アラブと私
イラク3千キロの旅(47)

                               松 本 文 郎
 

 「事実は小説より奇なり」の言葉に乗じて、この創作ノンフィクションの執筆時点に生じた「事実」に、あれこれの道草をしながら書いてきた。
 (42)を書き終えた折りしもチュニジア政変が勃発し、それをきっかけに、中東民主化の大きな津波がアラブ諸国に押し寄せた。

 五十年前以降のアラブ諸国独裁政権の近代化の行き詰まり、抑圧と苦難を長期にわたり強いられたアラブ民衆の歴史的転換点となる民主化の胎動(ジャスミン革命と呼ばれる)を目の当たりにして、私はおおいに興奮した。
 植民地支配を目論んだ英仏の傀儡王政から共和制への革命を実現した若い指導者らの変節の果て、長期独裁政治の終末が迫る日々にあって、中東を統治した英国の軍人でありながらアラブ諸国独立を夢みた「アラビアのロレンス」への想いを(44)に書いた。

 (45)では、五十年前のイラク革命を現地取材した牟田口義郎(朝日新聞)の報道資料に拠り、中東石油をめぐる欧米列強とアラブ諸国がせめぎ合うOPEC誕生とカダフィ政権の登場などを記述した。
 東日本大地震による生まれて初めの大きな揺れは、その執筆中の書斎で体験した。

 遠浅の海を埋め立てて市域を拡大してきた浦安の六十%の市域が、液状化現象の震災に見舞われ、海辺近くの高層マンションに住む娘婿一家はわが家に疎開してきた。
 電気を除くライフライン(ガス・上下水道)が止り、敗戦後以来の不自由な生活を余儀なくした。その概要などは、被災を機にこのブログに連載を始めた『文ちゃんの浦安残日録』に書き、はや、(22)となった。
 『アラブと私』と併せて、ご高覧ください。

 
 (45)の半ばあたりで、ようやく、アハラムの家のホームパーティの場面に戻り、翌朝、私たちが向かうモースルで八年前に起きたカセム政権による数千人の民衆虐殺の話から、従兄マリクによる当時のバクル政権の話に移っていた。
だが、『アラブと私』を先行掲載しているJCJ(日本ジャーナリスト会議)「広告支部ニュース」五月号の目次に、原発建設・定期点検に二十年間も関ったベテランのプラント配管工平井憲夫氏の『原発がどのようなものか知ってほしい』の短期集中連載の他、坂本・谷本・川田諸氏の関連記事が並び、編集後記にも大震災への想いがこめられているのを見た私は、六月号に、朝日新聞社公募「東日本大地震の復興構想・提言論文」に応募の『これからのエネルギー政策と脱原発』を寄稿。『アラブと私』は休載した。(ブログの「エッセー」の項目に掲載予定)
ヒロシマ原爆を疎開で免れた私の積年の願いの核兵器廃絶と、原発事故の放射能汚染による地球生命の危機とを重ねて訴えた拙文と、十四年前にがんで逝った平井憲夫さんの
遺書のような「原発告発文」連載第二回とが、目次に並んだ。

 平井さんの文章は、内田 樹ⅹ中沢新一ⅹ平川克美の対談『大津波と原発』(朝日新聞出版)にも引用され、原発建設をめぐる推進・反対派の間の不毛な討論にも言及していた。

 推進派はひたすら「安全です」と言い、反対派は「非常に危険で、すぐにも壊れる」と主張するが、実際はときどき壊れる機械である原発の故障・不具合への対応を冷静に議論する場が成立していないと嘆いている。

 東日本大地震以前に構想された国のエネルギー政策で、原子力への依存を五十%としていたからか、浜岡原発の一時停止をきっかけにした脱原発への加速的な運動拡大を懸念した政府・電力会社は、供給電力不足を楯にした原発存続論を続けている。

 これに対して、国際エコノミスト齋藤 進氏は朝日新聞掲載のコメントで、日本の原発の四倍の発電能力を保有する火力発電所を六十五%稼動させるだけで、全国の原発すべてを停止・廃止しても、電力不足は生じないと述べている。
 さらに、昨年の原子力発電実績を新型発電設備であるガスタービン・コジェネレーション(熱電供給)に切り替える費用は八千億円程度で済み、熱効率は三十~五十%も高く、二酸化炭素排出量も大幅に下がるという。
 また、電力不足で生産力低下を喧伝している各製造業の大手は、電力会社から電力を買うよりも安い自家発電設備をもち、わが国の自家発電量は全体需要の二十%にもなるそうだ。こうした提言は、テレビ番組では取り上げないようだが、リスクやネックがある論議なのか。
 「脱原発解散」を懸念される菅首相にとっては、すがりつきたい内容と思われるのだが・・・。安全神話は日本の原発だけでなく、一九八六年のチャレンジャー爆発の事故調査でも指摘された。

 「天声人語」氏は、調査の中心だったノーベル賞学者ファインマン博士が、「ロシアンルーレットのようなものだった」と評したと書いている。
 その失敗確率は十万分の一で、毎日打ち上げても三百年に一度起きる位の事故と言われていた。
 日本の原発事故の確率が五十億分の一(隕石に当たるようなもの)とされたのは、神話と言うより法螺の類だと、同氏は手厳しい。
 ファインマン博士は、がんと闘いながら調査を成し遂げ、「技術が成功するためには、体面より現実が優先されなくてはならない。自然はごまかせない」との言葉を遺したという。平井憲夫さんのがんが、長年の原発工事監督で放射能に晒されたせいか分からないが、死を覚悟して、原発告発の文章を遺す決意をしたという。冒頭の「事実は小説より奇なり」をなぞると、「現実」は事実で、「技術」には、フィクション的な側面がありはしないかと愚考する。深遠な自然に比べ、どんなに精緻に構成された小説でも破綻が潜んでいる。科学技術者も人間だから、失敗や間違いをおこすだろう。政府の原発事故調査・検証委員会の委員長になった「失敗学」の畑村洋太郎さんは、失敗の原因を体系化して創造に生かそうとしている人である。

 JR宝塚線の脱線事故や六本木ヒルズ・ビルの回転ドア事故などを調べ、再発防止に努めてきた。失敗原因を、個人の無知・不注意、誤謬判断、組織の価値観・運営不良などの十の観点に分類し、現場や物を見、関係者から直接に話を聞くことを原則に、調査に取り組むそうだ。
 「大きな事故だから、きっちりとした調査方法は確立していない。議論ははじまったばかりだが、世界が注目している地球規模の問題に、百年後の評価に耐えられる報告をめざす」と意欲的だ。
 「脱原発」をめざすには、原発以外のクリーンな代替エネルギーへの移行が大切だが、日本では、太陽熱・地熱・風力による電力の大量安定供給の実現までは、水力・天然ガスが有力だ。
 少子高齢化の進行で人口減少が予測され、将来的な電力需要は減るし、水道水のように使い放題だった電力依存の近代的生活から鴨長明「方丈記」流の自然と親和する暮らしに還るのも、生活習慣病が蔓延する日本人の健康によいのではないか。

 『アラブと私』の連載中の「晴天の霹靂」だった中東民主化の勃発と東日本大地震の甚大な災害に関する道草も、オシマイにするとしよう。
 「イラク3千キロの旅」で招かれたバグダッドのホームパーティの席に戻ることにするが、最近の報道では、バグダッドで爆弾テロが続発しており、多数の死者が出ているが、予定の年末までの米軍完全撤退は実行されるとあった。
 
 そういえば、この連載の冒頭を、引退を目前にしたブッシュ大統領の「替え歌」の引用で書き始めて、はや三年になる。
 ブッシュ政権がメチャメチャにしたイラクの、四十年前の人びとの暮らしの「事実」を伝えるのが、彼の地でもてなしてくれた人たちへのお返しと思いながら書き綴っている。
 順調な推移を祈ったチュニジア・エジプト政変のその後の情勢も波乱含みで気がかりではあるが、それらは、『文ちゃんの浦安残日録』に書くとして、(48)からは、ひたすら、「イラク三千キロの旅」をつづけることにしたい。

                                 (続く)


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2011/06/30 13:49 2011/06/30 13:49

アラブと私
イラク3千キロの旅(46)

                                               松 本 文 郎
 

 まさに晴天の霹靂の東日本大地震だった。
 マグニチュードが八・八から九・○に訂正されたほどの巨大地震に見舞われたのだ。前回(45)の原稿執筆中に書斎から飛び出したが、ここ浦安も、液状化現象による地震被災地となった。
 以後二週間の生活インフラ不全の暮らしや福島第一原発の放射能汚染の右往左往などは、道草として書く事柄ではないので、この機に、『文ちゃんの浦安残日録』をスタートさせた。
「エッセイ」のカテゴリーに掲載されているので、お読みいただければ幸いである。
 なお、三十日のNHKテレビ「おはよう世界」で、東日本大地震の影響かは不明としながらも、中国と北朝鮮の国境に聳える白頭山の付近で噴火の兆候を示す現象が多発していると報じた。
 白頭山は朝鮮半島の「民族の霊峰」とされ、北朝鮮にとっては、金正日総書記の出生地であり、政権の正当性とも関る重要な山という。
 韓国と北朝鮮の専門家が、白頭山の噴火に関する協議を、京畿道ムンサンの「南北で出入事務所」で開いたそうだが、日本での大地震が、南北対話を促しているのだろうか。富士山付近でも、例年の数十倍もの小規模群発地震が起きている。

 また、巨大地震の陰であまり報道されなかったリビア情勢は風雲急を告げている。
一般民衆を、カダフィ軍の虐殺から守るためとする国連多国籍軍の介入が決議され、空爆やミサイル攻撃が続いたが、反政府軍は、三十一日現在、いまだに苦戦している。
フセイン政権打倒をめざして先制攻撃を敢行したブッシュとは違い、オバマ大統領は、「新政権はリビアの民衆が決めることだ」と、イラクのように地上軍投入には組しないドクトリンを出した。
 中東市民革命への筆者の関心は、『アラブと私』を書き始めた動機に強く結びついている。
かって中東石油の獲得に策動していた欧米諸国が、リビア革命を成功させたカダフィ大佐の急進的な政策に振り回されてから、四十一年である。
「おはよう世界」が、リビアの外相がロンドンに現れたと報じたが、ここは、リビア革命の先輩格であるイラク革命の記述に戻ることにしよう。

 
  カセム政権は、親ナセル派の反共主義者集団であるバース党(アラブ復興社会党)粛清に共産党の力を借りたものの、政権は安定することはなく、増大する共産党勢力を制御する必要に迫られる。
 カセムによる言論弾圧下では、「アラブの再統一」というナセル主義は、美しい蜃気楼のイメージをイラク国民に与え、学生や零細農民にはカセムの反ナセル主義への不満が高まっていった。

 その不満を逸らすため、一九六一年、カセムはイギリス保護国から独立したばかりのクウエートをイラク領と宣言して国民の愛国心に訴えたが、歴史的根拠を欠く思いつきがアラビア湾に緊張を生んで、アラブ諸国と全世界から非難を浴びた。
この外交政策の失敗が、彼の命取りのひとつの原因となった。
カセム失墜を決定づけたのは同年にイラク北部に起こった、少数民族の不満の爆発であるクルド族の反乱とされる。

カセムは空軍まで出動させて徹底的な弾圧作戦にでたが、山岳地帯にこもって抗戦するクルド族の地の利で、制圧には到らなかったのである。
一年半におよぶ戦費増大、輸入制限による物資不足、物価高騰、それらに起因する生活不安など、国内情勢は悪化の一途をたどった。

 警察政治をしいたカセムは、再び組織力をもつ共産党に頼ろうとしたが、クルド作戦の失敗から軍部も硬化し、反カセム勢力が急速に力を増した。
シャワフ大佐のモースル反乱は、空軍がカセムに忠誠を誓って失敗に終わったが、今度は逆に、空軍がクーデターの先頭に立って成功した。カセム一派と共産党への粛清を行った新政権のナセル派とバース党は、「反共」を基盤としており、「アカ狩り」ぶりは徹底していたようだ。

 しかし、バース党内にはエジプト・シリア合邦時代の親ナセル一辺倒ではない半ナセル的な分子がかなりいて、政権の安定化は容易でなかろうと牟田口さんはみていた。
 カセムから反逆罪で逮捕・監禁されながらも、国民的な人気があるために死を免れていたアレフ大佐は、八年後(六六年))のクーデターを成功させ政権奪還を果たして間もなくの飛行機事故で死亡した。
 ハッサン・バクル大統領が率いるバース党政権が登場したのは、一九六八年である。
この年こそ、「イラク3千キロの旅」の約三年前で、十一年後に、サッダム・フセインが大統領に就任するのである。   *(6)の末尾に記述。

  ようやく、パーティの場面に戻れるタイミングになったようだ。

 ここから、アハラムの父親が話していたカセム政権時代のモースルでの内乱事件を承け、従兄のマリクが語ったバクル政権について、牟田口さんの著書で補強しながら書く。バース党は、反共主義政策をとりながら外交上は親ソ的な立場をとる反面で、兄弟党が統治する隣国シリアやエジプトとは仲がわるく、アラブの共和国の間で孤立化の傾向をみせていた。
 その上、バース党の独裁政権であるのに、党内での権力闘争を脱却しきれていなかった。
 だがバクル政権は、イラクにとり二つの大きな業績を上げてきた。

 一つは、カセム政権の命とりになったほど長年のガンだったクルド問題の解決である。
 クルド族が住むイラク北部地方にはイラク石油(IPC)の本拠地キルクーク大油田が広がるが、その石油収入は地元民の彼らに十分には還元されていない。
 その差別撤廃を求めたのが、カセム政権時代の反乱の最大理由だったので、バクル政権は彼らの自治への主張を大幅に取り入れ、七○年、長年の難問を解決して内乱を終結させて、政権安定化につなげた。
 若い記者のマリクは、バクル政権の政策と統治の現状を歓迎している口ぶりで、「内乱が収まったのは去年の五月でした。クルド族が落ち着いたので、明日、フミオさんが行かれるモースルの心配はいらないでしょう。やっぱり運勢が強いですね!」

 二つ目は、石油問題である。
 問題をさかのぼると、カセム准将が共和政権を樹立した五八年、西側がまっさきにに懸念したのは、新政府がIPCを国有化するのではないかということだった。
 これに対してカセム首相は、石油収入の増大は国有化ではなく、産油量の増産によって解決するとして、隣国のイランが国有化で失敗した轍を踏まない路線を選ぶ。
 私がイラクを訪問した七一年ではまだだったが、翌年、バクル政権は「国の中の一国家」と称されるほどに強力だったIPCを国有化したのである。
『アラビア湾のほとり』第六章の末尾に、IPC国有化宣言のバクル大統領の演説要旨があるので、転記させていただく。

  「石油会社(イラク・モースル・、バスラ各社)は、人民を搾取する論理を裏付けする道具である。それらは帝国主義的支配の象徴で、これまで国の中の一国家としての役割を演じてきた。 

 
 ここにおいてわれわれは、戦闘的大衆の革命による経験に基づき、石油会社の力を制限し、もって国民の主権と経済的独立を現実のものとしなければならぬと悟るに至った。民族解放の事業は、石油会社と対立し、石油資源を解放し、イラクの地下資源を開発することによって、その存在を証明した。われわれの革命は法令第八○号に基づき、石油会社に正当な支払いを要求したが、会社側は策略をもてあそび、革命の意思に制約をかけ、石油におけるイラク国民の諸権利を侵犯したのである。石油会社は、帝国主義的な目的から、イラクその他の産油国の平均生産量を減らしたが、これは、イラクに財政経済の不均衡をつくり上げて、革命の諸目的を後退させようとするためであった。
 
  以上の理由から、革命評議会は人民の名において、一九七二年法令第六九号を発し、イラク石油会社の国有化を宣言する。同条例は、同年六月一日から効力をもつものである」(以下略)

 この文章には、英米など西欧列強の中東石油をめぐる政治的策略に翻弄されてきたアラブ諸国の民族的な怒りがよく表されている。
当時の中東の石油埋蔵量は、世界の七割以上とされ、一級油田が集中するアラビア湾のほとりはまさに世界の宝庫で石油戦争(石油をめぐる争い)の絶えない地域である。
「石油戦争」には三つの段階があるとされる。

  第一段階は一九五三年までだ。
 これまでは、メジャー同士の支配権争奪という古典的な争いだったが、イランの紛争が終結した結果、コンソーシアムという国際石油合弁会社が生れ、中東石油の支配権はイギリスからアメリカに移ったのである。
 それからの数年間、ビッグ・セブンという名の七大国際石油資本とフランス石油の共同支配がつづく、メジャーにとって「古き良き時代」だった。

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 第二段階は、一九六○年からである。
この年、OPEC(石油輸出国機構)が生れた。結成当時の加盟国はイラン・イラク・サウジアラビア・クウエート・ベネズエラの五カ国で、石油戦争は産油国vs国際石油資本という新たな様相を呈し、のちに加盟国数は増えた。
 だが、石油は供給過剰気味でメジャーの指導権がゆるぐとはみえず、良き時代はつづいて、国際機関としてのOPECの基礎づくりの時期だったといえよう。

 第三段階は、一九七一年に始まる。
この年のテヘラン会談で、メジャー側全面敗北という十年前には想像できなかった事態が出現して、石油戦争は新しい段階に入る。
この時代の傾向に、タンカーの巨大化がある。
ギリシャの船主アリストテレス・ソクラテス・オナシスが、五十万トンタンカーの出現を五十年代に予言したエピソードがある。

 この予言を実現したのは石川島播磨重工の社長だった真藤 恒で、それにまつわる彼の武勇伝を、NTT民営化四年前に電電公社総裁に就任した後、直かに聞く機会があったが、ここでは割愛する。

 テヘラン会議でOPECが圧勝した一因には、六七年の中東六日戦争がある。
この戦争でもスエズ運河が閉鎖され、メジャーはリビアの石油増産に拍車をかけることになる。
 西欧はリビアの石油に救われたが、六十九年のリビア革命で王政が倒され、情勢は一変した。登場したカダフィ政権は、メジャーへの急進的な政策をとって、翌七○年に原油公示価格の引き上げに成功した。

OPECがテヘラン協定を勝ち得たのは、このカダフィ大佐による既成事実を橋頭堡にしたからである。

                                                                    (続く)


2011/04/01 14:39 2011/04/01 14:39

アラブと私
イラク3千キロの旅(44)

                               松 本 文 郎 

 それは、アラブ諸国の中でイラクほど、雑多な少数民族を抱える国はないからだとしている。先に述べた北部一帯のクルド人は人口の一割を占め、東部にはイラン人、その他の地区に、アルメニア人、アッシリア人、カルデア人、トルクメン人などが住んでいる。これらの他民族を強権で統治していたオスマン帝国が滅亡した前年(一九二一年)、イギリスは、第一次大戦後の中東政策のため、メッカ・ハシム家のフセインの三男ファイサルをつれてきて名目上の独立を与え、親英派の王様にすえた。

 この建国からカセムによる王制打倒までイラク王国を維持したのは、オリエントのビスマルクと呼ばれたヌリ・サイドだった。
 サイドは、バグダッドに生まれ、メッカの太守フセインが「アラビアのロレンス」とともに起こした「砂漠の反乱」に参加してロレンスの信頼をえ、アラブ独立軍によるダマスカス陥落後、同市の駐留司令官に任じられた。
 イギリスは、第一次大戦後のエネルギー源が、石炭から石油に切り替わることを見通し、イラクの油田を確保するために、ロレンスとの出会いで親英派となったサイドにイラクを託したのである。

 こうして書いていると、東京オリンピックの前年に見た、『アラビアのロレンス』の数々の名場面が、走馬灯のように駆けめぐる。
 印象的なシーンを、ウイキペディアの「アラビアのロレンス(映画)」の紹介記事をなぞって略記しておこう。(文責は筆者)

○イギリス陸軍のエジプト基地に勤務する情報部の少尉(筆者注・中尉ではないか)ロレンスは、アラビア語とアラビア文化に詳しく、オスマン帝国からの独立闘争を指揮するフイサルと会見し、イギリスへの協力を取り付ける工作任務を受ける。

○アラビアへ渡ったロレンスがラクダを乗りこなせるようになり、ヤンブーのアラブ人基地で苦戦していたファイサルに面会する前に砂漠で出会ったのが、オマール・シャリフが演じたハリト族のシャリーフ(太守)のアリだった。(部族と人物は架空)

○ロレンスは、フアィサルのアラブ独立闘争への協力を約束し、アラブの勇士を率いてネフド砂漠を渡り、オスマン帝国軍占拠の港湾都市アカバを内陸から攻撃する電撃作戦を立てる。

