アラブと私
イラク3千キロの旅(80)

 

                           松 本 文 郎        

 

 ガレージの店先のテーブルに座ってから2時間余りが経っていた。

 アレコレと話が弾み、出前のコーヒーを二度もごちそうになり、いとまを告げようとしたとき、ハッサンに大阪万博のことを訊ねられ、話は原子力発電にまで及んだ。

「つい長居をしてしまいました。お仕事の邪魔になったのではないですか」

「とんでもない! こちらこそいろいろと教えていただきありがとうございました」

 カレージ前の道から流れてくる空気の温度が下がったように感じた。チグリス川からの夕風になったのだろう。

 ユーセフとハッサンがアラビア語でなにか話し始めたので、私は奥から出てきた見習い少年に、「シュクラン ヤーニ」と、出前コーヒーを頼みに行ってくれた礼のつもりで握手をした。

 小年の手は、荒れていてやや固かった。

 3人の歓談の半ばは英語だったが、私の英語をユーセフがアラビア語で伝えた部分は、少年にもいくらか分ったのではないかと思った。好奇心があふれるような彼の目は、キラキラしていた。

 ハッサンと話を終えたユーセフが、「キャブレターのフィルターの目詰りはきれいにしたので、バグダッドまでは大丈夫だと言っています。バグダッドの知り合いの大きなガレージで見せて、クウエートに戻るまで問題ないようにします」

「うん。それでいいよ。長い時間お邪魔したけど、なにかお礼しなくてもいいのかい?」

「大丈夫ですよ。どうしてもというお気持ちなら、クウエートから持ってこられたタバコでも」

 輸入タバコに関税がかからないクウエートでは、日本で2百数十円もした20本入りケント1箱が40円。日に80本を喫うヘビースモーカーの私は2カートンを、寝酒にするジョニウオーカーの黒と一緒に車のトランクに積んでいた。

「イラクでは外国タバコが高いので、よろこぶでしょう。自分で喫わなくても、友人にやればよいですから」

 私は車のトランクから2箱のケントを出して、ハッサンに手わたした。

「こんな高価なタバコを、どうも。お返しに差し上げたいものがありますから、ちょっと待っててください」

 ガレージ奥の居住部分に引っこんだ彼は、しばらくして、1本のワインを抱えてきた。

「モースルのワインです。教会で出されたのと同じ自家製です。この辺りでは良いブドウが採れてうまいワインが出来るのです。ユーセフと今夜の宿で飲んでみてください」

「地ワインですね。ありがとうございます。今夜、飲むことにしましょう」

 名残惜しそうなハッサンと握手を交わした私は、トヨペットクラウンの助手席に座り、窓のそばに立っている彼に言った。

「イラクの未来は、あなたたち若い技術者のものですよ。長いオスマン帝国やイギリスの支配からやっと抜け出したお国の近代化がうまく行くように祈っています!」

「戦争で敗れた日本の復興にガンバッテこられたバッシュモハンデス・マツモトにたいへん刺激を受けました。イラクの石油と日本の家電製品や車などで交易が盛んになることを願っています」

 運転席のユーセフと二言三言やりとりした彼は手を挙げた。

「サラマレイコム。インシャーラ!」

 動き出した車の私は、「シュクラン(ありがとう)マッサラーマ(さようなら)」と応え、手をふった。

 車が表通りへ出て、ユーセフが訊ねた。

「今日はあちこちご案内したのでお疲れでしょう。モースルにはバスラのようにクラブもありませんし、泊りも朝食だけの安宿です。この大通にカバブの店がありますから、ホベツ(パン)とペプシを買い、宿でハッサンのワインを飲みながら夕食にしましょう」 

「ああ、それがいい。とてもくたびれているから、シャワーを浴びて一休みしてからだね」

 

しばらくして着いた店先で、細長い鉄の箱の炭火焼きのカバブ数本とペプシコーラ4本を手に入れた。

ユーセフが予約していた宿は、ハッサンの店のように裏道に面していたがパーキングがないので、道路わきに停めるしかなかった。 

「ここで大丈夫かい?」

「モースルの人たちは純朴ですし、宿の前のほうが安全ですよ」

 ベッドと小机だけの小さな部屋が並ぶ廊下に、共用のトイレ・シャワーが2ケ所ある。

 部屋に入るなり、からだをベッドに投げ出して横になった。疲れがドッと出て、そのまま眠ってしまいそうだった。

シャワーを浴びてシャンとしようと廊下へ出ると、ユーセフも、自分の部屋から出てきたところだった。

「シャワーのあと、30分ばかりウトウトさせてくれないか?夕飯はそれからでもいいだろ?」

「ええ、私もちょっと横になりたいですから。小1時間ほどして、部屋に伺います」

 

 シャワーで、疲れと眠気が洗い流されたのか、意外なほど、生き返った気分になった。ベッドに大の字になってユーセフが出合せてくれた人たちの風貌と人柄をなぞって、その背景にある風土と歴史に思いを馳せた。

 古代、初期アッシリアの砦の町だったモースルは、ニネヴェに首都を築いたアッシリア帝国滅亡(紀元前609年)の後、シリアとアナトリアを結ぶ幹線道路のチグリス川渡河点として栄えて、重要な交易拠点としてペルシャ・アラブ・モンゴル・オスマン諸帝国が去来する要衡の地となった。

 ペルシャ・ササン朝を滅ぼしたアラブ人たちの、ムスリム史上初の世襲ウマイヤ王朝の首都として、繁栄の絶頂期を迎えたモースル。

 古代から数千年に及ぶ諸王国の興亡のなかで、この地には数えきれないほどの人間の血が流れ、アッシリア東方教会信者の末裔の牧師やハッサンには、先祖の悲惨な運命もあった。

 モースルは、第1次世界大戦の戦後処理でオスマン帝国が解体された1921年まではトルコの1行政州で、イラク自体が、バグダッド・バスラ・モースルの3つの行政州をイギリスが恣意的に統合して作った、新しい国である。

 行政州と云っても帝国の威令が及んだのは一部の都市部だけで、地方では有力な部族が跋扈して、諸侯乱立の状態だった。

 住民の大半がイスラム教徒で、ジャズィーラ(島)とよばれたバグダッドやモースルのスンニ派社会がシリアに抜ける交易圏だったのに対し、バグダッド以南のメソポタミアと呼ばれた地域のナジャフ、カルバラーはシーア派社会の聖地として、イランやインドからの巡礼や留学の往来で1つの経済圏を成していた。

 数千年にわたり色々な民族・文化が往来して興亡を重ねてきたモースルで、非ムスリムの2人のクリスチャンとクルドの民族宗教ヤズィーデー信者の老人との出会いに感謝したとき、ドアにノックの音がした。

「少しは眠られましたか?」

「いやネ。シャワーを浴びたら案外と疲れがとれて、キミが会わせてくれた人たちのことを考えていたんだヨ」

「チーフはやっぱり建築家ですね。牧師やハッサンと交わされた話の幅広さに、好奇心や知識欲のすごさを感じましたよ」

「それじゃ、ハッサンにもらったワインを飲みながら夕飯にしよう。アハラムが持たせてくれたクレーチャが昼飯がわりだったので、腹が空いているだろうね」

「私にとってのクレーチャは帰省してクウエートとバグダッドを往き来するとき、いつも母親が弁当代りに持たせてくれる大好きな食べものです」

 ワインを飲むコップを、ユーセフが自分の部屋の洗面所へ取りに行った間に、ワインとペプシのボトルを私のベッドわきの小机に並べた。

 椅子は1脚だけなので、ベッドカバーの上に向き合って胡坐をかき、シシカバブーとホベツの包を開いて、倹約ひとすじの旅の夕食を始める。

店先で求めたカバブはホベツに包まれていて、焼き汁がほどよくホベツにしみている。

「旨そうなカバブだね!」 

「あのカバブ屋のは美味しいのです。護岸工事の現場監督のときは、よくテイクアウトして下宿の部屋で食べました。レストランは高くつくし、安い食堂はありませんでしたから・・・」

「カバブは、典型的な中東料理の一つだね」

「そうです。クウエートでは多くのエジプト人が働いていますから、コフタと呼ぶ塊肉の串焼きの店もありますが、イラクのカバブは、アハラムの家で食べたように、羊肉のミンチにいろんなスパイスを混ぜこみ、串に長細く練りつけて焼きます」

 私たちはまず、ハッサンのワインで乾杯した。ワインがなくなれば、ホワイトホースのペプシ割りウイスキーだ。

 ラマダンなので沢山つくったからと、数食分ももらったクレーチャは、かなり残っていた。

 車から移したポータブル・カセットデッキのレバノン音楽をBGMに、手で千切ったホベツにカバーブを包み、せっせと頬張ってはワインで流しこんだ。

 空腹が満たされ、ほろ酔い気分になった2人に、みるみる元気が戻ってきた。

「出会ったばかりのハッサンといろんな話ができてよかったね。教会の牧師さんもだけど、日本の若者との時局談義と変わらない感じだった」

「それはよかったですね。大学出のインテリたちですから、バース党政権のイラクがどうなるのかを真剣に考えているのでしょう」

「よく知らない人間に警戒心を抱かずフランクに応対をしてくれたのは、とにかくキミのお蔭さ」

「チーフが一所懸命にアラブのことを考えているのが、彼らに伝わったからですよ」

「電気通信研究所・建築計画の技術指導で2年前に滞在したテヘランでは、よく知らない人間とは、政治的、思想的な話を絶対にしてはいけないと、出国前のレクチャーでくぎを刺されたよ」

「そういえば、この旅にご一緒するまでのチーフと、こんな話をしたことはなかったです」

「ワインが空になったから、ウイスキーのコークハイにするかい?」

「いいですね。今夜は語り明かすとしますか?」

「そうしたいのは山々だけど、明日はニネヴェの遺跡に寄って、バグダッドまで戻る強行軍だから、そこそこ、寝なくちゃならないだろうけど・・・」

 私は旅行カバンからジョニウオーカーを取りだして小机に置いた。コーク割りもわるくない。

いわゆる「ジョニ黒」の日本国内の値段は、「赤」の2、3倍だが、クウエートでインド人のヤミ屋から手に入れるジョニウオーカーは、なぜか均一の5千円。青島ビールの小瓶の千円に比べたら、ウイスキーは割安だ。

 私と自分のコップにコークハイをつくりながら、ユーセフが訊ねた。

「差支えなければ、ソ連の社会主義をどうみておられるかを聞かせてくださいませんか。さっき、日本の敗戦前後にソ連軍が唐突に参戦したので、イヤな感じをもたれていると仰っていました」

「うん。ポツダム宣言受託をめぐる日付け問題もあるけれど、中国大陸にいて捕虜になった日本兵を60万人もシベリヤに抑留し、厳寒の地の過酷な強制労働で1割もの死者が出た残酷さがね」

「国際条約では、捕虜を強制労働に使役するのは禁止されているのではないですか」

「そうだけど、条約加盟の有無もあるし、日本軍もやっていたようだから、なんとも言えないところがあるんだよ・・・」

「大阪万博のソ連館入館者は、アメリカ館よりも多かったとか・・・」   
     

                                                                     (続く)

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2013/07/10 21:01 2013/07/10 21:01


 NPT
と日本               
                                                    2013年4月26日(金)

                             松 本 文 郎

 

昨日の「靖国参拝問題」の文尾に、本殿に向かう厳粛な顔の代議士らの報道写真を配したのは、編集担当森下女史。別の報道ビデオで、“ニヤツイテ”いるのを撮られた女性も神妙な顔つきだ。

 真摯な気持ちで戦死者を悼むのなら、報道陣が待ち構えているなかではなく、別の折に、何度でもお参りするとよい。ふれあいの森公園で見上げるケヤキの若葉が、誰にみせるともない風情で、さわやかな朝風にゆれているのとは対極のシーンである。

 早朝散歩から戻って開いた朝刊に、「核の傘 矛盾またも」の大見出しがあった。核不拡散条約NPT)の第2回準備委員会の“核兵器の非人道性を訴える共同声”に、“唯一の戦争被爆国”の日本が、第1回準備委員会と同じように賛成しなかったという。

 核が使われると人道上、破滅的な結果を招くとして、「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」と明記された共同声明に、日本は署名しなかったのである。

 米国によってヒロシマ・ナガサキを原爆被爆都市にされた日本が、敗戦後も、その国の“核の傘”を頼りにしてきた矛盾は、これまでの国際会議のさまざまな対応にも表れていた。

 わが故郷広島出身の岸田外相が就任以来、核軍縮にこだわりを見せてきたのを頼もしく思っていたが、広島市の松井市長と長崎市の田上市長も、署名見送りを批判して憤懣やるかたないし、『黒い雨』を書き遺した郷土の文士井伏鱒二も、岩に閉じ込められた大サンショウウオよろしく、草葉の陰で憂苦しているに違いない。

 北朝鮮の核の恫喝を意識した菅官房長官の「現実に我が国を取り巻く厳しい安全保障の状況を考えた時に相応しい表現かどうか」の談話は、米ソ間の冷戦さなかのキューバを舞台に核戦争の寸前まで達した危機的状況の悪夢を念頭においた、米国追従の政治的言い訳であろう。北朝鮮の仮想敵国はまだ休戦中の米国だが、日本も入るとすれば、朝鮮戦争以来の米軍基地があるからだ。

 核戦争が人類存続を危うくすると分かっているならば、被爆で命を失った両市民の尊い犠牲をムダにすることなく、即刻の核兵器廃絶を主張することこそが、“不戦の誓い”をたてた平和憲法と相まって、人類社会の未来に希望をもたらすのではないか。

「松本文郎のブログ」に「残日録」のカテゴリーを新設したのは、3.11がきっかけだったが、(19)で、福島第一原発事故をヒロシマ・ナガサキの戦争被爆と重ねて論じ、核兵器の削減・廃絶の旗振り役で人類社会の平和共存に貢献する責務をもつ国の首相管直人さんが、近く開催のG8において、「脱原発」こそが、世界の正しい選択であると提唱すべきことを書いた。

 ところが、大型連休中にトルコを訪問する安倍首相が、黒海の沿岸都市シノップで計画されている原発の建設事業を日仏企業連合で受注する大筋をエルドアン首相と合意する報道があった。

メルトダウンした核燃料の所在が不明で水をかけて危険な温度上昇を辛うじて防いでいる状況の日本の原発を平気で他国に売るというのは、アベノミクスのメニューかもしれないが、世界のこころある人たちの日本人への信頼を裏切るものではないか。

“安全神話”が崩れた福島第一原発の掛け替えのない教訓を活かすのなら、原発の廃炉・使用済み燃料貯蔵の関連技術を開発して原発運転中の諸国に輸出する方が、おおいに大義名分が立とうというものだ。相手国の政権が欲するのだから構わないという向きもあるが、国の政策に反対の国民の存在を忘れてはならない。日立受注がほぼ確実だったリトワニアの国民投票で、「建設反対」が多数だし、トルコに建設する原発が大事故を起こしたときの国家賠償責任をどうなるのか。

 一国のリーダーの第一要件は国民を安心させることだが、安倍首相には心配がつきまとう。


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安倍晋三首相は5月3日、トルコのエルドアン首相と会談し、両国が原子力協定を締結することで合意した。
2013/05/03 18:43 2013/05/03 18:43


アラブと私

イラク3千キロの旅(75)

 

                            松 本 文 郎 

 

アフガニスタン紛争やイラク戦争で強硬姿勢をとったブッシュ政権を批判したオバマ大統領は、アルジェリア事件への欧州諸国の対応の様子見と、緊縮財政の国防予算削減で共和党と対峙しながら、世界各地の紛争・戦争への関与についての新たなスタンスを構想しているのだろうか。

 グローバル・ポスト記者トリスタン・マコネルによれば、襲撃した武装集団はアル・カイーダの関連組織でその影響を受けているが、活動の根源にあるのはマリの人びとの不満や民族主義だとし、その動きから、国外の周辺地域や世界にとっての脅威になりつつあるとしている。

 アメリカを中心とした欧米諸国の国際石油資本(石油メジャー)によるエネルギー利権支配へのアラブ・アフリカ産出国の民衆の反発と、独裁的軍事政権が崩壊した「アラブの春」についてはかなり寄道をして書いてきたが、今回の事件は、第一次大戦の終結に端を発する根深いものだ。

 第1次大戦は、同盟国(ドイツ、オーストリア、オスマントルコ帝国、ブルガリア)と連合軍(協商側27ケ国)が戦った空前の大戦争が長期化し、両軍合計の動員兵力7351万人、死傷・戦死者3千万人、直接戦費は2千億ドルに及んだ。

 広大な版図を誇っていたオスマントルコは解体され、エジプト、イラク、パレスチナをイギリスに、モロッコ、チュニジア、レバノン、シリアをフランスに奪われたほか、ギリシャやイタリアの領土割譲で、首都イスタンブルとその周辺以外の領土をことごとく奪われたのである。

