さんの著書『夢の中に君がいる 越路吹雪メモリアル』(講談社・1999年)や没後の追悼テレビ番組(アーカイブス)でよく分かる。
  
  あのNTT社歌の制作打上げのパーティーから後は、岩谷時子さんと再会する機会はもうなかった。
  コーちゃん亡きあと、『ミス・サイゴン』(ミュージカル)のヒロインを演じた本田美奈子さんの才能を見出したこと、同じ病院に入院したときに互いに励まし合ったエピソードなどは、折々放映されたテレビ番組で拝見してきた。
 6、7年前だったか、岩谷さんに近い方から、帝国ホテルで車椅子の生活をされていると告げられて、お訪ねしてみようかと思ったまま、ついに果たさずじまいとなった。
 打上げパーティーのテーブルでの岩谷時子さんは、「これまで一所けんめい真摯に生きてこられた想いが素直に書かれている松本さんの詩は、人びとの心にとどく訴求力がありますから、これからも、いい詩を書いてくださいネ」と励ましてくださった。その言葉を胸に、非常勤仕事に就いた折の2年間、星野哲郎門下生として歌謡曲の作詞の勉強に通った日本脚本家連盟・作詞教室研究科の古野哲也先生も数年前に亡くなられた。
 レコード大賞・作詩新人賞をもらい、岩谷時子さんの墓前に報告するのは見果てぬ夢か。

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2013/11/08 14:54 2013/11/08 14:54

 68年目の夏に想う             
                              2013年8月15日(木)
                          
 国民やアジアの人びとの尊い命と財産を奪ったあの無謀な戦争に敗れた日から、68年目の夏。憲法記念日の「残日録」で、“大東亜戦争聖戦論”(太平洋戦争の侵略性の否定)を唱える安倍首相の錯誤の歴史観と強引な改憲姿勢について書いた。終戦の日、政府主催の全国戦没者追悼式の首相式辞は、アジア諸国に対する加害責任に触れず、歴代首相が繰り返してきた“不戦の誓い”の表現はなかったが、「戦後わが国は、自由、民主主義を尊び、ひたすら平和の道を邁進してまいりました」と述べた。 2007年(第一次安倍内閣)の追悼式では、「我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」「国民を代表して深い反省とともに犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表す」と述べた安倍首相の本心は、一体どこにあるのだろうか。やや危うい足どりで祭壇に向かわれた天皇(戦争責任を論議された裕仁天皇を継承されて以来、真摯に「世界平和」を祈念されてきた)が、A級戦犯に指名・収監された祖父をもつ安倍首相の二度目の式辞の変りようを、どんなお気持ちで受けとめられたのか・・・。
 日本人が自由と民主主義を尊んだのは、敗戦後が初めてではない。明治の自由民権運動や大正デモクラシーの時代に目覚めた国民が希求した自由と民主主義を、忌まわしい軍国主義が踏みにじったのを忘れてはならない。「不戦の誓い」を守ってきた日本人の平和主義は、占領軍に押し付けられたどころか、日本書紀に書かれている聖徳太子の17条憲法・第1条にみる「和」や古事記の底流にある“やまとごころ”に通じる、わが民族が誇るべきアイデンティティーではないか。「6年前、総理大臣として靖国神社に公式参拝しなかったのは痛恨の極み」と言った安倍首相が、かろうじて踏みとどまったのは菅官房長官ら側近の忠告によるものだろうが、「不戦の誓い」に触れないことで、支援団体や資金源からの反発をかわしたものかと推量する。
 これからの世界がめざす規範にしたい“平和憲法”の下、国民がこぞって戦後復興に邁進し、世界第2の経済大国を築いた日本の戦後史を否定する首相は、どこへ向かおうとしているのか。
 衆参両選挙で大勝した自民党の総裁として再び首相の座につけたのは、国民が期待したはずの民主党の呉越同舟の党内混迷と未成熟な政治に“漁夫の利”をえたからだ。
“平和憲法”の第9条は、戦死・戦没者の尊いいのちと引き換えに国民が手にした、掛け替えのない遺産。長く続いた自民党政権が憲法改正をしないできたのも、保守本流の政治家たちが国民の悲願を尊重しなければ政権維持ができないと認識したからにほかならない。
 軍国主義日本の被害を受けたアジア諸国の人たちが、日本の首相・閣僚の靖国参拝に反対するのは、“A級戦犯合祀”の一点からで、家族や祖国のために亡くなった戦没者一般の追悼ではない。憲法9条の改正で、アジアや世界に日本の軍事国家化を懸念させる事態になれば、英霊たちの尊い犠牲が無に帰すことを、“これ見よ”とばかり15日に参拝する議員らは分かっているのか。「国民の生命安全を守る」総括責任者たる安倍首相の歴史に逆行した言動が、戦争時代のように全国民の生命と平和な暮らしを脅かし、国益を損なうことになるのに気づいてほしいと切に願う。
 本家の長男は中国大陸で、妻の父は沖縄戦で戦死した。跡取り息子を戦地に送ったおばさんは、「生きて帰るんだよ」と言ったが、石ころが入った箱が届いただけだ。妻の母親は遺された4人の子供たちを、女手一つで苦労して育て上げた。侵略的な戦争で多大の損害と苦痛を与えたアジア諸国との友好平和を脅かす安倍首相の言動にいちばん憤っているのは、無謀な戦争に駆り出されて戦没した英霊たちではないか。 合掌。

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2013/08/19 16:11 2013/08/19 16:11


 いのちと「動的平衡」 
                                 2013
12日(金)

                       

 先月の25日に傘寿を迎えた。食道(がん)全摘手術で再生した20周年でもあるが、再びの《いのち》を享け、いま、ここに在ることは天寿というほかない。

 早期発見と「鬼手仏心」のドクターⅠのお蔭だ。発見が遅く、手術を受けても2年以内に逝ってしまった中・高・大の学友ら数名が遺した時間(十数年)を生きてこれたのだ。福島第一原発事故の際、東電本社首脳部の優柔不断さにタテついて、海水注入を勇断した元所長吉田昌郎さんも、先日、食道がんで亡くなった。東電現場関係者一同が尊敬し信頼した人だったという。合掌。

 がんと言えば、前立腺PSAの数値が30.36になって受けたMR検査の顛末を、2012年1月25日の「残日録」に書いた。MRの白い画像が前立腺外周と近接のリンパと骨盤にあるので、早く治療をした方がいいと勧める担当医に、いま享受しているQOL(生活の質)に支障をきたす可能性のある治療は避けたいと告げたことをである。

 ブログ掲載の直後から、手術や治療(放射線、抗がん剤、ホルモン療法等)を受けている多くの友人・知人とご夫人たちから、ありがたい助言や励ましが届き、この病気の仲間がいかに多いかを知らされた。手術や治療で数値が目安以下(4.0)になっても、さまざまな生活の質の変化が生じ、治療効果に年限があることも分かった。

 3ケ月毎のPSA数値は上がりつづけ、今年の2月末で40.34、5月末で60.35と急上昇したが、生活の質に特別な変化は現れていない。まだ、やりたいことはあるが、平均寿命を迎えた人生に悔いはないから、いつお迎えがきてもたじろぎはしないだろうと思う。

 がんの末期には耐え難い苦痛が待つとされるが、さる老医師は、「末期がんで死ぬのは怖くない。自分が関わってきた老人施設の入居者で放射線・抗がん剤治療もなにもしない末期患者は、苦痛を訴えることなく、次第に衰弱して自然死に至る」と自著や対談集で述べている。

享年78で逝った父の火葬・骨上げを担当した人に、「どうやら、お父さんは末期のガンだったようですね」と告げられたことを思い出すが、がんの自覚も痛みもなかった父は、食欲と気力をしだいに無くす老衰状態におち入り、いわゆる“自然死”を迎えたことになる。

「残日録」の『NTT関東病院と私』(2012.1.30)に書いた建築家國方秀男(好きな寺社めぐりで奈良へ通いつづけた)は、奈良を訪ねたい一心で、末期がんの手術を受けられたのであろうが、術後ほどなく、治療の苦しみの中で亡くなった。不用意な言は慎むべきだが、上述の老医師に会われていれば、いま少し、奈良に遊ばれたかもしれない。