○延々とつづく夜間行軍の間の美談や悲劇を経て、アカバ湾に向けられていた砲台を背後から奇襲し、アカバは陥落した。

○ダマスカス攻略では、金目当ての山賊らも加えた攻撃的な部隊編成で進軍して、イギリス陸軍の正規部隊より一足先に、ダマスカスをオスマン帝国軍から開放した。

○陥落を陸軍司令部に報告するためスエズ運河に向かう途中、シナイ砂漠の蟻地獄で部下のアラブ人少年の一人ダウドを失う。

○満身創痍にアラブの衣装をまとったロレンスが司令部に辿り着いて、もう一人の少年ファラジと建物に入るのを見て、居合わせた軍人たちが驚愕する。

○司令部のカフェで、「アラブ人は外に出せ」との苦情を浴びたロレンスは、ファラジにレモネードをご馳走する。

○このシーンは、フセインがめざしたアラブ独立のための「砂漠の反乱」に同行したロレンスが、司令部が命じたイギリス軍のための後方撹乱作戦ではなく、アラブ人にアラブを取り戻す聖戦として戦ったことを暗示していて、感動的だった。

○オスマン帝国との凄惨な戦闘では、オスマンの大量虐殺への復讐を懇願するアラブ戦士と共に、ロレンスの部隊も大量虐殺の復讐で深みに嵌る。

○精神的に荒廃したアラブ戦士らは、アラブ国民会議でエゴを主張し始め、開放されたダマスカスの街に、電力不足、火災の続発、病院のなおざりなどが横行した。

○アラブ国民会議に失望したロレンスは、「砂漠など二度と見たくない。神かけて」と、アラビアを去る決意をする。

○ファイサルの「砂漠の反乱」を共にしたアリは、「敬愛しつつ恐れたロレンスだが、彼自身、己を恐れていた」と語る。

○オスマン帝国から解放されたアラビアに、もう、ロレンスは必要ではなかった。老練なファイサルは、フサイン・マクマホン協定を信じて、イラク・シリア・アラビア半島を包含する大アラブ王国を構想し、白人のロレンスが、」アラブ反乱を指揮した事実が邪魔だった。

○オスマン帝国をサイクス・ピコ秘密協定で分割(フランス・ロシアと共に)することを目論んだイギリス陸軍の将軍にとっても、大アラブ王国を支持して奔走するロレンスが政治的に邪魔な存在となっていた。

○ファイサルは、「もうここに勇士は必要でない。戦った若者の長所は勇気と未来への希望で、協定を進めてゆくのは老人の仕事。老人は平和をつくるが、その短所は平和の短所でもある。つまり、不信と警戒心なのだ」と語る。

○去ってゆくロレンスに、ファイサルの「あなたに対する私の感謝の気持ちは計り知れない」との言葉は虚しく響くばかりだった。

○ロレンスは、イギリス陸軍の英雄として大佐に昇進したが、大きな失意を抱いてアラビアから追放された。

 
 思えば、北アフリカ・中東の独裁政権の国々で起きつつある市民レベルでの覚醒と抗議行動は、かのトマス・エドワード・ロレンスが、アラビアで夢想した中に、含まれてはいなかっただろう。アラブの地をアラブ人の手に取り戻そうとしたメッカの太守フサインは、イギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンと「フサイン・マクマホン協定」を結び、砂漠の反乱(対トルコ戦協力)の条件に、アラブ人居留地の独立支持の約束を得た。
 翌年に、アラブ地域の分割を決めたイギリス・フランス・ロシアによる密約「サイクス・ピコ」協定が結ばれ、翌々年、パレスチナへのユダヤ人の入植を認める「バルフォア宣言」が出された。
 イギリスが主導したこれら一連の協定や宣言は、アラブ人の領袖フサインに、オスマン帝国の配下にあったアラブの独立を承認する一方で、ユダヤ人国家のパレスチナの地での建設を支援する約束をするなどの矛盾する対応が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったといわれている。
 一連のイギリス政府の行動が、当時から、三枚舌外交と呼ばれたのは、悪質な秘密外交が問題とされたのであり、協定と宣言相互の内容的矛盾が問題になったのではないとされる。
 フサイン・マクマホン協定に関る第二書簡での線引きには、レバノンやシリアの地中海側などのフランス委任統治領やパレスチナ・エルサレムは含まれていないので、この協定とバルフォア宣言の間には矛盾はないとされ、一九一九年のファイサル・ワイツマン会談で、パレスチナへのユダヤ人の入植促進に合意している。
 二十世紀以降のイスラム史やパレスチナの歴史に関するウイキペディアの記載には、立場の違いによる諸説への加筆・訂正の協力者が求められている。
 突如、当該地域に起きた「民主化・政変ドミノ」の刻々変化する事態の推移に従い、協力者の数は急増するのではなかろうか。
 今回の中東革命は、つまびらかな論議・検証は専門家にまかせるとしても、良くも悪くも、第一次大戦後の列強によるアラブの委任統治と近代化に端を発していると想われる。
 それにしても、クーデターでファイサル二世を殺害したイラク革命のカセム准将とアレフ大佐、その翌年、カセム首相に対抗した内紛でモースルに立てこもって殺されたシャワフ大佐は、なぜか、みんな大佐だった。
 イラク革命から五十八年のいま、北アフリカのエジプト・リビアで巻き起こっているのは、革命戦士だったムバラク大佐とカダフィ大佐の退陣を求める若者たちのシュプレヒコールだ。
 なにの因果か、ロレンスも本人の意思に反した昇進で、大佐になった。
 調べる気もないが、五・一五事件や二・二六事件のリーダー格の将校にも大佐クラスがいたのではなかろうか。
 かってのムバラク大佐もカダフィ大佐も共に、権力を手中にしてから次第に変節し、富と名誉を独占する欲望の虜に成り果てたようだ。
 百姓から天下人に登りつめた、庶民の英雄秀吉といい、田中角栄も、また然り。
彼らを苦労して育てあげた母親たちは、息子の迷妄をなげいたが、アラブの大佐らの母親たちは、ムハンマドが受けた啓示のクルアーンに拠って、その愚行を諭さなかったのであろうか。
 北アフリカ・中東の緊迫の事態がどう展開するか、次回も道草をつづけて、見守りたい。
                            
                                 (続く)


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2011/02/21 11:08 2011/02/21 11:08

アラブと私
イラク3千キロの旅(43)

                     松 本 文 郎 

 強権支配を長年つづけた前ベンアリ大統領を国外脱出に追い込んだチュニジアの大規模デモは、貧しい若者が焼身自殺を計ったのが発端である。

添付画像
 ムハンマド・ブアジジさんは、首都チュニスの南約二百八十キロの街に母親・三人の妹と住んでいた二十六歳。事件が起きた朝、いつものように路上で果物の量り売りを始めたとき、地元の役人が「営業許可がないなら罰金四百ディナールを払え」と脅した。   
 一日の売り上げが五~七ディナールしかない者への嫌がらせという。商売道具の秤を奪われそうになって、抵抗したムハンマドさんは、顔を殴られ、体を何度も蹴られてうずくまったが、役人らは、ムハンマドさんにつばを吐き、果物を奪い去ったという。
 果物を返してもらおうとして訪れた地元知事の事務所で、中に入れてさえもらえなかった彼は、近くの店で手に入れたガソリンをかぶり、理不尽を訴えたが誰もとりあってくれず、自ら火をつけたという。

 この悲惨な出来事は、口コミやインターネットのフェイスブックなどの情報メディアを通じて、あっという間に市民に知れ渡った。

 街のデモは数百人の規模にふくれて朝までつづき、自殺する若者がつぎつぎと出た。
ベンアリ大統領側は、事態の沈静化を図ろうと画策したが、無神経な言動が火に油を注ぐ結果となり、デモは国中に拡大した。
ムハンマドさんがチュニスの病院でなくなった十日後に、ベンアリ前大統領は国外に逃れ、強権体制は崩壊した。

 国外脱出の当日に、前大統領の娘がフランスのディズニーランドで遊んでいたこと、家族や一族の宮殿のように贅を尽くした住まいを、市民らが襲い破壊した様子が新聞・テレビで報じられた。

 チュニジアをふくむ中東・北アフリカの地域は、一次産業や観光業ほかの産業が乏しいなかに人口が増えて、若者の失業が深刻とされる。
 この地域で政権の長期化や腐敗による富の分配の不平等で貧富の格差が生じ、インフレが進行している国々に、チュニジアのケースで触発されたとみられるデモや焼身自殺が相次いでいる。
 アルジェやイエメンでは大統領退陣を要求するデモや集会が起こり、ヨルダンでは物価高に抗議して内閣総辞職が求められた。
 新聞報道による一月二十四日現在の焼身自殺の数は、エジプト、サウジアラビア、モーリタニアなど、未遂を含めると十件を超えるという。

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 イスラムでは自殺を禁じており、イスラム教徒が自殺を選ぶのは、よほどの事態とされるだけに、今後の推移に世界が注目している。
 そうしたなかの二十五日、、焼身自殺が相次いだエジプト各地で、ムバラク大統領の辞任を求める反政府デモが起こり、カイロ中心部で座り込んだ数千人のデモ参加者の強制排除で、多数のけが人が出たと報じられた。

 このデモは、チュニジアの政変に呼応した野党勢力に、「フェイスブック」などインターネット上の呼びかけを受けた市民が結集したとみられる。
翌日には、数万人に膨れ上がり、一九八一年のムバラク政権発足以来の最大規模だという。

 政権側は、催涙ガスと放水銃に加え、「フェイスブック」「ツイッター」「ユーチューブ」等を遮断する「情報統制」で対抗し始めた。
それまでのデモ参加者はインターネットでつながる若者中心とされてきたが、最大の野党勢力で、伝統的な宗教ネットワークをもつ「ムスリム同胞団」が加わると、デモの規模拡大は必至という。 

 アハラムの父親が話したモースルの事件を書いている最中に起きたチュニジアでの政変は、日に日に、アラブ諸国に波紋をひろげつつある。
 これは、パキスタンの長い軍事政権への反政府運動の果てに、アユブ・カーン大統領引退声明、アラブゲリラによるイスラエルの飛行機襲撃と中東問題の激化、国連緊急安保理事会開催のほか、スーダン、南イエメン、リビア、ソマリアなどに相次いでクーデターが起きた一九六九年の状況を思い出させる。〔(40)のマリクとの話で言及〕
 
 反政府デモの拡大に、デモ・抗議集会の禁止やインターネットの遮断で対抗するムバラク政権に対し、クリントン国務長官は二十六日、「平和的な抗議活動やソーシャルメディアを含む通信を妨害しないよう求める」と述べ、オバマ大統領自身も、ムバラク大統領への電話で同様のことを要請した。

 アラブの盟主を自任するエジプトで三十年近く強権政治をつづけたムバラク大統領は、米国中東政策にとって重要な役割を果たしてきたからか、穏やかな要請に思われる。

 

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  ブッシュ元大統領が大量破壊兵器の存在を理由に侵攻し、その証拠が見つからないと、フセイン独裁のイラク国民に自由と民主主義を与えるのが戦争目的と言い出した理不尽さに比べ、いかにもオバマ大統領らしいといえなくもない。
 しかし、三十年にも及ぶ長い圧制に耐えてきた民衆のデモの高まりを目の当たりにして、まだ、エジプト国民の爆発的な怒りを正当と受け入れることに二の足を踏んでいるのを、歯がゆく感じるのは筆者だけではなかろう。

  ムバラク大統領の登場は、急死したナセルの後任サダトがイスラム過激派のジハード団によって暗殺され、副大統領から大統領に昇格したときである。
 ナセルの急死とクウエート・テレコムセンターの工事現場で行われた追悼式典に、筆者が参列した経緯を(1)に書いているが、サダト大統領は、社会主義的経済政策の転換・イスラエルとの融和などでナセル体制の変換と政治的自由化を進めた穏健派だったため、イスラム主義が勢力を伸ばし、 サダト体制への抵抗が激化した結果、暗殺された。

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 ムバラク大統領は、サダトの路線を引き継ぎ、対米協調外交を進める一方で、イスラム主義運動を激しく弾圧して、経済開発とアラブの安定化をはかりながら、独裁的政権を維持してきたのだ。
 ムバラク大統領は治安部隊・秘密警察によって国民を支配し、言論を統制し、野党の徹底排除で体制を堅持してきたが、一人当たりの国民所得は約百八十ドルでサウジアラビアの十分の一、国民の四割は一日二ドル以下で暮らす貧困層という。

 ピラミッドやツタンカーメンの黄金の面などの遺跡や文化遺産の見物で訪れる観光客は、千二百万人(二○○八年)を超えている。
 イスラム教徒が大半だが、スカーフをかぶらず髪の毛を出して歩く女性も多く、街で酒も入手できるのは、四十年前のイラクと同じである。
 筆者は、イラク三千キロの旅からクウエートに戻って四ヶ月後に家族を呼び寄せたが、翌年の夏休みに家族で訪れたエジプトは、どこへ行っても、私たちに親切で、人なつっこさと外国人に開かれた自由な国のイメージがあった。
 ナセルの死であとを継いだサダト大統領が社会主義から市場経済へと政策を変えて二年後のことだった。


  エジプトの緊迫した状況からは目が離せないが、ここは一旦、モースルの事件の話に戻るとしよう。

 以下は、クウエート・プロジェクトの完成後に帰国した一九七四年に読んだ牟田口義郎さんの『アラビア湾のほとり』に負うところが多い。
 朝日新聞社の外報畑を歩み、中東・アラブ地域の現代史に詳しく、エジプトとフランスの支局長や論説委員をつとめた氏は、チュニジアのデモが起こった直後の一月二十二日に逝去された。(享年八十七) 牟田口さんは、カセム准将とアレフ大佐によるイラク革命動乱のさなかにバグダッドを訪れた。、革命一周年には、お祝いムードにわく記念祭に、カセム政府の招待を受けている。

 一九五十、六十年代のアジア・アフリカ諸国は、列強諸国からの独立闘争で活躍した軍人らが政治リーダーとして登場し、先進国に追いつく富国をめざして、王制を共和制に変へるさ中にあった。
 エジプトでは、一九五二年の革命で王制が廃され、アラブ社会主義をスローガンにナセル時代が到来し、王制を倒したイラクとシリアでも、同じ社会主義を掲げるバース党が政権を取り、独裁的な指導体制下で、急進的な改革を行っていた。
 記念行事を見た牟田口さんの印象では、革命後一年で、同志のアレフ大佐が心酔したナセル主義を一掃したカセム政権は安泰と見た、とある。
 ところが、三年半後のクーデターでカセム政権はもろくも倒された。反徒が指導者に仰いだのは、反逆罪でカセムから死刑を宣告され、後に、特赦を受けていたアレフ大佐だった。

 なんともめまぐるしいほどの政変の連鎖だが、『アラビア湾のほとり』第六章の「カセムの没落」で、カセム政権の四年半の記事が再録されている。
 牟田口さんはこのクーデターを、王制から共和制へのイラク革命とは異なり、カセムの強権政治の犠牲者らによる復讐(二千人の血が流された)とし、復讐を好む傾向のアラブ人だから、新政権もまた、復讐の危険に晒されるとみなければならないと書いていた。
 王制時代の五十回の政変の七回がクーデターだったと、イラクの不安定さにも言及している。       
                               
                                                    (続く)



                       

2011/02/08 16:08 2011/02/08 16:08

アラブと私
イラク3千キロの旅(42)

                             松 本 文 郎 

  
 私の顔をじっと見て、アハラムが訊ねた。
「私には読めません。日本の運勢占いは、手相や人相が多いですね。アハラムは、『コーヒー占い』ができますか?」
「私もできませんが、母にはできますよ。フミオさんが飲まれたら、底を見せてきましょうか」
 この席にいない奥さんは、私の人相が見えず、カップの底の模様だけで運勢を読むしかない。
「ええ、お願いします。こんなに美味しい料理をつくられるアハラムのお母さんに、運勢を見てもらえるとはうれしいですね」
 コーヒーを飲み干したカップをソーサーにかぶせて、アハラムに渡した。
 アハラムがキッチンへ去ると、マリクが、
「トルココーヒーを飲む習慣は、オスマントルコに長く支配されていたからでしょう。フミオさんは占いを信じますか?」
「いいえ。でも、『いわしのアタマも信心から』という諺が日本にもあります。古今東西、人間は、頼りにする何かを求めているのでしょうね」
「コーヒー占いは、もっと遊びにちかいものだと思います。占いは、古代から行われてきましたが、旧・新約聖書では邪悪な行いとされていますし、宗教的に同根のイスラムでも同じです」
 そこへアハラムが戻ってきた。
「フミオさんの運勢はとてもすばらしくて、家族も仕事もうまく行くと出ているそうですよ」
 明るい声でそう告げたが、ためらいがちに、
「ずっと先のことですが、人生での大きな岐路に立たれるかもしれないのが、気がかりだとも」
 私は即座に答えた。
「クウエートへ出発する前の送別会で酔った勢いで、仲間たちが勧めるまま、街の手相見に占ってもらったら、生命線の先が二股に分かれていると言われました。なんだか、不思議な符合ですね」
「母は、コーヒー占いを楽しんでいるようですが、私は、運勢は自分の力で開いていくしかなくて、占いに一喜一憂する生き方はしないつもりです」 
 きっぱりした口調でアハラムが言った。
「アハラムの考えに賛成ですね。仏教的な考えでは、一生は因縁で決まるとされますが、人の力でどうしようもない運命があるとしても、流れに棹をさすのは自分だから、やり方次第で流れつく先も変ると思います」
 アハラムやマリクと話しながら、高校・大学生時代に逍遥した哲学・宗教書の人生論や世界観を思い出していた。


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 みんながコーヒーを飲み終えたところで、主が、ソファに移ってもう少し歓談してはと言う。
「ありがとうございます。でも、明日の朝早く、モースルに向かいますので、そろそろ失礼しようかと思っています」
「モースルへ行かれるなら、あそこで起きたことをお話しておきましょう。マリクがまだ小学生だった一九五九年のことです」
「いったい何があったのですか。それを伺ってから失礼することにします」
 曽祖父の代からバグダッドで建設業を営む主に招かれたホームパーティーで、甥っ子のマリクを話し相手に仕向けてくれた彼がどんな人なのか、よく分からずにいた私は、暇するときになって、何か重要な話があるといわれて、身構えた。
それは、バスラからバグダッドに向かうとき、ユーフラテスに架かる橋のたもとで警備兵に検問された緊張感を思い出させ、モースルでの言動に注意を促す類のものだった。
主の話に、塩野七生著『十字軍物語Ⅰ』に拠る補足を加えると、以下になる。

 モースルはバグダッドの北西部に位置し、古代遺跡ニネヴェと世界有数の石油生産でしられる大きな都市である。
 モースルの市民はほとんどアラブ人だが、周辺には、アラブと異なる歴史と言語をもつクルド人が住み、国境を接するトルコ、シリア、イランにも分散している。
 クルド人が住む土地は、ティグリス川の上流で高い山々が連なる山岳地帯だが、イラクで森林があるのはこの山々の斜面だけだ。

 この山岳地帯には、十一世紀末の第一次十字軍の頃から豊かな油田があり、べっとりした黒い液体に火を点けると燃え上がることや、モースルの地名に由来する薄地の高級綿製品モスリンの産地としても知られていた。

 イスラム教徒のモースルの領主は、キリスト教徒のエデッサの領主との間で自領拡大の戦いに明け暮れていたが、十字軍を、宗教を旗印とする軍勢ではなく、版図拡大の侵略者とみていたようだ。
 十字軍の重要人物の一人であるカトリック教徒のボードワンに、エデッサの領主が、モースルの領主を攻めてくれと要請したのも、宗教とは関係のない領土をめぐる問題に過ぎなかったようだ。
 イスラム支配下のイエルサレム奪還を思いたったローマ法王ウルバン二世は、全ての世俗君主の上に立つ法王の権威を誇示するため、何十万もの第一次十字軍を東方に送り出した。
 一方、イエルサレムを支配していたイスラムは、メッカへの巡礼を重要視していて、キリスト教徒のイエルサレム巡礼には、総体的に理解をもっていたとされる。
 十一世紀初頭のエジプトのカリフだったアル・ハキムによるイエルサレム聖墳墓教会の破壊や、セルジューク・トルコが支配したパレスチナ一帯で起きたヨーロッパからの巡礼団襲撃などがあるが、それらは強奪の域を超えるものでなく、西欧キリスト教世界を悲憤慷慨させるようなものではなかったという。
 法も秩序もないに等しい中世での聖地への巡礼は、ヨーロッパから中近東への長旅の途中で強盗に襲われる危険に加えて、怪我人や病人も多く、イエルサレムにイタリア商人の寄付で建てられた巡礼者用の医療施設は、イスラム支配下でも営まれたのである。
 ただ、イスラム教徒が自画自賛する「イスラムの寛容」とは、「ジズヤ」という人頭税を払いさえすれば、イスラム教以外の宗教の信仰を認めるというもので、イスラムが征服する前のビザンチン帝国に住むたキリスト・ユダヤ教徒とイスラム教徒とが対等だったわけではない。
 教会の鐘や馬行の禁止、イスラム教徒が通り過ぎるのを道の端で待つなど、異教徒に課せられた制約もあった。
 話をモースルにもどそう。

