アラブと私 
イラク3千キロの旅(23)
 
                            松 本 文 郎 
 
 チグリス川の土手の下で鯉を食べたあとの話題に、ヴェルディのオペラ「ナブッコ」を持ち出したのは、舞台場面に、「バビロン宮殿」「ユーフラテス河畔」やアハラムがうらやましがっていた「空中庭園」があるからだ。
「空中庭園」を造らせた王のネブカドネザル2世がユダヤ王国へ侵攻し、イスラエル人の強制連行をした史実が、第一幕になっている。
 高校生のアハラムが、「バビロン捕囚」を学んだと聞いたからでもある。
「ナブッコ」の物語に興味をしめしたアハラムに、「ヴェルディが、なぜ『ナブッコ』を作曲したのかボクは知らないけど、この戯曲は旧約聖書に基づいて書かれそうだ。アラブの歴史で旧約聖書が占める位置は凄いんだなー」
 ユーセフは、私の話をアラビア語でアハラムに伝えてから、応えた。
 「旧約聖書は、キリスト教徒だけではなく、ユダヤ教徒やイスラム教徒にも共通する聖典です。私の名が、創世記の族長物語に出てくるヨセフの英語読みだと、チーフは気づかれていますよね」
 ユーセフは旧約聖書の私の知識を試すかのような、いたずらっぽいウインクをした。「うん。母方の伯父貴が熱心なクリスチャンでね。ボクが京大に入ったとき、ぜひ聖書を読むようにと勧めたので、素直に手にしたんだ」
「クリスチャンでもないのにですか?」
「そう。クリスチャンの少ない日本だけれど、欧米の絵画・音楽・文学の真髄を知るには、キリスト教の歴史や聖書の知識が欠かせないので、インテリの教養の書でもあるんだよ」
 世界三大宗教の発祥の地アラブ。断食月が明けたイド・休暇をイラクの旅で楽しんでいる私は、同僚たちが嫌がった熱砂の国への海外勤務が天命だった、と感じはじめていた。
「新約聖書の冒頭の「マタイ伝福音書」ので出しは、キリストの系図説明ですが、そこに、アブラハム・イサク・ヤコブ三代の族長の名があります。ヨセフは、ヤコブの十二人の息子の末っ子なんです」
「やたらと人の名前が書き連ねてあって、キリストの誕生になかなかたどりつかなかったのを憶えてるし、私は、このイエス・キリストの言動録を一つの物語として読んだ気がする」
「旧約聖書の創世記には、ヤコブが十二人の男子をもうけ、それぞれがイスラエルの十二部族の長になったと書かれ、、バビロニアからカナンの地(いまのイスラエル・パレスチナ)へやってきた遊牧民の族長アブラハムは、神の祝福を受けて、諸民族の父になる約束を与えられたとあります」
「バスラで見たリンゴの木の化石の幹の横の立札に、イスラエル民族の先祖アブラハムがここで祈った、と書いてあったね」
「その息子イサクと孫ヤコブも、神から子孫繁栄の約束をもらい、神と契約を結んだヤコブに、カナンの地が与えられたという話です」
 ユーセフは、アハラムに教えるような口調で、「この契約で、ヤコブはイスラエルと改名したので、彼の子孫はイスラエル人と呼ばれるようになったんだよ」
 アハラムがアラビア語で聞いたのと同じことが、英語で私に伝えられた。
「ヤコブはイスラエル人の始祖だから、キリストはイスラエル人だったと……」
  三人のやりとりに興味が無さそうなジャミーラを気にしながら、
「私たちの家族はクリスチャンではありませんが、創世記は高校の授業で習いました」、とアハラム。
「へー、そうなんだ。創世記の中で面白いと思った話はあったかい?」 
「それはヨセフの物語でした。兄たちに殺されかけたヨセフはエジプトに奴隷として売り飛ばされながら、夢占いと実力でエジプトの宰相まで出世して、飢饉に苦しんでいた父ヤコブと兄たちをエジプトに呼び寄せ、救ったという話です」
「ユーセフは、すごい人の名をもらったもんだねー」「クリスチャンは、キリストの係累や弟子・聖人の名にあやかって、子供の名を選ぶ人が多いようです。父もその一人ですが」
 
 ここでちょっと道草。
 アラブの歴史は、シンドバッドやアリババの話のような『千夜一夜物語』が生まれる魅力的背景に富み、アラブを舞台にしたヴェルディ・オペラでは、「ナブッコ」や「アイーダ」が愛されつづけている。
 このオペラがミラノ・スカラ座で初演されたのは一八四二年。ヴェルディの三作目で大成功をおさめた出世作だ。
 当時のイタリアは絶対王政の都市国家群に分かれ、一八四八年にマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」が出たように、ヨーロッパの政治が王政から共和制に「チェンジ」する過渡期だった。
 第三幕で歌われる合唱曲の「行け、わが想いよ」には有名な伝説がある。
 ミラノ・スカラ座での初演の聴衆は、その歌詞の「おお、あんなにも美しく、そして失われたわが故郷!(オー ミア パートリア シ ベッラ エ ペルドウータ)」の部分に、オーストリアに支配されている自分たちの運命を重ね合わせたとされる。
 劇場にいたオーストリアの官憲らは、歌詞の意味するところを知っていたが、聴衆の暴動を恐れて、アンコールを許可したという。
 大好きな「サウンド・オブ・ミュージック」で、ナチス臨検のコンクール会場から国外に脱出直前のトラップ大佐一家が、国花の歌「エーデルワイス」を唄って聴衆たちを励ました場面と呼応する。
 やがてこのオペラは、イタリア半島全域で再演されて、「行け、わが想いよ」への熱狂が渦巻いたと伝えられている。
 しかし、近年の研究によると、この伝説に対して疑問が投げかけられているようだ。
 つまり、この伝説は、ヴェルディが大家としての地位を確立し、イタリア統一が完成した一八七○年以降につくられたのではないかということなのだ。
 1901年の冬、八十七歳で逝ったヴェルディの棺を運ぶ葬列を見送る群衆から、「行け、わが想いよ」 の歌声が自然に沸き上ったとされる。
 人々を励まし、結びつける歌の力はすばらしい。
 今、イタリアの第二の国歌と呼ばれている。
 あれから約百年の一九四八年、シオニズム運動により建国されたユダヤ人のイスラエルと、定住していた土地から追い出されたパレスチナ人との間で、紛争や戦争が後を絶たない状況がつづき、世界平和を脅かしている。
 クウエートコンサルタント事務所にはパレスチナ・ヨルダン人の運転手やオフィスボーイがいたが、その一人パレスチナ人イスマイルは、彼の村に侵攻してきたイスラエル兵に多くの老人や女子供が殺されたときの恐怖と憤懣を、私に訴えた。
 両国の一時的和解を実現した首脳二人にノーベル平和賞が授与されたが、いまや元の木阿弥状態だ。
 世界の「チェンジ」を実現できると高らかに宣言し、核兵器廃絶への期待をこめてノーベル平和賞を授与されたオバマ大統領の国内支持率が低落気味だ。マサチューセッツ州の上院補欠選挙で共和党に破れたことは、大統領選挙でオバマ勝利のブースターだった州だけに、ショックだったろう。
 リーマンショックを招いた金融システムへの規制強化や国民健康皆保険を実現し、「チェンジ」路線でしっかり踏ん張らないと、アメリカの復元力も危なくなるだろう。 
 政権交代から百日余。政治と金の「チェンジ」もままならぬ民主党のていたらくに、内閣支持率は低下中。腹をくくって、国民の期待を裏切らないようにしてもらいたいものだ。                            (続く)


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2010/01/30 17:28 2010/01/30 17:28

アラブと私 
イラク3千キロの旅(22)
 
                  松 本 文 郎 
 
 人と親しくなるには食事を共にするのが一番、が古今東西の知恵のひとつだと再認識したチグリス川畔のアウト・ドア・ランチだった。
 育ち盛りで食欲丸出しのジャミーラが、枯れ葦で焼いた鯉をホベツで包み、黙々と食べている横で、スリムなアハラムは、体型保持のダイエットなのか少食で、もっぱらお喋りを楽しんでいた。
 丸いテーブルの大皿を囲んで談笑している四人に、英語とアラビア語が入り混じった会話が飛び交い、思いがけず、アハラムが好奇心旺盛で、話し好きな女性だと分かってきた。
 ジャミーラは、会話には加わらないものの、あらかた理解できているらしく、笑ったり、頷いている。
 メインディッシュの鯉を平らげ、デザートを注文するとき、女性たちと車の運転をするユーセフへの遠慮から我慢していたビールを、デザート代わりに注文した。
 五十米の塔の上り下りで喉が渇いていたせいか、よく冷えたビールが実にうまい。
 テーブルについたとき、四人の辺りに落ちていたナツメヤシの影が、いつのまにか動いているのに気がつく。太陽が、かなり移動していたのだ。
 よく歩いたほどよい疲れで、ビールの回りが早い。
 ほろ酔い気分から、アラビアンナイトの夢の話に戻り、女奴隷のマルジャーナと一夜を共にするよう言われたくだりをアハラムに告白したくなったが、やはりやめておくことにする。
 彼女が、中学教科書にあったと言った「空中庭園」の話の続きにしようと、「ところでユーセフ。サマーラの塔で空中庭園の話をしたけど、工科大学の講義では、なにか教わったのかい」それには応えずに、ユーセフは、「アハラム。あんな素晴しい庭園をプレゼントしてくれる男性に出会いたいと言ったよね」「いまの時代ではムリでしょうけれど……」アハラムは、ユーセフの顔をじっと見た。
「メソポタミアのチグリスとユーフラティスの肥沃な土地に輿入れした王妃アムティスがバビロンの気候に慣れず、夫の王に慰めてもらうほど、メディアは住みよかったのでしょうか」と、またアハラム。
「ボクが京都大学の村田教授の講義で聴いたのは、バビロン宮殿の中に造成した縦横一二五米の基壇の上に、五段階層のテラスを高さニ五米に造って土を盛り、川から汲み上げた水で、様々な植物を育てたという伝承だった」
 名称の由来は定かでないが、樹木や花々が植えられた階段状のテラスの間を水が流れ落ちる巨大構築物で、遠くから眺めると、あたかも空中に吊り下げられているように見えたからとの説がある。 
 ネブカドネザル2世が、王妃の故郷に似せたとされる緑豊かな庭園には、観賞用の植物だけではなく、野菜や香辛料も植えられていたという。
 この素晴しい庭園に配る水を、どうやって最上部まで汲み上げたかは、いまでも謎とされている。
 一説に、五つの階層ごとに大型の水車を設けたとあるが、そんなに大きな水車を人力で回せたのか、容易にイメージすることはできない。
 最初の「世界の七不思議」に選ばれたこの庭園は、「架空庭園」「吊り庭」とも呼ばれたそうで、紀元前五三八年、ペルシャ軍よるバビロニア帝国の征服で破壊されたが、遺構の場所は推定位置しか分からないそうだ。
 建築土木の工務店を営んでいるらしい父親の娘だからか、アハラムは、バベルの塔、都市バビロン、空中庭園などの建造物の話を興味深そうな顔をして聞いている。
 夕方からのホームパーティの格好の話の種になるだろうし、クウエートでの建築工事を話題にしたがりそうな父親の機先をそぐことができるだろう。
 半年ちょっとのクウエート在勤でも、何度かは、ホームパーティに招かれていた。
クウエート人エリートのサビーハ邸での乱痴気パーティはともかく、建築スタッフに雇用しているイラク・インドのエンジニアやエジプト人の建築家(郵電省建築顧問)ボーラスの家庭にである。
 ベイルートやカイロなどの観光地に比べ、映画やショッピングくらいしか娯楽や楽しみのない砂漠の都市で、ホームパーティは、人と出会い、交流する貴重な場であるにちがいない。
(2)で書いた、独身貴族のサビーハ・パーティは、アラビアンナイトのアメリカンバージョンだから、固い話をする雰囲気は皆無だったが、家族みんなとの歓談では、それぞれの場にふさわしい話題を選ぶことがとても大切だと感じていた。
 クウエートに駐在している商社幹部のパーティで、招かれたアラブの客人らとの会話でも、それを痛感した。
 政治と宗教の話は避けたほうがいい、と忠告した商社の支店長もいた。
 だが、イスラム行事であるラマダーン月の断食明け・イドの休暇で旅先の私に、イスラムの日常生活を律するコーランや習慣について聞いてみたい好奇心が、しきりに湧いてきた。
 アハラムの言動に宗教的なものは感じられないが、両親がどうなのかを知っておくのもよいと思った。
 きっかけに、空中庭園を造らせたネブカドネザル2世による南ユダヤ王国の首都エルサレム侵攻と、十年後のエルサレムの破壊・南ユダヤ王国の滅亡の二度の「バビロン捕囚」は、もってこいの話だ。
 何しろこの話は、ユダヤ教とキリスト教の正典である旧約聖書に詳細に書かれている歴史的な記録であり、イスラム教の創始者ムハンマドから千二百年も前の出来事だから、あくまでも古代都市国家権力の攻防で起きたことで、宗教的なものではない。。 
「ユーセフ。クリスチャンのキミは旧約聖書にあるバビロン捕囚のことは知ってるだろうが、アハラムが、ヴェルディのオペラ『ナブッコ』を知っているか、聞いてくれないか」
 突然のオペラ話に、びっくりしたようなユーセフだが、しばらく考えてから、アラビア語でアハラムに話をし始めた。
 質問されたアハラムも、日本人からそんな質問をされるのが意外なのか、かなり驚いたようだ。
「アハラムはヴェルディという人のことは知らないと言っていますし、私も、名前を聞いたことがあるだけです。ただ、旧約聖書のバビロン捕囚は、有名な歴史的事実でよく知っていますし、アハラムも高校の歴史で習ったそうですよ」
 私は、バグダッドで「バビロン捕囚」のオペラの話ができるとは思ってもいなかったので、いささか興奮気味に、「ナブッコ」の物語をはじめた。
 このオペラを知らない日本人で、「バビロン捕囚」を知る人はほとんどいないだろう。 
 一口に言う「バビロン捕囚」は、紀元前五九七年から五八六年にかけて、中東の列強の新バビロニアが、イスラエル人のほとんどを捕虜または奴隷にして、首都バビロンへ強制連行したことである。
 ナブッコは、侵略者ネブカドネザル2世のこと。 エルサレムに侵攻して王宮やソロモン神殿を破壊し、人々をバビロンへ連行するのが第一幕だが、史実に基づくのはそこまでで、あとは旧約聖書と創作。

                           (続く)


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2010/01/12 17:03 2010/01/12 17:03

アラブと私 
イラク3千キロの旅(21)
 
                       松 本 文 郎 
 
 古代伝説の「バベルの塔」から千三百年のあとの今様「サマーラの塔」で、アハラムとジャミーラの後姿を見守りながら下りてきたユーセフと私は、、手すりのない螺旋状のスロープから足を踏み外さずに地上に立ったとき、、ホッとした顔を見合わせた。
 チグリスの川魚を焼いて食わせる店に行く途上で、現在(二○○九年)の「七不思議」を記しておこう。
 
 近ごろは、観光宣伝、遺跡保全、自然保護などの思惑でさまざまな七不思議が選ばれているようで、スイスの「新世界七不思議財団」が、二○○七年に世界中に投票を呼びかけ、二十一の候補から選定・決定したのは左記である。
 万里の長城と古代競技場のコロセウムは中世の選定のままで、インドのタジマハール、ヨルダンの古代都市遺跡ペトラ、ブラジル・リオデジャネーロのコルコバードのキリスト像、ペルーのインカ帝国遺跡マチュ・ピチュ、メキシコのマヤ遺跡チチェン・イッツアの五つが入れ替わっている。
 ギリシャのアクロポリス、パリのエッフェル塔、チリ・イースター島のモアイ、英国のストーンヘンジ、日本の清水寺などは、選に漏れた。
 二○一一年には、二回目の選出が予定されていて、二六一件の立候補があるという。
 いつの日か、、国際宇宙ステーションやドバイの超々高層ビルが選ばれることがあるのだろうか。