 中世から20世紀初頭まで、中部ヨーロッパで強大な勢力を誇ったハプスブルグ家(形式的には全ドイツ人の君主)のオーストリア・ハンガリー帝国は大戦末期の1918年に崩壊し、終戦後のヴェルサイユ体制下のドイツは、すべての植民地の放棄、アルザス・ロレーヌ地方(鉄鉱石産地)のフランスへの返還、ザール地方(石炭の宝庫)の国際連盟管理など、フランスによる苛烈な報復に加えて1320億マルクものとてつもない賠償金が課せられた。

 この未曾有の総力戦でヨッロパ諸国は軒並み債権国に転落したが、途中で参戦したアメリカは、厖大な軍需品や食料の供給で、世界でずば抜けた債権国となった。

 ちなみに、日英同盟によってドイツに宣戦した日本は、全般に利害を持つ戦勝5ケ国(米・英・仏・伊・日)でパリ会議の主導権を握り、山東半島、太平洋諸島などドイツの権益を奪う漁夫の利を得ている。

 

今回の人質事件が、「パレスチナ問題」にかかわるとのアメリカ政府筋の見かたの根底に、植民地主義時代のフランスとロスチャイルドとの関係があるかどうかはともかく、第1次大戦で英・仏が手に入れた植民地的統治国の長い支配と搾取・抑圧に対する民族主義の抵抗運動があると思われる。

 アメリカは、イギリスの北米植民地の独立戦争で1776年に成立した歴史の浅い国だが、建国の過程では、先住民族をめぐる収奪や残虐行為、アフリカから拉致された黒人奴隷の悲惨な犠牲があったことを、ここで再認識しておきたい。

 ロスチャイルド家はユダヤ系ドイツ人の一族で、初代のマイアー・アムシェル・ロートシルト(1744~1812年)がフランクフルトに開いた古銭商・両替商に端を発し、ヴィルヘルム1世との結びつきで経営の基礎を築き、ヨーロッパに支店網(フランクフルト・ロンドン・パリ・ウイーン・ナポリ)を設けて5人の息子に担当させ、彼らの相互協力で世界の「ロスチャイルド」になった。

 ロンドンのネイサンは、ナポレオンの欧州席巻の中の金融取引で活躍したが、ナポレオン敗退の報でいち早く英国債の空売りによる暴落を誘導後、買い占め取引を仕掛けて巨利を得、英国金融界での地位を確固たるものにした。

 彼は、第1次大戦の戦費をイギリスに援助したほか、スエズ運河の買収資金を提供したり、パレスチナでのユダヤ人居留地の建国を約束させた、「バルフォア宣言」などで政治にも多大の影響力をもった。

 パリのジェームスは、前述したように、当時の成長産業だった鉄道に目をつけ、パリ・ブリュッセル間の「北東鉄道」を基盤に事業を拡大したが、1870年には、資金難にあえぐバチカンに援助して取り入り、ロスチャイルド銀行が、バチカン銀行(正式名称は宗教活動協会)の投資業務と資金管理の主力銀行となる。

 バチカンは世界中のカソリック信者11億人を統括する権力機構でもあるが、高齢の法王ベネディクト16世の突然の辞任表明で、2013年2月末現在、次期法王選出のコンクラーベの準備中だ。

 各国を相手にした政商ぶりは、日露戦争の厖大な戦費を調達する外貨建て国債をロンドンで発行したとき、ニューヨークのユダヤ人銀行家を紹介。その支援で成功した外債募集の資金で軍備を充実させた日本は、世界の強国ロシアを破った。

 東郷元帥が率いた日本艦隊の奇跡的な戦勝で、ロシアから領土と満州の鐡道利権などを手にしたが、賠償金を獲得できなかったために、銀行家への金利を払いつづけ、日露戦争で最も利益を得たのは、その銀行家だったという。

 ロスチャイルド家の紋章は、オーストリア政府から(1822年)男爵の称号とともに授けられたもので、盾にある5本の矢をもつ手は、創始者の5人の息子が築いた5家系を象徴し、盾の下に「調和・誠実・勤勉」の家訓が刻まれているが、どこか、日本人の価値観に通うものがある。

山本七平(筆名・イザヤ・ペンダサン)氏の著『日本人とユダヤ人』を再読し、『日本資本主義の精神 なぜ、一生懸命働くのか』と『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』を読んでみよう。

 中世から20世紀までのヨーロッパで数百年も君臨したハプスブルグ家が、大戦後に解体されて2百年近くなる現在、狂暴化した金融資本主義の渦中の金融グループとしてのロスチャイルド家が、グローバリズムの伝道者のような活動を展開しているのは、世界の近現代史の背景として、好奇心をそそられる。

 既稿で、ジョン・パーキンス著「エコノミック・ヒットマン」のさまざまな事例に触れたように、第2次大戦後のアメリカは、世界中の開発途上国(旧植民地)の資源・労働力・市場などを経済的に支配する多国籍企業の中核的存在であり、グロバリズムの旗を振りかざしながら、世界第1位の経済大国として君臨してきた。

 かつての植民地宗主国が築きあげた国際的経済協定が、第2次世界大戦後の脱植民地化で独立した国々での経済支配を維持するために今も利用されている実態が、16世紀~20世紀にかけてのヨーロッパの植民地主義をほうふつとさせるとして「新植民地主義」と呼ばれているそうだ。

また、現代のラテンアメリカでの大国による小国への内政干渉が帝国主義時代の列強諸国の行動に似ているとして、「経済的帝国主義」の意味でも使われているようだ。

 

 9・11でアフガニスタンとイラクに進攻したアメリカの一国主義的な行動を英仏などが追認したが、フランスが単独で武力進攻した今回の事件の様子見には、オバマ大統領の複雑な立場と心境が垣間見える。

 シオニスト的なユダヤ人ロビイストが跋扈する米国連邦議会の様子を聞くにつけ、イスラエルの右派政権が強行するパレスチナの人びとへの傍若無人な行動を抑えるのは、2期目のオバマ大統領にとっても容易ではないだろう。

 ロビイストの中でロスチャイルド家がどんな位置を占めているか知らないが、初代からの政商的な才覚のDNAはさらに進化して、相応な影響力を及ぼしているのであろう。

 英仏の折々の政権やローマ法王庁とまでも深い関係を結び、巨大な富を手にしてきただけに、巷には、様々な流言飛語が飛び交っているようだ。

 世界戦争や大恐慌、リーマンブラザ―ス破たんや9・11事件などが「ロスチャイルドと世界統一政府」の計画と仕業だとの珍奇な陰謀論があり、ほかにも、ユダヤ陰謀論、ロックフェラー陰謀論、フリーメイソン陰謀論などもあるという。

 なんでもありのアメリカでは、「アポロ宇宙船による月面着陸」は捏造だとする都市伝説もある。

それを主張する団体(大地平面協会)は進化論をを否定し、地球は旧約聖書にあるとおり平らだと信じているそうだ。

「神が約束したシオンの丘のエルサレムへ帰ろう」とユダヤ人の歴史的な特権を主張するシオニストとは関連ない団体だろうが、良識あるイスラエルの人びとの歴史認識と世界平和への意欲に期待したい。

                                   (続く)


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2013/04/12 17:42 2013/04/12 17:42


アラブと私
イラク3千キロの旅(74)

 

                              松 本 文 郎 

 

米国政府の中に、「アルジェリア人質拘束事件」が「パレスチナ問題」に関わっている見かたがあるとの新聞報道があったが、一体、どういう脈絡があるというのか。

9・11では、その要因の一つにイスラエルへの肩入れがあったとされたが、アルジェリアの事件は、フランスのマリへの唐突な武力進攻が引き金の一つとされた。

 フランスは旧マグリブ諸国の宗主国であり、アルジェリア独立戦争で政治的混乱が生じて以来、多くの民族が存在するマグリブ地域では、様々な紛争が起こってきた。

 今回の事件は、アフリカにおけるアル・カイーダ「イスラム・マグリブ諸国のアル・カイーダ機構(AQIM)」による2002年以来の反乱の一部とみられている。

「アルジェリア戦争」(1954~62年)は、宗主国フランスによる1830年からの長い支配に対するアルジェリアの独立戦争だが、その対応をめぐりフランス中央政府と軍部が分裂して、内戦的事態に至ったことは、仏現代史の汚点とされている。

 フランス政府は、軍による現地村落の住民虐殺を「忘却政策」の報道規制で忘れさせようとしたが、90年代に起きた「記憶の義務運動」で、アルジェリア戦争での拷問・テロなどの非人道的な記録をマスメディアが頻繁に取り上げたのである。

 政府は戦争とは認定せず、「アルジェリア事変」「北アフリカにおける秩序維持作戦」と呼んだが、1999年の法改正で、「アルジェリア戦争」と記されるようになったという。 (*概要をウイキペディアの記事から抜粋) 

 フランスのアルジェリア支配は1830年の「アルジェリア侵略」に始まったが、当時は第1王政復古の末期。揺らぎ始めていた王政の威信回復を図った国王シャルル10世が、国民の不満を一挙に解決しようとした対外侵略(外征の断行)とされてきた。

 その発端は、オスマントルコ大帝国のアルジェ太守フサイン・イブン・パシャが、自分を愚弄した駐フランス領事に腹を立て、領事の頬を扇で叩いた「扇の一打事件」が口実だったとされるが、実際には別の理由があったという。

 ここにまた、「号外」で書いたロスチャイルド家が登場することになる。

 第1次世界大戦の厖大な戦費を英国に援助したユダヤ人豪商ロスチャイルド(仏語読みは、ジェイムズ・ド・ロチルド)は以前から、北アフリカとその周辺、パレスチナなどの資源調査を行い、鉄鉱石(1990年代になっても枯れることなく、アフリカ大陸第4位の生産量を誇り、巨大な富を生みつづけた)などの有用な資源を得ようとフランス軍派兵のために8千万フランもの天文学的な資金を提供して戦争を起こさせたことが判明している。

 また、アルジェリアへのフランス軍派兵の半年以上前に莫大な公債発行を引き受け、7月革命の勃発で国王が交代した折は、逃げたシャルルが万一戻ってもよいように十分な謝礼を払い、新王ルイ・フィリップにも大金を貸し付けてきたので、だれが国王になっても、ヴェルサイユ宮殿を意のままに動かせる周到な準備をしていた。

 彼らが開通させた「北部鉄道」(1846年)はフランス・ベルギー・ドイツを結ぶロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)資産の中枢となり、鉄鋼、機械、石炭、金属、石油、建設、海運、電機、観光、食品を含むフランス最大の企業グループ(コングロマリット)に成長した。

 アルジェリアの大地で大量に生産されるようになった大麦、ハード小麦、ソフト小麦、オート麦は当時の商社・財閥にとって資産上極めて大きな意味をもち、いくつもの多国籍企業を育てる下地となった。

 19世紀末からは石油生産(アフリカ第3位)が始1956年から巨大天然ガス田ハッシ・ルメル(ロシアを除き世界第1位の埋蔵量)が発見され、さらに莫大な富を生み出すことになる。

 1830年の侵略から132年間、フランスはアルジェリアを支配。ロスチャイルド家の壮大な目論見は、見事に成功したのである。

 

「アルジェリア人質拘束事件」は、イナメナス付近の天然ガス精製プラントでイスラム系武装集団が引き起こしたものだが、アルジェリアやその南のリマ、ニジェールでは独立をめざすトゥアグレ族(ベルベル系遊牧民・フランス支配下で抑圧されてきた先住民)の反乱が起きていた。

 もともと戦闘能力に定評をもつ彼らは、リビア内戦にカダフィーの傭兵として参加し、革命後に流失した大量の兵器と戦闘経験を蓄えていたが、2012年、マリで起きた軍事クーデターを機にイスラム国家建設をめざし、AQIMほか複数の過激派組織の協力でマリ軍を追放し、彼らが暮らすマリ北部(アザワド地区)の独立を宣言した。

 だが、トゥアグレ族組織(MNLA)と過激派が反発して戦闘が勃発し、トゥアグレ族組織は打倒され、アザワド地区は事実上イスラム過激派の手に落ちる事態となった。

 これを重く見た欧米、アルジェリア、アフリカ諸国は、トランス・サハラにおける「不朽の自由作戦」、欧州連合マリ訓練ミッション、アフリカ主導マリ国際支援ミッションなどで間接的に、マリ軍を支援してきた。

 そんな状況下、独裁的政権のマリ大統領の要請に応えてフランス軍が介入して、アザワド地区攻撃を開始し、それに反発した過激派が起こした人質事件だった。

 襲撃された天然ガス精製施設は、アルジェリアの国営企業ソナトラック/英国・BP/ノルウエー・スタトイルなどの合弁企業が経営し、プラント建設には、化学プラント建設に実績のある日本の日揮も参加していた。

 この施設の年間生産量は90億立方メートル。アルジェリア国内生産量の10%以上を占める。

 襲撃に対して警備のアルジェリア軍兵士が応戦したものの、アルジェリア人150名、アメリカ人7名、日本人10名、フランス人2名、英国人2名、アイルランド人1名、ノルウエー人13人をふくむ外国人41名が人質として拘束された。

 事件勃発時の現場には、7百人のアルジェリア人と百人の外国人がおり、ガーディアン紙によると、武装勢力は、米・仏・英国人(資源を搾取しているとみなされてか)を人質の標的にするよう指示されていたというが、50年余りも現地の天然ガスプラント建設に貢献してきた日揮の人たちから10人もの犠牲者が出る事態に、なぜなったのか。

 BP(イナメナスのプラント建設)はロイヤル・ダッチ・シェルにつぐ世界的情報企業でもあるが、日揮への情報提供はなかったのかと中川十郎氏(日本ビジネスインテリジェンス協会理事長)は訝っている。

 中川氏のイラク駐在当時の日本人は、アラブの友人として好意的な処遇を受けたが、小泉政権が2003年のアメリカのイラク進攻を支援する自衛隊を派遣して以来、アラブ人の目には、米国の手先になりさがった日本との見方が広がり、それが今回の事件で日本人の犠牲者が最大だった背景を説明していると、「BI論壇」に書いているが、「イラク3千キロの旅」の筆者の体験からも共感できる見解だ。

 さらに中川氏は、事件に対応するとして訪問中のインドネシアから早々に帰国した安倍首相が、当夜、官邸近くのホテルで事件に関係のない議員と会食していたことを記し、日本政府の情報収集能力不足と情報音痴ぶりを嘆いている。

 この事件が重大なのは、アル・カイーダが中東、アフリカ、アジアにも拠点をもち、これからも同じような事件が繰り返される可能性があるということであろう。

 事件発生後すぐ、日本政府がアルジェリア政府に要請した「人命最優先」が性急なアルジェリア軍の突入作戦によって無視された結果、理不尽な犠牲者が出たわけで、国際紛争の解決や対テロ戦でいつも非軍事的な政策をとってきた日本の基本的要請である「人命最優先」の筋をアルジェリア政府に対して毅然と主張し、遺憾の意を表明すべきではないか。

 安倍首相は、首相官邸のfbページで、「無辜の市民を巻き込んだ卑劣なテロ行為は決して許されるものではなく、断固として非難します。(後略)」とテロとの闘いに臨む決意を述べたとされるが、イスラエル政府の国連決議を無視したパレスチナの人びとへの理不尽な行為も、北朝鮮同様の国際社会への挑発的暴挙として非難するのが、公正な態度というものではなかろうか。

                                 (続く)

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2013/03/20 16:54 2013/03/20 16:54


アラブと私
イラク3千キロの旅(68)

 

                               松 本 文 郎 

 

 連日、百人を超す一般の人々が殺され、多くの避難民がトルコ国境に殺到しているアサド政権の末期的なシリア情勢から眼が離せないが、「横道にも限度があるから、早くモースルの場面に戻りなさいよ」との妻の忠告に従い、1971年にタイムスリップしよう。

 たびたびの道草で旅の道筋が分かりにくいとの読者の苦言に応えた要約が、(15)(30)にあるので、再読してくだされば幸いです。

「イラク3千キロの旅」に戻って書くモースルの場面は、(41)の末尾から。

 

 チグリス川畔の崖に掘られた横穴式住居に住むクルド人の老人に、「またお会いするまで、お元気で!」と、名残りを惜しんだユーセフは、エンジンブレーキで急こう配の坂道を下って、モースル市街地に向う。

「チーフ。エンジンの調子はまずまずですが、私が知っているガレージでエアフィルターとキャブレターを点検させてはどうでしょう」

「いいだろうね。明日の朝早く、クユンジュク(ニネヴェ)の遺跡を訪ねたいし、バグダッドに帰る途中で動かなくなっては困るからね」

「わかりました。宿のウル・ホテルへ行く途中ですから・・・」

 ユーセフがクウエートで乗っている中古のフォードをいつごろ手に入れたか知らないが、モースルで護岸工事の監督をしていたときも、現場移動に車は欠かせず、行き付けのガレージもあっただろう。