 最近の医療分野で、「ホリスティック・メディシン」という概念が整えられつつあると知った。

人間を心身一体としてみることを主張し、西洋近代的な医療の対症療法偏重の欠陥を検証して、人間が本来もっている自己免疫力の活性化を眼目にしているらしい。

 ほとんどの病気が生活習慣から生じている事実からも、対症療法偏重でなく、規則正しい生活、睡眠、食事、運動、精神・感性を高める活動をトータルに実践する大切さを説く、この考え方に強く共感する私だが、分子生物学者福岡伸一著『動的平衡』の説とも重なる

福岡によると、「生命現象(バイオ)は、本来、工学的(テクノロジー)操作、産業上の規格、効率よい再現性などになじまない。全身の細胞は例外なく“動的平衡”状態にあり、日々絶え間なく壊され更新されている。私たちにできることは、生命現象が本来の仕組みを滞りなく発揮できるエネルギーと栄養を十分に摂り、サステナビリティーを阻害する人為的な因子やストレスをできるだけ回避すること」だという。

 傘寿を迎えても相変わらず、《唄い》《描き》《詩文を書く》日々を楽しんでいる私の“いのち”の動的平衡状態に、前立腺がんに対抗する“がんキラーT細胞”が活性化されている実感をもつ。

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2013/07/16 21:15 2013/07/16 21:15


「出逢いと別れ」
  重信(ジュウシン)さんを偲ぶ             

                                       松本 文郎

   

日比谷同友会報の訃報連絡で鈴木重信さんのご逝去を知り、突然の他界に愕然となった。

その数日前の「みなづき会展」来訪者との歓談で、重信さんの近況が話に出た。肺気腫悪化で酸素ボンベを離せずに外出を控えているが、自宅でメールのやり取りをしていると知って、久しぶりに、メールをする矢先のことだった。

 本社建築課長の重信さん(愛称はジュウシンさんだったので、以下の「重信」表記は音読み)と設計課長の私が建築局で親しく仕事をしたのは昭和55年からだが、2年後輩の彼には、すでに大人(たいじん)の風格があった。

『電電公社 その人と組織』(政策時報社)の記事そのママを転記すると、建築課長 鈴木重信(すずきしげのぶ)

あくの抜けた性格がすがすがしい。小事や過ぎたことにクヨクヨとこだわるところがなく、姿勢はいつも前向き。「性格的には粗雑だと思う」というのは鈴木本人の弁。建築設計のスペシャリスト。34年4月入社。

東北通信局建築部設計課第1設計係長、建築局設計課第2設計係長、東京通信局建築部設計課長、同局同部調査役、北海道通信局建築部長、東京通信局建築部長を経て55年1月現職。

東京新宿生れ、都会っ子らしく趣味のセンス抜群。登山、ラグビー、音楽、写真読書(ミステリー)、鉄道模型製作がそれ。「登山は機会が少なくなって、いまではマップマウンテニアです。それに音楽は聴くだけ、ラグビーも観るだけのことです」と“弁明”している。

マージャンは「できません」。これも貴重だ。酒は適量、タバコは日に40本。家族は夫人と2男1女。昭和11年2月12日生れ。成蹊中―成蹊高―東北大建築学科卒。

 長身でイケメンの彼は、新入社員のころから女性社員にモテモテだったが、いつも爽やかな笑みを浮かべるだけで、浮ついた感じは微塵もなかった。 
  北海道・東京通信局建築部長のとき、旭川東光局の火災と東京中央電報局模様替工事の足場倒壊という建築工事現場の重大な事故に直面したが、冷静沈着な指揮ぶりで事後処理に当たり見事に職責を果たして、後の語り草となった
 鈴木姓と風貌・言動で、2.26事件で襲撃され、一命を取り留めて、和平派の軍人として強硬派勢力を抑えて終戦を実現した内閣総理大臣鈴木貫太郎の直系と噂されていたのを質した私に、「いえネ、遠い親戚ですヨ」と淡々と告げた重信さんだった。

 昭和56年、中曽根康弘行政管理長官の行政改革第2次臨調会長土光敏夫に請われた真藤恒氏が電電公社総裁に就任したのは、まさに、青天の霹靂だった。

 総裁就任を、「電電公社の仕事は全く素人」として、一時は辞退したとされるが、石川島播磨時代から親分子分の間柄の土光敏夫の要請と、公社経営委員だった中山素平氏の白羽の矢を断れなかったようだと『電電公社 その人と組織』に記されている。

 同書で、「“野人”と“文化人”の同居」と評された当時の建築局長関谷辰延氏は、公共建築に携わることを誇りとして日本有数の建築技術者集団を率いていたが、高度情報社会の時代的要請に応える真藤新総裁の矢継ぎ早の公社事業変革路線に対し、真摯な“是々非々”で応じて、“真藤のジイさん”の篤い信頼を得た人物。

 入社以来、この野武士的で理想主義的な局長の薫陶を受けてきた重信さんと私は、その理念と志に共感し、建築部門関連業務の新展開に全力投球で取り組んだ。

 NTT民営化の年、建築企画室長に就任した重信さんは、「建築部門の窓口であり、今後の業務運営の戦略を策定する組織としてNTT所有の厖大な建築資産(土地・建物等)をいかに効率的に活用するかについて、事業用のみならず広い視野で企画するのがメインのテーマである」と、政策時報社のインタビューで述べている。

「電話腺にぶら下がっているだけではNTTの将来はない!世の中に貢献する新しい事業展開のなかで、5百社以上の子会社をつくれ!」との“ジイさん”のハッパで、「NTT都市開発」が誕生。初代社長は関谷氏が、第2代に重信さんが就任した。 

 真藤体制下、政府要請の分社化や既存の関連会社への発注条件の厳しさに対して、公社事業を築き上げてきた先輩OBの批判が続出したが、ドコモや都市開発の成功を目の当たりにして、次第に収まっていった。 

 重信さんが企画室長のころ、私は建築技術開発室長で、企業通信システム事業部長の式場 英君と共に、“建築都市のインテリジェント化”(現在のスマート化。建築・情報通信・コンピュータ技術を融合した技術の概念構築と体系化に取組み、“インテリジェントビル”が世の中に定着する草分けの務めを果たし、平成元年、新設した子会社・NTT建築総合研究所の代表取締役・副社長で転籍した。

 NTTの建築資産活用で都市開発が全国主要都市に建設した数々のインテリジェントビルが、わが国有数の企業テナントの好評を得たのは関谷・鈴木両氏ほか関係者のみなさんの尽力の賜物だが、その歓びの一端を私も共有している。

 重信さんとの想い出は数々あるが、平成4年の食道(がん)全摘出手術で長期入院をした折、中島みゆきの曲の録音カセットを持って見舞いにきてくれたのも、お互いがカラオケ大好き人間だからであった。

 術後1年が経ち、NTT取締役不動産開発部長の重信さんからの誘いで、「IB&C インフォマート欧州視察団」に参加し、北欧4ケ国へ(13日間)の有意義で楽しい旅を共にしたのも、忘れられない想い出だ。

  食べたり飲んだりするモノがいきなり十二指腸に落ちるカラダになった私が、参加した24人中で一番元気だったと言われたほど、なにごともなく行動できたのは、重信さんのさりげない気遣いのお蔭だった。

 和気藹々の旅で重信さんの仁徳に魅せられた団員は、重信さんが肺気腫で不参加を表明するまでの10数年間、毎年開かれた懇親会懇談会に、ほぼ全員が参加した。

 NTT都市開発の相談役になってからの重信さんとは、新橋の小料理の店でときたま会って歓談したり、カラオケを楽しんだ。M大・国文学を出た女将は歯に衣を着せない辛口でファンとなる常連客もあり、私と妻も片隅にいたが、独りのときの重信さんは、8畳小上がりを背にした厨房との仕切りカウンター(3人席)の端に座り、女将と寂かに話をしているのが常だった。

 昭和55年以前の東通建築部長のころの重信さんは、近畿第1建築部長から設計課長になった私を、時折り誘い出し、新宿の行きつけの店(早大学長も常連)の二階で一緒に遅くまでカラオケを楽しんだものだが、それから25年後、新橋の女将の店は、西新橋再開発地区のど真ん中にあって店仕舞いを余儀なくされて、重信さんにとっても、終の“止まり木”となった。