 バグダッドへ戻る道をしばらく走って、チグリス川の土手下にある、仮設小屋のような店に着いた。
 店の横に並ぶバスタブを覗くと、大きな魚が値札をつけて泳いでいる。ヒゲがあるから鯉だと分かる。
 ユーセフが、元気のいいのを指差して注文する。枯れ葦でゆっくり焼き上げるので時間は掛かるが美味いと言う。
 日本の川原で釣った岩魚や鮎を、集めた枯れ枝の焚き火で焼く行楽を三人に話すと、アハラムは好奇のまなざしを私に向けた。
「日本での鯉料理は、焼くよりも、鯉こく(スープ)や甘辛く煮付けるのが多いんだよ」
「普通の家庭料理なんですか」とアハラムが聞く。
「以前はネ。私が子供のころの田舎では、池の鯉が貴重な蛋白源の一つだったけど、いまでは、地方の名物料理で食べるくらいかナ」
 ユーセフが私の英語をジャミーラに通訳している。
「鯉を食べると精がつくと、病人や妊婦に食べさせることもあるよ」
 戦時中に疎開した母の実家の溜池を干したとき、泥水のなかの五十センチもある鯉と格闘して抱き上げた興奮と感触が甦った。
「ユーセフが選んだ鯉には千ディナール(千円)のタグが付いてたけど、アハラムの家では川魚をよく食べるのかい」
「ええ、船で運ばれるアラビア湾の魚も売っていますが、新鮮な川魚を時々食べます。家で調理すれば、値段はそんなに高い魚ではありません。葦で焼く鯉は、ピクニック気分で来たときに、焼けるの待つのが楽しいんですよ」
「そうかい。どこの国でも、似たような楽しみ方があるもんだね」
「千夜一夜物語」のどこかに、この枯れ葦で焼く鯉のことが書かれていてもよさそうに思えてきた。
 私は、思い切って夢の話をした。
「明け方に見た夢で、「アリババと四十人の盗賊」とそっくりの場面に遭遇したんだよ。盗賊に襲われた豪商を助けたボクとユーセフが邸宅に招かれ、歓待を受けたんだけど、宴会のたくさんのご馳走にこの焼いた鯉があったかもしれないネ」
 話のゆきがかりで、盗賊たちに油を注いだ女奴隷のマルジャーナがアハラムだった夢のあらましを、ユーセフに話す。
豪商が耳元で、「もし、マルジャーナがお好みの女でしたら、一夜を共にしてください」と告げたとは言わなかった。
ユーセフのアラビア語訳を聞いたアハラムは、「まあうれしい。そんな夢を見てくださったのね」 
 大きな黒い瞳が、キラキラ輝いている。
「チーフの夢で、私も一緒に豪商を助けたなんて」
 ユーセフもうれしそうな顔で笑っている。
「なんだか子供じみた夢で、恥ずかしいんだけどネ」
 ニコニコして聞いているジャミーラは、アリババの話を知ってるのだろうか。
「桃太郎」の鬼退治の話をしてから、ジャミーラがアリババの話を知っているか訊ねてもらった。
「だれもが知ってる昔話だワ」  
 今どきの日本の中学生に「桃太郎」のことを訊ねても、同じ答えが返ってくるのか…。
 わいわい話しているところへ、店の主が大きな銅の皿に載せた鯉をもってきて、中国料理でも主菜の鯉の丸揚げを扱うように、四人に取り分けてくれた。 キュウリ・トマト・レタスのサラダも大皿に盛られてきた。
 ほぐした鯉にレモン・オリーブ油のドレッシングをつけて食べる。懐かしい味で、実においしい。
 日本の五月のような心地よい川風が、屋外で昼食を楽しむ四人に、やさしく吹いてくる。
 クウエートで丸焼きの鶏をテイクアウトするときホベツ(うすくて丸いパン)にくるんでくれるが、その鶏の油がしみたのが旨いように、オリーブ油をつけた鯉を千切ったホベツにくるんで、口に運ぶ。
 遅い昼飯で腹が減っていたのか、みんなは黙々と食べている。
アハラムが一息つくのを見計らって声をかける。「ところでアハラム。クウエートのホテルの朝食で初めて出会ったときの私を、何者だと思ったの?」
「グッドモーニングと言われただけですから、どこの国の人か、まさか日本人だなんて思いもしませんでした」
「アハラムからチーフのことをきかれ、日本からみえた建築家だと教えました」、とユーセフ。
「へえ、ボクが日本人に見えなかっただなんてネ」
「チーフは、黙っていればアラブ人に見えますよ」
 ユーセフは真顔で言った。
「それじゃ、ユーセフとボクがバグダッドに来ると知って、アハラムはどう思ったんだい?」 
 ちょっとためらう様子のアハラムだったが、「クウエート政府の大プロジェクト・コンサルタントの偉い方と聞いて、父の仕事にとってなにかいい話があれば、と思ってました」
 いやはや、アハラムの親孝行の弁を聞かされて、ジプシーか娼婦と勘違いした助べえ根性を、完璧に叩きのめされた私だった。
「アハラム。ボクのクウエートの仕事の立場では、ご期待にはそえないのが残念だけど、お父さん思いのきみはほんとうに立派な長女だよ」
「思いがけない再会がうれしくて、つい失礼なことを言ってすみません。夕方おみえになる前に、父によく伝えておきますから…」
 女奴隷のマルジャーナ(アハラム)と一夜を共にする前に目が覚めたのが、なんとも残念だった。
「ありがとう。お父さんに会うのを楽しみにしているからね」

                                 (続く)



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2009/12/07 09:38 2009/12/07 09:38

アラブと私 

イラク3千キロの旅(20) 

                                 松 本 文 郎 

 

 アハラムとジャミーラのすぐあとを追いながら、ユーセフは、バベルの塔と空中庭園をもつバビロンがいかに壮大な建造物の集合体だったかを誇らしげに語った。


「城壁といえば、中国の万里の長城も気の遠くなるような規模と年月で築かれたけど、そこまでしても、
権力者は自分の都市や領土を守りたかったんだね」

「統治権力の防衛本能は、いつの時代も同じですね。チーフがユーフラテスの橋の写真を撮ってフィルムを取り上げられたように、バース党政権の軍事拠点の監視も厳重ですから……」
 私たちは、塔の天辺から半分くらいは下りて来た。 


 手をつないで螺旋のスロープをゆっくり歩いててゆく姉妹には、面白くもおかしくもない会話をしている私とユーセフであろう。

地上に下り立つまでに、バビロンをめぐる技術屋談義は終えることだ。

ユーセフは話をつづける。

「強大な軍事力で手中にした富の築く建造物には、その時代の土木・建築の技術の粋が動員されます。バビロンの発掘調査の概要を聴いた工科大学の講義で、私の好奇心は大いに掻き立てられました」

ユーセフは、興奮した調子で声を高める。

「自分の国が、世界で最初の都市バビロンの遺跡をもつことに、キミは誇りを感じているんだね」

彼が声を張り上げたのは、大きな仕事をする土木エンジニアを志した学生時代の夢を、アハラムにも聞かせたかったのかもと思った。

 いくら建設業を営む父親の娘でも、若いアハラムが、バビロンの伝説的な建造物のバベルの塔や空中庭園に興味をもっているとはかぎるまい。

 それに、日常的な英会話は分かるとしても、技術的なやりとりを理解するのはムリだろうと思う私も、アハラムを意識した話をしたくなってきた。

「ユーセフは、世界の七不思議を知ってるかい」

「ええ。バビロンの空中庭園がその一つだというのはですね。アラブでは、ギザのピラミッドもです」

 彼のうれしそうな大声が、アハラムの背に届く。


 世界の七不思議とは、古代ギリシャ・ローマの
注目すべき七つの建造物のことで、紀元前二世紀に書かれた「世界の七つの景観」の中で選ばれた。

 この景観とは、「必見のもの」の意味だったのが、「当時の土木技術のレベルを超えている」との意味にとられて、「ありえないもの」と解釈されることもある。

 旧約聖書にある「バベルの塔」は伝説に過ぎないとしても、バビロンの塔や空中庭園の発掘調査は、それらが実在したかもしれないという、考古学者のロマンの情熱がなさしめたのだ。

「ユーセフ。キミは、空中庭園が建設された由来を知ってるかい?」

「講義では、ネブカドネザル二世が、砂漠の国への輿入れを嫌がったメディア出身の王妃アミティスを慰めるために建造したと聴きました」 

「それじゃあ、イスラムのムガール帝国の五代皇帝シャー・ジャハーンが、王妃ムムターズ・マハルの死を悼んで建設した霊廟と同じような話だね」

 建築史の泰斗、村田教授の講義で学んだインドの霊廟建築は、十七世紀半ばに竣工したイスラム文化の代表的建築である。


「宮殿の王冠」の意味のタージ・マハールの建設資材は、インド中から千頭もの象で運ばれたとされ、大理石はラージャスターン、碧玉はパンジャーブ、碧玉は中国、翡翠はチベット、ラピス・ラズリはアフガニスタン、サファイアはスリランカ、カーネリアンはアラビアから持ち寄られ、全部で二十八種類の宝石や鉱石がはめ込まれていたという。

 建設に従事した職人たちは、ペルシャ、アラブやはるかヨーロッパからも集められて二万人に達し、二十二年の歳月におよんだとされる。

シャー・ジャハーンは、愛妃がいるのに五人の妻たちを持ち、二百人もの女が侍るハーレムで愛欲のかぎりを尽くしたというから、税を納め、建設労働に駆り出された数多の民たちの苦しみは、たいへんなものだったにちがいない。

 古代から近代までの王や皇帝などの権力者たちは、己の名声を後世に伝えるハコモノ建造のため、莫大な金と労働力を長い年月にわたってつぎ込んだ。

 シャー・ジャハーンが、バビロンの栄華と皇帝が王妃のために造らせた空中庭園のことを知っていたと想像すると、世界七不思議や世界建築遺産に選ばれるような建造物への好奇心が、いっそう高まる。

 それに比べて、税金を投じたハコモノ建設の上前をはねたり、妻に隠れてコソコソと女のとこへ通うどこかの国の代議士たちは、あまりにセコイというほかないだろう。

 私は、アハラムが聞いているかどうか気になってきた。

「アハラム! ボクたちの話を聞いてるかい?」 

 突然の呼びかけに振り向いた彼女は、「いいえ、妹と話してましたから……」 

 ここぞとばかりの勢いで、ユーセフが言う。

「チーフと話してたのはね、バビロンの空中庭園が、愛する妃のために造られたことなんだよ」

「それは中学の教科書にありました。そんなことをしてくれるような男性に出会えるといいですね」

 思いがけない姉の願望を耳にしてか、ジャミーラが、それはムリねとばかりのウインクを、私たちに送ってきた。ませた子である。

「アハラムならめぐり会えるよ。なあ、ユーセフ」

 私は、ユーセフの表情の変化を見まもった。

「チーフがおっしゃる通りですよ。アハラムには、きっと、いいダンナさんが見つかると思います」

 もし、ユーセフが自分を売り込んでいるのなら、応援してやりたい気持ちになってきた私だった。

「下へ着いたらすぐ、遅い昼飯にしようよ」

「そうですね。チグリス川の土手に川魚を焼いて食べさせる店がありますから、案内します」

 私たちはまた二組に分かれて、塔を下り始めた。

 ここで、「世界の七不思議」のヴィキペディアの記事を、読者の参考のために書きとめておきたい。

 古典的に挙げられているのは、ギザのピラミッド、バビロンの空中庭園、エフェソスのアルテミス神殿、オリンピアのゼウス像、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟、ロードス島の巨像、アレクサンドリアの大灯台であるが、ビザンチウムのフィロンが書いた「世界の七つの景観」には、アレクサンドリアの大灯台はふくまれず、バビロンの城壁が選ばれているとある。

 これら七つで現存するのは、ギザのピラミッドだけである。  

 その後の時代の変遷で、ヨーロッパ人の地理的な知識が広がって、世界中の建造物が選ばれるようになった中世では、ローマのコロセウム、アレキサンドリアのカタコムベ、万里の長城、ストーンヘンジ、ピサの斜塔、南京の陶塔、イスタンブールのソフィア大聖堂が、七不思議とされた。

南京の陶塔をのぞいて、全てが現存する。

 現代の「七不思議」は、スイスの「新世界七不思議財団」によるものがあるので、次回のはじめに、記すことにしたい。


                                                               (続く)




添付画像
ウイーン美術史美術館にあるブリューゲルのバベルの塔(1563)
ピーテル・ブリューゲル Pieter Brueghel(1525 - 1569)

 

添付画像
"Little" Tower of Babel (c. 1564)
オランダのロッテルダム、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館にあるバベルの塔(1564)はウイーンのものより絵が小さい。塔の建設状況はウイーンのものより進んでいる。


添付画像
Tower of Babel 1563   
ピーテル・ブリューゲル Pieter Brueghel


 

添付画像
Tower of Babel Frans Francken Ⅱ(1581-1642)





添付画像
Tower of Babel (1595)
Marten van Valckenborch I (1534-1612)



Der Turmbau zu Babel 「バベルの塔の建設」(1595)


添付画像
Tower of Babel
ルーカス・ヴァン ヴァルケンボルク
Lucas van Valckenborch (1530-1579)

添付画像
Der Turmbau zu Babel 「バベルの塔の建設」(1595)

 

添付画像
Tower of Babel (1604)   Abel Grimmer (1570-1619)


添付画像
Der Turmbau zu Babel 「バベルの塔の建設」(1580)
Hendrick Van Cleve (1525-1589)


 


Athanasius Kircher (1602-1680)
Babylon, Ancient Iraq. - a set on Flickr


 






2009/10/30 17:13 2009/10/30 17:13

アラブと私 
イラク3千キロの旅(19)
 
                    松 本 文 郎 
 
「バビロン」はメソポタミアの古代都市。アッカド語の「バビリム(神の門)」に由来するとされ、その記録は紀元前三千年代の末に登場する。
 この地にアムル人がバビロン第一王朝を建設し、前十八世紀、六代王のハンムラビがメソポタミアを統一した。
後に、アッシリア帝国などの支配を経ながらも、メソポタミアの中心都市でありつづけ、貿易・商工業が栄える物資の集積・交換の拠点だった。
 紀元前六百年代、新バビロニア王国の首都となり、イシュタル門や空中庭園などの建造物が造られて、古代エジプト文化に匹敵するオリエント最高の文化と繁栄を謳歌したという。
 だが、栄枯盛衰は世の常。 
 新バビロニアが、アケメネス朝のペルシャ王国に滅ぼされてからはペルシャの一都市にすぎず、度重なる洪水などの破壊もあって、大都市の面影を失い、さびれた土地になってしまった。
 前に書いた、「バベル」に「混乱させる」という意味があるのは、天に届く巨大な塔を造ろうとした人間の驕りに怒った神が、それまで一つだった言語を多くの言語に分け、石工たちの意思疎通を混乱させて塔の建設を中止に追いやったと、旧約聖書にあるからだ。
「バベルの塔」は、尊大で可能性のない架空の計画を揶揄する比喩として、今日でも使われている。
 
 トヨペットクラウンを快調に走らせ、アハラムとアラビア語で会話していたユーセフが、「もう少しでサマーラです」と告げた。
 ジャミーラは踊りつかれたのか、私にもたれかかって眠りこんでいた。おませぶってもやはり子供だと思いながら、スリムな体から伝わってくる車の振動を感じながら、夢現を漂っていた。
 しばらく走って、サマーラの街はずれにある遺跡に着いた。
瓦礫まじりの砂の広がりに、不思議な塔が立っているだけで、辺りに人影はなかった。
 ともかく、五十米もある塔に登ることにした。
 上にいくほど螺旋状に細くなる塔は、外周に付けられた幅二米に満たない斜路を歩くしかない。
 駅のプラットフォームのように手すりがないから、塔体側へ身を寄せて登らないと、足を踏み外したらたいへんだ。
 ユーセフとアハラムが先を行き、私はジャミーラと手をつなぎ、滑らないように注意しながら塔頂へと向かった。
勾配は息切れするほどではないが、ときどき立ち止まり、前より高くなった視点から周辺を眺めた。 見渡すかぎり、起伏した荒地が広がってるだけだ。
 ようやくたどり着いた塔頂部は、直径二、三米の円筒状で、ここにも手すりや柵はない。
 強い嵐が吹けば小さな子供には危険だし、サンドストームなら、大人でも吹き飛ばされるだろう。ジャミーラと繋いだ掌が汗ばんできた。
 塔の天辺から三百六十度の茫漠とした風景を眺めながら、村田教授から学んだメソポタミア文明での都市建設と王土隆盛のさまをイメージする。
「空中庭園」が建設されたと伝えられるバビロンは、バグダッドの南九十キロの地点だから、サマーラとはかなり離れている。
村田教授の講義で、一八九九年のバビロンの地で発掘された聖塔が、八層の階段状で頂上に神祠があり、基礎の巾と高さが九十米だったのを思い出した。
ルネッサンスの画家ブリューゲルが「バベルの塔」を描いた当時は、考古学的発掘調査などなかったから、旧約聖書に触発された彼の想像力のすごさに、ただただ脱帽だ。
「空中庭園」の彼方には「バベルの塔」らしい螺旋状の壮大な塔が描かれている。
それに比べ、サマーラの塔は小ぶりで単純な形体なのだが、イスラム帝国が、千三百余年も遡る古代伝説の「バベルの塔」に似た塔を建設したのには、おおいに興味をそそられる。
天をめざす塔は、ユダヤ・キリスト教とイスラム教が同根であることを象徴しているのではないか。
 
 いま、サマーラの塔に登ってから四十年近く経て思うのは、天をめざして林立したゴシックの教会建築や、人工都市ドバイの超高層ビルの建設ラッシュを、「神」はどのように見ておられるのだろうか、である。
 人類史のさまざまな塔が象徴するのは、神への信仰の証か、懲りない人間の驕りなのか……。 
日米が経験したような不動産投資のバブル崩壊は、相変わらずの人間の欲深さへの「神」の怒りの現れではないか。
 クウエート在勤時のドバイでは夢想もしなかった超々高層ビル群の映像をみるたびに、「バベルの塔」や「砂上の楼閣」の文字がアタマをよぎる。
 
どうやら、「バベルの塔」の故事など、アハラムとジャミーラには興味がないようなので、長居無用と、塔を降りることにした。
下りは姉妹を先にして、私たちは古代バビロンの都市の話をしながら、ゆっくりスロープを歩いた。
アハラムは妹の手をしっかり握り、滑らないように気をつけて足をはこんでいる。
時に弾けるような笑い声をまじえて話しているのは、私たちのことなのか、女同士の他愛ないやりとりか。ユーセフが聞き耳を立てている様子はない。
古代バビロンの伝説でユーセフに聞きたかったのは、幻の建造物とされる「空中庭園」である。
バグダッド工大で土木技術を学んだとき、なにか教えられたのではないか知りたかったのだ。
 
