アラブと私

イラク3千キロの旅(52)

 

                               松 本 文 郎 

 

「欧米で、イラク石油会社の国有化が懸念されていますから、その可能性はあります。20年前の1951年、イランのモサデック首相がアングロ・イラニアン石油会社の石油利権を取り戻し、石油産業の国有化を実行した1953年、米英が画策した皇帝派クーデター(CIAが関与したとされる)でモサデックは失脚し、3年間の投獄を経て、自宅軟禁中に死亡したのを思い出します」

 ユーセフがつづけた。

「去年、革命指導評議会は、独立国家クルディスタン建国を要求してきたクルド人に将来の自治を約束して、クルド語をイラクの公用語に加えましたが、政治面ではなにも変わらず、クルド人の間に不満がつのっているようですから、CIAが暗躍する下地がないとはいえません」

 話の風向きが不穏な方に向き始めたので、この話題は打ち切る方がよさそうに思えてきた。

「一昨年、イラン電気通信研究所の基本計画技術指導でテヘランに滞在したとき、タクシーの中で話をするにも、パーレビ皇帝の秘密警察とCIAへの密告に注意するよう忠告されました。この辺にも居そうな連中に誤解されると怖いので、もうこの話はお終いにしましょう」 

「それがよろしいでしょうね」

牧師はまた、ワインのお代わり勧めた。

「チーフ。そろそろおいとましますか。もう一つご案内したい場所がありますし」

「どんな所だろう?」

「モースルで働いたときに出会ったクルド人を訪ねて、チーフが興味をもたれるものを見てほしいのです」

「なんだか、興味深々だネ」

 親切な牧師の心遣いのもてなしとイラクの現状をめぐる率直な対話は、思いがけない体験だった。

こころからの感謝の意を伝え、固い握手を交わして、パーキングに向かう。

 牧師と並んで歩いてきたユーセフが、運転席に座り、車をスタートさせながら言った。

「いい人だったでしょう。チーフがとても親しく牧師と話されたので、案内した甲斐がありました」

 

教会から20分ほど走り、小高い岩山の細道を登って着いたのは、チグリス川右岸の崖に掘られた横穴式住居の入口だった。

「ここに住んでいるのはクルドの人で、民族宗教ヤズィーデーの信者です。川が覗ける一角には、とぐろを巻いたドラゴンを祀る祠があるのです。彼がいるかどうかを見て来ましょう」

 ユーセフは、横穴開口の板壁のドアから入り、しばらくして、、私の父親の歳くらいの老人と出てきた。

 白く長い顎ひげの老人に手を差しのべると、人なつっこい笑みを浮かべ、握手をしてくれた。ゴツゴツしたぶ厚い掌が、温かかった。

 招き入れられた居間のような空間は、白い岩を掘って造られており、道と川の両側に開けられた窓からの光でかなり明るく、風通しもよい。

 長方形の部屋の壁の片側に埋め込み棚があり、その向い側に、手編みの分厚い絨緞が掛けてある。くすんだピンク色の地に、草木染のような色でいろいろな草花や動物たちが編みこまれている。

 床にも同じような絨緞が数枚敷いてあり、壁沿いには、背もたれのクッションが並ぶ。

 この横穴住居の構造は、並行する道と川に直交する長方形の空間がいくつか、1米ほどの岩壁で支えられて並び、相互を連結するドアで繋がれている。

 居間と隣の部屋のドアに消えた老人が、チャイのグラスを載せた銅の盆を片手に、戻ってきた。英語をまったく解さない老人との会話は、私の英語をユーセフがアラビア語で伝えるやりかたで、なんとかなりそうだ。

 ユーセフは、教会の牧師に向けた懐かしそうな顔で、老人とアラビア語の挨拶を交わしている。ユーセフがクルド人の住処へ案内すると言ったとき、建築家としての好奇心を激しく掻き立てられた私だった。

イラン・イラク・トルコに連なる山岳地帯に住むクルド族が、紀元前6千年前からこの辺に居住していた先住民の末裔でないかと想像してみたくなってきたのだ。

 中国の賢人のような風貌の老人はある種のカリスマ性を感じさせ、ヤズィーディーという宗教がどんなものか知らない私は、人類に共通した原始宗教的なものを想像した。

 なにはともあれ、ドラゴンを祀った祠をみせてもらうことにする。私たちは居間から出て、入口と同じ洞穴の奥の方へ案内された。

 祠は、突き当たりにある窓の手前のアルコーブにあった。アルコーブの壁に、川を見下ろす窓から届くほのかな光にとぐろを巻くドラゴンの姿が照らされている。

「これはまさに、ヤマタノオロチではないか。自分の目を疑いながら、私は叫んだ。

「ユーセフ! 日本にも、これと同じような祠があるんだよ!」 

 意気込んだ叫び声に、ユーセフと老人が驚いている。

「ええ? ほんとうですか!」

「日本のドラゴンには8つのアタマがあるんだが、山に巻きついているような姿までがそっくりで、ヤマタノオロチというんだが、。それは、竜か大蛇のような姿をした想像上の動物神なんだ」

「それは、旧約聖書以前の人類社会の自然信仰の神ですよね」

「そうなんだ。モースルでそれに出会うなんて!」

「このキミとの話を、ご老人に伝えてくれないか」

「分かりました。そのあとで、ヤマタノオロチがどんな神なのかを伝えたいので、教えてください」

 モースルのクルド族の宗教と古事記の世界とが繋がっていると直感した私は、大いに興奮した。“ヤマタノオロチ”は、毎年のように川上からやって来て、村の美しい娘を食らう大蛇のことだ。

この神話は、毎年の洪水で酷い災難に遭う村人らが、水神の怒りを鎮める生贄に生娘を捧げたことに由来する。

 数千年、チグリスの川畔に住みついた人たちもきっと毎年のように襲う洪水に悩まされ、それをなんとかするための生贄を捧げたにちがいないと私は推測した。

 ユーセフがその話を告げた老人の顔が、驚愕の表情に変わるのを見て、推測が当たっているのが確認できた。

「まったく、チーフのお話と同じ伝説ですよ!」

 ユーセフも、興奮した叫び声で言った。

「ほんとうにビックリだよ。キミは、なんてすばらしい所に連れて来てくれたんだ!」

 生贄に子羊を屠る慣わしを共有する世界宗教が現れる以前の人類社会では、自然から受ける災難を鎮めるために、生きた人間を神に捧げたのだ。

 こうした風習は地球各地で同時発生したのか、はたまた、ユーラシア大陸の数千年の人間往来の所産なのか。

 想像を広げると、ナイル、ガンジス、アマゾン、メコン、黄河などの大河が流れる地には、同種の伝説と水神ドラゴンを祀る祠があるのだろう。

 メソポタミアのチグリス・ユーフラテスの洪水といえば、バスラ公園のヤシの木陰のテーブルでユーセフから聞いた、旧約聖書より2千年前に楔形文字で書かれた天地創造と大洪水の神話(5)を思い出した。

 今から5千年前に、チグリス・ユーフラティスの河口地帯に住んで、両川の水を利用した灌漑の農耕・牧畜で暮らしたシュメル人の神話である。

 古代オリエント学の泰斗・三笠宮崇仁著『文明のあけぼの』に、旧約聖書の「ノアの洪水と箱舟」の記述に一貫性がないのは、シュメルの洪水神話など複数の古い伝説が取り込まれたからとある。

 このシュメル神話の大洪水の物語は、その後、メソポタミアに侵入した諸民族に受け継がれて、古バビロニア時代の「ギルガメッシュ叙事詩」にも書かれたのである。*(5)に詳述。

 シュメル人の「天地創造神話」に類似したものはグローバルに存在するが、旧約聖書の「創世記」のような唯一神によるものではなく、自然信仰の多神教的な発想で書かれている。

 土木技術者ユーセフが、バグダッド郊外の灌漑水路の掘削工事で現場監督をしていたとき、深さ6米の粘土層から見つけた土壷が実家にあるから、モースルから戻ったバグダッドで、イラク旅行の記念として私に進呈するとも言っていた。

 チグリス川の護岸工事の現場監督だったユーセフが出会った牧師と老人に会えたことは、この旅の忘れがたいエピソードになるだろう。

 

そういえば、『アラブと私』の読者だった先輩の田代穣次さん(情報通信国際交流会主宰)から、(5)の記述に関連したお手紙を頂戴したのも、懐かしい思い出となってしまった。

数ヶ月前に急逝された氏の冥福をお祈りして、その一部を掲げさせていただく。(原文ママ)

「……。『アラブと私』にはアラブの歴史文化や現状などを交えてあって面白く、アハラムはどうなるのかと期待が膨らみます。

 気象学の歴史に、『ヤンガードリアス・イベント』という1万年前に起きた事件があって、その結果で起きた極寒・乾燥でメソポタミアの肥沃な三日月地帯に農業が起きます。

 8千年前にも同様な事件が起きました。「ミニ氷河時代」ですが、このとき地中海の海水が上昇して、マルマラ海よりも下方にあったエウクイセイノス湖が氾濫して黒海が形成されました。この時の大洪水が人々の記憶に残った、という説もあります。

 若いときに中東を歩いた松本さんが、羨ましくなります。……」 

                                                                      (続く)


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2011/11/15 15:42 2011/11/15 15:42

アラブと私

イラク3千キロの旅(51)

 

                               松 本 文 郎 

 

 モースルは、ペルシャ、十字軍、モンゴル、オスマン帝国が去来した要衝の地だったのである。

市内を流れるチグリスの上流には、トルコとの国境がある。その数奇な歴史に想いを馳せながら、車を運転するユーセフがさし控えているワインのお代りをいただく。

 牧師には初めてという日本からの客のグラスに、真紅の赤ワインがななみなみと注がれる。

「古代から、交通・交易に便利な要衝の地には、大勢の人の血が、無惨に流されたのですね」

「そうです。ユーセフが話したように、私が生まれる直前まで、アッシリア東方教会の信者たちが集団殺戮の恐怖に怯えていました」

「昨晩、バグダッドで招かれた家のご主人から、モースルの歴史のあらましを聞きましたが、初期アッシリアの砦の町だった土地で、アッシリア人と東方教会信者が民族浄化のような目に遭ったのは、歴史の因果なのでしょうか」 

「因果ではなく、邪魔になる存在を抹殺するのは、時の統治権力者がいつもやってきたことではないですか。第2次大戦後の1948年、国連総会でジェノサイド条約が採択されたのは、国民・人種・民族・宗教などの集団を破壊する意図で、殺害・危害を加える行為を禁止するためでした」

380年間も、オスマン帝国に支配下されたメソポタミアを、中東の豊かな石油資源に早くから目をつけていたイギリスは、巧みな植民地政策の下で、高まってきたアラブ独立運動に介入して、立憲君主制のイラク王国が誕生させた。

 イギリスの要請を受けて初代国王に就任したファイサル1世とアラビアのロレンスとのエピソードは、(44)に書いた。

 イギリス以外のヨーロッパ諸国も、古くからのメソポタミアと交易をつづけてきたが、本格的に関心をよせるようになったのは18世紀からで、なかでも、ドイツとイギリスは互いに競い合い、積極的に動いたのである。

 イギリスが、1836年にチグリス・ユーフラティス両川で蒸気船を運航させると、ドイツは、1861年に電線を敷設し、小アジアのコニヤとバグダッドを鉄道で結び、その後、バスラまでの路線延長の計画を発表した。 

 アハラムの父が、オスマン帝国が支配していたバグダッドの鉄道建設で土建会社を創設した人の4代目だったとは、いい土産話だ。

「ドイツと組んだオスマン帝国からメソポタミアをアラブ人に取り戻す手助けをしたイギリスは、オスマン帝国の領有地を第1次大戦の戦勝国で分割して、メソポタミアをそっくり委任統治領にしました。でも、アラブ独立の約束を守らなかったので、アラブ人の民族運動が再び活発になり、1920年に起きた各地の暴動では、モースルが最も激しい地域だったそうです」 

 地酒ワインの酔いも手伝ってか、昨夜から気になっていたバース党政権の親ソ外交や多国籍企業「イラク石油会社」への、牧師の見解を聞きたくなった。

「昨晩の招宴の席でご主人の甥御の新聞記者から聞いたのですが、バクル政権が親交しているソ連の、西欧型市場原理導入や中央から地方への権限委譲については、どうお考えですか」

 出会ったばかりの日本人の単刀直入な質問に、牧師は一瞬、戸惑いの表情を見せた。

「いきなり、不躾な質問をしてすみません。もし、お差支えがあれば、ほかのお話しをしましょう。日本のことを聞いてくださってもいいですよ」

 ユーセフが、牧師に告知する口調で、

「ボスは、クウエート電気通信プロジェクト技術コンサルタントの建築班チーフです。これからのアラブ諸国の近代化と発展を真剣に考えている人ですから、ご懸念はいらないと思います」

「それでは、わたしの考えをお話ししましょうか。聖職の身でも、自分の国の政治経済については、いろいろ思案してきましたので」

「それはありがとうございます。国家統治と密接に関るイスラム教が圧倒的なイラクで、少数派のキリスト教聖職者に、国の近代化についてお考えを伺えるとは、とてもうれしいです」

 牧師の真剣なまなざしを受けながら、私は謝意を述べた。

「宗教を否定する社会主義のソ連に親近感はもてませんが、欧米による植民地的支配をうけてきた国民として、ソ連の科学技術と工業発展の支援には、期待したいと思います」

「バクル大統領のバース党は、社会主義を標榜していますよね」

「そうですが、その社会主義は、私有財産を認め、イスラム的価値観をアラブ民族文化の重要要素としています。宗教を否定し、世俗性の強いイラク共産党とは、スタンスに大きな違いがあります」

