助言・励ましに感謝!
                         

 

2012年2月x日(x)

「前立腺がん検査」の顛末を書いた前2回の「残日録」のブログ掲載直後から、多くの方々から助言・励ましを戴いた。ありがたいことである。

 手術、放射線、抗がん剤、ホルモン療法などを受けられた御当人・夫人からのメールが相次ぎ、この病気の仲間がいかに多いかを知らされた。

 MR検査の映像に白く写っている前立腺・リンパ・骨に、がんの疑いがあると云われてすぐ受けた全身の「骨シンチ」で、明らかな骨転移を疑う異常集積はないと診断され、まだ、深刻な病状に至ってはいなかろうと思った。

 だが、泌尿器科では、MR・骨シンチ検査の診断結果を口頭で伝えられただけなので、セカンド・オピニオンを聞こうと、19年前の食道がん手術の執刀外科医を受診した。いのちの恩人であり、以来、なにかと相談相手になってくださっている。

 医師は、二つの検査の画面データ・コピーを私に渡して、相談に応じてくださった。

その概要は以下である。

1)最近のMR検査は精巧でCTよりも精度が高いから、“がんの疑い”は妥当だろう。

2)骨シンチでは、MR検査で指摘された左臼蓋・両側恥骨結節部もふくめ、明らかな

  骨転移はないようだが、頚椎などに転移すると、あなたの知人のように首の神経を

  侵されて大変なことになる。

3)骨盤へ転移したがんはそんなに早く進行することはなく、ホルモン療法で天寿(?)    

  を全うできるだろう。 

4)高齢者には、手術より、ホルモンなどの薬治療法を施すのが普通で、ホルモン療法

  の説明書に書いてある副作用は、めった起きるものではない。

5)どんな治療方法にも患者の同意が必要で、患者自身の生き方に医師は立ち入れない。

6)喜寿を迎えた松本さんが、享受している生活の質 ( QOL)を低下させない生き方を

  選ぼうとされているのは、いかにもあなたらしい。

7)天寿には、かなり時間があるでしょうから、いつでも相談においでください。

 食道がん手術で得た再びのいのちに感謝し、定年退職後、<唄い><描き><詩文を書く>ことで元気な日々を過ごし、成果をボランティア活動にも生かしていることや、

19年続けている「文ちゃんの全身ストレッチ」・栄養バランスのよい食事・適度な運動にもかかわらず、またがんになって死を迎えるのなら、それが寿命というものだろう。

 折りしも、「がんペプチドワクチン」というものを、NHK“あさイチ”で知った。

 人間のがんに対する自己免疫の仕組みは、樹状細胞ががん細胞表面のペプチドを見分け、キラーT細胞にがん細胞攻撃を指令するとされるが、攻撃力よりもがん細胞の増殖力が上回ると負けてしまう。

 「ペプチドワクチン」には、いろいろながんに対応する“テーラーメイド”があり、

それを定期的に注射したケースでは、余命2ヶ月と診断された小細胞肺がんの治療で、がんが小さくなったり進行が抑制され、一年半経過したいま、抗がん剤治療で失われていた味覚・食欲が戻り、元気に日常生活を送っているなどの事例が紹介された。

 わが国でも保険診療認定手続きが進行中で、米国医薬食品局は、前立腺がん対象の

ワクチンの市販を許可したそうだ。なんというタイムリーな朗報だろう!




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2012/02/13 13:16 2012/02/13 13:16


「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―35)

  NTT
関東病院と私                            201216日(金)

 

 年の暮れ直前の病院でMR検査の結果を聞いた後、30日・31日は、12回連続参加の「IKSPIARI第九」のゲネプロ・本番だった。公募合唱団の160余人と市民オケとを合わせた約240人は過去最大。3階まで立ち見ギャラリーがあるセレブレーション

プラザで、東日本大震災の犠牲者と世界平和への祈りをこめて、「苦悩から歓喜へ」の歌を高らかに唱った。

 明けて正月2日は、子供らの2家族がやって来て、恒例の“鴨すき”パーティだった。私たちと同じ見明川住宅地内のテラスハウスに住む健夫婦は徒歩1分、海辺に近い高層マンションの16階に住む晶子たちは車で数分だから、合わせて153歳の私たちには、うれしく、心強い存在である。

 師走半ばころにピーコックへ予約しておいた合鴨をたらふく食べ、持ち込んでくれたビール・ワインをしこたま飲んで、例年と変わらない賑やかさだった。

 両夫婦には、年末のMRの検査結果と5日に控えている「骨シンチ」について手短に話をし、かりに、骨に転移があっても、がんの自覚症状が現れるまでは、なんの治療も

受けず、いまの充実した日常を享受しつづけたいと告げた。お千代は相槌を打っていた。

 5日、NTT関東病院の放射線科アイソトープ検査室の待合で、年配の方に出会った。

問わず語りに、一ヶ月前の生検で前立腺がんの診断を受け、骨シンチとCT検査を指示された81歳と分かる。顔色もよく、大きな声で闊達に話された。がん手術を望んだが、私と同じ担当医師から、高齢の方にはガンセンターでも手術することはないと言われて、女性ホルモンの薬冶療法を始めてもらったと云う。

 薬冶療法を受けている知人・友人も少なくない。副作用によるQOLの低下やがんの抑制効果に年限があると聞いていたが、その方に話すのは控えた。死生観は様ざまで、積極的に治療を受けようとされている気持ちを乱してはいけないと思ったからだ。

骨シンチ検査は、MRの騒々しい音もなく、頭から足の先までを約30分で終わった。

翌日の診断告知にはお千代もついてきた。彼女にとっては、がんで食道の全摘出手術を受けて4ヶ月入院した私の病室へ毎日のように通った病院である。19年ぶりの再訪。

 関東逓信病院の名称だったこの建物を設計した国方秀男は日比谷電電本社ビルと共に日本建築学会作品賞を受けた大先輩で、これら名建築を創出する建築局に憧れて、私は電電公社へ入社したのである。

 19年前のクリスマス・イブに退院したその前日、思いがけず、国方氏が入院されたと知らされ、すぐ病室を見舞った。東京都建築設計事務所健康保険組合の理事長だった79歳の先輩は、毎年楽しみにしている奈良探訪に行けなくなる、と突然のがん告知に悲憤慷慨された。

「手術されてお元気になれば、また行けますよ」と申し上げてお別れしたが、がんは、手術できないほどに進行していて、ほどなく亡くなられた。私は来年79歳を迎える。

 骨シンチの検査結果で全身の骨に異常はないと告げられ、お千代もホッとした。

担当医は、「検査で病気を見つけるのが使命ですから」と、MR画像で白く映った部位を狙う生検を勧めたが、2ヶ月後の血液検査のPSA数値で考えますと応え、辞した。

 お千代は、帰路の地下鉄乗場のベンチで、検査結果への安堵を子供らにメールした。


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2012/01/30 12:19 2012/01/30 12:19

「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―34) 

 

前立腺がん検査                           20111229()

 

 あわただしい年の瀬に、病院を2回往復することになった。

 7年前から右肩上がりで上昇してきた前立腺PSAの数値が、昨年10月の血液検査で30.36となり、担当医にMR検査を勧められたからである。

 7年間の数値上昇の途中で2回の生検、エコー・触診、CT検査などを受けたが“白”だったし、夜中に2度ほどトイレに行く外、なんの症状もなかったので、3回目の生検を勧められても、受けずにきたのである。

前立腺がんの診断は、生検で細胞を採取して確認するしかないとされるが、十数本の針を刺す採取方法では、がんに当たらないで“白”となる確率もあり、PSAの値が肥大とがんのいずれを示すものなのか、よくわからない面もある。

担当医は、MR検査はがんの広がりを見つけやすいのでよく採用していると説明した。

わが街浦安には、天皇陛下の前立腺がんを診断した、高校の後輩Tさんが住んでいて、

2年ほど前、セカンドオピニオンを求めたことがあるが、自分で検査・診断しなければなんとも言えないが、「松本先輩の日常生活の様子を聞くかぎり、歳相応の肥大と思われますがねエ・・・」だった。

 妻のお千代は、「お尻の穴から指を入れられるのが好きならともかく、生検はもうやらないで、初めてのMRを受けてみたら」と宣うた。

 1221日に、血液検査とMRを受け、27日に検査結果を聞きに行った。<唄う>趣味だけでも、特養老人ホーム「愛光園」訪問のクリスマスコンサート、端唄「千鶴会」の発表会、IKSPIARI第九の練習をこなした、あわただしい年の瀬だった。

 コンピューター画面にMR検査の画像を出して待っていた医師の前に座ると、

「まず、血液検査のPSAですが、10月の30.36から 24.15に下がっています。でも、 8月の 21.33よりは上です。ところでMR検査の方は、ご覧の画面に写っている白い