 この一帯には古くから、大勢のクルド人が住んでおり、少数民族として、ネストリウス派・キリスト教徒のアッシリア人やトルクメン人もいて、民族的・政治的に複雑な問題を抱えてきた。モースルで一九五九年に起きたのは、前年の王政廃止と共和制革命で誕生した軍事政権(カセム准将を長とするクーデターで、ファイサル二世、イラー皇太子、サイド首相を殺害)の内紛の弾圧だった。
 この内紛は、世界に衝撃を走らせたイラク革命政権樹立の実際の指揮者で副首相・内相に就いたアレフ大佐が、革命後二ヶ月でカセム首相により解任・逮捕されたことに始まる。

 冷戦のさ中、、世界の石油埋蔵量の三分の二以上をもつ中東は西側の国際石油資本(メージャー)にとって、「赤の魔手」から石油を守ることが急務で、イランの民族主義者モサデグが起こした石油紛争と同じ事態の中東への広がりが懸念された。
 アレフ大佐は熱烈なナセル主義者で、革命の直後、アラブ再統一運動の指導者と崇拝されていたナセル大統領に、イラクとアラブ連合との統合を申し入れていた。
 カセム首相は、アラブ連合と合邦されて手中の権力を失うのをおそれ、「ナセルはイラクを奪おうとしている」との理由で、アレフ大佐らを反逆罪で逮捕・監禁し、親ナセル派(バース党と親派の青年将校)の粛清政策がすすめられた。

バース党(アラブ復興社会党)はアラブの再統一をめざす反共主義者の集団だったので、カセム首相は、バース党の弾圧に急神してきた共産党の力を借りて、開発相のフワード・リカビ(イラクバース党書記長)を解任。カセム暗殺容疑で死刑を宣告した。
これに対抗したナセル主義者のシャワフ大佐が、一九五九年三月、モースルに立てこもって反乱の火の手を上げたが、空軍爆撃というカセム首相の非常手段で失敗、殺害された。

 モースルへ乗りこんできた共産党民兵によって血祭りにあげられたナセル派市民は、数千人にのぼるとされた。イラクが赤化するのではないかと世界から見られたのはこのときである。
 イラクの共産主義者には少数民族出身が多いが、彼らは、少数民族の不満から共産党へ走ったようである。
「イラク人のイラク」をめざしたカセム首相政権は安定するどころか、増大しすぎた共産党の勢力をおそれて、その分裂を画策するはめとなる。
 
折りしも、北アフリカのアラブ国家チュニジアの政変と大統領の亡命が報じられ、イスラム教が国教の国に突然起きた革命の情報が、世界を駆けめぐっている。

                                                                (続く)


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2011/01/29 13:25 2011/01/29 13:25

アラブと私
イラク3千キロの旅(41)

                            松 本 文 郎 
  
 
 それにしても、アジア民族の主食である米が、アラブ料理のメインディッシュに使われているのには、いささか驚く。

 マリクが、「ライス」や「シュガー」はアラビア語ですよと言ったので、さらにびっくりする。米の栽培が始ったのは七千年前のインド・中国とされるから、東南アジアから伝播した小麦が主食のアラブでも、イラク・エジプトの大河の灌漑による米の栽培は古代から行われていたのだろう。
イランのカスピ海周辺の米作地帯では、日本とそっくりの農村風景を目にするし、アラブ料理で使われるのはインド・バスマティ米が多いようだ。

 アハラムは、マクルーバのレシピをていねいに説明したあと、ビリヤニ(焼き飯)、クッバ(米皮の卵型餃子)、ムハラビ(米粉のプティング)などもあると教えてくれた。
 皮付き野菜の中身を取り出して詰め物をする、ドルマに似た料理は日本にもあるし、マクルーバ、クッバなどのレシピも、米が伝播した経路の各地の米料理法が加わりながら伝わったのだろう。

 ひっくり返してつくる料理といえば、疎開した田舎で馴れない農作業をする母親代りにつくったオムライスを思い出した。
「マクルーバに比べたらおそろしく簡単な料理だけど、我流のオムライスを、家事の手伝いでよくつくりました。ジャミーラくらいの歳でした」
「お母さんのほかに女性はいなかったのですか」
 同情的なまなざしのアハラムが訊ねた。
「九歳下の弟がいただけです。母子三人が疎開したあと、父は単身で広島の鉄道管理局に勤めていました」
 広島という地名を耳にしたマリクが、、あわてて食べ物をのみこみ、「原爆を落とされたあのヒロシマですか?」
「そうです。父は、原爆投下の前日に休暇で田舎へ帰っていて被爆を免れましたが、住んでいた家の周辺や私が通っていた小学校はかなりの被害を受けました」
「お父さんが無事でよかったですね」
 私の目をみて、アハラムがうなづいた。
「でも、投下の翌日には広島へ戻りましたから、地獄のような阿鼻叫喚を目の当たりにしたようですし、地上の二次放射能にはやられました」
 ヒロシマ原爆のことを聞きたそうなマリクだが、ひっくりかえし料理の話で、ディナーの楽しさをひっくり返してはいけない。
 アハラムも同じように感じたのか、
「フミオさん風オムライスのレシピは?」    
「とても簡単ですよ」

 太平洋戦争が始まった昭和十六年、国民小学校の一年だった私は、広島駅の日本食堂で初めて、オムライスというものを食べさせてもらったが、ハムとケチャップ入りの炒めご飯を玉子焼で包み、枕のかたちにしたてっぺんに日章旗が立っていた。
私のはというと、フライパンに焼いた玉子の上に、炒めたご飯・玉葱と人参のみじん切りをのせ、皿をかぶせてひっくり返すだけの簡単レシピ。
 疎開先の父の実家が大きな農家で、米を分けてもらえたからできた、敗戦前後の食糧難時代ではましな夕食だった。
アラブの米料理を賞味したディナーの話題から、つい、戦時疎開した田舎の食事を披露することになった。

 ところで、ウイキペディアで検索した、「世界の米料理」の記述にアラブ料理が欠如しているのは意外だった。
 四〇年前にバグダッドの家庭で味わった米料理と類似のものは、広くアラブ諸国に分布しているはずなのに、どうして書かれていないのか訝しく想われる。

 マクルーバのレシピで参考にさせていただいた酒井啓子さんの『イラクは食べる』(岩波新書)は、イラク料理を紹介する本と思われるかもしれないが、そうではなく、著者はイラク政治研究専攻の東京外国語大学大学院教授なのである。
 同書で、二十種ほどの料理・菓子・飲物の写真が見られるが、レシピがあるのはその半分ほど。
この拙文を書き始めて間もなく出版された著述内容に共感する点が多々あるので、敬意を表して、カバーにある文章を転記させていただく。

 米英軍によって「開放」されたイラクでは、イスラーム勢力が力を伸ばし、政治権力を握る一方で、イラク人どうしが暴力で対立する状況が生まれた。だが、どんな過酷な
環境にあっても、人びとは食べ続ける。
アラブのシーア派やスンナ派社会、クルド民族、そして駐留外国軍の現在を、祖国の
記憶と結びついた料理や食卓の風景をもとに描く。

 その終章に、二○○三年の米英中心の対イラク軍事攻撃とフセイン政権崩壊後に起きたことは、さまざまな「ひっくり返り」事件だったと述べられている。

『アラブと私』を、対イラク軍事攻撃を主導したブッシュ元大統領を揶揄する朝日新聞「天声人語」の引用で書きはじめたが、「ひっくり返しご飯」の写真・レシピを終章の扉に選んだ著者のウイットは、なかなかのものだ。
 酒井さんは、米英と有志連合軍がフセイン政権をひっくり返した後に期待したリベラル親米政権樹立を、イスラム政権がひっくり返して成立したことを「ひっくり返し」の連鎖だと捉える。

 長年行政の中心にいたテクノクラートたちが、ひっくり返されて国外へ逃れたあと、社会の底辺にいた若者たちが入れ替わったのは、イラク国内だけでなく、他国への軍事介入を主権侵害とする国際政治の常識がひっくり返され、植民地支配と糾弾された外国の介入が、「復興」や「人道支援」と名づけられていると指摘する。
 ひっくり返し過ぎに気づいた米政権にとって、このイラクの政治的混乱とイスラム化の進行は、長年バース党政権をひっくり返すことを希求してきたイスラム主義者たちの「革命」であり、頭痛の種になっているとも分析している。

 フセイン政権の崩壊以降のイラクの右往左往の混乱状況は、パンドラの箱を「ひっくり返した」ブッシュ政権の大きな誤算といえよう。
マクルーバのレシピにかこつけると、米の上にいろいろな食材を重ねのせるとこは、民族主義・イスラム主義、スンニ派・シーア派、世俗主義・原理主義などが混在するイラク情勢そのままだ。

 米国のご都合主義的な中東政策の結果を如実に示している「ひっくり返しご飯」ではある。
 歌と同じように、食べ物も過ぎた日々を思い出させるわけで、カバブとドルマを食べたあのとき、オムライスをつくった少年のころの無謀な戦争の結末と再興の二十五年を思い出したのだった。
 あれから四十年。アハラムと家族たち、そしてユーセフは、どんな暮らしをしてきたのか。

 ディナーのテーブルに戻ろう。
 ユーセフによると、断食の慣習は、彼の実家の家族や数十年前の西欧のキリスト教たちも行っていたという。完全な断食ではないが、復活祭前に、キリストの断食苦行の追体験として、質素な食事を摂り、菓子やタバコなど嗜好品の一つを我慢したという。
 だが、仕事の効率重視の近代化で、この慣習もしだいに行われなくなり、修道的禁欲生活を実践する人たちにかぎられるようになったという。
 
 デザートには、クレーチャが出た。バグダッドへ来る途中のサマーワで仕入れたあの菓子だ。
 国外へ出稼ぎに行くイラク人の多くは、母親や妻に作ってもらったこのお菓子を持参するのですね、とユーセフの受け売りをした。(9・参照)
「ええ、日持ちしますからね。旅先の栄養補給にとてもいいのです。ラマダーンでたくさんつくりましたから、お好きでしたらホテルへお持ち帰りください」
「ありがとう。明日はモスールへ日帰りしますのあちで、車のなかで頂くことにします」
 クレーチャをつまんでいる私に、アハラムが、トルココーヒーをサーヴしてくれた。テヘランでよく飲んだコーヒーである。
「お宅ではトルココーヒーをよく飲むのですか」
「そうです。クウエートなど湾岸諸国でよく飲むアラビアコーヒーは、遊牧民が飲んできたもので、都会ではトルココーヒーが飲まれますね」
 マリクの説明では、約四百五十年前のオスマン帝国時代のイスタンブールで飲まれ、ヨーロッパに広まった伝統的な飲み方は、中東、北アフリカ、バルカン諸国に、いまも共通しているそうだ。
 アラブではカフワ・アラビーア、ギリシャ人には、ギリシャコーヒーまたはビザンチンコーヒーとよばれているとのこと。
 粉末のコーヒーと砂糖を煮立ててカップに注ぎ、粉が沈んでから上澄みを飲むのである。
「フミオさん。飲んだあとのカップをソーサーにかぶせてひっくり返して、カップの底に残った粉の模様を見てください」
「それは、『コーヒー占い』ですね。テヘランで教えてもらいましたよ」
「フミオさんの運勢が、読めますか?」

                                  (続く)

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アラブと私
イラク3千キロの旅(40)

                               松 本 文 郎 
 
「郷に入らば郷に従え」で、コックの「ハッジ」から教えられたクルアーンの食事作法に、食事中はあまり喋らず早く食事を終えるとよいとあるのを聞いていたが、あえて、主に訊ねてみた。

「ナセルが夢見たアラブ社会の近代化が進めば、保守的な王国は別としても、共和制の国々では、欧米的なライフスタイルが浸透して、クルアーンの生活規範がゆらぐことはないのでしょうか」

「生活は、時代と共に変わってきましたからね。ムハンマドが啓示を受けたとするクルアーン自体、そのころの社会や生活の乱れを正そうとしたものでしょう。良し悪しは別に、若い世代は、欧米の文化に憧れ、その風潮に染まりはじめていますから、時代の流れには逆らえないと思います」

 戦前の日本家庭で、いかめしい顔つきの家長と一緒に黙々と食べていた家族の食事風景が戦後に一変したのも、アメリカ型のライフスタイルへの憧憬からで、親子の上下関係や旧い食事作法は、あっという間に変わり果てた。

「ハッジ」の忠告に従って、なるべく食べることに専念しようと、アハラムが取り分けてくれていたエイドの祝い料理「ローストチキン」の鶏肉・松の実・米を、指先でまとめながら口に運ぶ。

「鶏の皮が香ばしく焼けて、とても美味しいです」

 父親の右に座るアハラムがうれしそうに微笑み、左側のマリクもうなずいた。

「きのうはエイドの初日で、親類一同が集まり、テラスで食事を楽しみましたが、甥の母親や娘たちも手伝って料理をつくりました」

「私の妻は料理上手ですが、少女のころから母親の調理を見習って、身につけたようです」

「ジャミーラはこれからですが、アハラムの料理はもう妻の味を受け継いでいると、昨日も、義姉がほめていましたよ」

「料理の上手な主婦がいる家庭は幸せですね」

「ええ、食事前に唱える『ビスミラ』は、神への祈りですが、妻への感謝も重ねているつもりです」

「日本人は、食事前に『頂きます』、食後は『ご馳走さま』と言いますが、まったく同じ気持です」

 食事は、人間が生きてゆくための基本的な欲求だが、民族や宗教を超える普遍的な規範や作法があるようだ。

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「昨日の食事の集まりで、お二人のことを知った甥っ子が、ぜひ歓談させてくれと申しましたので、ここにご一緒させています」 

「日本人建築家にお会いするのは初めてですが、フミオさんといろいろ語り合えてとてもうれしいです」

「マリクはずいぶん熱心に、フミオさんと話していたね」

「ええ、これからの世界は情報化時代になるので、情報電気通信分野には強い関心をもっています。伯父さん。大阪万博のNTTパビリオンで公開されたワイヤレステレホンは、大評判だったそうですよ」

「クウエートの電気通信近代化のプロジェクトが完成して始まる自動車電話サービスでは、機器を車外に持ち出せますが、肩に掛けるほどの重さと大きさです。いずれは、万博で試験的にサービスした小型軽量の携帯型が現れるでしょうけど」
 
 この調子では、食事中の会話がはずみそうで、クルアーンの食事作法が気になりはじめた。
 思い切って、そのことを主に訊ねた。

「気になさらないでください。私は、妻のようにクルアーンに忠実でありませんから、ご遠慮なく欧米式で食事と会話をお楽しみください」

「シュクラン(ありがとう)」と言ってから、私がローストチキンを食べきったのを見たアハラムはサービステーブルへ行き、大皿のカバブとドルマを新しい皿にとりわけてくれた。

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 レタスの葉にのせたカバブに三日月形に切ったレモンが添えてある。ドルマは、中身をくりぬいたナス(丸くて大きい)やトマトに詰め物をした煮物で、カバブに付け合せてある。

「日本でアラブ料理を食べたことのない私ですが、クウエートへ来てから、米などを詰めたローストチキンはホテルのパーティなどで食べましたし、単身赴任者が住むフラットのコックが、ときにはアラブ料理をつくります」

「フミオさん! 私も手伝った母の料理はお口に合いますか?」

「とても美味しくいただいています。私はアラブ料理にかなり馴染みましたが、仲間たちは日本的な料理にこだわっていて、ムスリムのパキスタン人コックを困らせています」

 伯父さんが欧米式でかまわない言ったからか、それまで会話を控えていたマリクが、
「料理は文化ですからね。異国の人がたやすくは馴染めないでしょう。好奇心の旺盛なフミオさんは特別ですよ」

「かもしれませんね。ハッジである彼は、働いていたクウエート駐在の商社幹部の家で奥さんから習ったのか、もどきの日本料理を食卓に並べますが、カバブやドグマなど自慢のアラブ料理を出すこともあります」

マリクは、食事前の熱心な話ぶりに戻った。

「パキスタン人のほとんどは敬虔なムスリムです。第二次大戦後、ムスリムの多住地域がインドから独立しました。信心深く勤勉なので、バグダットでも、コック、女中として働く夫婦は少なくありません。独立後間もなくカシミール地方の帰属をめぐり、第一次のインド・パキスタン戦争が起きました」

「一昨年のイラン国電気通信研究所の建築計画の技術指導でテヘランへ行く途上で、パキスタンの前例視察でラワルピンジに立ち寄ったとき、夜間戒厳令が布かれました。初めての体験で怖い想いをしましたが、アユブ・カーンの長い軍事政権への反政府運動が勃発したのです」

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「その年には、アユブ・カーン大統領の引退声明、アラブ・ゲリラによるイスラエルの飛行機襲撃と中東問題激化・国連緊急安保理事会開催のほか、スーダン・南イエメン・リビア・ソマリアなどでクーデターが相次ぎ、アラブ世界に不穏な空気が充満していました」
 この調子では、アラブをめぐる国際政治問題の話が際限なくつづきそうだ。

「マリク。難しい話は食事の後でしませんか」

「どうもすみません。また<ブンヤ>気分が出てしまいました」

 さっそく話題を変えて、アラブ料理と米のことをアハラムに訊ねることにする。
「アハラムに教えてもらいたいけど、アラブ料理で米が使われのはローストチキンやドルマのほかに、どんなのものがあるの?」

「イラクの家庭料理のマクルーバもそうですよ。手間はかかりますがとても美味しいです。長ったらしいレシピですが、お知りになりたいですか?」

 
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酒井啓子著『イラクは食べる・日常と革命』にその記述があるので、短縮・転記させていただく。

 ・大きいナスを輪切りにして水に晒し、
  両面を油で焼く。
 ・薄切りにしたタマネギとピーマンを
  炒める。
 ・羊肉を柔らかくなるまで水で煮て
  (45分)、トマトソースを加えて
  さらに20分煮る。
 ・鍋に油を入れ、薄切りトマトを炒め、
  その上に炒めておいたタマネギ・
  ピーマンを敷く。
 ・その上にナスを敷き、羊肉をのせて、アラブ風スパイスを振り、さらに米を敷き、
  肉汁をかけて30分ほど炊く。
 ・十分炊けたか確認し、鍋に大皿を逆さにかぶせてひっくり返し、鍋底の野菜が
  上にくるようにして、出来上がり。

 アラブ風のスパイスは、黒コショウ、シナモン、オールスパイス、カルダモン、クローブ、ナツメグ、ショウガ、干したバラの花弁を混ぜ合わせたものである。

「レシピからのイメージでは、ケーキのように、野菜・米・肉が層をなし、味はおそらく、日本の炊き込みごはんのようですね」

「家族みんなが大好きで、母の得意料理の一つです。ねえ、パパ」 

 料理上手な主婦たちがつくる品々を家族や親族一同が集まってにぎやかに食べて談笑する断食月の食事風景は、なんだか、少年の私が田舎で体験した、盆・正月や冠婚葬祭の集まりに似ている。

 普段あちこちにちらばっている親族や知人らが集まって再会し、一緒に食事する喜びと楽しさは、人間に普遍的なものにちがいない。

 半日の断食で生じる軽い飢餓感から開放されて味わう最初の食事イフタールに、普段よりこころをこめた『ビスミラ』を唱える主は、クルアーンに従うというより、その信奉者である妻の美味な料理への感謝を表していると、よく分かった。

 世界中のイスラム社会で毎年おこなわれているラマダーンの断食は、日常生活へのアクセントで、人びとを活性化し、社交的にしているようだ。                 

                                                                     (続く)


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2010/12/08 12:11 2010/12/08 12:11

アラブと私
イラク3千キロの旅(39)

                             松 本 文 郎 

  
「ビスミラ?」
 隣席のユーセフの耳に小声でつぶやくと、「家で食事を始めるときに、いつも唱えます」テーブルの向かい側に掛けている主が告げた。
「戦時疎開した母の実家で一人だけクリスチャンの伯父貴は聖書の言葉を唱えました。他の家族は祈りが終わるまでは箸をとりませんでした。少年の私が、一緒にアーメンを唱えたのは、なんだか、伯父貴が気の毒に思えたからでした」
ユーセフが私に囁く。
「私の家は代々クリスチャンですが、神の恵みの食事への感謝は、心の中で唱えました」
「それぞれの家族の習慣ですからね。それでいいのではないですか」
だれにとはなくとりなす口調で、主が言った。  NTTクウエート事務所の単身赴任者が住んでいるフラットのコック(巡礼月にメッカに巡礼した者だけの「ハッジ」の称号をもつ)も、私たちが手をあわせて「頂きます」というのを、恵みの食事への感謝の祈りと受けとめている。