「1950年以前のイラクの石油開発権は欧米の外国企業がにぎり、イラクには殆んど利益が入らなかったそうですね」

「ですが、親英的イラク政府と英国支配のイラク石油会社が協議を重ねた結果、50年代前半には、石油収入の半分をイラク政府受け取る新しい協定が結ばれました」

 ユーセフがまた、口を開く。

「私が小学生の頃にバグダッドで対英条約反対の大規模な暴動が起ったり、高校生の頃には、反ソ防衛網のバグダッド条約機構が結成されました。そんなイラク国内外の状況下の英米の石油確保戦略として、イラク国民への妥協を画策した協定だったと思います」

 牧師が受け継いで言う。

「イラク石油会社からの石油収入は、バグダッドに本拠をおくスンニ派のバース党政権に入るので、クルド族が多いモースルとシーア派が多いバスラの地方支配者らとの悶着の種になっていました」

 さらに、牧師の話はつづく。

「50年代に石油収入は増えましたが、国民の貧富の較差は激しくて、王制政権のヌーリ・アッサイードは欧米諸国からの援助をとりつけようとしました。でも、中・低所得層には、近隣アラブ諸国に広まっていた汎アラブ主義を支持する人が多く、ナセル主義の影響を受けたカシムら「自由将校団」のクーデターで、独裁的で悪名高かった宰相は殺害されました。いわゆる1958年革命です」*(45)参照)

 私は、石油の輸入をアラブに依存する日本が強い衝撃を受けたOPECを思い出した。

「今から十年ほど前、石油収入を確保するため、イラクは他の石油輸出国とOPECを結成しましたよね」

「王政を廃止して共和制を宣言した革命から二年後でした。でも、当時のカシム政権は国民の支持を失っており、1963年の軍将校らによる新たなクーデターで、カセムは失脚し、後に処刑されました」

「この将校らは、シリアに本拠地を置くバース党の党員で、党指導者アル・バクルが首相に就任、大統領には、汎アラブ主義を支持するアブドル・サリーム・アリーフがなりました」

「しばらくして、アリーフがバクルを失脚させたのを機に、60年代、なんどもクーデターが繰り返された挙句、1968年のクーデターでバクルが最終的な政権奪取に成功して今日に至りました」

 ユーセフと牧師によると、今のイラクバース党はシリアバース党とのつながりを弱めて、社会主義路線を選び、周辺のアラブ諸国に影響力をもつ強力国家を築こうとしているようだ。

 牧師は、マリクやユーセフと同じように現バクル政権に期待しているようにみえて、その

立ち位置もおよそ分かってきた。

3年目の新政権は、社会主義の理念に基づいて、農・工業の近代化と社会の不平等是正に取り組み、バクル大統領の右腕は革命指導評議会の中心メンバーのサダム・フセインという人物だという。

「モースルに来る車のなかで、ユーセフが話したイラク石油会社の国有化は時間の問題かもしれないね」

 踏み込みすぎかと思いながら、訊ねてみる。

「バクル政権とクルドの人たちとの間に、いまはもう、軋轢はないのでしょうか」

「日常的な問題はないようでも、イラク石油会社を巡って、中央のバクル政権とクルド人との間に、これから問題が生じるのではと懸念します」

「イラク石油会社のキルクーク油田にはイギリス人が駐在しているでしょうが、この教会のミサに訪れることはありませんか」

「イギリス国教会は、ローマ教皇支配から独立し、プロテスタントの中道をとっていますが、ミサに来るイギリス人はありません。それより、2、3年前から時々、アメリカ人がやってくることがあります」

「ミサにくるのですか?」

「いいえ。どんな仕事の連中かよく分からないのですが、IPC(イラク石油会社)に関する情報を探るような質問をしました」

「CIAの諜報員なのでしょうか                    (続く)


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2011/11/04 17:42 2011/11/04 17:42

アラブと私
イラク3千キロの旅(50)

                               松 本 文 郎
 

 車の調子を気にして、モースルへ着くことだけを念頭に来たので、街へ入ったときはホッとした。
 レストランには寄らなかったが、ギャレージに寄った町でペプシコーラを買い、アハラムの家でもらったクレーチャを車の中で食べていたのが、昼食の代りだった。

 モースルの街は、チグリス川の両岸に広がっていますと云いながら、走っている大通りを指さしたユーセフは、
「十年前のナセル主義者・シャワフ大佐の叛乱の鎮圧に空軍爆撃の非常手段をとったカセム首相の命令で、この道に、数千人の血が川のように流れたといいます」
「軍事クーデターで王政を打倒し、共和制イラクを樹立した軍人の政治的内紛で、市民まで殺戮されたのはどうしてなの?」
「アハラムの家でマリクが話してたように、この地域一帯に古くから住んでいた大勢のクルド人の中に、ネストリウス派キリスト教徒のアッシリア人やトルクメン人が住んでいて、民族的、政治的に複雑な問題を抱えてきました。アラブの再統一運動をめぐり、カセムが共産党の力を借りバース党内の反共産主義・ナセル派を弾圧したのに抵抗した市民も多かったのです」
「石油利権の争奪で、カセム政権とモースル地域の利害対立もあったのだろうか」
「私はバグダッド工科大学生でしたが、卒業後、この街でチグリス川の護岸工事の現場監督で働いた頃、いろいろと残虐な話を耳にしました。これから訪ねる教会の牧師と親しくなったのも、そのときです」
「十年前のユーセフは、教会の日曜礼拝に行っていたんだね」
「ええ、実家から離れ独りで住んでいましたから、教会の牧師さんや礼拝に来た人たちと話すのが楽しみの一つでした」
「牧師さんはいまもその教会に居るの?」 
「ええ、チーフがモースルまで行きたいと云われたとき、クウエートから電話して確かめました。モースルの現場は一年余りでしたが、バグダッドに戻ってからも、相談事などで電話していましたから」
「クルド族やモースルのことを聞けそうで、楽しみだナ」
「日本人建築家が、モースルまでやって来たのをきっと喜ばれるでしょう。川上に架かる橋を渡り、しばらく走った小高い丘に教会はあります」

 いま二○一一年の十数年前からは国内外の旅でスケッチを楽しんできたので、訪れた街や自然の風景は詳細に憶えているが、アラブ滞在の当時は描かなかったし、四十年も昔のことだから、地形や街の様子をちゃんと思い出せないのはし方ない。

 モースル市内のチグリス川や橋の幅はそんなに大きくはなく、教会の建物には鐘楼や尖塔がなかったイメージが脳裏にある。坂道を登って到着した建物は、修道院風な印象だった。車のドアを開け閉めする音や二人の英語の話声で分かったのか、牧師さんらしい中年の人が入口に現れて、片手を上げた。

 駆け寄ったユーセフと親しげにハグした彼が、近づいた私に手を伸べて握手を求めた。温かい掌だった。同じ年恰好の日本人訪問がうれしかったのか、人懐っこい笑みを浮かべ、英語で挨拶を交わした。

 ユーセフがこの街を去ったあとで何度か電話で話したとしても、久しぶりの再会らしく、中庭の回廊に立ったままで、二人だけの会話がつづいた。庭をとり囲む建物を見回している私に、ホームパーティで話題になったクルド族の土地モースルにやって来た実感が、ふつふつと湧いてきた。

 私たちを食堂のような部屋に案内した牧師は、「さっきまで、わたしが結婚式の司祭をつとめたカップルが来ていて、もてなしに出した美味しいワインがありますが、いかがですか?」と訊ねた。
 思いがけないおすすめに、
「それはうれしいです。いまでもこの辺りでは、葡萄が栽培され、ワインが作られているのですか」
「はい、ご存知かもしれませんが、ここモースルの歴史はたいへん古く、紀元前六千年頃には人間が居住しており、ここからさらに北の高原地帯が、歴史に名高いアッシリア王国誕生の地なのです」
「そんな由緒ある所と知りませんでした。アラブの地にやってきた十字軍への砦だったとは、昨晩招かれたバグダッドのホームパーティで聞かせてもらいましたが・・・」「紀元前六○九年に滅亡のアッシリア王国の最盛期は、モースル周辺を首都とした時代でした」

 人のよさそうな牧師は、話しながら、壁に組み込まれた古めかしい戸棚からワインの瓶とグラスを取り出して、テーブルへ戻った。「今朝、地下のワイナリーから出したばかりですから、どうぞ召し上がってください」「なんだか、アッシリアの時代にタイムトラベルしている気分ですよ。ご親切に感謝します」

 三人はグラスを上げて乾杯した。いかにも地酒らしい素朴な味わいだった。
 ユーセフは、牧師が私の訪問を歓迎しているとみてか、うれしそうだった。「この建物は教会というよりも修道院だったようで、イスラム以前からあったネストリウス派教会の流れを汲んでいます」「それはキリスト教の会派の一つなのですか?」 
 やおら、ユーセフが口を開いた。
「会派というよりも、かって異端視された教派ですね。五世紀半ば、コンスタンチノーブル大主教だったネストリウスが、エフェソス公会議で異端として破門されたので、その一派が、ササン朝のペルシャの領地だったメソポタミアで布教したのが始まりです」
「東ローマ帝国の大主教が異端視されたのには、なにか教義上の問題でもあったのだろうか?」
「私の家族は代々のクリスチャンですが、教義のことやネストリウス派の末裔かどうかは分かりません」
 ユーセフの話を聞いている間に席を立っていた牧師が、チーズとピスタッチョの皿をのせた銀の盆を運んできた。
「こんなものしかないのですが、ワインと一緒につまんでください」
「ネストリウス派のことをユーセフから聞きましたが、牧師さんは、その流れを汲む方ですか」

 会ったばかりの人への質問としては立入りすぎかと考えたが、イスラム教徒が圧倒的に多い現代イラクの少数派キリスト教徒の存在に強い関心があり、敢えてぶつけてみた。
「家族みんなが先祖からのキリスト教徒ですからね。おそらくそうでしょうが、私たちは新約聖書で布教につとめています。当時、ペルシャの領土だったメソポタミアでネストリウス派が布教できたのは、それを異端視したビザンツ帝国と敵対していたササン朝ペルシャの歴代皇帝が手厚く保護したからだと言われています」
「やはり、宗教と政治権力の深い関りの歴史なのですね」
「メソポタミアの各地に共同体が存在したネストリウス派キリスト教徒も、六四四年にササン朝がイスラム教のアラブ人に滅ぼされてからは、アッシリア人をふくむキリスト教徒は、中央アジアや唐などの地で布教活動をする者が少なくなかったようです」
「いまも異なる宗教の信者が暮らすモースルでは、どうなのでしょうか」
「いまでもそうですよ。モースルではモスリムのスンニ派が多数ですが、キリスト教徒やクルド人の民族宗教・ヤズィーディーの信者もいて、深刻な事態にならなくても、協調できない場面は生じています」
 ユーセフが、また口をきいた。
「オスマン帝国時代の一九一四年から二十年間に、ジェノサイドの対象にされていたアッシリア人やアッシリア東方教会信者が、五十から七十万人も殺害されたといいます」

 アハラムの父親から聞いた、オスマン帝国支配以前のモースルの歴史の概略を列記しておこう。

①初期アッシリアの砦の町がアッシリア王国滅亡後のニネヴェの跡を継ぐ都市となって、シリアとアナトリアを結ぶ幹線道路のチグリス川渡河点として栄えて、紀元前六世紀には重要な交易拠点になった。
②ムスリムのアラブ人がササン朝を滅ぼして支配下においたモースルは、イスラム史上最初の世襲イスラム・ウマイヤ王朝の首都として繁栄の絶頂期を迎えたという。
③その後のアッバース朝時代もインド・ペルシャ・地中海を結ぶ戦略的な位置を占めて、商業都市として栄えつづけた。
④アッバース朝衰退後は、アラブ遊牧民のハムダーン朝がモースルを首都にしてジャジーラを支配したが、十一世紀後半にセルジュークに征服されてからは、その西方拡張政策を懸念する十字軍の遠征を呼び寄せることになった。
⑤十字軍国家のシリア・パレスチナ支配の時代、セルジューク朝の地方政権が入れ替わり立ち代り治めたモースルは、強力なザンギー朝政権の中心として十字軍への反攻拠点となった。
⑥その後二分したザンギー朝のシリア方を継いだサラディンは、一一八二年、モースル征服を試みたが失敗する。
⑦十三世紀のモンゴル帝国侵攻の際に反抗の意を示した太守マリク・サーリフは、籠城戦の挙句に降伏し、住民は虐殺され、都市は完全に破壊されたという。 
               
                                   (続く)



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チグリス川とモースルの橋

2011/09/22 13:03 2011/09/22 13:03

アラブと私
イラク3千キロの旅(49)