 閉店パーティーの餞に、ちあきなおみの『紅とんぼ』を唄ってあげたが、強面した女将は、がん手術で入院中の私に、NTT社歌『日々新しく』(拙詩)を、自分のピアノで弾き唄った録音カセットを差し入れてくれた、やさしい女性でもあった。

 限られた誌面で、重信さんとの想い出の一つとしてぜひとも書いておきたいのは、ジョン・パーキンス著『エコノミック・ヒットマン途上国を食い物にするアメリカ』のことである。

 この会報で何度か報知させていただいた「松本文郎のブログ」(「統一日報」開設・編集・管理)に長期連載中の『アラブと私』のために、重信さんが届けてくれたのが、この思いがけないノンフィクションだった。

 私の執筆意図にうってつけの本を、ミステリー愛好家の重信さんが見つけてくれたのは願ってもないことで、連載(53 )では、「長く職場を共にし、敬愛してきた人から送られた。送り主についてはいずれ、序章『イラク3千キロの旅』のあとの本論で記述したい」としているが、重信さんの急逝が残念でならない。

 『アラブと私』を読んで、貴重な文献を届けてくれた重信さんの励ましに応えるためにも、いのちのあるかぎり、この“創作的ノンフィクション”を書き連ねて行きたいと念じている。ご関心のある会員諸兄が、この拙文を読んでくだされば望外の幸せに存じます。

 

同友会からの訃報に、「ご遺族からのご要望で、ご弔問、ご香典、ご供花をご辞退されていますのでご配慮願います」とあり弔問はご遠慮したが、後日、NTT都市開発で「お別れ会」が実施されるので、当面は、この追悼文を、長年敬愛してきた重信さんに捧げたい。 合掌。   

                      〔*「日比谷同友会報」202号より転載


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2013/06/07 20:09 2013/06/07 20:09


  憲法記念日に  
                                            2013年5月3日(金)

                                松 本 文 郎

 

憲法改正をめぐる居丈高な安倍首相の発言は、太平洋戦争で尊い命を失った軍人や一般国民と戦禍に巻き込まれたアジア諸国の人びとへの反省のカケラもないことに、憤りを感じる。

「国民の生命安全を守る」ために、“アメリカから押し付けられた憲法9条を改正する”というが、米国の無差別爆撃によって都市の大部分が灰塵に帰し、310万人もの日本人の命を失い、広島・長崎への原爆投下を受けて敗れた無謀な戦争の歴史を、どのように認識しているのだろうか。

 米国から輸入していた石油(国内消費量の80%)を停められ、唐突な奇襲攻撃で始めた太平洋戦争に至る過程には、日清・日露戦争、満州事変、日中戦争、日独伊三国同盟、国際連盟脱退など一連の軍国主義的な国策が、全国民を総力戦に巻き込み、無残に破たんした歴史がある。

日本国憲法が占領下の発布だったとしても、国民の生命安全と財産に途方もない犠牲を強いた軍国主義日本に親や子を戦争で奪われた国民が、二度と戦争をしたくないとする“憲法9条”を、新生日本とアジア・世界の平和の礎として護持してきたのである。

“憲法9条”は、戦死・戦没者の尊いいのちと引き換えに国民が手にした、掛け替えのない遺産 なのだ。長く続いた自民党政権が憲法改正をしないできたのも、憲法改正がやりにくいからではなく、保守本流の政治家たちが国民の悲願を尊重しなければ政権維持ができないと認識してきたからにほかならない。

安倍首相は、“戦争を知らない政治家”の一人だが、幼いころに、祖父の岸信介氏から吹き込まれた、“大東亜戦争聖戦論”をひたすら信じてきたと思われるほど、頑迷さを丸出しだ。

安倍首相の祖父は東条英機内閣の商工大臣・軍需次官であり、最初から勝ち目がないとされた戦争に猪突猛進した挙句の無条件降伏の極東国際軍事裁判で、A級戦犯に指名・収監された。

それを知らない若者のなかには、憲法改正で国防軍と徴兵制ができれば日本を守るために命を捧げるという愛国者もあるという。傘寿を迎えた筆者も、3,4年早く生まれていれば特攻志願で、戦争の原因と是非を知らないままに愛国の名の下に戦場に駆り出され、戦争続行が無意味だった敗戦末期に特攻兵として死んで逝った若者の一人であったろう。

幸い、日本復興の一翼を担って平均寿命まで生きてきたが、“憲法9条”を改正して、アジアや世界に日本の軍事国家化を懸念させる事態になれば、英霊たちの尊い犠牲を無にすることになる。

お題目の「国民の生命安全を守る」どころか、忌まわしい戦争の時代のように全国民の生命と平和な暮らしを脅かすことになろうと危惧する。

疎開先の国民小学校5年だった私は、くぐもって不鮮明な天皇のラジオ放送を聴いて、抜けるような青空を見上げた瞬間を忘れたことはない。

憲法25条の草案者森戸辰男は郷里の福山出身。“日本の戦後復興は教育の一新で”と創立した広大付属福山に入った私と一年下の妻は、森戸の建学精神と民主主義と自由の気が溢れる学舎で、戦争で死なずに済んだ若いいのちを、おおいに羽ばたかすことができた。

 肝心な憲法条文はそっちのけで、他国から押し付けられたとか、改正しにくいなどの手続き論(原稿憲法草案には日本人も関わり大正デモクラシーの理念も組み入れられたし、世界主要国の憲法改正はすべて三分の二)は、事実に反した欺瞞でしかない。

 そもそも憲法は、国民が国家統治の権力者を規制するもので、国家が国民を操るためのものではない。拙稿『アラブと私』を長期連載している日本ジャーナリスト会議「広告支部ニュース」5月号の表紙がそれをよく表しているので、ここに転載させていただく。 

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2013/05/03 19:09 2013/05/03 19:09


 NPT
と日本               
                                                    2013年4月26日(金)

                             松 本 文 郎

 

昨日の「靖国参拝問題」の文尾に、本殿に向かう厳粛な顔の代議士らの報道写真を配したのは、編集担当森下女史。別の報道ビデオで、“ニヤツイテ”いるのを撮られた女性も神妙な顔つきだ。

 真摯な気持ちで戦死者を悼むのなら、報道陣が待ち構えているなかではなく、別の折に、何度でもお参りするとよい。ふれあいの森公園で見上げるケヤキの若葉が、誰にみせるともない風情で、さわやかな朝風にゆれているのとは対極のシーンである。

 早朝散歩から戻って開いた朝刊に、「核の傘 矛盾またも」の大見出しがあった。核不拡散条約NPT)の第2回準備委員会の“核兵器の非人道性を訴える共同声”に、“唯一の戦争被爆国”の日本が、第1回準備委員会と同じように賛成しなかったという。

 核が使われると人道上、破滅的な結果を招くとして、「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」と明記された共同声明に、日本は署名しなかったのである。

 米国によってヒロシマ・ナガサキを原爆被爆都市にされた日本が、敗戦後も、その国の“核の傘”を頼りにしてきた矛盾は、これまでの国際会議のさまざまな対応にも表れていた。

 わが故郷広島出身の岸田外相が就任以来、核軍縮にこだわりを見せてきたのを頼もしく思っていたが、広島市の松井市長と長崎市の田上市長も、署名見送りを批判して憤懣やるかたないし、『黒い雨』を書き遺した郷土の文士井伏鱒二も、岩に閉じ込められた大サンショウウオよろしく、草葉の陰で憂苦しているに違いない。

 北朝鮮の核の恫喝を意識した菅官房長官の「現実に我が国を取り巻く厳しい安全保障の状況を考えた時に相応しい表現かどうか」の談話は、米ソ間の冷戦さなかのキューバを舞台に核戦争の寸前まで達した危機的状況の悪夢を念頭においた、米国追従の政治的言い訳であろう。北朝鮮の仮想敵国はまだ休戦中の米国だが、日本も入るとすれば、朝鮮戦争以来の米軍基地があるからだ。

 核戦争が人類存続を危うくすると分かっているならば、被爆で命を失った両市民の尊い犠牲をムダにすることなく、即刻の核兵器廃絶を主張することこそが、“不戦の誓い”をたてた平和憲法と相まって、人類社会の未来に希望をもたらすのではないか。