ユーセフが話したのは、概略以下のことである。
 クリスチャンの土木技術者としては、旧約聖書にある「バベルの塔」や七十年前にドイツ人によって発掘されたバビロンの都市遺跡に、強い関心をもっていた。
 古代建築史の講義で発掘調査の概要を聞いたとき、この地に壮大な都市があった史実をイラク人技術者として誇らしく感じたそうだ。
 ドイツ人の考古学者が掘り当てた古代都市の遺跡発掘調査は十年間休みなく行われ、その驚異の規模と壮麗さが明らかにされた。
 その遺跡こそ、紀元前六百年頃の新バビロニア・ネブカドネザル二世大王時代の最盛期の繁栄のなかで建設された、古代オリエント最大の都市バビロンだったのである。
 権力と富の集中で空前の繁栄をとげたバビロンは人口数百万の巨大都市で、市中には数々の大神殿を建立し、首都を取り囲む城壁は巾二十四・高さ九十米で、延長六十五キロに及んだ。
 この大城壁には、一定間隔で二百五十もの防御櫓と青銅造りの巨大な門が百あって、頂の巾は四頭立ての戦車が走れるほどだったという。
 首都バビロンの表玄関のイシュタル門には見事なライオンのレリーフがほどこされ、両脇に塔を配し、前後二段構えの立派な門だった。

                      (続く)




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バビロンの遺跡



2009/09/27 00:39 2009/09/27 00:39

アラブと私 
イラク3千キロの旅(18)
 
                                          松 本 文 郎 

 
 屋外パーキングに停めていたトヨペットクラウンのハンドルに手をかけたユーセフは、「さあ、アハラムに逢いにゆきましょう!」と浮きうきした口調で言った。
 どうやら、この旅を私に勧めた彼は、ラマダン明けの休みにバグダッドの遺跡を案内するついでに、、実家の母親やアハラムに逢いたかったのだろう。

 ラマダン(禁欲月)の半ば過ぎに、「イドの休暇はクウエートからどこかへ出かけるのですか」と聞かれ、ふと「アラビアンナイトのバグダッド」と冗談めいた私に、「それなら、私がご案内しますよ」と、すかさず答えたユーセフだった。
 アラビアンナイトはともかく、バグダッドを訪ねる機会への期待は、このプロジェクトへ加わるよう海外出張を発令されたときから密かに抱いていた。
 大学の西洋建築史で学んだ、古代バビロニア帝国のバビロンやササン朝ペルシャの首都クテシフォンの建築遺跡を見る絶好のチャンスである。
 着任して短期滞在したホテルへの送り迎えをしてくれたユーセフと気さくに話すなかで、私の建築家としての経歴やアラブの建築遺跡への関心などを、たびたび聞かせていた。
「なんだか、とてもうれしそうだね」と冷やかすと、「いえ、チーフがよろこばれると思って……」
 イギリスから英人妻を連れてバグダッドへ帰ったアルベアティほどではないが、ユーセフも、かなり如才がない。
「じゃあ、出発としよう。ところで、どこで彼女に逢うのかい」
「家には、夜のパーティで来るよう言われていますので、近くの公園で待っているそうです。トヨタの車でドライブしたがっている下の妹と一緒です」
 ホテルを出てしばらく走り、両側に二、三階建ての家が連なる狭い街路を通りぬける。二階から上に木造のテラスがはね出しでついており、京の町家が格子窓と軒先を連ねているのに似ている。明け方の夢の「千夜一夜」の町のようでもある。
「この辺りは旧市街地です」と地元人間のユーセフはにわかガイドになった。
 この木造テラスはスペインの住宅でも多く見られるから、イスラム文化と関係があるのかもしれない。インドや東南アジア各地にも見られるが、その起源と伝播についての講義があったかどうかは忘れた。
 前方の視野がひらけて、チグリスが大きく蛇行しているところへ来た。川沿いにナツメヤシ林や農園がつづき、大きな公園が見えてきた。
 パーキング脇の入口に、中学生くらいの細身の妹と一緒にアハラムが立っている。
 クラクションを鳴らしたユーセフが運転席の窓で手を上げると、なつかし笑顔が顔中にひろがった。
 パーキングに停めた車に走りよった二人に私は、「アッサラーム・アレイクム」と弾んで挨拶した。
「アレイクム・サラム」姉妹の心地よい声が、朝の公園に明るく響いた。 
 この「あなたに平安を」は、イスラムの人々には世界的に共通する挨拶で、人に会うたび、日に何度でも交わすのである。
 ユーセフはひさしぶりのアハラムと言葉を交わしていたが、二人はすぐにもドライブがしたいらしく、早速、サマーラへ向かうことになった。
 アハラムと私を並んで座らせようとするユーセフに、車中での会話がスムースになるからと、助手席にアハラムを並ばせ、妹のジャミーラと私は、後部シートに座ることにした。
 車をスタートさせたユーセフとアハラムが話し始めたので、私は、ジャミーラに歳をきいてみた。
 スーク(市場)で買い物するために、数をかぞえたり簡単なアラビア語のやりとりくらいはできる。
 十二歳と答えたのを聞いたアハラムが、中学一年ですと振り向いて告げた。私たちの会話をちゃんと聞いていたのだ。
 ジャミーラは物怖じしない子で、後部窓とシートの間にあるカセットデッキの音楽を聴きたいと言う。昨日から入れたままのベイルート音楽をかける。
 調子のいい軽やかな曲を耳にしたジャミーラは、シートの上に膝をつき、両手をひろげて踊り始めた。   腰をゆすりバランスをくずして、私の肩にもたれる格好になった少女は、思いがけない女の眼なざしで私に微笑んだ。
「妹は踊りが大好きなんですよ」と言うアハラムに、「あなたはどうなの」とたずねると、「妹の年頃には好きでしたが、いまはどうも……」と、前を向いたままで肩をすくめた。
「アハラムの年だと、ベリーダンスよりもチークでしょうね」
彼女をたきつけるようにユーセフが口をはさむ。
「バグダッドに踊れるところがあるの?」と私。
「ディスコがあります。モンキーダンスやチークを楽しめますよ」
「四人でいって見ようか」とアハラムを誘うように言う私に、
「モスルから戻ったときにどうですか。アハラムとジャミーラは来れるかい?」「今夜、うちのパーティで父に聞いてみてください。たぶん、大丈夫と思いますけれど……」  
 驚いたことに、クウエートのホテルではユーセフを介してアラビア語でしか話さなかったアハラムが、たどたどしくても英語で受け答えをしている。
 難しい話題はだめでも、ユーセフの通訳を経ないでアハラムと会話できるとは、実にうれしい。
クウエートのプロジェクトやイラクの遺跡などのことはユーセフの通訳でいいし、照れくさいことを彼女に告げたいときも、仲介するユーセフの反応が面白いかもしれない。
 うなじから肩への浅黒い肌を見ていると、まさに、ネフェルティティ・イン・バグダッドだと思った。
ジャミーラは中腰の踊りを無心でつづけている。
その大人びた大胆さは、二人の男を姉と張り合っているようにさえ思えてくる。

 中学一年といえば、妻のお千代に出会ったときも、ジャミーラと同じような印象に驚いたし、この年頃の少女は不良中年にだけでなく、危険な存在である。
  新しいトヨペットクラウンの車の中で、ひたすらベリーダンスに興じている少女の生暖かい体温を感じながら、一路、サマーラをめざした。サマーラはバグダッド北部に位置し、モスルへの幹線道路の途中にある。ほどなく、碩学・村田治郎京大教授の精緻な講義で学んだユニークな塔を目の当たりにできるのだ。  
  ジャミーラの不思議なお色気と念願の遺跡に出会うときめきとで、奇妙な興奮を感じる。

  九世紀、イスラム帝国時代に建てられた「サマーラの塔」は高さ五十米で、ソフトクリームの形状。  
それから遡る二千五百年余のバビロニア帝国で、ノアの子孫が建てようとした「バベルの塔」が旧約聖書の創世記第十一章に記されているという。
十六世紀の画家ブリューゲルは、塔の頂を天まで届かせようとして神の怒りで中止に追い込まれた、スパイラル状の巨大建造物を描いている。
「バベル」とはバビロン(バビロニア)なのか?
「混乱させる」という意味もあるそうだが……。  

                 
(続く)

  



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2009/09/01 13:33 2009/09/01 13:33

アラブと私 
イラク3千キロの旅(15)
 
              松 本 文 郎 
 
 度々の道草のせいか、『イラク3千キロの旅』の道中が繋がりにくいきらいがあるとの読者の声があり、前々号(13)で、ときに再読されるようにお願いしたものの、読者に不親切な言い草ではなかったか、いささか気になっていた。
 いよいよアハラムが住むバグダッドなので、彼女との再会のくだりを一気に書きたいのだが、今回は、これまでのあらましを再録し、大切な読者の声に応えることにしたい。

『アラブと私』は、バスラからバグダッドをへて、モスルにいたるイラク縦断の旅から書き始めた。
 その想いは、四十年前の若き日の体験記述にとどまらず、一緒に仕事をし、家族ぐるみの付き合いをしたアラブの人たちが二○○九年の今直面している過酷な現実を書き加えることで、当時と同じように、アラブの平和と発展を祈りたいのである。
 石油に浮かぶ国クウエイトの電気通信システムの技術コンサルタント業務に建築家としてかかわった四年間の体験を軸に、往時のアラブと今日の状況を重ねるなかで、アラブに対する私の立ち位置を確認し、「イスラム」について再学習したいのである。
 この五月、米軍撤退をひかえたバグダッドでは、爆弾テロによる多数の死者が連日報じられている。
 サダム・フセインが強権で束ねていたスンニ派・シーア派アラブ人とクルド族の三つの共同体がばらけてしまい、イラクは、もはや一国と呼べない状況だと主張する向きもある。
「イラク3千キロの旅」を始めた南部地域バスラにはシーア派が多く、中部のバグダッドは両派アラブ人、北部のモスルにはクルド族が圧倒的に多い。
これらの地域は、オスマン帝国を破って委任統治したイギリスが、イラク王国の三州としたものである。
 旅をした一九七一年は、王政が軍事クーデターで倒され、イラク共和国が成立して十三年、バース党政権成立から三年が経過していた。
 アラブ人から「アラブの星」と慕われたナセルが急死した翌年でもあり、若い私には、かのアラビアのロレンスのように、アラブ近代化に役立ちたいという客気があった。
 以下に(1)から(14)までの要点を記す。

(1)9.11後、大量破壊兵器を理由にブッシュ大統領が始めたサダム・フセイン政権撲滅の戦争をから五年。十五万人のイラク市民死者、国内外四百万人の難民が出ている惨状で、クウエイト事務所で仕事を共にしたユーセフやアルベアティの家族らは今、どこで、どうしているのだろうか。
 三十八年前のラマダン(禁欲月)明けの休日に、バグダッド生まれのユーセフとクウエイトを出発。
(2)クウエイトに近いバスラは、クラブで酒が飲め、ベリー・ダンスも楽しめる男たちのオアシス。
 クウエイトで出会った十七歳のアハラムは、正体が分からぬままにバグダッドへ帰っていった。この旅で再会できるか。「インシャーラ(神のみぞ知る)」
(3)この連載エッセイは日本ジャーナリスト会議  の矢野英典さん(「九条の会・浦安」事務局長)に誘われて書かせてもらっているが、二、三年は続く。
 世俗的イスラム・スンニ派のバース党が支配する共和国イラクの近代化途上のバスラは賑わっていたが、ブッシュ政権がパンドラの箱を開けたことで、
戦争終結から五年を経たのに、大油田の利権をめぐるシーア派同士の内戦で多数の死傷者が出た。
(4)バスラはティグリス・ユーフラテス川が合流したシャト・アル・アラブ河が流れる古代からの町。 
 旧約聖書の「エデンの園」やアラビアンナイトのシンドバッド島など神話や物語のスポットがあり、中東への影響力を保ちイラク支配を強めた大英帝国の戦略的拠点でもあった。
(5)五千年前にバスラ地域に住んだシュメル人は文字を創出。湿地の葦のペンで楔形文字を粘土板に書いた「シュメル神話」に、「ノアの箱舟」の原型の大洪水物語がある。
 その湿地帯は、サダム・フセインが湾岸戦争時にシーア派ゲリラ掃討作戦で流水をとめて縮小激化。 
(6)旨いカバーブで腹ごしらえの後。ユーセフが運転するトヨペット・クラウンでバグダッドへ。
 座席後部においたソニーのステレオ・コンポからのアラブ音楽を聴きながらユーフラテスを北上。
 川の写真を撮っていて警備兵の検問を受ける。
 この川は、ノアの箱舟、メソポタミア成立、アレキサンダーのペルシャ征服、イスラムのバグダッド攻略、モンゴル侵入、オスマン帝国の支配・敗退など、さまざまな民族・文明とかかわってきた。
(7)砂漠の幹線道路の高速運転は危険がいっぱい。ユーセフの腕とBGMに身をまかせ、眠りこむ。
 目覚めて、アハラムのことを話しているうちに、サマーワへ着いた。トイレ休憩に寄ったあの町が、三十数年後、小泉首相が決めた陸上自衛隊の駐留で憲法九条の問題になるとは思いもしなかった。
 この地のシーア派住民は、国連の経済制裁下でのフセイン政権に見捨てられていたとされる。
(8)ここまでは、ワープロの文章をMSーDOSに変換して入稿してきたが、編集・印刷の便利さからワードに切り替えるため、安いパソコンを購入。ケイタイもメールもやらないアナログ人間の適応。
 夜間走行に入って、交通事故の現場に遭遇する。シーア派の聖地カルバラに埋葬する遺体を運ぶ車が事故に巻き込まれていた。
(9)サマーワで仕入れたパイ菓子のクレーチャとペプシコーラで、走行しながらのエネルギー補給。
 砂漠の中の一本道で雷雨の直撃を受ける。稲妻の閃光のなか、車の上に二体の遺体を積んだタクシーを追い抜いたユーセフと、死生観について語り合う。
(10)死生観や神の存在については、クウエイト郵電省のエジプト人顧問建築家ボーラスとも話したことがあり、またあとで触れることもあろう。
 カルバラのイマームの聖廟の由来をユーセフから聞く。ムハンマドの後継者をめぐるシーア・スンニ両派の抗争の歴史は、桜井啓子著『シーア派』(岩波新書)に拠らせていただく。
(11)異なる宗教・宗派間の戦争・紛争は、表向きは教義に基づくようにみえても、共同体の維持と版図の拡大を意図した統治権力の争奪ではないか。
 フセイン・ブッシュ両大統領の戦争の背景には、イラクの油田確保をめぐる攻防の影が透けている。
(12)大統領の任期終了前にバグッダッドを訪問したブッシュは、イラクの記者に靴を投げられて、イラク侵攻の大義が怪しくなったブッシュ政権の二期目の支持率は史上最低。マリキ首相の政権下、治安、行政サービス、インフラ整備はフセイン時代より悪化し、国民生活は困窮を深めているとされる。
「チェンジ」を掲げて登場したオバマ大統領の英断で、事態はどのように変わるのだろうか。
(13)(14)「カルバラの戦い」と「平家物語」に、古今東西の戦記物語に共通する悲哀を見る。
 人間が殺しあい、傷つけあう戦争や紛争の愚行を、世界宗教の始祖たちは異口同音に戒めているのに。
 人間の限りない欲望が侵略を誘う一方で、遠征の大移動の結果、多様な文明・文化の交流が生じた。
 次回は、待ちに待ったバグダッドである。
                                               (続く)



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2009/06/03 12:39 2009/06/03 12:39

アラブと私 
イラク3千キロの旅(14)
 