 ガレージは、市街地の大きな通りから一筋裏の道の角にあった。バグダッドからの途中で寄った店よりはちゃんとしている感じだ。

ユーセフが車を停めると、店先の車の下から這い出してきた男がユーセフの知合いのようだった。

 牧師やクルドの老人らと同じように、ハグしながら挨拶を交わしたあとで、私を紹介した。

黒く汚れたツナギ服の、ユーセフと同じ年恰好の男は、 新車に近いトヨペット・クラウンが珍しいのか、車の周りを一巡してボンネットを開け、エンジンルームを丹念に見回した。

 点検に来たわけをユーセフから聞いてから、エアフィルターを外して砂のつまり具合を見、ユーセフにエンジンをかけさせ、キャブレターを手で操作しながら、加速の調子やエンジン音をチェックしている。

 検作業を終えた男と二、三のやり取りをしたユーセフが、「チーフ。エアフィルターに溜まっていた砂がキャブレターに入り、高速運転中の加速が出来なくなった可能性はあるそうですが、分解してオカシクしてはいけないので、エアフィルターのクリーニングだけにすると言っています」

「そうか。キミの知り合いだけあって、ムリをしないのは、さすがだネ」

「ええ、車好きの彼ですから、トヨペット・クラウンのキャブレターをばらしてみたいでしょうが、直すどころか調子を悪くして、恥をかきたくないのでしょう。バグダッドにもっと大きなガレージがありますので、明日の夕方、寄ってみましょう」

 油で汚れた手を拭いている誠実そうな眼差しの修理工に、「シュクラン ヤーニ、アンタ ゼーン!」と感謝の言葉をのべ、握手した。

「キャン ユー スピーク アラビック?」と聞いた彼が英語を話すと分かった私は、「ノー! ザッツ オール アイ キャン セイ イン アラビック」とあわてて答え、初めから英語であいさつすればよかったと、内心で悔やんだ。

 彼は、間口いっぱいのシャッターを開け放した修理場に置かれたアルミのテーブルとイスに掛けるように勧め、ペプシコーラとコーヒーのどちらがいいかと尋ねた。

「お言葉に甘え、コーヒーをいただきましょう」と言うと、ユーセフはうなずいて嬉しそうな顔をした。

 クウエートの床屋やガレージでも、飲み物をすすめられた体験があったので驚きはしないものの、モースルで出会った三人三様のおもてなしに、こころを動かされた。

 用を言いつけられた見習工のような少年が出かけ、私たち3人はテーブルを囲んで座った。

 ユーセフは、教会の牧師にしたように、私との旅の経緯を早口のアラビア語で彼に告げたようだ。

 ガレージを営む青年が、モースル工科大学の機械科出と知って、アハラムの従兄のマリクに訊ねたような質問をしたくなった。

「昨夕、バグダッドで招かれたホームパーティで、モースルの歴史やカセム政権時代の内戦と数千人の民衆虐殺の惨状などを聞きましたが、ハッサン・バクル大統領が率いるバース党政権下になったモースルを、どう感じてますか?」

 ユーセフの知り合いの気安さで、いきなりの突っ込んだ質問になった。

「カセム将軍の軍政下で起きた内戦が酷かったことはご存じのようですが、バクル大統領になってからは、科学技術による国の近代化政策がどんどん進められ、工業や農業を発展させているので、すばらしい政府と思っています。私たちが誇るニネヴェの遺跡を大切に保存しているのも、うれしいことです」

 彼は、旧知のユーセフが連れてきた日本人・建築家との思いがけない出会いを喜んでいるように見えた。

「どうぞハッサンと呼んでください。大統領と同じ名前ですが、やたらと多い名前ですよ」

 新聞記者のマリクと同じ世代とふんだ私の勘は当たっていたようだ。

「では、ハッサンと呼ばせてください。ホームパーティで語り合ったあなたと同世代の新聞記者も、バクル政権の諸政策を信頼していると言っていました。私たちを招いてくれた世俗派的な叔父さんの甥っ子ですが、政府機関の様々な場所で大学出の若い官僚たちが張り切って働いていると嬉しそうでした」

「そうですか。バース党政権になって、まだ3年ほどです。バグダッドとは歴史的にも地勢的にも異なるモースルですが、ユーセフがチグリス川の護岸工事の現場監督で働いたように、河川・道路などインフラの整備が進んでいます。もし、欧米の支配下にあるイラク石油の国有化が実現すれば、イラクは、中近東で最も近代化された国の一つになるでしょう」

 イラクの明るい未来を信じるこの世代の話を聞いていると、クウエートでの稼ぎのような仕事がイラクで増えれば、ユーセフも実家に戻って母親と暮らし、自国の近代化に関わりたいに違いないと思った。

 出かけた少年が、コーヒーの出前もちと一緒に戻ってきた。例のトルココーヒーだった。

 チグリスの方から涼しい川風が吹いてきて、開け放しのガレージの店先は恰好の夕涼みの場となった。

コーヒーをご馳走になりながら、しばらく、モースルの真面目青年と、会話をつづけよう。

 私たちの英語での会話に、時折、ユーセフは頷いたり、微笑んだりしている。

「ユーセフによると、あなたは車大好き人間だそうですが、ガレージを開かれていて、日本車をどう見ていますか」

「モースルではまだ、そんなに多くの日本車を見かけませんが、すぐに、バグダッドやバスラのようになるでしょうね。トヨタや日産の車は、欧米の車に比べてコンパクトで小回りがきき、安くて丈夫です。特に、軽トラックの需要が急増していますよ」

「乗ってきたトヨペット・クラウンの加速不調は、サンドストームに弱いところがあるからでしょうか?」

「中近東に輸出される欧米車は、沙漠走行仕様になっていますが、日本車だって同じではないでしょうか。ただ、現地のユーザーのきびしいクレームで鍛えられれば、すぐに追いつけると想います」

 なんだか、日本車セールスマンと思われそうなやりとりになってきたので、話題を変えることにした。

「明日の朝は、クユンジュクのニネヴェ遺跡を訪れてから、バグダッドに向かいますが、この辺りには、アッシリアの遺跡があちこちにあるようですね」

 京大・村田治郎博士の西洋建築史の講義では、ウル、バビロン、ニネヴェなどの遺跡を簡略に教えられただけである。

「ええ、モースル近辺には、テル・サラサート、ラッバン・ホルミズ、コルサバード、ニネヴェ(ニノワ)、カラー(ニムルド)が、バグダッドへの途上には、アッシュールがあります」

 ユーセフが、おもむろに口を開いた。

「モースル工科大学で機械を学んだハッサンですが、この地で栄華を誇ったアッシリア帝国とその遺跡について詳しいですから、いろいろ聞かれるといいですよ」

 なんだか、エンジンの不調でガレージに寄ったのが、アッラーの神の企てのような気がしてきた。

「アッシリア遺跡の考古学的資料では、英国の考古学者オースチン・レイヤードの著書『ニネヴェ及びその遺跡』に、ニムルド発掘中の若き日の有様がとてもよく書かれていて、何度も読みました」

 その著書は、高橋英彦著『イラク歴史紀行』(NHKブックス390)に紹介されているので、それを援用させてもらいながら、ハッサンの話のあらましを記すとしよう。

                                                                                                                                       (続く)

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2012/10/02 16:31 2012/10/02 16:31

アラブと私
イラク3千キロの旅(65)

                               松 本 文 郎 
 
 前回、右翼運動家・児玉誉士夫の戦争中の活動をウィキペディアから要約したが、パーキンスとは対照的な人物なので、終戦前後からデヴィ夫人との関わりまでを書き加えておこう。
 外務省情報部長の知遇を得て中国各地を視察した翌年(1938年)、海軍の嘱託となり、上海で児玉機関(戦略物資の鉱物資源を海軍航空本部へ独占契約で納入)を運営して、黒幕へのしあがる。
 アメリカ陸軍情報局の報告には、各種鉱山を管轄下に収め、農場・養魚場や秘密兵器工場も運営し、ヘロイン取引の仲介もしたとある。
 当時の大陸には児玉機関の類は多く存在し、中国側へのスパイ活動、抗日スパイの検挙・殲滅を請け負っていた。児玉が大陸で獲得した厖大な資金(戦後の政界工作にも使われたとされる)は、これらの非合法活動(強盗殺害も?)によるものという。
 終戦後、児玉機関が管理していた旧海軍の秘密資金(今の時価で3750億円)と共に上海から帰国した児玉は、東久邇宮が組閣した講和内閣の参与となる。
 敗戦の翌年、A級戦犯容疑で逮捕されて巣鴨へ送られたが、米国に協力的な戦犯を反共に利用する「逆コース」の政策転換で釈放され、CIAに協力することになる2007年に機密解除・公開された米国公文書館保管のCIA対日工作機密文書には、「児玉は、プロのウソつきで悪党・ペテン師・大泥棒である。情報工作の能力は全くなく、金儲け以外に関心がない」と書かれているそうだ。 A級戦犯を免れて協力者になった児玉のCIA側評価は手厳しいが、鳩山ブランドの日本民主党の結党資金を提供し、1954年には、河野一郎を総理大臣にする画策に力を貸し、緒方の自由党と合併して自由民主党になった後も緊密な関係を保ち、岸信介が首相になる際にもその力を行使した児玉誉士夫は、政界フィクサーとして君臨してゆくのである。
 1960年には、生前葬を行ったが、大物政治家や大スターたちが参集して焼香したという。その年、安保闘争の拡大阻止を命じた岸首相に、ヤクザ・右翼を使う世話役を担った児玉は、これら暴力組織や政治家らに繋がる「力」とさまざまな表・裏の資金源からの「金」で、日本で最も影響力をもつ「政財界の黒幕」の大物と呼ばれるようになる。
 敗戦後、CIAの対日工作活動に取り込まれた人物には読売新聞中興の祖とされる正力松太郎、政治家河野一郎らの名前も上がっており、CIA協力者であった児玉にとっては、その後の政財界での人脈形成に大いに役立ったと推測できる。
 大陸での数々の荒仕事のキャリアに、CIAの謀略ノウハウを加えた児玉は、1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たし、5億ドルの対日賠償資金の供与で進出した日本企業やヤクザのフィクサーとして、朴(元満州国軍将校)政権の要人と繋がり、渦巻く利権からの利益を得たとされる。 
 元大本営参謀・瀬島龍三は、商社役員として、岸信介や椎名悦三郎ら政治家と「日韓協力委員会」を作り、韓国利権に走ったという。
 大きな労働争議や企業間の紛争にヤクザ・右翼を使った仲介、首相逮捕に至ったロッキード事件などについては省略するが、児玉誉士夫が果たした黒幕の役割に、ジョン・パーキンスが属したコーポレイト・クラシーに類するものもあったのではないか。
 朴政権の国づくりに共鳴した政治思想家・安岡正篤には保守政治家の信奉者が多かったが、彼や財界鞍馬天狗と称された瀬島龍三らと接点を持つ児玉誉士夫が、CIA報告にある「金の亡者」で片づけられる人物かはともかく、生前葬から24年たった1984年に73歳で亡くなり、公開された公文書を知らずに逝ったのは、当人にはもって瞑すべきことかもしれない。
 
 パーキンスが体験した、インドネシアの石油利権を狙うコーポレイト・クラシーのエピソードから、日本政府の経済開発援助がらみで一国の大統領に若い女性を仲介した児玉誉士夫にまで言及してきた。日本のODAについては最近、新しい論議が始まっているが、過去の事例には毀誉褒貶がある。それについては、先のしかるべきところで論じることにしたい。ジョン・パーキンスの「エコノミック・ヒットマン」関連の記述もこの辺にとどめ、そろそろ、1971年のモースルの場面に戻りたいが、一旦は、パーキンスの「エコノミック・ヒットマン」の記述を始めたイランに戻ろう。それは、日本ではいまイランから目が離せないからでもある。イランから大量の石油を輸入してきたわが国は、核開発疑惑に対する国際的な経済制裁に対してもやや柔軟な態度を示してきたが、米国の強硬姿勢に追従せざるをえなくなったのである。
 先に書いたように、筆者が電気通信研究所の建築計画の技術指導でイランに滞在した頃、日本とイランの関係は極めて親密で、シャー・ハン・シャーと呼ばれたパーレビ国王は、CIAが関与した白色革命後もモサデクによるイラン石油の国有化阻止で米国を頼り、石油会社との腐敗した関係ながら、親米的でありつづけた。
 その国王の側近として近代化イランの新時代を夢見たドクの目には、コーポレイト・クラシーに操られて資本主義的経済成長が進む中で、国王一族と一握りの実業家だけが利益の恩恵を得るのに耐えられなかったのだ。
 イスラムの宗教指導者とも親しかったドクは、パーレビ王政の西洋化政策と近代化には反対ではなかったものの、イスラム世界が腐敗した国王を憎む状況に、国王の安泰が長くないことを予見していた。
 西洋化政策をとったパーレビ王政の脱イスラム化の動きのなかで、チャドル着用を後進性の象徴として禁止したことに、国民のあいだでは不満や反発が高まっていった。
 禁止とは逆に、チャドルの着用がパーレビ王政への抵抗の象徴となって、1979年のイスラム革命の王政打倒後の革命体制では、イスラム法を導入してチャドル着用を義務づけたのである。
 その10年前に滞在したテヘランでは、タクシーの中で王政を批判するような話をするのは危険だと日本商社員から注意されたことを除けば,夜の街には、性の享楽場所、酒を飲みゴーゴーを踊るクラブ、歌踊のショーが観れるキャバレーなどがあったから、まさに、文化大革命のような激変が生じたのだ。
 現在のイランについての国際的なイメージは、反米・反イスラエルを標ぼうし、西洋的な価値観を全面的に否定している頑迷な印象であろう。
 2002年、ブッシュ大統領が北朝鮮とイラクと同列に、「悪の枢軸」と糾弾したことが、そうしたイランの印象がステレオタイプ化するきっかけとなったようだ。
 イスラム革命から9ケ月後の学生グループによるアメリカ大使館占拠人質事件が、親米的だったイランに対するアメリカの敵視政策の原点となる。両国は国交を断絶し、カーター政権のヘリによる人質救出作戦が砂嵐に見舞われて失敗し、52人の大使館員が解放されるまで、444日を要したのである。
 2005年から4年の間、毎日新聞のテヘラン支局長だった春日孝之著『イランはこれからどうなるのか』に、世界史的な出来事の首謀学生の話が記されているので転記させていただく。
「革命によりパーレビ王政は崩壊しましたが、国外に逃れた国王をアメリカが受け入れたのです。国王はアメリカを後ろ盾に強権を振るい続けた人物です。アメリカは国王を利用して反革命を企てる危険があった。それを防ぐのが(反革命の拠点とみられた)アメリカ大使館を占拠した最大の目的でした」
 革命直後発足したリベラル派主体のバザルガン暫定内閣の外相は、「(国王の)『入国を認めれば、イランの反米路線を決定づけるパンドラの箱を開けることになる』と米側に警告した」と、同著に記されている。
 イラン革命は、「西(資本主義)でも東(社会主義)でもなく」を理念としていたから、革命直後は、反米一辺倒ではなかったのだ。
 カーター政権は、人道的な配慮で国王を受け入れたようだが、占拠した学生グループは、大使館で押収した機密文書を公開して、そこがスパイの巣だったことを訴えた。
 学生グループの行動は国民の熱狂的な支持を受け、連日、アメリカ大使館を囲んだ大勢の市民は、「私たちの苦しみはすべてアメリカに由来する」と書いた垂れ幕を掲げ、「アメリカに死を!」と叫んだという
「最初の革命より栄光に満ちた第2の革命だ」と学生たちを賞賛したホメイニ師は、第2次世界大戦中から、パーレビ国王の独裁的な西欧化政策に不満を表明しており、1963年の白色革命の諸政策にひそむ国王の性格を非難し、抵抗運動を呼びかけて逮捕された。
 このときは釈放されたが、政府批判を続けた彼を怖れた国王はから国外追放を受けて亡命した。
 白色革命の政策は、英米・日本への石油輸出による豊富な外貨収入による工業化を中心に据えたものだが、西欧的な世俗化だけでなく、イランの内情や国民生活を顧みない急激な改革で貧富の格差が増大、これに反発した国民の抵抗運動が起き、ホメイニ師はそのシンボル的存在だった。
 亡命してトルコに滞在した後、イラクのシーア派の聖地ナジャフに移ったホメイニ師は、イラン国民に改革を呼びかける一方、「法学者の統治論」(イスラム法学者がイマームに代わって信徒統治を行うシーア派理論)を唱えた。
 パーレビ国王の国外亡命は、ホメイニ師が亡命先のフランスから糸を引いた反体制運動の高まりに耐えかねたもので、15年ぶりに帰国を果たしたホメイニ師は、ただちに、イスラム革命評議会を組織したのである。
 ホメイニ師はアメリカよりもソ連が嫌いで、反共産主義だったとされる。対米政策では、「良くもなく、悪くもなく」で、革命後、アメリカとの関係を断とう思えば声明一つでできたのに、そうはせず、アメリカ大使館も閉鎖されていなかった。
 だが、リベラル派のバガルザン暫定内閣が占拠事件に反発して総辞職してからは、イランにとっての諸悪の根源はアメリカに集約されていった。急進派のイスラム法学者を率いるホメイニ師は、アメリカとの対立緩和を示唆する者を革命の裏切り者として排除し、アメリカへの国民的な集団憎悪を、イスラム急進派勢力による体制基盤の強化と国民統合に利用した。
 筆者がテヘランの郵電省に招かれたとき、この国が古い歴史をもつ中東の大国だとは知っていたが、アラブ人主体の中東におけるペルシャ人中心のイラン近代史については不勉強だった。
 近代のイランは、ロシア(ソ連)とイギリスによる干渉と支配の半植民地状態にあり、第2次世界大戦後、イラン人の多くはソ連の脅威に対抗しようと、アメリカとの関係強化を望んだ。
 首尾よくソ連をイランから追い出したアメリカに、イギリスに対する守護者の役割を期待したのは、イギリスが握っていたイランの石油の利権を取り戻す協力を得たかったからだ。
 以前、筆者が述べたように、イランの石油利権を取り戻す石油国有化の先頭に立った民族主義者・モサデク政権を葬ったのは、イランの期待を裏切りイギリスの利権を守る側に立ったアメリカのCIAだった。
 CIAは、モサデク首相を放逐するため、大量の資金を投入して反政府暴動を扇動し、イランのメディアの大半を影響下に置き政権を揺さぶった。これはCIAの秘密工作の成功例として国際的に周知されたが、ドクがパーキンスに語ったことと符合する。
 国王、首相、国会の勢力が均衡していた当時の王政だったが、モサデクの失脚で均衡が崩れて、その後のパーレビ国王の独裁につながった。バザルガン暫定内閣の副首相だった人物は、「国王はアメリカの操り人形となり、アメリカから『ペルシャ湾の警察官』に任じられて、大量の米国製兵器を購入して石油収入を浪費しました。さらに秘密警察を創設して国民を抑圧しました。こうしたことが革命への導火線になったのです」と語っている
 テヘランのタクシーで政治や国王批判の話をするなと言われたのは、タクシーの運転手の多くが秘密警察の人間だったからである。
 国王が「操り人形」だったかどうかには異論もあるようだ。国王はアメリカを利用していたとの指摘もあり、誇り高いとされるペルシャ人国王の性格を考えると、その両方だったのかもしれない。国王の側近だったドクに、鼻を削ぐ酷い拷問を課した独裁者のパーレビ国王は、CIAも顔負けの強か者だったとも考えられる。
 それにしても、世界各国で謀略活動を展開してきたCIAのおぞましさには、呆れるほかない。
 プロ野球・テレビ放送・原子力発電の日本導入で、「プロ野球の父」「テレビ放送の父」「原子力発電の父」の尊称を得た正力松太郎も、CIA協力者だった。
「福島第一原発事故は人災」と書かれた事故調査委員会の報告書を草葉の陰で見ているだろうか。
 