弧が前立腺の一部です。その右側にある2つの白い点は、近くのリンパ節と骨の一部にあり、それらから、前立腺の進行がんの疑いをもちます」

「・・・・・・」

「以前から申し上げているように3回目の生検を受けられ、早く治療を開始されるのがよろしいのではないでしょうか」

 検査結果の診断を聞いた私に、20年前に食道がんを告知されたときの“青天の霹靂”の驚きは全くなかった。前立腺がんの診断は生検によるほかないから、他の検査はあくまでも傍証に過ぎない。

「歳相応の機能低下はあっても、日夜、お千代と“仲良く”過ごしている実感を信じ、元気に楽しく<唄い><描き><詩文を書く>残日の生き甲斐とQOL(生活の質)を乱す懸念のある薬冶療法など、受けたくないのです」と、これまで繰り返してきた同じ言葉を医師に告げた。

 とはいえ、2ヶ月前に急逝した1歳年上の知人の夫人から、前立腺がんが頚椎に転移して首の神経を侵し、発声も不自由な末期だったと夫人から聞いていたので、3回目の生検ではなく、医師が勧める「骨シンチグラフィ」(放射線で全身の骨の異常を検査)を正月早々に受けることにした。 


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2012/01/25 10:32 2012/01/25 10:32

「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―33) 
  
  邦楽演奏会と私                            
2011年12月27日()

 

 年の瀬の迫るなか、500号記念「邦楽の友メールマガジン@コンサート」を紀尾井

小ホールで聴いた。第1部「日本舞踊と邦楽演奏」と第2部「清元浄瑠璃と唄物の共演」の4時間余の長い舞台鑑賞は、「若鶴会」主宰若宮千世鶴こと吉井優子さんのご招待。

 浦安・高洲の特別養護老人ホーム「愛光園」の訪問ボランティアの「江戸の華」に、黒一点で加ったご縁で始めた端唄の師匠である。

 第1部で端唄「薄墨」「文弥くずし」の三味線を若宮千世鶴の名で弾かれた。唄の若宮千世佳奈の「薄墨」の出だしにトップバッターの硬さを感じたが、「文弥くずし」では、伸びやかなよい歌唱となり、「江戸の華」の訪問演奏会で唄ってみたくなった。

 第2部では長唄「巽八景」の三味線を、タテ杵屋栄富次・ワキ吉井優子で弾かれたが、

よく息の合った演奏だった。唄の男性はかなりよくうたわれたが、どこか清元のような感じを受けた。持ち前の声のよさに芯(強靭さ)が加わればとは、所詮、素人の感想である。この方は、小唄二題の「宵の謎」「すっぽかし」を春日豊花遊の名で唄われたが、バイブレーションのある声もぴったしで、長年のお座敷“修行?”の費用も少なくなかろうと拝察した。

 端唄「紀伊の国」を達者に踊った若柳勒芳は、生田流筝曲「恋心三題 乱れ髪・また君に恋してる・夢一夜」でも、恋する女の情念の様ざまを、見事な振り付けで表現した。

 杵屋正邦作曲の現代邦楽「去来」の三味線を弾いた竹内恵子さん、山田流筝曲「四季の曲」(八橋検校 作曲)の山本七重さんは、それぞれの美しい三味線と唄の音色で見事な演奏をされ、たいへん魅力的だった。

 山田流筝曲といえば、原田東龍作曲の『早春浅間山』は、拙詩を気に入られて一気に曲を書き下ろされたという男声合唱付き14分の作品だが、筝・十六弦・尺八の合奏と浦安男声有志が共演した、「芝abcホール」での初演が懐かしい。

 そのほかの出演者には、いわゆる、“ダンナ芸”や“お嬢さん芸”と感じられるものもあったが、ご自身が楽しまれたり、一生懸命だったりする様子をほほ笑ましく拝見した。

 春日の「小唄」を2年ばかり、吉住の「長唄」を20年ほど稽古した20数年前に、

伝統芸能「邦楽」の世界に足を踏み入れる人の減少は著しかった。小唄好きの上司命令で始めたものの稽古が続かない会社員や、高齢女性のお弟子さんがお嬢さんやお孫さん

を引き込むなどの、あれこれを見てきた。

 第1部トリの清元「花がたみ」は、それなりの演奏でも鼓の響きがも一つだったが、

第2部トリの清元「申 酉」は、なかなかの演奏だった。三味線の清元紫葉は、両方の部の出ずっぱりで、邦楽界ナンバーワンと称せられる美貌と毅然とした弾き姿に見とれていた。そういえば、吉住家元の奥方も、たいへん魅力的な美人だった。

 この演奏会に先立ち、第3回端唄「若鶴会」が師匠宅に近い「舞浜ビースティーレ」

で開かれた。新入りの私はトップバッターで『京の四季』を、中ほどで、『えんかいな』

『潮来節』を師匠の三味線で唄った。いろいろなイベントも開かれるレストランが会場で、兄弟子の野口さんが設えた緋毛氈の舞台を、「愛好園」訪問の「歌の花束」の仲間や

知人、妻らに聴いてもらった。

 昼間の住宅地に鳴った邦楽の音は、近所住民の耳にどのように響いたのだろうか。


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2011/12/29 17:33 2011/12/29 17:33


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「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―32) 

横山恵子の「第九」  
                     
 
                                        

                              2011
年12月25日()
 

 

 日曜日のクリスマスの朝、佐渡 裕の「題名のない音楽会」を聴く。NTT入社同期の仲間小野文朗さんが、姪御の横山恵子さんが、「第九」のソプラノ・ソリストで出演と知らせてくれていた。恵子さんは、私たちの故郷福山同じ瀬戸内は岡山の出身である。1992年に渡欧し、ドイツを中心にヨーロッパ各地でプッチーニ、ヴェルディー作品を主にタイトル・ロールを唄い、「蝶々夫人」は最多の舞台を踏んでいる。

 日本でのタイトル・ロールデビューは、1996年、東京・大阪での小澤征爾指揮・浅利慶太演出『蝶々夫人』で、「びわこホール・ヴェルディーシリーズ」や、日本初公演の『エジプトのヘレナ』をはじめ、主レパートリーは、『マノン・レスコー』『オテロ』『トウーランドット』『トスカ』『ワリキューレ』『タンホイザー』ほか数多いが、強靭で美しい歌声、高い音楽性と精神性で表現する主役の人物像に、私たちは魅了されてきた。

『ワリキューレ』のブリュンヒルデや『トウーランドット』姫のタイトル・ロールでの

迫真の歌唱は、いまも耳に残っている。

 私たちが敬愛する佐渡 裕と恵子さんが共演する「第九」を聴き逃すはずもなかった。

佐渡さんは、東日本大震災後間もない3月25日のドイツでも被災者への鎮魂の「第九」を指揮したが、「題名のない音楽会」の『第九』(東京フィルハーモニー・晋友会合唱団、東京オペラシティーホール)は圧倒的で、恵子さんの歌唱も見事だった。

 美しいグリーン色調のドレスと金髪ヘアーのいでたちは、天性の声を響かせる大柄な体躯にピッタリで、選抜きのソリストのなかで一際、私たちの耳目を奪った。

「第九」といえば、23日、『第12回IKSPIARI 第九』のリハーサルがあった。

私にとっての「第九」は、19年前、食道がん手術で再びのいのちを与えられた歓びで参加した「浦安市民第九」以来の縁で、「市民第九」がなくなってからは、ディズニーリゾート・イクピアリの恒例年中行事となった『第九』で唄ってきた。 

 第2回以降の合唱指導者古澤利人さんの名は、ドイツ語の“LICHT″(光)に因むとされる。詩人シラーの人類平和を神に祈る『歓喜に寄す』に魅了されたベートーベンが、30余年を費やした不朽の曲の深い意味を、公募合唱団員(今回164名は過去最多)がしっかり理解して唄うことを求め、第2回からずっと、精魂込めて指導されてきた。ちなみに、第1回の指導者は、わが浦安男声合唱団の現在の常任指揮者仁階堂 孝で、12回全ての練習ピアニストだった若山圭以子さん(わが浦男のマドンナピアニスト)が、3年前の”浦男“指揮者交代の際に推挙した、国内外で活躍する気鋭の指揮者。

 紛争や戦争がつづく人類社会を憂いたシラーが、創造主の存在を信じて書いた詩の

一節“抱き合え、幾百万の人びとよ!”は、226年経た今も、私たちのこころを強く揺さぶるのである。

 佐渡 裕は、さだまさしと共演した「さど・まさしコンサート」(阪神淡路大震災記念ホール)でも、災害や戦争に苦悩する人びとに届く“音楽の力”について語り合ったが、佐渡に師事した柳澤寿男は、長い民族対立の歴史の果てに独立したバルカンのコソボで、対立するアルバニア・セルビア人の音楽家による「戦場に、音楽の架け橋を」の演奏会実現の活動などで、2007年の「世界が尊敬する100人の日本人」に選ばれた。

 12回目の『IKSPIARI第九』を、“世界の人びとに届け”と熱唱したく想う。


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2011/12/29 17:24 2011/12/29 17:24

「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―31)  
              
                                                                                                           2011年12月18日()