  ローストチキンを食べていたアハラムが、「母ほど信心深くない父が日常唱える『ビスミラ』はただの習慣に見えますが、きのう明けた断食月(ラマダーン)の間だけは、クルアーンへの敬意がこめられていました」
「アハラムの言うとうりです。ラマダーンの断食をすると気持ちがとても清らかになり、日没後に許される食事のありがたさが身にしみて、アラーへの感謝を心から唱えたくなるのです。ズボラなムスリムの私でも……」 
 断食は、イスラム教に限らず、仏教・キリスト教・ユダヤ教でもなされるべきものとされるが、聖職者や特定の人だけではなく、ふつうの人たちが日常感覚で行うのがムスリムなのだ。
 読者の参考に、ムスリムの「断食」のあらましを、以下に記しておこう。(私の体験以外の多くは、片倉もとこ著(『イスラームの日常世界』に拠る)
 
 断食月の毎日の日の出から日没まで、ムスリム(イスラム教信者)は一切の飲料(水も)や食物を口にすることが禁じられている。喫煙も、ツバをのみこむのさえいけないという人もいる。
 ムスリムが断食をするのは、食を断つこと自体が目的ではなく、短期的でも飢えを体験することで、食物を恵与する神への感謝と、食べることができない者の苦しみを知るためという。

「ビスミラ」のような神への感謝を唱える言葉は、ラマダーンの間は普段以上に大切だそうだから、アハラムの父親の弁はもっともだと思う。
 ムハンマドの最初の断食は、ユダヤ教の贖罪の日の断食に倣ったもので、クルアーンを授けたのは、洞窟のきびしい断食のあとに聴いた神の声とされる。
 その故事にちなみ、ラマダーンは、「栄光の月」クルアーンを授かった夜のことは、「ライラト・ル・カドル」と呼ばれてきた。
 その夜は断食月の二十七日ごろとされ、この日をふくむ数日間は、とりわけ熱心な礼拝をする。
「ライラト・ル・カドル」の夜は、最も神の栄光に満たされた夜として、人々は集団で一夜を祈り明かすそうだ。

 二十九日間の断食月のクライマックスの夜は、高揚した気分にあふれた町が眠りにつかず、どの礼拝所からもクルアーンを唱える声が静かな熱気をおびて流れ出る、と片倉さんは書いている。
 ラマダーンの第一日目のどの朝刊トップにも、「おめでとう! 今日は、ラマダーン第一日」と書き立てるというが、元旦の朝刊紙面のめでたい雰囲気と似ているし、「ライラト・ル・カドル」のクルアーン詠唱は、除夜の鐘の音といえようか。
 毎年訪れる断食月は陰暦のために太陽暦とずれを生じて過暑の夏になることもあるが、人びとは、季節にかかわらず、興奮と緊張をない交ぜにした気持ちで迎えるという。

 私なら、冷たいビールを欠かせない季節なのに、水の一滴ものんではいけないのだから、たいへんな苦行である。
 でも、ご安心あれ。

 この宗教的な行は、比叡山や東大寺での荒行とはちがって、日没から日の出までは、断食が解除されるのである。
 つまり、太陽が沈むと、その日の断食から開放されて、「イフタール」いう最初の食事を食べる。その語意は、英語のブレックファストと同じく、「断食を破る」である。
 日没直後すぐに、待ちかねた食事をとるのは許されているものの、宗教上も健康上もよくないとされ、まず、ナツメヤシの一、二個を口に入れ、アンズをつぶしたカマルディーンというジュース
か甘草の根のスープを飲んでから神に感謝の祈りをささげ、食事にうつるのがよいとされる。

 空腹で我慢できず、お祈りはあとまわしにして、腹を満たしてから礼拝する人も少なくない。
人びとは半日の断食から解き放たれ、おおいに飲み、おおいに食べ、水タバコをふかしながら、遅くまで互いに喋り合う。
 夜のスーク(市場)に光があふれて、さまざまな食べ物が笑いさんざめきながら訪れる客たちを待っており、正月料理のような特別な品々も並ぶ。
 アラビア半島の多くでは、サンブーサ(餃子の皮のようなものに羊のひき肉とチーズを包んで、油で揚げたもの)、アブダビ、カタールなどの湾岸地域では、ドーナツのようなラギーマートという断食月用の菓子がある。
 ラマダーンの間につい食べ過ぎて太ってしまうのも、無理からぬことである。
 ところで、アラビア語には、砂漠に沈む夕日、吹きわたる風、星空などの美しい自然の様を表現するヴォキャブラリーが驚くほどたくさんあると聞く。万葉集歌・俳句にみる表現の豊かさである。

 そんな感性のアラビア人も、飲食解禁の日没の瞬間、家族・親族が集まり、たらふく食べ、飲み、お喋りに夢中なので、夕焼け空の美しさをめでるどころではないようだ。
 断食している間は十分昼寝しているから、短い睡眠のあとは、断食が始まる日の出前に起きて、サフール(夜明け前の食事)をとる。ヨーグルト、スープ、ゼリー、マディール(羊や山羊の乳を干したもの)などの簡単な食べ物を口にして、また断食の半日が始まるのである。
 主との会話に戻ろう。

「ご主人と娘さんたち断食は、クルアーンを忠実に守られている奥さんのためですか?」
「それもありますが、断食するとからだの調子がよくなるのです。アタマが冴え、仕事がはかどります。でも、旅先の外国では、その土地の生活に合わせるようにしています。クルアーンは、あくまでも自分自身を律する規範ですからね。守り方も各人の考えで違っていいと思いますよ」
 二十世紀初めに土木建築会社を起こした曽祖父の近代精神を受け継いだ血か、彼が到達した独自の人生観かはともかく、このかなり柔軟な考えの持ち主は、アルコールもかなりいけそうだ。
「スンニ派の家に生まれた私が、実家がシーア派の妻と結婚したように、ムスリムとクリスチャンの間など、宗教・宗派が異なる結婚は時代と共にめずらしくなくなっていて、娘たちからあとは、もっと自由になるでしょうよ」
 ここぞとばかり、ユーセフが主に訊ねた。
「アハラムの結婚相手の宗教・宗派へのこだわりは全くありませんか?」
「ええ、私たち夫婦がそうでしたから、アハラムも好きな男性と結婚すればいいのです。たとえ、私たちが反対しても、勝気なアハラムはきかないでしょうが……」
 向かい合った席で、ユーセフとマリクは、互いの目を見合い、アハラムは、何気ないそぶり。
「バグダッドの人の生活近代化は、思いのほか、速いスピードで進んでいるようですね」
「サウジアラビアやヨルダンなど王政の国では、クルアーンの規律がまだ厳格に守られていますが、それも時間の問題かもしれません」
 世界一金持の国クウエートの若者らが欧米人もビックリする奔放な生活を楽しんでいるのを見ていたので、石油埋蔵量の豊富は湾岸首長国連邦の海岸に、近代化の大波が押し寄せるのは間もない
ことかもしれない。

 農業革命や産業革命を経てきた人類社会では、情報化と経済発展に基づく近代化が急速に進行し、長く守られてきた宗教的な礼拝・慣行もうすれるのではないか。

                                   (続く)


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2010/11/30 11:03 2010/11/30 11:03

アラブと私
イラク3千キロの旅(38)

                               松 本 文 郎 

  
「フミオさんはアラブ世界の変動の始まりと仰いましたが、その前に、第一次世界大戦でオスマン帝国が滅亡した後のアラブの大変動があります。「砂漠の豹」と呼ばれたアブドルアジズ・イブン・サウドが、イギリスの揺れ動く中東政策に翻弄されながらサウジアラビアを建国した経緯をご存知ですか?」

「おぼろげですが……。クウエート事務所へ転勤の内示を受けてすぐ読んだ本に、サウジアラビアの建国前史に触れたものがありました。飛ぶ鳥を落とす勢いでエジプトにまで遠征したナポレオン皇帝が、宿敵イギリスの息の根を絶とうとして、ペルシャやアラビア半島を支配していたサウド・ワハブ王国を味方にしたが、ワーテルローの戦いの後でイギリスが反撃に成功したことが書かれていました」

「そうなんですよ。まだイギリスの同盟国だったオスマン・トルコは、エジプトの太守に命じて、サウド王国へ遠征軍を派遣させて徹底的に破壊・滅亡させたのです。中東をめぐり列強がしのぎを削ったのをきっかけに、古代からのアラブの歴史に大変動が起きはじめた時代と云えます」

 マリクは顔面を紅潮させて、熱弁を続ける。

「もっと遡れば、十七世紀末前後のペルシャ湾の制海権は、ペルシャとオスマン・トルコの間で争われていたのです。アラビア半島一帯はトルコの勢力圏(カタールをふくむ)で、バーレーンは、サザン朝ペルシャの領土でしたが、一七七六年、ペルシャ軍が南メソポタミア随一の良港で「千一夜時代」に繁栄をきわめたバスラを手中におさめました。その支配下に入るのを嫌ったアラブ人の多くは、クウエートとズバラへ亡命したのです」

「私たちには、<ペルシャ湾><アラビア湾>の呼称のいずれをとるか、イラン国とアラビア湾岸地域の双方と友好関係を維持したい立場から、微妙な問題ですよ」

「カタールの歴史は十八世紀になって始まるのですが、その前半で活躍したバニ・ウトバは、ネジド高原から海岸をめざして移住したアナイザ族で、武を尊ぶアラブの民のなかでも、古くから毛並みの良さで知られていました。当時のバーレーンとカタール半島の間の海は天然真珠の採取で栄えましたが、この部族の三家、サバーハ、ハリーファ、ジャラヒマは、それぞれ、クウエート、カタール、ルワイスに定着しました」

「私には興味深いお話ですね。今のクウエートの首長もサバーハ家の子孫で、とても人望がの厚いと聞いています。石油収入を王家一族、国家予算、ベドウイン族に三等分する統治手法の評判はいいようですね」

「首長のサバーハ家がベドウイン族を大事にするのは、元はといえば高原の遊牧民ですから、その忠誠心を保つのが統治維持の要と考えているからだと思います」
「そういえば、王宮や首長の車両を護衛している親衛隊の男たちは、みんな精悍な顔をした屈強な連中です」

「人口の少ない国に莫大な石油収入があり、国民一人当たりの年収が世界一をつづけているのは、豊かでない隣国イラクには羨ましいかぎりです」

 マリクは、叔父とアラビア語で話しこんでいるユーセフの方に目をやった。

「NTT事務所で働いてもらっているイラク人やインド人のエンジニアには、日本人のスタッフと同じ給料を支払っていますから、ユーセフたちも満足だとおもいますよ」
「だから、優秀なエンジニアはクウエートで働きたがり、若い女性にもクウエート人と結婚しがるのが少なくないのです」

「クウエート郵電省の次官は国会議長の子息ですが、奥さんはバグダッドの豪商の娘さんだとか」

「クウエート人高官が、イラク女性を奥方にしているケースは珍しくありません。なんと言っても、バグダッドは「千一夜物語」の舞台ですからね。クウエート建国の歴史が分かるとてもよい本に、生き字引といわれたヴァイオレット・ディクソン夫人が書いた『クウエート四十年』があります。夫はイギリスのクウエート駐在司政管でアラビア学の権威ハロルド・ディクソン中佐です。彼女が、『007』のイアン・フレミングにすすめられて書いているうちに、独立する以前のクウエートを知るための貴重な記録になると意欲が湧いてきたそうです」

「『007』シリーズは映画で見ています。彼女の本は創作ではない生の記録ですから、これからのクウエートでの仕事に役に立つでしょう。本屋で探してみます」

「ディクソン中佐は当時のアハマド首長の無二の親友でしたから、彼女の生活体験だけではなく、クウエートの内政・外交のエピソードの目撃者としての記述もあり、フミオさんのよい参考になると思いますよ。イラクの初代の王ファイサル一世やサウジアラビアを建国したアブドルアジズ王らも登場します」

 つぎつぎに料理の皿を運んでテーブルに並べていたアハラムが、食事の用意が整ったと告げる。
 掛けていたL字型ソファの斜交いの席で父親が立ち上がり、私たちをテーブルの方へ誘った。
 すると、スカーフをした初老の女性がキッチンのドアに顔をのぞかせて、私に会釈をした。

「妻です。敬虔なムスリムでご一緒はしませんが、自慢のアラブ料理でおもてなしをします」と主は英語で言い、妻にはアラビア語で伝えた。思いもしない、リビング出入口の奥方の出現に、アラビア語がとっさに出てこず、彼女の目を見て会釈を返しただけの挨拶になった。リビング一角の壁際のサービステーブルには、アハラムが運んだ料理がきちんと並べられている。
 ダイニングテーブルに、主が指し示してくれる席に各々が座った。
 家に着いてすぐテラスに案内されて、前菜を味わいながら、ビールやアラックを飲んで歓談したので、まだ、改まった挨拶はしていなかった。
 くだけたホームパーティをしつらえた主の心遣いに、主客としてなにか感謝の気持ちを伝えたいとユーセフに耳打ちすると、
「ざっくばらんなお人のようですから、このままでいいのではないですか」とささやき返した。
 アハラムが、テーブルセッティングをすませて着替えた、ロングドレスの愛らしい姿で言った。

「料理は、サービステーブルからお好きなものをとって召し上がってください。ポピュラー料理の品々とエイド・アル・フェトリの特別な一品です。フミオさんには、私が説明しながら、選んでさしあげます」

 アハラムはサービステーブルに並んだ料理の順に、ユーセフの通訳で説明しながら、私のための適量をとりわけてくれるらしい。
 ホームパーティの主客は、招待側で選んでくれる料理を食べなければならないと聞いていた。カバブ(ひき肉とタマネギ・パセリのみじんぎりにオールスパイス・塩・胡椒を混ぜて串に練りつけ、小麦粉をまぶし、ぬり油をしてオーブンで焼いたもの)やドルマ(ナス・トマトなどの身をくりぬいて肉・米・タマネギ・ハーブの詰め物をして煮たもの)はお馴染なので、まず、エイドのお祝いの料理から頂くとしよう。
 アハラムによれば、大勢の親族が集う伝統的なエイドの典型料理は子羊の丸焼きだが、少人数では食べきれないので、今日は、鶏に米と松の実をつめたローストチキンですと云う。

 つめものでパンパンの大きな鶏は、こんがりと焼きあがって美味そうだ。
 主客のために、特大の皿の鶏にナイフを入れたアハラムが、右手の細くきれいな指で、私の皿にとりわけてくれた。
 卓上にはナイフ・フォークなどが並んでいるが、アラブ料理は、指先で食べるのがいちばん旨い。
 レモンのうす切り入ったボールで指先を洗って、自分の料理をとっているアハラムを見ていた。 彼女の家族も、料理を取る順はやはり男性優先とみえる。
 アハラムが席に戻ると、改まった面持ちの主が、おもむろに、「ビスミラ!」と言った。

「アラーの神への感謝です」と隣席のユーセフが教えてくれる。

                                  (続く)





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الأمير عبد العزيز آل سعود مع أمير الكويت الشيخ مبارك الصباح بالكويت عام 1910








2010/11/05 12:44 2010/11/05 12:44

アラブと私
イラク3千キロの旅(36)

                          松 本 文 郎 

  
 敗戦から六十五年目の八月の記述は、世界平和を祈る「道草」をして、原爆と戦争に終始した。あれから、もう一ヶ月。

 一九七一年三月のバグダッドで、アハラムの家を訪ね、チグリスからの川風が吹き通るテラスで、アラックを飲んでいるシーンからは、三十九年だ。そのシーンへ早く戻らねばならないが、(36)の節目なので、(15)と同様、読者の便宜のために、二十回分の要約をしておきたい。
 
 この長期連載は、日本ジャーナリスト会議(JCJ)「広告支部ニュース」の編集者矢野英典さん(「九条の会 浦安」事務局長)の誘いで始まった。執筆の動機は、一九七○年から四年間在勤したアラブでの個人体験の記録だけでなく、9・11がきっかけのアフガン・イラク戦争が、世界平和を脅かさす危惧からである。
 進行中の「イラク3千キロの旅」はあくまでも『アラブと私』の序章であり、本論は、この旅の後、三年を過ごしたクウエートでの仕事と生活で経験した「アラブと私」である。

 九月九日の今日のBS「ワールドニュース」で、米フロリダ州のキリスト教会が計画している、9・11から九周年の十一日にイスラム教の聖典クルアーンを焼却する行事に、アフガニスタンとインドネシアなど世界中のムスリムから、抗議の波紋が広がっていると報じた。
 ブッシュの理不尽な戦争を終結して、イスラム社会との関係修復を目指しているオバマ政権は、行事の発覚直後から、批判とともに計画の中止を求めている。
 一方、グランド・ゼロ付近のモスク建設計画では、市民・国民の反対運動自制を要請して、宗教の自由を標榜する姿勢を示してもいた。

 アフガン駐留米軍司令官は、「アフガンや世界で、イスラム過激派が反米的な世論に火をつけ、暴力をあおるために利用する」とし、米国務省次官補も、「焼却は、過激主義をあおり、在外米国民を危険にさらし、国益を損ねる」として、中止を呼びかけた。
 焼却を計画したのは、信者が約五十家族ほどの「ダブ・ワールド・アウトリーチ・センター」という教会。「邪悪な宗教」であるイスラム教への抗議と、イスラム教の危険性についての啓発活動の一環で、中止する理由はないと主張している。
 キリストは、他者への寛容を説いたのだが。以下は、(16)から(35)までの要点である。

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(16)真夜中に着いたバグダッドのホテルで、私が見た夢は、なんと、『アリババと四十人の盗賊』の場面だった。財宝を奪われた豪商の依頼で盗賊をやっつけた私とユーセフが、豪華な招宴の席で女奴隷のアハラムに再会する不思議なシーンだ。 

(17)「イラク3千キロの旅」はユーセフの誘いで始まった。バグダッドに実家がある彼は、旅の前、アハラムとどんな連絡をしていたのだろうか。アハラムが妹ジャミーラを伴いサマーラの塔へ郊外ドライブするのを、建設会社を営む父親に、ホテルからの電話でOKさせたのは、さすが。

(18)アハラムの家の近くの公園で、朝方の夢に出てきたアハラムと再会。魅惑的な黒い瞳。十二歳のジャミーラと私は後部座席、助手席にアハラムが座ったトヨペットクラウンをユーセフは発進させた。アハラムのうなじから肩への浅黒い肌は、ネフェルティティ・イン・バグダッドだ。(前に、ネフェルティティをツタンカーメンの王妃と書いたが、違う王の妃だった。訂正して陳謝!)

(19)紀元前三千年代末のメソポタミアの古代都市バビロンと、紀元前六百年代の新バビロニア王国の首都は、バグダッドの南八十キロの地点。北の郊外に立つサマーラの塔は、スパイラルの回廊をもつ、高さ五十メートルの小ぶりで単純な形体だが、イスラム帝国が千三百余年を遡る伝説の「バベルの塔」に似る建造物を立てことに興味を引かれる。 9・11跡地に建設中の五百米を超えて全米一になるタワーや、イスラム国ドバイでの超々高層ビルの建設ラッシュは、「バベルの塔」が神の怒りに触れたように、キリスト・イスラム教それぞれの「神」への冒涜とならないのだろうか。

(20)アハラム姉妹の後を歩いてサマーラの塔を上り下りしながら、ユーセフは、バベルの塔と空中庭園をもつバビロンが、いかに壮大な建造物の集合体の都市だったかを、誇らしげに語った。 古代から近代までの王・皇帝など権力者たちは、権勢を誇る建造物を後世に伝えようとして、想像を絶する莫大な金と労働力を費やしたものだ。

(21)その中で、「世界の七不思議」に挙げられた建造物にも、時代的な変遷がある。「新世界七不思議財団」による選定候補の一つ、日本の清水寺は選に漏れた。塔から降りた私たちは、チグリスの川魚を焼いて食べさせる店で、遅い昼食をとりながら歓談。アハラムからは、私との最初の出会いや父親の仕事のことを聞き、彼女をジプシーの娼婦と勘違いした助平根性を猛省する。

(22)建築土木工務店を営む家の長女アハラムは、都市バビロンの建造物の話にも興味を示す。夕方招かれている私たちの歓迎ホームパーティでの話題を探しているうち、王妃のため空中庭園を造らせたネブカドネザル二世のエルサレム侵攻と「バビロン捕囚」に由来したオペラ『ナブッコ』に及ぶ。ナブッコとはネブカドネザルのこと。

(23)(24)旧約聖書に基づいて書かれたワーグナーのオペラの話は、ユーセフのアラビア語と英語の介在で、アハラムと私の間を盛んに飛び交った。『ナブッコ』初演の一八四二年当時のイタリアは、絶対王政の都市国家郡に分かれ、一八四八年には、マルクスの『共産党宣言』が出て、王政から共和制に「チェンジ」するヨーロッパの過渡期だった。(この回からは、「序章」を早く終わらせて本題に入るため、記述量を倍増することにした)

(25)(26)(27)昼食の歓談の後、バグダッドへ戻る車中で、ムスリムの聖典・生活規範であるクルアーンについてアハラムとユーセフから話を聞いたものを、ウイキペディアの記事で補強した。
 一神教のユダヤ・キリスト・イスラム三教は、同じルーツをもちながら、互いの神を認めないで争ってきたが、現在のムスリムの宗教多元主義者は、「ムスリムはクルアーンを、他の宗教はそれぞれの天啓を尊べばよく、天啓に優劣はない」としている。それぞれの始祖が説いた「寛容」を!

