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  1. 2008/06/20 アラブと私 イラク3千キロの旅(1) (1)

アラブと私
イラク3千キロの旅(1) 
          
                       松 本 文 郎
 
 3月19日の朝日新聞「天声人語」に、ブッシュ大統領が記者団との夕食会でお披露目した替え歌のことが書かれていた。
「思い出のグリーングラス」の節で、
♪古いホワイトハウスを出て、気ままな暮らしに戻る、平壌の心配もしなくていい、もうすぐ、わが家の芝に帰る……
♪古い仲間のコンディー(ライス国務長官)と、チェイニー(副大統領)は、僕にサウジの話をするが……
♪あなたがた(記者)も私をいじめた日々を懐かしむ……

 その歌唱はやや調子はずれだったようだ、とも。 冒頭に、「能天気だとあきれるか、無責任だと怒るかは、人によりけりだろう」とあるが、その両方と思われる。
 イラク戦争開始から5年になろうとしている今、ブッシュ大統領は「大規模なテロは減った。イラクにはまだ多くの課題があるが、和解が始まっている。イラク人の未来は彼らの手中にある」と一般教書で述べている。
 WHOの推計では、米軍兵士の死者は約4千人、イラク市民の死者は昨年6月までに15万人に達したとされる。

 大量破壊兵器を理由にフセイン政権撲滅の戦争を勝手に始めたブッシュ政権の替え歌には、コメントをするのもアホらしいが、国土を目茶苦茶にされ、国内外に400万人もの難民が生じているイラクの人びとにとって、この戦争はいったい何だったのか。 アメリカ型の自由と民主主義を押しつけながら、イラクの石油利権を狙い、戦争継続による軍事産業の繁栄を、政・官・産の連合で押し進める米国は、次期大統領によって変えられるのだろうか。

 1971年、私は仕事で滞在していたクウェートからイラクを訪ねるチャンスを手にした。
 バスラ、バグダッド、さらに北上してモスルまでの往復3千キロの旅は、とても貴重な体験だった。 春休みの旅の目的は特になかったが、小田 実の『何でも見てやろう』に触発された気分でいたことだけは確かだ。
 同行者のユーセフはコンサルタント事務所で働く現地採用の工事監督で、仲間のアルベアティと同じイラク人だ。他にインド人のシンとクマールがいた。
 背が高く細身のユーセフは、アラブ的ないい顔立ちをしており、わが事務所で働く直前はバグダッドで灌漑土木工事の監督をしていた。
 背が低く小太りのアルベアティは、英国の軍隊で働き、英国人妻を連れてバグダッドへ帰ってすぐにクウェートに来て、我々に雇われた。
 イラクへ帰国したとき軍用機を使ったと自慢していたが、無邪気な風貌と言動からみて、M5のような諜報機関にいたなどと疑うまでもない好人物。

 当時のイラクは、1958年のクーデターで王政を倒して共和国になって13年、二度のクーデターを経て、ハッサン・バクル大統領が率いるバース党政権が登場して3年目だった。
 この大学出のイラク人エンジニアらは、共和国になった自国の仕事より、一人当たり国民所得が世界一のクウェートのテレコムセンター建設工事現場に魅力を感じてやってきたのだ。
 ところで、目的のない旅ながら、敢えて言えば、バグダッドに住むジプシーのアハラム嬢との再会を楽しみにしていた私だった。
 アハラムに出会ったのは、私がクウェートに着き、独身宿舎に住む以前、10日ばかり滞在したホテルだった。    
 褐色ですらりとした肢体の彼女はツタンカーメンの王妃のネフェルティティのように大きな黒い眼をしていた。食堂で初めて眼を交わしたときのトキメキは40年近くたったいまも鮮明だ。
 「アハラム」は、アラビア語の「夢」でエジプト国営新聞の紙名でもあった。

 湾岸小国「石油に浮かぶクウェート」は、国益上、アラブの宗主国エジプトに対して特別の配慮を余儀なくされる関係にあり、クウェートテレコムセンターの工事受注者は、クウェートの国策で随意契約になったエジプシャン・カンパニーというエジプトの国営建設会社だった。
 クウェート国全体の電気通信施設コンサルタントのわれわれとしては、通信設備だけでなく建築工事も国際入札で受注者を選ぶようにアドバイスして、日本の大手業者も推薦したが受け入れられなかった。

 私が着任したのは着工後2年ほどしてからだが、イラクの旅の後、大変な苦労が始まったのである。 不思議な微笑をまとうアハラムは英語を話さず、私はまだ、アラビア語の片言も知らなかったので、毎朝ホテルへ迎えに来るユーセフの通訳で、いくらかの言葉を彼女と交わすだけだった。

 ホテル滞在の終りころ、アハラムがバグダッドへ帰ると言ったとき、イラクを訪ねる機会があったらまた会えるといいね、とユーセフに伝えさせた。
 満面に笑みを浮かべた彼は、とても親しそうな声で彼女に話していたが、アラビア語では何を話したのか、私にはまったく分からなかった。
 ホテルからハワリ・フラットという宿舎に移ってしばらくしてから、アラブの星ナセルが急死した。 テレコムセンターの工事現場は、一日の喪に服すことになった。
 英字新聞には、カイロで走行する市内バスの下に身を投げて殉死を図る労働者らの写真付き記事が大きく掲載された。
 アラブへの私の関心には、アラビアのロレンスの活躍と苦悩、アラブ連合の創設とその大統領兼首相ナセルへの親近感があったので、工事現場で行われるナセル追悼の式典に参加したくなった。

 エジプシャン・カンパニーの責任者ムカデム氏は、コンサルタント事務所の建築班責任者の私の意図を測りかねながらも、発注者であるPTT(郵電省)次官顧問のエジプト人建築家ボーラス氏と並びの席を会場に設けてくれた。日本人エンジニア数人は、唐突な私の行動を、あきれ顔で傍観していた。

 大学生時代にはまったくのノンポリだった私も、60年安保改定の強行採決の雨の夜の国会周辺デモや小田 実らの「ベ平連」デモには自発的な気持で参加したが、東西冷戦のキナくさい国際情勢下で、欧米先進国の利権争いが交錯するアラブの連帯した自立と発展を願っていたのである。
 
 ハワリ・フラットを出発したトヨペットクラウンは、きらきらと緑青色に輝くアラビア湾にしばしの別れを告げ、クウェート旧市内を後にして、バスラに通じる砂漠の一本道をひた走った。
 砂漠右手の数キロ毎に、我々が設計・監理をしている工事中の無線送信所や無線受信所、衛星通信用アンテナ施設などが姿を見せた。

 クウェート・バスラ間の国道は、クウェートへの物資運搬の動脈である。
 時速100キロで走る大型トラックと擦れ違うと、140キロで走っている我々の乗用車は、吸い込まれるように対向車線側に移動する。
 衛星通信用アンテナ施設から30分ほどで、国境のバスラ検問所が見えてきた。    
 怪しまれることはなくても、かなり緊張する。
                                   
                                                     (続く)





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