                                              松 本 文 郎 

「社会主義のバクル政権が親ソ路線だとしても、バース党自体は、ナセル民族主義で反共だよね」
「そうですよ。三年前のクーデターが成功して、カセム一派と共産党を粛清したように、新政権の主体であるナセル派とバース党の共通基盤は反共でしたから、、赤狩りぶりは徹底していました」
「じゃあ、バース党の親ソ路線は少々微妙だね」
「ええ、今のバース党は、熱烈なナセル主義者のアレフ大佐がめざしたアラブの再統一とはちがう独自路線をめざす反ナセル分子がかなりいます」
 土木技術者のユーセフが、思いのほか、自分の国の政治情勢に詳しいのに驚く。出会いから一年に満たないクウエート事務所の現地雇用エンジニアとは、政治的な話をしたことはない。アラブの国のコンサルティング業務従事者へのオリエンテーションで、素性が定かでない相手とは、政治的、宗教的な話しはしないように注意されていた。
 ユーセフと共に雇ったイラク人アルベヤティはイギリスから英国人妻を伴い、イラクへ軍用機で帰国したと話したが、事情を詮索するのはやめて、建築工事現場の仕事以外の話はしないことで対処してきた。このイラクへの旅をアルベアティに誘われていたら、断っていただろう。
 昨日、アハラムの従兄の新聞記者マリクと政治話をした余勢で、イラクの政治状況をユーセフに訊ねている私は、小田実の『何でも見てやろう』を地で行こうとしているようだ。(今思うと、いかにも無鉄砲だが、「何でも‥‥」の小田実のように若かったからだろう)
 クウエート出発からユーセフが私に示した誠実さを信じ、いっそう胸襟をひらくとしよう。
「キミがソ連の社会主義の現状をどう見ているか知らないが、ブレジネフ・コスイギン体制になってから米国とのデタントや経済改革も進めているようだよ」
「バクル大統領は、英国支配のイラク石油会社(IPC)を国有化するためにも、ソ連との関係強化を図っていると思います」
「マリクは、今のソ連の社会主義がめざしている西欧型の市場原理導入、中央から地方への権限委譲などの情報をかなり得ているようで、アハラムのオヤジさんは、そうした路線をバクル大統領がとると期待しているのかもしれないね」
「それにはまず、石油収入を国家の手中にしなければなりませんが、英仏がどう出るかです」
 ユーセフはラジオから流れる音楽を小さくした。どうやら、バクル大統領の政策論議に気を入れるようだ。車は、昨日と同じサマーラへの道を走っている。
「そろそろ、大統領宮殿が近いです。チグリス川の対岸にありますので、車を止めて下りましょう。警備の目が厳しいですから、写真は絶対に撮らないでください」
 宮殿を望む堤に並んだユーセフによれば、十三年前のカセムによる電撃的王制転覆の戦いで死んだのはわずか十人だが、そのうちの五人は王族だったという。イラク王国建国の父フセインのひ孫ファイサル二世、イラー皇太子、その二人の妹と母である。
 悲惨をきわめたのは皇太子で、熱狂した市民に奪い去られた彼の死体は、炎天下のアスファルト道路に投げ出され、車や群集の足に踏みにじられ、引きちぎられて消滅したという。
 共和制革命の立役者カセムは首相となり宮殿の主になったが、十年後に破局を迎え、一派は粛清された。
 イラク社会主義政権の権力闘争に、スターリン時代の陰惨な粛清がまだ行われているのだろうか。
 いつまでも宮殿を眺めていて不審尋問されるとたいへんなので、そそくさと車の中へ。
 共和制ではあるが、バース党の独裁政権だから、政治的言動には、外国人といえども気をつけねばならないし、ユーセフに迷惑をかけてもいけない。 「硬い話はこれくらいにしようよ。サマーラの塔が見えてきたら、運転をかわるからね」
 私は、ラジオの音量を元に戻した。
 昨日、かなり飲んだアラックの酔いは残ってはいないが、軽いリズムの音楽を聴きながら揺られていると、いつの間にか眠りこんだらしい。
 車が停まった拍子で目が覚めると、茶屋の前だった。
「よく寝てましたね。サマーラを過ぎましたが、トイレ休憩に停めましたので、チャイかトルコ・コーヒーを飲みましょう」
 バグダッドへの途上、サマーワの茶屋でチャイを飲んだが、アハラムの母親の占いに敬意を表し、トルコ・コーヒーにした。
 少し談笑して、トイレもすませた。
「ここからは、ボクが運転するから眠っててよ。昨日は朝から夜遅くまで休みなしのキミは、疲れているだろうからね」
「じゃ、お願いするとしましょう。行程の三分の一は来ています。対向車も多くはないでしょう。モースルまで百キロほどになったら、替わります」 
 空はどんよりして、空気には、サンドストームがやってきそうなにおいがある。
 走り始めた道路の上を、ゆるい砂の流れが横切っている。
 「対向車とのすれ違いには気をつけてください」と言いいながらシートベルトを掛けたユーセフは、座席を後ろに倒して目をつぶった。

 
 川から離れた道路の両側には農耕地はなくて、砂礫混じりの砂漠の中に盛り上げた二車線道路が、どまでも直線で伸びている。
 音楽のリズムに身をゆだね、かるくハンドルを握っているだけの単調なドライブだ。
 とき折やって来る対向車がなければ、緊張感を欠いてウツラウツラしそうなくらいで、腹に力を入れて、気を引き締める。
 眠気防止に、時々、クウエートで買い込んできたケントに火をつける。関税が掛からないから、日本で買う洋もくの値段に比べ、驚くほど安い。
 1時間ほど走ったころ、道路を流れる砂の量が増え、フロントガラスに当たる空気の透明度が落ちてきた。サンドストームというほどではないが、前方、要注意だ。
 時速百キロのコンスタントできたが、少しでも早く着こうと、ユーセフばりの百二十キロに上げようとした途端、アクセル・レスポンスが変で、踏み込んだ分のエンジンパワーが出ない。
 ユーセフはよく眠っていて、起こすのがためらわれたので、百キロに戻し、しばらく走りつづけることにした。
 かれこれ三十分が経って、今度はエンジン音がおかしくなり、速度が九十キロに落ちた。車体に異常な振動が生じている。
 ユーセフが目を覚まし、シートを元に戻した。「エンジンの調子がおかしいですね。二日連続の高速運転だけで、新車に近いトヨペットがいかれるわけないですから、空気清浄機のフィルターに砂が詰まったのかもしれません。修理のガレージがあったら寄りましょう」
 車の構造には自信があるような口調である。七、八十キロでは車体の振動も弱くなり、なんとか走行が維持できそうだ。
 三十分も走ると、小さな町にガレージがあった。
 ボンネットを開け、フィルターを外してみると、微細な砂が詰まっている。
 トヨタの純正部品などあるはずもなく、エア・ホースで砂埃の掃除をしただけで、店を後にした。
 ましなガレージがモースルにあるかもしれないと、行く手に望みを託して、ユーセフの運転で出発した。
 クウエートのタクシーのほとんどがベンツなのは、高い気温やサンドストームに耐える砂漠仕様の設計がされているからと聞いていたが、日本車はどうか。
 トヨタ・ニッサンの小型トラックはクウエートやイラクでたくさん走っているから、アフリカ・アラブの植民地で自国車を鍛えた欧米メーカーの後塵を拝しているとは、思いたくない。
 モースルに近づくにつれて、道路を横切る砂の流れも収まり、空気も透明になった。
 フィルター清掃の効果か、百キロ運転を維持したユーセフが、モースルの街に車を入れたときは一時を回っていた。 
                                  (続く)


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2011/09/01 18:40 2011/09/01 18:40

  立秋を過ぎても暑い日々がつづいています。お元気でお過ごしのことと拝察します。


 今年もまた、「日比谷彩友会展」開催間際のご案内となりましたが、ご容赦くださり、おついでの折にでもご高覧賜れば幸せに存じます。

なお、猛暑のさなかですので、決してご無理をなさらないようお願いいたします。

               

<ご案内>

 

日 時: 8月23日(火)~28日(日) 11時~18時

                      最終日は15時まで

  場 所: ギャラリーくぼた 4,5階 京橋2-7-11地下鉄京橋駅徒歩3分

                     Tel. 03-3563-0005

 

私の出品作品は下記2点です。

 

『夏の能登金剛』水彩・パステル 30号

 

今月初めの「能登半島ふたり旅」の折のスケッチから構想した作品です。

「巌門」付近を遊覧船で回り、夏の海に似合う力強い景観に魅惑されました。

荒々しい巌塊、樹木と山、美しい海の色のハーモニーを表現したかったの

 ですが、想いばかりが先行した拙い作品です。

  30号の水彩は久しぶりですが、時に、大きな作品にチャレンジするのも、

 絵を描く楽しみの一つと実感しました。

 

 『ミニスケッチ集』水彩・ハガキⅹ11枚(10号パネルにレイアウト)

   

バスツアーだったので、スケッチ時間は一箇所当たり10~15分でした。

   画仙ハガキ18枚綴じのスケッチブックを、3日間で使い切りました。

   限られた時間で対象を紙面に捉える“寸描”のスリルが好きで、ガイドさん

  や旅の道連れの方々が、“早描き”に驚いてくださるのが、また励みになります。

やはり、夢中で描いている至福の時間は、天恵というほかありません。

 

末筆ながら、ご健勝をお祈りいたします。

 

2011.8 吉日                       

                        松本文郎 拝


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2011/08/18 18:16 2011/08/18 18:16

アラブと私
イラク3千キロの旅(48)

                               松 本 文 郎
 

*長い道草を終え、ホームパーティーの場面に戻る便宜上、(46)の一部を左記に数行再掲。

 若い記者のマリクは、バクル政権の政策と統治の現状を歓迎している口ぶりで、「内乱が収まったのは昨年の五月でした。クルド族が落ち着いたので、明日、フミオさんが行かれるモースルの心配はいらないでしょう。やっぱり運勢が強いですね」

(前承)

 私はすかさず答えた。
「アハラムのお母さんのコーヒー占いのご託宣もあるので、無事にバグダッドへ戻れるでしょう」
 カセム政権の命とりになったクルド問題の歴史を手短かに語ってくれた主は、甥っ子のマリクが、三年前からのバース党バクル政権に親近感を抱いているのに頷きながら、「モースルの治安はよくなりましたが、道路の方はバスラからのようには整備されていませんので、高速運転には気をつけてください」
「ありがとうございます。バスラからはユーセフに運転してもらいましたので、明日は、交替するつもりです」
 モースルのことを聞いていたソファの向い側にアハラムと並んで話していたユーセフが、「チーフ。運転は私にまかせてください。私には馴れている道ですから」
「それは明日の成り行きにして、もう、お暇するとしようかね」
「はい。そうしましょう」
 アハラムが、腰を上げてキッチンへ急いだ。
「奥様の美味しいイラク手料理のご馳走になり、いろんな話を楽しくさせていただいたので、つい長居しました。行き届いたおもてなしに厚くお礼を申します」
「いえいえ、こちらこそ初めてお目にかかったとは思えないほど親しくお話できて、うれしく思います。バグダッドへはいつ戻られますか」
「モースルへ一泊してきます。ところで、戻った日の夕食に、ご主人とアハラムさんをご招待したいのですが」
「それは恐縮です。ありがたくお受けします」

 アラブの人たちは元来社交的で、ちゃんとした家庭では、招かれたら、招き返すのが礼儀とされている。旅先では、ホームパティーというわけにゆかず、クラブかホテルのディナーに招くほかない。
 アハラムが、紙包みを両手で捧げてキッチンから出てきた後ろに、母親の顔があった。
 ディナーが始まる前のテーブルセッティングの最中、同じところに現れて、目で会釈された初老の夫人である。
 髪をスカーフに包み、やさしい笑顔だった。
 あまりにも咄嗟な初回は、簡単なアラビア語の挨拶を発することさえできなかったが、今度は、「サンキュウ ベリーマッチ フォー ユアナイスディッシュス」と、英語が出てしまった。こころなしか、夫人の笑顔がひときわ耀いた。客に別れを告げる妻の笑顔に、主もニコニコしている。
 ご自慢の手料理やコーヒー占いへの私の反応に、夫人は親しみを感じたのだろうか。
 アハラムの紙包みは、クレーチャだった。
 デザートに出されたとき、「ラマダーン用に沢山作ったので、よろしかったら、モースルへの道中で食べるよう、お持ち帰りください」とアハラムが言っていたのである。

 時刻は、もう十時を過ぎていた。
 妻は、家の客人と同席しないシーア派の慣習を守る夫人と、まだ子供のジャミーラを除き、主・娘のアハラム・甥っ子マリクの三人でもてなされた中流家族のホームパーティは、アットホームで心地よいものだった。。
 門まで見送りに出た三人に、感謝をこめて握手した。心地よい酔いの後押しで、アハラムとハグしたかったが、さすがに、父親の目が憚られて、握手にとどめた。 
 ユーセフは、夕方のテラスではビールを飲んだが、アルコール度の高いアラックは少し口をつけただけで、もっぱら料理を楽しんでいた。
 酒好きでないが、車の運転に責任をもってくれているユセーセフがエンジンをかけ、トヨペットをスタートさせた。二人は門の前の三人に手を挙げて別れを告げた。
 
「とても楽しかったのでつい長居をしたけど、朝早くからの遠出運転や花束の調達で一休みもできなかったから、さぞ疲れただろうね」
「そうでもありません。ずっと、アハラムと一緒にいたからでしょうかネ」
 まる一日をアハラムと過ごして、食事や会話を共にしたよろこびが溢れている口調だった。
「ホテルまで私を送ってくれたあと、また、実家に泊まるのかい?」
「いいえ、明朝は早く出発した方がよいですから、ホテルにします。朝食は七時でいいでしょうか?」
「それでよさそうだね」
「今日行ったサマーラまでは幹線道ですが、その先は道幅もやや狭くて舗装もかなり古いですから、バスラからのようには飛ばせません」
「ホテルに着いたらシャワーを浴びて、すぐ眠るとしよう」
 ホテルへ急ぐ車のヘッドライトに、アハラムらを迎えに来た朝の街の家並が、ほの暗く写し出されていた。
 ホテルのパーキングに止めた車から出た頬に、なま温かい風が当たり、キナくささを感じた。
「明日はサンドストームが来るかもしれないね」
「チーフにも分かりますか?」
「うん。空気の臭いでなんとなくだがね」
 夜空を仰ぐと、よく晴れた昼間と打って変わり、一面の低い雲だ。
「昨日の雷雨のように、この季節は天候が変わりやすいのです」 
「インシャーラ ブックラだね!」
 私は、明日のことは神のみぞ知るとの常套句をつぶやいた。自分の部屋に入ると、急に酔いがまわってきた。シャワーを浴びてベッドに倒れこむと、昨夜と同じパタンキューだったようで、アラビアンナイトの夢でアハラムに会うこともなく、朝を迎えた。
 
 部屋へ迎えにきたユーセフと食堂のテラスで、簡素な英国式朝食を、そそくさと食べる。
 冷えたフレッシュオレンジジュースだけが、心地よく喉に流れる。
「まだ疲れが残っているようなら、ボクが運転するよ」 
「よく眠りましたから、大丈夫です。どうしても運転なさりたいなら、サマーラまでは私が飛ばして、その先をお願いします」
「じゃあ、そうするとしよう」
 