「松本文郎のブログ」に「残日録」のカテゴリーを新設したのは、3.11がきっかけだったが、(19)で、福島第一原発事故をヒロシマ・ナガサキの戦争被爆と重ねて論じ、核兵器の削減・廃絶の旗振り役で人類社会の平和共存に貢献する責務をもつ国の首相管直人さんが、近く開催のG8において、「脱原発」こそが、世界の正しい選択であると提唱すべきことを書いた。

 ところが、大型連休中にトルコを訪問する安倍首相が、黒海の沿岸都市シノップで計画されている原発の建設事業を日仏企業連合で受注する大筋をエルドアン首相と合意する報道があった。

メルトダウンした核燃料の所在が不明で水をかけて危険な温度上昇を辛うじて防いでいる状況の日本の原発を平気で他国に売るというのは、アベノミクスのメニューかもしれないが、世界のこころある人たちの日本人への信頼を裏切るものではないか。

“安全神話”が崩れた福島第一原発の掛け替えのない教訓を活かすのなら、原発の廃炉・使用済み燃料貯蔵の関連技術を開発して原発運転中の諸国に輸出する方が、おおいに大義名分が立とうというものだ。相手国の政権が欲するのだから構わないという向きもあるが、国の政策に反対の国民の存在を忘れてはならない。日立受注がほぼ確実だったリトワニアの国民投票で、「建設反対」が多数だし、トルコに建設する原発が大事故を起こしたときの国家賠償責任をどうなるのか。

 一国のリーダーの第一要件は国民を安心させることだが、安倍首相には心配がつきまとう。


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安倍晋三首相は5月3日、トルコのエルドアン首相と会談し、両国が原子力協定を締結することで合意した。
2013/05/03 18:43 2013/05/03 18:43


  靖国参拝問題  
                
                                                        2013年4月25日(木)

                             松 本 文 郎

 

新緑の彩りが日ごとに移ろう「ふれあいの森公園」でスケッチを楽しんで、昼過ぎに帰宅した。東海大付属中学の生徒たちも三三五五のグループに分かれ、思い思いのスポットで写生していたので、その3か所で一緒に描いた。彼らはスケッチブック(6号)で私はハガキ画仙紙だから、アッと言う間に描いてみせると、「ホー!」「へー!」などと声を上げてくれた。

 昼食をはさんで3時までに彩色もするというので、昼食のあとにでも、グリーンハウス内の壁に掛けられた「ビオトープ」の画・詩の額(小生の寄贈)をみてくださいと告げ、公園を出た。

 いつものように、第3種ビール「のどごし」と「麦とホップ」(黒)のハーフ・アンド・ハーフをアペタイザーにして遅い昼飯を食べながら、「日中韓必見“靖国神社”徹底解剖・なぜ参拝が問題なのか」をテレビでみた。

 見慣れたキャスターがしたり顔で言う。「家族を守るために命をささげた英霊が祀られる場所にお参りするのは、遺族や国民のごく自然な気持ちではないでしょうか」

 タカ派を自認していた中曽根元首相が公式参拝をして、中国の猛反発で参拝を中止した頃から、靖国参拝問題の論議はかなり深められてきたはずなのに、いまさら、徹底解剖のキャプションの下でこのコメントとは……。

 A級戦犯合祀・分祀/極東国際軍事裁判(東京裁判)/歴史認識・植民地支配/戦死・戦没者慰霊/反日運動と内政・外交問題などについて、さまざまな角度から論議されてきたが、中國や韓国が反発するのは“A級戦犯合祀”と時の首相の客観性を欠く特異な“歴史認識”である。

 A級戦犯合祀は、かなりの日本人にも疑問視されてきたし、沖縄や大陸で戦死した岳父や従兄の家族もそうだ。あの無謀な戦争を始め、負け戦を長引かせた挙句に3百万人もの軍人・国民の無辜の犠牲を生じせしめた戦争責任者と一緒に祀られたい英霊が、一体どれだけあるだろうか。

 靖国神社には吉田松陰や坂本竜馬も祀られているが、国際社会にはばたく近代日本の未来を夢見た彼らは、明治維新後の富国強兵政策により、日清・日露戦争から日中・太平洋戦争に至った軍国主義的な道のりをどう見ていたのだろうか。

 帰り咲いた(?)安倍政権の代議士168名が、春季大祭の靖国神社の渡り廊下に大列をなして進む姿と殊勝な顔は、なんとも胡散臭いものに見えた。

 99歳で逝った叔母(戦死した従兄の母親)が、出征するたった一人の跡取り息子に、「死んだらいけんよ!」と言ったことが、ある年の終戦記念日の中国新聞に書かれたが、それこそが人間として自然な願いの言葉ではないか。

戦後の軍人恩給支給を自分らの手柄のようにして日本遺族会の票を当てにしてきた“族議員”は、自国民のみならずアジア諸国の人びとに非条理で多大な犠牲を強いた戦争をいかに認識しているのか。北朝鮮の“先軍政治”同様に軍部に追従したままの戦時下の政治を反省しているのか。

安倍首相がつい“本音”を漏らさないように手綱をにぎっているという菅官房長官が、アジア諸国に及ぼした戦禍と犠牲を認識していると談話で述べても、通り一遍の決まり文句でしかない。

だが私たち国民も、戦争責任をA級戦犯や天皇に押し付けて事足れりとしてなならないのだ。

ナチスドイツが犯した戦争責任についてドイツ国民が一丸となって懺悔し、同じ過ちをしないことを真摯に取り組んだ延長線上に,人類社会の実験とでも呼びたい“EU”があると想う。

 経済制裁で末期的な様相の北朝鮮がみせる米国への強硬な敵対姿勢に、国内消費石油の80%を占めた米国からの輸入禁止で始めた太平洋戦争開始の暴挙が重なるのである。

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2013/04/25 18:12 2013/04/25 18:12


  歌の力 
                        
                                                     2013年4月1日(月)
 
                                                         松 本 文 郎

 

東日本大震災から2年が過ぎたが、この「残日録」をブログのカテゴリーに新設したのはその
時だった。長期連載中の『アラブと私』の“寄り道”で書くにはあまりにも大きな出来事だった。

 第1~6回は、近隣・浦安市内の被災状況や福島第一原発事故を巡る政府対応のテンヤワンヤを書き連ねた。(挿入写真はすべて編集担当森下女史に負う)

 第7回(2年前の4月1日)では、震災のため中断されていた特別養護老人ホーム「愛光園」訪問ボランティア「歌の花束」の月例コンサートの再開に触れている。

「歌の花束」は、義母(2年前は百一歳)が入居されていたS女史が主宰され、会の名は、国民歌謡『春の唄』の“ラララ 赤い花束車に積んで…”の“赤い花束”を“歌の花束”にしたもの。

いつも、みんなで最初に唄う歌だが、被災した「愛光園」の復興を励ます歌として新しい歌詞を加えることになり、“ラララ 歌の花束 楽しく唄い/春が来た来た 海から街へ/愛の光が満ちてる園の/若いみんなに 春が来た”との拙詩の部分は、『愛光園の歌』になっている。

『春の唄』の方は、歌ができて50数年後に起きた阪神淡路大震災の被災者への大きな励ましとなり、震災2年後、作詞の喜志邦三の歌碑が詩人所縁の西宮に建立されたという。

 拙詩に曲がつけられた歌は、NTT社歌『日々新しく』(社内公募)、浦安市合唱連盟創立20周年記念歌『みんなの歌』(公募)、邦楽山田流筝曲(合唱付き)、歌曲『早春浅間山』、ポップスの『ふるさと同窓会』他数曲あり、人びとのこころを繋ぐ“歌の力”の一端を担える喜びは大きい。

 歌の力といえば、東日本大震災の被災地・被災者の復興の応援に多くのミュージシャンたちが駆けつけ、海外各地で演奏会が開かれた。一瞬にして肉親や家財を失った被災者の苦悩を癒したり励ます力がはたして歌にあるのかと訝る気持から、4月開催予定の浦安男声合唱団定期演奏会を中止したが、半年ほどが経ち、やや落ち着いてきた被災地の訪問コンサートで歌手らと一緒に『故郷』を唄う被災者の表情から、“歌の力”が決して小さくはないことを感じた。

思いのほか甚大だった浦安市液状化被災の復興を祈り、定期演奏会に代わる「特別演奏会」を10月に開催。最後のステージで客席と一緒に、『故郷』を唄った。失った“ふるさと”への想いとその復興を祈る歌声は大きなこだまとなり、ホールに響きわたった。