(28)(29)クルアーンにある女性関連規程の「男尊女卑」「隔離」「ヴェール」「一夫多妻」へのアハラムの考えを聞いたが、イスラムの女性観の記述では、中田香織さんの「アッサラーム」誌からの引用記事、片倉もとこ著『イスラームの日常生活』などに多くの示唆を受け、感謝。
 イラクの近代化を目指す共和制バース党政権下では政教分離を掲げており、ユーセフとアハラムが、キリスト教とイスラム教の歴史を学校で学んでいたからこその話が、いろいろとできた。

(30)(31)ユーセフがアハラムたちを送っている間にホテルで一休みして、ホームパーティに備える。アハラムの父親に会うのは少々気が重い反面、楽しみでもあった。ユーセフが仕入れてきた花束とクウエートからもってきた闇のジョニ黒を携え、アハラムの家を訪ねる。にこやかに出迎えた父親は、如才なく、愛想のいい人のようで、ホッとする。遠来の客への社交的心遣いか、甥の新聞記者を招いたり、昼食とドライブ中の話題を、ユーセフから聞きとったりの、周到なもてなしに感心する。彼の家系は、信心深いシーア派に比べて世俗的とされるスンニ派で、アルコールもご法度でなく、私の好物のビールも用意されていた。新聞記者のマリクが来てから、英語での真面目な話がおおいに弾む。
 アハラムの母親が客の前に姿を見せないのは、実家がシーア派で、生活規範の「ハディース」に遵っているからと、理解を求められた。ところで、執筆中の折りしも、ブッシュの要請でイラク戦争に参戦したイギリスのブレア政権の「政治判断」の是非を巡り、「独立調査委員会」による徹底調査が始まったと知る。オックスフォード大教授のアダム・ロバーツ氏はNHK「クローズアップ現代」国谷キャスターのインタビューで、ブレア労働党政権の歴史的視点の欠如に言及。イギリス軍イラク占領下の一九二○年に、中南部で起きた大規模な反英暴動の歴史から、なにも学んでいないと指摘している。
 アハラムの父親は、その五年後に生まれたのだ。オスマン帝国の支配下でドイツがバグダッド鉄道の敷設権を手にしたころ、土木建築の会社を起こしたのが初代で、彼で四代目という。テラスのテーブルに、夫人ご自慢のイラク料理の前菜のあれこれと、古代アラブが発祥の地の酒アラックが供されている。マリクが、「アラブの食文化を知るには、当時の宮廷料理も書かかれている『アッバース朝の社交生活』の英訳本がよい参考書」と教えてくれる。

(32)(33)イスラム帝国最盛期の首都バグダッドが、中世を桎梏から開放した西洋ルネッサンスをもたらす重要な役割を果たしたとは……。イラクの家庭料理を賞味し中東伝来のアラクを飲みながら、アッバース朝とイラク・イランの関わりの歴史を巡って、歓談がつづく。
 一九六九年、イラン電気通信研究所の建築計画の技術協力滞在が終了して、古都イスファハンと遺跡ペルセポリスへの小旅行に招待されたシーンが眼に浮かんだ。新バビロニアの空中庭園は、ペルシャ軍に破壊さ され、ペルシャの首都ペルセポリスは、古代マケドニアのアレキサンダー大王に破壊された。古代帝国の興亡の証である遺跡を訪ねる旅は、建築家を志した私の夢で、その一つのバグダッドに、いま来ているのだ。小さな土建会社の四代目社長が、新バビロニアの首都建設に携わった土木技術者の末裔のように思えてきた。

(34)(35)この稿を書いている今は、八月十日早朝。ヒロシマ原爆の六日、ナガサキ原爆の九日から、六十五年が過ぎた。広島市の平和記念式典の会場に響きわたった、「ヒロシマの願いを、世界へ、未来へ伝えていくことを誓います」との男女小学生の高らかな声に触発され、小田 実流の「道草」をして、原爆と戦争の記述に終始した。
                                 (続く)


2010/09/28 13:00 2010/09/28 13:00

アラブと私 
イラク3千キロの旅(33)
 
                          松 本 文 郎 

 
 ユーセフと一緒にボーラスを郵電省に訪問したとき、私が述べたのは、「日本人は無宗教と見られているようですが、敬虔に神仏に祈る日本人のこころは、キリスト教やイスラム教のような世界宗教の信者のそれと変わりはないでしょう」(10)だったのだが、むしろ、アジア人の原初的な自然崇拝(アニミズム)の方が、既成の三大宗教の頑なさよりも、より純粋な宗教心のように思われる。

 一神教の出現前の人類社会は、みんなアニミズムだったのである。いつの間にか、私たちの会話に聞き耳立てていたらしいユーセフが肯いている。
「アッバース朝の宮廷料理でお聞ききしたいのですが、さぞかし贅を尽くしたものだったのでしょうね」
「ええ、それはもう! 民びとから見ればびっくりするような料理ばかりですよ」
「たとえば、どんなものでしょうか」
「<シャルバート>というデザートひとつとっても、それはたいへんなシロモノです。材料はナツメヤシの一種と砂糖など一般的ですが、それをつくるために遠くの高山から雪を運んで作らせたそうです」
「日本で三百年続いた徳川幕府の大奥、ハーレムの一種ですが、にも似たような話がありますよ。山岳地帯の城主が山の氷室に貯蔵していた氷塊を、将軍への暑中見舞いに苦労して運ばせました」
「このシャルハードは、ラマダーン明けの喉の渇きを癒すのにぴったりです。ひょっとして、食事の後で出されるかもしれませんよ」
 アハラムが微笑んだのは、そうですよということなのか……。
 それにしても、アル・マアムーンというカリフは、開明君主の称号をもつだけあって、その合理主義的な統治の下で、「文明の移転」という事象が出現したのである。
 つまり、ギリシャ文化とオリエント文化を融合したヘレニズム、イラン、インドなど先行した文明の文献をアラビア語に翻訳した「知恵の館(バイト・ル・ヒクマ)」を開設したのが、このカリフだった。
「現代世界は、欧米の西洋近代がもたらした知見・技術で動かされていますが、それを可能にしたのは、人類の古典的な知恵をアラビア語を介して伝承したアル・マアムーンの先見の明ではないでしょうか」
この偉業をなしたイスラム帝国最盛期の傑出した統治者カリフの血が、アラブとイラン相半ばするとは知らなかった。
「私も不勉強でしたが、そうしたことが分かれば、アラブを産油国としてしか見ていない欧米人たちも、考えを変えなければなりませんね」

 暗黒の中世の桎梏から解き放たれたルネッサンスは、イスラム世界の存在なくしてありえなかったのではないか。
 西洋近代以前のイスラムは、学術、文化、産業、経済、社会、技術などの全分野で西洋に優り、その栄光の耀きはヨーロッパの人たちにはまぶしかったにちがいない。長い中世の抑圧に苦しんでいたヨーロッパ人の目に、イスラム世界の絢爛たる都市文明は、魅力と映るよりむしろ脅威を感じさせ、嫉妬させたのではないか。

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地であるイエルサレムをセルジューク・トルコに占領され、キリスト教徒は十字軍を送り込んだが、(12)で述べたように、法衣の下に鎧をつけて版図拡大を意図したのであって、純粋な聖地奪回の戦いではなかったとするのが、今日の歴史学では通説になってきた。
 十字軍以来、ヨーロッパ人が抱いたイスラムへのコンプレックスの根は深く、ゆがんだイスラム観は強く残っているが、そのなかで、イスラムを正当に理解しようとした人たちもいた。
 カトリック教徒のリルケ、ゲーテなどもイスラムに傾倒し、ヴィクトリア女王は「隠れイスラム教徒」の噂が立つほどだったという。

「知恵の館には、図書館・研究所・翻訳センターがあり、カリフ自身もよく訪れて、学者たちとの討論をリードしたそうです。優れた諸文明をアラビア語に翻訳・記録し、維持・融合しながら、自らのものにしていったのです」
「イスラム文明とかアラビア文明と呼ばれているものですね」 
「そうです。アッバース朝では、ムスリムによる非ムスリムの支配が原則でしたから、才能のある者は人種・宗教の別なく自由に活動できました。多くの百科全書派的な天才が輩出しました」

 話に夢中で、テーブルの前菜も少し残っているし、アラックのお代わりはまだしていない。アハラムが気をきかして、、羊肉のパテと揚げたレンズ豆の「タブーラ」を皿にとってくれた。ホブズで掬って食べた「ホムス」のレンズ豆は、ゆっくり煮てミキサーにかけ、ごまペーストを加えてどろどろにしたと、アハラムから聞いていた。

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 皿に取り分けてもらった「タブーラ」を味いながら、アラックのグラスを空けた。
「私たち日本人も、朝食のおかずに煮豆をよく食べたものです。一家のおばあさんがゆっくりと時間をかけて煮るのが習わしでしたが、今の都会では店で買います。豆を揚げたりはあまりしませんが、このレンズ豆はパテとよく合ってますね」

 テーブルの端で、ニコニコしながら私とマリクの真面目な会話を聞きながらアラックを飲んでいた主が、お代わりを促してくれた。
 招かれた家の主を横に、甥っ子とばかり話していたのに気づかされた私は、「ご主人。アラックという酒はいつごろからアラブで飲まれているのですか?」

 声を掛けられたのがうれしかった様子で、「かなり昔からでしょう。ナツメヤシやぶどうのような糖度の高い果実を発酵・蒸留してつくりますが、語源は、「汗がにじみ出る」とか「少量の水」の意味で、蒸留や蒸留物を指していたようです。中近東では、イラク・シリアを中心にエジプト・スーダンなど北アフリカでも伝統的な蒸留酒です」

 ウィキペディアによると、この中近東の蒸留技術が各地に伝播し、土地古来の醸造酒を蒸留した地方色豊かな「アラック」がつくられるようになったとある。 例えば、トルコではアラックから派生した「ラク」、ギリシャでは「ウーゾ」、英語・スペイン語・ポルトガル語では、アラックとほぼ同じ発音のようだ。元朝の料理書『飲膳正要』にある「阿刺吉酒」はアラックの漢語音写で、回方(イスラム世界)からもたらされたと紹介されているという。十四世紀、アラックの呼称のままモンゴル高原や華北に伝来して広く愛飲された。日本には江戸時代に長崎経由で輸入され、「阿刺吉」「阿刺基」と書いて「あらき」と呼んだとある。北原白秋の詩にも、「阿刺吉の酒」」とあった気がするが……。
 アラックはきっと、バビロン王朝でも飲まれていたにちがいない。
 
 立ち上がったマリクが、テラスから居間へ入って行った席に、グラスを持った主がやってきた。
「フミオさんと私の甥っ子は気が合ったのか、話が弾んでいましたね。あなたがメソポタミアの歴史にお詳しいのには心底驚き、感心しました」
「私は、アラブの歴史に関心をもつ建築家として、基本的なことしか知りません。クウエートの仕事は、国際化する情報社会の基本インフラの電気通信施設を構築することですが、ラマダーン明け休みを利用してこの地を訪ねました。古い建造物は残っていなくても、バグダッド博物館の収蔵品を見るのが楽しみです。明日は、ぜひ見学したいと思います」
 アラックを何杯もロックで飲んでいる主はいける口らしく、ウイスキーの手土産は正解だった。
 白濁した水割りのアラックは、クセがなくて飲みやすい。主が勧めるままにグラスを重ねる。
「バグッダドには日本車がたくさん走ってますし、私の会社でも、トヨタの小型トラックを数台使っています。大型はベンツですが……」 
「それはうれしいですね。乗り具合はどうですか」
「故障が少ないし、ディーラー駐在の日本人技術者が親切で腕がいいのです」
「サンドストームのような過酷な条件下では、メンテナンス体制がしっかりしていないと、車の販売は伸びませんからね」
「ところで、去年は日本で国際博覧会がありましたね。盛況でしたか?」
「ええ、私はNTTパビリオンの基本計画に携わり、貴重な体験ができました。開催地大阪は、徳川幕府が江戸(東京)に遷都した十七世紀初頭まで、奈良の平城京と京都の平安京につづく政治・経済の中心地でした」
「日本で開くのは初めてだったのですか」
「そうです。でも、江戸幕府末期のパリ国際博覧会に出展して、ヨーロッパに日本の文化を知らしめ、世界の多様な文物を知る、わが国初の機会になりました。それから間もない明治維新で、国家近代化の道に踏み出したのです」
「イラクでは、あの強大なロシア艦隊を破った日本がよく知られています。その五年前(一八九九年)のイラクはオスマン帝国の中央集権下で、ドイツがバグダッド鉄道の敷設権を手に入れました」
「イラク王国独立の一九三二年までは、イギリス軍のバグダッド占領や中南部の反英暴動を経て、委任統治が続きましたね」
「曽祖父は、若くして土建会社をつくり、ドイツの大手会社の下請けで鉄道建設の仕事を始めて成功しました」
「ほう! そうですか! 失礼ですが、あなたは何年のお生まれですか?」
「一九二五年です。まだイギリスの委任統治下でしたが、その年に、モースルのイラク帰属が国際連盟で決定されています」
「ユーセフから聞いたのですが、二年前のモースルで内戦が起こり、町の道路が血の川になったそうですね」
「とても悲惨でした。あの地域には、昔から多くのクルド族が住み、歴史的な経緯も複雑です。彼らは、イラン・トルコ国境沿いにも定住してきた少数民族なのです」
「ヨーロッパ列強が、オスマン帝国を滅ぼした後のアラブの地に勝手に線引きしたのが、いろんな紛争や問題を起こしているではないですか?」
「そのとうりですが、オスマン帝国がメソポタミアから北アフリカまでのアラブ全域を手中に収めた、十六世紀からの四百年間も他国の統治下でした」

 小さな土建会社の四代目社長が、架空庭園を築造した新バビロニア王国・ネブカドネザル2世に仕えた土木技術者の末裔のような気がしてきた。


                                                                     (続く)

2010/07/21 18:40 2010/07/21 18:40

アラブと私 
イラク3千キロの旅(32) 
                              松 本 文 郎 


   

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 アハラムの手から盆を受け取ったマリクが、すかさず言った。
「このアラックはアルコール度が四〇%です。水で割ると白く濁るので、「ライオンの乳」の別名があります。私はロックで飲みますが、フミオさんはどうなさいますか」
「面白そうだから水で割ってください。あまり酒に強くはないですし……」   
 グラス三分の一ほどのアラックは、水が注がれた瞬間に白獨した。
「テーブルの料理は、アラックによく合う前菜ですから、どうぞ」
 父親は、まだ料理を皿にとっていない私に勧めるものの、中国式に客の皿に料理をとることはしない。
 アハラムは私に料理の説明をしようと、それぞれの皿を指さしながら、アラビア語でユーセフに伝えている。
 それによれば、出ているのは「メッツェ」という前菜のいくつかで、オリーブ・ラディシュ・チーズの盛り合わせ、サラダの「タブーラ」、「ホムス」とよぶひよこ豆料理だという。「ホブズ」(平べったいパン・前出は「ホベツ」と表記)も出ている。

 タブーラは、羊肉のパテの薄切りと揚げレンズ豆にレタスとトマトがのせてあり、ニンニク・レモン・各種スパイスのドレッシングがかけてある。
 ホムスは典型的な前菜だそうで、一晩水につけたひよこ豆を鍋で一、二時間煮て、ミキサーにかけ、ごまペーストの「タヒニ」とニンニク・塩を加えてどろどろになるまでかき混ぜ、レモン汁をかけて出来上がりという。
 浅めの皿に盛られたホムスの中央にオリーブ油をかけ、煮豆・パブリカ・みじん切りパセリが飾りにのせてある。

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「ホムスを、ホブズで掬って食べてください」 
 アラックによく合うといわれ、ひよこ豆もごまも好物だから、アハラムを真似て、千切ったホブズで掬って口に運んだ。 
「日本の夏のビールには、茹でた枝豆がよく合いますが、これは、アラックにぴったりですね。アラブではよく豆類を食べるのですか」
「ええ、よく食べます。聖書にも、古代エジプト人がレンズ豆やひよこ豆などを食べていたと書いてありますよ」
 若いマリクだが、新聞記者だけのことはある。
「アラブの食文化に興味をおもちなら、『アッバース朝の社交生活』という英訳本があって、当時の宮廷料理(七五○―一二五八)の飲食について知ることができます」
 料理や食材のことをよく知っている従兄の一面をみたアハラムは、驚いているようだった。
「アッバース朝といえば、バグダッドに都を遷した王朝ですよね」
「よくご存知ですね。アラブ帝国の都は正統カリフ時代のメディナ、ウマイヤ朝のダマスカスを経て、アッバース朝第二代カリフ(アル・マンスール)がチグリス川畔のバグダッドに新都を築きました」
「大学の西洋史で学んだのですが、アッバース朝の発端は、アラビア半島からビザンツ文化圏に北上したウマイヤ朝がアラブ貴族優先の社会だったので、対抗するイラン人中心の非アラブ系・新ムスリムの反乱が起こり、それが「アッバース革命」のきっかけになったそうですね」
「いやいや。私よりずっとお詳しいので、びっくりです。」
「アッバース朝の宮廷料理の本があるようですが、ダマスカスからバグダッドへ遷都したアラブ帝国は、たいへん栄えたようですね」
「ええ、第七代カリフのアル・マームーン(在位八一三―八三三)のときが黄金期とされますが、革命後のイラン人との混血でアラブの血が薄まり、帝国のイスラム化が進みました。アッバース朝の最初の百年は、アラブ帝国がイスラム帝国になった黄金時代でした」
「私が建築を専攻した京都大学では、最初の二年は教養学部で学び、多方面の講義を聴くことができ、西洋史も聴講しました。図書館で『京大西洋史』を読みましたが、精緻な研究と魅力的な記述で名高い本です。その本に、当時のバグダッドは東西貿易の拠点として未曾有の繁栄を誇り、都市文化の発達で学術の一大中心地だったとありました」
「それはうれしいですね。遠いアジアの日本の人がバグダッドの歴史にくわしいなんて、思いがけないことです」
「いえいえ、歴史の大筋を学んだだけですよ。それにしても、アッバース朝の時代に、アラブとイランの混血が進んだというのは、今のイラクとイランの関係を考える上で、重要な事柄ですね。私は、一昨年(一九六九年)、テヘランに二ヶ月滞在しましたよ」「やはり建築の仕事ですか」
「ええ、イラン電気通信研究所の建築的基本計画の技術指導でした。オフィシャルパスポートで派遣され、帰国前に、イラン国の招待で古都イスファハンや史跡ペルセポリスを案内してくれました。同行したイランの電気通信技術者のお膳立てともてなしが至れり尽くせりで、実にすばらしい旅でした」
「第七代のアル・マアムーンの半分の血はイラン人で。イスラム帝国代々の宰相を出したペルシャ系の名門バルマク家の出です。父親は、『千一夜物語』によく出るカリフのハールーン・アル・ラシードで、母親はハーレムに使えたイラン人奴隷でした」
「ペルシャといえば、世界七不思議の『架空庭園』が、ペルシャ軍のバビロニア帝国征服で破壊されたのが紀元前五三八年ということですね。アハラムに、メディアから輿入れした王妃を慰めるために、夫のネブカドネザル2世が建設したと話しました」

 マリクとの英語でのやりとりを、ユーセフとなにやらアラビア語ではなしているアハラムに聞かせようと、「アハラムは、そんな男性と出会うのは、いまどきムリでしょうと言ってましたよ」
「ジャミーラのような少女たちは、こんな夢物語に憧れるでしょうが、しっかり者のアハラムは、歴史上の人物で絶大な力と富を手中にした統治権力者の特権を、かなり覚めた目で見ていると思います」
 
 従妹をしっかり者と言ったマリクの表情に、彼女を好ましく想っていると感じさせるものがあった。いかにも新聞記者らしい彼の語り口が続く。
「エジプト・ナイルの河沿いの肥沃な土地に栄えた歴代王国と同じように、チグリスとユーフラティスに挟まれた沃地のメソポタミアには、四千八百年前のシュメール初期王朝や三千九百年前のバビロン第一王朝、ネブカドネザル2世の新バビロニアなどの栄枯盛衰がありました。それら王国・王朝の物語は、歴史の彼方に遠ざかりましたが、第七代カリフが成したバグダッド再興の偉業は、この地に生まれた私たちの誇りです」
 
 私は建築史の泰斗村田教授の講義を思い出した。
「たくさんの小さな部族を束ねた王国や王朝に権力と富が集中して、壮大な都城や墳墓が造られました。歴史的建築遺産は、人類社会の歩みを示す足跡だと思います」
「エジプトの遺跡はピラミッド・オベリスク・神殿などは石造でよく保存されていますが、バグダッド近辺の古代建造物は日干しレンガなので、ほとんど崩壊してしまいました。砂を固めたレンガが、元の砂漠に還えるのもインシャーラ(アラーの思召し)でしょうか」