              松 本 文 郎 
                        
「ユーセフ。キミはエンジニアでクリスチャンだというのに、イスラムの歴史に詳しいんだね」 
「そうでもありません。『カルバラの戦い』の物語は、アラビア半島を統一したイスラム教の創始者であるムハンマドの跡目争いの話ですから、誰でも知っています」
「そういうことなら、日本にも平家物語という、時の政治権力の軍事集団だった平家と源家の軍記物語があるんだ。ボクの年代ならほとんどの人が知ってるよ」
 平家一門の栄枯盛衰を記した長大な叙事詩的物語は、仏教的な無常観で貫かれ、盲人法師に語られて伝わったという。琵琶の伴奏で語られる「壇ノ浦」の平氏全滅のシーンが、子供心にも涙を誘ったのをおぼえている。
「ボクら日本人が読んだり聴いたりする軍記ものでは、強い方より弱い方、勝った側より負けた側に、同情や贔屓が集まる『判官びいき』というのがあるんだけど、アラブではどうかね」
「争いや戦争をするからには勝つ方がいいにきまってますが、崇拝する人物や英雄が殺される話には、やはり同情しますね」 
 全滅したフセインとその仲間たちが埋葬された地カルバラはその後シーア派の聖廟となり、殺されたイマームを慕う教徒が自らの死後、この地への埋葬を願うようになって二十世紀の今日まで続いている。
 一方、捕虜になったフセインの女性親族たちは、病気で戦いに参加できなかったフセインの息子と共にクーファ経由でダマスカスに連行されたという。
 その後解放された遺族たちはメディナに戻ることができ、フセインの息子が第四代イマームになったので、ムハンマドの血縁は保たれたようだ。
 源平の争いの歴史でも、源義頼が平清盛を討とうとして起こした平治の乱で義頼が敗れた年に生まれた義経は、捕らえられたが死を免れたために、平家壊滅の「壇ノ浦の戦い」で活躍した。
 幼いときに講談社の絵本で読んだ牛若丸の物語は、ユーセフにとっての「カルバラの戦い」と殉教した第三代イマームのフセインの物語に重なるようだ。
 平家を滅ぼした戦勝功労者の義経は、後白河法皇の計略で異母兄の頼朝に追われる身となって各地を放浪した挙句、自殺して果てた。
 清盛が牛若丸を殺していたなら、この若き悲劇の英雄は存在せず、「義経記」や「判官びいき」の言葉も生まれなかっただろう。
 私は、ユーセフの熱のはいった口演に応えようと歌舞伎の『勧進帳』『船弁慶』のシーンのさわりを話してやった。
『勧進帳』で放浪途上の義経一行が、忠実な家来、武蔵坊弁慶の主を想う真情と機知で「安宅の関」を無事に通過するくだりは、話しながらウルウルとくるところ。
 アラブから帰国して五年後に長唄を習い始めたが、吉住小桃次師に教えていただいた演目は三十余りで、『勧進帳』『船弁慶』にも出演した。
『船弁慶』も源平合戦の物語の一つで、能・歌舞伎など日本の芸能文化の洗練された出し物だが、主人公は、武蔵坊弁慶ではなく、平家の武将、平知盛だ。
 源氏に滅ぼされた清盛後、頭梁にかつがれた三男の宗盛が凡庸なために源氏との戦いに対処できず、 平家一門の運命は知勇に抜きんでたこの知盛に託されたのである。
 知盛が率いる平家は源氏の内紛に乗じて、一旦は勢力をもりかえしたが、義経の奇襲戦法に追い詰められた壇ノ浦で一族もろともに滅亡。
 平家物語に、「見るべきものは見つ、今はただ自害せん」と言って、二領の鎧を重石の代わりに着て、海に没したとある。
 いつの時代の戦争も、多くの人間が殺し、殺されるという愚行であり、今も進行しているアフガンやイラク、ガザ地区などでの殺戮と暴力の応酬もまさにそうである。
「人間はなぜ戦争するのか」は、私のライフワーク『私的・人間の探求』の重要なテーマの一つ。
 古代ギリシャのホメロスが書いたとされる二大叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』や中国の『三国志演義』などは、本格的な戦記物語の古典であり、貴重な文化遺産である。
 源平の合戦が日本文化に鮮明な足跡を残したのは、卓越した文学作品『平家物語』があったからだろう。
『アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)』も、アラブ民族の争いでカリフや王朝交代が絶えないイスラムの歴史を色濃く映しだしているではないか。   
 先日(二○○九年四月)、三国志の映画「レッドクリフⅡ」をみたが、少年時代に映画好きの父親とみたエノケン主演の「水滸伝」を思い出した。
 戦記物語には、さまざまな歴史人物の数奇な運命が描かれ、良くも悪くも、戦争という過酷な状況の中ならではの人間の姿が鮮やかに表されている。

「カルバラの戦い」から数年後、シーア派の一団は、フセインを死に追いやった自責の念から、幾度かの殉教覚悟の蜂起でウマイヤ朝への抵抗運動をした。
 その中に、初代イマーム・アリーとハウラという女性の間に生まれたフセインの異母兄弟を救世主とみなす反ウマイヤ朝運動「ムフタールの乱」があり、一時はクーファを支配するほどだったが、二年後には鎮圧されてしまった。
 ほかの抵抗運動もすべて政治的な完敗に終わったシーア派は、政治への関与に否定的となり、預言者の孫を惨殺させてしまった罪をあがなう追悼儀礼を行う宗教的な運動に向ったという。
 まだ、カルバラについて記したいことがあるが、詳細はクウェイトへの帰路に立ち寄った折りとして、見出しだけにとどめよう。
☆七世紀の「カルバラの戦い」から千四百年を経た一九八○代、カルバラの名が戦争の作戦名に登場。イラン・イラク戦争でのイラン側の「カルバラ作戦」で、由来は「カルバラの戦い」という。
☆イラク戦争の米軍侵攻の際、カルバラ市一帯での会戦でイラク軍の強固な抵抗に遭った米軍は撤退を余儀なくされた。
☆二○○八年八月。治安回復が伝えられたカルバラのシーア派宗教行事に参加した三百万人以上の信者を狙ったテロで、多数の死傷者が出た。宗教間対立 
をねらうテロリストにとって、巡礼団は格好の標的だという。道路脇の自動車爆弾や女性の自爆による。
☆イラク戦争の激戦地にもなったカルバラの子ども病院で、ここ数年、がん患者が異常に増加している。
「いままで見たことがない」症例の子どもも多く、米軍のすさまじい空爆と関係ありそうと医師の話。 ベトナム戦争の空爆で発生した奇形児を思い出す。
☆二○○九年春。戦闘終結後初めて、バグダッドに滞在する外国人らがカルバラの街を訪れたとの新聞記事。オバマ大統領の和平政策に期待したい。
 
「カボチャの馬車」ならぬトヨペット・クラウンを深夜十二時前にバグダッドへ着けようと、ユーセフは、先行車のない一本道をひた走った。 
 真夜中のバグダッド入り。アリババならぬ私が手にするものは、どんな旅の得物だろうか。
                                                   (続く)





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2009/05/13 15:46 2009/05/13 15:46

アラブと私 
イラク3千キロの旅(13)
 
                                       松 本 文 郎 

                        
「歴史認識」の問題は、国家間の論争にとどまらず、個々の人間の今と未来にも深く関わっている。
『アラブと私』を書いているのも、自分の足跡を書きとどめて子や孫たちの未来への遺言にしたいと願い、これからの生き方のために、歴史を学びなおしたいからだ。
「歴史」は、体制、反体制、学者、民衆など、さまざまな立場で遺された記録の総称だが、「自分史」は、かけがえのない自分の人生記録であり、体験をより鮮やかに思い出すには、書いてみるのが一番である。 『アラブと私』では、過去の私的な思い出を綴るだけでなく、人類社会の「来し方」と「今」を知り、これからの時代と社会にコミットして生きる想いを書き込みたいのである。
 この月一回の連載もはや十二回目になったが、「イラク3千キロの旅」は、『アラブと私』の序章のようなもので、書きたいことの根幹は、四十年前のアラブの私的な体験を織り込みながら、人類社会の未来を左右するであろう「アラブ」の現実を見つめ、感じ、考えた記録である。
 道中の道草は、小田 実の『何でも見てやろう』流をなぞっているからで、「メソポタミア」から「今」にいたるアラブの歴史を気ままに往還したいからである。
 時折、前を読み直さないと「イラク3千キロの旅」の道中が繋がりにくいきらいがあるが、ご面倒でもプリントアウトして、再読していただくほかない。
 世界中で非難されている、イスラエルによるガザ住民虐殺と停戦の行方も気になるのだが、そろそろ、ユーセフが話してくれたスンニ派とシーア派の歴史にある「カルバラの戦い」に戻ることにしよう。    

 前々回(11)に書いた、ハーシム家とウマイヤ家による共同体統治をめぐる確執のなかで見過ごせないのは、ムハンマドの後継者の資格を「イマーム」と呼び、預言者の血を引くアリーとその子孫だけとするシーア派の主張だ。
「イマーム」は、ムハンマドの啓示によりイスラム共同体を宗教的、政治的に指導する者で、人間の魂の救済に重点をおくキリスト教などの宗教とは対照的に、共同体の営みの政治、経済、社会、文化などのすべてに関わるとされてきた。
「イスラム教」を創始したムハンマドは、メッカで生まれ育った都市人で、大きな貿易商の総支配人だったが、不毛の地とされたアラビア半島の遊牧民らを組織して強力な軍事集団をつくり、「イスラム」の教義でアラビア半島を一体化したのである。ビザンチンとササン朝ペルシャの東西両帝国が長い戦争で疲弊していたときだった。
 ムハンマドが受けた啓示を「コーラン」として正典化したウスマーンは、ササン朝ペルシャを征服し、ビザンチン軍も破って、両帝国が対峙した古代世界終焉の端緒を拓いた二代目カリフ、ウマルの指名で三代目カリフに就任した。
 七世紀から十四世紀にかけての「イスラム帝国」の全盛をもたらしたのは、アラブ遊牧民が中心の強大な軍事力であるが、その新しい世界に秩序を与えたのがイスラムの教義「コーラン」だった。
 アラビア半島に預言者ムハンマドが現れたころのアラブ人の大半は、定住生活を軽蔑する半砂漠の遊牧民だった。
 ムハンマド没後から第四代カリフのアリーまでは正統カリフの時代と呼ばれ、イスラム帝国の第一期を形成したのである。
「カルバラの戦い」は、ムハンマドやアリーが属したハーシム家と帝国の第二期を築いたウマイヤ家との共同体統治権をめぐる確執の果てにあった。
 第四代カリフのアリーがクーファで殺されてから、シリア総督のムアーウイアが「ウマイヤ朝」の初代カリフに就き、カリフの位を世襲制にしたことから、アリーの支持者たち(シーア派)は、ムアーウイアばかりか、アリー以前の初代から三代までのカリフの正統性も否定したことは前々号に書いた。
 アリーのような預言者ムハンマドの血筋だけを、後継資格をもつ「イマーム」とした当時のシーア派は、アリーを初代イマームと呼び、イマームの位は
ムハンマドの末娘ファーティマとアリーの間に生まれたハッサン・フセイン兄弟をへて、弟フセインの子孫へと引き継がれてきたとみなしている。
 イスラムの少数派でありながら、「イマーム」を中心にすえた宗教思想で独自の存在を続けてきたのがシーア派である。
「カルバラの戦い」当時のシーア派は、イスラム史で「正統カリフ時代」と呼ばれる歴史認識さえも、否定していたのである。
 シーア派にくみしない人たちは多数派で党派性をもたず、アリーをふくむ四代のカリフを、ウマイヤ朝のカリフと同じように認めた。
 彼らのカリフ選出の考え方は、ムハンマドのようなクライシュ族の成人男性候補者の選挙か、前任者の指名で決められるとし、後継者の条件を、預言者の血筋やコーランを理解する特別な資質とはみなさなかった。
 これらの人たちは、コーランを正しく理解する知識の源として、ムハンマドの言行(スンニ)を重んじ、その収集に努めたのでスンニ派と呼ばれるようになったという。
 シリアのダマスカスに都をかまえたウマイヤ朝の初代カリフ、ムアーウイアをカリフとして認めなかったシーア派は、アリーの長男ハッサンに第二代のイマームの望みをかけたが、カリフの位放棄の代償にムアーウイアから莫大な金を受け取ったハッサンは、メディナに隠棲してしまったという。
 シーア派の伝承では、幾人もの妻を娶り、大勢の子供を残したハッサンは、ムアーウイアに糸を引かれた妻の一人に毒を盛られて命を落としたとある。
 敵対する勢力からの陰謀と内部の謀反はいつの世にもある人間ドラマだ。
 当時のシーア派の拠点は、アリーが居をかまえたことがある都市クーファにあり、ダマスカスを拠点に勢力拡大するウマイヤ朝からの自立をめざした。
 六八〇年、ムアーウイアの死をカリフ位奪還の機とみたクーファのシーア派は、第三代イマームに就いてメディナにいたフセインに再三、密使を送り、ウマイヤ朝への反旗を翻すように要請した。
 しかし、ムアーウイアの指名で第二代カリフになっていた息子のヤズィードは、この動きを察知し、クーファのシーア派決起を封じ、四千の兵士をクーファの北西七○キロ、ユーフラテス川の西二○キロにあるカルバラにさし向けた。
 カルバラの荒野に到着したフセインの軍勢は、水補給源のユーフラテス川への道を敵軍に遮断され、渇きに苦しみながら惨敗し、フセインとその軍勢は灼熱の砂漠に果てた。
 フセインの首は、ヤズィードが待つダマスカスへ送られ、遺体は仲間や兵士の遺体と一緒にカルバラの地に埋葬されたという。
 ヘッドライトの先を凝視しながら、戦いの有様を話すユーセフの口調は、壇ノ浦の平家最後のシーンを口演する講談師のような熱を帯びていた。
 宗教的史実は、戦記物としても有名なのだろう。
                
                            (続く)

 


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2009/04/09 12:13 2009/04/09 12:13

アラブと私 
イラク3千キロの旅(12)
 
              松 本 文 郎 

 
 9・11テロの直後に、「われわれと共にあるか、それとも、テロリストと一緒になるか」と、議会の演説で叫んだブッシュ大統領は、イスラム教徒らのテロに報復する十字軍の総大将に見えた。
前のめりで開戦に踏み切ったイラク戦争は、開戦の大義だった大量破壊兵器も9・11と旧フセイン政権を結びつける確証も見つからず、米兵の犠牲とイラク国民の困窮は増すばかりだった。  
 振りかざした侵攻の大義(?)を自由と民主主義の伝道(?)に切り替えたブッシュ大統領の舞台の幕は、間もなく引かれようとしている。

 ユーセフが話したカルバラのシーア派聖廟の由来を記している途中だが、イスラム史初期のスンニ派とシーア派の発祥が、ムハンマドの教義伝承の争いの衣装を纏った共同体統治の権力闘争だったのではと思われ、イラク戦争と宗教の関わりの視点からも道草をつづけ、イラク情勢の重要な変化を書きとめておきたい。
 そうした経過への不満を募らせたアメリカ国民が突きつけたのが、二期目の大統領支持率の史上最低という世論調査結果である。
 戦争に際して米国民が重視するのは、任務の明確さとその成功だとされ、ブッシュ大統領はその双方で大きな過ちを犯し失敗したと見られている。

 今回のブッシュの訪問は、米軍撤退時期についてマリキ首相と取り決めることだったようだが、二○○六年五月の正式なイラク政府の首相に就任してから指導力不足を指摘され続けてきたマリキ首相が、米軍撤退後、イラク国民が求める治安回復と和平を実現できるのかどうか……。 
 求心力のないマリキ政権下で、過激派テロの横行と内戦状態がつづき、治安、行政サービス、インフラ整備などは旧フセイン政権時代よりも悪化したといわれ、人々の生活は一向に改善されず困窮を深めている。
 マリキ首相の政権運営に対するイラク国民の抗議が高まり、彼の出身母体であるシーア派の閣僚辞任が相次ぎ、スンニ派有力会派「イラク調和戦線」も政権から離脱、クルド人参謀長と九人の軍司令官が辞任して、政権はいっそう弱体化した。
 強権で国家を統一していたフセイン政権が消滅してパンドラの箱が開いた結果、シーア派、スンニ派、クルド人らの宗教的・民族的対立が顕在化し、石油の利権をめぐる覇権争いも激化するだろう。
 連載の(3)で書いたように、バスラの油田地帯の利権を巡り、首相直系の治安部隊とサドル師傘下の民兵組織マフディ軍(シーア派同士)との戦闘で多数の死者が出た結果、戦闘はバグダッドにも拡大し、米軍も戦闘正面に出ざるをえなくなった。

 反米宗教指導者のサドル師の背後にいるとされるシーア派大国イランへの非難を強める米軍に押されるように、国民会議のシーア派議員団をイランに派遣したが、「タラバニ大統領とマシュハダニ国民議会議長ら、旧フセイン政権時代からイランとの太いパイプをもつ有力者が主導する問題解決しかない」といわれ、マフディ軍解体の目途どころか、首相の力量不足を露呈するにとどまって今日に至る。
 当時のブッシュ大統領は「イラクの指導部に不満はあるが、更迭を決めるのはイラク国民だ」と言い、次期大統領候補の一人だったヒラリー・クリントン上院議員も「イラク議会がマリキ首相を交代させ、もっと各宗教・民族をまとめられる人物を選ぶよう望む」との声明を出している。

 冷戦下のベトナム戦争で、南の傀儡政権を担いで不当介入した挙句に敗退した教訓を生かせない米国の復元力はどうなったのかと訝っているところへ、なんと初の黒人大統領バラク・オバマの登場である。
 小田 実なら、この待望の歴史的瞬間を書く横道をさらに歩きつづけただろうが、私は後にしよう。    
 イラクでは、拘束された記者の早期釈放を求めるデモ行進が報じられ、「靴で敵(米国)を打ちのめした」「ブッシュ(大統領)に最高の贈り物をした」のメールが活発に飛び交っているという。
 イラク戦争をミスリードした不名誉の挽回を画策したブッシュ大統領は、この著述の冒頭で引用した自作の替え歌どおりにホワイトハウスを出て、芝生のある自宅での気ままな暮らしに戻るだろう。
 しかし、アメリカ発の世界同時経済不況が民衆の暮らしに深刻な事態をまねき、世界各地域で米国に対する見方が悪化している状況では、ブッシュ政権の今後の評価はきわめて否定的なものになるにちがいない。

 マーチン・ルーサー・キング牧師の「夢」を叶えたオバマが、はたして、期待される「チェンジ」を米国と世界に巻き起こせるか。世界中の人たちが米国民と共に見守るだろう。
 リンカーンの「奴隷解放百年」を期した人種差別反対のワシントン大行進で二十五万人の先頭に立ったキング牧師が、あの「アイ・ハブ・ア・ドリーム」の歴史的演説をしたのは一九六三年。
 ケネディが大統領に就任した六一年にオバマが生まれたというのも、奇しき縁ではないか。