 この『故郷』と同じように、復興支援のコンサートでの定番になったのが、『花は咲く』である。

このチャリティーソングは、「NHK東日本大震災プロジェクト」のテーマソングとなり、国内だけでなく国際放送でも、空いた時間帯で随時流されている。

 作詞、作曲・編曲は共に仙台出身者で、被災地にゆかりのある歌手・タレント・スポーツ選手らが交互に唄う「《花は咲く》プロジェクト」は、楽曲(印税全額が義捐金として被災地自治体へ寄付)がカバーされ、コンサートで唄われ、テレビ・ラジオにオンエアされるたびに、義捐金が増える仕組みになっている。

 この歌は、NHK総合「“花は咲く”スペシャル~一つの歌がつむぐ物語」や昨年の「紅白」でも唄われたが、(唄:西田敏行他と花は咲く合唱団、ピアノ:辻井伸行・指揮:作曲者菅野よう子)身近では、妻のお千代と一緒に参加している「童謡を歌う会・浦安」のクリスマスコンサートや先月の「歌の花束」例会でも、入居者のみなさんと元気よく唄った。

「花は咲く」を唄う姿を撮ったビデオを編集してつなぎ合わせ、みんなの心を結ぶミュージックビデオを制作する「《100万人の花は咲く》プロジェクト」が進行中で、3月28日現在では、32、440輪の花が咲いているという。 大きな《「歌の花束》ができるといいネ!


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2013/04/02 14:28 2013/04/02 14:28


出逢いと別れ 
                    
                                                         2013131日(木)
                                                            
松 本 文 郎

 

 “さよならだけが人生だ”は、敬愛する井伏鱒二による漢詩「勘(勧)酒」の名和訳とされている一節だが、因みに、郷土福山の「ふくやま文学館」の主要展示品は井伏鱒二作品である。

 この五言絶句は唐代の詩人・于武陵の作で、勘君金屈卮(この杯を受けてくれ)/満酌不須辞(どうぞなみなみ注がしておくれ/花発多風雨(花に嵐のたとえもあるぞ)/人生足別離(さよならだけ人生だ)という、無常な人生の大切な刻に親しい友と酒を酌み交わしている、心に響く切ない詩だ。新年6月に傘寿を迎えるが、“サヨナラだけが人生ダ!”の想い一入の日々である。

 昨年の暮れ、広大付属福山第1回生の親しい友人平川公義君(東京医科歯科大学名誉教授)の急逝に愕然としたばかりの去る25日、NTT日比谷同友会の大先輩で絵画サークル「彩友会」の仲間だった関口良雅さんの訃報に接した。昨夏の展覧会の打上げで杯を酌み交わして歓談した人が半年もしないうちに他界されたのである。大正91月生まれで、享年93。

 洗足池の近くに住まわれ、年1回の「彩友会展」にはいつも、散歩がてらの池畔でのスケッチ作品を出されてきたが、飄々としてこだわりのないお人柄がにじむ爽やかな絵に共感していた。

“打上げ”の席では、「私の残日がいつまでかは天命でしょうが、関口さんのお元気さにあやかりたいですネ」と言った私に、「食道がんの大手術の後ですっかり元気になった松本さんのように、ボクも楽しく絵を描きながら生きてゆきたいので、ヨロシク!」と、朗々とした声で応えられた。

 日本聖公会東京教区・三光教会で催された前夜式の主教の話(教話)で、5日前の日曜礼拝に元気な姿でみえたヨセフ関口良雅さんを天国へ見送るのは、今も信じられないことだと言われた。

二年前に最愛の奥さんに先立たれてから一人住まいだった関口さんが、湯船で亡くなられていたのを発見したのは、近くに住む甥御さん(喪主)だったという。 

 関口さんは、発展途上国(東南アジア・中近東・アフリカ諸国)の電気通信網構築のコンサルタント事業会社(1960年創立の日本通信協力(NTC)の現社名は日本情報通信コンサルタント)の社長を務められたが、事業全体を通信事業者の業務ソフトウエア開発に移行させて事業規模を飛躍的に拡大発展した中興の祖でも、引退後の趣味の仲間や教会の主教・信者などに話すことは一切なかったようだ。

 電電公社の電気通信研究所に勤めた若いころ所内にキリスト教信者の会をつくったと紹介した前夜祭の主教は、「聖書のむつかしいことはよく分かりませんが、人々が幸せで平和に暮らすことを説かれていると信じています」との鋭い示唆を、関口さんからさりげなく与えられたと告げた。

9・11の翌夏の展覧会打上げの席で、「ブッシュ大統領が、“悪魔のイスラム勢力に報復する十字軍だ”と叫んだ背後にキリスト教原理主義者らがいますが、キリストの教えの真逆ですね」と言った私の眼を見つめて、肯うように微笑んだ関口さんだった。

 NTC社員でイラン駐在のUさんには、1969年のテヘラン(イラン電気通信研究所・建築基本計画の技術指導で3か月滞在)で出会い、貴重なアドバイスをもらったお蔭で無事に任務を終え、郵電省の招待で、建築家としての夢だった古都イスファハンとペルセポリス遺跡への旅ができた。      Uさんが昨年の暮れに亡くなられたと聞いたのも、関口さんの前夜祭だった。イランやイエメンの電気通信網構築のコンサルタンとして豪快に活躍した氏の在りし日を偲んでいる。

 昨秋の京大建築学科卒業55周年同窓会のことは『文ちゃんの浦安残日録』に書いたが、5前の参加者23名が今回は13名に減ったのも、平均寿命を迎えた世代というほかない。

この世に“サヨナラ”を云うまでの日々を大切に生きてゆきたいと願うこのごろである。



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2013/02/01 19:10 2013/02/01 19:10


「共感」を考える研究会 
               20121228日(金)

 

 松 本 文 郎

 

「松本文郎のブログ」の編集者・森下愛理沙女史のお誘いで、標記の研究会に二回参加した。

  初回の参加は、放送大学・文京学習センターで開かれた「第6回公開研究会」で、妻のお千代も同席させてもらったが、このユニークな研究会は、仲島陽一氏(東洋大学・放送大学講師、哲学)と山崎広光氏(朝日大学准教授、倫理学)の肝いりで2007年に発足し、毎年一回の公開研究会を開いているという。

配布資料に書かれた《共感を考える研究会とは》(遠藤能行氏)を一部引用すると(文責筆者)、“混迷する現代社会状況の中で人間は幸せになれるのか、宗教で救われるのか、芸術ではどうか、といった疑問に、原初的な人間の感情「共感力」からアプローチして、さまざまな社会システムを新しい視点「共感」から見直してゆき、共感(共感力)を通して感受する事象を考えることで、人間の求める根源的な欲求の「幸福」を得るにはどうすればよいかを考える集まりとされる。

「共感」は極めて幅広く使われている言葉だが、国語辞典に現れたのは戦後だという。仲島陽一氏の『共感の思想史』に、「確かにいえることの一つは、多くの思想家や理論家が「共感」の問題を重視したこと」とあるそうだ。

 第6回の文学面から「共感」を考えた研究会の講演は、「ヒューマニズムと共感 渡辺一夫を通して」(木原太郎氏・代々木ゼミナール講師)と「ハックルベリー・フィンの反『回心』(上記の山崎広光氏)で、仲島陽一氏の司会進行と質疑応答があった。

 二回目の参加は、時間的な制約で十分な討論ができなかったとして7月に開かれた臨時例会で、4月のテーマに関わることと共感に関わる自由討論があり、筆者も、「《共感研》に共感して」と題して、自由討論のなかで小論を述べる機会を与えられた。

「共感して」と言っても、その概念規定(日本語・英語ほか)の差異、各人の言葉の用法・限界などもあり、広辞苑の「他者の考えや主張を、自分もまったく同じように感じ、理解する」ことがいかに難しいかを思い知った自由討論だった。

 二度参加した研究会の参加者の真摯さと熱心さに“共感”したが、しばらく経って仲島氏から森下女史への伝言があり、来春の研究会で「テーマ発表」をしないかとの打診があった。