イランの現状に関心のある方は、春日孝之氏の著書に興味深いことが書かれているので、一読をお勧めする。イスラム大国の真実『イランはこれからどうなるのか』(新潮新書384)                             
                                  
(続く)


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1979年01月16日 イランのパーレビ国王、エジプトへ亡命。




 

2012/07/30 17:01 2012/07/30 17:01

イラク3千キロの旅(63)

                              松 本 文 郎 
 
 これには、パーキンスも黙っていられなかった。
「アメリカが反イスラムだって決めつけるべきじゃない」
「あら、ちがうの?」と彼女は聞いた。
「アーノルド・トインビーの著作『試練に立つ文明』や『世界と西欧』を読んでごらんなさいよ。21世紀の戦争は、資本主義対共産主義の争いではなく、キリスト教対イスラム教の争いになるだろうって、50年代に言ってるわ」
「でもどうして、キリスト教徒とイスラム教徒がそんなに憎みあわなきゃならないんだ?」とパーキンスは訊ねた。
 女学生はゆっくり話した。
「西欧諸国、とりわけ、その指導者アメリカが、世界中を支配下におさめて、史上最大の帝国になろうと決めたからよ。実際に、その野望は実現に近づいているの。今はソ連が行く手を阻んでいるけれど長くはつづかないと、トインビーは予見しているのよ。彼らには信仰がなく、イデオロギーを支えるものがないってね」
「私たちイスラム教徒にとっては、信仰は魂で、崇高な力なの。私たちの信仰の力はキリスト教徒に勝っているから、自分たちがもっと強くなるのを待つのよ」 若者の一人が言った。
「時間をかけてね。時がきたら蛇のように噛みつく!」
「なんて恐ろしいことを考えてるんだ!それを変えるにはどうしたらいいのだ!」パーキンスは叫んだ。
 英語専攻の女学生は、パーキンスの目をまともに見つめながら言った。
「強欲でなくなること、利己的でなくなることよ。世界中の誰もが、あなたたちのように立派な家に住んで、ぜいたくな店で買い物しているのではないと認識しなきゃ。たくさんの人が飢えているのに、あなたたちは、車につかうガソリンの心配をしている」
「飲み水がなくて赤ん坊が死んでいるのに、最新の流行をファッション雑誌で探している。私たちの国では貧困の海で溺れている人がたくさんいるのに、助けを求める声を聞こうともせず、悲惨な現実を訴える人びとに、過激派とか共産主義者のレッテルを貼りつけているのよ。虐げられた人々をより酷い貧困と隷属に追いやるんじゃなくて、心を開いてちゃんと考えなくちゃいけないのよ。時間の猶予はもうあまりないわ。考えを変えないと、あなたたちは破滅よ!」
 数日後、人形芝居でニクソンの前に立ちはだかり、バケツ男に星条旗で串刺しにされたバンドンの人気政治家が、轢き逃げに遭って死んだ。
                 
 70年代のインドネシアの英語専攻の女子大生が語気鋭く反米的言辞を吐いたことに、驚かれた読者があるかもしれない。
 今(2012年)のアフガニスタンで、イスラム原理主義的な家族の若い女性が勉学や就職を禁じられている報道からは、インドネシアの女子大生が米国人エリートのパーキンスに開陳した、文明や世界情勢についての知識と情熱は、とても想像できないだろう。
 だがこれは何度も述べてきたように、あらゆる宗教に生じる宗祖の教えの歪曲・逸脱であって、『アラブと私』の冒頭で引用した「天声人語」で皮肉られたブッシュ元大統領やキリスト教原理主義の支持者らも、キリストの教えと真逆なことをしていたのだ。
 40余年前のバグダッドで再会したアハラムのムスリム家族には、生活習慣の違いはともかく、若い女性の勉学や就職を忌避する様子は微塵もなく、クウエート郵電省次官の子供ら(アメリカンスクールでわが息子・娘と同年の小学生)も男女の区別どころか、女の子のほうがませていた。別の女子大生が「アメリカは、石油を全部手に入れたら、インドネシアを放り出すんだわ」と言ったように、この国の石油はオランダ領東インド時代から植民地支配を受け、太平洋戦争で日本が侵攻したのも石油を確保するためだった。
 先に述べたが、米国のコーポレイト・クラシー戦略と日本のODAの目的・手段はおおいに異なるが、恩恵に浴さない一般民衆からは大同小異に見えたであろう。
 この原稿を書いている今、タイで開かれた国際会議に出席(1988年に英国から帰国し、軍事政権に自宅監禁されて以来、初めての外国訪問)したミャンマーのアウン・サン・スー・チーさんのスピーチ概要が報じられた。
「ミャンマーにとって利益になるような投資をお願いしたい。汚職・不平等を助長せず、特権階級を潤さず、雇用創出につながる投資を期待します」
  東南アジア諸国に見られる、パーキンスが告白したコーポレイト・クラシーや日本をふくむ先進各国の開発援助攻勢が、国家統治者一族や取巻きら一部特権階級に偏った利益をもたらしたことにクギを刺したもので、「さすが!」と感じた。

  オランダによる植民地時代のインドネシアでは、バンドン工科大学卒業(1926年)のスカルノがオランダ留学から帰国した同志とインドネシア国民党を結成し、独立と民族統一の運動を各地で起こし、「民族の指導者」と認められるようになる。2年ほどで、オランダ植民地政府に逮捕されて禁固刑を受けたが、1939年に第二次世界大戦が勃発し、翌年、オランダ本国がナチスドイツに占領されても植民地支配は続き、スカルノは恩赦出獄・再逮捕・流刑を繰り返していた。1941年に始まった太平洋戦争で、日本軍は忽ちオランダ軍を駆逐しオランダ領東インド全域を占領したので、植民地政府はオーストラリアへと逃げた。
 日本軍司令官の今村均は、オランダに囚われていたスカルノやハッタを開放し、知名度の高い彼ら民族主義者の協力を要請したので、スカルノらは、インドネシア独立のための民衆総力結集運動を組織して日本軍に協力し、オランダ軍ほか連合国軍と戦うことを選んだ。(ウイキペディアからの要約・文責筆者)
 スカルノは日本を訪問して関係強化を図ったが、日本が敗れたので、降伏の2日後(1945年8月17日)、権力の空白をぬい、インドネシア国民の名において独立を宣言。
 しかし、これを認めないオランダは、イギリスやオーストラリアの協力を受けて軍を派遣して、インドネシアの再植民地化に乗り出した。
 戦局はオランダ優位と思われたが、ドイツ占領・戦火による本国の国力低下、日本軍が放置した武器や残存日本軍将校らが助けたインドネシア武装勢力(正規・非正規軍)とのゲリラ戦に苦しめられた。
 さらに、再植民地化を狙うオランダへの国際的な非難が高まったため、外交交渉による紛争解決がはかられて、ハーグ条約(1949年12月)の締結で主権移譲を受けたインドネシアは、独立国家の第一歩を踏み出した。
 しかし、対オランダ独立戦争の時代を通して、国内統治機構は中央・地方共に権力が分散していたので、独立後の前途は多難だった。
 大統領職にあったスカルノに、オランダからの独立時の新憲法(1950年憲法)は、強い権限を与えておらず、彼は、リーダーシップを発揮できない状況にあった。
 困難な国政運営に有効な手立てを打てない政党政治家への不満・不信が国民の間に高まり、民族の統一よりも国家分裂の危機に向かっていた。
 こうした事態を収拾するためスカルノは、1950年代末ごろから打ち出した「指導される民主主義」構想により、混乱の元だった議会制を停止し、国内諸勢力の調停者としてのスカルノが国家を指導するとして、議会を解散し、新憲法を停止した。
 それに先立つ1955年、第1回アジア・アフリカ会議をバンドンで主催したスカルノは、インド・フィリピン・中華人民共和国など、第2次世界大戦後に独立・建国された新興国(第3世界)のリーダーのひとりとしての脚光を浴び、会議を成功に導いて国際社会の知名度を高めた。(ナセルの知名度はすでに高かった。筆者)
 太平洋戦争さなかの対オランダ独立運動で親密な関係をもった日本は、敗戦から立ち直って急速な復興をみせていた。スカルノは、経済開発中心の親密な関係継続を選択して、後に、日本人女性を第3夫人に迎えることになる。冷戦下の1965年にかけてのスカルノ政治のキーワードは、「ナサコム」で、〔ナショナリズム〕・〔宗教〕・〔共産主義〕から造語されたが、国内のさまざまな対立勢力の団結を訴える調停者として、スカルノはこのスローガンを叫び続けたという。
 彼が権力のバランサーとして生き延びるには、中国など共産主義諸国からの援助で国民の支持が急増したインドネシア共産党と、実力をもちつつあった国軍との拮抗状況を巧みに利用する必要があったのだ。
                                  (続く)


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2012/06/08 17:06 2012/06/08 17:06

アラブと私

イラク3千キロの旅(61)

 

                                松 本 文 郎 

 


 ポーラに勧められて目を通したスペイン語版の履歴書は、驚くべき内容だった。

コロンビアからボストン本社に戻って、英語のオリジナル版と企業誌「メインラインズ」掲載の「スペシャリストがメイン社の顧客に新サービスを提供する」を読むうち、しだいに怒りがこみ上げ、裏切られた気持ちがしてきた。

 書かれているのは真っ赤なウソではなかったが、意図的なごまかしがあり、グローバル化の時代に、世界帝国構築に添う活動をめざすメイン社の意図が隠されていた。

 生き方についてポーラから指摘を受ける以前のパーキンスは、履歴書と記事に誇りさえ感じていたが、うわべを取り繕ってもっともらしく拵えられた彼の人生を象徴する書類に思えてきた。

 履歴書にも女性記者のインタビュー記事にも、明白なウソは書かれていないが、公式文書を重視する社会では見破れないような、歪曲や改ざんがあった。

社会的に認知されているのは、多くの企業・国際金融機関・各国政府の信頼を得ているメイン社によって作成されているからだ。

 それらは、学位証書や医師・弁護士のオフィスに飾る資格証明書と同じ信頼性のあかしであり、彼が有能なエコノミストで著名なコンサルタント会社の責任ある地位に就いて、世界をより文明化された豊かな場所にするために、各地を飛び回って広範囲な調査をしている人間であることを示していた。

 しかし、NSA(国家安全保障局)にスカウトされたことや、軍とのつながりやNSAの連絡係としての役割については、なんの記載もなかった。

 驚くほど数字を膨らませた経済成長予測を作成するよう強い圧力をかけられたこと、仕事の主要部分は、インドネシアやパナマのような国が返済不可能な借金をすることだという事実については、一言もふれられていない。

 なにより理解に苦しんだのは、「米国財務省、サウジアラビア王国」という取引先リストの最後の一行だという。

 これを見た大部分の人には、この記載に特別の意味があるとは思いもよらぬことだろうが、彼が仕事をしていた世界の権力中枢部の少数グループの人間に、世界を変化させる大規模なビジネスを巧妙に仕掛けながら、決して世間の表には登場しないチームの一員と理解させるためだった。

 アメリカに継続的な石油供給を保証し、サウド王家の支配権維持を約束し、オサマ・ビン・ラディンへの資金提供や、ウガンダ元大統領イディ・アミンのような国際的犯罪者の身の安全の確保を助ける契約が結ばれる手助けをパーキンスがしてきたことは、並みの洞察力では分からない。

インタビュー記事の「スペシャリストがメイン社の顧客に新サービスを提供する」締めくくりに記者が書いた次の文章は、彼の神経を逆なでした。

「チーフエコノミストのパーキンスは仕事のできる人間で、経済・地域計画部門が急速に発展する中で、部下の一人ひとりがそのスピードに対応できるスペシャリストであるのは幸運なことと感じている。デスクの向こうから私に話しかけているときも、部下の仕事ぶりに目配りし、彼らを助けているのは見事だった」

 パーキンスは、自分が本物のエコノミストだとは思ってもいなかったと言う。

ボストン大学・経営学部で学士号(マーケティング専門領域)を得た彼のチーフエコノミストと経済・地域計画部門の責任者の地位は、経済学やプランニングの能力ではなく、ミドルバリー大学でアメリカ文学を専攻した文章力、上司や顧客に合わせた内容の調査研究を提供する姿勢、他人を納得させる天性の洞察力の成果だと、自己分析している。

 賢明な彼は修士・博士号をもつ優秀な部下を雇用し、彼の仕事の専門事項をよく知るスタッフを抱えていたから、メインラインズの記事は当然なことではあった。

 パーキンスは、訓練した部下をEMHの仲間に引き入れ、豪華なホテルで眠り、高級レストランで食事し、財産を築く一方で、世界の貧しい国々で貧富の格差や飢餓に苦しむ人びとを増やしつづけている罪の意識を感じはじめていた。

 世界情勢は変化し、わずか10年の間に、コーポレイト・クラシーはいっそう邪悪に進化していた。

 部下らは、パーキンスが体験したNSAのウソ発見器やクローディンからうけた訓練とは無縁で、世界帝国の使命を追行するよう期待されていると口にする者はなく、エコノミック・ヒット・マンという言葉も知らず、一生抜けられないとクギをさされることもなかった。

 パーキンスの仕事の仕方とアメ(報酬)とムチ(罰則)を学んだ彼らは、パーキンスが望むように調査・報告すればよく、給料・ボーナスや職にありつけるかどうか、すべて彼の意のままだった。

 進化したコーポレイト・クラシー・システムは、CIA・ジャッカル・軍隊を背景にした国家統治者の誘惑や強制から、はるかに巧妙でソフトな洗脳へと変容していた。

 ボストン本社のパーキンスの部屋の外にデスクを並べ、世界帝国の拡大のために世界を飛び回る部下たちを、クローディンがしたように育てあげたが、彼らが表舞台に出ることはないのだ。