 公民権法案を議会に提出して差別撤廃をめざしていたケネディ大統領は、キング牧師をホワイトハウスに招いたが、テロの凶弾に倒れた。翌六四年に法案は可決されたが、六十八年、理不尽にもキング牧師は暗殺されてしまった。
 奴隷解放から一世紀半近く経ってようやく実現した黒人大統領。その道筋で、リンカーン大統領の暗殺をはじめ、邪悪なテロによっておびただしい血が流されてきた。

 ブッシュ大統領は、9・11テロへの自衛攻撃として強引にイラクへ攻め込んだが、米国の歴史は、自国民の手によるテロで血塗られているのだ。
 憎悪が憎悪を増幅して、果てしない殺戮の応酬が繰り広げられる現実が私たちの目前にある。
 キング牧師は、戦争と暴力の二十世紀に非暴力の抵抗を唱え祖国インドの独立を勝ちとったガンジーを尊敬し、彼から多くを学んだ人だった。
 だが、植民地主義のイギリスからの独立を導いた宗教的聖人で政治的指導者だったガンジーもまた、凶弾に倒されてしまったのである。
 ガンジーは、「真理が神」と唱え、世界の宗教はすべて一本の大樹の枝や葉でその根は一つなのだ、と壮大な宗教観を説いていた。スンニ派とシーア派は、大樹の一枝である「イスラム」の葉っぱ同士ではないか。

 ムハンマド後継の正統性をめぐるスンニ・シーア両派の抗争が、共同体統治の権力闘争の大義を主張しあう争いだったように、イラク侵攻の決断をしたブッシュ大統領が、「これは十字軍の戦いだ」と叫んだのは、宗教戦争とみなされていた十字軍の目的が実は版図拡大にあったとする最近の歴史学の定説に符合している。

 人類史のおびただしい戦争の動機は、政治・宗教権力の版図拡大であったが、異教徒や異端を滅ぼすことを大義としても、“衣の下に鎧が隠されていた”のは、古今東西に変わりはないようだ。
 そもそも、国や民族の「歴史」は、権力者の側に立って書かれたものが多く、国民国家でさえそうだから、“歴史認識”の論争が生じるのだ。
                  (続く)




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2009/01/30 10:12 2009/01/30 10:12

アラブと私 
イラク3千キロの旅(11)
 
              松 本 文 郎

 こんな背景からか、ムハンマドの教友のなかには、アリーを特別な存在とみるだけでなく、ムハンマドがアリーを後継者に指名したとみなした人もいた。
 ところが、カリフに選出されたのは、ムハンマドの教友の一人で長老格のアブー・バクル
だった。 彼は、ムハンマドの最初の妻ハディージャの没後に、最愛の妻となったアーイシャの父である。
 論争の末にアブー・バクルがカリフに選出されたとき、アリーはムハンマドの葬儀の準備のために不在だったが、事後報告を受けて承認した。

 初代カリフは無事に決まったが、ムハンマドの死を理由にイスラム共同体を離反する部族が相次ぐ。
 アブー・アクバルは卓越した采配で離反した部族を征伐したものの、就任後二年で没した。死の直前、長老ウマルを第二代カリフに指名。
 ウマルはカリフ在位十年間にササン朝ペルシャを征服し、ビザンチン帝国軍も破って、イスラムの共同体版図を一挙に拡大させた。
 ウマルは死ぬ前にアリーを含む後継者候補を指名したが、第三代に選ばれたのは、古くからの信徒であったウマイヤ家のウスマーンだった。

 彼の最大の功績は人の記憶頼みだったコーランの章句の収集編纂し、今につたわるコーランの正典化に貢献したこととされる。
 その一方で、彼の統治は後世に禍根を残すことにもなった。ウマル時代に拡大したイスラム共同体の支配地域安定のためにウマイヤ家の身内を優遇したことへの批判が噴出し、不満分子によって殺害されてしまったのである。
 ユーセフも同意したのは、身内や側近・取り巻きを優遇するのは、古今東西かわらない権力者の常套手段で、その末路はおおむねかんばしくないことだ。
 ウスマーンが殺されたあとの第四代カリフに就任したのが、ムハンマドの従弟アリーだった。
 このようなムハンマド没後のカリフ選出の過程には、いたずらに争わず、イスラム共同体の知恵を生かした判断と選択があったと思われる。
 サマーワの手前の車中でユーセフが話したように、イスラム共同体の統治権は三代つづいたスンニ派のカリフからシーア派のアリーへと、それなりに継承されたようである。

 ではなぜ、カルバラがシーア派の聖地になったのかを、クリスチャンのユーセフが物語ったイスラム史から紹介しよう。 
 発端は、ムハンマドの血筋アリーのカリフ就任に対して、シリア総督のムアーウィヤが「バイア」(臣従の誓い)を拒否したことである。
 ウスマーンと同族のムアーウィヤは、ウスマーンが殺されたあとウマイヤ家の長となるが、彼の父は長い間ムハンマドに敵対した人間だった。この父子は、ムハンマドが六三十年にメッカを征服したとき改宗したが、その信仰心の程度については評価が分かれるとされる。
 つまり、ムハンマドやアリーが属するハーシム家とウマイヤ家とのあいだには、イスラム史初期から共同体の指導権をめぐる確執があったのである。
 なんだか、ほぼ同じ年代にわが国で起きた、仏教伝来がきっかけの蘇我氏と物部氏の権力争いに似ていて、多様な人類社会のなかの類似性が面白い。

 ハーシム家打倒を目論むムアーウィヤが、一部の教友を従えてアリーに戦いを挑んだのは、六五六年のことだったこの戦いで、アリーのカリフ就任を不快に思っていたムハマンドの未亡人アーイシャ(二代目カリフのアブー・バクルの娘)がラクダに乗って戦場に現れたので、「ラクダの戦い」と呼ばれているという。
 戦いに勝ったアリーは、アーイシャをメディナに戻し、自らは歴代カリフが住んだメディナを離れ、イラク中部の都市クーファへ移った。
 ムアーウィヤはその後もアリーへの臣従の誓いを拒み、六五七年、両軍は再び、ユーフラテス上流のスイッフィーンで戦火を交えることになった。
 この戦いは勝敗が決まらず、調停の道を模索したアリーの妥協的な態度に失望した一派が袂を分かつ。

 六六一年、アリーは、離脱者と呼ばれたこの一派の刺客の手によりクーファで命を落とした。
 彼の死で、四代に亘った「正統カリフの時代」は幕を閉じ、シリア総督ムアーウィアは、ウマイヤ朝を開き初代カリフに就任した。
 その後、カリフの位はウマイヤ家の男子によって世襲されることになり、政権から追われたアリーの支持者たち(シーア派)は、ムアーウィアをカリフと認めず、アリー以前の初代から三代までのカリフの正統性も否定した。
 ユーセフが語るイスラム史の始まりを聞いたら、シーア派とスンニ派の当初の対立は、イスラム教典の解釈の違いなどではなく、共同体の統治権をめぐる権力の争いだと思えてきた。
 人類史上、異なる神を信仰する宗教間の争いで、信仰上の対立はあるにせよ、共同体の維持と版図の拡大こそが重要な目的だったにちがいない。

 アメリカ合衆国という超大な共同体の統治者であるブッシュ大統領は、自由と民主主義を「錦の御旗」のように掲げながら、独善的に他国に侵攻して、フセイン大統領を抹殺したものの、国民の大多数からは、独裁的だったフセインの時代の方がよかったと言われている。
 侵攻を命令したブッシュは、大統領の任期が終わるいまになって、イラク戦争の根拠とした大量破壊兵器の情報が誤って伝えられたと責任逃れに汲々としているのは、見苦しい。
 近代国家アメリカの政治システムの大統領権限は独裁的ではないものの、恐ろしいほどに強大だ。
 ブッシュ大統領の周辺にはキリスト教原理主義や石油・軍事産業にかかわる人間が集まってきたが、大統領権限を利用しようとする彼らを統御する能力が、ブッシュには欠けていたのではないか。
 米国の歴代大統領のなかで一番アタマがわるいと揶揄された彼だが、アタマはともかくとしても、どこか、人の好いオジサン的なイメージもある。

 記者団らに見せる人なつこい笑顔から、米軍兵士らによる残虐行為が暴露されたイラク駐留軍の最高指揮官が秘めている恐ろしさは感じない。
 イラク戦争の行方が混迷するなかで、パウエル国務長官はじめ良識ある閣僚・側近がブッシュを離れ、同時多発テロへの報復表明で得た九十%の支持率は八年間で二〇%台にまで下落した。
 引退一ヶ月余り前に突然バグダッドを訪れたが、記者会見の席でイラク人記者に靴を投げつけられ、首をすくめる無様な姿が米紙ワシントン・ポストの第一面に報じられた。

 フセイン元大統領を拘束してからちょうど五年。イラクに自由と民主主義が蘇ったことをアピールしたかった任期中最後のバグダッド訪問は、この一件で無残にも足蹴にされたのだ。
 靴を投げつけるのは、アラブでは相手への最大の侮辱だが、自分の国の大統領を侮辱されたことへの米国民の怒りはあまり報じられず、これをイラクの民主化の成果とする冷めた報道が目につくと、朝日新聞の「ブッシュ政権8年」の記事にある。


                                         (続く)



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2009/01/30 09:52 2009/01/30 09:52

アラブと私 
イラク3千キロの旅(10)
 
              松 本 文 郎

 壮大な死者の墓ピラミッドをつくった古代王国の輝かしい歴史をもつエジプト。その末裔でカイロ大学を出た建築家の夫人はフランス人である。
 フランスといえば、近代国家の創始者ナポレオンはエジプトにまで遠征して、ピラミッドの戦いではマルクーク軍を破り、アレキサンドリアに建てられていたオベリスクを略奪してパリへ移設した。
 だが、栄枯盛衰の理のとおり、アブギール湾海でネルソン提督率いるイギリス海軍に敗北を喫した。ボーラス氏と夫人の出会いの経緯は知らないが、ナポレオンを恨む気持ちより恋心が勝っていたのだろうか。(余計な詮索というものか……)
 誇り高きアラブの建築家は、母国の近代化に役立つ電気通信建築のノウハウを私たちコンサルタントから学べたことを認める率直さをもっていた。

 イラク三千キロの旅から四ヵ月後、工事が長引く状況で、妻と子供たちを日本から呼び寄せた私は、偶然にも同じ年齢でアメリカンスクールに通う男女二人の子供がいる、ボーラス一家と親しく付きあうことになる。
 欧米のライフスタイルをめざすアラブの富裕層や知識階級の家庭は、ホームパーティで招きあう家族ぐるみの交際で日本よりずっと進んでいた。
 家族の娯楽としては、映画館、ホテルのパーティ、砂漠のバーベキュー、アラビア湾の魚釣りと海水浴などあったが、アメリカンスクールのクラスメイトのさまざまな国の家族と、互いの暮らしや文化への理解を深めあえるホームパーティはたいへん楽しく、大いに活用したものである。

 それらのことは、「イラク三千キロの旅」のあと、三年間のクウェート滞在記で書くこととしよう。
 ここでは、ボーラスに尋ねられたことへの答えだけ記しておくと、「死後の世界はないと思われます」「日本人は無宗教と見られているようですが、敬虔に神仏に祈る日本人のこころは、キリスト教やイスラム教のような世界宗教の信者のそれと変りはないでしょう」である。
 神はいるのか、いないのか。『ツアラツストラはかく語りき』でのニーチェは、ゾロアスター教の教祖に託して、「神の死」「超人」「権力意思」「永劫回帰」など、彼の哲学的根本思想 を聖典的な文体で述べて、宗教権力者たちに衝撃を与えた。それは西洋近代の歴史的な事件だった。
 敗戦で「神も仏もあるものか」と感じた日本人の虚脱状況の中で読まれたからか、誤訳が多いとされたサルトルの『存在と無』とともに、若い学生たちの情緒的ニヒリズムのバイブルとなった。
「神は死んだ」と書いて、キリスト教との根本的な対立を宣言した彼は、無神論者というよりも、人類社会の歴史的過程で人間が創出してきた神に対置して、超越的存在とでも言うべき絶対の<神>の概念を提示したのであろう。
 ニーチェの虚無思想や仏教の根本思想とされる「空」「無」などを論じあった学究四人の座談記録『実存と虚無と頽廃』(アテネ文庫)を昭和二十八年の大学生協の本屋で求めて(三十円)読んでいた。
 イスラムの世界に生まれたボーラスもユーセフと同じクリスチャンだったが、大学で西洋近代を学んだインテリだからかどうか、聞きはしなかった。
「エデンの園」や「ノアの洪水」の旧約聖書の神話史跡をもち、キリスト教の発祥地に近い地域の人々の大部分がイスラム教徒になったのは、その教えの方が暮らしと風土に合っていたからではなかろうか。
 ボーラスの問いへの返事と宗教観を思い出して私が話すのを聞いていたユーセフは、「私の家系はクリスチャンですが、人格神は信仰の対象として信者のこころに存在しているのだと思います。キリストが己の内に宿した<神>の啓示から、聖書に書かれている言葉を遺し、二千年も受け継がれてきたのです。キリストが<神>でなくても、聖書の言葉の尊さは変わらないでしょう」

 クリスチャンのユーセフが言うことに驚いたが、いかにも技術者らしい<神>の捉え方に共感した。私の宗教観とまったく同じではないか。
 ユーセフはつづけて言った。
「イスラム教の始祖ムハンマドは、己を神ではなく、<神>の言葉を伝える預言者であると自覚していましたから、人格神的な偶像崇拝をきびしく禁止しました。宗教としては、キリスト教より進化しているといえるかもしれませんね」
 そういえば、ボーラスも同じようなことを言っていた。
「チーフ。もうすぐカルバラですよ。クウェートへ戻るとき、ぜひ寄ってみましょう。」

 ここで、イランからの遺体搬送と最初に遭遇したときにユーセフが話してくれた、シーア派とスンニ派の歴史とカルバラの聖廟の由来のあらましを記しておこう。ただ、細部の記憶はすこぶる曖昧なので、桜井啓子さんの『シーア派』(中公新書)を足がかりにさせてもらうとにしよう。
 
 シーア派は、ムハンマドの後継者をめぐる争いをきっかけに生まれた。 後継者(カリフ)をだれにするかで、信者が二派に分裂したのである。
 初代のカリフに合議で選ばれたアブー・バクルが就任してイスラム共同体を統治し、その流れを汲む人たちが、スンニ派と呼ばれ、主流派となった。
 ところが、カリフはムハンマドと血縁にある従弟のアリーでなければならぬとする人たちが現れて、アブー・バクルの後継に就任した二人のカリフをも拒みつづけ、「アリーの党派」と呼ばれた。
 アラビア語では党派を「シーア」ということから、アリーが省略されて「シーア派」となったそうだ。
 預言者ムハンマドは、六一〇年、メッカで啓示を受けてから民衆を導いてきた。

 コーランには、神、預言者、天地創造、天国と地獄など、信仰にかかわる事柄や信徒の宗教的義務についての啓示だけでなく、刑罰、戦利品分配、商売上の契約、結婚・離婚、相続などについての啓示が含まれている。
 ムハンマドはこれら神からの啓示を拠りどころに、イスラム共同体を統治し、メディナにおける宗教的指導者であると同時に、政治的・軍事的指導者でもあったのである。
 それだけに、ムハンマドの死が信徒に与えた衝撃は計り知れないもので、その危機を乗り越えるための後継者選出には、共同体の存続がかかっていた。
 後継者の選出をめぐって信徒が対立した背景には、ムハンマドの生い立ちがかかわっていた。
 名門の生まれだが、父は誕生前に死に、母も幼いときになくした、兄弟姉妹もいない孤児だった。
 結婚したムハンマドは幾人かの子供をえたものの、男系子孫を残せず、育て親の伯父アブー・ターリブの息子アリーだけが彼を慕っていた。
 預言者より三十歳ほど若いアリーは、ムハンマドの妻のハディージャに次ぐ二番目の改宗者であり、ムハンマドと行動を共にした最も忠実なイスラム教徒とされる。
 アリーは、ムハンマドの末娘(唯一人だけ父より長生きした)を妻に迎えて、ハサンとフサイン二人の息子を授かった。ムハンマドの女系子孫である。
              
                         (続く)




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2008/12/12 14:01 2008/12/12 14:01

アラブと私 
イラク3千キロの旅(9)
 
              松 本 文 郎

 バスラでの昼食から、ずいぶん時間がたっていた。
ユーセフに運転を任せ、横で居眠りしながら座っているだけなのに、腹が減ってきた。
 ユーセフはどうかと聞くと、サマーワで仕入れたパイ生地の菓子・クレーチャを食べましょうと言う。

 後部座席から紙袋とペプシコーラをとって、包みを開く。パイ生地が黄金色に焼き上げられた半月の形をしたクレーチャは、とても旨そうだ。
 ユーセフに一つ手渡してから、おもむろにかぶりつく。バターを練りこんだパイ生地に包まれたナツメヤシとクルミの餡がとてもよく合っている。半月の円弧の縁を指で押さえてあるから、外形は中身の盛り上がったジャンボ餃子のようだが、味は月餅に似たところがある。
ユーセフの大好物らしく、慎重に運転しながら、たちまち二つ平らげた。ペプシを渡すとのどをならして飲んでいる。長い運転で疲れたからだに、給水とかエネルギー補給ができたようだ。ヘッドライトの光の前方をしっかり見つめたまま、クレーチャについて話してくれた。