 チェックアウトして荷物を積み込むとすぐ出発した。昨夜の低い雲はどこかへ行ったようだが、行く手の空は、やはり曇っている。
 ユーセフがラジオを入れると、音楽が流れた。
「ベイルートの音楽とちがうでしょう。イラクのは、まだ野暮ったい感じですね」
「郷に入らば郷に従えと言うよ。つけたままにしておこうよ」
 トヨペットは快調に、昨日と同じサマーラへの道を走る。  
「ユーセフ。朝っぱらから硬い話をしていいかい」
「なんでしょう。眠気覚ましにいいかもしれませんね」
「マリクに聞きそびれたんだけど、去年亡くなったナセルのアラブ民族主義に反対だったイラクのバース党社会主義政権を支持しているのはどんな人たちかということだよ」
「ナセルのアラブ民族主義を支持したのは軍人が中心でしたが、それと一線を画したバース党も、度重なるクーデターでは軍の力に頼り、三年前にバース党政権が成立しました。英仏による傀儡的王政時代は、王族と特権的階級が富と権力を手中にしていましたが、バクル大統領のバース党政権は、外交面で反英仏・親ソ的路線をとりながら、イラクの近代化を進めているといえます」
「キミより若いマリクやアハラムたちも、そう思っているようだけど、アハラムの親父さんの世代はどうなんだろうね」
「社会主義的な政権ですから、政治的な発言には気を遣っています。自由な商売をするには欧米と仲良くする方がよさそうと分かっていますから、なにかとアタマをつかっているようですが」
「これから向かうモースル近辺には、イラク石油(IPC)の本拠地キルクーク大油田が広がっているけど、その石油収入の還元をめぐるクルド族の自治問題への妥協で維持されている治安情勢も、なにやら危ういところがありそうだね」
「ええ、バクル政権の社会主義政策実現の財源にはIPCの石油収入が欲しいでしょうから、欧米が心配しているように、その国有化は、国家的な課題にちがいありません」

 一介の土木技術者の言にしては、なかなかだ。

                                   (続く)


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2011/08/01 17:56 2011/08/01 17:56

アラブと私
イラク3千キロの旅(47)

                               松 本 文 郎
 

 「事実は小説より奇なり」の言葉に乗じて、この創作ノンフィクションの執筆時点に生じた「事実」に、あれこれの道草をしながら書いてきた。
 (42)を書き終えた折りしもチュニジア政変が勃発し、それをきっかけに、中東民主化の大きな津波がアラブ諸国に押し寄せた。

 五十年前以降のアラブ諸国独裁政権の近代化の行き詰まり、抑圧と苦難を長期にわたり強いられたアラブ民衆の歴史的転換点となる民主化の胎動(ジャスミン革命と呼ばれる)を目の当たりにして、私はおおいに興奮した。
 植民地支配を目論んだ英仏の傀儡王政から共和制への革命を実現した若い指導者らの変節の果て、長期独裁政治の終末が迫る日々にあって、中東を統治した英国の軍人でありながらアラブ諸国独立を夢みた「アラビアのロレンス」への想いを(44)に書いた。

 (45)では、五十年前のイラク革命を現地取材した牟田口義郎(朝日新聞)の報道資料に拠り、中東石油をめぐる欧米列強とアラブ諸国がせめぎ合うOPEC誕生とカダフィ政権の登場などを記述した。
 東日本大地震による生まれて初めの大きな揺れは、その執筆中の書斎で体験した。

 遠浅の海を埋め立てて市域を拡大してきた浦安の六十%の市域が、液状化現象の震災に見舞われ、海辺近くの高層マンションに住む娘婿一家はわが家に疎開してきた。
 電気を除くライフライン(ガス・上下水道)が止り、敗戦後以来の不自由な生活を余儀なくした。その概要などは、被災を機にこのブログに連載を始めた『文ちゃんの浦安残日録』に書き、はや、(22)となった。
 『アラブと私』と併せて、ご高覧ください。

 
 (45)の半ばあたりで、ようやく、アハラムの家のホームパーティの場面に戻り、翌朝、私たちが向かうモースルで八年前に起きたカセム政権による数千人の民衆虐殺の話から、従兄マリクによる当時のバクル政権の話に移っていた。
だが、『アラブと私』を先行掲載しているJCJ(日本ジャーナリスト会議)「広告支部ニュース」五月号の目次に、原発建設・定期点検に二十年間も関ったベテランのプラント配管工平井憲夫氏の『原発がどのようなものか知ってほしい』の短期集中連載の他、坂本・谷本・川田諸氏の関連記事が並び、編集後記にも大震災への想いがこめられているのを見た私は、六月号に、朝日新聞社公募「東日本大地震の復興構想・提言論文」に応募の『これからのエネルギー政策と脱原発』を寄稿。『アラブと私』は休載した。(ブログの「エッセー」の項目に掲載予定)
ヒロシマ原爆を疎開で免れた私の積年の願いの核兵器廃絶と、原発事故の放射能汚染による地球生命の危機とを重ねて訴えた拙文と、十四年前にがんで逝った平井憲夫さんの
遺書のような「原発告発文」連載第二回とが、目次に並んだ。

 平井さんの文章は、内田 樹ⅹ中沢新一ⅹ平川克美の対談『大津波と原発』(朝日新聞出版)にも引用され、原発建設をめぐる推進・反対派の間の不毛な討論にも言及していた。

 推進派はひたすら「安全です」と言い、反対派は「非常に危険で、すぐにも壊れる」と主張するが、実際はときどき壊れる機械である原発の故障・不具合への対応を冷静に議論する場が成立していないと嘆いている。

 東日本大地震以前に構想された国のエネルギー政策で、原子力への依存を五十%としていたからか、浜岡原発の一時停止をきっかけにした脱原発への加速的な運動拡大を懸念した政府・電力会社は、供給電力不足を楯にした原発存続論を続けている。

 これに対して、国際エコノミスト齋藤 進氏は朝日新聞掲載のコメントで、日本の原発の四倍の発電能力を保有する火力発電所を六十五%稼動させるだけで、全国の原発すべてを停止・廃止しても、電力不足は生じないと述べている。
 さらに、昨年の原子力発電実績を新型発電設備であるガスタービン・コジェネレーション(熱電供給)に切り替える費用は八千億円程度で済み、熱効率は三十~五十%も高く、二酸化炭素排出量も大幅に下がるという。
 また、電力不足で生産力低下を喧伝している各製造業の大手は、電力会社から電力を買うよりも安い自家発電設備をもち、わが国の自家発電量は全体需要の二十%にもなるそうだ。こうした提言は、テレビ番組では取り上げないようだが、リスクやネックがある論議なのか。
 「脱原発解散」を懸念される菅首相にとっては、すがりつきたい内容と思われるのだが・・・。安全神話は日本の原発だけでなく、一九八六年のチャレンジャー爆発の事故調査でも指摘された。

 「天声人語」氏は、調査の中心だったノーベル賞学者ファインマン博士が、「ロシアンルーレットのようなものだった」と評したと書いている。
 その失敗確率は十万分の一で、毎日打ち上げても三百年に一度起きる位の事故と言われていた。
 日本の原発事故の確率が五十億分の一(隕石に当たるようなもの)とされたのは、神話と言うより法螺の類だと、同氏は手厳しい。
 ファインマン博士は、がんと闘いながら調査を成し遂げ、「技術が成功するためには、体面より現実が優先されなくてはならない。自然はごまかせない」との言葉を遺したという。平井憲夫さんのがんが、長年の原発工事監督で放射能に晒されたせいか分からないが、死を覚悟して、原発告発の文章を遺す決意をしたという。冒頭の「事実は小説より奇なり」をなぞると、「現実」は事実で、「技術」には、フィクション的な側面がありはしないかと愚考する。深遠な自然に比べ、どんなに精緻に構成された小説でも破綻が潜んでいる。科学技術者も人間だから、失敗や間違いをおこすだろう。政府の原発事故調査・検証委員会の委員長になった「失敗学」の畑村洋太郎さんは、失敗の原因を体系化して創造に生かそうとしている人である。

 JR宝塚線の脱線事故や六本木ヒルズ・ビルの回転ドア事故などを調べ、再発防止に努めてきた。失敗原因を、個人の無知・不注意、誤謬判断、組織の価値観・運営不良などの十の観点に分類し、現場や物を見、関係者から直接に話を聞くことを原則に、調査に取り組むそうだ。
 「大きな事故だから、きっちりとした調査方法は確立していない。議論ははじまったばかりだが、世界が注目している地球規模の問題に、百年後の評価に耐えられる報告をめざす」と意欲的だ。
 「脱原発」をめざすには、原発以外のクリーンな代替エネルギーへの移行が大切だが、日本では、太陽熱・地熱・風力による電力の大量安定供給の実現までは、水力・天然ガスが有力だ。
 少子高齢化の進行で人口減少が予測され、将来的な電力需要は減るし、水道水のように使い放題だった電力依存の近代的生活から鴨長明「方丈記」流の自然と親和する暮らしに還るのも、生活習慣病が蔓延する日本人の健康によいのではないか。

 『アラブと私』の連載中の「晴天の霹靂」だった中東民主化の勃発と東日本大地震の甚大な災害に関する道草も、オシマイにするとしよう。
 「イラク3千キロの旅」で招かれたバグダッドのホームパーティの席に戻ることにするが、最近の報道では、バグダッドで爆弾テロが続発しており、多数の死者が出ているが、予定の年末までの米軍完全撤退は実行されるとあった。
 
 そういえば、この連載の冒頭を、引退を目前にしたブッシュ大統領の「替え歌」の引用で書き始めて、はや三年になる。
 ブッシュ政権がメチャメチャにしたイラクの、四十年前の人びとの暮らしの「事実」を伝えるのが、彼の地でもてなしてくれた人たちへのお返しと思いながら書き綴っている。
 順調な推移を祈ったチュニジア・エジプト政変のその後の情勢も波乱含みで気がかりではあるが、それらは、『文ちゃんの浦安残日録』に書くとして、(48)からは、ひたすら、「イラク三千キロの旅」をつづけることにしたい。

                                 (続く)


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2011/06/30 13:49 2011/06/30 13:49

アラブと私
イラク3千キロの旅(44)

                               松 本 文 郎 

 それは、アラブ諸国の中でイラクほど、雑多な少数民族を抱える国はないからだとしている。先に述べた北部一帯のクルド人は人口の一割を占め、東部にはイラン人、その他の地区に、アルメニア人、アッシリア人、カルデア人、トルクメン人などが住んでいる。これらの他民族を強権で統治していたオスマン帝国が滅亡した前年(一九二一年)、イギリスは、第一次大戦後の中東政策のため、メッカ・ハシム家のフセインの三男ファイサルをつれてきて名目上の独立を与え、親英派の王様にすえた。

 この建国からカセムによる王制打倒までイラク王国を維持したのは、オリエントのビスマルクと呼ばれたヌリ・サイドだった。
 サイドは、バグダッドに生まれ、メッカの太守フセインが「アラビアのロレンス」とともに起こした「砂漠の反乱」に参加してロレンスの信頼をえ、アラブ独立軍によるダマスカス陥落後、同市の駐留司令官に任じられた。
 イギリスは、第一次大戦後のエネルギー源が、石炭から石油に切り替わることを見通し、イラクの油田を確保するために、ロレンスとの出会いで親英派となったサイドにイラクを託したのである。

 こうして書いていると、東京オリンピックの前年に見た、『アラビアのロレンス』の数々の名場面が、走馬灯のように駆けめぐる。
 印象的なシーンを、ウイキペディアの「アラビアのロレンス(映画)」の紹介記事をなぞって略記しておこう。(文責は筆者)

○イギリス陸軍のエジプト基地に勤務する情報部の少尉(筆者注・中尉ではないか)ロレンスは、アラビア語とアラビア文化に詳しく、オスマン帝国からの独立闘争を指揮するフイサルと会見し、イギリスへの協力を取り付ける工作任務を受ける。

○アラビアへ渡ったロレンスがラクダを乗りこなせるようになり、ヤンブーのアラブ人基地で苦戦していたファイサルに面会する前に砂漠で出会ったのが、オマール・シャリフが演じたハリト族のシャリーフ(太守)のアリだった。(部族と人物は架空)

○ロレンスは、フアィサルのアラブ独立闘争への協力を約束し、アラブの勇士を率いてネフド砂漠を渡り、オスマン帝国軍占拠の港湾都市アカバを内陸から攻撃する電撃作戦を立てる。

○延々とつづく夜間行軍の間の美談や悲劇を経て、アカバ湾に向けられていた砲台を背後から奇襲し、アカバは陥落した。

○ダマスカス攻略では、金目当ての山賊らも加えた攻撃的な部隊編成で進軍して、イギリス陸軍の正規部隊より一足先に、ダマスカスをオスマン帝国軍から開放した。

○陥落を陸軍司令部に報告するためスエズ運河に向かう途中、シナイ砂漠の蟻地獄で部下のアラブ人少年の一人ダウドを失う。

○満身創痍にアラブの衣装をまとったロレンスが司令部に辿り着いて、もう一人の少年ファラジと建物に入るのを見て、居合わせた軍人たちが驚愕する。

○司令部のカフェで、「アラブ人は外に出せ」との苦情を浴びたロレンスは、ファラジにレモネードをご馳走する。

○このシーンは、フセインがめざしたアラブ独立のための「砂漠の反乱」に同行したロレンスが、司令部が命じたイギリス軍のための後方撹乱作戦ではなく、アラブ人にアラブを取り戻す聖戦として戦ったことを暗示していて、感動的だった。