 ポーラに履歴書の話を聞かされたせいで、彼はパンドラの箱を開けてしまい、毎夜、夜中に目覚めては思い悩むようになった。

 意図的に部下たちを騙すことで彼らを良心の呵責から守っている自負はあったが、モラルの問題で葛藤を抱える必要のない部下たちの単純さが羨ましくもあった。

 彼は、ビジネスにおける誠実さや、外見と現実についていろいろ考えた。

 人間は古今東西を問わず互いに騙しあってきたではないか。伝説や民話には、ゆがめられた事実や不正直な取引の話がたくさんある。客を騙す絨毯売り、法外な金利をとる高利貸し、王様だけにしか見えない服を作ったとウソをつく仕立屋。

 世の中は今も昔もこんなもので、メイン社が作成したパーキンスの履歴書とその背後の現実とは、人間の習性を映しているだけと片づけたかったが、そうはいかないと、心の奥では分かっていた。

 コーポレイト・クラシーの欺瞞はすでに新段階に達し、直ちに大きな変化を起こさないと、道徳的どころでなく、人間社会そのものが崩壊してしまう。

 チーフエコノミストで経済・地域計画部門の責任者の肩書は、絨毯商人の単純なウソとはちがい、買い手が用心すれば済むものではないと気づいたのである。

 それは疑いを知らない顧客を欺くような単純なことではなく、歴史上に類を見ないほど巧妙かつ効率的に世界帝国の構築をめざす、邪悪きわまるシステムにパーキンスは関わってきたのだ。

 金融アナリスト、社会学者、エコノミスト、計量経済学者、潜在価格専門家などの部下の肩書は、どれひとつ、彼らがEHMであるとは示していなかったし、世界帝国の利益のために働いていると仄めかしてはいなかった。

 国際的な大企業はどこも独自に、EHMのような存在をかかえ、そうした状況はすでに進展し、世界中をめぐっていた。

 皮のジャケットを脱いだ工作員は、ビジネス・スーツで身だしなみを整え、あらゆる大陸のそこかしこへ入りこみ、腐敗した政治家が自国に借金の足かせをかけ、貧困に苦しむ人びとを搾取工場の組み立てラインへ身売りするように促す。

 履歴書や広報記事の文字の裏側は、モラル的におぞましいだけでなく、最終的には自滅を免れぬシステムに部下と共に縛りつけられていることを暗示していると、パーキンスは不安でたまらなくなったという。

 メイン社を辞めるべきかどうか迷っていたとき、ポーラが履歴書を見たかと聞いたのは、公式文書の字句にはなにひとつ後ろめたいことが書かれていないから、今までのことはすべて忘れて生きることを勧めたのだと、筆者は読み取っていた。

 だが、パーキンスは安易な道を選ぶのを躊躇い、ポーラが、これらの文書の行間に隠された意味を彼に読ませることで、パーキンスを人生の分れ道へ導いてくれたと感じたようだ。

                  

(続く)


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2012/05/09 17:05 2012/05/09 17:05

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アラブと私

イラク3千キロの旅(60)

 

                                                                              松 本 文 郎 

 

彼をEHMに仕立て上げた女性クローディンは、メイン社が差し出す仕事を引き受けたなら、どんな働きを期待されるかのあらましを、正直に教え、忠告もしていた。

 だが、パーキンスがその話の根底にある意味を納得したのは、インドネシアやイランやパナマやコロンビアなどの国々で、実際に働いて経験を得た後だったし、ポーラのような女性の忍耐と愛と個人的な体験談とが必要だったのである。

 彼は、アメリカ合衆国に忠誠心を抱いていたが、非常に巧妙な仕組みの新しい「帝国主義」を通じてしていることは、軍事力でベトナムを制圧したのと同じことを、経済力で成し遂げようとしているのに他ならなかった。

 東南アジアでの体験が軍事力に限界があるとの教訓をもたらしたのだとしたら、エコノミストたちは、より良い計画を工夫するようになり、彼らが働く対外援助機関や民間コントラクターは、そうした計画を効率よく実行するようになった。

 

因みに言えば、太平洋戦争で北東・東南アジアに多大な戦禍をもたらしたわが国は、戦争放棄の憲法下で、これらの地域の国々に対するODAによる経済援助政策を展開してきたが、その恩恵は、統治者と一族に厚く、庶民一般には薄かったのではなかろうか。

 敗戦後の灰燼から立ち上がり、高度経済成長下で力をつけた日本がこの地域へ進出できたのは、戦前からの財閥系の商社・大手銀行・民間諸企業の努力と関係省庁の官僚との合作である輸送船団方式と呼ばれるものだった。

 国の統治者や高級官僚をターゲットにしたことは、「世界帝国」の戦略と共通しているようでも、コーポレート・クラシー・システムと輸送船団の方式とは全く異なるもののように思われる。

 政財界の有力者たちが、結束して政府・官僚を動かすわが国と比べ、「世界帝国」の方は、時の政府権力者との関わりもさまざまで、政府・銀行・企業を動かす、明らかな司令塔の存在も定かではない。

 コーポレイト・クラシーがめざす「世界帝国」の謀略を知りながらEHMになったパーキンスが、サウジアラビア、イラン、パナマ、コロンビアで活動を展開するなかで感じたのは、コーポレイト・クラシーの活動が、時の大統領と議会に反映される共和・民主両党の世界戦略と国内政策によって大きく異なることだった。

 パーキンスは、あらゆる大陸の国々で米国企業のために働く人たち(正式なEHMではない)が、どんな陰謀説でも思いつかないほど邪悪な事柄に手を染めているのを見てきた。

 メイン社の多くのエンジニアと同じように、彼らは、自分の行為がもたらす結果についてまるで無知で、海外で靴や車両部品を生産する搾取労働工場や一般工場は、中世の荘園や米国南部の奴隷労働で貧乏人を使い捨てにしたようなことでなく、むしろ、貧困から這い上がるのを助けているのだと思いこんでいる。

 彼は、パートナーにまでなったメイン社を辞めるべきかを、真剣に悩むようになったという。

 良心に照らせば、辞めたい気持ちに疑問の余地はなかったが、「世界帝国」の版図が拡大するなか、数多くの国々で仕事をし、優秀な部下も増えて、金と優雅な暮らしと権力の誘惑に加えて、一旦入ったら絶対に抜けられない世界だと言ったクローディンの警告も耳について離れなかった。

 悩みを訴える彼に、ポーラは言った。

「クローディンに何が分かるの? 彼女やほかの誰かが、もっとひどいことをするっていうの?人生は変化するものよ。会社を辞めたからってどうだっていうの? いずれにしろ今のままじゃ、あなたは幸せじゃない」

 ポーラは何度も繰り返し、しまいにパーキンスも納得した。EHMの仕事で得られる金や冒険の魅力は、もたらされる不安や罪の意識やストレスには決して引き合わないと、認めたのである。

「知っていることについては、黙っていればいいんじゃないかしら? 相手に追い回す口実を与えないようにね。波風を立てずに放っておくほうがいいと思わせるのよ」

 ポーラの提案は大いに納得できるやり方だった。
 本も書かないし、これまで見聞きしてきたことはいっさい口外しない。そして、ごく普通の人間になって、日々の生活を楽しみ、旅を楽しみ、できれば、ポーラのような女性と結婚して家庭を築くのだ、とパーキンスは目からうろこが落ちる想いだった。

「クローディンが教えたことはすべて嘘だった。あなたの生活も嘘だったのよ。最近の自分の履歴書を見たことある?」 

それは、メイン社の企業誌「メインラインズ」1978年11月号に掲載されたものだった。

以下に転記する。

職歴

ジョン・M・パーキンスは、メイン社のエネルギー・環境システム事業部の経済部門の責任者である。

メイン社に入社して以来、パーキンスは米国、アジア、ラテンアメリカ、そして中東  
 において、
大規模プロジェクトの責任者を務めた。

 その職務内容は、開発計画立案、経済予測、エネルギー需要予測、マーケティング研究、プラント建設地選定、燃料配分分析、経済採算性検討、環境および経済への影響の検討、投資計画、管理コンサルタントと幅広い。

 多くのプロジェクトにおいて、彼とスタッフが開発したトレーニング技術が使用されている。

 パーキンスが責任者で開発したコンピュータ・プログラム・パッケージの目的は、

①エネルギー需要を予測し、経済発展とエネルギー生産との関連を量的に示す。

②プロジェクトがもたらす環境的・社会経済的

 影響を評価する。

③国内および地域内の経済計画に、マルコフ・モデルや計量経済学モデルを適用する。

(後略)

学歴

 ボストン大学(経済学博士)

同大学院にて、モデル構築、経営工学、計量経済学、確立手法を学ぶ。

語学

英語、スペイン語

参加組織

アメリカ経済学会 国際開発学会

出版物

「電力需要予測へのマルコフ理論の応用」
「エネルギー予測のためのマクロ・アプローチ」

「経済と環境との直接的・間接的相互関係の図示モデル」

「相互連絡システムからの電気エネルギー」
「計画立案へのマルコフ・モデルの応用」

職務内容

 予測調査、マーケティング調査、計画実現可能 性調査、プロジェクト建設地選択調査、投資計画、燃料供給調査、経済発展予測、訓練プログラム、プロジェクト運営管理、プロジェクト立地選定調査、管理コンサルタント

取引先

 アラビア・アメリカ石油会社

 アジア開発銀行

 ボイジ・カスケード社

 シティ・サービス社

 デイトン・パワー&ライト社

 ゼネラル・エレクトリック社

 クウエート政府

 パナマ国営電力会社

 米州開発銀行

 国際復興開発銀行

 イラン エネルギー省

 ニューヨークタイムズ

 ニューヨーク州電力局

 インドネシア国営電力公社

 サウスカロライナ州電力・ガス公社

 製紙業技術協会

 ユニオンキャンプ社

 米財務省、サウジアラビア王国                                                                                                       (続く)


                    John Perkins "Revelations of an Economic Hitman" from Omega Institute on Vimeo.




2012/04/25 17:20 2012/04/25 17:20

アラブと私

イラク3千キロの旅(59)

 

                                松 本 文 郎 

 

 1977年、ホワイトハウスのカーター大統領とトリホス将軍の間でパナマ運河条約の真剣な交渉が行われていた頃、パーキンスが、「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」の『五つの国境を持つ国』を読んだパナマ・ホテルで、グレアム・グリーンに会ったのは、偶然とはいえない出来事だった。

読み終えたばかりの「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」をロビーの卓に置いたばかりの彼の目の前を、ゆっくり通り過ぎたのがグレアム・グリーンだったと気づいたからである。 

思わず走りよって呼び止めたい気持ちに駆られたパーキンスは、雑誌を手にしてあとを追った。

喫茶店で朝食をとっていたグレアム・グリーンに彼の小説の愛読者だといいながら、メイン社での仕事やトリホスと知り合いであることなどを簡単に自己紹介した。

「ボストングローブ紙に、アメリカはパナマから去るべきだと書いたコンサルタントはあなたですか」と尋ねられて面食らったと、『エコノミック・ヒット・マン』の第17章「パナマ運河条約交渉とグレアム・グリーン」に書いている。

パーキンスと一緒に朝食をと誘ったグレアム・グリーンは、「トリホス将軍からパナマについての本を書くようにと招かれ、今書いている最中です。私としてはめずらしくノンフィクションのつもりですが。それにしても、あの新聞記事の勇気には感心しましたよ」いつもは、フィクションが多いのはなぜかとのパーキンスの質問には、「フィクションのほうが安全ですからね。物議を醸すような題材について書くことが多いもので、ベトナム、ハイチ、メキシコ革命、そういう題材のノンフィクションは出版社に敬遠されることが多いのです」

「将軍が北の巨人(米国)に刃向かうのは大変な試みで、彼の身の安全が心配です」

パーキンスには、社会から疎外された貧しい人々ばかりでなく、高名な小説家をも惹きつけるトリホスの人生に関心を寄せるグリーンの気持ちがよく分かった。

「フランス行きの飛行機の時間なので」と握手の手を差しのべたグリーンは、パーキンスの目を見て、「あの新聞記事のように価値のあることを本に書きなさい。きっと書けますよ」といって歩き出したが、きびすを返して、「心配しないで、将軍はきっと勝ちますよ。必ず運河を取り戻すでしょう」

この奇跡的とも思える出会いが、パーキンスに『エコノミック・ヒット・マン』〈2004年刊行〉を書かせることになった、と筆者は想像する。

パーキンスとグレアム・グリーンとの接点が、トリホス将軍のパナマ運河条約改定交渉にあったとは、たいへんな驚きだった。

筆者にとってのグレアム・グリーンは、学生時代に原文で読んだ短編集で、サマセット・モームと同列の作家くらいの印象しかもっていなかった。

映画音楽のチター演奏とオーソン・ウエルズの名演技に心酔したキャロルリード監督の『第三の男』の原作者と知っていたが、『静かなアメリカ人』は読んではいなかった。

ウイキペディアでいろいろなことが分かったので、その概略を記しておこう。

・1904年イギリスで生まれた彼は、1991年スイスで亡くなっている。

・オックスフォード在学中〈第一次世界大中の18歳〉にドイツ大使館に雇われ対仏諜報活動をし、第二次世界大戦勃発時に、M16の正式メンバーとなり、西アフリカ、イベリア半島でスパイ活動に携わる。

・1930年代に知識人の間で共産主義への期待感が高まった頃、27歳で入党。

・ジョージ・オウエルらがソ連共産党の実態を知って離党しても、晩年まで、マルクス主義への共感を持ちつづけた。

・1955年に書いた『静かなアメリカ人』は、CIAに属し、ラモン・マグサイサイやゴ・ディン・ジェムの師で、後に大統領叙勲を受けて アーリントン墓地に眠るエドワード・ランズデール空軍大佐がモデルとされるフィクション。ベトナムで自由の理想をかかげるアメリカ人と裏切りや殺人が横行する現実を対比的に描く。

・この小説を書いてアメリカ入国を拒否されたグリーンは、アメリカを憎んでいたという。

・カトリックの倫理をテーマに、多くの作品を発表したが、80歳のときのインタビューで、「確信をもった共産主義者と同様のカトリック信者の間には、ある種の共感が通っている」と述べている。〈先日、ローマ法王がキューバを訪れ、「共産主義はもう現実的ではない」と言ったが、グリーンの言を知っていたのか?〉

・ノーベル文学賞候補といわれ、1950年にはノミネートされたが受賞は叶わず、死去の際、そのことが話題になった。

・1976年、アメリカ探偵作家クラブ「巨匠賞」。(その翌年に、パナマ・ホテルでパーキンスとの出会いがあった。筆者注)

 

グリーンがM16のメンバーだったとは初耳だが、サマセット・モームもまた、第一次世界大戦時に軍医・諜報部員であり、1917年のロシア革命のときは、イギリス情報局秘密情報の情報工作員だったそうで、いかにも、「007」の家元イギリスらしい。

グレアム・グリーンに多いフィクションのような『誰がために鐘は鳴る』や『武器よさらば』を書いたヘミングウエイは、『老人と海』でノーベル文学賞を受賞したが、アメリカでのスパイ経歴はないようだ。

 

パーキンスがグリーンと出会った1977年、コロンビアでインフラプロジェクトを多く手がけていたメイン社から、海に面したバランキア市にオフィスを与えられたパーキンスは、再び、偶然といえない出会いをする。それはポーラだった。

彼の人生を大きく変えることになる美しい人は、長いブロンドの髪とグリーンの瞳を持ち、思いやりのある女性だった。

ポーラは、それまでの彼の女性に対する接し方が与えていた彼自身への悪影響を改めるきっかけをつくってくれた。

それまでの彼は、自分はなにをしているんだと疑問を感じたり、時には罪の意識さえ感じていたが、そのつど、それらを正当化する方法をみつけながらやってきた。 

サウジアラビアやイランやパナマでの体験に突き動かされて、思い切って自分の生き方を変えようとしていた時期に、ポーラが現れたようだ。

パーキンスは、自分を変えるきっかけとして、ポーラを必要としていたと言い、彼女のお陰で、自分の心の奥底をじっくりのぞきこみ、EHMの仕事を続けているかぎり自分の幸福はないと確信した、と述懐している。

彼は、ポーラの兄がゲリラの一員だったことを聞かされる。

「石油会社のオフィスの外で、絶滅に瀕した先住民の土地で石油採掘のボーリングをすることに、20人の仲間と抗議していたら、軍隊に襲われ、殴られて、刑務所に入れられたのよ。ビルの外でプラカードを持って歌っていただけでなにも法律違反はしていないのにね」

結局、6ヶ月近く刑務所に入れられ、家へ戻ってきたときにはまるで別人のようになっていたという。

それを手始めに、その後何度も同じような会話を交わしたのが、パーキンスがつぎの段階へ進むための準備期間だったようだ。

彼の魂は分裂していたが、それでもまだ、裕福な生活や十年前にNSAが性格分析をして発見した己の弱点に支配されていたと省みている。

パーキンスが救済への道をたどる手助けをしてくれたポーラと過ごしたコロンビアでの時間は、個人の懊悩だけでなく、かつてのアメリカ共和国(合衆国)と新しい「世界帝国」との違いを理解するのを助けた。