 

 久しぶりに、東 誠三のピアノ・リサイタルを聴いた。彼は、広大付属福山校第1期の同期仲間で、妻のお千代共々に親しい東 陽子さんの子息である。

 1962年生まれの彼が3歳のころ、絶対音感をもっているのに陽子さんは気づいた。

東京音楽大学付属校から東京音大に進み、1983年、第52回日本音楽コンクールで

第1位となる。フランス政府給付留学生としてパリ国立高等音楽院に留学し、日本国際、

モントリオール、カサドシュなど、多くの国際コンクールに入賞し、ヨーロッパ、北米

などでリサイタル・オーケストラ共演をして、真摯な演奏技術の鍛錬と豊かな音楽的感性から生まれる流麗洒脱な音色と生命力あふれるダイナミズムで、本格派ピアニストとしての国内外の高い評価を常に得ている。

 満席の紀尾井ホールでのプログラムは、“リスト・イヤー生誕200年”のリスト尽くしだった。アンコールの『ラ・カンパネッラ』『コンソレーション第3番』など三曲もだ。

 これまでのリサイタルではショパンの曲を中心に、流麗洒脱な演奏を多く聴いてきたが、芸大で教えるようになってからの彼が、自由奔放な演奏を抑制しているかのようなもどかしさを感じていた。ところが、久しぶりに聴いた演奏はまったく文句なしのすばらしさだった。リストの曲想を、彼になりきったかのように見事に弾いたのである。

 リストの人間性豊かでドラマティックな曲の数々を、繊細さと大胆さをない混ぜにしたタッチでかき鳴らし、私のこころの琴線を激しく共鳴させたのである。その音楽感性にリストとの親近性を強く感じたが、50歳を目前にした東 誠三は、いよいよ円熟の境地に入ったのであろう。

 プログラム収録の「円熟の時間(とき)を刻むリスト~東 誠三ピアノ・リサイタル2011に寄せて」を書いた池田卓夫は、福島県三春町で、ベートーベンのソナタ全曲演奏を進めている東 誠三が、東日本大震災被災地への強い想いを抱き、ブタベストの大洪水後のチャリティー演奏会を組織したり、ボンのベートーベン碑建立に多額の寄付をしたリストの“超絶技巧”の“技”よりも“精神”に目を向けていると述べている。

 閉幕後のロビーに、付属の同期と一年後輩のお千代の仲間など15人余の顔もあった。

誠三さんの指導を芸大大学院で受けている新進気鋭のピアニスト岸 美奈子さんの姿を見つけて、傍にいた陽子さんに紹介する。美奈子さんは、日本建築学会男声合唱団の伴奏ピアニストで、5年前の創立20周年記念演奏会の南伊豆の合宿練習で知己を得、来年3月の25周年記念コンサートもご一緒するが、リストの曲を独奏するステージもあり、団員一同・来聴者からおおいに期待されている。

 誠三さんは、精緻なピアノ演奏と対をなすようなエッセイの名手でもある。

 プログラムに記される彼の文章は、曲目の説明の域を超え、作曲者への想いや演奏への意気込みが伸びやかな筆致で書かれおり、いつも感心させられている。

 ピアニストのエッセイといえば、元職場・NTT建築総合研究所の仕事仲間の娘さんの

宮谷理香さんもすばらしい書き手。第13回ショパン国際コンクール第5位に入賞して以来、幅広い音楽活動で大活躍だが、自然体で知性があふれているのは、音楽性だけではなく、著書『理香りんのおじゃまします!』のウイットに富んだ文章でも目覚しい。

 こうしたピアニストとの親しい出会いに感謝している、浦安の残日である。



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2011/12/28 17:53 2011/12/28 17:53

「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―30)                  
                                                                                                               2011年10月ⅹ日()

 


“動天驚地”の
311東日本大地震でわが浦安市が液状化の被害を受け、親戚・仲間・知人から問い合わせが殺到したのをきっかけに書き始めた「残日録」も、三十回だ。

初めの数回は、わが家の被災状況をお知らせする手立てとしたが、長期連載『アラブと私』で、国内外に生じた事件のトピックスを頻繁に挿入した“道草”で、「イラク3千キロの旅」の進行を妨げていたことへの改善策でもあった。

平均寿命も間近くなった喜寿老人として、今の日常身辺や過ぎた日々の記述の場としてのカテゴリー新設を、編集担当のM女史にお願いして実現した。感謝!

ただ、日記を付けるのは(大学生時代は別として)まさに“三日坊主”だったから、タイトルは「日記」ではなく「残日録」とし、記述の頻度も週に二三回と考えていたが、諸事多忙のなかで、次第に間遠くなっていた。

また、毎回、読切りスタイルを旨としたのが、帰福した故郷への想いが募り、“続く”を連発したまま、今回を迎えた。

その福山紀行から五ヶ月近くが経ち、その間に思いついたトピックスは、時間の経過ともに鮮度が落ちてしまった。いずれは書くことになろうが、テーマの羅列にとどめ、次回からは、より時宜を得たトピックスを書き連ねてゆこう。

        浦安男声合唱団特別演奏会に向けて

        菅総理の功罪と日本政治の混迷

        債務超過のアメリカとオバマの苦悩

        長唄の姉弟子遠藤順子さんと「江戸の華」

        こう着状態が懸念される中東情勢

        NTT一八会」の仲間たち

        「三二会」恒例の暑気払い

        小松左京氏の逝去と大阪万博の思い出

        ヒロシマ原爆紀と脱原発への決意

        イギリスの暴動と世界の市民デモ

        渡辺 謙のアメリカ・ルポを観て

        小泉芳子さんの伝記『黄海道の涙』

        「日比谷彩友会展」でのあれこれ

        情報通信国際交流会と田代譲次氏逝去

        台風襲来に被災の「ふれあいの森公園」

        ロシア大使館での「日露親善コンサート」

        「秋の小さな音楽会」と建築学会合唱団

        「三二会」の東北・裏磐梯紅葉狩り旅行

        高山博教授の「ヨーロッパの成立」聴講

        特別演奏会(1015日)は盛況裡に開催

        カダフィー大佐の末路とアサド大統領



  ブログ掲載の「残日録」は「日記」とは異なり、ハダカの自分を書くわけではないが、肩に力を入れないで、残日の時代・社会と日常身辺への想いを、素直に記述しよう。





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歌川広重の名所江戸百景「堀江ねこざね」。
境川の左手が堀江、右手が猫実で森の描かれている辺りが豊受神社。


2011/11/04 10:28 2011/11/04 10:28


「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―29)                 
 
 

                                                                                                                2011年6月2ⅹ日(
)
 
 みんなが揃って、挨拶を交わしているうちに正午となり、
Kちゃんが予約してくれていた郷土料理“うずみ”が運ばれてきた。ご飯の上に汁をかける“猫飯”の逆に、椀底の汁に熱いご飯をのせる家庭料理で秋祭の頃によくつくるが、レストラン・メニューになっているとは思いもしなかった。

汁の主な具材が松茸と小芋だったのはよく覚えている。疎開でお世話になった両親の実家の山で松茸を採ったが、その在処と採取時期は、従兄弟同士でも秘密にしていた。

出された“うずみ”はメインが浅蜊の淡白な味で、松茸が主役だった田舎風とは違う料理になっていた。

町なかで育ったお千代だが、料理上手だった母親文子さんの“うずみ”を懐かしがりながら、Kちゃんの心遣いの珍しいランチをうれしそうに味わっていた。「つれづれ」の会員ではなく、Ko君に呼ばれて来たN君も、「こぎゃあな料理は、ひさしぶりじゃのー」と、正調の福山弁でおどけてくれた。

彼は、社長ふくみで迎えたT大出の娘婿が思いがけず早世し、不本意ながらまだ経営の第一線に立っているそうだ。中国へ進出した当時は好調だったが、人件費が高騰する今では、相当キツクなったと呟いた。

デザートのケーキとコーヒーのあと、渡り廊下から大広間のある本館へ席を移した。

十六畳敷きの座敷を二間連ねる長い縁側から、雨に煙る広大な庭と背景に聳える天守閣

をお千代と並んで眺めた。石の橋が架かる池に、大きな鯉がたくさん泳いでいたという。

 福寿会館の運営は、市が第3セクターに委託しており、席作りや湯茶の準備は利用者がするのだという。私たちが公民館の音楽室を合唱団の練習に使うときと同じだ。

 若い女性係員の指示に従い、玄関脇の部屋に納めてある和式の長机や座布団を手分けして運ぶ。良夫さんは、句会や茶会の経験が豊富とあってか、テキパキと身体が動く。

 私の提案で、奥の座敷に折りたたみの脚を伸ばさない長机をコの字に並べると、句会らしい雰囲気のしつらえとなった。ランチの席の良夫さんの話では、母屋奥の離れ座敷で茶と句の会をと思ったが、茶の湯の作法で座が硬くなりそうなので、止したという。