 世の中の人々が「共感」という言葉を頻発しているのに好奇心を煽られはじめていた筆者は、二言返事で快諾して、早速、その準備にとりかかった。

 それは、親しい人々との定例の二つの集いで、「共感」について話をして反応をみることだった。

まず英語圏ではと、「Ginny(米国女性)と英語でお喋り・討論の集い」の場で話題提供をしたが、「Sympathy」の訳語は「共感」だが、筆者が思っていたように、「Empathy=感情移入」と分かちがたい面があるとGinnyさんも指摘。ただ、「共感」のニュアンスは積極的なものなのに、「同情」の訳のネガティブな感情もあると聞いて驚いた。日本人男女との質疑討論もよかった。

他は、「こぶし会」(NTT本社OBの月例会)の第322回で、「共感について」と題して話をし、有意義な質疑応答もさせてもらった。(1時間半)。この会では毎回、会員2人がきわめて広範囲な話題を提供し、論議してきたが、「共感について」は、はじめての話題だったようだ。

 人類発祥の原初からの“人間の感情”とされる「共感」が、混迷を深める人類社会の「幸福感」の欠乏状況からの脱出、さまざまな紛争や戦争の回避に重要な役割を担うと強く感じる筆者は、人類が原初に目覚めたと思われる「自然信仰的な宗教心」や「絵画・音楽」で感受(「共感」)したであろう「幸福感」について、小論をまとめてみたいと考えている2012年の年の瀬である。


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2012/12/30 18:59 2012/12/30 18:59

≪付録≫大学卒業55周年同窓会『栞』
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2012/11/07 18:33 2012/11/07 18:33

大学卒業55周年同窓会               
                                                 201211月3日(土・祝

 

「京大建築学科卒業55周年記念同窓会」で、久しぶりの京都を妻の千代子と訪ねた。彼女とは、郷土が誇る教育家森戸辰男が、“敗戦日本の復興は教育だ”として創設した広大付属福山校の第1、2期生で、私の1年あとに同志社へ入って、3年間の大学生活を共にした。

卒業して5年毎の集いの35周年だけは、食道がん手術を受けたばかりの病床にいて参加できなかったが、次の佐渡の同窓会では、食道がん手術の戦友Y君(奈良女子大学名誉教授)と再会し、互いの再生を喜び合った。

 食道全摘出で再びのいのちと新たな心境を得てからの5年間、半生を省みながら、第二の人生の生き方を模索していた私は、10年ぶりに会う学友らのことを知りたくて、同窓会幹事諸兄に各自の近況や所感を書いた文集を編纂・作成・配布し、事前に読んで歓談のよすがとすることを提案し、その担当を買って出た。

20数名の原稿(家族・旅行などの写真入り)の割り付け、DPEショップの店頭のコピー機を長時間占用しての作業は、生半ではなかったが、『栞』と名付けた冊子は好評で、担当をつづけて今回が4冊目だった。

 40周年では、筆者の元職場の宿泊施設「奈良・万葉荘」を借り切る段取りもしたが、その時点で過去最大の参加者で賑わいだ。

 前回の50周年では、第1回に出ただけでずっと欠席していた黒川紀章君からの寄稿はなく、参加の連絡だけがあった。だが、『栞』の割り付けを終える矢先に急逝が報じられたので、朝日の朝刊記事と「評伝」を収録して追悼の意とした。

 5年前と同じ南禅寺の老舗料亭「菊水」の昼食会参加者は学友11名と夫人2名で、一泊した前回の20名(夫人2名)からは大幅減だったが、亡くなったのは2名で、都合がつかない2,3のほかは、がん闘病、リハビリ、夫人の介護などで参加できないと幹事へ連絡があった由。

 京都に向かう新幹線の窓に冠雪が目映い富士を見た好天に恵まれ、南禅寺界隈にも、心地よい陽射しとさわやかな風の晩秋があった。

宴席は、「菊水」の美しい庭を望む座敷に高齢客への気くばりの低い籐椅子とテーブルがしつらえてあり、正午過ぎから三々五々に集まって談笑するうちに会は始まった。11回目の集いの場は、喜寿を超えて晩年に向かう学友らの和やかな話声と穏やかな笑顔で満ちていたが、近くの席からすすめられるビールや酒に、無頓着に杯を空けて応じているのは私たち夫婦だけだった。

 お千代は、30周年の嵐山「嵐亭」で、京大総長も務められた前田敏男先生(高知いごっそう)の前に座り込んで日本酒を注ぎ合ってから、亡くなられるまでの十数年、絵入り手書きの年賀状を戴いたのが懐かしい。夫人同伴を旨としながら最多は5人参加のなかで、彼女は皆勤だった。

 開会のあいさつは、京大名誉教授のM君が、半世紀も教員をしてきたクセで講義調になったと言いながら、過不足のない行き届いた話をした。彼の寄稿文には、緑内障・関節炎のほか、いくつかの持病診断があると書かれていた。

 各人のスピーチでは、現役時代に一途に仕事に取り組んだ頃とは打って変り、円熟した心境で自在に生きる日々や、障害や病気と穏やかに向き合う境涯などが語られ、入学時30名から物故した12名も偲んだ昼間の宴は、集合写真の撮影のあと、お開きとなった。

「菊水」をすぐ近くの琵琶湖疏水記念館を訪ね、1988年の開館前の建設管理を担当したK君の案内で120年前の開鑿工事のジオラマなどを見学したあと、明るい夕日がさすテラスで、インクラインから西に伸びる水路を眺めながら、しばらくは名残りの談笑がつづいた。

 今回を最後に定例の同窓会はなくなったが、なにかの機会に集うことを願いながら散会した。


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2012/11/07 17:54 2012/11/07 17:54

自然と人間                    2012年10月1日(月

 

夜半、関東地方に来襲した17号台風が吹き荒れた風雨の音は凄かったが、一転、今朝の日の出前の空は、雲一つなく晴れわたり、“台風一過”の清々しい光景だった。

昨年の台風で倒木や傾いた樹木が出た「ふれあいの森公園」にそんな被害は見当たらず、猛暑が続いた先日まで水遣りに通った花壇では、茎がひょろひょろの千日紅以外の花々が、ちゃんと立っていて、そよ風に揺れていた。

 昨夜は見られなかった中秋の名月が、西の空に白くくっきり浮かんでいる。

 森の木立ちの上に暁光が広がりはじめて明るさをます空に、大きな月はしだいに薄れながら、

湾岸道路と国道357号線が見明川をまたぐ橋の上に懸かっていた。

 毎年やってくる台風の通り道のような日本列島は大陸プレートの真上にも位置している。

 台風は、ハリケーン・サイクロンと共に世界各地で猛威を振るい、甚大な被害を出しているが、

人間の力で制御できる代物ではなく、ひたすら被害を小さくするしかない。

 地震と津波のセットは、人的・物的被害を極大化するもっとも恐ろしい自然災害をもたらす。

福島第一原発の事故で、スリーマイル島・チェルノブイリの事故ではあいまいにされてきた核エネルギーの制御が不可能に近いことが明らかとなり、地震の巣の上に数多くの原発を造ってきた原発行政の安易さが問題になっている。

 わが国の原発行政と原子力村の実態などについては、この残日録の(5)(13)(19)(20)に述べてきた。

3.11の翌月に掲載した(13)で、地震・津波・台風・洪水などの巨大な自然力を、人間が腕ずくでねじ伏せる考えは、西洋近代の科学技術思想と無縁ではないと書いた。  

核開発に熱心な科学技術者たちは、人工的に造りだした核エネルギーを、自然力よりも制御し易いものと考えきたようである。

現代の科学技術は、人間が古代から抱きつづけてきた偉大な自然力への畏怖や謙虚さを忘れるまでの、めざましい発展をしてきた。

数百万年前の人類発祥から原始・古代を経た中世までは、自然の力(人間を超える力)の存在を「神」として崇めてきたが、好奇心と探究心を抑えきれない先人らが、命がけで「神の世界」からの脱出をめざしたのが、近代科学技術の始まりといえるだろう。

一方で、近代科学技術の所産である「進化論」や「遺伝子科学」よりも、旧約聖書・創世記の人間誕生神話を信じる人たちがいて、さまざまな、宇宙観、自然観、価値観が入り乱れている。「神」への畏怖をもたず、人間の欲望を満たす物的豊かさを一途に求める経済活動は、地球上の資源・環境を枯渇・汚染させながら、弱肉強食の競争社会の論理で突き進んでいるようだ。