アメリカ共和国は世界に希望を提供した。

その基礎となったのはモラルと哲学で物質主義ではなかった。すべての人の平等と正義の概念が根底にあった。それは人々を鼓舞し、両腕を広げて虐げられた人々を守ることができ、必要とあれば、第二次世界大戦中のように、主義主張を守るために行動を起こすこともできた。

国境のない「世界帝国」の構築をめざす大企業・銀行・政府官庁などの共和国を脅かす組織は、感染症や飢餓、そして戦争を終わらせるのに必要な通信網や輸送システムを所有しているので、彼らをその気にさせられるなら、世界を根本的に変えるために利用することも可能なのだ。

「世界帝国」は共和国の強敵だ。

利己的で、己の利益を追求し、どん欲で、物質万能主義の商業主義にもとづくシステムだ。

かつてのさまざまな帝国と同じく、その両腕は、富を蓄積し、手当たり次第になんでも掴みとり、食らいつくすことに対してのみ広げられている。

より大きな権力や富を得るために必要ならば、帝国の支配者は手段を選ばない。

こうした違いを理解するにつれて、パーキンスは、彼自身の役割についてもはっきりと自覚するようになった。


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2012/04/17 11:18 2012/04/17 11:18


アラブと私

イラク3千キロの旅(58)

 

                             松 本 文 郎 

 

 二人が着いたローマで彼の両親に会い、食事を共にした。ファルハドの父親は、かってイランの将軍として、身を挺して国王を暗殺者の銃弾から守った経験もあるのに、国王への幻滅を語った。

 ここ数年の国王は驕慢で強欲な正体を露にしたという。中東にあふれる憎悪は、イスラエルを支持し、腐敗した支配層や独裁政権の後ろ盾となっているアメリカの外交方針にあると非難した。

そして、数ヶ月以内に国王は失脚すると予言した。

「知ってのとおり、そもそものはじまりは、1950年代のはじめ、君たちがモサデクを失脚させたことにある。それが賢いやり方だと、当時の君たちは考え、私たちも同じだった。だが、今ではそれが君たちを苦しめている。私たちをもだよ」

 パーキンスがドクたちから聞いていた同じ話がファルハドの父親の口から出たので、驚いた。

「私の言葉をしっかり覚えておきなさい。国王の失脚は手始めにすぎない。それは、イスラム世界がどこへ向うかを予告するものだからね。私たちの怒りは砂漠の砂の下であまりにも長くくすぶりつづけてきたが、間もなく地上に噴出するのだよ」 

 アヤトラ・ルーホッラー・ホメイニの話も出た。

彼は、ホメイニが率いる狂信的なシーア派を支持しないと明言しながらも、国王を厳しく批判している点については共感しているようだった。

 1902年、テヘラン近郊で生まれたホメイニは、モサデク対国王の争いに巻きこまれるのを極力避けたが、1960年代になって、国王に敵対し批判したために、トルコへ国外追放され、その後、シーア派の聖地ナジャブ(連載・8回に記述)に移り、反体制派の指導者として知られるようになった。

 イラン国民に向けた手紙、記事、録音テープのメッセージを発信し、国王打倒の蜂起をうながし、宗教国家の樹立を呼びかけた。

 

 ファルハド父子らとの食事の二日後、イランで暴動が広がっているというニュースが入った。

 ホメイニらの宗教指導者たちの王政打倒運動によって国王は支配力を失い、国民の怒りは激しい暴動となって爆発したのである。、

 1979年1月、国王はエジプトへ亡命。その地でがんと診断されて、ニューヨークの病院へ向ったが、ホメイニ支持者らは、国王をイランへ戻せと要求した。

 同11月、イスラム教徒の武装集団がテヘランのアメリカ大使館を占拠し、52人のアメリカ人を人質に、444日間も立て籠もった。

 当時のアメリカ大統領カーターは、人質解放の交渉に失敗し、翌年四月、特殊部隊のヘリによる救出作戦を決行したが作戦はあえなく失敗し、カーター政権の息の根を止める結果となった。

 アメリカの病院で闘病していた国王に米国政財界が強い圧力をかけ、かっての友好国が国王入国を拒絶するなか、唯一受け入れを表明したパナマのトリホス将軍が安息の場を提供した。

 イランの宗教指導者たちは、アメリカ大使館の人質と交換に国王の身柄を求めた。新パナマ運河条約に反対する米政府の人々(皮肉にも、彼らの多くはほんの数週間前まで国王の忠実な支持者だった)はトリホス将軍が腐敗した国王と癒着し、米国市民の生命を危険にさらしていると糾弾して、国王をホメイニに引き渡すべきだと主張した。

 かっての誇り高き「王のなかの王」はエジプトに戻り、がんで死ぬ結末を迎えたのである。

 砂漠のはずれの泥の小屋に逼塞していたドクの予言は現実となった。

 メイン社ほか多くの会社は、イランで大損害をこうむり、パーキンスは、イランで多くの教訓を得たという。

 それは、世界各地で活動を展開する、企業・銀行・政府の集合体であるコーポレート・クラシーの本当(裏側の?)の役割への関与を、アメリカという国家がやっきになって否定(隠蔽?筆者注)していると言っているのだ。

 パーキンスをEHMに仕立てたクローディンによる「コーポレート・クラシーの役割」の定義は、「世界各国の指導者たちをアメリカの商業利益を促進する巨大なネットワークにとりこむこと」としていたが、それは表の一面であって、裏面は、国家謀略的なものだったのだろうか。

 コーポレート・クラシーとアメリカ政府(政権が変われば政策も変わる)との関係は、組織的に堅固な結びつきではなく、NSA(国家安全保障局)やCIAとの連携・情報交換にも時々で粗密があったようだ。

 パーキンスは、CIAが、「白色革命」で担ぎ上げたシャーハンシャー国王が宗教指導者らによって国外へ追い出されると知っていながら、情報をメイン社に伝えなかったので、彼らとの関係のあやうさを思い知ったようだ。

 あるいは、ファルハド父子はイラン人CIAで、パーキンスだけに情報を伝えたのではないかと、(筆者は、)勘ぐってみたくもなる。

 米国保守派の圧力で国外退去を余儀なくされた国王をパナマに受け入れたトリホス総軍とパーキンスは、理解し、信頼しあう親しい間柄にあったようだ。

 1977年、メイン社の百年の歴史で最年少のパートナーになっていたパーキンスは、パナマのインフラ整備(農業部門を含む)の革新的総合基本計画を策定するための調査・経済予測を担当していた。

 社内では、社会主義的な印象があると不満な声もあったが、貧しい人々を勘定にいれた推奨案を期待したオマール・トリホスとの密約を尊重して作成したという。

 当時、トリホスは、新パナマ運河条約の交渉をカーター大統領と始めようとしていたが、米国を除く国際世論は、植民地主義の時代に結ばれたパナマ運河条約を改め、運河の支配権をパナマ人に委ねること求めていた。

 またとない時期に、道理をわきまえ思いやりのある人物が米国大統領に就いたと感じた人たちが多かったはずだ、とも書いている。 

 だが、米政府の保守派の砦とされる人々や宗教系右派の人々は、国家防衛のカナメで、南米の富をアメリカの商業的利益に結び付けている運河を手放すような、カーターの動きに憤りを露にしたという。

 パーキンスは、2年前、トリホスがパナマ人有力者たちを由緒ある社交クラブに招いたときの数少ない外国人招待客の一人として聞いた話に共感して、『1975年、パナマには植民地主義の居場所はない』と題した文をボストングローブ紙に送り、社説欄掲載されていた。その記事は、「パナマ運河を長期的に効率よく運営するには、パナマ人自身が責任を持って運河を管理するのを手助けするのが最良の策である。そうすることで、2百年前に誓った独立独歩の精神への肩入れを、私たち自らの決断で、再確認することにつながる行動に着手したと自慢することができる。アメリカ独立から2百年が経った今、『1975年、パナマには植民地主義の居場所はない』ことを理解し、行動する」

 メイン社のパートナーになったばかりの彼が、ニューイングランド一の高級紙の社説欄に、政治を非難する意見を公表したことに、批判がましいメモが社内郵便でたくさん送りつけられたという。

 パーキンスは、クローディンから教えこまれたコーポレート・クラシーのルール「途上国指導者を対外援助ゲームの負債の罠に絡めて借金まみれにする」に反し、トリホスの国家指導者としての誠実さを受け入れ、結果的には、トリホス政権から多くの契約を受注し、純粋に経済的な見地からもメイン社のビジネスに貢献したのである。

 有名な作家グレアム・グリーンが書いた、「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」の『五つの国境を持つ国』と題された署名記事には、アメリカの情報機関が、カーター大統領の意思を削ごうとしていること、必要あれば、パナマ軍上層部を賄賂で抱きこんで条約交渉を妨害しようとしているとあり、トリホスの周囲をジャッカルたちが徘徊しはじめたのかと思った、とパーキンスは書いている。

 パナマへの融資が、返済不能な負債ではなく、国民の役に立ったなら、コーポレート・クラシーはどう反応するだろうかと、パーキンスは考えた。

 コーポレート・クラシーがめざす世界帝国拡大を推進するために、国家統治有力者を腐敗させるよう仕組まれたシステムでは、腐敗を拒む者らには酷い仕打ちをするので、ラテンアメリカの歴史は、英雄の死体に満ちている。

 トリホスとカーター大統領は運河地帯の支配権を委譲し運河自体をパナマの管理下に置くことを定めた新条約の締結に成功し、ホワイトハウスは議会に条約の批准迫ったが、長期にわたる熾烈な応酬のあと、わずか一票の差で批准は実現した。

 何年も後に出版されたグレアム・グリーン著の『トリホス将軍の死』は、「わが友人である、ニカラグア、エルサドバドル、そしてパナマのオマール・トリホスに」捧げられていた。                              
                                   
(続く)

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-反米の壁画 (テヘラン)-フリー百科事典ウィキペディア日本語版より




2012/03/21 13:36 2012/03/21 13:36

アラブと私

イラク3千キロの旅(57)

 

                             松 本 文 郎 

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 「オイルランプ」
アンドリュー・ワイエス(1917-2009)

 

2人が入った部屋は狭くて窓がなく、明りは、片隅の低いテーブルに置かれたオイル

ランプだけだった。

  暗さに目がなれると、土間にペルシャ絨毯が敷かれているのが見え、声の男の姿が、

 ぼんやり浮かんできた。パーキンスの連れにドクと呼ばれる男は車椅子に座り、数枚の

毛布にくるまっていた。

 室内には、テーブル以外の家具はなにもない。

 連れは、男に近づいて静かに抱擁し、耳元で二言三言囁き、パーキンスの側へきて

絨毯に座った。

「先日お話したミスター・パーキンスです。こうして一緒にお目にかかることができて光栄です」

「ミスター・パーキンス、歓迎するよ」

 男の声は低くしゃがれていて、特徴的なアクセントはほとんどない。狭い室内なのに

身を乗り出すようにして耳を傾けるパーキンスに、男は語った。

      「君の前にいるのは廃人だ。だが、最初から、こんなだったわけではない。昔は、今の

君のように元気だった。私は、国王の信頼篤い側近だった」

       そこで長い沈黙があった。

「シャー・オブ・シャー、王のなかの王、だ」

       彼の口調には、怒りよりも悲しみが色濃く感じられた。

      「世界の指導者たちとも親しくつきあったよ。アイゼンハワー、ニクソン、ドゴール。

彼らは私がこの国を資本主義に導く手助けをする人間と信頼していた。国王も私を信頼

していた」

           そこで男は咳きこんだようだったが、私には笑い声に聞えた。

          「私は国王を信じていた。彼が雄弁に語る言葉を信じたのだ。イランはイスラム世界を

新時代に導き、ペルシャ帝国の理想を実現するにちがいないと。それこそが私たちの使

命―国王の使命であり私の使命でもあると。この使命に携わるものはすべて、理想を実

現するためにこの世に生まれてきたのだと」

毛布のかたまりが動いて、車椅子が軋みながらやや向きを変えると、男の横顔が目に

映った。のび放題の髭、そして妙にのっぺりした輪郭、男の鼻はそぎ落とされていた!

パーキンスは、身震いし、思わず声を上げそうになった。               

 

パーキンスが、砂漠のはずれの泥の小屋に隠れ住む男と対面させられたシーンの描写

があまりにも真に迫っていたので、つい原文の長い引用となったが、後は、要約(文責筆者)させてもらうことにする。

            ドクの話のつづきは、驚くべき内容だった。

イラン国王と信頼関係にあったドクがなぜ、鼻をそがれるような残虐な刑罰を受けた

かは語られず、公的に抹殺された人間のことを詮索するのはやめるのが賢明だ、と忠告された。

ドクの正体を知ればパーキンスと家族にまで、国王と秘密警察の追及の手が遠くまで

届くという。

 国王の父親がナチの協力者としてCIAの手で退位せられた白色革命のとき、ドクはその手助けをしたが、モサデクの悲運が生じたのを悔いているようだった。

 国王の側近として、イランの新時代を導くことを信じていたドクの目に、アメリカの石油会社との腐敗した関係で資本主義的経済成長を進める国王が、その利益を一握りの実業家たちに得させているのが、悪魔の姿に見えたという。

 パーキンスが、ドクの言葉を疑いはしないがイランを四度訪れて会った人たちはみな、国王を愛し、経済成長を評価していたと言うと、連れの男が、パーキンスが国王のために働いて利益を得ているアメリカや英国で教育を受けた人間からしか話を聞いていないからだと云う。

 対面のために掻き集めたなけなしのエネルギーを消耗しつくしたかのようにしわがれた声のドクは、話をつづけた。

「アメリカのマスコミも、国王と親しい取りまき連中としか話さないし、広告主の石油会社にコントロールされ、都合のいい話しか聞きたがらない。私たちがミスター・パーキンスにこんな話をするのは、イランから手を引くことをメイン社に説得してほしいからだ。君たちは、この国で大儲けができると考えているのだろうが、それは幻想だ。

今の政権は遠からず破滅する。そのとき取って代わるのは、君たちとはまったく相容れない人々だ」

 連れの男が、パーキンスの耳元でささやいた。

「ドクは、宗教指導者たちととても親しいのです。この国の数ある宗教派閥の根底には共通する大きな流れがあって、ほぼ全土に広がっています」

 ドクの言葉がつづく。

「国王はこの先長くは安泰ではいられまい。イスラム世界は腐敗した彼を憎悪している。アラブ人だけでなくインドネシアやアメリカなど世界中のイスラム教徒たち、とりわけこの国のイラン人たちがね!」

 ドクが急に咳きこんだので、連れがそばに行って背中をさすった。咳が収まったドクにペルシャ語で話しかけてから、パーキンスの隣に戻った。 

「対面はここまでにしよう。あなた方は利益を得られない。仕事をすべてやり終えて、さあ代金を回収しようとしたときには、国王はいなくなっている」

 テヘランへ戻る車中でパーキンスは、なぜドクがメイン社の経済的破綻を予言したのかと尋ねた。

「あなたの会社が破綻するのはむしろうれしいことだが、イランから去ってくれるほうがもっとうれしいのです。この国で大虐殺など起ってほしくはないが、国王は倒さなければならないし、そのためには何だってやる。手遅れにならないうちに、ここから立ち去るよう、上司を説得してくださることを、アラーの神に祈っています」

「どうして、私が……」

「この前の晩に食事を共にして、『砂漠に花を咲かせよう』プロジェクトの話をしたとき、あなたが事実を見つめる人間だと判ったからです。あなたが、二つの世界の中間にいるどっちつかずの人だという、私たちが得た情報は間違ってなかった」

パーキンスは、彼らがどれほど自分のことを知っているのだろうか、と思った。

 

イラク石油の開発発祥の地モースルを訪問している記述の最中に、この長期連載『アラブと私』の最初からの読者で、貴重な感想や示唆をいただいていた田代譲次さんが急逝されたので、追悼の意をこめた文章を(52)回の末尾に書いた。

古代世界や中東の歴史に深い関心を寄せていた氏への想いの弾みで、「事実は小説より奇なり」を地でゆく『エコノミック・ヒット・マン』までもが飛び出し、すでに3回分を書いた。

 田代さんから羨まれたような体験をした1969年のテヘラン出張、1970年代前半のアラブ在勤のころすでに、エコノミック・ヒット・マンらがこれらの地で活動していたことを、40余年後の今まじめて知ったからである。

イスラム原理主義的な体制下でのイランの核開発が、イスラエルを筆頭に欧米各国の喫緊の脅威となっている現実を重ねてもいる。

 パーキンスが露わにした、アメリカの世界帝国構築の複雑な仕組み(コーポレイト・クラシー・システム)がいまも脈々と活動していると感じるのは、思い過ごしだろうか。

 そろそろ、1971年のモースルに戻りたいが、CIAが操っていた国王シャーハンシャー政権の末路を、パーキンスの本から要約しておきたい。

 