 庭に向かって開いたコの字の卓の好きな席につくと、良夫さんに促されたKちゃんが、立ちあがって話を始めた。同期会会長を長年務め、県の建設業協会会長の経験もある彼の挨拶は、私たち二人への歓迎の辞と共に自身の述懐をとりまぜて、かなり長いものになった。良夫さんの顔に、“困ったナ”という表情が見えたが、まもなく挨拶は終わった。

 良夫さんが座を立ち、控えの間から裏廊下へ出たので、あとについて行くと、台所でお茶を淹れていた。手伝いながら、「せっかく準備してもらったけど、女性二人が病気で欠席だし、Kちゃんはあの調子だから、今日の句会はやめにしたら?」と訊ねてみると、「そうだね。今朝がた蒸した私の地所名物の柏餅をもってきたから、茶話会ということにしようか」と応じてくれた。

 座敷に戻り、茶を入れた湯飲みと柏餅のパックが配られると、良夫さんが、茶話会にする旨の話をした。やや残念そうな面持ちにみえたが、俳句を詠まないKちゃん、N君、お千代にとってはよかったかもしれないと思った。遠距離通信句会「つれづれ」の初句会の席は、ざっくばらんな同期会の談笑の場と変じたのである。   

                                                                 (続く



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2011/09/22 15:50 2011/09/22 15:50


「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―28)                
                                                                                     2011
年6月2ⅹ日()

 


 右にゆるくカーヴした坂道をゆっくり上がってゆくと、行く手左右に、急勾配の洋館屋根と母屋の玄関前に立つ松の木が見える。道の側溝に近寄ったお千代が、「この溝に、従妹のMちゃんとオシッコして、どちらが早く流れるかを競争したのよ」と告白した。

 お城の下の一角に屋敷を並べて住んだ安部一族六男の娘M子ちゃんとお千代は、坂の上の本家の庭でよく一緒に遊んだという。太平洋戦争が始まる寸前の幼児の世界の微笑ましい情景だ。そんな佳き日々も戦争の渦に巻き込まれ、福寿会館に変身した本家以外の屋敷は、すべて焼夷弾で焼かれてしまった。

 私はといえば、原爆投下の前年に福山へ疎開するまで住んだ広島で、休日の父に連れ

られて行った、水源地があった白島での蕨狩り、比治山下の御幸橋辺りでのハゼ釣り、外国映画を見た街中の映画館などを思い出す。

 集合時間よりもかなり早く着いたせいか、洋館内のレストランに学友の姿はない。

雨に濡れる庭が眺められる席で、五十八年前のお城の上の初デイトの話しをした。

京大生になった夏休みに思いがけずお千代から手紙をもらい、その冬休みに小学二年の弟隆夫を連れて、天守閣の焼け跡で久しぶりの再会。弟を同行させたのは母親である。京都で勉学に専念すべき息子が、恋愛に現を抜かすことを危惧した苦肉の策のように感じたが、初心だった私に断るすべはなかった。

あの日から半世紀以上が経ったのだと旧懐の念にひたっていると、Kちゃんが現れた。福山では有数の建設会社の社長三代目で、同期会の地元代表として長く会長を務めたが、死線を彷徨うほどの大病もしたようだ。

 大きな建築組織で専ら設計に携わった私とは違う業界で活躍した彼と、互いに建築を学んだ親近感もあり、父が“ダンゴ3兄弟”に遺した僅かな田地を宅地化して売却する仕事をやってもらったこともある。

 五年ごとの同期会が福山であるとき、二次会は彼の会社が建てたビルにあるスナックで、有志一同が世話になったものだ。親分肌というよりも、建設会社社長には数少ない知性派だが、同期学友の面倒見のよさは際立っている。

 一昨年、お千代の母文子さんの二十五回忌で帰福したときも、前日の午後、家族三人〈奥さん、娘さんと一緒〉で、お千代にとって懐かしい鞆の町を予約のガイド付で案内してもらい、数日して、娘さん撮影“鞆の町歩き”アルバムが送られてきた。

 昨年の喜寿同期会の前座に、福寿会館に茶席を設ける企画も彼のアイデアだったようだが、なにかの都合でお流れとなった。今回の句会の場を福寿会館に選んでくれたのは、その代わりだったのだろうか。

 挨拶を交わしていると、学友たちが次々とやってくる。

句集「つれづれ」の編集長Yさんが、「Mu子ちゃんとH子さんが急病で来れないよ」と告げた。ヘルペスと風邪に罹ったという。喜寿でバーバー現役のKo君、喜寿同期会で五十七年ぶりに再会したMi子さん、現在の同期会会長Ku君の顔がそろった。その

他は、広島や東京に住む“遠距離会員”だ。

 そこへ、句会の会員でないN君が入ってきた。私たちのためにKo君が声をかけたという。彼は、備後地方で繊維加工業を営み、中国へも進出してがんばっている。(続く)


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2011/09/08 18:37 2011/09/08 18:37


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「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―27)
                                                                     2011年6月2ⅹ日()

 

 朝、目覚めると雨の音がしていた。

昨日の予報は雨だったが、結婚式場の祭壇に注いだステンドグラスからの光や屋外の記念撮影も日差しに恵まれてよかったと、義兄の家に戻る車中での話を反芻した。

 シャワーを浴びて、ダイニングキッチンに顔を出す。

来るたびに思うのだが、私たちより年上の二人の朝食はとてもリッチで、北海道から取り寄せたイクラ・鱈子だけでなく、ハムエッグまで付いている。具沢山の味噌汁は、体調を崩していた義兄が復調してから自分で作り始めたという。地場の味噌も美味しく、ふたり共に、お代わりをお願いする。

かって泊めてもらった両親の実家それぞれでも、激しい農作業へのエネルギー確保の生活習慣からか、かなり高カロリーの朝食を出されたものだ。

その日は、付属同期の有志が安部本家の元屋敷・福寿会館に集まってくれることになっていた。昨年五月の喜寿同期会をきっかけにスタートした「沖野上青春句会」の諸兄姉の好意である。50余人が参加した同期会の寄せ書きのメッセージを、575で書いていた7人を見つけた私が、会の一ヵ月後に、喜寿残日の“遠隔こころの交流”を趣旨に提案し、賛同を得たものだ。句会と句集『つれづれ』の名称も私案だった。

 句会の同人Y君とは、同期会で割り当てられた席が隣り合っていて、卒業から58

ぶりの再会だった。そのときの彼からは俳句の話など全く出なかったが、地元の句会で

は名を知られた存在と分ったのは、隔月刊『つれづれ』の編集・作成を快く引き受けて

くれたあとである。

 有志の一人K君は、東京在住T君と同じ読者会員で投句はしないが、一級下のお千代

と私の中学時代のことや市が管理する福寿会館と安部一族との由来をよく知っていて、

お千代にとって懐かしい場所を、ミニ同期会の会場に選ぶ心遣いをもらった。

“遠距離通信句会”の句集は、昨年8月創刊号から5月号まで、はや5冊を数えている。

通信投句集の編集長Y君としては、初めての句会が開けるチャンスとばかり喜んでいた。

 正午に集まり、洋館部分の軽食・喫茶の地元料理“うずみ”を食べるといわれていた

ので、その前に、安部一族の菩提寺である安楽寺の墓参りをすることにした。お彼岸や 

お盆の墓参りのためだけには帰郷しないので、機会があれば、先祖の墓参りをしている。

 朝食後も雨音は激しかった。花嫁の母親Kちゃんが福山まで車で送ってくれるという。

 大きな仏壇の岳父・義母の仏前で般若心経を上げてから、義兄・義姉に別れの挨拶を

した。この年では、またいつ会えるか分からない。くれぐれも元気でいて欲しいと告げ

るお千代の言葉には、真情が込められていた。

 暮れのときと同じ郊外型量販店で仏花を買って安楽寺へ向かった。フロントガラスに

当たる雨は弱まっていない。30分余りのドライブでお千代と姪の話を聞いているうちに

お寺さんに着く。

 土砂降りに近い雨の墓地の供花に、水のバケツは不要だった。ここでも、般若心経を

唱えたが、足元に跳ね返った雨脚で、ズボンの裾がかなり濡れた。寺を辞して福山城に

向かう途上で、雨は小降りとなった。

 福寿会館への坂道の下で降ろしてもらい、井原に戻るKちゃんに手をふった。


                                (続く) 





2011/08/17 17:39 2011/08/17 17:39


「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―26)    

                                                                         
2011年6月2ⅹ日()

 

 披露宴のあと、新幹線で福岡へ帰る新郎の両親・親族と別れ、お千代の姪・甥が運転する車2台に分乗して、義兄一家が住む井原市へと向かった。「中国地方の子守唄」で知られるところで、数年前、全国民謡大会が開かれた。

 余談だが、東北や九州などに比べて「民謡」がきわめて少ない地方のわが故郷が誇る

この子守唄は、浦安男声合唱団が東日本大震災復興への想いを届けようと10月に開催する特別演奏会の曲目にもあり、古里への想いをこめて唄いたい。

 義兄たちが住む家は、義姉の実家の土地に建っている。戦死した父親の跡取りの義兄が敗戦直後に興した会社が十数年で倒産したので、城のすぐそばの土地家屋を手放して清算し、井原市へ移ったのである。