 マリクは、徒然草を書いた兼好法師の自然観というか、宗教的な思弁に通じるものを披瀝した。
 私はすかさず、「徒然草」の出を唱えて、「アラブの思想を培った砂漠とは対照的に、アジア、特に日本では「水」だと感じています」
「私はムスリムでもクリスチャンでもありませんが、人間の知を超えた大きな存在を否定はしませんよ」
「クウエート郵電省の建築技術顧問ボーラス氏も同じ考えのようでした。カイロ大を出たエジプト人建築家で、奥さんはフランス人ですが」ね」


                                          (続く)

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16世紀に描かれたバビロンの空中庭園れたバビロンの空中庭園


2010/07/17 16:56 2010/07/17 16:56

アラブと私 
イラク3千キロの旅(31)
 
                                             松 本 文 郎 

 
 「エー? バスラのことをご存知とは! ユーセフから聞かれたんですね。私は大のビール党なんです」 
 そう応えながら、朝方の夢で見たアラビア商人の客人のもてなし方の周到さが思い出された。
 かっての日本人の「おもてなし」の細やかさは、来日した外国人(アインシュタインやチャップリンをふくめ)から賞賛されたものだが、日本人の専売特許ではないことを、イラクの旅の後のアラブ滞在でも思い知ることになる。

 黄昏がせまるテラスでグラスを掲げて乾杯した。長いドライブと熱烈討論とで疲れた心身を、冷えたビールとチグリスからの夕風が癒してくれる。アハラムは、オレンジジュースを飲んでいる。
「私の英語は仕事柄、アハラムよりましでしょうが、日本のことをたくさんお聞きしたくて、国営新聞の記者をしている甥っ子を呼んでいます。お差し支えないでしょうね。市役所幹部の弟の次男です」
「ご一緒にどうぞ、いろいろのご配慮をありがとうございます」
「妻は、出てきてご挨拶いたしません。実家が敬虔なムスリムでクルアーンの教えを守ってきました。でも、ご挨拶のつもりで、得意のイラク料理を準備している最中です」
「クルアーンやハディースは、クウエートに来る前に少し勉強しましたし、今日も、女性に関する規律のことで、アハラムさんのお考えも伺いました」
「そうですか! アハラムの世代は、家内のような頑な生活態度は旧弊と思うかもしれません。でも、性急に近代化を推し進めるだけでなく、ハディースの生活規範の大事な部分は受け継いでほしいです」
 英語が達者という甥っ子さんが現れるまでの会話は、アハラムとの会話と同じやり方で、ユーセフが仲立ちしてくれている。
「それにしても、クウエートに着任して一週間ほど滞在したホテルでアハラムさんと出会い、こうして再会できるなんて、ほんとうに夢のようですよ」
「アハラムに聞きましたが、ドライブの車の中で、ジャミーラが貴方の横ではしゃいで踊ったり、居眠りしている間に、空中庭園とオペラ『ナブッコ』や、クルアーンとハディースの女性観までずいぶん幅広い話をされたとか」
「ええ、イスラム文化への好奇心から、ついお堅い話題が多くなって、アハラムさんに呆れられたのでは、と気にしていました」
「いいえ、日本の建築家の熱い探究心に、アハラムはとても感動していますよ」
 父親の言葉にアハラムが肯いたとき、「アッサラム・アレイコム」と言いながら、若くてハンサムな青年が、居間からテラスへ出てきた。
「アレイコム・サラーム」
 私は、椅子から立ち上がって握手し、「マツモト」は憶えにくいから、ファーストネームで「フミオ」と呼んでくださいと告げた。
「ではそう呼ばせていただきます。私はマリクです」
「新聞記者をされてると伯父さんから伺いました」
「ええ、父と兄が官僚なので、私は、対照的な世界の仕事を選んだのです」
 なぜかアハラムの目を見つめながら放ったマリクの言葉に、決然とした語気が感じられた。
 もしかしてこの青年は従妹のアハラムに気があるのではと思わせる、なにかがあった。
 アハラムは、さりげなく居間に入っていった。
「今日のドライブで、アハラムさんから聞きましたが、バース党による近代化政策で、お国はどんどん変わっているそうですね」
「はい。バース党が政権の座についてまだ三年ですが、イラク支部ができたのは約二十年前ですから、イギリスの統治下で成立したイラク王国の旧体制を社会主義的な社会に変える路線を走ってきました」
「そういえば、アハラムさんの名前は、エジプトの国営新聞と同じ[夢]ですね」
「この伯父が付けたようですが、最初の子に自分のの夢を託したかったのでしょう」
 伯父さんはニコニコしながら、「エジプトの新聞とは関係ないですよ。でも、新しい時代の夢を実現する女性に育ってほしいと願ったのです」
 アハラムがビールを満たしたグラスを手に戻り、マリクに手渡した。
「フミオさん! ビールのお代わりはいかが」
「はい、いただきましょうか」
 日本では、テーブルに置いてあるビールをグラスに注ぎ足すが、アラブでは、ヨーロッパに倣ってか、別の場所でグラスに注いで出すようだ。
 ユーセフがマリク青年(以下マリク)とアラビア語で挨拶をし合っていると、アハラムが、大きな銀の盆に前菜のような二、三の料理と私のビールのお代わりをもってきた。
「母ご自慢のメインディッシュは、リビングで召し上がっていただくといってます」
 甥っ子とユーセフのアラビア語のやりとりを聞いていた父親が、
「ではもうしばらくテラスに居りましょう。どうぞ、料理を召し上がってみてください。フミオさんは、アラックを飲まれたことがありますか?」
「アラブの伝統的な酒と聞いていますが、まだです」
「いい機会ですから、飲んでみてください。イラク料理に、ぴったりなんですよ」
 そう言って、アハラムに目配せした。
 黄昏が深まり、ビールでほんのり火照った顔に、チグリスの夕風がひんやりと心地よい。
                     
 当時から四〇年たって、あのバグダッドの夕べののどかさを滅茶苦茶にしたのはいったいだれなのかと思う。

 イギリスでは今年(二○一○年)、七年前のイラク戦争への政治判断の是非を巡り、「独立調査委員会」による徹底検証が始まった。
 八十人以上の関係者への聞き取りは、個人的責任の訴追のためではなく、関係者の証言から将来への教訓を得る目的だとされる。ブッシュ元大統領からの要請に無条件で応じたブレア元首相への六時間におよぶ質疑では、「戦争の大義の大量破壊兵器が見つからずに参戦の判断をしたことを反省しているか」と問われ、「責任は感じているが、反省はしてはいない」と答えていた。一流の歴史学者二人をふくむ五人の「独立調査委」には、内閣・省庁の公文書・電子メールの機密文書へのアクセスが認められ、一部はインターネットで公開されているという。「調査委」会場周辺には多数の民衆・戦死者遺族が押しかけ、野党や世論の反対を押し切って参戦を決意した、ブレア氏への怒りの表情を露わにしていた。

 元官房長官は、強力な権限を有するブレア政権の閣僚の一部グループが内閣を牛耳じり、その閣僚らの意見が既定の政策とみなされ、それを覆すような意見は出しにくい状況だったと証言している。
 九・一一の同時多発テロへの報復を果敢に決断したかに見えたブッシュ元大統領が、テロ以前から、イラク元大統領サッダム・フセインを抹殺する機会を狙っていたことが、米国内で報道されている。大統領の任期終了を目前にしたブッシュの、大量破壊兵器の情報がCIAによって誤って伝えられたと責任逃れに汲々とした醜い顔が目に浮かぶ。間違った情報で参戦を決断した責任は感じているとしたブレア氏の方は、大量破壊兵器の存在は、機密情報によって明白だと信じたのだ、と証言。

 オックスフォード大教授のアダム・ロバーツ氏は、NHK「クローズアップ現代」の国谷キャスターのインタビューで、ブレア労働党政権の歴史的視点のなさに言及。イギリス軍によるイラク占領下の一九二○年に、中南部で起きた大規模な反英暴動の歴史的教訓からまったく学んでいないと指摘していた。

 また、イギリス国民はアメリカのプードルになるのを嫌がっており、ブレアはイギリスの言い分を、もっとブッシュにぶつけるべきだったと述べた。
 イラク自衛隊派遣を即断した小泉元首相、沖縄の基地問題で弱腰だった鳩山元首相にも当てはまる言ではなかろうか。
 ドイツととフランスもブッシュの強引なイラク戦争には反対だったが、ブレア内閣外務省顧問(国際法専門)も、安保理のお墨付きがない開戦には強く反対したという。
 ブレア元首相の誤った情報に基づく政治的判断で一兆円の軍事費と自国・イラク両国民に多くの戦争犠牲者を出したイラク戦争。その徹底検証をめざして、喚問・質疑はつづけられ、今年末、最終報告書が出るという。

 国民の政治家と政治システムへの不信に応じて、ブレア政権閣僚の元ブラウン首相が「独立調査委員会」を設置したことに、やはり日本が民主政治を学んだ国だなと思ったものの、議会議員による経費の不正使用にみる政治家の質の低下が透けて見える。
 小鳩政権も政治と金、沖縄基地問題らで迷走して国民の政治不信を深め、内閣支持率の急落を招いて座礁したが、なんとかだけは沈没は免れたようだ。
 労働組合勢力の支持で初めて政権交代にこぎつけた民主党政権は、歴史の教訓に学ばなかったブレア政権の轍を踏まないようにしなければなるまい。 

 わが国で、太平洋戦争の徹底検証がなされていれば、敗戦後六十余年の日本の歩みはかなり違ったかもしれない。政権交代の成否は、まさに正念場を迎えている。片やブッシュの戦争と金融資本主義の暴走で混迷したアメリカに復元力をもたらしたオバマ政権。片や、経済格差や人権問題を内包しつつも、世界第二の経済大国になろうとしている社会主義中国。その狭間をゆく日本丸は、どこをめざし、どんな経済・外交戦略を駆使して航海するのか。家の中から、アハラムがアラックの瓶とグラスをのせた盆を運んできた。米英両国元首脳に敵視されたサダム・フセインが大統領に就任するまであと九年のバグダッドの夕べに戻ろう。


                   (続く)



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2010/06/12 14:35 2010/06/12 14:35

アラブと私 
イラク3千キロの旅(30)
 
                                             松 本 文 郎 

 
 ホテルで車を降りたとき、運転席のユーセフに、花束代をそっと渡した。
「アハラム! ユーセフがホテルへ戻ってくるまで、シャワーを浴びて待っているから、ホームパーティのご招待のお礼を、お父さんによろしく伝えてネ」
「はい。わかりました。お待ちしています」 
 フーセフは、昨日からの長距離ドライブで馴れてきたトヨッペットクラウンを急発進させ、タイヤをきしませながら、ホテルから大通りへ出て行った。

 朝のシャワーでも感じたが、バスラのホテルに比べて湯の出方がいいのがうれしい。
 断食月明けの休暇で賑わう男のオアシス・バスラでやっと見つけたホテルの設備は旧く、シャワーの出がわるいのは仕方なかった。アハラムに出会ったガルフ・ホテルのシャワーの出はもっとチョロチョロだった。海水を蒸留した水を使う給湯システムだからと、節水のために管径を細くしてあるわけもないから、事務所軽費の節約で老朽設備のホテルに泊められたにちがいない。
 出のいい湯を浴びながら、車の遠乗りで出かけたサマーラの塔とチグリス河畔のアウトドア・ランチでアハラムと過ごした一こま一こまをなぞっていた。
 片道約百キロを往復した車中の会話は、思いのほか真面目すぎる内容になったが、アハラムの一面を知ることもでき、ホームパーティでの話題のネタもいろいろと仕入れることができた。
 クウエートに来て半年ほどの間に何回か招かれたホームパーティには、花屋でつくらせたブーケと、日本からの簡単な手土産を携えて行った。
 銀座・鳩居堂で見つけた外国人好みの和の品々で、北斎の「赤富士」の画額、京折り紙、紙人形などだ。 旅先では、軽くて嵩張らないものがよい。
 招かれる機会は、二、三の日本商社駐在事務所長の家が多かったが、前述(2)(10)のように、王族の係累のエリートや郵電省顧問のエジプト人建築家などの石油に浮かぶ熱砂の国に暮らす人々には、国外から空輸される花々のブーケはとても喜ばれた。 
 禁酒国のクウエートでウイスキーなんて不謹慎だと思われそうだが、人間社会に「ウラ」はつきもので、インド商人の暗躍によるヤミ酒が手に入る。
 アラビア湾へ油の積み取りにくる空のタンカーで密輸されるのだ。チンタオ・ビール中瓶一本が千円、ウイスキーはジョニーウオーカーが五千円だ。なぜか、日本では値段が倍以上ちがうクロとアカが同じ値段だった。
 時折り相場が変動するのは、警察の手入れの後だ。ダウ船の船べりでこれ見よがしにボトルを割って、アラビア湾に酒を飲ませる写真が新聞に載る。
 巷の噂では、実は、警察幹部がヤミ酒の元締めで、没収した酒の箱を某所に隠匿しているとか……。その筋とじっこんな日本人が、そんな場所で飲ませてもらった話を耳にしたことがあり、「蛇の道はヘビ」である。
 ホームパーティーへもっていく〔ジョニクロ〕は、インド人の闇屋から手に入れたもので、幸い禁酒国ではないイラクの旅の寝酒用と一緒に持ってきたのである。
 アハラムの父親が酒を飲むかどうか知らないが、自身で飲まなくても、建設業を営んでいるのだから、使い道はあるだろう。
『クルアーン』や『ハディース』に禁酒が戒められているのは、暑い気候で傷みやすい豚肉を食べないのと同じように、アラブの風土に因む生活習慣から齎されていると思われる。
 ヤミ酒の存在から、現代のアラブ人に不真面目な人間が多いと考えるのは早計で、金持はいざ知らず、庶民一般では、イスラムの戒律を遵守して生活する敬虔なムスリムが大半であろう。この種の戒律は、本来は自分の心身の健康を守り、楽しく長生きするための知恵の集積で、宗教的権威が遵守を強制しても、長続きするものではない。
 問題は、教典・戒律の類が政治権力などに悪用されることで、政治イデオロギーの強制と同じように、民衆を不幸に陥れるのである。
 
 シャワー室から出て腰にバスタオルを巻いたままベッドに仰向けになったら、ウトウトしてきた。 
 眠り込んでは一大事とばかり、身支度をすることにして、背広と白シャツ・ネクタイをスーツケースから取り出す。
 家庭でホームパーティを開くのは、当時の日本では一般的ではなかったから、アラブの地でさまざまな家族と交流する場を体験できたことは、三十五年後のいまもおおいに役立っている。
 アハラムらを送る届けたあと実家に立ち寄ると言ったユーセフは、ホテル到着が夜中になったので、母親にはさっき電話しました、と朝食のとき話していた。 
 母親に会うのは久しぶりのようだから、今夜は、ホテルではなく実家に泊まるように勧めてみよう。
 バグダッドへの途上、サマーワの茶店で仕入れたパイ生地の菓子クレーチャ(9)をユーセフに手作りしたやさしいお袋さんと、積もる話があるだろう。
 
 ドアにノックがあって、ユーセフが戻ってきた。
 右手にきれいなブーケを提げている。
「チーフ。実家に寄らせてもらいましたよ」 
「それはよかった。お袋さんは元気かい?」
「相変わらず、親父とケンカしてますがね」
「夫婦がケンカできるのは仲がいいからだろうな。キミとお姉さんが家を出て働いていて淋しいだろうけど、両親そろって元気なのはなによりだよ」
「チーフのご両親もお元気ですか」
「うん。二人の弟たちも自立して東京と名古屋にいるけど、二人で元気に暮らしているらしいよ。お袋からの手紙に、歳のせいか親父がガンコになったと書いてあったよ」
 会話の弾みで、瀬戸内の福山市に住む両親までがとび出した。
「ユーセフ。きのうは一日中、今日も朝からずっと運転していて疲れただろう。さっとシャワーを浴びたらどうだい」
「ええ、着替えたいので、ちょっと失礼します」
 
 スーツ姿のユーセフが車を横づけたのは、今朝方アハラムたちが待っていた公園駐車場に近い住宅街の一角の戸建だった。
 比較的新しい宅地開発エリアのようで、なんだか、田園調布の宅地分譲が始まったころに似ている。一区画はかなり大きく、百五十坪くらいだろうか。門の脇の路肩に車を停めていると、奥にある玄関のドアが開いて、アハラムと父親が出てきた。
 大理石の舗道ブロック敷きのアプローチを歩いて行くと、玄関右手のテラスにもつながっている。
 にこやかな笑顔で出迎えた父親は、やや背が低く小太りだが、如才なく愛想のいい人に見える。
「やあ、ようこそ! 貴方とユーセフさんのことは、クウエートから帰ってきたアハラムから聞いていました」かなり緊張気味だった私は、親しみのこめられた出会いの挨拶に、ホッとした。
「今朝、ホテルからお電話したユーセフに、お招きのことをお伝えくださり、ありがとうございました。おことばに甘え、遠慮なくやって来ました」
「お越しくださってうれしいですよ。それに、娘らを郊外ドライブへ連れ出していただき、とても喜んでいます」
「サマーラの塔は、大学講義の古代メソポタミアとの関連で教わり、訪ねたかった場所の一つでした。お嬢さんたちとご一緒できて、楽しい一日でした」
 傍のユーセフが、チーフ。来てよかったですね!とばかりのウインクをよこした。
「まだ外が明るいので、テラスでビールを飲みませんか。バスラでは、地ビールも試されたようで……」
                                                (続く)


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2010/05/31 14:46 2010/05/31 14:46

アラブと私 
イラク3千キロの旅(29)
 
                           松 本 文 郎 
 
そういえば、三、四人の妻と大勢の子供を乗せた、胴体の長いダックスフントのようなリムジン(大型高級車)を、何度かクウエートの街で見ていた。
「ユーセフ。キミはバカゲてると言ったけど、複数の奥さんを持ちたいと思ったことはないのかい?」 意地の悪い質問を、アハラムに分かるような英語でぶつけてみた。 
「クリスチャンの重婚は、昔の王族貴族でさえ禁じられてましたから、「四人妻」なんてありえませんが、陰で女を囲ったり浮気をしている男は、いつの時代のどこの国にもたくさんいますよね……」振り向いたアハラムが、解せない目で私を見た。
「アハラム。もしも、クウエートの王族の男性から四人目の奥さんになってくれと申し込まれたらどうするかね?」

 この際とばかりに、意地悪な質問を続けた。ただ、「四人妻」の年齢差がそれぞれ十歳くらいはあって、一番の若妻が二十歳前後なら、年長妻は五十歳台ということ、別々の家に住みながら、夫に対しては歳相応の役割を分担している家族関係だということは聞いていた。
「私は、好きな一人の男性と結婚しますが、今でも、クウエートやサウジのお金持ちの所へ嫁ぐ人が、時にあると聞いています」
「チーフ。ものすごいお金持ちでなくちゃ、そんなことできませんよ。四人の妻の家族みんなで世界中を遊びまわるのも大変な費用ですし、妻同士の諍いで気が安まらないと思いますね!」
 わざとの質問で、イスラムの女性観の話が下世話になってしまった。風向きを変えなくては……。
「つまらない質問をしたね。最近の日本では、石油問題でやたらにアラブ、アラブというわりに、一番知らないのがアラブ世界で、私自身も現代イラクのことに不勉強で恥ずかしい。でも、アハラムの話を聞いて、王政を共和制に移したバース党政権が社会主義政策でイラクの近代化が進め、女性の生き方が男性依存から自立・社会進出へと変わりつつあるのが分かってきたよ」
「私だって、日本の車やソニー製品のすばらしさは知っていても、日本男性の女性観や女性の社会的地位などをまったく知りません。どうなんですか?」アハラムが鋭い質問を返してきた。
「そうだね。一九四五年の敗戦後にできた憲法で、やっと男女同権が明文化されたけれど、封建制下の男尊女卑の考え方と社会習慣は、そう簡単に変わらないようだね。むしろ、ムハンマドが受けた啓示の『クルアーン』や彼の言行録『ハディース』に書かれている男女平等の訓えは、実に素晴しいと思うね」

 すかさず、ユーセフが言った。
「歴史的にみて、ユダヤ人やアラブ人(セム族)の社会は、なぜか男尊女卑だったのです。ムハンマドに結婚を申し込んだ年上の女性実業家ハディージャとの生活で、その矛盾に気づいたムハンマドに天啓が下されたのでしょう」
 難しい言葉が多くなってきたやりとりに興味を示すアハラムのために、英語だけだった三人の会話が、私の英語→ユーセフのアラビア語→アハラムのアラビア語→ユーセフの英語→私、のパターンに戻ってきた。
 ややこしい会話の一部始終は省略して、ユーセフとの会話の概要を記そう。 
 