この人類文明の混迷の発端は、人智を超えた自然力に「神」の冠を被せたことではなかろうか。

「神」を信じた統治者たちが、「神」の名の下に自分たちの欲望を追及し、民衆の欲望を制御してきたのに対して、「神」を信じなくなった統治者と民衆は、「神」が支配した人間社会に革命を起こし、科学技術の力で自然を制御・支配することに夢中になったのだ。

自然の一部である太陽の核エネルギーを科学技術の力で実現した最初があの忌まわしい原爆で、「プロメテウスの火」と譬えられ、原発にも敷衍されているのは、その所以である。

宇宙や自然に、「神」という冠を被せて「意味」をもたせた原始宗教的世界観と、宇宙や自然には本来、「意味」がないとする自然科学的世界観とが、互いに、敵愾心を燃やして対立している

限り、人類社会は破滅への道を歩むことになるだろう。

 人間は、「自然」自体にも、敵愾心ではなく、畏敬と謙虚さで対してゆかねばならない。



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2012/10/01 16:26 2012/10/01 16:26

67回目の終戦記念日                
                                                        2012830日(木

 

開催中の「日比谷彩友会展」に出品した「向日葵」を描いていて思い出したのは、縁故疎開で世話になっていた父の実家で聞いた“玉音放送”だった。

大きな農家の主だった叔父が営むタバコ耕作の手伝いで、早朝の畑で採取した葉を乾燥小屋の傍の木陰で縄目に編み込んでいた私の耳に、クマゼミの騒々しい鳴き声にかき消されるような不鮮明なだみ声が大きな栴檀(センダン)の下に置いたラジオから流れ、日本が戦争に負けたことに耐えるようにと、天皇陛下が訴えていた。

“生き神様”と崇めた天皇陛下のために、一億国民が本土決戦で玉砕も辞さないと教えられていた私たちは、あまりにも唐突な敗戦の詔勅に唖然とするだけだった。跡取りの一人息子が戦死して間もない叔父夫婦と従姉の想いを察するには、幼すぎる少年の私だった。

乾燥小屋の周りには、燃えるような色のカンナと向日葵の一群が立っていた。国民学校5年生の少年には、悔しい想いよりも、小学校舎を焼いた焼夷弾爆撃や八幡様の社の高みを低空飛行したグラマンの機銃掃射が終わって、ホッとしただけだった。

 あれから67年。灰塵に帰した敗戦後の日本の復興は新しい教育によるほかないと、森戸辰男が故郷福山に創立した広島青年師範(後の広大)付属福山校入学(昭和22年)。戦争中とは対極的な自由・民主主義教育の中学・高校生活は、先輩のいない気安さで、音楽部、美術部、文芸部、放送部などを創設し、多彩な文化祭の企画・実行委員などで自由闊達な青春時代を謳歌した。 

一級下のお千代(妻)との出会いも音楽部(昭和23年)だが、岳父は沖縄で戦死しており、早く戦争を終わらせていたら、子供4人を女手一つで育て上げた母親の苦労もなかったのだ。

“玉音放送”前の「24時間」のノンフィクション『日本の一番長い日』には、戦争を終わらせられるかどうか、徹底抗戦を叫ぶ軍人たちとのいたずらに寝た子を起こして

瀬戸際のせめぎあいが描かれている。

 執筆した半藤一利の胸にあったのは、「戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは大変だということを知っておいたほうがいい」との思いという。同じ著者の『いま戦争と平和を考える』の「戦争責任」の章の見出しに、「占領期が終わった後に出てきた資料を見ると、やっぱり天皇は相当本気で戦争のことを考えていたというのがわかります。天皇だけじゃないですか、亡くなられるまで戦争責任を感じていたのは」とある。天皇の戦争責任については、対談集『生ききる』のなかで、瀬戸内寂聴・梅原 猛が、「天皇は退位すべきだった。天皇がどうしても必要なら、どんなに幼くても皇太子がなればいい」と異口同音に述べている。

 毎年8月15日の政治家による靖国参拝が中・韓両国の反日感情を再燃させてきたが、今年は、民主党の閣僚2人が参拝したので唖然となった。近隣アジア諸国の抗議への政治的判断で、参拝を中止した中曽根元首相の後も、参拝する政治家があとを絶たない。

 日露戦争に勝った勢いの日本が、植民地主義の欧米列強のアジア進出に伍して朝鮮半島と中国大陸の民族自立を踏みにじった暴挙が、天皇を冠にした軍人たちの蒙昧によるものだったとしても、1億国民が火の玉となって戦争遂行に邁進した事実と参加責任を忘れてはならない。

 戦勝国が敗戦国を裁いた「東京裁判」の国際法上の是非論はあるが、国の内外に無辜の犠牲者を出した戦争責任者(日本人から見た)と無謀な戦争の英霊たちを合祀する靖国神社が問題なので、家族を守る一心で、命じられた特攻に散った若き英霊たちに申し訳が立たないと考える。

 政治家にポピュリズムは付きものだが、東京都知事の尖閣諸島買い上げ、退任近い韓国大統領の竹島上陸などは、いたずらに、領土問題のナショナリズムに火をつける愚行というほかなく、こんな有様では、太平洋戦争で死んだ国の内外の数百万の人びとの魂は浮かばれないのである。

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2012/08/30 17:04 2012/08/30 17:04

ピアニスト宮谷理香さんのコンサート             
                                                          2012年8月2日(木

 

 後援会の案内で、新CD発売記念のピアノ・サロン・コンサート(731日・ヤマハ銀座コンサートサロン)を拝聴した。

 80人限定でのよい席を得たくて、世界のブランド店がひしめく銀座で猛暑の余熱がゆらめく歩道を、妻のお千代とわき目もふらずに歩いた。

 ヤマハに着くと、クウエートで家族共々に仕事した戦友の一人橋本孝徳夫妻に会う。二人とは、BHNテレコム支援協議会・チャリティーコンサート出演の理香さんが、NTTフィルハーモニー管弦楽団とショパンのピアノ協奏曲を共演した昨春以来の再会だ。

ホールのロビーに、演奏曲目を二分するドビュッシーとショパンの自筆楽譜のコピーの展示がある。ドビュッシーがペン先を踊らせた筆致の美しさに感嘆し、ショパンが推敲で抹消した箇所の生々しさに見入る。

 第1曲目の武満 徹『雨の樹 素描』の数小節の音を聴いた途端に、鳥肌が立った。

まるで、“水琴窟”と化したコンサートサロンで、次々に落ちてくる水滴のえも言えぬ神秘さに身も心も包まれたのだ。なんというファンタスティックな音の連鎖であろうか。“魂の演奏”というほかに言葉がみつからない。

 理香さんの手短な紹介を残日録(31)「東 誠三とリスト」の末尾に書いたように、ウイットとユーモアに富んだエッセイやMCの見事さには、唯々、感心するばかり。

 東 誠三さん(中学同級の友人陽子さんの子息)のサロンコンサートでも同じだが、理香さんが語る演奏曲目の楽想やエピソードのMCには、親しさと楽しさがいっぱいだ。

『雨の樹 素描』の作曲が、大江健三郎著『レイン・ツリー』からインスピレーションを受けたこと、ドビュッシーに『金色の魚』を作曲させた「金色の魚が描かれた蒔絵」に、ブリジストン美術館の「ドビュッシー展」で対面したことなどを聞きながら、その“オンリーワン”の演奏に、並外れた読書や美術鑑賞で育まれた感性と知性が満ち溢れているのに感じ入った。

 ドビュッシー『水の反映』では“光の妖精”となって水と戯れながら飛びまわり、武満の曲では“水の精”となって「水琴窟」で遊ぶ、理香さんの繊細・大胆で自在な演奏に揺蕩っていた。

二つの“水の曲”の楽想と音色の差異が鮮やかに弾き分けられていて、いまは亡き武満 徹と吉田秀和が理香さんの『雨の樹 素描』を聴かれたらどんなことを語られるだろうと、想像したくなる見事な演奏だった。