私とお千代が、昭和23年に広大付属福山中学の1期・2期生で出会い、大学生活を共に京都で過ごし、昭和33年に結婚した間の経営は順調にみえていたが、いつのまにか、高度経済成長に伴う時代・ニーズの変化に追従できなくなったのであろう。

義兄の父は、“削り鰹”の問屋を創業して軍の御用商人になった安部家の七男だった。一族で営んだ会社事業は富国強兵の国策に乗って隆盛を極め、長男の創業者は、福山城の一廓に天守閣を望む広大な庭園と屋敷を持ち、兄弟たちにも、城の周辺に邸宅を構えさせた。鞆の浦にあった鉄筋コンクリート造の避暑別荘が、お千代のご自慢だった。

敗戦間際の大空襲で、市中央部の大半と福山城の天守閣は焼失したが、安部家当主の屋敷はなぜか無傷で残り、進駐軍司令官の住まいとして接収された。その後、市に寄贈されたのも、御用商人でなくなった安部家一族に、戦後の暮らしは厳しかったのだ。

温厚だが芯の強い義兄は、井原周辺で盛んな縫製加工の仕事で生計を立ててき、長男も、その業界の中国現地会社へ長期派遣されてがんばっている。新婚時代は夫婦で在勤したが娘が生まれてからは単身赴任で、今度の従妹の結婚式に一時帰国していた。

お千代の母親文子は、この家の離れ座敷に住んで83歳で亡くなったが、NTT社長真藤恒の花輪が並んだのを義兄・義姉はとても喜んでくれた。社員の妻の亡母への異例ともいえる花輪は、民営化の折に頑張り、新社歌『日々新しく』の作詞者となった私への真藤のジイサンらしい労わりの心遣いと思われた。

 戦死した岳父は文七で、文郎は、二人共に「文」が付く両親の次女と結婚したのだ。

 義兄の長男一家は、離れ座敷跡に新築した二階建てに住み、義姉の実家の母屋では、ダイニングキッチンと浴室が増改築されている。

 半年前の本家の葬儀で泊めてもらった時も、安部一族の歴史を克明に憶えている義兄の記憶力に感心したが、披露宴の余韻のなか、また、夜遅くまで昔話に花が咲いた。

 お千代の姉と次兄は鬼籍に入っており、肉親は義兄ひとりとなった。結婚式へ、敗戦直後に関西へ嫁いだ亡姉の息子一家も宇治市からやってきたが、2歳で母をなくした彼が、数年前、顔の記憶もない母親の五十回忌を営み、招かれて参列して、お千代共々、

その律儀さにいたく感心した。9年後の私の母の五十回忌を、父の骨を納めた高野山・総持寺で開くことを思いつかせてくれた彼である。

冠婚葬祭は、封建的な「家」ではない「家族」にとって、互いの絆を確かめあう大切な儀式だと改めて思う一夜であった。   

                                                     (続く)





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2011/08/16 15:41 2011/08/16 15:41


「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―25)                 

                                                                                     
2011年6月2ⅹ日()

 

 半年ぶりで、お千代の姪の娘御の結婚式で、故郷福山へ帰った。義兄の孫の花嫁は、幼いころ離婚した母親と祖父母の家に戻って暮らし、今日まで育った。乳呑児を抱えて婚家を去った母親の若き日の“人生峠”も遠い彼方であろう。

前回は昨年の大晦日直前、本家当主の葬儀だった。近頃の帰郷は、同窓会のほかには冠婚葬祭だけだ。本家の跡取りの一人息子が戦死して、次女が迎えた婿殿は税務署を退職後に税理士事務所を開設し、土地ブームの折にも、農地・山林を売らずに先祖伝来の土地を守ったことが自負だった。頑健だった伯父より数年早い鬼籍入りで、享年86。伯父貴とぶつかり、幾度か離婚を考えたと述懐したこともあったが、40代で失明した従姉(両親が従兄妹同士の所為か)の世話を厭わずにやっていた。几帳面で頑固なところは伯父貴と同じだったから、似たもの同士がぶつかることもあっただろう。

日本人の結婚・夫婦観はずいぶん変わったものだ。若いころ憧れた米国のファミリー像はどうなったのか、離婚率は50%という。わが国も、追従するかのように30%。

 離婚を“バツイチ”と自嘲する女性もいるが、イヤな男から身を引いた決断の“勲章”と思ってもいいではないか。もっとも、“多離婚経験症候群”は幸せではなかろうが。

 福山駅に近い式場でチャペル式結婚式を挙げる花嫁は、所謂“できちゃった婚”とか。そう聞いていなければ、ウエディングドレスではまったく分からない。だが、この呼称はいただけないと思う。歓びの気持ちをこめて、“授かり婚”ではどうか。

 私たちの親の時代には“子は鎹”だったが、いまでは、シングルマザー・ファーザー

が珍しくない。愛を失った親のとばっちりを受けるのは子供たちだ。結婚適齢期の若者が、結婚をしない原因の一つでもあろうか。

 二つの尖塔を持つ教会風建築の式場は、昨年の喜寿同期会で来福したときスケッチしたが、新しい教会と思って描いたあとで、福山在住の学友に教えられた曰くがある。

 外国人司祭が待つ祭壇へとアイルを進み、正面のステンドグラスからの光を浴びて立った二人は緊張していたが、幸せそうだ。私たちの前の列で二人に視線をそそいでいる花嫁の母・祖父母の横顔も、満足げだった。

 この日最後の8組目の式とかで、式次第を英語で執り行う男性はお疲れであろう。

どこかの教会から派遣された牧師だろうが、クリスチャンでもないカップルに神の名の下、永遠の誓いをとり結ぶご心境やいかに、と思いつつ儀式を眺めていた。

 披露宴はヨーロッパのお城の宴会場を模したという天井の高い空間で、式場側の司会

で進行した。両家の親族は多くはなく、大半が新郎新婦の友人たちだった。

 仲人も来賓もなく、友人代表二人の祝辞のほかには、余興をする人もいないと聞いてはいたが、司会の女性がやってきて「お出番です」と言ったのは、“宴もたけなわ”に

なる前だった。

 現役時代、頼まれ仲人や主賓役をかなりやっていたので、結婚披露宴には馴れてる。

娘のときは、妻お千代のピアノ伴奏で、『君たちの船出』(拙詞にマイ・ウエイの曲)を唄い、外国人参会者のヤンヤの喝采を浴びが、今回は、年寄り臭くないように気をつけた祝辞を短く述べ、オハコの『愛の讃歌』を、カラオケ伴奏で熱唱した。   (続く)




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2011/08/15 17:13 2011/08/15 17:13

「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―24)               

                              2011年6月2x日(x)

  近代国家日本の黎明をめざした龍馬は、倒幕・佐幕派の幅広い人脈の間を往き来し、暴力革命から無血革命に転換したので、双方から疑われ、疎んじられた節もありそうだ。
 幕府側が坂本暗殺を謀らなければ、無血革命後の維新政府のなかに、幕府側の有能な人物も登用され、龍馬自身が外務卿になるなどしていたら、日本の外交政策や国際関係の展開もかなり違っていたのではなかろうか。“タラレバ”は、「歴史」のロマンである。
 伊藤博文の憲法論に戻ると、明治政府の立憲主義の基本は、「憲法は、国民が国家を縛る手立て」との認識に立っていたことが、樋口陽一著『いま、憲法は「時代遅れ」か』に書かれていて、正鵠を射た伊藤の論に、唯ただ驚く。
 近代国家として歩み出した日本の憲法理念に卓見をもつ伊藤博文が、他国民の権利を蹂躙した人物として安重根に糾弾され、殺害されたのも、激動期の歴史の一コマだ。「歴史」は、権力側の視点で書かれて普遍化するのが常だから、反権力側から見ると逆の場合が少なくないし、日本と中国・、韓国との間で延々と続いている「歴史問題」も、互いの国家権力が、国益や威信をないまぜに論争しているので、なかなか決着しない。
 日本の憲法改正論議の中で、国家と国民の権利関係をめぐる改憲・反対派の論争にも、理念上の大きな差異が見られる。
 憲法九条では、改憲派は、もっぱら国家の権利を論じ、自衛隊の現実と矛盾する日本国憲法は異常で時代遅れだと言う。反対派は、現行憲法は時代遅れどころか、東西冷戦後の人類社会がめざす世界平和の実現のために、きわめて今日的な理念と主張する。
 改憲派も一色ではなく、国の安全保障を米国依存から自立した再軍備や仮想敵国への先制攻撃まで主張する時代錯誤派から、現実と矛盾する条項の論理的整合性を担保するのを旨とする法律論まで、かなりの幅がある。