 1978年(第一次オイルショック・筆者注)のとある日の夕暮れ、パーキンスは、テヘラン・インターコンチネンタル・ホテルのロビーの豪華なバーで、、ビジネススーツの大柄なイラン人に肩を叩かれた。
「ジョンじゃないか! 僕を忘れたのかい?」

 パーキンスの大学生時代の親友ファルハドとは10年以上も会っていなかった。

 肩を抱き合って再会を喜んだ2人が、腰を下ろして話しはじめると、ファルハドが、パーキンスのその後のことをすべて知っているのがすぐ分かったが、ファルハド自身と仕事のことを話すつもりのないことも、ちゃんと分かった。

「で、率直にいうと、明日、両親が住むローマへ行く予定だけど、1枚余分の航空券を持っている。イランは大変なことになるようだから、君も出国するのがいいと思うんだ」 

                                   

(続く)
2012/03/08 15:48 2012/03/08 15:48


アラブと私

イラク3千キロの旅(56)

 

                                松 本 文 郎 

 

 あえて、序文の長い採録をさせてもらった。

パーキンスが、自ら関与した恐るべき罪の告白に、こころを打たれたからである。

この本によって、四十余年前のイランやアラブで体験した事象の暗部が明るみに出されたように思ったからでもある。

 モースルのアッシリア東方教会の牧師が私たちに話したように、一九五三年、イランのモサデック首相が石油国有化を実行したとき、米英が画策した皇帝派クーデターにCIAが関与して、失脚したモサデックは自宅軟禁中に死亡した。

一九四五年生れのパーキンスがまだ九歳のときの事件である。

 私が電気通信研究所・建築基本計画の技術指導のオフィシャルパスポートで、テヘランに滞在した一九六九年の頃、イラン国皇帝はシャーハンシャーの尊称(「王のなかの王」)でよばれていた。

 その七年前、シャーは土地改革を断行して一握りの地主たちが所有していた土地を農民に解放し、翌年には、「白色革命」と呼ばれた一連の社会経済改革を開始しており、独裁的統治だが、イラン国の近代化を推進する名君のイメージが感じられたものだ。

イランは電気通信の近代化にも力を入れていて、日本の電電公社に、研究所開設での協力を要請してきたのである。

カウンターパートのハクザール博士はアルメニア出身の優秀な電気通信専門家で、ドイツ留学の折に馴初めたドイツ人女性が奥さんだった。

夕食に招かれた夕べ、幼い愛娘が急に発熱したのに、予定どうり歓待されて恐縮したこともある。

宿の「パンシオン・スイス」は、老スイス人がオーナーで、大きくて黒い眼と長い黒髪が魅惑的なペルシャ美人がマダムだった。、

 夕食では、もっぱらイランのビールを飲んだが、旨かったし、土地のワインもなかなかにいけた。

滞在中、招聘された郵電省の対応はすばらしく、とても親日的だった。

任務を終えたあと、連絡担当技術者ハキミアンが古都・イスファハンとペルセポリス遺跡があるシラーズへの国費旅行の案内を務めてくれた。

イスファハンのクラブに招待された夜、音楽師をテーブルに呼び、哀愁ただようジプシー風の曲をバイオリンで奏でさせた。なにかリクエストをといわれて「黒い瞳」を選んだ歓待もなつかしい。

カスピ海の黒キャビアで上等のワインをしこたま飲み、ご機嫌で近くのホテルに帰る道すがら、ハキミアンが朗々と暗誦したフェルドーシーの詩のペルシャ語の韻律の見事さに驚嘆した。

まだ若い電気通信技術者のペルシャ伝統文化の教養の高さに、イラン近代化の将来の頼もしさが見えるようだった。

 シーア派イスラムの国イランで、当時の日本に勝るとも劣らない欧米風ライフスタイルを体験したが、君主シャーハンシャーの背後では、米政府とヨーロッパの協力者たちが、この国王の政権をイラク・リビアや中国・韓国など根強い反米感情をもつ国々に代わるものとして、世界に示そうとしていたようである。

 EHMのジョン・パーキンスは、一九七五年から七八年にかけて、イランを頻繁に訪れたという。

 彼の目に映ったイランには、サウジアラビアと同じように石油資源が豊富で、開発プロジェクトを推進するために借金に頼る必要はなかった。

 ただし、人口の大部分はペルシャ人などの中東イスラム教徒で、歴史上、政治的紛争の絶えない国だったから、国の内部と周辺諸国との関係では、従来とはちがう対応をしたという。

 かっては、、民主的に選ばれたモサデック政権の転覆にCIAを暗躍させたような乱暴なやりかたをしなかったということなのだろう。

 パーキンスによると、強力で民主的なアメリカの企業や政界の友人たちがどれほどのことができるのかを世界に見せつけるために、精力的な活動を開始したとある。

 彼のメイン社は、北のカスピ海に面した観光地から南のホルムズ海峡を見わたす秘密軍事施設にいたるまで、ほぼ国中の各地でのプロジェクトにかかわったと書いている。

 一九七七年のある日、パーキンスがホテルに戻ると、ドアの下に一通の手紙が押し込まれていた。

 署名の名は、政府当局者からは、有名な過激派と教えられていた人物のものだった。

 好奇心が旺盛で、イランの国内状況を把握する任務をもつパーキンスは、危険な賭けになるかもしれない謎めいた人物と会うことにした。

 手紙に指示された高級レストランで待っていたのは、仕立てのいいスーツを着た長身の男性で、アクセントからは英国できちんとした教育を受けたイラン人と思われたが、過激派の危険人物とは見えなかった。

 そのレストランは、男女の秘密の逢いびきに使われるような場所で、色恋とは関係のない密会をしたのは、彼らだけだったようだと書いている。

 その男性は、国王政府のお抱え経営コンサルタントに詳しくて、平和部隊でボランティア経験のあるパーキンスが、イラン各地の旅先で地元の人々との交流に努めていることに興味をもち、連絡したのだと告げた。

「同業の人たちに比べてずいぶん若いですね。あなたはこの国の歴史や、私たちが現在抱えている問題について興味をもっている。私たちにとっては、希望を感じさせる存在です」

 と誠実な口調で話した。

 男性がパーキンスに訊ねたのは、「砂漠に花を咲かせよう」プロジェクトのことだった。

 概要を、『エコノミック・ヒットマン』の第18章から引用させていただく。(筆者抄録)

 

  イランの砂漠地帯はかって肥沃な平野と緑の森だったと国王は信じ、主張している。その理屈は、アレキサンダー大王が支配した当時、連れてきた膨大な数の山羊や羊が、草木を食べつくしたので干ばつが起き、砂漠になったこと。

  砂漠地帯に数多くの樹木を植えれば、雨がもどり、ふたたび砂漠に花が咲く。それには莫大な資金が必要だが、メイン社のような企業は莫大な利益を得るだろうと男性は語った。

  パーキンスにはその計画に男性が否定的なのが、すぐ分かった。

 「ミスター・パーキンス、米国のネイティヴ・アメリカンの文化を破壊したのは、いったい、なんだったのでしょうか!」

  いろいろな要素があるが、強欲や威力に勝る武器などではないか、とパーキンスが云うと、「でもなにより、環境破壊が大きかったのではないでしょうか」

 森林を切り開き、バッファローが絶滅に瀕し、原住民が居留地に移住させられ、文化の基盤が破壊されたプロセスに言及した男性は、「砂漠は私たちの生息環境です。砂漠に花を咲かせる計画は、私たちの生活環境を根底から揺るがすものです」

  パーキンスが、この計画に関連するアイデアは全てイランの人々の発案と理解していると云うと、男性は皮肉っぽく笑って、アイデアを国王に植えつけたのは米国政府で、国王はその 操り人形にすぎないと反論した。

「本物のペルシャ人は、そんな計画は決して許しません」

  遊牧民であるイラン民族と砂漠との強い絆について、とうとうと弁じた男性は、都市に住むイラン人たちが、休暇を砂漠のテントで過ごすことが多い事実を力説し、「私たちは、砂漠と一心同体なのです。国王が圧制によって支配しようとしているのは「砂漠の民」ではなく、私たちは砂漠そのものです」

  夜が更けて、高い塀に囲まれた玄関まで見送ってくれた男性が、「イランの未来に希望を抱かせるあなたに紹介したい友人がいます。国王について衝撃的な話を聞けるので、絶対に無駄にはなりません」

 

 数日後、二人を乗せた車は、テヘラン郊外へ出て、砂漠のはずれに到着し、ヤシの木々に囲まれた粗末な泥の小屋が数軒ある場所で停った。

「ここは、マルコ・ポーロより何世紀も昔からのオアシスです」と云って、一軒の小屋にパーキンスを案内した。

「ここにいる人は、米国の最高学府の博士号をもっています。事情は間もなく分かりますが、名前は云えないので、「ドク」と呼んでください」

 男性が木製のドアをノックすると、くぐもった返事が聞えてきた。        

(続く)



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2012/02/07 17:00 2012/02/07 17:00

アラブと私

イラク3千キロの旅(55)

 

                                松 本 文 郎 

 

 モースルの街でユーセフが案内したキリスト教会(アッシリア東方教会)の牧師とクルド民族の宗教ヤズィーデーの老人信者との出会いの場面の記述から、イラクの石油をめぐる欧米のしたたかな介入の歴史、さらに、米国の世界戦略を推進するコーポレートクラシーの驚くべき活動の実態について言及した。

 モースルの場面に戻る前に、前回末尾で予告したように、『エコノミック・ヒットマン』(EHM)に書かれているコーポレートシステムの暴走事例を採録しておこう。(古草秀子訳)

  

  現在私たちは、このシステムが暴走した結果を目の当たりにしている。アメリカの立派な大企業は、アジア各地の低賃金長期労働時間の搾取工場で人々を奴隷のように酷使している。

  石油会社は理不尽にも熱帯雨林の河川に有毒物質を垂れ流して人間や動植物を死に至らしめ、古代からつづいてきた先住民族の文化を破壊している。

  製薬会社はHIVウイルスに感染したアフリカの数百万もの人々に生命をつなぐ薬剤を与えようとしない。

  さらには、わがアメリカ国内でも、二百万世帯もがつぎの食事を心配する生活を送っている。

  エネルギー産業はエンロン事件を生み出し、会計監査業界はアンダーセンを生み出した。

  世界の全人口のうち、もっとも裕福な国々に住む上位五分の一の層と、もっとも貧しい国々に住む下位五分の一の層との所得を比較すると、一九六○年には三○対一だったが、一九九五年には七四対一にまで格差が広がった。

  アメリカはイラク戦争に八七○億ドル費やしたが、その半分以下の金額でこの地球上の全人類に清浄な水と十分な食料と公衆衛生設備を与え、必要最低限の教育を施すことができると、国連は見積もっている。

  

 元EHMジョン・パーキンスの記述は続く。

  

ところで、私たちがテロリストに攻撃されるのはなぜだろう?

陰謀を企むテロ組織があるせいだと答える人もあるだろう。そんな単純な問題であったら、どんなにいいだろう。

  陰謀に加わる者たちを見つけ出して、正義の裁きを受けさせればいい。

  だが、惨劇がくりかえされるシステムに原動力を与えているのは、それよりもはるかに危険なものなのだ。

  根元的問題は一部の集団にあるのではなく、あたかも絶対的真実のように受け入れられている認識にある。

  つまり、すべての経済的成長は人間にとって利益であり、成長が大きければ大きいほど利益は拡大するという考えである。

  そう信じるかぎり、経済成長の焚き火をたくのがうまい人々が賞賛されたり報酬を獲得したりする一方で、主流からはずれた場所に生まれた人々は、搾取されるために存在するという、必然的な結果がもたらされる。

  いうまでもなく、この考え方は誤りだ。

  ご承知のように、多くの国々で、経済成長はほんの一部の人々にだけ恩恵をもたらし、残りの大多数の人々はますます絶望的な状況に置かれる結果になっているといえよう。

  しかもそれは、システムを牛耳る産業界の大物は特権を享受するべきであるという必然的な確信によって強化されており、その確信は現代の私たちが抱えている多くの問題の根本原因であり、しかもおそらくは、陰謀説が広く人口に膾炙している理由だろう。

  強欲な人々が報酬を得るとき、強欲は腐敗をもたらす。

  地球の資源を貪るように消費することを聖人であることと同一視するとき、バランスのとれていない人生を送る人々をまねるよう子どもたちに教えるとき、そして、大多数の人々は少数のエリートに従属していると定義するとき、私たちは自ら困難を求めている。

  今日の私たちは、まさにそんな状況だ。

  コーポレートクラシーは、経済的・政治的な力を利用して、教育や産業界やメディアがこの誤った認識と必然的結果の両方を支持するよう努める。

  その結果として、現代人の文化は際限なくどん欲に燃料を消費する巨大機械と化したかのごとき状態にまで陥ってしまい、行き着く先といえば、目につくものすべて消費して最後には自分自身を呑みこむしかなくなってしまうだろう。

  コーポレートクラシーは陰謀団ではないが、そのメンバーたちは共通の価値観と目標をもっている。

  コーポレートクラシーの最も重要な機能のひとつは、現状のシステムを永続させ、常に拡大し強化することである。
「成功者」の暮らしや、豪華なマンションや自家用ジェット機といった彼らを飾る品々は、「消費、消費、消費」と私たちを駆りたてるためのモデルとして示されている。

  物を買うのは私たち市民の義務であり、地球の資源を略奪することは経済にとって良いことであり、自分たちの利益になるのだと、なにかにつけて私たちは思いこまされている。

  かっての私のように、EHMは法外な給料を与えられて、システムの思いのままに操られている。

  EHMが失敗すれば、さらに邪悪なヒットマンであるジャヵルの出番となる。ジャッカルも失敗すれば、軍隊が出動する。

 

 それにしても、ジョン・パーキンスが命がけで、著書『エコノミック・ヒットマン』を世に問うた勇気には、脱帽である。

 脅しや買収に何度も屈して執筆を中断したそうだが、九・一一の惨劇が起きて、イラクが再び戦火に覆われたことで、真実を語り、過去の過ちをきちんと伝えなければ、祖国・アメリカ合衆国と人類の未来は築けないと決意したようだ。

 彼がEHMの一員だったころ所属した集団は比較的小さかったそうだが、二○○四年現在では、同じような仕事をしている人間はもっとたくさんいるという。

 EHMよりもっと婉曲な肩書きで、モンサント、ゼネラルエレクトリック、ナイキ、ゼネラルモーターズ、ウォルマートなどをはじめ、世界中のほとんどの大企業の廊下を闊歩しているそうだ。

『エコノミック・ヒットマン』に書かれているのは、パーキンスの話であると同時に、彼らの話でもあるということだ。

 そしてまた、私たちが生きている現代社会の話、史上初の<世界帝国>の話だという。

 彼の言葉をつづけよう。

 

  歴史に鑑みれば、現状の筋書きを変えないかぎり、いずれは悲劇的な結末を迎えるしかない。

  歴史上、帝国はことごとく崩壊してきた。互いにより多くの支配権を争って、多くの文化を破壊し、自らも滅びの道をたどった。

  他者を搾取することによって繁栄を長く謳歌した国家や国家連合は、存在したためしがないのだ。

  この本を書いたのは、私たちが問題意識を持ち、現状を変化させるのに少しでも役立てばと願ったからだ。

  世界の資源を強欲に奪いあい、奴隷制度を促進しているシステムを生み出している経済優先社会に、自分たちがどれほど搾取されているのかを多くの人々が知れば、だれもそんな社会を容認しなくなると私は確信している。

  ごく一部が豊かさを享受する一方で大半の人々は貧困や汚染や暴力に圧倒されている世界で、自分がどんな役割を果たしているのか、私たちはあらためて考えるだろう。

  そして、すべての人のための思いやりや民主主義や社会正義へと向う道を進もうと自分に誓うだろう。

 問題の存在を認めることは、解決法を見つけるための第一歩だ。罪の告白は、贖罪のはじまりである。

 どうかこの本を、私たちの罪と罰からの救済のはじまりとして役立たせてほしい。

 ひとりでも多くの人々が、あらたな献身へと導かれ、誰もが理想とするバランスのとれた誇るべき社会を実現する方向に向ってくれることを願っている。

                                   (続く)


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2012/02/03 14:04 2012/02/03 14:04


アラブと私

イラク3千キロの旅(54)

 

                            松 本 文 郎 

 

 

CIAに関しては、イラク3千キロの旅の2年前のテヘランで、言動に注意するように忠告され、モースルの教会でも牧師の話に出たくらいだから、中東の国々で活動しているであろうことへの意識はもっていた。