前半のステージは、『雨の樹 素描』とドビュッシーの5曲で、後半は、ショパンの5曲だった。

いずれもすばらしい演奏だったが、それぞれのステージ最後の『喜びの島』と『幻想ポロネーズ』

は、まさに圧巻だった。アンコールに応じた3曲の熱い演奏も、聴衆のハートにしかと届いた。、

敬愛するショパンと対話するように『幻想ポロネーズ』を弾く表情や体の動きに眼を凝らす私に、理香さんにはスラブの血が流れていると幻想するなにかが感じられた。

先のチャリティーコンサートの印象を書き送って恵与された『理香りんのおじゃまします!』

には、ザルツブルグのセミナーで彼女の人生を変える出逢いをしたヤシンスキ先生に、「ショパンコンクールに通用するエチュードです」と言われたと書かれているのも、日本人離れしたスラブ的音楽性があったからではなかろうか。

 演奏会後のロビーで求めた新CDRika Plays FantasiesRain Tree(樹)』に、“お千代

さんと文ちゃんへ”のサインを戴いた。ヤシンスキ先生との出逢い3年後、ショパンコンクール5位の栄冠に輝いた理香さんのこの新CDを、ぜひ、求めて聴かれるようにお勧めしたい。




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2012/08/06 12:14 2012/08/06 12:14

 

 「在日本韓国YMCA」の場所               2012年7月25日(水



  6月3日付けの前回、“「残日録」の執筆遅滞は体調ではなく、諸事繁忙のせい”だと書いたが、はや、2ケ月近くが経ってしまった。「がんキラーT細胞」らが元気なお陰で、78歳老人は相変わらず諸事繁忙なのである。

洪恵貞さんのチャリティコンサートに誘ってくださった「松本文郎のブログ」編集者・森下女史から、在日本韓国YMCAが建っている所は朝鮮3.1独立運動にとって重要な意味をもつ場所と教えられたので、同館の資料館リーフレットを抄記しておく。

3.1独立運動はロシア革命から2年の1919年3月1日、京城・平壌など朝鮮各地

で起きて6ケ月続いたとある。その前年、4年間におよんだ第1次世界大戦が終わり、アメリカ大統領ウイルソンが講和原則の一つに提唱した「民族自決主義」に、独立国家を持たない民族が励まされて、在日朝鮮人留学生たちは、国内外の指導者との情報交換や国際情勢の分析から、民族の独立運動に最適の時期と判断する。

  3.1前の2月8日の朝、東京の独立運動の中心メンバーらが、在日本東京朝鮮YMCA(今の在日本韓国YMCA)に集合して、独立宣言文、決議文、民族大会招集請願書を、日本の貴族院、衆議院の議員、政府要人、各国中日大使、内外言論機関宛に郵送した。  午後、講堂に結集した留学生数百名は「朝鮮留学生学友会総会」を開き、「朝鮮青年独立団」を結成する緊急動議を発し、代表11名の署名入り独立宣言文が満場一致で採択されたが、乱入した警察官たちによる指導メンバーの一斉検挙で、代表9名(署名後に日本を脱出していた2名を除く)は全員逮捕された。その後、留学生の多くは朝鮮の故郷に戻り、独立運動の展開に積極的な役割を果たして、中国の5.4運動にも影響を与えることになる。

 この件で厳しい内乱罪を適用しようとした検事の論告に、朝鮮独立を理解する日本の知識人と卓越した弁護士の努力で、出版法違反の微罪を勝ち取ったという。厳しい不幸な時代にあって、YMCAの金貞植・白南薫両総務が、吉野作造・内村鑑三ら正義と平和を求める日本人との間にすばらしい交流があったと記されている。(抄記了)中国の5.4運動には、日本へ亡命していた孫文や留学生だった周恩来が関っているが、民族独立運動を理解する多くの日本人の知己と支援を得ていたことは、うれしい史実。

 韓国ではいま、朴元大統領の長女朴槿恵さんの大統領選挙の出馬宣言が話題になっているようだ。朴元大統領は日韓基本条約を締結して得た資金でインフラを整備し、日本を模範とした経済政策による国家主導型の産業育成と経済開発で実績を上げ、今日の繁栄の基盤をつくった人物で、「日本の黒幕」児玉誉士夫も関与したとされる。 朴政権は、軍事独裁・権威主義的体制で反政府弾圧を徹底的に行ったが、光復節祝賀の銃撃で夫人を亡くし、釜山・馬山の大規模な民主化デモの折に、側近のKCIA部長に射殺された。ミャンマー民主化運動の星アウンサンスーチーさんは、独立運動指導者「ビルマ建国の父」アウンサン将軍が暗殺されてから長く続いた軍事独裁政権を変える、非暴力民主化活動でノーベル賞を受賞した。軍事政権と外交関係と経済援助を続けてきた日本は、彼女の軟禁解除に一定の仲介をしたようだが、彼女が大統領になる日が待ち遠しい。「脱北者を支援する会」のチャリティーコンサート会場の歴史抄記からいささかの脱線。 


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2012/07/26 11:01 2012/07/26 11:01


     ピアニスト洪恵貞さん            
  
                                                      2012年6月3日(日

 

前回、前立腺がん検査の顛末を書いてから、はやくも4か月がたってしまった。この

残日録の執筆遅滞は、体調ではなく諸事多忙のせいだが、まめに書くように努めたい。

MRI画像に白く写っていた前立腺・リンパ・骨盤のがん判定に、3回目の生検を勧めた担当医師に、「生検でがんと分かっても、享受している楽しい生活の質を落さずに生ききりたいので、薬治療法もなにもやるつもりはありません。PSAの変化だけは知りたいので、血液検査はつづけてください」と告げた私は、元気に日々を過ごしている。

2月半ばと5月末の2度の検査では、MRI検査を受けるきっかけとなった30.36から、26.70 26.34と減少している。こうした増減は、この7年間で2、3度はあったが、減ったり横ばいなのは、活性化した「がんキラーT細胞」たちがガンバッテくれているからだろうか。

 30.36の数値でMRIと骨シンチを勧めた医師にPSAの値の変化をどうみているかと尋ねると、「増減はありますからネ」だけで、「今度はCTをやってみましょうか」だ。

私はムッとして、「生検でがんと判定されても、なにもしてもらいたくないし、CTによる放射線内部被ばくを、受けたくないのです」と応え、実に検査熱心な医師は、「数値が上がってきたら、またご相談しましょうヨ」と言った。

喜寿老人は、絵画(描き)/音楽(唄い)/文芸(詩文を書く)で元気にしていれば、検査漬けや抗がん剤の副作用で体調を壊さずに、天寿をまっとうできると信じている。

今日も、すばらしいピアノ演奏を聴かせていただき、「がんキラー細胞」たちが活発になるのを実感したので、書きとめておきたい。

 このチャリティー・ピアノコンサートは、私のブログの編集者・森下女史である。

「脱北者を支援する会」主催、「統一日報の」後援で、猿楽町の在日本韓国YMCA

ホールで開催された。洪恵貞さんは、アメリカを中心に活躍しているピアニストで、

ミズーリ州立大教授で同州音楽教育者協会の副会長を務め、後進を指導している女性。

 演奏曲目はハイドン・ソナタ(変イ長調)/ シューマン・幻想小曲集12/ リスト・スペイン狂詩曲で、魅力的で親しみのあるピアノ曲ばかり。平土間の前方中央に据えたセミグランドピアノを囲むように椅子を並べたサロンコンサートは、森下さんの進行で始まった。

洪恵貞さんがおもむろにハイドンのソナタを弾きだしてまもなく、このピアニストがいかに優れた演奏家であるかが感じとれた。ピアニストにいちばん近い席に座った妻のお千代も、鍵盤をかろやかに往き来し跳躍する指先に熱いまなざしを注いでいる。

10日ほど前から気管支炎を患っていた私は、いつ咳きこむかを心配しながら席に着いたが、3人の作曲家それぞれの楽想を見事に弾き分けた熱演にすっかり心を奪われて、咳は一つも出さずにすみ、スペイン狂詩曲が終わった瞬間、「ヴラ ヴァ!」を叫んだ。

 控え目にみえるお人柄の内面には、豊かな音楽性と凛とした精神性が秘められていて、ほんとうに感動的なコンサートだった。惜しむらくは、かなり古びたピアノが、狂詩曲の激しい鍵盤の連打に耐えきれないような悲鳴をあげていたことだ。

 もっと多くの聴衆を集めた東京文化会館小ホールで、立派なグランドピアノだったら

どんなによかったかとの強い想いと共に、ホールをあとにした。    (続く)

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2012/06/17 17:29 2012/06/17 17:29