 東日本大震災から二ヶ月弱の今年の憲法記念日のテレビ・新聞での憲法論議は、被災地の惨状と福島第一原発事故の報道の陰できわめて低調だった。しかし、大地震以前から疲労破壊寸前だった日本の政治・経済の建て直しを、大震災の復興構想と重ねて考える基盤として、憲法九条・二十五条は、国民のいのちの安全を守る重要な条項ではなかろうか。「憲法九条の会」が全国的に拡大しているのは、人類社会に向けた“不戦の誓い”こそが世界平和の礎であるとのコンセンサスを得ているからに他ならず、国際憲法学会名誉会長樋口陽一氏は、憲法二十五条1項「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(わが母校の創設者森戸辰男の創案とされる)に、地震の巣の日本列島に制御不能な核エネルギーによる発電所を建設すること自体が違反いていると言う。

 安重根の文明観に、「天擾民を生じ、四海の内みな兄弟となす。各々自由を守り、生を好み、死を厭うは人みなの常情なり。今日、世人ひとしく文明時代を称す。然れども我ひとり長嘆す」「然らず、東西両洋、賢愚男女老少に論なく、各々天賦の性を守り、道徳を崇尚し、ともに競争の心なく、土に安んじ業を楽しみ、ともに泰平を享受す。これを文明とすべし」とあるのにはいたく共感し、感銘をおぼえた。

 坂本龍馬は土佐藩の下級武士だったが、安重根は高麗朝の名賢から数えて二十六代の孫という。安重根と龍馬の世界観には、人類社会の理想が通底していると思う。

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2011/07/13 15:08 2011/07/13 15:08


「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―23)   
                 
                                                         2011年6月1x日(x)

 安重根の『東洋平和論』の序の冒頭に、「人は結合すればうまくいき、離散すれば失敗するというのは古よりの定理である。現在、世界は東西に分かれており、人種もそれぞれに異なり、互いに競い合っている。利器の研究は農業や商業をしのいでをり、新しい発明である電気砲(機関砲)、飛行船、潜水艇などはみな人間に害を与え、物を壊す機械にすぎない」「青年たちを訓練し、戦場へ追いやり、多数の貴重な生命を生贄のように投げ捨て、血が小川のように流れ、肉片が地にちらばっている。そういう有様が、日々絶えることがない。(中略)このような文明世界というものはいかなる光景だというべきかこのように考えると、骨と身がずきずきと激しく痛み、心が冷えきるものだ」
 
 長い引用をあえてしたのは、講演者の一人小川晴久氏(東大名誉教授・近現代中韓史)が「東洋平和論の今日的意義」で述べたように、“テロリストのイメージが強烈だった”安重根が、国際連盟に10年、EU・APECに数10年も先立ち、東洋と人類社会の平和を志向していた人物と分かったからである。

「テロ」は、フランス革命最盛期の恐怖政治に端を発し、恐怖心を起こすことで特定の政治目的を達成しようとする組織的暴力の行使とされる。既成権力への抵抗手段の呼称「テロ」がおぞましい響きであるのに対して、権力が行使する組織的暴力は、“軍事作戦”“諜報活動”の表現で正当化されるので、その定義は、一筋縄では行かない。

 韓国総監を務めた伊藤博文を確信的に殺害した安重根を、テロリストとみるかどうかをためらう日本人もいたようだ。ただ、日露戦争の日本の大勝利を「天命」だったかのごとく絶賛したこと、博文暗殺から間もなく韓国併合が実施されたことを思うと、安重根の時局・人物判断のすべてが正しかったかには、微妙な面がありそうだ。明治憲法制定会議での伊藤博文が、「憲法の趣旨は、君権を制限し、臣民の権利を保全することにある」と述べているが、これは、国家権力は、専制的で侵略的であるから、憲法によって縛る必要があるとの認識をもっていたことになる。安重根が知っていたかは分からない。
 明治維新の夜明け前に縦横の活躍をして暗殺された坂本龍馬は、幕府権力からみれば、長州など幕府に楯突くテロリスト集団の一味と見られていたにちがいない。
 京都守護職の会津藩主松平容保の家臣で守護職公用人手代木直右衛門の子孫への伝言には、龍馬殺害は、新撰組でも土佐藩からの刺客でもなく、弟の佐々木只三郎によると書かれているが、長年、手代木家の子孫が秘匿した伝言で、寺田屋事件以来、諸説紛々の犯人探しに終止符が打たれるのであろうか。
 その最後が悲劇で終わるのがヒーローの条件とするなら、龍馬はもとより、安重根もオサマ・ビン・ラディンも、彼らを尊敬し、支持しする人びとにとってはヒーローなのであろう。
 ちなみに、京都祇園で遊興に耽っていたのは新撰組だけではなく、長州の志士たちも一晩に一千両を湯水のように使ったそうで、永田町住人の料亭政治は、与野党を問わずその流れを汲むものだったのか・・・。

 薩長を結びつけた龍馬は、西郷の暴力革命志向から無血革命に転向して殺されたが、安重根が示唆されたように、幕府も間違った人物を殺してしまったのではないか。

(続く)

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画像↑ 統一日報社編『図録・評伝 安重根』(日本評論社)より
2011/07/13 14:13 2011/07/13 14:13

「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―22)  
                               2011年6月x日(x)

「松本文郎のブログ」編集・制作担当のM女史から、『図録・評伝安重根』(日本評論社)の出版記念講演会と出版記念会へのご招待を受け、韓国文化院へ出掛けた。文化院とは20年来の「韓国音楽友の会・歌謡コンクール」のご縁だが、四ッ谷移転後の文化院へは、韓国女性声楽家金貞玲さんの離日に際して開催された送別コンサート(東京リーダーターフェル・ジルバーナの仲間が出演)以来の再訪だった。

 金貞玲さんとのご縁は、彼女が率いた女声合唱団とわが浦安男声合唱団が、国際合唱フェスティバル(東京文化会館)・サッカー・ワールドカップ共同運営・祝賀コンサート(横浜)で共演したことなどだった。

 安重根とのご縁といえば、1996年の世宗文化会館「浦安男声合唱団ソウル演奏会」の翌日に訪ねたソウル特別市の「安重根義士記念館」が始まりである。
日本では、「明治維新の元勲」を殺害したテロリストとみなすのが一般的な安重根が、韓国では、韓国支配の象徴的存在だった伊藤博文をハルピン駅頭で射殺した大韓義軍の参謀中将として英雄視されていることを知った。

 記念館に掲げられていた遺墨の雄渾な字に魅かれてコピーを求めたら、女性ガイドが、遺墨のコピーを買った日本人を初めて見たと言い、年配の団員からは冷ややかな視線を浴びたことが思い起こされる。

 講演会に先立つ挨拶で、『図録・評伝 安重根』を監修した統一日報社社長姜昌萬氏は、獄中で『東洋平和論』を書いた安重根が、韓日中がそれぞれ持てるものを生かして、東洋平和ひては世界平和を築こうと夢みた先見性を指摘し、現在の東北アジアの状況を安重根が見たら、「おまえたちはなにをしているのだ!」と叱られるだろうと述べられた。

 安重根の辞世の言葉に、「私は、大韓独立と東洋平和のために死ぬのだから悔いはないが、国権回復の日を見られないのが無念だ。われらの大韓が独立してこそ、東洋に平和が訪れ、日本も、将来の危機から免れることを深く考えてもらいたい」とあるそうだ。
 だが、「韓国併合推進派・大陸侵略派」とされる山県有朋、桂 太郎、寺内正毅、後藤新平らとは異なる考えの持主の伊藤博文を殺した安重根は、殺す相手を間違えたと非難するのが日本人一般であろう。
 ところが、「東洋平和論」の序に、欧州列強の中で最も邪悪な武力行使をしていた残虐なロシアをやっつけた日本を、“「天」の意思に遵い、「地」の配慮(韓・清両国)を得たもので「人」の正しさに応理しているとまで書いている。さらに、「日本とロシアが開戦するときの天皇の宣戦布告文にある、”東洋平和を維持し、大韓独立を強固にする“との大儀があったから、韓国と清国は一致団結して協力した」とも述べている。

 思えば、日露戦争に勝利した日本が、安重根が構想した東洋平和のために、欧米列強を駆逐するよりむしろ、列強と同じようにアジアの同胞を侵略する側に立ったことに、深い絶望を抱いたのであろう。伊藤博文個人の考えの問題ではなく、アジアを侵略するアジアの国日本の象徴とみたにちがいない。

 ソ連のアフガン侵攻に米国と共に戦ったオサマ・ビン・ラディンが、サウジアラビアへの米軍駐留に反発して9.11テロを起こしたとされるのに通底するものを感じる。安重根は、大陸侵攻と無謀な太平洋戦争で滅亡の危機に直面した日本を予見した。 (続く)



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2011/06/17 11:39 2011/06/17 11:39

「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―21)                  
                                                          2011年6月ⅹ日(ⅹ)

 Ginnyさんの「Let’s enjoy chats and debates in English 」の 2011年前期クラスが始まった。浦安市国際交流協会の外国語学習講座の一つ「中級英会話」のことである。