 それにしても、エコノミック・ヒットマンなる者らが、当時のアラブで活動を開始

していたとは、ほんとうに驚きだった。

 でもいま振り返ってみると、1970年前後の中東での米ソの動きと、本に書かれ

ていることとの辻褄はよく合ってくる。

 イランのモサデク首相の1951年の石油国有化を背後で支えたのはソ連と云わ

れ、20年後に、イラクのバクル大統領が構想していると思われた国有化でも、ソ連

が全面的に協力したのであろう。

 53年のコンソーシアム発足で、中東石油の支配権がイギリスからアメリカへ移っ

て以来、中東石油をめぐって米ソ冷戦が進行していたのである。

 1971年の当時、社会主義のイラクバース党が石油国有化を模索していたとき、

サウジアラビアのファイサル国王の石油政策ビジョンは、「国有化という伝家の宝刀

を抜かせるな」のように思えたと牟田口さんは書いている。

 サウジアラビアはイランと並び、OPECの中で最大の産油国であり、ファイサル

国王の右腕と目されたヤマニ石油相は、資源を握るOPECと開発技術と販売ネット

ワークをもつメジャーとが、食うか食われるかの石油戦争ではなく、二人三脚の関係

を結ぶように奔走し、それを実現した。

 CIAが仕組んだとされるモサディク政権転覆で統治権力を取り戻したイランの

パーレビ国王の石油政策の到達点も、ヤマニ路線の目標と同じと見なされていた。

『エコノミック・ヒットマン』第十四章に、著者のジョン・パーキンスが、メイン社の一つの部署の責任者として、世界各地の調査を総括するように求められたとある。

 1970年代はじめ、国際経済は重大な変化の時を迎えて、1930年代との類似性が論じられ、大恐慌時代のルーズベルト・ニューディール政策のように、ケインズ的アプローチを政府に提唱し、ベトナム戦争における軍事力投入や・資金配分の戦略決定に辣腕をふるったロバート・マクナマラの「攻撃的リーダーシップ」が、政府の上層部や企業幹部たちのモットーとされるようになる。

 それは、一流ビジネススクールでマネジメントを教える際の精神的基盤となり、世界帝国推進の先頭に立つ新しいタイプのCEOたちを生んだ。

 マクナマラは、大企業トップから政府閣僚へ、さらに、世界で最も有力な銀行である世界銀行の総裁に就任し、「権力分離の原則に対する違反」の上に、世界銀行が、かってない大規模な世界帝国のエージェント化の舵取りをした、と断じている。

 彼の経歴は、後に続く人たちが踏襲する前例となる。

 全てが事実なのだが、アメリカの政治・経済を牛耳ってきた人たちの顔ぶれを突きつけられると、この本への筆者の驚きと納得は深まるばかりだ。

 コーポレートクラシーの主要な構成者の間の溝を橋渡ししたマクナマラの能力を継いだ例を記す。

①ジョージ・シュルツ

 ニクソン政権で財務長官・経済諮問委員会委員を務めてベクテル社の社長、レーガン政権では 国務長官に就任。

②カスパー・ワインバーガー

 ベクテル社の副社長・理事からレイガン政権の国務長官に就任。

③リチャード・ヘルムズ

 ジョンソン政権のCIA長官の後に、ニクソン政権では駐イラン大使に。

④リチャード・チェイニー

 ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の国防長官を務めてハリバートン社の社長とな

 り、その後、 ジョージ・W・ブッシュ大統領の副大統領に。

⑤ジョージ・H・W・ブッシュ

 ザパタ石油の創業者で、ニクソン・フォードの 両政権の国連大使、フォード政権

 ではCIA長官を務めた。

 こうした連中の世界帝国推進の一隅で仕事した エコノミック・ヒットマンのジョン・パーキンスだったからか、悔恨の念とともに書いた原稿を、本にする勇気ある人はなかなか見つからなかった。 むしろ、強い説得を受けて、執筆を断念した20年の間に、四度、執筆再開を試みたとある。

 1989年の米軍パナマ侵攻、第一次湾岸戦争、ソマリア内乱の泥沼化、オサマ・ビン・ラーディンの台頭などの世界情勢の大激変に触発されたからという。

 

この本を届けてくださった人は、多くの人たちからも敬愛されているが、この種の著作を読まれていたのは、筆者には思いがけないことだった。

 筆者が食道がん手術を受けて4ヶ月の入院を余儀なくされたとき、中島みゆきの歌

の数々を入れたテープを、陣中見舞として病室へ持参してくださったのも氏である。

『エコノミック・ヒットマン』を、同氏がどんな想いで筆者に届けてくださったのか、

いまもって訊ねていないのは、長年の公私両面のお付き合いで、私なりに十分察しが

ついているからだ。

 ロマンを秘めた山男であり、したたかなほどの現実主義者の氏は、ひ弱な理想主義

者を自認する私に、世界を動かしている恐るべき暗部の存在を知らしめて、『アラブ

と私』の著述に、しっかりとしたリアリティをもたせるよう、示唆されたのであろう。

 

ジョン・パーキンスは、執筆再開を試みる度に、脅しや買収に屈して筆をおいたと告白している。

 2003年、この本の原稿が、ある世界的企業傘下の出版社の社長の目にとまる。

彼は、「多くの人に読まれるべき魅力的な話」と言い「フィクションとしてなら、

ジョン・ル・カレやグレアム・グリーンのようなタイプの作家として売り出せる」と提案した。

かけがえのない己の人生をたどった実話なのにだ。

 だがついに、国際的大企業の傘下ではない勇気ある出版社が、彼の人生の真実を語

ることに応じたのである。

 ジョン・パーキンスは、脅しや買収に屈せずに、この本を出そうと決心した心情を

以下のように吐露している。

  この本に書かれているのは、絶対に語らなければならない真実である。私たちは、恐るべき危機の時代に生きている。

  かってEHMとして働いた私がここで語るのは、社会が現状にいたった道のりと、私たちが今日の圧倒的な危機に直面することになった理由である。

  なぜ真実を語らねばならないかといえば、過去の過ちをきちんと理解してこそ、未来を築くことが可能になるからだ。9・11の惨劇が起き、イラクが再び戦火に

 覆われたからだ。

  とりわけて重要な理由は、人類史上初めて、一国家が、世界のすべてを変えうる

富と権力と能力を備えるに至ったという事実である。

  その国とは、私がEHMとして仕えた祖国、アメリカ合衆国である。     

  

 ジョン・パーキンスがEHMになる訓練を受けた1971年に、私は、ユーセフと

彼の祖国イラクを旅をしたのだ。

 教師役の美しく知性的な女性のクローディンは、真剣な顔をして言ったそうだ。

「私の仕事はジョンをエコノミック・ヒットマンに仕立て上げること。あなたがどん

な仕事をしているかは誰に話してもいけません。奥さんにも。一端仲間入りしたら、

一生ぬけられないわよ」

 クローディンは、ジョンが足を踏み入れた裏面の世界での巧みな人間操作で、彼の

弱点を最大限に利用してEHMに仕立てていった。彼女の任務や実行手段は、その組

織の背後にいる人々の巧妙さを示していた。

 彼女がジョンに求めたEHMの仕事は、「世界各国の指導者たちを、アメリカの商業利益を促進する巨大なネットワークにとりこみ、最終的には、それらの指導者たちを負債の罠に絡めとり、忠誠を約束せざるをえなくさせる。そうしておけば、政治的、経済的、軍事的必要が生じたとき、いつでも彼らを利用でき、国民には、工業団地、発電所、空港などを提供することで、元首としての地盤を固めさせる」だった。

『エコノミック・ヒットマン』をジョン・パーキンスが命がけで世に出そうとしたのは、企業・銀行・政府らの集合体(コーポレートクラシー)が世界帝国の建設推進をするなかで、アメリカのエンジニアリング会社や建設会社が膨大な利益を得る巧妙なシステムが暴走した結果を目にしたからだという。

 しかし、コーポレートクラシーのメンバーたちは、共通した価値観と目標をもち、そのシステムを持続・拡大・強化いなければならないのだ。

 コーポレートクラシー・システムの世界各地における恐るべき暴走事例の訳文を、次回、転記させていただく。            

(続く)


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モハマド・モサデク

2011/12/15 18:19 2011/12/15 18:19

アラブと私

イラク3千キロの旅(53)

 

                               松 本 文 郎 

 

田代譲次さんが代表幹事を務めた情報通信国際交流会は、150回に及ぶ月例講演会を開いてきた。

 人類の歴史・社会に関する幅広いテーマの講演年間計画に基き、斯界の学究や論客が招かれたが、講師の選択は、田代さん自身が著書などを丹念に読んで決められたと伺い、実に勉強熱心な人だと畏敬していた。

どの講演も興味深く聞かせていただいた中で、東京大学大学院教授高山 博(西洋中世史専攻、異文化交流研究/異文化接触論)、同教授山内昌之(地域文化研究専攻、日本アラブ対話フォーラム/日中・日韓歴史共同研究)の各数回が、『アラブと私』を書く上で、たいへん勉強になった。

 山内さんは、カイロ大客員助教授・ハーバード大客員研究員の経歴と、小泉純一郎元首相の外交を補佐するタスクフォースや3回の日本政府中東文化ミッション団長で中東各国を訪問するなど、多方面で積極果敢に活動している行動派の学究で、歯に衣を着せぬ論客でもある。

 6月(2011年)の講演「イスラムの歴史と現在―中東民主化の背景」では、オサマ・ビン・ラーデンの死とオバマ演説を皮切りに、アラブ・イスラエル紛争の新次元出現、エジプトと「新たなアラブの現実」、トルコ・イランの非アラブの台頭など、「新しい中東」の歴史的動向への識見を披瀝され、たいへん刺激的だった。 
 高山さんは、「歴史から学んだことを、これからの人類社会の構想・構築に生かすこと」と鮮明な歴史観を語る気鋭の歴史学者である。

10月の講演(6回目)では、「ゲルマンと地中海世界―西ローマ帝国以後の新秩序」で、中世のヨーロッパ世界の成立、アラブ・イスラム勢力の拡大と地中海の三大文化圏の時代について、最新の研究成果(欧州学会誌掲載)を披瀝された。

 中世ヨーロッパに政治的・経済的なまとまりがあったとする学説は主観的であり、事実は違っていたのではないかとの論述を、興味深く聞いた。

 ギリシャの財政破綻をめぐるユーロ・EUの危機的状況に関連する質問をした私に、ていねな話をいただいた。

『アラブと私』は、まだ序章の半ばである。

「イラク3千キロの旅」の後半と、クウエート・テレコムセンターの工事遅延で日本から家族を呼んで共に過ごしたクウエートでの三年の体験記(本論)を、田代さんに読んでもらえないのは残念だ。完結を墓前に報告するのを励みとして、書き続けよう。

 教会の牧師も言っていたが、イラク石油会社(キルクーク油田)があるモースルでは、クルド族への石油利権の配分や石油資源国有化をめぐるバース党政権の去就が、国の内外から注目されていた。CIA関係者かと怪しまれる人物が教会を訪れたのも、不思議ではなかろう。

だが、産油国クウエートの技術コンサルタント業務に従事する筆者は、石油をめぐる欧米各列強の動きなどを詮索して、あらぬ嫌疑を掛けられることがないよう、言動には神経を使っていた。  

バグダッドのホームパーティの新聞記者との話でも深入りは避けたが、アラブの石油に依存する日本の国民として、石油関連の国際動向に強い関心を抱いてはいた。

クウエートから帰国後すぐ読んだ牟田口義郎著『アラビア湾のほとり』の末尾に、中東の石油にいちはやく目をつけた2人の日本人先駆者のことが書かれているので、牟田口さんの貴重な証言を、ご冥福をお祈りしつつ紹介させていただく。

 1人は、1924年3月にバグダッドに現れた地理学者の志賀重昂氏である。

 目的の一つは、中東の石油事情の視察で、他の一つは、半年前開通したバグダッド・ダマスカス間の砂漠横断バスに乗り、アジアとヨーロッパをつなぐ新交通路を、日本に知らせることだった。

 ラクダの隊商は45日かかったが、1日で行けるようになったそうで、牟田口さんは、「実践的な地理学者として、また啓蒙主義者としての彼の面目がうかがえる」と書いている。

ダマスカスに着いた彼は、シリアからヨルダン、パレスチナに入り、アラブ・イスラエル紛争の萌芽をふくむ中東情勢を観察して、イギリス支配でないアラブの盟主は、「砂漠の豹イブン・サウド」のほかにはないと見抜いた、とも書いている。
当時のアラビア半島では一滴の石油も産出しておらず、イラクでは、国際石油会社(イラク石油)の設立めぐって、英米間で激しい攻防がくり広げられていた。

憂国の士志賀さんは、イラクを川中島に喩えた(ギリシャ語のメソポタミアは、川中島を意味する)そうだが、北カラフトの石油利権をソ連から獲得して鬼の首でも取ったように喜んでいる日本の国策を、英国が目論んだ「イラク石油」の10億ポンドという破天荒な資本金と比べ、スケールがあまりにも小さいと嘆いたという。

 1925年の10億(英国)ポンドの円換算は、今月25日の取引レート(119円11銭)で、約12兆円となる。貨幣価値の変動を抜きにしても、莫大なく金額なのは明らかだ。

 志賀重昂が書いた旅行記『知られざる国々』に、「石油の供給が豊富な国は、空・陸・海を支配して栄え、石油のない国は衰退へ向う。石油政策の有無こそ日本国家の死活問題である」との石油観を述べているとある。

 牟田口さんが、『アラビア湾のほとり』を書き、筆者がアラブに4年滞在したのは、志賀さんから半世紀を経た時点だが、アラブが日本人に知られざる国々であることに、大きな変化はなかったと思わざるをえない。

アラビア湾のほとりが、わが国への石油供給にとって不可欠な地域であり、日本車が走りまわり日本製品がはんらんしているにも拘らず、ガイドブックもほとんどなく、いまだに知られざる地域であることに苛立たしさを感じて牟田口さんは、『アラビア湾のほとり』を書いたのであろう。

 その中に登場する、当時の(財)中東調査会の理事長土田 豊氏(『中東の石油』の著者)の言葉の要約を再録すると、「アラビア半島周辺は、開発の環境条件が過酷だが、日本は、利潤率の高い大規模プロジェクトへの協力にとどまることなく、都市改造や社会厚生施設などの小規模プロジェクトにまで労を厭わずに参加し、技術協力をすることがなによりも緊要である。西欧諸国の実績はよくこれを教えている」「国家レベルの技術協力と財界レベルの資本進出を飛躍的に拡大し、大幅な石油依存先である中東産油国との友好、協力を図ることこそ、石油政策確立の礎石であろう」

 NTTによるクウエート国電気通信近代化の技術コンサルタントの仕事が、第1次オイル・ショックでアラブ諸国を緊急訪問された三木特使の一行から高い評価を受けたことは、本論で述べる。

 

『アラブと私』を書き進めているなか、もう1冊の本『エコノミック・ヒットマン』について触れておきたい。

邦訳本には、「途上国を食い物にするアメリカ」の副題があるが、原本では、「あるエコノミック・ヒットマンの告白(筆者訳)」となっている。

この思いがけない本は、『アラブと私』をブログに掲載し始めて間もないある日、長く職場を共にし、敬愛してきた人から送られて来た。

本の内容と送り主については、いずれ「本論」で詳しく記述するとして、ここには、ほんの概略を紹介するにとどめたい。

著者ジョン・パーキンスの「序文」冒頭の文章を、古草秀子さんの訳文で再録させていただく。

 「エコノミック・ヒットマン(EHM)とは、世界中の国々を騙して莫大な金をかすめとる、きわめて高収入の職業だ。彼らは、世界銀行や米国国際開発庁(USAID)など国際「援助」組織の資金を、巨大企業の金庫や天然資源の利権を牛耳っている富裕な一族の懐へとつぎこむ。その道具に使われるのは、不正な財務収支報告書や選挙裏工作、賄賂、脅し、女、そして殺人だ。彼らは帝国の成立とともに古代から暗躍していたが、グローバル化が進む現代では、その存在は質量ともに驚くべき次元に到達している。

  かって私は、そうしたEHMのひとりだった。

    

 この文章は、1982年に著者が執筆中だった『エコノミック・ヒットマンの良心』

と題した本の冒頭に書かれたもので、本は、エクアドルの元大統領ハイメ・ロルドス

とパナマの指導者だったオマール・トリホスに捧げるつもりだったという。

 コンサルティング会社のエコノミストだった著者は、顧客だった二人を尊敬して、

同じ精神をもつ人間と感じたが、2人は相次いで飛行機事故で1981年に死亡した。

彼らの死は事故ではなく暗殺で、世界帝国建設を目標とする大企業や、政府、金融

機関上層部と手を組むことを拒んだからだという。

 著者たちエコノミック・ヒットマンが、2人の取り込みに失敗したために、つねに

背後に控える別種ヒットマンである、CIAご用達ジャッカルたちが介入したという。

                                   (続く)





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2011/11/30 18:07 2011/11/30 18:07