○オスマン帝国との凄惨な戦闘では、オスマンの大量虐殺への復讐を懇願するアラブ戦士と共に、ロレンスの部隊も大量虐殺の復讐で深みに嵌る。

○精神的に荒廃したアラブ戦士らは、アラブ国民会議でエゴを主張し始め、開放されたダマスカスの街に、電力不足、火災の続発、病院のなおざりなどが横行した。

○アラブ国民会議に失望したロレンスは、「砂漠など二度と見たくない。神かけて」と、アラビアを去る決意をする。

○ファイサルの「砂漠の反乱」を共にしたアリは、「敬愛しつつ恐れたロレンスだが、彼自身、己を恐れていた」と語る。

○オスマン帝国から解放されたアラビアに、もう、ロレンスは必要ではなかった。老練なファイサルは、フサイン・マクマホン協定を信じて、イラク・シリア・アラビア半島を包含する大アラブ王国を構想し、白人のロレンスが、」アラブ反乱を指揮した事実が邪魔だった。

○オスマン帝国をサイクス・ピコ秘密協定で分割(フランス・ロシアと共に)することを目論んだイギリス陸軍の将軍にとっても、大アラブ王国を支持して奔走するロレンスが政治的に邪魔な存在となっていた。

○ファイサルは、「もうここに勇士は必要でない。戦った若者の長所は勇気と未来への希望で、協定を進めてゆくのは老人の仕事。老人は平和をつくるが、その短所は平和の短所でもある。つまり、不信と警戒心なのだ」と語る。

○去ってゆくロレンスに、ファイサルの「あなたに対する私の感謝の気持ちは計り知れない」との言葉は虚しく響くばかりだった。

○ロレンスは、イギリス陸軍の英雄として大佐に昇進したが、大きな失意を抱いてアラビアから追放された。

 
 思えば、北アフリカ・中東の独裁政権の国々で起きつつある市民レベルでの覚醒と抗議行動は、かのトマス・エドワード・ロレンスが、アラビアで夢想した中に、含まれてはいなかっただろう。アラブの地をアラブ人の手に取り戻そうとしたメッカの太守フサインは、イギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンと「フサイン・マクマホン協定」を結び、砂漠の反乱(対トルコ戦協力)の条件に、アラブ人居留地の独立支持の約束を得た。
 翌年に、アラブ地域の分割を決めたイギリス・フランス・ロシアによる密約「サイクス・ピコ」協定が結ばれ、翌々年、パレスチナへのユダヤ人の入植を認める「バルフォア宣言」が出された。
 イギリスが主導したこれら一連の協定や宣言は、アラブ人の領袖フサインに、オスマン帝国の配下にあったアラブの独立を承認する一方で、ユダヤ人国家のパレスチナの地での建設を支援する約束をするなどの矛盾する対応が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったといわれている。
 一連のイギリス政府の行動が、当時から、三枚舌外交と呼ばれたのは、悪質な秘密外交が問題とされたのであり、協定と宣言相互の内容的矛盾が問題になったのではないとされる。
 フサイン・マクマホン協定に関る第二書簡での線引きには、レバノンやシリアの地中海側などのフランス委任統治領やパレスチナ・エルサレムは含まれていないので、この協定とバルフォア宣言の間には矛盾はないとされ、一九一九年のファイサル・ワイツマン会談で、パレスチナへのユダヤ人の入植促進に合意している。
 二十世紀以降のイスラム史やパレスチナの歴史に関するウイキペディアの記載には、立場の違いによる諸説への加筆・訂正の協力者が求められている。
 突如、当該地域に起きた「民主化・政変ドミノ」の刻々変化する事態の推移に従い、協力者の数は急増するのではなかろうか。
 今回の中東革命は、つまびらかな論議・検証は専門家にまかせるとしても、良くも悪くも、第一次大戦後の列強によるアラブの委任統治と近代化に端を発していると想われる。
 それにしても、クーデターでファイサル二世を殺害したイラク革命のカセム准将とアレフ大佐、その翌年、カセム首相に対抗した内紛でモースルに立てこもって殺されたシャワフ大佐は、なぜか、みんな大佐だった。
 イラク革命から五十八年のいま、北アフリカのエジプト・リビアで巻き起こっているのは、革命戦士だったムバラク大佐とカダフィ大佐の退陣を求める若者たちのシュプレヒコールだ。
 なにの因果か、ロレンスも本人の意思に反した昇進で、大佐になった。
 調べる気もないが、五・一五事件や二・二六事件のリーダー格の将校にも大佐クラスがいたのではなかろうか。
 かってのムバラク大佐もカダフィ大佐も共に、権力を手中にしてから次第に変節し、富と名誉を独占する欲望の虜に成り果てたようだ。
 百姓から天下人に登りつめた、庶民の英雄秀吉といい、田中角栄も、また然り。
彼らを苦労して育てあげた母親たちは、息子の迷妄をなげいたが、アラブの大佐らの母親たちは、ムハンマドが受けた啓示のクルアーンに拠って、その愚行を諭さなかったのであろうか。
 北アフリカ・中東の緊迫の事態がどう展開するか、次回も道草をつづけて、見守りたい。
                            
                                 (続く)


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2011/02/21 11:08 2011/02/21 11:08

アラブと私
イラク3千キロの旅(43)

                     松 本 文 郎 

 強権支配を長年つづけた前ベンアリ大統領を国外脱出に追い込んだチュニジアの大規模デモは、貧しい若者が焼身自殺を計ったのが発端である。

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 ムハンマド・ブアジジさんは、首都チュニスの南約二百八十キロの街に母親・三人の妹と住んでいた二十六歳。事件が起きた朝、いつものように路上で果物の量り売りを始めたとき、地元の役人が「営業許可がないなら罰金四百ディナールを払え」と脅した。   
 一日の売り上げが五~七ディナールしかない者への嫌がらせという。商売道具の秤を奪われそうになって、抵抗したムハンマドさんは、顔を殴られ、体を何度も蹴られてうずくまったが、役人らは、ムハンマドさんにつばを吐き、果物を奪い去ったという。
 果物を返してもらおうとして訪れた地元知事の事務所で、中に入れてさえもらえなかった彼は、近くの店で手に入れたガソリンをかぶり、理不尽を訴えたが誰もとりあってくれず、自ら火をつけたという。

 この悲惨な出来事は、口コミやインターネットのフェイスブックなどの情報メディアを通じて、あっという間に市民に知れ渡った。

 街のデモは数百人の規模にふくれて朝までつづき、自殺する若者がつぎつぎと出た。
ベンアリ大統領側は、事態の沈静化を図ろうと画策したが、無神経な言動が火に油を注ぐ結果となり、デモは国中に拡大した。
ムハンマドさんがチュニスの病院でなくなった十日後に、ベンアリ前大統領は国外に逃れ、強権体制は崩壊した。

 国外脱出の当日に、前大統領の娘がフランスのディズニーランドで遊んでいたこと、家族や一族の宮殿のように贅を尽くした住まいを、市民らが襲い破壊した様子が新聞・テレビで報じられた。

 チュニジアをふくむ中東・北アフリカの地域は、一次産業や観光業ほかの産業が乏しいなかに人口が増えて、若者の失業が深刻とされる。
 この地域で政権の長期化や腐敗による富の分配の不平等で貧富の格差が生じ、インフレが進行している国々に、チュニジアのケースで触発されたとみられるデモや焼身自殺が相次いでいる。
 アルジェやイエメンでは大統領退陣を要求するデモや集会が起こり、ヨルダンでは物価高に抗議して内閣総辞職が求められた。
 新聞報道による一月二十四日現在の焼身自殺の数は、エジプト、サウジアラビア、モーリタニアなど、未遂を含めると十件を超えるという。

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 イスラムでは自殺を禁じており、イスラム教徒が自殺を選ぶのは、よほどの事態とされるだけに、今後の推移に世界が注目している。
 そうしたなかの二十五日、、焼身自殺が相次いだエジプト各地で、ムバラク大統領の辞任を求める反政府デモが起こり、カイロ中心部で座り込んだ数千人のデモ参加者の強制排除で、多数のけが人が出たと報じられた。

 このデモは、チュニジアの政変に呼応した野党勢力に、「フェイスブック」などインターネット上の呼びかけを受けた市民が結集したとみられる。
翌日には、数万人に膨れ上がり、一九八一年のムバラク政権発足以来の最大規模だという。

 政権側は、催涙ガスと放水銃に加え、「フェイスブック」「ツイッター」「ユーチューブ」等を遮断する「情報統制」で対抗し始めた。
それまでのデモ参加者はインターネットでつながる若者中心とされてきたが、最大の野党勢力で、伝統的な宗教ネットワークをもつ「ムスリム同胞団」が加わると、デモの規模拡大は必至という。 

 アハラムの父親が話したモースルの事件を書いている最中に起きたチュニジアでの政変は、日に日に、アラブ諸国に波紋をひろげつつある。
 これは、パキスタンの長い軍事政権への反政府運動の果てに、アユブ・カーン大統領引退声明、アラブゲリラによるイスラエルの飛行機襲撃と中東問題の激化、国連緊急安保理事会開催のほか、スーダン、南イエメン、リビア、ソマリアなどに相次いでクーデターが起きた一九六九年の状況を思い出させる。〔(40)のマリクとの話で言及〕
 
 反政府デモの拡大に、デモ・抗議集会の禁止やインターネットの遮断で対抗するムバラク政権に対し、クリントン国務長官は二十六日、「平和的な抗議活動やソーシャルメディアを含む通信を妨害しないよう求める」と述べ、オバマ大統領自身も、ムバラク大統領への電話で同様のことを要請した。

 アラブの盟主を自任するエジプトで三十年近く強権政治をつづけたムバラク大統領は、米国中東政策にとって重要な役割を果たしてきたからか、穏やかな要請に思われる。

 

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  ブッシュ元大統領が大量破壊兵器の存在を理由に侵攻し、その証拠が見つからないと、フセイン独裁のイラク国民に自由と民主主義を与えるのが戦争目的と言い出した理不尽さに比べ、いかにもオバマ大統領らしいといえなくもない。
 しかし、三十年にも及ぶ長い圧制に耐えてきた民衆のデモの高まりを目の当たりにして、まだ、エジプト国民の爆発的な怒りを正当と受け入れることに二の足を踏んでいるのを、歯がゆく感じるのは筆者だけではなかろう。

  ムバラク大統領の登場は、急死したナセルの後任サダトがイスラム過激派のジハード団によって暗殺され、副大統領から大統領に昇格したときである。
 ナセルの急死とクウエート・テレコムセンターの工事現場で行われた追悼式典に、筆者が参列した経緯を(1)に書いているが、サダト大統領は、社会主義的経済政策の転換・イスラエルとの融和などでナセル体制の変換と政治的自由化を進めた穏健派だったため、イスラム主義が勢力を伸ばし、 サダト体制への抵抗が激化した結果、暗殺された。

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 ムバラク大統領は、サダトの路線を引き継ぎ、対米協調外交を進める一方で、イスラム主義運動を激しく弾圧して、経済開発とアラブの安定化をはかりながら、独裁的政権を維持してきたのだ。
 ムバラク大統領は治安部隊・秘密警察によって国民を支配し、言論を統制し、野党の徹底排除で体制を堅持してきたが、一人当たりの国民所得は約百八十ドルでサウジアラビアの十分の一、国民の四割は一日二ドル以下で暮らす貧困層という。

 ピラミッドやツタンカーメンの黄金の面などの遺跡や文化遺産の見物で訪れる観光客は、千二百万人(二○○八年)を超えている。
 イスラム教徒が大半だが、スカーフをかぶらず髪の毛を出して歩く女性も多く、街で酒も入手できるのは、四十年前のイラクと同じである。
 筆者は、イラク三千キロの旅からクウエートに戻って四ヶ月後に家族を呼び寄せたが、翌年の夏休みに家族で訪れたエジプトは、どこへ行っても、私たちに親切で、人なつっこさと外国人に開かれた自由な国のイメージがあった。
 ナセルの死であとを継いだサダト大統領が社会主義から市場経済へと政策を変えて二年後のことだった。


  エジプトの緊迫した状況からは目が離せないが、ここは一旦、モースルの事件の話に戻るとしよう。

 以下は、クウエート・プロジェクトの完成後に帰国した一九七四年に読んだ牟田口義郎さんの『アラビア湾のほとり』に負うところが多い。
 朝日新聞社の外報畑を歩み、中東・アラブ地域の現代史に詳しく、エジプトとフランスの支局長や論説委員をつとめた氏は、チュニジアのデモが起こった直後の一月二十二日に逝去された。(享年八十七) 牟田口さんは、カセム准将とアレフ大佐によるイラク革命動乱のさなかにバグダッドを訪れた。、革命一周年には、お祝いムードにわく記念祭に、カセム政府の招待を受けている。

 一九五十、六十年代のアジア・アフリカ諸国は、列強諸国からの独立闘争で活躍した軍人らが政治リーダーとして登場し、先進国に追いつく富国をめざして、王制を共和制に変へるさ中にあった。
 エジプトでは、一九五二年の革命で王制が廃され、アラブ社会主義をスローガンにナセル時代が到来し、王制を倒したイラクとシリアでも、同じ社会主義を掲げるバース党が政権を取り、独裁的な指導体制下で、急進的な改革を行っていた。
 記念行事を見た牟田口さんの印象では、革命後一年で、同志のアレフ大佐が心酔したナセル主義を一掃したカセム政権は安泰と見た、とある。
 ところが、三年半後のクーデターでカセム政権はもろくも倒された。反徒が指導者に仰いだのは、反逆罪でカセムから死刑を宣告され、後に、特赦を受けていたアレフ大佐だった。

 なんともめまぐるしいほどの政変の連鎖だが、『アラビア湾のほとり』第六章の「カセムの没落」で、カセム政権の四年半の記事が再録されている。
 牟田口さんはこのクーデターを、王制から共和制へのイラク革命とは異なり、カセムの強権政治の犠牲者らによる復讐(二千人の血が流された)とし、復讐を好む傾向のアラブ人だから、新政権もまた、復讐の危険に晒されるとみなければならないと書いていた。
 王制時代の五十回の政変の七回がクーデターだったと、イラクの不安定さにも言及している。       
                               
                                                    (続く)



                       