 前年の前・後期に参加して3期目となる。2,3人の新人を除いて親しい顔ぶれだ。
Ginnyさんはシアトル出身の女性で、20年前に来日。新潟の高校で英語教師を8年間勤め、日本酒・酒盗・納豆などが大好きになる。日本の伝統文化にも、かなり詳しそう。
クラスメイトの三分の二は女性で、日本人だけでなく、ロシア・中国・韓国系の人が混じる。定員は20名だが、受講を始めてからレベルが追いつかず中退する数人がある。
 通常は3月からの前期が、東日本大地震の被災地になったために教室が使えなくなり、5月半ばにスタート。毎期の世話役「CDR(コーディネーター)」2名は籤引きで選ぶ。今期は籤が当たったロシア系美人ユリヤさんと、自分から手を上げた私でコンビを組む。

 外国語学習グループの14クラスのCDRは、月1回、土曜の夜の定例会に出席して全体行事などの打合わせ・連絡をするので、男声合唱団の練習と重なる私はユリヤさんに定例会への出席をお願いすることにした。
 ところが、初回の定例会に出たユリヤさんが、そこで話される早い日本語のスピードにヒアリングが追いつけず、役目が果たせないと訴えて、数年参加のベテラン高山さんに交替してもらうハプニングが起きた。変則的な3頭立てCDRもわるくない。

“Chats and Debates”の話題は、Ginnyさんが準備する資料で示すものと、輪番で担当するショートスピーチのトピックスなどで、質疑応答をきっかけに談論風発が始まる。
 浦安が思いがけない被災地となったので、当面のトピックスは地震・原発・節電だ。常日頃使わないヴォキャブラリーを、Ginnyさんだけでなく、みんながよく知っているのに感心する。各人の節電の具体策を提案し合ったが、私は、朝日新聞社が公募した提案論文で書いた『脱原発とエネルギー政策』から、2,3の私見を述べた。

 エネルギー政策を立てる経済産業省資源エネルギー庁などによる日本全体の発電能力は、原子力を1とすれば、水力1、火力4で、震災前の操業率は、水力ほぼ100%、火力と原子力はそれぞれ50%前後だったから、火力を65%にするだけで電気は余る。原発がすべて停止・廃止されても、問題はないことになる。しかも、全体需要の20%近くは自家発電で、その90%が火力、10%が水力だ。大手企業は電力会社から電力を買うより安い自家発電設備を使っているのである。

 朝日新聞掲載の国際エコノミスト齋藤 進氏の「原発なき電力供給は目前」によれば、昨年の原子力発電実績を新型発電設備のガスタービン・コジェネレーション(熱電併給)に置き換えても、必要な新規投資額は8千億円程度で、その熱効率は、既存火力よりも30~50%も高く、二酸化炭素の排出量も大幅に下がるという。

 それを聞いたGinnyさん。「超暑がりの私にとっては、この夏が生死の問題なのヨ」と太った体をゆすった。日本の大手重工業メーカーはこの種発電設備を短期間で製造・設置する力をもっているから、2,3年ほどガマンしてもらい、私たちは、エアコンが家庭に普及する以前の、「方丈記」の鴨長明流に“家のつくりは、夏をむねとすべし”の暮らしに戻ればよいだけなのだが・・・。 


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2011/06/10 11:27 2011/06/10 11:27


「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―20)     
           
 

                                                                                                                   2011年5月2x日(x)

 「松本文郎のブログ」に長期連載中の『アラブと私』が先行掲載されているJCJ(日本ジャーナリスト会議「広告支部ニュース」5月号に、原発関連の興味深い記事が載った。

 この原発告発の手記は、原発建設工事に携わった一級プラント配管技能士、平井憲夫さんの遺稿で、本誌毎号に寄稿する坂本睦郎さんに転送メールできたものの紹介という。


 平井さんは、福島第一原発事故以前からも多発していた事故に危機感を抱いて、原発事故調査国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表のほか、北陸電力能登・東北電力女川原原発差し止め裁判原告特別補佐人や福島第2原発3号機運転差し止め訴訟の原告証人を務めたが、1997年にがんで逝去したという。

 20年間、原子力発電所の現場で働き、「私は原発反対運動家ではありません」と言う氏の切々とした訴えは、福島原発事故後のネット上で広がり話題となったが、原発推進派からは「作り話だ。嘘だ。本人が書いたものではない」とのリアクションがみられる、と坂本さんの紹介文にある。A4版で19枚に及ぶ手記は、数回に分けて掲載予定とか。


 平井さんは化学製造工場などのプラント配管が専門で、20代の終わりごろ、原発にスカウトされ現場監督として長らく働いた。1995年に阪神淡路大地震が起き、高速道路の横倒し、新幹線の線路落下などで発覚した施工不良が、原発工事にもありうることを憂慮したのが、手記執筆のきっかけという。


 世間一般では、原発・新幹線・高速道路などの工事には、監督官庁による厳しい検査があると思われても、新幹線の橋脚コンクリートに型枠木片が入っていたり、高速道路の支柱鉄骨の溶接溶け込み不良があったように、原発でも、原子炉の中に針金が入っていたり、配管の中に工具を入れたまま繋いでしまうヒューマンエラーが多いという。


 日本の原発設計は優秀でも、設計どうりにつくる最高技量の職人が少ない実態を知らないままに、「安全神話」がまかり通っていたようだ。

 福島原発では、針金を原子炉のなかに落としたままで運転して、一歩間違えば、世界中を巻き込む大事故になるところでも、落としたと知っていた本人は、大事故に繋がるとの認識を全くもたないような、原発の素人だったと書いている。


 一昔前には、若い現場監督以上に経験を積んだ班長がいて、事故や手抜き工事を恥とする誇り高い職人たちを率いたが、放射能被曝で後継の職人が少なくなり、経験不問で募集した全くの素人が、なにが手抜き工事かも知らずに作業をしていると訴えた。

 さらに、原発の作業現場は暗くて暑い上に防護マスクをつけていて、身振り手振りでは、ちゃんとした技術を現場(オン・ザ・ジョブ)で教え難く、腕のいい人ほど、年間の許容線量を早く使ってしまい、現場に入れなくなるという。


 原発事故が頻繁に起きはじめた頃、運転管理専門官を各原発に置く閣議決定がなされたが、原発の新設・定期検査のあとの運転許可を出す役人も全くの素人で、電力会社側では全くあてにしなかったことが、福島原発の緊急炉心冷却装置が作動した大事故発生時の読売新聞の見出し「現地専門官カヤの外」で、よく分かるという。


 平井さんは、天下りや特殊法人ではない第三者機関が、工事・定検の現場経験豊かな人を検査官にすべきだと主張しつづけ、日本の原発行政は無責任でお粗末だと憤慨していた。その実態は、今回の原発事故を巡る原子力安全・保安院の言動でも、よく分かる。


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2011/05/28 11:21 2011/05/28 11:21

「文ちゃんの浦安残日録」(Ⅰ―19)                   
                           2011 5 2ⅹ日()

 東日本大震災を報じたイギリスのテレビ番組で、福島第一原発の事故現場の惨状が、原爆焼け野原になったヒロシマの二の舞だと報じたそうだ。

被爆したまま保存されている旧広島産業館の原爆ドームに、水素爆発で捻じ曲がってむき出しとなった原発建屋の鉄骨のイメージが重なったのか。駐英日本大使館がテレビ局を呼んで厳重に抗議したという。東京都知事の「天罰」発言と同じように不遜なものとは思えないが、よく似た廃墟の情景へのウカツな表現ではないかと、英語で聞いてはいない私には思われる。

ヒロシマ原爆を重大に受け止めつづけてきた日本人の怒りの気持ちを、日本外務省・在外公館は、戦後六十四年の間、どれだけアピールしてきたのだろうか。日本への二度の原爆投下の不条理を、テレビ局側が重くうけとめていなかったと抗議するのもいいが、核兵器削減・廃棄についての日本政府の国際的広報活動は、日頃十分だっただろうか。

国民小学校四年で疎開してヒロシマ原爆を免れた私には、福島原発事故をヒロシマ・ナガサキの原爆と重ねて見る英国マスコミ人の感覚が、“ケシカラン”とは思えない。 

未曾有の東日本大震災と六十六年前の晴天の霹靂の終戦に、「原子放射能」への恐怖が重なって見える。米国による原爆投下が終戦を早めたかどうかは意見の分かれるところだが、数十万人が苦しんだ放射能被曝の悲惨は、米国の政治的圧力の下、長年、世界の人々に知られてこなかった。遺伝子への影響が子孫におよび、被爆家族は、婚姻の障害になるのをおそれ、被曝の事実をひた隠しにしてきた。