 なんでも、イラク人が旅に出るとき、家の主婦はよくこの菓子を作ってもたせるそうだ。なぜそうなのかはわからないが、ユーセフの母親もそうだったという。「日頃よく食べる家庭の手作り菓子ですから、旅に出て、家族やお袋の味を忘れないでくれということでしょうか。家を離れるたびに、旅行カバンの中にたくさんのクレーチャを詰めてくれたものです」

 パイ生地の菓子は、カバンに衝撃が加えられると形が崩れてしまいがちだろうが、国外へ出稼ぎに行くイラク人の多くが、妻や母親が作ったクレーチャ入りのカバンを運びながら旅しているのだろう。入れ物にいれておけば、十日ぐらいは保つという。
バターに砂糖をたっぷり入れたクルミやナツメヤシの餡で作られているから、菓子とはいえ、食事の代わりになる。サマーワの茶屋で買うのを勧められたのに、「がってん」「がってん」した。

 クレーチャには、ペプシコーラがよく合う。
 当時のクウェートやイラクでは、コーラといえばなぜかペプシだった。コカコーラのような変な色が着いていないので、水代わりによく飲んだ。
 一九六九年に電気通信研究所の基本設計で滞在したテヘランでもペプシだったから、サッダム・フセインがイラン・イラク戦争を始める二十年前までは、どちらの国の若い人たちも、アメリカンスタイルの近代的な暮らしに憧れていたように感じた。
 そのテヘランからシーア派の聖地へ死体を運ぶ車と同じ幹線道路を、いま走っているのだ。
 突然、フロントガラスに大粒の雨が数滴はじけ、たちまち一面が雨粒で覆われた。
「チーフ、雨になりましたね」、とユーセフはすぐにワイパーを動かした。
 
一般的に、アラブの砂漠地帯で雨など降るはずはないと思われているかもしれないが、時には大雨が降るのである。一九七○年七月から滞在しているクウェートでも二、三回の雨を体験していた。

 初めての大雨との遭遇は前年十二月半ばだった。コンサルタント事務所が繁忙を極め、六・三・三の勤務体制(一日十二時間)で、夕食に十キロ離れた家へ帰る途上だった。
 垂れ込めていた厚い雲から突然、猛烈なシャワーが降り注いだ。ワイパーを最速にしても前方がよく見えないほどの強い雨脚だった。

 バケツをひっくり返したような雨は、貧弱な排水溝しかない道路にたちまち溢れ、車軸が水に浸かるほどになった。話に聞いていたが、その凄さは想像を超えていた。
 都市計画のコンサルタントはイギリスだと聞いていたが、ドイツ人だったら、少しはましな排水処理を考えたのではなかろうか。ブレーキが効かなくなるのを心配したが、この種の大雨は局地的な通り雨らしく、しばらく徐行しているうちに水嵩も減り、雨も小止みになって、無事、家までたどり着けた。

  砂漠の一本道の幹線道路はかさ上げされていて路面の雨は路肩下の土に吸われる自然排水だから、ブレーキ板が濡れて効かなくなる恐れはない。だが、急制動によるハイドロプレーン現象の滑動はとても危険なのだ。雨は激しさを増し、行き手に稲妻が走り、雷鳴が聞こえた。砂漠のど真ん中の不思議な土砂降りの中、スピードを落としたユーセフは前方に目を凝らし、無口になった。

 かなり前方を走っていた車のテイルランプが近くなった。また事故かと、身構える。
 減速しても、バグダッドへ急ぐユーセフの運転のスピードが速いのか、見つめていたテイルランプに追いついた目に、タクシーの屋根に積んだ白く長い包みが見えた。
「聖地へ運ぶボディですね」と呟いて、ユーセフは対向車が来ないのを確認してすばやく追い越した。 

 サーフィンボードの大きさの帆布の包みを、激しい雨脚が叩いている。
包みの中身を知ってしまった私に鳥肌が立った。次のテイルランプもすぐ近づいてきた。やはり、包みを積んでおり、しかも二つ重ねられている。
追い越しをかけようとした途端、目がくらむような稲光で辺り一面が真昼の明るさで照らし出され、耳をつんざく雷鳴が轟きわたった。

 エドガー・アラン・ポーの『黒猫』を読んだときに似た戦慄が、体を走りぬけた。
「こんなに立て続けに会うのは私も初めてですよ」 
「いやー、こんな光景を見るなんて思いもしなかったよ。私にとって珍しい死者の弔い方では、イランのゾロアスター教の村で鳥葬の跡地を見学したことがあるけどね」
「ボディ搬送に興味をもたれたようですから、明日にでもカルバラの聖廟で遺体を納めるところを見てもいいですよ」

 建築家としての旺盛な好奇心をもつ私に、精一杯の誠実な案内を心がけてくれるユーセフである。
「うん。それはクウェイトへ戻るときでもいいかな。明日はアハラムに会うのを第一番としようよ」
「分かりました。聖地カルバラはバグダッドの手前ですから帰り道にしましょう。死者を葬るのを見るよりも、アハレムの方がいいに決まっています」
 ユーセフもそうしたかったに違いないと感じた。

 先行するテイルランプはなく、フロントガラスを強く叩いていた雨脚が細まってきた。
 ゾロアスター教といえば、ニーチェが書いた名著『ツアラツストラはかく語りき』を思い出したので、運転するユーセフの眠気覚ましに、人間にとっての宗教の意味や死生観などを話しあおうと思った。

 これら人間普遍のテーマでは、クウェイト郵電省の顧問室で打ち合わせの後のチャイを飲みながら、エジプト人建築家ボーラス氏から死後の世界と日本人の宗教観について尋ねられたことがあった。

 ユーセフもいっしょに打ち合わせに来ていた。



                  (続く)




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2008/11/19 15:59 2008/11/19 15:59

アラブと私 
イラク3千キロの旅(8)
 
              松 本 文 郎

 サマーラの茶屋でチャイを飲んだとき、少し運転を代わろうかと言ってみたが、これから暗くなるとこの道に慣れている私でも危ないくらいですから、とユーセフは真顔で応えた。
 暗くなりはじめた幹線道路をこれから250キロも運転する彼に、気をつけて走るように告げる。
 
 いま思うと、あの時のユーセフとのふたり旅では、助手席で居眠りしている間に見過ごした風景や通り過ぎた町村がかなりあった。
 バスラとサマーワの中間にあったナシリヤ、行く手にあるナジャフなどは、イラク情勢や陸上自衛隊の派遣の報道ではじめて知った地名だ。
 ところで、この連載はワープロで書きはじめたが、掲載紙の編集・印刷はパソコンのワードだと聞き、ソフト変換と送信の便利さから、これまで敬遠していたパソコンを手に入れることにした。

 息子の健、がインターネットでヒューレット・パッカードの安い機種を見つけてくれた。7万円台の値段は国内メーカーに比べて格段に安く、年金暮らしにはうれしかったが、ワードなどのソフトを内蔵していないためと分り、喜びも半減した。
 でも、必要なソフトは買ってインストールすればよく、アメリカ的で合理的な考えであろう。最近、3万円台の“空”のパソコンが、台湾製で出回っているという。重さの1キロはとても魅力だ。
 パソコンを敬遠していた理由は、eメールなどの応対に残日短くなった身の貴重な時間を、パソコンに強制されて費やしたくなかったからである。かのビル・ゲイツが多忙な一日の2,3時間をパソコンの前に拘束されていると知ったからである。

 ケイタイを持たないのも、自分のブログを開設しないのも、他者が寄こしたメッセージに応対せずにはいられない性格の私だからだ。
 デジタル時代に逆らってアナログ人間ぶりを強調するほど頑ではないが、会社人間のころは千2百枚の年賀状の宛名と添え書きを万年筆でやり、いまもまめに手紙を書いている私だ。
 その反面、インターネットの情報検索の便利さには、ただただ驚いている。
 この連載に必要な情報も、あっという間に出てくる。関連事項を次々と追っているうちに、原稿を書き進むのを忘れて夢中になることもしばしばだ。

 インターネットは、世界を変えるにちがいない。
 情報化社会の進展がベルリンの壁やソ連邦崩壊をもたらしたと想うとき、インターネットという道具が人類社会の未来に及ぼす影響には計り知れぬものがあると信じる。
 マイクロソフトの事業で世界一の資産を手にしたビル・ゲイツは、相当額を慈善事業に提供し、自らも世界規模の活動に参画するそうだ。
 彼らは、パソコンの基本ソフトを独占することで巨額の富を築いてきたが、リナックスには、世界の優秀なソフト開発者たちがネット上で協働し、ウインドウズに勝るとも劣らないレベルの基本ソフトを無報酬でつくりあげている。
 グーグルが掲げる理念「パブリック・オープン・フリー」は、商業主義で汚されない限り、人類社会へのすばらしい貢献を果たしてくれるにちがいない。

 ケイタイ人口は世界一、検閲があるものの、国内で生じた事件の非公式な映像がすぐインターネットに流れる中国では、一党独裁の政治権力による情報統制も思うにまかせないだろう。
 ふたりを運ぶトヨペット・クラウンは、暮れなずむ国道を120キロで快調にとばしている。
 長い道のりを運転しつづけているユーセフの横の私も、もう居眠りばかりしているわけにはゆかない。
無事にバグダドに着くために、前方監視の手伝いをしようと目を凝らしたときである。
 100メートルほど先を走っていた車のテール・ランプが点いて急な減速をした。

 それに合わせて徐行し窓から首を出して見ると、渋滞した数台の車列の先に、路肩からすべり落ちた車と人影がある。事故があったらしい。
 渋滞した車は、対向車線の車の合間を計りながら、事故現場を通り過ぎてゆく。
 私たちが現場に近づいてみると、路肩の下に傾いて止まっている2台の車と、路肩に寄せて停まっている数台がいた。落ちた車の屋根に白い帆布で包んだ細長い荷物が載っていた。
 どうやら怪我人はいないようで、人影は、事故の当事者同士と物見高い連中らしい。

 先を急ぐ私たちは、思いがけない安全走行を喚起してくれたハプニングの現場を徐行して通過した。
 運転の居住まいを正したユーセフが、事故の推察を話しはじめる。
 どうやらよくあるタイプの事故のようだ。
 サンドストーム中や暗くなってからの走行では、対向車線をやってくる車のスピードと距離を見定めないと、追い越しのタイミングを失した事故が起き易いという。

 路肩下に滑り落ちていた2台の車の1台がむりな追い越しで、先行車の左側面に接触しながら一緒に路肩をはずしたのだろうと言う。 
 対向車線の車が大型トラックだった可能性はある。
そちらと衝突していたらひとたまりもなかったろう。
バスラ・バグダッド間では、死傷者を伴った事故に
日に一度ならず遭遇したことがあったそうだ。
 ところで、ユーセフが屋根に積んであった荷物に言及したときの私の驚きはふつうではなかった。

 あれは、イランから運んできた死体なのだと言う。 
 イスラム教徒が一生に一度、メジナ・メッカへの巡礼を生き甲斐にしているのは、よく知られている。 それに似て、敬虔な信者が自分の死体を、希望するモスクへ運ぶよう遺言するのも少なくないのだ。
 イランを朝発ったタクシーや親族の車の何台かにこの先で追いつくかも知れませんよ、とユーセフは
さりげない語調で私の好奇心を刺激した。
 辺りはもうすっかり暗くなって、私たちの視野には、先行車のテールランプが遠ざかったり、対向車のヘッドライトが近づいてくるだけだ。
 あの死体は、カルバラのイマームの墓廟に運ばれるのでしょう、とユーセフがつぶやく。

 カルバラにあるイマーム(預言者ムハマンドの血筋のアリーとその子孫)の墓廟は、シーア派教徒にとっての聖地で信者のための巨大な墓地がある。聖地での埋葬を遺言された家族は、イランから千キロを超す道のりをものともせず死体を搬送するという。
 クリスチャンのユーセフが、イスラム教2大宗派シーア派・スンニ派の歴史と聖地カルバラの墓廟の由来を話してくれた。
 ちなみに、スンニ派出身のサッダム・フセインは、イラン・イラク戦争では米国の支援を受けたのに、ブッシュ大統領が前のめりで始めたイラク戦争ではあっけなく抹殺された。

 世界のイスラム教徒の人口の約90%はスンニ派だが、イラン、イラク、レバノンではシーア派が多数派。16世紀当初にシーア派を国教としたイランでは、国民の圧倒的多数がシーア派である。
 1979年のイラン・イスラム共和国の成立から、米国の「シーア派脅威論」が始まった。              


(続く)








2008/10/14 16:08 2008/10/14 16:08

アラブとアラブと私  
イラク3千キロの旅(7)
 
              松 本 文 郎

    
 バスラとバグダッドを結ぶ国道は、大型トラック2台と普通車1台が並ぶほどの道幅。イギリス中東支配の足跡のひとつと思われる右側通行である。
 道の真ん中に上下車線の区分ラインが塗装されているが、はげしい日射し、サンド・ストームによるブラスト、重量トラックの轍などで磨耗する上に、路面が砂に覆われることも多く、ただの幅広い一本道に見える。
 荒漠とした砂漠に定規で引いたように何十キロもつづく幹線道路は、普段の見通はよくても、サンド・ストームのときは30メートル先が見えず、濃霧の中でつかうフォッグランプを点けて徐行しなければ、対向車両との衝突や路肩からの転落の恐れがある。
 クウェートでの仕事で、砂漠に点在する各種通信施設の工事現場の行き来に、対向車線に突然ぬっと巨大トレーラーの前部が現れて、はっとしたことも再三あった。
 高速のトレーラーとすれ違うときは、走行車線の右に寄るかスピードを落とし、吸い寄せられるのを避けるノウハウも身につけた。
 事故を起こしたトラックや乗用車の赤茶けた残骸が路肩近くに放置されているのを、あちこちで見かける。クウェートの若者が大型高級車を200キロで飛ばしていて、路上のラクダに衝突した話を聞いたが、4本の脚は水平に切断され、車の上に乗った重い胴体で車が押しつぶされたそうだ。

 ガソリン代が只同然の石油に浮かぶ国の金持ちの息子らの遊びに幹線道路でのスピードレースがある。高度成長期の日本の湘南ボーイに見られたライフスタイルか。
 また、最新型のベンツの灰皿がいっぱいになると車を買い替えるというまことしやかな話もある。親のあり余る金の使い方を知らないようにみえる若者を揶揄する出稼ぎ外国人の僻みから生まれたツクリ話であろう。
 暴走族は別として、普通のドライバーは、遊牧民のラクダや羊の群が道路を渡っているのに出会うと通過するまで待つのが慣わしになっている。
 こちらは、砂漠の遊牧民の暮らしと車社会の進行が折り合いをつけている風情だ。

 調子のいいアラブ音楽を聴きながら、高速で走る車の振動に揺られているうちに、いつの間にか居眠りをしたようだ。時計を見ると1時間ばかり経っている。
「眠っちゃったね。運転代わろうか」
「いえ、大丈夫ですから、眠っててください」
 眠っていた間に終ったカセットテープを取りだしてラジオに切り替え、ユーセフの好きな音楽番組を探すように言うと、ベイルートのモダンな楽曲とは対照的でローカルな味わいのあるイラクの音楽が流れた。
「明日バグダッドで、こんな感じのカセットを2、3本買いたいね。ところで、アハラムには連絡とれるのかい?」
「ええ、電話番号を知っていますから、明日の朝、掛けてみます。家はバグダッドの郊外らしいです。住所をきいておきます」
 アハラムがクウェートを去ってから7ケ月。突然のユーセフからの電話におどろくだろうな。 
 それにしても、アハラムは一体何者なんだろう、と考えあぐねている私がバグダッドへの道を走っている。
 また会えるといいねと軽いノリで言ったときに頷いて微笑んだアハラムは、とても魅惑的だった。 
 彼女には、36歳の私がいくつに見えただろうか。アラブに長く滞在している日本人男性に、子供っぽく見られたくないと、髭を生やす人たちもいた。
 ホテルへ毎朝私を迎えにくるイラク人技術者のユーセフが「チーフ」と呼んで丁重に応対しているのが日本人建築家と知って、アハラムが特別な関心を抱いたとは、とうてい思えない。
 ツタンカーメンの王妃に似ていると、少年じみた淡い憧れを感じていただけなのに、彼女との再会が現実になろうとしている今、妙にドギマギしている自分が可笑しかった。
 ユーセフは、前方を見つめたまま120キロ前後で運転をつづけている。

 アハラムが、バグダッドの実家の電話番号を彼に教えたのは、私と再会する可能性を考えてのことではなく、イケメンのユーセフにこそ関心があったのではなかろうか。
 ひょっとして、ユーセフはバグダッドのアハラムとなんども電話していたのかもしれない。
 そのことを聞いてみたくもあるが、下衆の勘ぐりで、アハラムのイメージとユーセフとの信頼関係を損ないたくはないので、やめにした。
「そろそろサマーワです。店でゆっくり食べる時間はありませんから、なにか食べ物と飲み物を手に入れましょう」
 夕空に垂れこめる厚い雲の下に、幹線道路から町へつながる道が見えてきた。
 町の入り口に並ぶ店先に点る灯りが、人気のない長い道のりをやってきてオアシスにたどりついた旅人を想い起こさせた。
 バスラを発った昼過ぎとちがい、大型トレーラー
と行き違うのもまれで、ときに速度を落とすことはあったものの、順調な走りでここまで来た。
 アラビアコーヒーを飲ませる茶屋があったので、チャイを注文してからトイレをかりた。菓子類を並べた陳列ケースに、旨そうなクッキーのような菓子(クレーチャといい、ナツメヤシの餡、ココナツ、クルミなどをパイ生地で包んで焼いたもの)があり、ユーセフのすすめで6、7個買う。ペプシコーラのボトルも水代わりに仕入れ、サマーワを後にした。