2011/02/08 16:08 2011/02/08 16:08

アラブと私
イラク3千キロの旅(42)

                             松 本 文 郎 

  
 私の顔をじっと見て、アハラムが訊ねた。
「私には読めません。日本の運勢占いは、手相や人相が多いですね。アハラムは、『コーヒー占い』ができますか?」
「私もできませんが、母にはできますよ。フミオさんが飲まれたら、底を見せてきましょうか」
 この席にいない奥さんは、私の人相が見えず、カップの底の模様だけで運勢を読むしかない。
「ええ、お願いします。こんなに美味しい料理をつくられるアハラムのお母さんに、運勢を見てもらえるとはうれしいですね」
 コーヒーを飲み干したカップをソーサーにかぶせて、アハラムに渡した。
 アハラムがキッチンへ去ると、マリクが、
「トルココーヒーを飲む習慣は、オスマントルコに長く支配されていたからでしょう。フミオさんは占いを信じますか?」
「いいえ。でも、『いわしのアタマも信心から』という諺が日本にもあります。古今東西、人間は、頼りにする何かを求めているのでしょうね」
「コーヒー占いは、もっと遊びにちかいものだと思います。占いは、古代から行われてきましたが、旧・新約聖書では邪悪な行いとされていますし、宗教的に同根のイスラムでも同じです」
 そこへアハラムが戻ってきた。
「フミオさんの運勢はとてもすばらしくて、家族も仕事もうまく行くと出ているそうですよ」
 明るい声でそう告げたが、ためらいがちに、
「ずっと先のことですが、人生での大きな岐路に立たれるかもしれないのが、気がかりだとも」
 私は即座に答えた。
「クウエートへ出発する前の送別会で酔った勢いで、仲間たちが勧めるまま、街の手相見に占ってもらったら、生命線の先が二股に分かれていると言われました。なんだか、不思議な符合ですね」
「母は、コーヒー占いを楽しんでいるようですが、私は、運勢は自分の力で開いていくしかなくて、占いに一喜一憂する生き方はしないつもりです」 
 きっぱりした口調でアハラムが言った。
「アハラムの考えに賛成ですね。仏教的な考えでは、一生は因縁で決まるとされますが、人の力でどうしようもない運命があるとしても、流れに棹をさすのは自分だから、やり方次第で流れつく先も変ると思います」
 アハラムやマリクと話しながら、高校・大学生時代に逍遥した哲学・宗教書の人生論や世界観を思い出していた。


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 みんながコーヒーを飲み終えたところで、主が、ソファに移ってもう少し歓談してはと言う。
「ありがとうございます。でも、明日の朝早く、モースルに向かいますので、そろそろ失礼しようかと思っています」
「モースルへ行かれるなら、あそこで起きたことをお話しておきましょう。マリクがまだ小学生だった一九五九年のことです」
「いったい何があったのですか。それを伺ってから失礼することにします」
 曽祖父の代からバグダッドで建設業を営む主に招かれたホームパーティーで、甥っ子のマリクを話し相手に仕向けてくれた彼がどんな人なのか、よく分からずにいた私は、暇するときになって、何か重要な話があるといわれて、身構えた。
それは、バスラからバグダッドに向かうとき、ユーフラテスに架かる橋のたもとで警備兵に検問された緊張感を思い出させ、モースルでの言動に注意を促す類のものだった。
主の話に、塩野七生著『十字軍物語Ⅰ』に拠る補足を加えると、以下になる。

 モースルはバグダッドの北西部に位置し、古代遺跡ニネヴェと世界有数の石油生産でしられる大きな都市である。
 モースルの市民はほとんどアラブ人だが、周辺には、アラブと異なる歴史と言語をもつクルド人が住み、国境を接するトルコ、シリア、イランにも分散している。
 クルド人が住む土地は、ティグリス川の上流で高い山々が連なる山岳地帯だが、イラクで森林があるのはこの山々の斜面だけだ。

 この山岳地帯には、十一世紀末の第一次十字軍の頃から豊かな油田があり、べっとりした黒い液体に火を点けると燃え上がることや、モースルの地名に由来する薄地の高級綿製品モスリンの産地としても知られていた。

 イスラム教徒のモースルの領主は、キリスト教徒のエデッサの領主との間で自領拡大の戦いに明け暮れていたが、十字軍を、宗教を旗印とする軍勢ではなく、版図拡大の侵略者とみていたようだ。
 十字軍の重要人物の一人であるカトリック教徒のボードワンに、エデッサの領主が、モースルの領主を攻めてくれと要請したのも、宗教とは関係のない領土をめぐる問題に過ぎなかったようだ。
 イスラム支配下のイエルサレム奪還を思いたったローマ法王ウルバン二世は、全ての世俗君主の上に立つ法王の権威を誇示するため、何十万もの第一次十字軍を東方に送り出した。
 一方、イエルサレムを支配していたイスラムは、メッカへの巡礼を重要視していて、キリスト教徒のイエルサレム巡礼には、総体的に理解をもっていたとされる。
 十一世紀初頭のエジプトのカリフだったアル・ハキムによるイエルサレム聖墳墓教会の破壊や、セルジューク・トルコが支配したパレスチナ一帯で起きたヨーロッパからの巡礼団襲撃などがあるが、それらは強奪の域を超えるものでなく、西欧キリスト教世界を悲憤慷慨させるようなものではなかったという。
 法も秩序もないに等しい中世での聖地への巡礼は、ヨーロッパから中近東への長旅の途中で強盗に襲われる危険に加えて、怪我人や病人も多く、イエルサレムにイタリア商人の寄付で建てられた巡礼者用の医療施設は、イスラム支配下でも営まれたのである。
 ただ、イスラム教徒が自画自賛する「イスラムの寛容」とは、「ジズヤ」という人頭税を払いさえすれば、イスラム教以外の宗教の信仰を認めるというもので、イスラムが征服する前のビザンチン帝国に住むたキリスト・ユダヤ教徒とイスラム教徒とが対等だったわけではない。
 教会の鐘や馬行の禁止、イスラム教徒が通り過ぎるのを道の端で待つなど、異教徒に課せられた制約もあった。
 話をモースルにもどそう。

 この一帯には古くから、大勢のクルド人が住んでおり、少数民族として、ネストリウス派・キリスト教徒のアッシリア人やトルクメン人もいて、民族的・政治的に複雑な問題を抱えてきた。モースルで一九五九年に起きたのは、前年の王政廃止と共和制革命で誕生した軍事政権(カセム准将を長とするクーデターで、ファイサル二世、イラー皇太子、サイド首相を殺害)の内紛の弾圧だった。
 この内紛は、世界に衝撃を走らせたイラク革命政権樹立の実際の指揮者で副首相・内相に就いたアレフ大佐が、革命後二ヶ月でカセム首相により解任・逮捕されたことに始まる。

 冷戦のさ中、、世界の石油埋蔵量の三分の二以上をもつ中東は西側の国際石油資本(メージャー)にとって、「赤の魔手」から石油を守ることが急務で、イランの民族主義者モサデグが起こした石油紛争と同じ事態の中東への広がりが懸念された。
 アレフ大佐は熱烈なナセル主義者で、革命の直後、アラブ再統一運動の指導者と崇拝されていたナセル大統領に、イラクとアラブ連合との統合を申し入れていた。
 カセム首相は、アラブ連合と合邦されて手中の権力を失うのをおそれ、「ナセルはイラクを奪おうとしている」との理由で、アレフ大佐らを反逆罪で逮捕・監禁し、親ナセル派(バース党と親派の青年将校)の粛清政策がすすめられた。

バース党(アラブ復興社会党)はアラブの再統一をめざす反共主義者の集団だったので、カセム首相は、バース党の弾圧に急神してきた共産党の力を借りて、開発相のフワード・リカビ(イラクバース党書記長)を解任。カセム暗殺容疑で死刑を宣告した。
これに対抗したナセル主義者のシャワフ大佐が、一九五九年三月、モースルに立てこもって反乱の火の手を上げたが、空軍爆撃というカセム首相の非常手段で失敗、殺害された。

 モースルへ乗りこんできた共産党民兵によって血祭りにあげられたナセル派市民は、数千人にのぼるとされた。イラクが赤化するのではないかと世界から見られたのはこのときである。
 イラクの共産主義者には少数民族出身が多いが、彼らは、少数民族の不満から共産党へ走ったようである。
「イラク人のイラク」をめざしたカセム首相政権は安定するどころか、増大しすぎた共産党の勢力をおそれて、その分裂を画策するはめとなる。
 
折りしも、北アフリカのアラブ国家チュニジアの政変と大統領の亡命が報じられ、イスラム教が国教の国に突然起きた革命の情報が、世界を駆けめぐっている。

                                                                (続く)


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2011/01/29 13:25 2011/01/29 13:25

アラブと私
イラク3千キロの旅(41)

                            松 本 文 郎 
  
 
 それにしても、アジア民族の主食である米が、アラブ料理のメインディッシュに使われているのには、いささか驚く。

 マリクが、「ライス」や「シュガー」はアラビア語ですよと言ったので、さらにびっくりする。米の栽培が始ったのは七千年前のインド・中国とされるから、東南アジアから伝播した小麦が主食のアラブでも、イラク・エジプトの大河の灌漑による米の栽培は古代から行われていたのだろう。
イランのカスピ海周辺の米作地帯では、日本とそっくりの農村風景を目にするし、アラブ料理で使われるのはインド・バスマティ米が多いようだ。

 アハラムは、マクルーバのレシピをていねいに説明したあと、ビリヤニ(焼き飯)、クッバ(米皮の卵型餃子)、ムハラビ(米粉のプティング)などもあると教えてくれた。
 皮付き野菜の中身を取り出して詰め物をする、ドルマに似た料理は日本にもあるし、マクルーバ、クッバなどのレシピも、米が伝播した経路の各地の米料理法が加わりながら伝わったのだろう。

 ひっくり返してつくる料理といえば、疎開した田舎で馴れない農作業をする母親代りにつくったオムライスを思い出した。
「マクルーバに比べたらおそろしく簡単な料理だけど、我流のオムライスを、家事の手伝いでよくつくりました。ジャミーラくらいの歳でした」
「お母さんのほかに女性はいなかったのですか」
 同情的なまなざしのアハラムが訊ねた。
「九歳下の弟がいただけです。母子三人が疎開したあと、父は単身で広島の鉄道管理局に勤めていました」
 広島という地名を耳にしたマリクが、、あわてて食べ物をのみこみ、「原爆を落とされたあのヒロシマですか?」
「そうです。父は、原爆投下の前日に休暇で田舎へ帰っていて被爆を免れましたが、住んでいた家の周辺や私が通っていた小学校はかなりの被害を受けました」
「お父さんが無事でよかったですね」
 私の目をみて、アハラムがうなづいた。
「でも、投下の翌日には広島へ戻りましたから、地獄のような阿鼻叫喚を目の当たりにしたようですし、地上の二次放射能にはやられました」
 ヒロシマ原爆のことを聞きたそうなマリクだが、ひっくりかえし料理の話で、ディナーの楽しさをひっくり返してはいけない。
 アハラムも同じように感じたのか、
「フミオさん風オムライスのレシピは?」    
「とても簡単ですよ」

 太平洋戦争が始まった昭和十六年、国民小学校の一年だった私は、広島駅の日本食堂で初めて、オムライスというものを食べさせてもらったが、ハムとケチャップ入りの炒めご飯を玉子焼で包み、枕のかたちにしたてっぺんに日章旗が立っていた。
私のはというと、フライパンに焼いた玉子の上に、炒めたご飯・玉葱と人参のみじん切りをのせ、皿をかぶせてひっくり返すだけの簡単レシピ。
 疎開先の父の実家が大きな農家で、米を分けてもらえたからできた、敗戦前後の食糧難時代ではましな夕食だった。
アラブの米料理を賞味したディナーの話題から、つい、戦時疎開した田舎の食事を披露することになった。

 ところで、ウイキペディアで検索した、「世界の米料理」の記述にアラブ料理が欠如しているのは意外だった。
 四〇年前にバグダッドの家庭で味わった米料理と類似のものは、広くアラブ諸国に分布しているはずなのに、どうして書かれていないのか訝しく想われる。

 マクルーバのレシピで参考にさせていただいた酒井啓子さんの『イラクは食べる』(岩波新書)は、イラク料理を紹介する本と思われるかもしれないが、そうではなく、著者はイラク政治研究専攻の東京外国語大学大学院教授なのである。
 同書で、二十種ほどの料理・菓子・飲物の写真が見られるが、レシピがあるのはその半分ほど。
この拙文を書き始めて間もなく出版された著述内容に共感する点が多々あるので、敬意を表して、カバーにある文章を転記させていただく。

 米英軍によって「開放」されたイラクでは、イスラーム勢力が力を伸ばし、政治権力を握る一方で、イラク人どうしが暴力で対立する状況が生まれた。だが、どんな過酷な
環境にあっても、人びとは食べ続ける。
アラブのシーア派やスンナ派社会、クルド民族、そして駐留外国軍の現在を、祖国の
記憶と結びついた料理や食卓の風景をもとに描く。

 その終章に、二○○三年の米英中心の対イラク軍事攻撃とフセイン政権崩壊後に起きたことは、さまざまな「ひっくり返り」事件だったと述べられている。

『アラブと私』を、対イラク軍事攻撃を主導したブッシュ元大統領を揶揄する朝日新聞「天声人語」の引用で書きはじめたが、「ひっくり返しご飯」の写真・レシピを終章の扉に選んだ著者のウイットは、なかなかのものだ。
 酒井さんは、米英と有志連合軍がフセイン政権をひっくり返した後に期待したリベラル親米政権樹立を、イスラム政権がひっくり返して成立したことを「ひっくり返し」の連鎖だと捉える。