被爆者の高齢化・死去で原爆体験の語り部も減り、スリーマイル島・チェルノブイリ原発事故の放射能恐怖が風化しかけていたところに、大地震による福島第一原発事故

の発生だった。大津波が襲った村や街の悲惨な光景と原発事故の緊迫した状況の映像が世界を駆け巡り、飲料水や農産物・魚介類の放射能汚染騒ぎが国内外で連日報道された。

二ヶ月後の今も、世界中の目が、事故の沈静化に懸命に対応する日本に注がれている。

これからの日本のエネルギー政策は、第一次エネルギー供給と発電資源の組合わせにおける原子力エネルギーの位置づけが重要なポイントとなろう。

「原発依存の継続」か、「脱原発」かである。ヒロシマ・ナガサキ原爆投下による日本人特有の放射能アレルギーと福島原発事故で惹起された各国原発政策の見直しの視点でもある。

憲法九条(不戦の誓い)の国是をもち世界唯一の原爆被曝国の日本には、地球全生命を絶滅の危機に晒す核兵器の削減・廃棄の旗振り役で人類社会の平和的共存に貢献する責務があるのではないか。間もなくのG8での菅首相は、「脱原発」をめざすことこそが、世界の正しい選択だと提唱すべきではないか。

原子力をエネルギー政策の柱とした、大震災前の国政の見直しは喫緊の政治的課題であろう。

 東日本大震災を機に、「明日の日本を考える」とは、地震・津波による壊滅的被害を受けた村や街の復旧・復興、リーマン・ショック後の経済復興、混迷する政治改革の国民要求、さらに、原発の安全性と核兵器削減・廃絶という人類社会の複雑系諸問題を重ねて考えることなのだ。 



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2011/05/27 14:44 2011/05/27 14:44


「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―18)               

                                                                                                                       2011
523()

 

早大卒建築家・絵画グループの春季「彩寿会展」・パーティに招かれ、楽しいひとときを過ごした。NTT建築部門OB仲間の一人倉橋潤吉さんの、いつものご好意のお陰だ。秋季の展覧会は、三田にある建築学会・建築会館ギャラリーだが、春は、銀座が会場。

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 多士済々の絵が架けられた会場中央の卓上に、ご馳走やワインの瓶がズラリと並ぶ。「彩寿会展」のパーティーの魅力の一つは、愛知万博のプロデューサー原田鎮郎さんが呼ばれる音楽家の演奏。いままでに、ピアノ・二胡・ギターなどの演奏をほろ酔い気分になってから聴かせてもらったが、今回は、オカリナの富蔵さん。原田さんが、万博で名古屋市に滞在中にみつけられた料理店のオーナーだったと紹介された。
 二回のステージの演奏はこころに沁みる音色がすばらしく、楽器の半ばは自作と聞く。

 東日本大震災犠牲者の冥福を祈る黙祷で始まったパーティに相応しくて、私の好きな 曲でもある[What A Wonderful World] の演奏の末尾に『ふるさと』が挿入されていたので、そのわけを伺うと、3年ばかり前のパーティーでギターを弾かれて間もなく故人となられた方(仙台在住だった)の編曲で、ご冥福を祈って選ばれた由。すばらしい。

 愛知高原の酪農家での住み込み経験をもつ富蔵さんは、自然に学ぶことを身につけて、山歩きや自然写真を始め、写真エッセイ集『Seed』を出版(1991)。オカリナの演奏家活動を1993年に開始して、初のCD『轟』を発売したのが1999年という。

 料理店オーナーからの見事な転進ぶりにいたく共感したので、ご持参のCD『富蔵』を求めて、サインをもらう。これをご縁に、お互いのメッセージを交歓し合いたいと、唄い・描き・詩文を書く活動を列記した手作り名刺を渡した。

 会
場で、日本建築学会男声合唱団の創立20周年記念演奏会で一緒に唄ったテノールの田嶋さんと5年ぶりに再会。来春の25周年記念演奏会に向けて、彩寿会メンバーの田畠さんとも唄っているから参加しませんかと誘ったが、どうやらコーラスは“ご卒業”の様子。各人の残日は、それぞれの気の向くままにが一番よかろうと思う。

 絵画展といえば、われらがNTT建築技術者OBの「みなづき会展」も来週だ。昨年同様、「松本文郎のブログ」への掲載をT新聞社のM女史にお願いしたばかりだ。

 今年の出品作品は、『被災地浦安の春』と題し、3・11の約一ヶ月後“花まつりの日”から3日間、「ふれあいの森公園」に通って描き上げた。

大地震のせいか、東京湾からの稚鮎の遡上が例年より早まった見明川沿いの桜並木は満開で、その背後に見える家並みのなかには、液状化で傾いたままの家も見えている。

芽吹きはじめた大芝生には枯芝が混じり、周囲には、芽吹きの兆しが現れたばかりの裸木もあるが、風薫る五月になれば、芝も木立も新緑に染め上げられ、ライフラインの寸断で不自由な暮らしを余儀なくされた公園周辺住民の憩いの場所になるだろう。

20余年来の日本語教師を辞したお千代は、「ふれあいの森公園を育む会」のメンバー

になったばかり。開園して数年の「花いっぱいクラブ」のベテラン女性から教えてもらいながら、苗の育成・雑草取り・花植えの土仕事にいそいそと出向いている。

 未曾有の大震災をたらした自然はいま、季節の花々と風に光る新緑で、傷つき疲れた私たちのこころを癒してくれている。

 自然の一部である人間は、もっと謙虚に生きなければと想う。



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2011/05/26 12:06 2011/05/26 12:06


「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―17)                 
 
                                                                                                                           20115X(X)

 

 世界が見守る福島原発事故沈静化の行方が見究められない緊迫状況で、菅政権打倒の政局化を画策する政治家がいるとは、実に情けないことだ。“挙国一致”ば戦時中を思い出させる言葉で敬遠したいが、政治家と国民が総力を挙げて対処する事態には違いない。

 しかも、東日本大地震が襲った日本は、歴史的政権交代をしたものの、迷走する政治と経済不振で社会全体に閉塞感が充満しているのだ。

 年金制度への不信がきっかけの社会保障・福祉政策の見直し、リーマンショック以降の世界経済不況のなかの経済・財政構造改革、外交・安全保障の自立化政策など諸課題を抱えたままの「3・11」だったことを忘れてはならない。

 私たちは今、大震災と原発事故からの復旧と日本の国全体の復興を重ねて構想すべき地点にいる。京大建築学科の恩師西山卯三先生は、人間居住環境・地域計画の学術調査・建築都市計画学を、民衆の立場から推し進めた世界的権威だった。先生が安藤忠雄さんの座につかれたらどんな提言をされるかと想っても、鬼籍に入られて久しい。

 卒業同期には、大学教師となって先生の学術的所産を発展的に受け継いだ学友数人がいる。浦安被災で電話やメールをくれたそれらの学友らに、阪神淡路大震災の復興計画に関った際のノウハウを東日本の再生に生かせないかと聞くと、都市と農漁村の違いに加えて原発事故が複合している事態にすぐには歯が立たないと言う。そうかもしれない。

 喜寿とはいえ、専門学術的蓄積と複雑系課題のソリューション総合能力は、若い学者

に勝るとも劣らないのではないか。被災者にとっては不幸の極致だが、研究者にとっては千年に一度といわれる絶好のチャンスではないか。政府お抱えの学者より自在な立場で、西山卯三流の在野精神を発揮し、最後(?)のひと働きをしてみてはどうか。

 折りから、朝日新聞社が設立した「ニッポン前へ委員会」が、あすの日本を構想する提言論文を募集している。締切りの5月10日まで執筆の日数はわずかだが、ダメもとで、8千字の拙論を書いてみるか。

 土木工学分野でも同種の提言論文を公募しているらしく、一回り年下の次弟は、早々と「三陸海岸の『災害ゼロ都市』への復興再生」」と題した論文で応募したという。大手の海洋・河川土木建設会社のあと、二つ目の土木技術コンサルタントに勤めているが、海外勤務の経験もある彼にとって、またとない活躍の好機であろう。ガンバレ!!

 彼によると、海中に設けた高さ60米の津波よけコンクリート壁があっけなく押し倒されたのは、自然力を甘くみた設計思想の当然の帰結で、彼の復興計画コンセプトの第一番目に、「自然力に抵抗することなく受け入れて、生命・財産を守る」と書いている。

 自然の力を腕ずくでねじ伏せる考えは、西洋近代の科学技術思想と無縁ではないが、

しっかりした自然観(宇宙観)からは出てこないものだ。地震・津波・台風・洪水などの来襲・被災が常態化しているアジアでは、自然と親和性のある居住環境構築がなされてきた。巨大竜巻や大洪水に見舞われているアメリカ大陸ではどうであろうか。

 日本の復興・再生構想では、電力の生産・消費の大変革への提言がメダマになろう。

原子力発電依存から早期に離脱するか、段階的削減と自然エネルギーへの転換の道筋を選ぶかに分かれる論議を、世界中の人びとと共に深めて行こう。

 地球全生命との持続的共生を科学技術の光と影の中で探求するのは、人類的課題だ。


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2011/05/25 12:16 2011/05/25 12:16