 
 通りすがりに過ぎなかったサマーワが、30数年の後に日本国憲法第九条にかかわる騒ぎになるとは、知るよしもなかったのである。
 バグダッドの南東250キロにあるユーフラテス河畔のサマーワはムサンナ州の州都。シーア派イスラム教徒の住民は、国連の経済制裁下のフセイン政権により見捨てられていたとされる。
 2003年3月、英米中心で強行された対イラク軍事攻撃でフセイン政権が崩壊し、5月から占領が開始され、翌年2月、日本国内で論議を呼んだ末、小泉首相の判断で自衛隊のサマーワ駐留が始まった。
 グーグルの「知恵蔵の解説」(高橋和夫・放送大学助教授)によると、 550人の陸上自衛隊員がサマーワ郊外に設営した宿営地に駐留して、給水、道路・学校の復旧などの人道支援活動に従事した。自衛隊活動により経済状況の急速な改善に向かうとの期待があり、住民の大半は歓迎したが次第に失望感が広がったという。

 宿営地に迫撃砲弾が向けられたり、自衛隊の車が通る道路わきで爆発するなどがあったが、死傷者は出なかった。その後、ブッシュ政権が主導した軍事攻撃の根拠である大量破壊兵器の存在が否定され、イラク占領の正当性が怪しくなるなかで、日本政府は、2006年6月に陸上自衛隊の撤退を決定し、7月、サマーワからの撤退が完了した。 
      


(続く)






2008/10/14 15:29 2008/10/14 15:29

アラブと私 
イラク3千キロの旅(6)
                                              松 本 文 郎

  バスラの食堂のうまいカバーブで腹ごしらえをして、いよいよバグダッドへ向かおうとしていると、この拙文を読んでくださっている方々の一人、田代穣次さん(情報通信国際交流会主宰)から手紙が届いた。
 興味深い内容なので手短に紹介しておきたい。
 氏の文面をそのまま転記すると、「……歴史・文化や現状などを交えてあって面白く、アハラムはどうなるのかと期待が膨らみます。気象学の歴史に『ヤンガードリアス・イベント』という一万年前に起きた事件があります。この結果起きた極寒・乾燥で肥沃な三日月地帯に農業が起こります。八千年前に同様な事件が起きます。「ミニ氷河時代」ですが、このとき地中海の海水が上昇し、マルマラ海よりも下方にあったエウクイセイノス湖が氾濫して黒海が形成されました。この時の大洪水が人々の記憶に残った、という説もあります。若いときに中東を歩いた松本さんが羨ましくなります。…」
 電気通信技術専攻で博学な田代さんにシュメル神話より3千年も前の地球気候変動の知見を教えられた私は、黒海とトルコ・イラクの位置関係を地図で眺めながら、「ノアの箱舟」の神話の由来にいっそう興味をかきたてられた。
 だが、もうバグダッドヘ向かわねばならない。

 左ハンドルのトヨペット・クラウンの運転席に座り、ユーセフが言った。
「バグダッドまでひたすら走りましょう。夜中になるかもしれませんからね」
 ユーフラテスに沿って北上する道筋に、ナシリア、サマワ、ナジャフ、ヒッラ、カルバラなどがあるが、なんとしてもバグダッドヘたどりつきたい。
 運転の上手いユーセフだが、疲れたら交代しよう。後部座席の両脇に置いたソニーの小型スピーカーにつないだテープ再生機を助手席の横に置き、アラブ音楽のカセットをかけて出発した。
 クウェートに来て半年の間に手に入れたレバノン、エジプトの歌謡曲がすっかり気に入った私は、車中のBGMにしようと、十本ばかりを持ってきたのだ。

 バスラの街を出てバグダッドへの国道を走りながら、レバノンの流行歌の調子のいいリズムで腰をゆらしていたユーセフが、「バグダッドでイラク音楽テープを探しましょう」と、楽しそうに言った。
 一口にアラブ音楽といっても、中東を中心にアフリカからカスピ海周辺までのアラビア語を話す国・民族の音楽のことだ。シリア、イラク、レバノン、エジプト、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、イエメンなどで、クウェートの音楽店にはレバノンとエジプトのものが多いようだった。

 当時はLPレコードの方がカセットテープよりもコンテンツが豊富だったが、小型カセット・デッキと対のスピーカーのセットを日本から運んでいたので、主にカセットを買っていた。
 レバノンものが多いのは、中東のスイスといわれ風光明媚だったレバノン・ベイルートが最も西洋化がすすんでいて、音楽ジャンルでも欧米の影響が色濃く、しゃれたアレンジや演奏がクウェートの若者らにうけていたのだろう。
 エジプトものでは民族色の強い古謡やローカルな歌音楽が多く見られ、出稼ぎの人たちのなぐさめになっていたようだ。          
 昨晩楽しんだベリーダンス音楽に、イスラム成立後の王国の栄光のなかで洗練され、さらにスペインで培われたアラブ・アンダルシア音楽の流れを感じていた。
 このアラブ音楽を継承し、さらに発展させたのはアラブ圏に版図をひろげたオスマントルコの宮廷だといわれている。
 やはり、スルタンのハーレムとベリーダンスには因縁浅からぬものがあるようだ。

 時折、カセットを交換しながら車窓を流れる農地の風景を眺めていた。このあたりはユーフラテスの流域に近いのかと思っていると、「川に来ましたよ」と、ユーセフが前方を指差した。堤防と橋が近づいてきた。
 ユーセフに車を停めてもらい、三日月地帯の西側をふちどるユーフラテスを撮ろうとカメラを構えた、そのときである。 
 橋のたもとから現れた人影が私たちの方へ走ってくるのが見えた。
「チーフ、まずい! 警備兵がやってきます。橋は軍事拠点なので写真を撮ってはいけないのです」
 私はとっさに、戦争中の夏休みに体験したことを思い出した。
 鉄道管理局に勤めていた父と暮らしていた広島から父母の故郷福山へ呉線経由で行ったとき、軍需工場の呉造船所にさしかかると、窓のブラインドを下ろすようにとの車内放送があった。すでに太平洋戦争が始まっていた。写真を撮るどころか、窓の外を見るのさえ禁止されていたのだ。

 余談だが、NTT民営化の立役者真藤恒は、戦艦大和を建造した石川島播磨造船から、秘書一人だけを連れて電電公社へやってきて偉業を成し遂げた。
「もし、フィルムを渡せといわれたら、すぐ従ってください。私が話をしますから、チーフは黙っていてください」思いがけないユーセフの緊張した表情に驚き、黙ってうなずいた。
 銃を肩にかけた若い兵士が車に走り寄ってきて、ユーセフと言葉を交わしている間に、私はカメラからフィルムを取り出した。
「日本の建築家がイラクの遺跡を見にきたと言ったのです。フィルムさえ渡せばいいが、これから先は注意するようにとのことです」
 少年の面差しの実直そうな兵士にフィルムを渡しながら私は、「シュクラン・ヤーニ」と言った。
「ありがとう」とは少しおかしな挨拶だが、兵士は笑いながら車を離れ、橋のたもとへ戻って行った。
 第二次世界大戦の映画で橋の確保をめぐる攻防戦がよく出てくるが、共和国として独立して間もないイラクの国土防衛の一面を見た思いがした。

 バース党政権成立から二年余りだったが、八年後に大統領に就任したサッダム・フセインがイラクの惨状の張本人になるとは、大方のイラク人は予想していなかったのではないか。
 ナチス・ドイツと戦っていたソ連軍への物資輸送の車列が渡ったかもしれない橋の写真を奪われたのは仕方ないとしても、ベリーダンスのスナップ数枚には未練が残った。クウェートでは、王宮の儀仗兵しか見たことのない私が、のんびり気分のままでイラクへやってきて浴びた最初の冷水だった。

 思えば、ユーフラテスはノアの箱舟の由来にとどまらず、メソポタミア成立、バビロニアがペルシャに敗れて以降の、アレキサンダーのペルシャ征服、アラブ・イスラム教徒のバグダッド攻略と商業・文化による世界の中心地化、モンゴルの侵入、オスマン・トルコによる奪回、第一次世界大戦のトルコ敗退など、様々な民族の侵入と敗退の繰り返しを見てきたのだ。
 気分転換に、ベリーダンス音楽のカセットをかけて、ユーフラテス沿いの道をひた走った。    
                                  (続く)

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2008/10/14 15:03 2008/10/14 15:03

アラブと私 
イラク3千キロの旅(5)
              松 本 文 郎

 
 ナツメヤシの葉陰のテーブルで、ユーセフに聞いた話のあらましは、こうだ。
 バグダッド工科大学の授業で学んだ土木技術史の本に、旧約聖書より2千年も前に楔形文字で書かれた天地創造と大洪水の神話があった。
 二つの神話のあら筋からみて、これは、旧約聖書の「創世記」の元といえるのではないかと思ったという彼の話に引き込まれた。
 シュメル人は、5千年前に、ティグリス・ユーフラテスの河口地帯に住み、両川の水を利用した灌漑農耕と家畜の飼育で暮らした民だが、民族・言語学的な系統は不明で、ユーセフの祖先とはかぎらない。
 だが、彼らは人類始めての文字を創出し、湿地に生える葦の茎を尖らしたペンで粘土板に楔形文字を書き、天日で乾かして記録とした古代文明の草分けだから、ユーセフにとっての「シュメル神話」は、私にとっての『古事記』にあたるのではないか。

 古代オリエント学の泰斗、三笠宮崇仁著『文明のあけぼの』にも、旧約聖書の「ノアの洪水・箱舟」の記述が一貫した筋書きになっていないのは、千年にわたって書き継がれた「創世記」に、シュメルの洪水神話など複数の古い伝説を取り込まれたからだと書かれている。
 同著に、紀元前3千年にシュメル人が記した大洪水の物語が、その後メソポタミアに侵入した諸民族に受け継がれ、前2千年紀前半の古バビロニア時代の『ギルガメシュ叙事詩』にも書かれていることが記されている。
 それは、ユーフラテス川岸のシュルッパクという古い町に住んでいた神々が洪水を起こそうと考えつく
話で、旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語に発展したらしい。 

 シュメル人の天地創造神話には、「原始の海」から天と地が分けられ、その中間に生じた大気から、月、日、星が生じたとあり、別の神話に、アン(天神)、エンリル(大気神)、エンキ(水神)、ニンフルサグ(豊饒の女神)が、人間を創造し、草木やけものをつくりだしたとある。
 余談ながらここで気づくのは、旧約聖書では唯一の神が、2千年前には複数の神々だったことである。ユダヤ教が成立する以前の各民族の宗教が多神教だったことは定説になっている。

 これらの大洪水神話が、人間ほかのさまざまな動植物をつくったものの、人間がふえるにつれて悪いことばかりするようになったのを神々が怒り、創造物の一切を地上からぬぐい去ろうとした点は共通している。
 ただ、旧約聖書では正義の人ノアだけは助けようと、彼と3人の子の3夫婦、あらゆる種類の生物のつがいを3階建ての箱舟にのせたが、シュメル神話の舟は7階建てになっているそうだ。

 この箱舟が漂着した「アララト山」の場所については論議があるようだが、洪水の跡がウルの考古学的な発掘調査で見つかり、前記シュルッパクやキシュという町が大洪水に襲われたことも判ったのは、画期的な発見だった。
 ユーフラテスが運んだ数米の粘土層の下に、石器や遂石や土器が多数まじる堆積物の層が見つかったのだ。
 バグダッド郊外で灌漑施設の掘削工事監督をしていたとき、深さ6米の水路の底から出た土器が実家にあるから、イラクの旅の記念として、私に進呈すると言うユーセフ。

 数日後、バグダッドの博物館で同種の壷を見ると、なんと、紀元前2千5百年前とあった。
 今、わが家の「廊下ギャラリー」に設けた旅の思い出を並べた陳列ケースに鎮座している。

 
 さて、ウル周辺の広大な湿原の環境悪化と「ノアの箱舟」との関係に戻ろう。
 『ギルガメッシュ叙事詩』の洪水神話にある大洪水の証拠は、考古学的発掘調査だけではなく、文献上でも発見されたのである。
 シュメル人の各時代の都市国家群で最も強力な王のことを書いた年代記である『シュメル王朝表』
に、「ノアの箱舟」のような大洪水の記録があったのである。
 バグダッドは、5千年前から1950年代までの毎年、ティグリスの洪水に悩まされてきたという。
 でも、1958年の共和政革命以降のダム、運河、人工湖などの治水工事の成果で、洪水はなくなったのです、とユーセフは自慢顔で告げた。

 ティグリス・ユーフラテスの洪水は、アルメニア地方の高山の雪解け水によるもので、メソポタミア北部では4月、南部では5月の麦の取り入れ時期だから、収穫の皆無、集落の全滅もたびたびだったという。
 シュメル人の洪水神話には、その不安が象徴されているそうだ。
 だが、上流の治水工事は他方、バスラ周辺に届く水量を減らし湿原の環境悪化をもたらした。

 また、湾岸戦争のときのサッダム・フセインが、湿原に隠れているシーア派ゲリラの掃討作戦で流水を止めたことが、湿原の縮小をいっそう促進させたという。
 2008年6月現在、バスラ西方にある国内難民キャンプでは、水不足と排泄物堆積による生活環境の悪化と疫病続発が報じられている。
 キャンプにいる2人の医師では日に百人の病人しか診られない惨状だ。2003年のフセイン政権崩壊までは、アラブで最も医療レベルが高かった国だったのだが、内戦で身の危険を感じた医師の大半が国外へ出たと報じられている。

 人類文明の歴史は、戦争と自然破壊の連鎖の一面もあるが、3千万種の一つである人間もふくむ生物種の生存を脅かし、「種」絶滅の危機さえもたらしつつある人類社会の今を、人智で乗り越えるしかない。

 
 イラクの旅から37年を経た今、つぎつぎに伝えられるバスラの状況に、ユーセフがどこでどうしているだろうかと想いながら、ついあれこれと書き連ねてしまった。
 もう、ユーセフとの語らいで始まった「シュメル神話」を閉じ、バグダッドに向わなくてはならぬ。
 シンドバッド島から街にもどり、早めの昼めしにしようとユーセフが車を停めたのは、地元の人たちが出入りする食堂の店先だった。
 クウェートでよく行く店よりかなり鄙びていて、カバーブを焼く長い鉄箱が歩道に面してあり、横に置いた扇風機で風を送っている。炭火に落ちた肉汁の焼ける匂いと煙が道に流れている。
 日本の焼き鳥や蒲焼の店先に似て、食欲をそそる。

 クウェートでは、薄く輪切りにした羊肉を何十枚も重ねて直立した金串にさして炙り、ナイフでそぎ落とした肉片を、ホブズ(丸く平らなパンで、私たちは「座布団」と呼んでいた)に乗せて食べることが多かったので、ふたりともカバーブをえらんだ。
 羊か牛のひき肉にパセリとタマネギのみじん切りを練りこんだものを、串に巻きつけて二度焼きして、 ホブズを敷いた皿に載せて出される。

 羊はアラブの人たちの大好物で、日本のマトンのような臭みはなく、柔らかくてうまい。
               
                    (続く) 






2008/10/14 14:54 2008/10/14 14:54

アラブと私
イラク3千キロの旅(4)

              松 本 文 郎

 ベリーダンスから娼婦、あげくに、「ウルヴィーのビーナス」のモデルの話にまで、道草してしまった。
 小田 実の流儀をなぞるにしても、あまりに度が過ぎてはと、「イラク三千キロの旅」に戻ろうとしていた矢先に、バスラのシーア派同士の内戦が報道され、つい書きくわえてしまった。
 その気持ちは、この紀行文が私の自分史の一環になるといっても、当時の自分を懐かしむだけにとどまっては、読者の関心を引かないと思うもの。
 アラブ滞在記の最初の章をイラクの旅から始めたのも、40余年前のイラクから想像もできなかった今を並列に書くことで、私にとってのイラクと友人たちへの想いを伝えたいからだ。
 モスルどころかバグダッドにいつたどり着くのかと思われても、こんな調子で旅をつづけてみたい。
 
 バスラの街の中心を流れるシャト・アル・アラブ
河は、70キロ北でチグリス・ユーフラテスが合流した下流の呼称で、合流点のクルナという小さな町は、旧約聖書のエデンの園があったとされる場所。
 ギリシャ語で食堂を「タベルナ」というが、まさか、エデンの園は今危ないところだから「クルナ」、ではなかろう。
 河堤に大きな林檎の木が立ち、その下に当時の木の化石といわれる幹が横たわっている。
 立札にアラビア語と英語で、「われわれの父アダムが「地上の楽園」を象徴して、チグリス・ユーフラテスの流れが出会うこの聖なる地に聖樹を植えた」とある。
 ユーセフに、「イスラム教徒の多いイラクなのに、アダムをわれわれの父というのかね」と冷やかすと、「キリスト教もイスラム教も根は一緒ですからね」と、クリスチャンはウインクした。
 立札の下方に、「紀元前2千年、ここでイスラエル民族の先祖アブラハムが祈った」とも書かれている。