 長年行政の中心にいたテクノクラートたちが、ひっくり返されて国外へ逃れたあと、社会の底辺にいた若者たちが入れ替わったのは、イラク国内だけでなく、他国への軍事介入を主権侵害とする国際政治の常識がひっくり返され、植民地支配と糾弾された外国の介入が、「復興」や「人道支援」と名づけられていると指摘する。
 ひっくり返し過ぎに気づいた米政権にとって、このイラクの政治的混乱とイスラム化の進行は、長年バース党政権をひっくり返すことを希求してきたイスラム主義者たちの「革命」であり、頭痛の種になっているとも分析している。

 フセイン政権の崩壊以降のイラクの右往左往の混乱状況は、パンドラの箱を「ひっくり返した」ブッシュ政権の大きな誤算といえよう。
マクルーバのレシピにかこつけると、米の上にいろいろな食材を重ねのせるとこは、民族主義・イスラム主義、スンニ派・シーア派、世俗主義・原理主義などが混在するイラク情勢そのままだ。

 米国のご都合主義的な中東政策の結果を如実に示している「ひっくり返しご飯」ではある。
 歌と同じように、食べ物も過ぎた日々を思い出させるわけで、カバブとドルマを食べたあのとき、オムライスをつくった少年のころの無謀な戦争の結末と再興の二十五年を思い出したのだった。
 あれから四十年。アハラムと家族たち、そしてユーセフは、どんな暮らしをしてきたのか。

 ディナーのテーブルに戻ろう。
 ユーセフによると、断食の慣習は、彼の実家の家族や数十年前の西欧のキリスト教たちも行っていたという。完全な断食ではないが、復活祭前に、キリストの断食苦行の追体験として、質素な食事を摂り、菓子やタバコなど嗜好品の一つを我慢したという。
 だが、仕事の効率重視の近代化で、この慣習もしだいに行われなくなり、修道的禁欲生活を実践する人たちにかぎられるようになったという。
 
 デザートには、クレーチャが出た。バグダッドへ来る途中のサマーワで仕入れたあの菓子だ。
 国外へ出稼ぎに行くイラク人の多くは、母親や妻に作ってもらったこのお菓子を持参するのですね、とユーセフの受け売りをした。(9・参照)
「ええ、日持ちしますからね。旅先の栄養補給にとてもいいのです。ラマダーンでたくさんつくりましたから、お好きでしたらホテルへお持ち帰りください」
「ありがとう。明日はモスールへ日帰りしますのあちで、車のなかで頂くことにします」
 クレーチャをつまんでいる私に、アハラムが、トルココーヒーをサーヴしてくれた。テヘランでよく飲んだコーヒーである。
「お宅ではトルココーヒーをよく飲むのですか」
「そうです。クウエートなど湾岸諸国でよく飲むアラビアコーヒーは、遊牧民が飲んできたもので、都会ではトルココーヒーが飲まれますね」
 マリクの説明では、約四百五十年前のオスマン帝国時代のイスタンブールで飲まれ、ヨーロッパに広まった伝統的な飲み方は、中東、北アフリカ、バルカン諸国に、いまも共通しているそうだ。
 アラブではカフワ・アラビーア、ギリシャ人には、ギリシャコーヒーまたはビザンチンコーヒーとよばれているとのこと。
 粉末のコーヒーと砂糖を煮立ててカップに注ぎ、粉が沈んでから上澄みを飲むのである。
「フミオさん。飲んだあとのカップをソーサーにかぶせてひっくり返して、カップの底に残った粉の模様を見てください」
「それは、『コーヒー占い』ですね。テヘランで教えてもらいましたよ」
「フミオさんの運勢が、読めますか?」

                                  (続く)

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2010/12/30 14:14 2010/12/30 14:14


アラブと私
イラク3千キロの旅(40)

                               松 本 文 郎 
 
「郷に入らば郷に従え」で、コックの「ハッジ」から教えられたクルアーンの食事作法に、食事中はあまり喋らず早く食事を終えるとよいとあるのを聞いていたが、あえて、主に訊ねてみた。

「ナセルが夢見たアラブ社会の近代化が進めば、保守的な王国は別としても、共和制の国々では、欧米的なライフスタイルが浸透して、クルアーンの生活規範がゆらぐことはないのでしょうか」

「生活は、時代と共に変わってきましたからね。ムハンマドが啓示を受けたとするクルアーン自体、そのころの社会や生活の乱れを正そうとしたものでしょう。良し悪しは別に、若い世代は、欧米の文化に憧れ、その風潮に染まりはじめていますから、時代の流れには逆らえないと思います」

 戦前の日本家庭で、いかめしい顔つきの家長と一緒に黙々と食べていた家族の食事風景が戦後に一変したのも、アメリカ型のライフスタイルへの憧憬からで、親子の上下関係や旧い食事作法は、あっという間に変わり果てた。

「ハッジ」の忠告に従って、なるべく食べることに専念しようと、アハラムが取り分けてくれていたエイドの祝い料理「ローストチキン」の鶏肉・松の実・米を、指先でまとめながら口に運ぶ。

「鶏の皮が香ばしく焼けて、とても美味しいです」

 父親の右に座るアハラムがうれしそうに微笑み、左側のマリクもうなずいた。

「きのうはエイドの初日で、親類一同が集まり、テラスで食事を楽しみましたが、甥の母親や娘たちも手伝って料理をつくりました」

「私の妻は料理上手ですが、少女のころから母親の調理を見習って、身につけたようです」

「ジャミーラはこれからですが、アハラムの料理はもう妻の味を受け継いでいると、昨日も、義姉がほめていましたよ」

「料理の上手な主婦がいる家庭は幸せですね」

「ええ、食事前に唱える『ビスミラ』は、神への祈りですが、妻への感謝も重ねているつもりです」

「日本人は、食事前に『頂きます』、食後は『ご馳走さま』と言いますが、まったく同じ気持です」

 食事は、人間が生きてゆくための基本的な欲求だが、民族や宗教を超える普遍的な規範や作法があるようだ。

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「昨日の食事の集まりで、お二人のことを知った甥っ子が、ぜひ歓談させてくれと申しましたので、ここにご一緒させています」 

「日本人建築家にお会いするのは初めてですが、フミオさんといろいろ語り合えてとてもうれしいです」

「マリクはずいぶん熱心に、フミオさんと話していたね」

「ええ、これからの世界は情報化時代になるので、情報電気通信分野には強い関心をもっています。伯父さん。大阪万博のNTTパビリオンで公開されたワイヤレステレホンは、大評判だったそうですよ」

「クウエートの電気通信近代化のプロジェクトが完成して始まる自動車電話サービスでは、機器を車外に持ち出せますが、肩に掛けるほどの重さと大きさです。いずれは、万博で試験的にサービスした小型軽量の携帯型が現れるでしょうけど」
 
 この調子では、食事中の会話がはずみそうで、クルアーンの食事作法が気になりはじめた。
 思い切って、そのことを主に訊ねた。

「気になさらないでください。私は、妻のようにクルアーンに忠実でありませんから、ご遠慮なく欧米式で食事と会話をお楽しみください」

「シュクラン(ありがとう)」と言ってから、私がローストチキンを食べきったのを見たアハラムはサービステーブルへ行き、大皿のカバブとドルマを新しい皿にとりわけてくれた。

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 レタスの葉にのせたカバブに三日月形に切ったレモンが添えてある。ドルマは、中身をくりぬいたナス(丸くて大きい)やトマトに詰め物をした煮物で、カバブに付け合せてある。

「日本でアラブ料理を食べたことのない私ですが、クウエートへ来てから、米などを詰めたローストチキンはホテルのパーティなどで食べましたし、単身赴任者が住むフラットのコックが、ときにはアラブ料理をつくります」

「フミオさん! 私も手伝った母の料理はお口に合いますか?」

「とても美味しくいただいています。私はアラブ料理にかなり馴染みましたが、仲間たちは日本的な料理にこだわっていて、ムスリムのパキスタン人コックを困らせています」

 伯父さんが欧米式でかまわない言ったからか、それまで会話を控えていたマリクが、
「料理は文化ですからね。異国の人がたやすくは馴染めないでしょう。好奇心の旺盛なフミオさんは特別ですよ」

「かもしれませんね。ハッジである彼は、働いていたクウエート駐在の商社幹部の家で奥さんから習ったのか、もどきの日本料理を食卓に並べますが、カバブやドグマなど自慢のアラブ料理を出すこともあります」

マリクは、食事前の熱心な話ぶりに戻った。

「パキスタン人のほとんどは敬虔なムスリムです。第二次大戦後、ムスリムの多住地域がインドから独立しました。信心深く勤勉なので、バグダットでも、コック、女中として働く夫婦は少なくありません。独立後間もなくカシミール地方の帰属をめぐり、第一次のインド・パキスタン戦争が起きました」

「一昨年のイラン国電気通信研究所の建築計画の技術指導でテヘランへ行く途上で、パキスタンの前例視察でラワルピンジに立ち寄ったとき、夜間戒厳令が布かれました。初めての体験で怖い想いをしましたが、アユブ・カーンの長い軍事政権への反政府運動が勃発したのです」

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「その年には、アユブ・カーン大統領の引退声明、アラブ・ゲリラによるイスラエルの飛行機襲撃と中東問題激化・国連緊急安保理事会開催のほか、スーダン・南イエメン・リビア・ソマリアなどでクーデターが相次ぎ、アラブ世界に不穏な空気が充満していました」
 この調子では、アラブをめぐる国際政治問題の話が際限なくつづきそうだ。

「マリク。難しい話は食事の後でしませんか」

「どうもすみません。また<ブンヤ>気分が出てしまいました」

 さっそく話題を変えて、アラブ料理と米のことをアハラムに訊ねることにする。
「アハラムに教えてもらいたいけど、アラブ料理で米が使われのはローストチキンやドルマのほかに、どんなのものがあるの?」

「イラクの家庭料理のマクルーバもそうですよ。手間はかかりますがとても美味しいです。長ったらしいレシピですが、お知りになりたいですか?」

 
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酒井啓子著『イラクは食べる・日常と革命』にその記述があるので、短縮・転記させていただく。

 ・大きいナスを輪切りにして水に晒し、
  両面を油で焼く。
 ・薄切りにしたタマネギとピーマンを
  炒める。
 ・羊肉を柔らかくなるまで水で煮て
  (45分)、トマトソースを加えて
  さらに20分煮る。
 ・鍋に油を入れ、薄切りトマトを炒め、
  その上に炒めておいたタマネギ・
  ピーマンを敷く。
 ・その上にナスを敷き、羊肉をのせて、アラブ風スパイスを振り、さらに米を敷き、
  肉汁をかけて30分ほど炊く。
 ・十分炊けたか確認し、鍋に大皿を逆さにかぶせてひっくり返し、鍋底の野菜が
  上にくるようにして、出来上がり。

 アラブ風のスパイスは、黒コショウ、シナモン、オールスパイス、カルダモン、クローブ、ナツメグ、ショウガ、干したバラの花弁を混ぜ合わせたものである。

「レシピからのイメージでは、ケーキのように、野菜・米・肉が層をなし、味はおそらく、日本の炊き込みごはんのようですね」

「家族みんなが大好きで、母の得意料理の一つです。ねえ、パパ」 

 料理上手な主婦たちがつくる品々を家族や親族一同が集まってにぎやかに食べて談笑する断食月の食事風景は、なんだか、少年の私が田舎で体験した、盆・正月や冠婚葬祭の集まりに似ている。

 普段あちこちにちらばっている親族や知人らが集まって再会し、一緒に食事する喜びと楽しさは、人間に普遍的なものにちがいない。

 半日の断食で生じる軽い飢餓感から開放されて味わう最初の食事イフタールに、普段よりこころをこめた『ビスミラ』を唱える主は、クルアーンに従うというより、その信奉者である妻の美味な料理への感謝を表していると、よく分かった。

 世界中のイスラム社会で毎年おこなわれているラマダーンの断食は、日常生活へのアクセントで、人びとを活性化し、社交的にしているようだ。                 

                                                                     (続く)


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2010/12/08 12:11 2010/12/08 12:11

アラブと私
イラク3千キロの旅(39)

                             松 本 文 郎 

  
「ビスミラ?」
 隣席のユーセフの耳に小声でつぶやくと、「家で食事を始めるときに、いつも唱えます」テーブルの向かい側に掛けている主が告げた。
「戦時疎開した母の実家で一人だけクリスチャンの伯父貴は聖書の言葉を唱えました。他の家族は祈りが終わるまでは箸をとりませんでした。少年の私が、一緒にアーメンを唱えたのは、なんだか、伯父貴が気の毒に思えたからでした」
ユーセフが私に囁く。
「私の家は代々クリスチャンですが、神の恵みの食事への感謝は、心の中で唱えました」
「それぞれの家族の習慣ですからね。それでいいのではないですか」
だれにとはなくとりなす口調で、主が言った。  NTTクウエート事務所の単身赴任者が住んでいるフラットのコック(巡礼月にメッカに巡礼した者だけの「ハッジ」の称号をもつ)も、私たちが手をあわせて「頂きます」というのを、恵みの食事への感謝の祈りと受けとめている。

  ローストチキンを食べていたアハラムが、「母ほど信心深くない父が日常唱える『ビスミラ』はただの習慣に見えますが、きのう明けた断食月(ラマダーン)の間だけは、クルアーンへの敬意がこめられていました」
「アハラムの言うとうりです。ラマダーンの断食をすると気持ちがとても清らかになり、日没後に許される食事のありがたさが身にしみて、アラーへの感謝を心から唱えたくなるのです。ズボラなムスリムの私でも……」 
 断食は、イスラム教に限らず、仏教・キリスト教・ユダヤ教でもなされるべきものとされるが、聖職者や特定の人だけではなく、ふつうの人たちが日常感覚で行うのがムスリムなのだ。
 読者の参考に、ムスリムの「断食」のあらましを、以下に記しておこう。(私の体験以外の多くは、片倉もとこ著(『イスラームの日常世界』に拠る)
 
