'イラク革命'に該当される記事1件

  1. 2011/04/01 アラブと私 イラク3千キロの旅(46)

アラブと私
イラク3千キロの旅(46)

                                               松 本 文 郎
 

 まさに晴天の霹靂の東日本大地震だった。
 マグニチュードが八・八から九・○に訂正されたほどの巨大地震に見舞われたのだ。前回(45)の原稿執筆中に書斎から飛び出したが、ここ浦安も、液状化現象による地震被災地となった。
 以後二週間の生活インフラ不全の暮らしや福島第一原発の放射能汚染の右往左往などは、道草として書く事柄ではないので、この機に、『文ちゃんの浦安残日録』をスタートさせた。
「エッセイ」のカテゴリーに掲載されているので、お読みいただければ幸いである。
 なお、三十日のNHKテレビ「おはよう世界」で、東日本大地震の影響かは不明としながらも、中国と北朝鮮の国境に聳える白頭山の付近で噴火の兆候を示す現象が多発していると報じた。
 白頭山は朝鮮半島の「民族の霊峰」とされ、北朝鮮にとっては、金正日総書記の出生地であり、政権の正当性とも関る重要な山という。
 韓国と北朝鮮の専門家が、白頭山の噴火に関する協議を、京畿道ムンサンの「南北で出入事務所」で開いたそうだが、日本での大地震が、南北対話を促しているのだろうか。富士山付近でも、例年の数十倍もの小規模群発地震が起きている。

 また、巨大地震の陰であまり報道されなかったリビア情勢は風雲急を告げている。
一般民衆を、カダフィ軍の虐殺から守るためとする国連多国籍軍の介入が決議され、空爆やミサイル攻撃が続いたが、反政府軍は、三十一日現在、いまだに苦戦している。
フセイン政権打倒をめざして先制攻撃を敢行したブッシュとは違い、オバマ大統領は、「新政権はリビアの民衆が決めることだ」と、イラクのように地上軍投入には組しないドクトリンを出した。
 中東市民革命への筆者の関心は、『アラブと私』を書き始めた動機に強く結びついている。
かって中東石油の獲得に策動していた欧米諸国が、リビア革命を成功させたカダフィ大佐の急進的な政策に振り回されてから、四十一年である。
「おはよう世界」が、リビアの外相がロンドンに現れたと報じたが、ここは、リビア革命の先輩格であるイラク革命の記述に戻ることにしよう。

 
  カセム政権は、親ナセル派の反共主義者集団であるバース党(アラブ復興社会党)粛清に共産党の力を借りたものの、政権は安定することはなく、増大する共産党勢力を制御する必要に迫られる。
 カセムによる言論弾圧下では、「アラブの再統一」というナセル主義は、美しい蜃気楼のイメージをイラク国民に与え、学生や零細農民にはカセムの反ナセル主義への不満が高まっていった。

 その不満を逸らすため、一九六一年、カセムはイギリス保護国から独立したばかりのクウエートをイラク領と宣言して国民の愛国心に訴えたが、歴史的根拠を欠く思いつきがアラビア湾に緊張を生んで、アラブ諸国と全世界から非難を浴びた。
この外交政策の失敗が、彼の命取りのひとつの原因となった。
カセム失墜を決定づけたのは同年にイラク北部に起こった、少数民族の不満の爆発であるクルド族の反乱とされる。

カセムは空軍まで出動させて徹底的な弾圧作戦にでたが、山岳地帯にこもって抗戦するクルド族の地の利で、制圧には到らなかったのである。
一年半におよぶ戦費増大、輸入制限による物資不足、物価高騰、それらに起因する生活不安など、国内情勢は悪化の一途をたどった。

 警察政治をしいたカセムは、再び組織力をもつ共産党に頼ろうとしたが、クルド作戦の失敗から軍部も硬化し、反カセム勢力が急速に力を増した。
シャワフ大佐のモースル反乱は、空軍がカセムに忠誠を誓って失敗に終わったが、今度は逆に、空軍がクーデターの先頭に立って成功した。カセム一派と共産党への粛清を行った新政権のナセル派とバース党は、「反共」を基盤としており、「アカ狩り」ぶりは徹底していたようだ。

 しかし、バース党内にはエジプト・シリア合邦時代の親ナセル一辺倒ではない半ナセル的な分子がかなりいて、政権の安定化は容易でなかろうと牟田口さんはみていた。
 カセムから反逆罪で逮捕・監禁されながらも、国民的な人気があるために死を免れていたアレフ大佐は、八年後(六六年))のクーデターを成功させ政権奪還を果たして間もなくの飛行機事故で死亡した。
 ハッサン・バクル大統領が率いるバース党政権が登場したのは、一九六八年である。
この年こそ、「イラク3千キロの旅」の約三年前で、十一年後に、サッダム・フセインが大統領に就任するのである。   *(6)の末尾に記述。

  ようやく、パーティの場面に戻れるタイミングになったようだ。

 ここから、アハラムの父親が話していたカセム政権時代のモースルでの内乱事件を承け、従兄のマリクが語ったバクル政権について、牟田口さんの著書で補強しながら書く。バース党は、反共主義政策をとりながら外交上は親ソ的な立場をとる反面で、兄弟党が統治する隣国シリアやエジプトとは仲がわるく、アラブの共和国の間で孤立化の傾向をみせていた。
 その上、バース党の独裁政権であるのに、党内での権力闘争を脱却しきれていなかった。
 だがバクル政権は、イラクにとり二つの大きな業績を上げてきた。