 人類が最初に言葉をもったのは7万5千年前というが、考古学の発達で、神話の世界も次第に色褪せてくるのは、少々さみしい気もする。
 シャト・アル・アラブは、バスラからアラビア湾のファオ港までの百キロをゆったりと流れ下る。
 川幅は2、3百米で、水深は中央で13米という。
1万トン級の外洋船がバスラの港まで遡上できるように浚渫したとユーセフが教えてくれた。さすが、
土木技術者だけのことはある。ただ、アラビア湾の影響で最大で2米の干満の差が生じるという。
 両岸に林立するナツメヤシが落とす緑の影が川面にゆれる風景は、印象派の絵そのものだ。
 堤防の下を走る車から、ナツメヤシの並木の間をすべるように行く大型船を見ると、まるで陸の上を動いているようだ。

 バスラ港の歴史は、イギリスが中東への影響力を保ち、イラク支配を強め、アングロ・ペルシャ石油会社を支えるために機能的な埠頭と荷揚施設を建設したことに始まる。 
 第二次世界大戦が終るまでに、近代的なドックやクレーン設備が整備され、シャト・アル・アラブの浚渫とともに、港湾の規模・機能が拡充されてきた。
 かって、大英帝国が中東に注いだ軍事的、政治的戦略エネルギーのものすごさを思い知る。
 ロレンスが夢想した、アラブ民族の列強支配からの脱却と自立は、生易しいものではなかった。
 川岸のあちこちに釣竿を手にした人たちがいて、
そののんびりかげんは、なぜか、敗戦後の少年の頃に疎開先の田舎で経験したものだ。

 ユーセフが釣り人に聞くと、ナマズ、フナ、コイ、ハヤ、チヌが釣れるようだ。アラビア湾の遠浅の海でキスやチヌを釣るのが、クウェートの休日の楽しみになっていた私だが、先の長い旅ではそれもできない。
 もうひとつ、シャト・アル・アラブで触れておきたいのは、シンドバッド島と呼ばれる中洲のこと。
 なんとここは、アラビアンナイトのシンドバッドが航海に出発したところだそうだ。

 シンドバッドの大冒険と比べるのはおこがましいが、これから未知の国イラク三千キロの旅が始まるバスラに、思いもしなかった神話や物語の場所があることを知り、この国への好奇心が倍加した。
 この中洲全体が公園になっていて、レストランもあり、ナツメヤシの葉陰のテーブルに陣取って、ビールでのどを潤した。
ユーセフは、車の運転があるのとアルベヤティの
ように酒好きでないので、生オレンジ・ジュースをジョッキで飲んでいる。

 今3月のクウェートなどこの地域の気候は、灼熱前のしのぎやすい季節で、日本では5月中旬のような風が、かるく汗ばんだ肌に心地よい。
 辺りを見回すと、公園のあちこちで庭師や掃除夫らが働いており、水が撒かれた花壇や芝生の鮮やかな色が目にしみる。ナツメヤシの林が囲む園内に、ブーゲンビリアやバラなどの花々がよく手入れされている。
 イラクの旅のあとに待つクウェートの過酷な仕事と厳しい気候を想うと、旅の最初の地バスラの街に「エデンの園」があったという故事が面白かった。

「エデン」はヘブライ語で歓喜の意だが、旧約聖書の「創世記」に、神がつくった人間のアダムとイヴが禁断の木の実を食べて追放された園とある。
 この木の実は人間が手にした「知恵」とされるが、人類社会の歴史が、他の生き物には見られない愛憎や善悪、戦争と平和などの光と影で織なされていることをみると、人間の知恵とはなにかを考えるのに、なかなか含蓄のある説話だと思う。
 ただ、旧約聖書を神話の一つとみる私は、人類が知恵に秀でた頭脳をもったのは、神の掟を破ったからではなく、進化の過程での突然変異の結果だとする方をとる。

「エデンの園」があったとされるバスラで、イラク人シーア派同士の内戦状況をみるにつけても、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が神の掟とする殺戮や報復の禁止を、それぞれの信奉者がどのように受けとめているのかと問いたくなる。 
 知恵を得て「エデンの園」を追放されたとする人類は、しばしば混迷の極に直面してきたが、神の手を借りずに、その知恵で克服できるかどうか。
 いまも、人類に課せられている宿題であろう。

 私が子供や孫への遺言としたい『私的人間探求』の著述は、そんな想いから着手したばかりだ。 
 建築家の私は、人間居住環境としての都市と自然、古今東西の都市の興亡、産業革命に発する工業社会の自然環境の汚染・破壊などに関心をもちつづけてきた。
 バスラに近いウルは、古代文明のさきがけの都市国家があったところで、旧約聖書に「カルディアのウル」とあり、アブラハムの故郷とされる。

 ウル周辺は広大な湿原をふくむ水郷で、農業生産の豊かな恵みがウル王朝の繁栄を支えた。大学の西洋建築史の講義で学んだシュメル王朝のジグラットは、エジプトのピラミッドに劣らず壮大な建造物である。
 ところが、5千年にわたり人間と多くの生物種に恵みを与えてきたこの一帯の環境悪化が報じられている。
 旧約聖書の「ノアの洪水」と関係があるらしい。

                   (続く)




Noah's Ark from Wikimedia Commons




2008/10/14 14:41 2008/10/14 14:41

アラブと私 
イラク3千キロの旅(3)
 
              松 本 文 郎
    

「アラブと私」の連載も3回目となった。
 同じ団地に住む「日本ジャーナリスト会議」・広告支部の機関誌にたずさわる矢野英典さんに誘われて書き始めたエッセイである。
 いずれはと考えていた1970年からの4年間を仕事で滞在したアラブへの想いを書きとめる、よい機会を与えられたと感謝している。
 単身時の休暇のイラク旅行、家族をクウェートに呼び寄せてからの仕事と生活、エジプト旅行などの紀行文・滞在記が、30歳代後半の自分史の一環になればと願っている。
 1回目で書いたが、小田実の『何でも見てやろう』に触発された私は、彼の旅のスタイルだけでなく、文章の方法と文体も意識して、このエッセイを書いてみたいと思う。
 その流儀に従って、当時の旅や仕事・生活を辿りながら、73歳の今の私が感じ、考えていることへの道草もしてみたいのである。 

 
 ところで、交渉次第でダンサーをホテルに呼べると教えた独り者のユーセフが、その夜どうしたかは知らない、と前回の末尾に書いた。
 ベリーダンサーがみんな、客と一夜を共にすると思うのは早とちりの謗りを免れないが、エジプトではダンサーだけでなく、映画女優にもそんな風なのがいると聞いていたので、芸能界はどこも、男女の関係が「ユルイ」のかと思う。
 男どもが狙う女たちといえば、石油が出る以前のクウェートで、天然真珠採りの漁師らが通う岡場所があったそうで、古今東西、男のいるところには、遊女や娼婦が欠かせないかにみえる。
 最近では、ハンブルグの飾り窓のような公娼窟がある国は少ないものの、あの手この手でこの種の商売をしているのはどこの国も同じだろう。 

 私が大学に入った頃に公娼が禁止された日本は、いまでは、六本木の成金目当ての高級娼婦、東大出のコールガール、援助交際という名の少女買春など、なんでもありでセックス産業が盛んな国だ。
 ついでに言えば、娼館の女あるじが舞台回し役の映画「風と共に去りぬ」「エデンの東」のアメリカでは、大統領が女子大生に性的サービスをさせたり、有名な上院議員総務が、ばか高い料金のコールガールとホテルで過ごしたのが露見して、世界中に報道されたりしている。
「女(男)は金で買える」と言って憚らない人間が少なくない現代社会の性の営みの行く手に、どんな姿があるのだろう。
 妻を「ただでできる」女としか見なかった夫が、「元気で留守がいい」とされたあげくの定年退職で、江戸時代とは逆に妻から三下り半を突きつけられてびっくり仰天するのは「昼ドラ」だけじゃない。
 一方、美しい肢体で踊りの上手いダンサーや美人女優と「ご一緒したい」と願うのは、美人妻に逃げられて四半世紀も独身の矢野さんならずとも、大方の男達の願望ではなかろうか。

 かの『千夜一夜物語』に男のロマンをかき立てられるのも、美しい女性を独り占めする権力者のようになりたいと夢みるからだろう。
 寄り道ついでに言うと、上野の国立西洋美術館で開かれている「ウルヴィーノのヴィーナス」展に、西洋絵画屈指の名作であるティツィアーノのヴィーナス像が展示されている。
 このモデルは、ベニスの高級娼婦の一人だったといわれ、ルネッサンス時代、フィレンチェと同様に栄えたベネチアでは、人口11万人に1万1千人の娼婦がいたそうだ。
 上記のヴィーナス像やウフィッツィ美術館の至宝「メディチ家のアフロディテ」は、理想の女性裸像を見る喜びと美意識を発達させたと言われている。
 中学生のころに、百科辞典でポッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」を見て興奮したのも懐かしい思い出だ。

 
 バスラに戻ろう。
 イラク戦争開戦から5年目を迎えたバスラは今、シーア派の反米強行派の指導者サドル師への根強い支持がある地。3月末には、バスラの大油田地帯の利権を巡ってシーア派同士がしのぎを削り、マリク首相率いる治安部隊とサドル師傘下の民兵組織マフディ軍の激しい戦闘で多数の死者が出たばかり。
 10月に地方選挙を控える事情で、突然、バスラでの民兵掃討作戦に乗り込んだマリク首相は、治安部隊の能力の限界を知らされたようだ。
 掃討作戦には米兵も加わっているが、バグダッドを占領した当時の米国が予想もしなかった、イラク人同士の内戦拡大のおそれが生じたのである。
 ブッシュ政権の性急な軍事介入で、サッダム・フセインが強権で閉じ込めていた民族・宗教的問題のパンドラの箱が開いてしまったのだ。
 シーア派、スンニー派、クルド人らの三つ巴の争いの行く手に、ベトナム戦争末期の様相が見える。

 バスラの歴史には、数々の戦争や紛争が暗い影をおとしている。中世から近世にかけてのオスマン・トルコによる支配、トルコとイランの紛争、第一次世界大戦時のトルコの敗北とイギリスの保護下でのイラク王政府の設立、第二次大戦下でナチスドイツ側についたイラクをイギリスが短期占領したなどである。  
 ナチスと戦っていたソ連への援助物資の輸送が英米共同で行われたのもバスラ経由だった。

 今回の自衛隊派遣以前の日本とイラクのかかわりには、欧米列強のようなキナくさいものはなくて、日露戦争でロシア帝国に勝利したことや太平洋戦争で敗れたあとの奇跡的な復興と驚異の経済発展などが、ユーセフらには好感されているようだ。
                   (続く)







2008/07/03 17:15 2008/07/03 17:15

アラブと私
イラク3千キロの旅(2)

              松 本 文 郎

 バスラの国境検問所には、トレーラートラックの車列が、国境通過の検問を待っていた。
 クウェートで日常消費される生鮮食品は、一部が自国産のほかは、イラクとその近隣諸国の産品で、この検問所は食料供給の生命線的な幹線道路の国境出入口なのである。
 でも魚は、アラビア湾で思いのほか豊かな漁獲があり、瀬戸内生まれで魚好きの私は大いに助かった。 ユーセフの検問係官への丁寧な応答ですんなりと入国できて、イラク第二の都市バスラの街の中へ車を進めた。

 あのころのバスラは、クウェート在住の独身日本人男性にとっては息抜きの場所で、クラブで酒を飲んでベリーダンスを楽しみ、交渉次第でダンサーと一夜を共にすることができる、いわば、熱砂の国で過酷な仕事をする者たちのオアシスだった。

 在住の日本人は百人前後。中核は商社マン家族、アラビア石油関係者、各種コンサルタント事務所や大手ゼネコンの駐在員、大使夫妻と大使館員などだった。
 懐に余裕のない2人の旅だから、ユーセフには、安いホテルを探すように頼んでいた。
 彼は、一緒にクウェートにやってきた妹と住んでいる独身のクリスチャンでだが大学を出た知識階級のイラク人にはキリスト教徒が少なくない。

 よさそうなホテルはどこも満室で、やっと見つけた2室はお世辞にもきれいと言えなかったが、我慢するしかない。
 クウェートの上流階級で才能のある連中は、外国へ出かけて、ビジネスや遊興などを自由自在にしていたから、バスラだけがオアシスではなかった。  容易に行けるバスラやバグダッドのクラブで遊ぶ男たちもいたが、日頃はクウェートのホテルに売春目的で滞在している近隣やヨーロッパ諸国の若い女性たちと交渉するほうが多かったようだ。
 この旅から2年後、衛星通信アンテナ施設所長に任命されたサビーハの別邸に招かれたことがあった。アメリカ留学から帰国したばかりの王族の若者だ。 彼がアンテナ施設の工事中に現場視察にきた折、いつも気楽にジョークを飛ばし合った私を、日本人にしては面白い奴と親しく感じてくれたのだろう。 親と住む本宅とは別の場所でのパーティは、米国で学んだときの金持ちの学友に招かれたパーティの真似か、世界的に流行していたサイケな雰囲気の酒とダンスの狂宴だった。

 東京・赤坂では、「MUGEN」が賑わっていた。 
 禁酒国なのに高価な酒の瓶が並ぶバー・コーナーがある広間では、大きなテーブルの中央に上がった若い女がゴーゴーを踊っている。アハラムくらいだから、16、7歳か。
 超ミニのスカートからすらりと伸びる白い素脚と揺れるヒップに見とれていた。
 招待されたクウェート人の若い男らと戯れている他の女の子たちも、スエーデンから来ているという。 30年もののシーバスリーガルをしたたかに飲んで酩酊気味の私に寄ってきたサビーハに、お気に入りの子とゲストルームで楽しんできてもいいですよ、と耳元で囁かれた。

 テレコムセンターの工事遅延のために駐在が長引いて家族を呼び寄せていた私だったし、王族の親類のサビーハに軽く見られてはならないと、妙に真面目な気分で、曰くありげな誘いを丁重にことわった。
 大理石の床にはペルシャ絨毯が敷かれ、ポップな絵画や彫刻的な装飾品が掛けられた室内には、煙草の煙と怪しげな熱気が充満し、夢でアラビヤンナイトのハレムに遊ぶ心地だった。
 いま想うと、ジプシーのアハラムもコールガールの一人だったかと思わないでもないが、バグダッドで再会して実家のパーティーに招かれたとき、そんな気配はみじんも感じなかった。
 そのことについては、バグダッドに着いたところで触れることにしよう。
 ところで、バスラを起点にこれから訪ねるイラクは、アラビア湾の北西部にあり、南はクウェートとサウジアラビア、西にヨルダン、東はイランと国境を接している。  
 西南部の砂漠と北東部の山地の間にティグリス・ユーフラティス川の肥沃な流域が広がっている。 この両大河は平行して南東に流れ、下流域で広大な湿地をつくり、合流してアラビア湾へ流入する。 

 二つの河にはさまれた土地が古代文明の揺籃地のメソポタミアである。豊かな農業生産力を背景に、人類最初の都市国家が紀元前3450年頃につくられた。
 9・11の報復と大量破壊兵器の存在を理由に、独断的に対イラク戦争を開始したアメリカは、建国から僅か230年ほどの国だが、イラクの人たちの祖先は5500年も前に都市文明を築いていた。  ブッシュ政権でイラク侵攻を主導した幹部らは、古代文明やイスラム文化が人類社会の歴史で果たした役割を知らないほど無学な連中ではないはずだが、自分たちの利権のために一国主義手的な独断開戦に踏み切ったのだ。
 ロシアのアフガニスタン侵攻の際に、アメリカが兵器供与した部族がビンラデンらの国際テロ集団をかくまう結果になったように、イラン・イラク戦争では、イランに侵攻したサダム・フセインに軍事的支援をして、10年後のフセインのクウェート侵攻にいたるなど、米国の中東政策は支離滅裂とも言える様相を呈している。

 イランはアラブではないが、シーア派イスラム教が圧倒的に多い国で、クウェートに駐在する前年、電気通信研究所の基本設計の技術協力でテヘランに滞在したことがある。
 イランのシーア派については、あとで触れる機会もあるだろう。
 出のわるいシャワーを浴びてから小1時間、昼寝をした。溜まっていた仕事疲れを少しでもとって、ベリーダンスを楽しむクラブへ繰り出したかったのである。
 黄昏の街に出て、ユーセフが案内したクラブは、クウェートからと思われる客たちで賑わっていた。 どこでも、地場の食材や酒は旨いもので、バスラの地ビールはとてもいい喉ごしだった。

 アラブでは近代化が進んでいた方のイラクだが、レバノンやエジプトなどのレストラン・ホテルでもビールやワインは飲めた。
 世界の踊りで、ベリーダンスほど官能的なものはないだろう。その歴史は、メソポタミアに溯るほど古いのではなかろうか。

 ハレムの美女たちはスルタンの寵愛を受けようと競って踊りに磨きをかけたに違いない。
 フラメンコの美しさには文化的な洗練があるが、ベリーダンスには、土着的で扇情的な生々しい魅力がある。上半身をゆったり動かし、腰を激しくゆする踊りは、かなりきつく腸捻転でも起こしそうだ。 踊り子はそれぞれいい肢体をしていて、交渉次第では一夜を共にするそうだが、あのすさまじい情熱とエネルギーに応える自信はなかった。
 すっかり堪能してホテルに帰り、翌日からの旅に備えて早く床についた私だが、ユーセフがどんな夜を過ごしたかは知らない。      (続く)








2008/07/03 17:11 2008/07/03 17:11