「『クルアーン』の男女関係規定の根本理念が「平等」なのは、伝統的な男尊女卑の考えを変えようとしたムハンマドが、神の声を聞いたと思ったからです」どんな宗教の始祖が遺した教典や言行録も、歴史的な時代と社会を反映している、と私も思う。

 現代のムスリム(イスラム教徒)が、近代化の波に乗りながら、「クルアーン」にある巡礼月や断食月の規定を守っているのも、アッラーの前ではすべての人が平等だとする精神があるからではないか。

 前出の片倉もとこ著『イスラームの日常生活』に、・巡礼では、国籍、言語、肌の色、老若男女などのさまざまな人が、「イフラーム」という二枚の白布でからだを覆う。メッカから数十キロの地点で着替えた後は、元の衣服に戻るまで、髪や爪を切ること、香水をつけること、結婚、性交、狩猟などが禁じられる。金持ちも貧しい人も同じ姿でアッラーの前に立つ。

・この無垢の姿で、「アッラーよ、御前に来ました」と巡礼の文言を唱えながら、みんなまったく同じ「行」をする。
・自家用機でやってきた人、一生かけて貯めた金で念願の巡礼に来れた人も、アッラーの前では、みな同じだと実感しながら、興奮と陶酔感にひたる。

などが挙げられているのを略記した。

 ユーセフは話を続けた。
「ソ連や中国の政治指導者は、宗教が民衆を無知にするといって、聖書などの教典には否定的なようですが、同じ社会主義思潮のバース党指導者たちは、ちがいます。ハディースに書いてあることが、宗教的というより、アラブの民衆の日常生活や社会生活にとって大切な規範だからでしょう」

 西洋の一神教の教典や東洋の仏教の経典に書かれている事柄は、人間が犯しがちな考えや行いを戒める点で、ほとんど一致しているのだ。
「ムハンマドの時代のアラブでは、砂漠の遊牧経済から都市の商業経済に移行するなかで、富の蓄積が盛んになった結果、経済的、社会的な格差が嵩じ、大商人や族長の間に争いが絶えませんでした。そうした状況を憂い、改革運動をめざしたムハンマドに啓示が下されたのだ、と高校で習いました」

「キリストも、ローマの支配下での貧しい人たちの悲惨を見過ごせず、権力の意に反する布教を続けて、見せしめに殺されたのでしょう」
 やはり、ユーセフはクリスチャンでありながら、キリストを、ムハンマドと同じ予言者と考えている。

 ユーセフとアハラムが、キリスト教とイスラム教の歴史を、イラクの近代化を担うバース党政権下の高校で習っていたからこそ、こんな会話もできる。
それに引き換え、明治維新の廃仏毀釈の粗暴さや宗教的科目を教えないわが国の高校授業にみられる近代化志向の底の浅さが、なさけなく想われる。アフリカやアラブで植民地政策を強行した欧米の列強は、ギリシャ・ローマの文明を近世に中継ぎしたイスラム文明の存在を無視して、衰退後のアラブを、西洋近代の対極にある時代遅れの世界と見ていたようだが、日本人一般もそうだろう。

 片倉さんは、ヒッティなどの説として、アラブの遊牧民は「生まれつきの民主主義者」で、首長でも絶対権力は持たず、非常事態は別として、普段では仲裁の役を果たすだけと書いている。
アラビア商人の商業活動で蓄積された巨大な富をめぐる争いで、自然の摂理に従って生きた遊牧民の素朴な倫理観が捻じ曲げられるのを見過ごせなかったムハンマドは、先達の釈迦、モーセ、キリストらと同じように人類社会に現れ、救世の役割を担った人だったと思った。
「チーフ! そろそろバグダッドです。ジャミーラはまだ寝ていますか?」
 三人の話に夢中の私は、ユーセフに言われるまで、ジャミーラが私の膝に顔を伏せて寝っていたのを、すっかり忘れていた。
「いけない! ジャミーラのことをすっかり忘れていたよ」
 あわててジャミーラの頭をゆすると、アハラムの声を聞いた彼女が、横たえていた半身を起こした。
「アハラムたちを届ける前にホテルに寄りますから、シャワー浴びて休んでいてください。私は、実家にちょっと顔を出して、ホームパーティのお迎えにきます。一時間はかからないと思います」 
「わかった。ジャミーラの家へのお土産は、持ってきたジョニクロにするけど、もし花屋があったら、ちょっとしたブーケを手に入れてきてよ」

                                 (続く)


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ARAB WOMEN'S UNION Bethlehem
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2010/05/19 15:32 2010/05/19 15:32

アラブと私 
イラク3千キロの旅(28)
 
                              松 本 文 郎 

 
 官庁発注工事をめぐる発注側への接待や贈物は、古今東西にみる慣行だが、国のレベルでも、逞しいアラビア商人の血脈に呼応した手練手管を駆使して、石油資源の確保やインフラの構築をねらう欧米諸国間の受注競争が熾烈に展開している。
 フランスが最新鋭戦闘機ミラージュを供与したとの報道を目にしたし、一九六九年に技術協力で滞在したイラン革命前の王政下の高級官僚たちが、欧米メーカーの受注をねらう供応の渦に巻き込まれている、と志あるイラン人技術者は嘆いていた。

  二○一○年の今でも、ベールに包まれたムスリム(イスラム教徒)女性には、むりやり黒い衣を被らされ、家の奥に閉じ込められて抑圧されているとのイメージがあるようだが、一九七一年の当時、同じことを訊いた私に、アハラムは、それは大きな誤解ですよと応えた。
「ムスリムにも、近代化をのぞむ人たちがいる一方、保守的な人らもいるわけで、国や地域、家庭でも、さまざまな社会と生活のかたちがあるのを理解してほしいです」
「西欧から見たアラブの女性観は、「千夜一夜物語」のイメージが先行し、「四人妻」や「ハーレム」などと男性の興味をそそることばかりですが、高校で学んだ「女性の生き方」の授業は、保守的なムスリムの女性観とは無縁なものだったのを分かってもらいたいです」
「世界のどの国でも、男尊女卑の亭主や従順なだけの妻はたくさんいます。アバイヤが覆っている下に、鮮やかな色とりどりの衣服をまとっているのをご存じでしょうか」
 運転しているユーセフの隣のシートから振り向いたアハラムの顔は耀いていた。。
 クウエートの街角で、風に煽られたアバイヤの下に、真紅のミニドレスを見てハッとしたことがある。
 一説では、彼女らは風がアバイヤを翻すのを期待しているという。さもありなん、と思う。

 アハラムはつづける。
「目にもあやな彩りのドレスを纏うように、女性の生き方は色とりどりなのです」(「人生いろいろ」の歌の文句のように、女もいろいろ、男もいろいろである)
 アハラムの周辺でも、男のいいなりになるどころか、男を牛耳る女性もいるし、スウェーデンやアメリカの女性のように自立し、社会進出した場で高い地位についている人も少なくないそうだ。
 大学に進学していないアハラムの将来を、父親がどんなふうに考えているのかを、ホームパーティの席で聞いてみたくなった。クウェートの国会議長を父にもつ郵電省・次官のアルガネイム氏の夫人は、バグダッドの豪商の息女だそうで、イギリスがイラクとクウェートの国境を勝手な線引きで決める以前は、両国は一つの地域だったのだろう。
アハラム一家の親戚一統もクウエートで仕事や商売をしているそうで、アハラム親子も国内旅行の感覚で出入りしているにちがいない。
イスラム発祥の地アラブでは、南のシバの女王、北のパルミラのゼノビア女王のような傑出した女性が歴史に名をとどめている。

 イスラムの発祥以前の一般女性が生きたようすは、「ムハンマド伝」などの信頼できる史料で知ることができるそうで、そこに書かれている女性たちは、驚くほど自由・闊達に生きて、その数も非常に多いという。
 ムハンマドが結婚した十五歳年上のハディージャは大実業家であり、シリアとの交易の雇い人の一人だった彼の能力と人柄をみて、彼女のほうから結婚を申し込んだと伝えられる。
 孤児として育ち、幼いころから働きはじめた彼は、この結婚で安定した暮らしをしている中、ヒラーの洞窟にこもって瞑想にひたり、アッラーからの天啓の声を聞いたとされる。
 天啓を世に広めようとしたムハンマドは、メッカの商人らの迫害を受けることになるが、姉さん女房のハディージャはムハンマドと共に敢然と戦って、「イスラム勃興に女性の力あり」といわれる。
 このほか、いまのキャリアウーマンの活躍に似た記録が数多くあり、古今のアラブで尊敬されている詩人であった女性や、名医として名の高い女性などが、自由奔放に生きていたようだ。
 彼女たちが、男性に自由に結婚を申し込み、悪びれずに離婚していたというのも、すごい。
 そのころの社会の全体像には分からないことが少なくないが、母系社会の傾向があり、妻問婚の形も多かったとようだ。
 結婚した男女は妻の実家のそばに住まいを作ったとあるのは、古代の日本にもあった母方居住に似ている。
 アハラムが結婚する相手が、もし、家業の建設請け負いを継ぎ、親と一緒に住むのも選択肢の一つだろうね、とユーセフをアタマにおいて言おうとしたが、余計なお世話です! と言われそうで止した。
 何はともあれ、「クルアーン」の男女関係の規定は、「男女平等」の理念で貫かれていると認識するのが一番のようだ。
「クルアーン」は、アッラーとの対話で豊かな人生を送る現世での成功、来世では天国で平穏な暮しを願う生き方を教え、男女はそれぞれの特性を生かして平等な権利を享受できる、と訓えている。
女性の特性には、子供を産み育てる母性に最大の価値がおかれ、その人類存続のための役割を男性が尊敬し大切にするように求めるのがモスリムである。
 男性の特性では、己の稼ぎで妻子を養うことと、女性を庇護することが求められているのである。
 イスラム法(「クルアーン」とムハンマドの言行を記した「ハディース」の集成・シャリーア)の中心「家族法」には、結婚は男女の間でなされる契約で、結婚結納金(マハル)も離婚のマハルも、男が支払うように定められている。
 このしきたりは、イスラム勃興以前からの女上位から出たとする説があるが、クウェートの事務所に勤めるインド女性から、結婚の結納金を貯めるために出稼ぎに来ていると聞いたのを重ねると、世界のあちこちにある慣習・制度と考えられる。
 離婚のマハルが、結婚のときよりはるかに高額なのが一般的とかで、子供をはぐくむ女性の離婚保険か社会保障制度の観がある。
 クリスチャンのユーセフでも、アハラムのようなムスリム女性と結婚するにはマハルが必要なのだろうか。しっかり稼げるよう応援してやりたいものだが、社会主義的なバアス党政権はイスラム法の履行を否定しているかもしれない。
 アハラムに訊ねるのは憚られるので、パーティでそれとなく父親に聞いてみることにしよう。
「クルアーン」の規定「四人妻」は、男性たちから羨望と好奇の目でみられているが、この啓示の背景には、ムハンマド時代にイスラム迫害のメッカ商人との戦いで急増した未亡人・孤児を救済する目的があったようだ。
それは、ムハンマド側が負けて多数の男らが戦死した、六二五年のウフドの戦いの直後に啓示を聞いたとされることからも推定できる。
 今では一夫一妻制のムスリム国家も多く、そうでなくても、一夫多妻の数は極めて少ないのである。
 クウエートの高級住宅地に、まったく同じ設計の住宅が四軒並び、それぞれのガレージに高級ベンツが納まっているのを見かけるが、独身貴族を謳歌しているクウェート人エリートのサビーハ(第2回を参照)に言わせると、一人の女でもたいへんなのに、四人もの妻と契約して、平等に満足を与えるなんて、狂気の沙汰ですよ! だ。
 それを聞いたユーセフが、クッ、クッと含み笑いをしながら言った。「ホントに、バカゲてます」
 私の英語を、アハラムは分かっただろうか……。
                                                   (続く)


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2010/04/15 14:52 2010/04/15 14:52

アラブと私 
イラク3千キロの旅(27)
 
                                               松 本 文 郎 
 
  「イラク3千キロの旅」のバグダッドの第一日目は、朝方の夢に現れて半年ぶりに再会したアハラム嬢と妹のジャミーラを新車のトヨペットクラウンに乗せた、「サマーラの塔」への郊外ドライブだった。

 一九七一年当時のバグダッドでは、まだ、荷車を引いたロバが目につくなか、日本製小型トラックやアメリカの大型乗用中古車が、砂埃をあげて走っていた。トラックの荷台後部に「トヨタ」などのブランド文字をバグダッドで見て嬉しかった。クウエートのタクシーはほとんどベンツだったが、あのころから、日本製の車もサンドストームにつよくて比較的安いからか、かなり人気があった。日本国内では、高度経済成長の波にのった自家用車ブームが始まりかけていた。昭和二十七年の高校修学旅行の東京で、歩道脇に駐車していたピカピカのアメリカ車と一緒に写真を撮ってもらったのを思い出す。
 大学のころは、外車に乗った湘南ボーイが女の子をドライブに誘う映画のシーンをまぶしい目で見たものだ。時間差はあるが、イラクの若者たちも同じように、打ち寄せる自動車文明の波を見つめているようだし、アハラム姉妹はトヨペットクラウンのドライブに、とてもごキゲンだった。

 バグダッドへの帰る車の中で、その日に招かれているホームパティーの話題にと、エルサレム攻略とバビロン捕囚に因むオペラ「ナブッコ」やムスリムの日常生活の規範デアル「クルアーン」の成立過程など、いささか堅い話をつづけてしまった。
 はやくホームパーティーの場面に筆をすすめて、アハラムの家族のことを書きたいが、「クルアーン」の女性に関する規定へのアハラムの考えだけはぜひ聞いておきたいので、もう少し我慢しよう。

 ここでも、アハラムから聞いたことを軸にして、グーグル掲載のウィキペディアや関連記事の知見をまじえて記述する。「イスラーム入門シリーズ」の『イスラムの女性観』「アッサラーム」誌からの中田香織さんの引用記事、片倉もとこ著『イスラームの日常生活』(岩波新書)などは、多くの日本人(にかぎらないと思われる)にみる「イスラム女性観」への誤解を解いてくれる。
 それぞれからの示唆に感謝したい。
 そして、ちょっと道草。昨日報道されたグーグル検索の中国撤退は、中国自身にとって大きな損失になるのではなかろうか。
 グーグルの中国版では、中国当局が望まない検索結果の表示を自主的に解除する「自己検閲」をかけていたそうだが、中国当局はなぜ、撤退に追い込んでしまったのか。
 今日、二○一○年三月二十五日の報道では、中国メディアを管理する共産党中央宣伝部が、人民元の切り上げをめぐる対中批判や食品安全事件など十八の分野の報道・独自取材を禁じる通達を報道各社に出していたようだ。

 人権問題やチベットなど少数民族問題で他国から声高な批判をするのは、見方によっては、内政干渉にもなろうが、問題は、グーグル検索でグローバルな情報を瞬時に得る便宜を享受した中国の人たちが、どんな反応を示すかだ。
 情報革命の結果も寄与してベルリンの壁が崩壊したのを中国政府が危惧するのは分からないでもないが、グローバル・インターネット時代の人びとが求める情報を押さえ込むことは不可能ではないか。
 世界第二位の経済大国目前の中国が、懐の大きさを見せ、オバマ政権と呼応しながら、人類社会全体の繁栄と平和の実現をめざすことを切に望みたい。

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 それにしても半年前、ガルフ・ホテルで出会ったアハラムを、クウエートの金持ち目当ての若い娼婦ではないかと勘ぐったのは、赤面のいたりだった。四十年経った今でも、恥ずかしく思う。彼女の容姿に、エジプトの王妃ネフェルティティの浅黒い肌と魅惑的な黒い瞳、ジプシーのカルメンのような情熱を感じて、勝手な想像(むしろ妄想)を逞しくした私は、若かった。
 アバイヤ(黒い大きな布)を頭から被ることなく、日本でも流行っていたミニスカートから伸びる脚を惜しげもなく見せている彼女と、少女とはいえ、超ミニのワンピースのジャミーラは、いったいどんな家庭の子女なのかと訝る私に、ムリはなかろう。。

 アハラムに父親のことを訊ねると、工業学校を出てから祖父が営んでいた建設業を継ぎ、学校などの公共的な建物をメインに請け負っているという。
 一九二六年生まれの彼は、小学二年の息子と一年の娘がいる三十七歳の私より八歳年上の働き盛り。

 イラクを版図に収めていたオスマン帝国を破ったイギリスが、イラク王国を委任統治で誕生させたのが一九二一年だから、アハラムの祖父は、オスマン帝国による中央集権化の時代にバグダッドで生涯を送ったのだ。
 この一家には、バビロン王国の都でバベルの塔や空中庭園の建設にかかわった先祖がいたかもしれない、と子供じみた想像をしてみる。
 スンニー派ムスリムの祖父らは、「クルアーン」に書かれている生活規範を家族で真面目に守っていたようだが、一九四一年の反英軍事内閣の成立、一九五二年のバース党イラク支部の設立を経て、イラク近代化をめざす世相が濃くなり、共和政革命が一九五八年に成功してからは、社会や生活の西欧化が急速にひろがりはじめたそうだ。
 アハラムが生まれたのは、バース党のイラク支部ができたころで、この党が政権をとったのが、高校二年ときだという。
 ユーセフによる「バース党」解説を記しておく。「バース」(アラビア語の発音はバアス)とは「復興」を意味し、イギリスなど西欧によって線引きされたアラブ国家群を解体して、アラブ人による統一国家「アラブ連合国」の建国をめざしたアラブ社会主義復興党の略称になった。

 その起源は二十世紀当初で、シリアのミシェル・アフラク(思想家)が基本的な政治信条をつくり、インテリゲンチャや少壮の将校らの限られた階層の集団だったが、第一回党大会をダマスカスで開催。一九五十年代後半、シリアを本拠にイラク、レバノン、ヨルダン、イエメンに支部を置いた。しかし、イラク・バアス党がシリア・バアス党の指導を嫌い自主独立の道を選んで離脱したので、レバノン以外の国々はイラクに従ったという。「単一のアラブ民族、永遠の使命を担う」の綱領を掲げ、「統一」「自由」「社会主義」の実現をめざした一連の思想を「バアス主義」と呼ぶそうで、去年の夏に急逝したナセルの志もそうであったろう。
 
 オスマン帝国や西欧列強に支配されていたアラブの国々のバラバラな存在を統一し、かっての栄光を取り戻そうとしたナセルと志を同じくするイラクのバアス党政権下の今、科学技術・教育の振興、軍事力の増強・近代化、女性の社会進出などに顕著な成果がみられ、大学・高校生などの若者に支持されていますと、イラクの未来を信じているユーセフは、誇らしげな口調で話した。
 だが、近代化途上のイラクでは仕事をしたくてもまだ給料が安く、二倍近く稼げるクウエートに出稼ぎしているのだと、付言するのを忘れなかった。

 アハラムの「女性観」に戻ろう。
 アハラムは、「母親は、実家での育ち方と祖父母と暮らした影響か、かなり保守的な考えに従って日常を過ごしていますが、欧米的なライフスタイルへの私たちの憧れに口出しをしないのは父親と同じです」と、声が弾んでいる。
 高校を出てから時折やってくるクウエートには、バグダッドよりも新しいファッションの衣服や靴があって、このワンピースもそうなの、とにっこり。
 公共施設の建設請負業の父親が、発注側の役人と家族への贈物をクウエートで物色しているかと思うのは、下衆の勘ぐりだろうか。

                                                           (続く)



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2010/03/30 16:33 2010/03/30 16:33

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アラブと私 

イラク3千キロの旅(25)

 

                                                                       松 本 文 郎 

 

サマーラの塔から下りてくる途中、アハラムが、王妃のために「空中庭園」を造ったネブカドネザル2世のような男性に出会いたいと言ったことから、史実にちなんだエルサレム侵攻と「バビロン捕囚」を戯曲化したオペラ「ナブッコ」が飛び出した。

預言者ムハンマドから千二百年も昔の故事だが、登場人物へのアハラムの反応で、彼女の人となりも分かってきて、話題にしてよかったと思う。

ナツメヤシの並木の影が、長くなっている。

チグリス河畔に車を停め、枯れ葦で焼き上げた鯉を堪能した、ピクニック気分のランチだった。

アハラムとユーセフが、眠気眼のジャミーラを車に乗せる間に、店の主を呼んで勘定を済ませた。

バグダッドへ戻る車の後の席で、私の肩にもたれて眠りこんだジャミーラを起こさないような小声で、二人に聞いたコーランとイスラムの生活習慣の話を、最近のウィキペディアの記事で補強しながら、記しておこう。

 

[コーラン(クルアーン)]について 初めに書いておくと、二人に話を聞いたときの私は、コーランと聖書との関係がそんなに深いものとは知らなかったのである。

 偶然にも、ユーセフがクリスチャン、アハラムがムスリムだったので、二つの聖典の関わりと違いが分かったのだ。

また、ウィキペディアには、日本で「コーラン」と呼ばれてきたこの聖典が、最近ではアラビア語の発音により近い「クルアーン」と表記されることが多いとあるので、以後、それに従うことにする。