 一つは、カセム政権の命とりになったほど長年のガンだったクルド問題の解決である。
 クルド族が住むイラク北部地方にはイラク石油(IPC)の本拠地キルクーク大油田が広がるが、その石油収入は地元民の彼らに十分には還元されていない。
 その差別撤廃を求めたのが、カセム政権時代の反乱の最大理由だったので、バクル政権は彼らの自治への主張を大幅に取り入れ、七○年、長年の難問を解決して内乱を終結させて、政権安定化につなげた。
 若い記者のマリクは、バクル政権の政策と統治の現状を歓迎している口ぶりで、「内乱が収まったのは去年の五月でした。クルド族が落ち着いたので、明日、フミオさんが行かれるモースルの心配はいらないでしょう。やっぱり運勢が強いですね!」

 二つ目は、石油問題である。
 問題をさかのぼると、カセム准将が共和政権を樹立した五八年、西側がまっさきにに懸念したのは、新政府がIPCを国有化するのではないかということだった。
 これに対してカセム首相は、石油収入の増大は国有化ではなく、産油量の増産によって解決するとして、隣国のイランが国有化で失敗した轍を踏まない路線を選ぶ。
 私がイラクを訪問した七一年ではまだだったが、翌年、バクル政権は「国の中の一国家」と称されるほどに強力だったIPCを国有化したのである。
『アラビア湾のほとり』第六章の末尾に、IPC国有化宣言のバクル大統領の演説要旨があるので、転記させていただく。

  「石油会社(イラク・モースル・、バスラ各社)は、人民を搾取する論理を裏付けする道具である。それらは帝国主義的支配の象徴で、これまで国の中の一国家としての役割を演じてきた。 

 
 ここにおいてわれわれは、戦闘的大衆の革命による経験に基づき、石油会社の力を制限し、もって国民の主権と経済的独立を現実のものとしなければならぬと悟るに至った。民族解放の事業は、石油会社と対立し、石油資源を解放し、イラクの地下資源を開発することによって、その存在を証明した。われわれの革命は法令第八○号に基づき、石油会社に正当な支払いを要求したが、会社側は策略をもてあそび、革命の意思に制約をかけ、石油におけるイラク国民の諸権利を侵犯したのである。石油会社は、帝国主義的な目的から、イラクその他の産油国の平均生産量を減らしたが、これは、イラクに財政経済の不均衡をつくり上げて、革命の諸目的を後退させようとするためであった。
 
  以上の理由から、革命評議会は人民の名において、一九七二年法令第六九号を発し、イラク石油会社の国有化を宣言する。同条例は、同年六月一日から効力をもつものである」(以下略)

 この文章には、英米など西欧列強の中東石油をめぐる政治的策略に翻弄されてきたアラブ諸国の民族的な怒りがよく表されている。
当時の中東の石油埋蔵量は、世界の七割以上とされ、一級油田が集中するアラビア湾のほとりはまさに世界の宝庫で石油戦争(石油をめぐる争い)の絶えない地域である。
「石油戦争」には三つの段階があるとされる。

  第一段階は一九五三年までだ。
 これまでは、メジャー同士の支配権争奪という古典的な争いだったが、イランの紛争が終結した結果、コンソーシアムという国際石油合弁会社が生れ、中東石油の支配権はイギリスからアメリカに移ったのである。
 それからの数年間、ビッグ・セブンという名の七大国際石油資本とフランス石油の共同支配がつづく、メジャーにとって「古き良き時代」だった。

添付画像
 第二段階は、一九六○年からである。
この年、OPEC(石油輸出国機構)が生れた。結成当時の加盟国はイラン・イラク・サウジアラビア・クウエート・ベネズエラの五カ国で、石油戦争は産油国vs国際石油資本という新たな様相を呈し、のちに加盟国数は増えた。
 だが、石油は供給過剰気味でメジャーの指導権がゆるぐとはみえず、良き時代はつづいて、国際機関としてのOPECの基礎づくりの時期だったといえよう。

 第三段階は、一九七一年に始まる。
この年のテヘラン会談で、メジャー側全面敗北という十年前には想像できなかった事態が出現して、石油戦争は新しい段階に入る。
この時代の傾向に、タンカーの巨大化がある。
ギリシャの船主アリストテレス・ソクラテス・オナシスが、五十万トンタンカーの出現を五十年代に予言したエピソードがある。

 この予言を実現したのは石川島播磨重工の社長だった真藤 恒で、それにまつわる彼の武勇伝を、NTT民営化四年前に電電公社総裁に就任した後、直かに聞く機会があったが、ここでは割愛する。

 テヘラン会議でOPECが圧勝した一因には、六七年の中東六日戦争がある。
この戦争でもスエズ運河が閉鎖され、メジャーはリビアの石油増産に拍車をかけることになる。
 西欧はリビアの石油に救われたが、六十九年のリビア革命で王政が倒され、情勢は一変した。登場したカダフィ政権は、メジャーへの急進的な政策をとって、翌七○年に原油公示価格の引き上げに成功した。

OPECがテヘラン協定を勝ち得たのは、このカダフィ大佐による既成事実を橋頭堡にしたからである。

                                                                    (続く)


2011/04/01 14:39 2011/04/01 14:39