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  1. 2010/02/06 お手紙

お手紙

お手紙 2010/02/06 15:16

Eさん こんばんは!

 立春前夜祭の宵のひと時を楽しく過せて、うれしかったです。 初めてご一緒したSさんも楽しんでくださったようですが、節分の豆まきには遅いご帰宅となり、奥さんに角がはえていたのかどうかが、いささか気がかりです……。

 春香伝vs源氏物語やキリスト生誕の裏話など、あれこれの幅広い歓談はとても面白く、愉快でした。 あなたのライフワークが「人間探求」だと聞いたのは初めてでしたが、お世話になっている「松本文郎のブログ」に連載中の 『アラブと私』が、「私的(文ちゃんの)・人間の探求」の一環であるのと重なって、やはり、歌謡曲『引き潮』の歌詞、“あなたとの出会い(マンナム)は私の歴史です!”のままだナ、と運命的なものを感じました。

 帰宅して一息ついてつけたテレビで、1960年代後半の若者たちのカリスマだった

添付画像
フォークの岡林信康の番組をやっていました。 この時代はまさに、Sさんや前にお連れしたNさんらの青春真っ只中と思われましたので、つい最後まで見てしまいました。
 お若いあなたは岡林信康をご存じないと思われますので、感動したさわりだけを紹介させてください。

 彼のビッグヒットの歌に、『山谷ブルース』や『友よ』がありますが、1969年の東大安田講堂占拠解除の後、なぜかフォークからロックに転じた彼は、1970年(私も関わった大阪万博)の全日本フォーク・ジャンボリーで『私たちののぞむものは』を絶唱し、若者たちを熱狂の坩堝に巻き込みました。
 その歌詞、“私たちがのぞむものは、生きるよろこびなのだ…、社会のための私たちではなく、私たちのための社会なのだ…”には、危うい政権運営に明け暮れる鳩山内閣がめざす“理念”に通低するものがあります。
 カリスマと呼ばれることをの望んでいなかった岡林は、翌1971年、『俺(おいら)いちぬけた』を発表して人前から去り、岐阜や京都で百姓をして自給自足の暮らしをしたそうです。
 自然の営みと共に2年を過ごした彼は、やはり、歌が好きだったことに気づき、美空ひばりに書いた『ある女の詩』をきっかけに、紅白連続17回出場で飛ぶ鳥を落とす勢いだった“演歌の女王”と意気投合して、紅白でも唄われた『月の夜汽車』を提供しました。 歌から離れての2年間の百姓生活の中で、“自然のいのちの流れに従うしかない…”と、それまで縁のなかった演歌を書く衝動に駆られたといいます。それが、『風の流れに』でした。
 天才少女と呼ばれて9歳から歌の世界に入り、“女王”の名をほしいままにしているかにみえた美空ひばりは、岡林信康がカリスマと呼ばれた人気絶頂の中で感じていた“淋しさ”を共有していたのです。“山のつつじを一緒にいつか 摘みに行こうよ すてきだぜ…”の情景が、そんな思い出ひとつ持たない“ひばり”のこころに、しみ入ったのでしょう。 

 テレビに映った、29歳の岡林と38歳の“ひばり”のえも言えぬ和やかで親しさにあふれた表情が印象的でした。 その映像とともに流れた、「女王なんて名前は返上したいワ」とのひばり(むしろ加藤和枝)さんの想いが、痛切に響いてきました。
 番組の後半で、2007年の日比谷野外音楽堂のコンサートでの『山谷ブルース』を唄う場面につづいて、今年2010年正月、ひばり宅を訪問し、1975年にカンバックした岡林のステージの応援に駆けつけた“ひばり”が唄った、『風の流れに』の録音カセットテープを見つけました。
 それをきっかけに、岡林信康は、美空ひばりの歌13曲をカバーするCDを出すことを決意します。それもジャズピアニスト山下洋輔と一緒にでした。 まだ、ツタヤには出ていないでしょうから、少し待ってから借りることにします。(ああ、年金暮らしの哀しさよ!デス)そのCDに入っているかどうかわかりませんが、岡林さんがひばりさんへのオマージュとして書いたと思われる、『レクイエム・麦畑のひばり』はこころにしみるいい歌でした。
 星野哲郎門下生(研究科をふくめて2年間、六本木の作詩教室へ通いました)私も、いつか、カラオケにのるヒット曲を書いて、建築家の私が設計した家に、60年も待ったお千代を住まわせる見果てぬ夢を見続けたいと願っています。
 あなたが唄う“ひばりの歌の先生”を自認しているお店のお客さんは、この岡林信康のことをご存知でしょうか? 近く来られたときに、訊ねてみられてはいかが?

 追記:

 ところで、苦労人の三輪明宏が母を偲んで書いた労働歌『よいとまけの歌』が好きですが、前述の『山谷ブルース』の歌詞にある”中略、俺たち居なくなりゃ、ビルも道路も出来ゃしない、誰も分かちゃくれないか…”には、ハコモノ時代が終わりそうないま、一入の感慨をいだきます。
 それは、私の建築家修行時代の昭和33年、グループの一員として設計参加した中国電気通信局庁舎(日本建築学会賞)の設計監理・現場監督をしたときに提案して実現しなかったことがあります。
 建設に関わった労働者全員(単純労働従事者の大半は東北地方からの出稼ぎ者)の名前を書いた銘板を建物に取り付けることでした。
 法隆寺や東大寺の屋根裏などに、棟梁たちの名前が書いてあったのを知っていたので、”若気の至り”で思いついたことで、ふりかえってみれば、『山谷ブルース』の詩と重なる想いでした。
 
 あなたのご出勤を待ちながらSさんと語り合った中に、大阪万博プロジェクトなどもあったので、ふと思い出した”蛇足”です。 お礼のメールを打ち始め、思いの外長いものになってしましました。
 明日は、浦安男声合唱団の練習日で、3月7日の「浦安市合唱祭」で唄う歌の暗譜を求められています。 事務局長のSさんらの依頼を受けたNさんが、ラトビア語の逐語訳の労作を提供してくださったお陰で、なんとか憶えることができそうですが、よく寝ておくことも大切です。

 このメールは、お店にご一緒したNさん、Sさんにも,CCでお届けしておきます。

 では、おやすみなさい。               文ちゃんより

       


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