 

(10)の後半に書いているように、「クルアーン」は、メッカの商人ムハンマドが四〇歳(六一○年)の頃、郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していたある日、大天使ガブリエルが現れて彼に託した第一の天啓(啓示)に始まるとされる。

 ヘブライ語で「神の人」を意味するガブリエルは、聖書に出てくる大天使の一人であり、旧約では預言者ダニエルに歴史を解明し、新約では洗礼者ヨハネにイエスの誕生を告知したとある。

 ムハンマドは、「神の言葉」をキリストの使徒から、アラビア語で伝えられたというのである。

イスラム教はキリスト教の延長線上にあるのだ。

 こうした天啓は、ムハンマドが亡くなるまで何回にも分けて下され、彼自身と信徒たちの記憶と口伝で伝承されていた。

 でも、ムハンマドから直接の口伝を受けた教友が亡くなりはじめたので、文字化され書物の形にした「ムスハフ」がつくられた。

 しかし、イスラム共同体全体での統一した文字化でなかったため、伝承者による恣意的な変更や伝承過程での混乱が生じはじめ、第三代の正統カリフ・ウスマーンが今に伝わるクルアーンの正典編纂を命じ、ウスマン版と呼ばれる標準クルアーンが生まれたのは、六五○年頃である。 

 このウスマーンの功績は、ムハンマドの後継者をめぐるイスラム共同体の権力抗争のあらましと共に、(11)の冒頭に書いている。

 ウスマーン版以外の「ムスハフ」は焼却されたので、イスラムの聖典には今までのところ偽典・外典の類は発見されていないとされる。

 キリスト教でも、「はじめに言葉ありき」とあるが、神がムハンマドを通じてアラブ人に神の言葉を伝えたクルアーンは、聖典の内容・意味、言葉そのものすべてが神に由来し、それらを信じるのがイスラム教信仰の根幹とされるのである。

「イスラム」とは、「神への服従」の意である。

 キリスト教では、マリアの処女懐胎やキリストの蘇りなどを神が現した奇跡とするが、ムハンマドを神の子ではなく、人間の預言者だとするイスラム教では、神の言葉がムハンマドを介して地上に伝えられたこと自体を、神がもたらした奇跡としている。

 クウエート着任から毎日の早朝にモスクから流れてくるクルアーンの詠唱は、覚めやらぬ耳にとても心地よく、また寝入ってしまうほど……。

抑揚のない旋律と単調な響きなのに、キリスト教のグレゴリア聖歌や仏教の声明にも通じ、えも言えぬ天上の楽の音と感じたものだ。

 横隔膜をつかって強く吐き出されるアラビア語に、風土に由来し、私たちには耳慣れない発音もあるが、朗朗と詠唱される「クルアーン」に音楽的な愉悦を感じるのは、モスリムに限らないと思われる。

 また、クルアーンは、アラビア語圏の文学として第一級品とされ、文章の意味をあまり理解できない者でも、アラビア語の美しさに惹かれて改宗するというのも、分かる気がする。

 アラビア語は、語彙の豊かさが特徴とされ、一つの事象を表す言葉の数が、驚くほど多いそうだ。

日本語も、四季の情景描写や人情の機微を表現するこまやかで、豊かな語彙を駆使して、世界最初の文学とされる「源氏物語」や随筆「枕草紙」を生んだことで、アラビア語と言語感覚の類似性があるのかもしれない。

 詩の力をもつ言葉で書かれたクルアーンは、一一四の章(スーラ)と各節(アーヤ)で構成されているが、各章は、ムハンマドに下された一つひとつの天啓である。

 天啓は、イスラム共同体がメッカからメディナに移ったヒジュラ(聖遷・六二二年はイスラム暦元年)を境にして、メッカ啓示とメディナ啓示に分かれ、章立ては時系列の順ではなく、長い章から短い章に向っている。

 第一の天啓をふくむメッカ啓示の内容は、唯一神への信仰や終末への警告など宗教的情熱を伝える点が特徴的で、ムハンマドのアラーの言葉への畏怖の念が強く出ているという。

 メッカ啓示で信仰的信条に関する啓示が伝え終えられたあと、イスラム教がメディナで急速に広まり、イスラム共同体が強固に形成されはじめてからは、人々に信仰をうながすような啓示が多くなる。

 メディナ啓示では、共同体の法規定や信徒の社会生活に関するものが多い。

 アハラムが言うには、親以前の世代のような信者ではないが、クルアーンはイスラム教徒が守るべき生活の規範で、神の言葉を信じ、言行一致させようとする信仰だそうだ。

 クリスチャンのユーセフも、それほど熱心な信者ではないですがと笑いながら、神の愛に、罪深い人間の救済を祈り、神・キリスト・聖書(三位一体)を信じるのがキリスト教徒だと言う。

二つの世界宗教はルーツは同じでも、ずいぶんと異なる宗教文化を形成してきたものだ。

 左肩にもたれていたジャミーラの寝息が止まり、身をすべらして私の膝に顔を俯けた。

支えるためにこわばっていた肩が楽になったが、鼻孔に、疎開先の学校で机を並べた小6・少女の、陽にさらした髪の匂いが立ちのぼってきた。

 半年余り、独りでフラットに住んでいる身には、かなり気になるが、二人との話しに戻ろう。

 

[クルアーンと聖書]

 この『アラブと私』を書く動機のひとつに、いまも続くユダヤ教・キリスト教とイスラム教の確執の歴史を学びながら、ルーツが同じ始祖たちによる、愛と平和に基づく人類社会の連帯への諭しの検証を試みたい想いがある。

 南回りの飛行機で二十一時間もかかるクウェートにやって来た私が、アラブの男女二人に出会い、互いの宗教の話をしているのも、不思議な縁である。

 いましばらく、硬い話を続けさせていただく。

                                                 (続く)


NABUCCO´S "VA PENSIERO SULL´ALI DORATE"

2010/03/05 16:05 2010/03/05 16:05

アラブと私 
イラク3千キロの旅(24)
 
                               松 本 文 郎
 

 さて、オペラ「ナブッコ」では、新バビロニアの南ユダヤ国侵攻と多数のユダヤ人の強制連行の史実が、創作された複雑な人間模様と祖国への望郷の想いの背景に過ぎず、観衆にうけたのは、イスラエル人の捕囚たちがユーフラテス河畔で祖国への想いをこめて歌う「行け、わが想いよ」だったのである。
 イスラエルとパレスチナの問題は、イラクの旅を終えてクウエイトに帰ってから、しっかり記述することにして、話を元に戻そう。
 
「ところでオペラではナブッコの名前になっているネブカドネザル2世だけど、物語の筋書きでは史実とは逆の設定になっているんだよ」
「ナブッコを」ご存じない読者のために、アハラムたちに話したオペラの登場人物とあらすじを記しておこう。

【登場人物】
ナブコドノゾール王(ネブカドネザル2世)
イズマエーレ(エルサレム王ゼデキアの甥)
ザッカリーア(ヘブライ人の大司教)
アビガイッレ(ナブッコ王と女奴隷の間の子)
フェネーナ(ナブッコ王と正妻の間の子)

【第一幕】
・ナブッコ王と勇猛な王女アビガイッレに率いられた新バビロニア王国の軍勢がエルサレムを総攻撃しようとしている。
・狼狽するイスラエル人たちにザッカリーアは言う。「こっちは、ナブッコ王の娘フェネーナを人質にしているから安心だ」
・フェネーナとイズマエーレは相思相愛の仲だが、アビガイッレもイズマエーレに想いを寄せている。
・ソロモン神殿を制圧したアビガイッレは、「自分の愛をイズマエーレが受け入れれば、民衆を助ける」と告げるが、彼はそれを拒絶する。
・ナブッコ王が神殿に現れ、ザッカリーアが人質のフェネーナに剣を突きつけ、軍勢の退去を促したが、イズマエーレがフェネーナを救おうとしたので失敗。
・イスラエルの民衆はイズマエーレの裏切りを非難し、勝利したナブッコは町と神殿の完全な破壊を命じた。(史実に基づいているのは第一幕とイスラエル人の首都バビロンへの強制連行だけ。あとは、旧約聖書の記述に拠るかオペラ台本の創作である)

【第二幕】 
・女奴隷の子の出自の秘密を知ったアビガイッレは、ナブッコ王がフェネーナに王位を譲ろうとしているのに激しく嫉妬する。
・バビロニアの神官らは、「フェネーナが捕囚たちを解放しようとしている。ナブッコ王が死んだ虚報を流すので、王位を奪ってほしい」とアビガイッレを焚きつける。
・ザッカリーアは、神殿と祖国、民衆の信仰心復活を祈る。イスラエル人たちはイズマエーレの裏切りを詰問するが、ザッカリーアは「今や、フェネーナもユダヤ教に改宗した」と告げ、二人をかばう。
・アビガイッレと神官たちが現れ、フェネーナから王冠を奪おうとしたとき、死んだはずのナブッコ王が登場。「自分は、今や神だ」と誇った驕慢さが神の怒りにふれ、頭上に落ちた雷で精神錯乱に陥って、アビガイッレが王冠を手に入れる。

【第三幕】 
・玉座のアビガイッレが、異教徒たちの死刑命令をつくり、力を失ったナブッコに玉璽の押印を求める。
・ナブッコは、改宗したフェネーナも死刑になるのを知って、アビガイッレに取り消しを懇願するが、彼女は聞かない。
・イスラエル人の捕囚たちが、「行け、わが想いよ。黄金の翼に乗って」を歌う場面は、ここだ。
・ザッカリーアは、新バビロニアの滅亡と最終的なの勝利を予言して、人々を勇気づけようとする。

【第四幕】 
・監禁されているナブッコは神に許しを乞い、忠臣たちは彼を救出する。
・ナブッコは、フェネーナを助け、王位を取り戻すことを誓う。
・イスラエル人が処刑されようとした時、ナブッコが登場して、バビロニアの神々を祀った祭壇の偶像破壊を命ずる。
・ひとりでに崩壊した偶像を見て神の奇跡を信じたナブッコは、異国の神エホバ(ヤハウェ)を讃え、イスラエルの民の釈放と祖国への送還を宣言して、群集はエホバ賛美に唱和する。
・形勢不利と見たアビガイッレは服毒し、ナブッコとフェネーナに許しを乞いながら息絶える。
・ザッカリーアがナブッコを「王の中の王」と讃え、幕が下りる。
 
 聞き終わったアハラムが、解せない顔で呟いた。
「ネブカドネザル2世は、メディアから嫁いできた王妃アムティスのために「空中庭園」を作らせた王なのに、オペラでは、どうして女奴隷に子供を産ませたりしたのかしら?」
「ネブカドネザル2世が王妃を愛していたとしても、タジマハールを造ったシャー・ジャハーンのように、権力者には側室がいたり、ハーレムもあっただろうからね。それにしても、アハラムは案外と純情なんだね。ただ、ネブカドネザル2世がユダヤ教に改宗するという筋書きは、荒唐無稽だと思うね」と私。
「いまどきの若い女性のアハラムには、不倫のように思えるのでしょう。唯一神のユダヤ教成立以前の宗教はみんな多神教でした。キリスト教文化を基盤とするヨーロッパ人が、新バビロニア国王がエホバのユダヤ教に改宗したとする物語を創作した意図は、私には分かる気がします」 キリストの祖先の一人ヨセフに因む名をもらったユーセフらしい反応だった。
「それにしても、王女が人質にとられた国の王の甥に恋し、異母姉妹が恋敵になる筋書きは、いかにも、オペラらしい人間模様の展開だよね。アハラムは、外国の近代小説なんかを読んでるのかい?」
「本屋に、輸入された英米の雑誌や小説がありますが、私の英語では読めません。Mrマツモトは読むのですか?」
「うん。アメリカの現代小説は、英会話の勉強にはもってこいなんだ。ところでアハラム。Mrなんてやめて、「フミオ」の名で呼んでくれていいよ」

ウィキペディアの「ユダヤ教」に拠ると、バビロン捕囚の五十年間、政治・宗教のエリートのほとんどが異郷バビロンの地での生活を強いられ、王国も神殿もない状況に置かれた結果、イスラエル民族の歴史を根本的に見直すことになった。
 民族神ヤハウェへの深刻な葛藤と省察のあとで、国はなくてもユダヤ教団として生きる道を選ぼうと、大胆な宗教改革が行われた。
 圧倒的な政治・経済を誇る異教の地バビロンで、「ヤハウェこそが、世界を創造した唯一の神だ」とするイスラエル民族のアイデンティティを確立した。
 バビロン捕囚の終焉の始まりは、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝のペルシャ帝国皇帝キュロス2世(大キュロス)の寛大な政策による、祖国への段階的帰還からだった。
 ユダヤ人としてのアイデンティティを確立した彼らは、エルサレムの復興、教典の編纂、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)の再建など、イスラエル復興への活動に力を尽くした。
 現代のイスラエルは、新バビロニア王国があったバグダッドの原子炉を奇襲の空爆で破壊し、かって屈辱の捕囚から開放してくれたペルシャの末裔たちイランとは、核攻撃も辞さないほどの敵対的関係にある。
 
 英語とアラビア語が行き交う三人の談論がつづく
傍らではいつのまにか、満腹したジャミーラが椅子の背にもたれて眠むりこんでいた。
 今夕のホームパーティの話題にしたい、イスラムの生活習慣やコーランの教えなどは、バグダッドへ戻る車の中で、アハラムに訊くとしよう。
                    
                                   (続く)




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2010/02/23 10:24 2010/02/23 10:24

アラブと私 
イラク3千キロの旅(23)
 
                            松 本 文 郎 
 
 チグリス川の土手の下で鯉を食べたあとの話題に、ヴェルディのオペラ「ナブッコ」を持ち出したのは、舞台場面に、「バビロン宮殿」「ユーフラテス河畔」やアハラムがうらやましがっていた「空中庭園」があるからだ。
「空中庭園」を造らせた王のネブカドネザル2世がユダヤ王国へ侵攻し、イスラエル人の強制連行をした史実が、第一幕になっている。
 高校生のアハラムが、「バビロン捕囚」を学んだと聞いたからでもある。
「ナブッコ」の物語に興味をしめしたアハラムに、「ヴェルディが、なぜ『ナブッコ』を作曲したのかボクは知らないけど、この戯曲は旧約聖書に基づいて書かれそうだ。アラブの歴史で旧約聖書が占める位置は凄いんだなー」
 ユーセフは、私の話をアラビア語でアハラムに伝えてから、応えた。
 「旧約聖書は、キリスト教徒だけではなく、ユダヤ教徒やイスラム教徒にも共通する聖典です。私の名が、創世記の族長物語に出てくるヨセフの英語読みだと、チーフは気づかれていますよね」
 ユーセフは旧約聖書の私の知識を試すかのような、いたずらっぽいウインクをした。「うん。母方の伯父貴が熱心なクリスチャンでね。ボクが京大に入ったとき、ぜひ聖書を読むようにと勧めたので、素直に手にしたんだ」
「クリスチャンでもないのにですか?」
「そう。クリスチャンの少ない日本だけれど、欧米の絵画・音楽・文学の真髄を知るには、キリスト教の歴史や聖書の知識が欠かせないので、インテリの教養の書でもあるんだよ」
 世界三大宗教の発祥の地アラブ。断食月が明けたイド・休暇をイラクの旅で楽しんでいる私は、同僚たちが嫌がった熱砂の国への海外勤務が天命だった、と感じはじめていた。
「新約聖書の冒頭の「マタイ伝福音書」ので出しは、キリストの系図説明ですが、そこに、アブラハム・イサク・ヤコブ三代の族長の名があります。ヨセフは、ヤコブの十二人の息子の末っ子なんです」
「やたらと人の名前が書き連ねてあって、キリストの誕生になかなかたどりつかなかったのを憶えてるし、私は、このイエス・キリストの言動録を一つの物語として読んだ気がする」
「旧約聖書の創世記には、ヤコブが十二人の男子をもうけ、それぞれがイスラエルの十二部族の長になったと書かれ、、バビロニアからカナンの地(いまのイスラエル・パレスチナ)へやってきた遊牧民の族長アブラハムは、神の祝福を受けて、諸民族の父になる約束を与えられたとあります」
「バスラで見たリンゴの木の化石の幹の横の立札に、イスラエル民族の先祖アブラハムがここで祈った、と書いてあったね」
「その息子イサクと孫ヤコブも、神から子孫繁栄の約束をもらい、神と契約を結んだヤコブに、カナンの地が与えられたという話です」
 ユーセフは、アハラムに教えるような口調で、「この契約で、ヤコブはイスラエルと改名したので、彼の子孫はイスラエル人と呼ばれるようになったんだよ」
 アハラムがアラビア語で聞いたのと同じことが、英語で私に伝えられた。
「ヤコブはイスラエル人の始祖だから、キリストはイスラエル人だったと……」
  三人のやりとりに興味が無さそうなジャミーラを気にしながら、
「私たちの家族はクリスチャンではありませんが、創世記は高校の授業で習いました」、とアハラム。
「へー、そうなんだ。創世記の中で面白いと思った話はあったかい?」 
「それはヨセフの物語でした。兄たちに殺されかけたヨセフはエジプトに奴隷として売り飛ばされながら、夢占いと実力でエジプトの宰相まで出世して、飢饉に苦しんでいた父ヤコブと兄たちをエジプトに呼び寄せ、救ったという話です」
「ユーセフは、すごい人の名をもらったもんだねー」「クリスチャンは、キリストの係累や弟子・聖人の名にあやかって、子供の名を選ぶ人が多いようです。父もその一人ですが」
 
 ここでちょっと道草。
 アラブの歴史は、シンドバッドやアリババの話のような『千夜一夜物語』が生まれる魅力的背景に富み、アラブを舞台にしたヴェルディ・オペラでは、「ナブッコ」や「アイーダ」が愛されつづけている。
 このオペラがミラノ・スカラ座で初演されたのは一八四二年。ヴェルディの三作目で大成功をおさめた出世作だ。
 当時のイタリアは絶対王政の都市国家群に分かれ、一八四八年にマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」が出たように、ヨーロッパの政治が王政から共和制に「チェンジ」する過渡期だった。
 第三幕で歌われる合唱曲の「行け、わが想いよ」には有名な伝説がある。
 ミラノ・スカラ座での初演の聴衆は、その歌詞の「おお、あんなにも美しく、そして失われたわが故郷!(オー ミア パートリア シ ベッラ エ ペルドウータ)」の部分に、オーストリアに支配されている自分たちの運命を重ね合わせたとされる。
 劇場にいたオーストリアの官憲らは、歌詞の意味するところを知っていたが、聴衆の暴動を恐れて、アンコールを許可したという。
 大好きな「サウンド・オブ・ミュージック」で、ナチス臨検のコンクール会場から国外に脱出直前のトラップ大佐一家が、国花の歌「エーデルワイス」を唄って聴衆たちを励ました場面と呼応する。
 やがてこのオペラは、イタリア半島全域で再演されて、「行け、わが想いよ」への熱狂が渦巻いたと伝えられている。
 しかし、近年の研究によると、この伝説に対して疑問が投げかけられているようだ。
 つまり、この伝説は、ヴェルディが大家としての地位を確立し、イタリア統一が完成した一八七○年以降につくられたのではないかということなのだ。
 1901年の冬、八十七歳で逝ったヴェルディの棺を運ぶ葬列を見送る群衆から、「行け、わが想いよ」 の歌声が自然に沸き上ったとされる。
 人々を励まし、結びつける歌の力はすばらしい。
 今、イタリアの第二の国歌と呼ばれている。
 あれから約百年の一九四八年、シオニズム運動により建国されたユダヤ人のイスラエルと、定住していた土地から追い出されたパレスチナ人との間で、紛争や戦争が後を絶たない状況がつづき、世界平和を脅かしている。
 クウエートコンサルタント事務所にはパレスチナ・ヨルダン人の運転手やオフィスボーイがいたが、その一人パレスチナ人イスマイルは、彼の村に侵攻してきたイスラエル兵に多くの老人や女子供が殺されたときの恐怖と憤懣を、私に訴えた。
 両国の一時的和解を実現した首脳二人にノーベル平和賞が授与されたが、いまや元の木阿弥状態だ。
 世界の「チェンジ」を実現できると高らかに宣言し、核兵器廃絶への期待をこめてノーベル平和賞を授与されたオバマ大統領の国内支持率が低落気味だ。マサチューセッツ州の上院補欠選挙で共和党に破れたことは、大統領選挙でオバマ勝利のブースターだった州だけに、ショックだったろう。
 リーマンショックを招いた金融システムへの規制強化や国民健康皆保険を実現し、「チェンジ」路線でしっかり踏ん張らないと、アメリカの復元力も危なくなるだろう。 
 政権交代から百日余。政治と金の「チェンジ」もままならぬ民主党のていたらくに、内閣支持率は低下中。腹をくくって、国民の期待を裏切らないようにしてもらいたいものだ。                            (続く)


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2010/01/30 17:28 2010/01/30 17:28