 断食月の毎日の日の出から日没まで、ムスリム(イスラム教信者)は一切の飲料(水も)や食物を口にすることが禁じられている。喫煙も、ツバをのみこむのさえいけないという人もいる。
 ムスリムが断食をするのは、食を断つこと自体が目的ではなく、短期的でも飢えを体験することで、食物を恵与する神への感謝と、食べることができない者の苦しみを知るためという。

「ビスミラ」のような神への感謝を唱える言葉は、ラマダーンの間は普段以上に大切だそうだから、アハラムの父親の弁はもっともだと思う。
 ムハンマドの最初の断食は、ユダヤ教の贖罪の日の断食に倣ったもので、クルアーンを授けたのは、洞窟のきびしい断食のあとに聴いた神の声とされる。
 その故事にちなみ、ラマダーンは、「栄光の月」クルアーンを授かった夜のことは、「ライラト・ル・カドル」と呼ばれてきた。
 その夜は断食月の二十七日ごろとされ、この日をふくむ数日間は、とりわけ熱心な礼拝をする。
「ライラト・ル・カドル」の夜は、最も神の栄光に満たされた夜として、人々は集団で一夜を祈り明かすそうだ。

 二十九日間の断食月のクライマックスの夜は、高揚した気分にあふれた町が眠りにつかず、どの礼拝所からもクルアーンを唱える声が静かな熱気をおびて流れ出る、と片倉さんは書いている。
 ラマダーンの第一日目のどの朝刊トップにも、「おめでとう! 今日は、ラマダーン第一日」と書き立てるというが、元旦の朝刊紙面のめでたい雰囲気と似ているし、「ライラト・ル・カドル」のクルアーン詠唱は、除夜の鐘の音といえようか。
 毎年訪れる断食月は陰暦のために太陽暦とずれを生じて過暑の夏になることもあるが、人びとは、季節にかかわらず、興奮と緊張をない交ぜにした気持ちで迎えるという。

 私なら、冷たいビールを欠かせない季節なのに、水の一滴ものんではいけないのだから、たいへんな苦行である。
 でも、ご安心あれ。

 この宗教的な行は、比叡山や東大寺での荒行とはちがって、日没から日の出までは、断食が解除されるのである。
 つまり、太陽が沈むと、その日の断食から開放されて、「イフタール」いう最初の食事を食べる。その語意は、英語のブレックファストと同じく、「断食を破る」である。
 日没直後すぐに、待ちかねた食事をとるのは許されているものの、宗教上も健康上もよくないとされ、まず、ナツメヤシの一、二個を口に入れ、アンズをつぶしたカマルディーンというジュース
か甘草の根のスープを飲んでから神に感謝の祈りをささげ、食事にうつるのがよいとされる。

 空腹で我慢できず、お祈りはあとまわしにして、腹を満たしてから礼拝する人も少なくない。
人びとは半日の断食から解き放たれ、おおいに飲み、おおいに食べ、水タバコをふかしながら、遅くまで互いに喋り合う。
 夜のスーク(市場)に光があふれて、さまざまな食べ物が笑いさんざめきながら訪れる客たちを待っており、正月料理のような特別な品々も並ぶ。
 アラビア半島の多くでは、サンブーサ(餃子の皮のようなものに羊のひき肉とチーズを包んで、油で揚げたもの)、アブダビ、カタールなどの湾岸地域では、ドーナツのようなラギーマートという断食月用の菓子がある。
 ラマダーンの間につい食べ過ぎて太ってしまうのも、無理からぬことである。
 ところで、アラビア語には、砂漠に沈む夕日、吹きわたる風、星空などの美しい自然の様を表現するヴォキャブラリーが驚くほどたくさんあると聞く。万葉集歌・俳句にみる表現の豊かさである。

 そんな感性のアラビア人も、飲食解禁の日没の瞬間、家族・親族が集まり、たらふく食べ、飲み、お喋りに夢中なので、夕焼け空の美しさをめでるどころではないようだ。
 断食している間は十分昼寝しているから、短い睡眠のあとは、断食が始まる日の出前に起きて、サフール(夜明け前の食事)をとる。ヨーグルト、スープ、ゼリー、マディール(羊や山羊の乳を干したもの)などの簡単な食べ物を口にして、また断食の半日が始まるのである。
 主との会話に戻ろう。

「ご主人と娘さんたち断食は、クルアーンを忠実に守られている奥さんのためですか?」
「それもありますが、断食するとからだの調子がよくなるのです。アタマが冴え、仕事がはかどります。でも、旅先の外国では、その土地の生活に合わせるようにしています。クルアーンは、あくまでも自分自身を律する規範ですからね。守り方も各人の考えで違っていいと思いますよ」
 二十世紀初めに土木建築会社を起こした曽祖父の近代精神を受け継いだ血か、彼が到達した独自の人生観かはともかく、このかなり柔軟な考えの持ち主は、アルコールもかなりいけそうだ。
「スンニ派の家に生まれた私が、実家がシーア派の妻と結婚したように、ムスリムとクリスチャンの間など、宗教・宗派が異なる結婚は時代と共にめずらしくなくなっていて、娘たちからあとは、もっと自由になるでしょうよ」
 ここぞとばかり、ユーセフが主に訊ねた。
「アハラムの結婚相手の宗教・宗派へのこだわりは全くありませんか?」
「ええ、私たち夫婦がそうでしたから、アハラムも好きな男性と結婚すればいいのです。たとえ、私たちが反対しても、勝気なアハラムはきかないでしょうが……」
 向かい合った席で、ユーセフとマリクは、互いの目を見合い、アハラムは、何気ないそぶり。
「バグダッドの人の生活近代化は、思いのほか、速いスピードで進んでいるようですね」
「サウジアラビアやヨルダンなど王政の国では、クルアーンの規律がまだ厳格に守られていますが、それも時間の問題かもしれません」
 世界一金持の国クウエートの若者らが欧米人もビックリする奔放な生活を楽しんでいるのを見ていたので、石油埋蔵量の豊富は湾岸首長国連邦の海岸に、近代化の大波が押し寄せるのは間もない
ことかもしれない。

 農業革命や産業革命を経てきた人類社会では、情報化と経済発展に基づく近代化が急速に進行し、長く守られてきた宗教的な礼拝・慣行もうすれるのではないか。

                                   (続く)


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2010/11/30 11:03 2010/11/30 11:03

アラブと私
イラク3千キロの旅(38)

                               松 本 文 郎 

  
「フミオさんはアラブ世界の変動の始まりと仰いましたが、その前に、第一次世界大戦でオスマン帝国が滅亡した後のアラブの大変動があります。「砂漠の豹」と呼ばれたアブドルアジズ・イブン・サウドが、イギリスの揺れ動く中東政策に翻弄されながらサウジアラビアを建国した経緯をご存知ですか?」

「おぼろげですが……。クウエート事務所へ転勤の内示を受けてすぐ読んだ本に、サウジアラビアの建国前史に触れたものがありました。飛ぶ鳥を落とす勢いでエジプトにまで遠征したナポレオン皇帝が、宿敵イギリスの息の根を絶とうとして、ペルシャやアラビア半島を支配していたサウド・ワハブ王国を味方にしたが、ワーテルローの戦いの後でイギリスが反撃に成功したことが書かれていました」

「そうなんですよ。まだイギリスの同盟国だったオスマン・トルコは、エジプトの太守に命じて、サウド王国へ遠征軍を派遣させて徹底的に破壊・滅亡させたのです。中東をめぐり列強がしのぎを削ったのをきっかけに、古代からのアラブの歴史に大変動が起きはじめた時代と云えます」

 マリクは顔面を紅潮させて、熱弁を続ける。

「もっと遡れば、十七世紀末前後のペルシャ湾の制海権は、ペルシャとオスマン・トルコの間で争われていたのです。アラビア半島一帯はトルコの勢力圏(カタールをふくむ)で、バーレーンは、サザン朝ペルシャの領土でしたが、一七七六年、ペルシャ軍が南メソポタミア随一の良港で「千一夜時代」に繁栄をきわめたバスラを手中におさめました。その支配下に入るのを嫌ったアラブ人の多くは、クウエートとズバラへ亡命したのです」

「私たちには、<ペルシャ湾><アラビア湾>の呼称のいずれをとるか、イラン国とアラビア湾岸地域の双方と友好関係を維持したい立場から、微妙な問題ですよ」

「カタールの歴史は十八世紀になって始まるのですが、その前半で活躍したバニ・ウトバは、ネジド高原から海岸をめざして移住したアナイザ族で、武を尊ぶアラブの民のなかでも、古くから毛並みの良さで知られていました。当時のバーレーンとカタール半島の間の海は天然真珠の採取で栄えましたが、この部族の三家、サバーハ、ハリーファ、ジャラヒマは、それぞれ、クウエート、カタール、ルワイスに定着しました」

「私には興味深いお話ですね。今のクウエートの首長もサバーハ家の子孫で、とても人望がの厚いと聞いています。石油収入を王家一族、国家予算、ベドウイン族に三等分する統治手法の評判はいいようですね」

「首長のサバーハ家がベドウイン族を大事にするのは、元はといえば高原の遊牧民ですから、その忠誠心を保つのが統治維持の要と考えているからだと思います」
「そういえば、王宮や首長の車両を護衛している親衛隊の男たちは、みんな精悍な顔をした屈強な連中です」

「人口の少ない国に莫大な石油収入があり、国民一人当たりの年収が世界一をつづけているのは、豊かでない隣国イラクには羨ましいかぎりです」

 マリクは、叔父とアラビア語で話しこんでいるユーセフの方に目をやった。

「NTT事務所で働いてもらっているイラク人やインド人のエンジニアには、日本人のスタッフと同じ給料を支払っていますから、ユーセフたちも満足だとおもいますよ」
「だから、優秀なエンジニアはクウエートで働きたがり、若い女性にもクウエート人と結婚しがるのが少なくないのです」

「クウエート郵電省の次官は国会議長の子息ですが、奥さんはバグダッドの豪商の娘さんだとか」

「クウエート人高官が、イラク女性を奥方にしているケースは珍しくありません。なんと言っても、バグダッドは「千一夜物語」の舞台ですからね。クウエート建国の歴史が分かるとてもよい本に、生き字引といわれたヴァイオレット・ディクソン夫人が書いた『クウエート四十年』があります。夫はイギリスのクウエート駐在司政管でアラビア学の権威ハロルド・ディクソン中佐です。彼女が、『007』のイアン・フレミングにすすめられて書いているうちに、独立する以前のクウエートを知るための貴重な記録になると意欲が湧いてきたそうです」

「『007』シリーズは映画で見ています。彼女の本は創作ではない生の記録ですから、これからのクウエートでの仕事に役に立つでしょう。本屋で探してみます」

「ディクソン中佐は当時のアハマド首長の無二の親友でしたから、彼女の生活体験だけではなく、クウエートの内政・外交のエピソードの目撃者としての記述もあり、フミオさんのよい参考になると思いますよ。イラクの初代の王ファイサル一世やサウジアラビアを建国したアブドルアジズ王らも登場します」

 つぎつぎに料理の皿を運んでテーブルに並べていたアハラムが、食事の用意が整ったと告げる。
 掛けていたL字型ソファの斜交いの席で父親が立ち上がり、私たちをテーブルの方へ誘った。
 すると、スカーフをした初老の女性がキッチンのドアに顔をのぞかせて、私に会釈をした。

「妻です。敬虔なムスリムでご一緒はしませんが、自慢のアラブ料理でおもてなしをします」と主は英語で言い、妻にはアラビア語で伝えた。思いもしない、リビング出入口の奥方の出現に、アラビア語がとっさに出てこず、彼女の目を見て会釈を返しただけの挨拶になった。リビング一角の壁際のサービステーブルには、アハラムが運んだ料理がきちんと並べられている。
 ダイニングテーブルに、主が指し示してくれる席に各々が座った。
 家に着いてすぐテラスに案内されて、前菜を味わいながら、ビールやアラックを飲んで歓談したので、まだ、改まった挨拶はしていなかった。
 くだけたホームパーティをしつらえた主の心遣いに、主客としてなにか感謝の気持ちを伝えたいとユーセフに耳打ちすると、
「ざっくばらんなお人のようですから、このままでいいのではないですか」とささやき返した。
 アハラムが、テーブルセッティングをすませて着替えた、ロングドレスの愛らしい姿で言った。

「料理は、サービステーブルからお好きなものをとって召し上がってください。ポピュラー料理の品々とエイド・アル・フェトリの特別な一品です。フミオさんには、私が説明しながら、選んでさしあげます」

 アハラムはサービステーブルに並んだ料理の順に、ユーセフの通訳で説明しながら、私のための適量をとりわけてくれるらしい。
 ホームパーティの主客は、招待側で選んでくれる料理を食べなければならないと聞いていた。カバブ(ひき肉とタマネギ・パセリのみじんぎりにオールスパイス・塩・胡椒を混ぜて串に練りつけ、小麦粉をまぶし、ぬり油をしてオーブンで焼いたもの)やドルマ(ナス・トマトなどの身をくりぬいて肉・米・タマネギ・ハーブの詰め物をして煮たもの)はお馴染なので、まず、エイドのお祝いの料理から頂くとしよう。
 アハラムによれば、大勢の親族が集う伝統的なエイドの典型料理は子羊の丸焼きだが、少人数では食べきれないので、今日は、鶏に米と松の実をつめたローストチキンですと云う。

 つめものでパンパンの大きな鶏は、こんがりと焼きあがって美味そうだ。
 主客のために、特大の皿の鶏にナイフを入れたアハラムが、右手の細くきれいな指で、私の皿にとりわけてくれた。
 卓上にはナイフ・フォークなどが並んでいるが、アラブ料理は、指先で食べるのがいちばん旨い。
 レモンのうす切り入ったボールで指先を洗って、自分の料理をとっているアハラムを見ていた。 彼女の家族も、料理を取る順はやはり男性優先とみえる。
 アハラムが席に戻ると、改まった面持ちの主が、おもむろに、「ビスミラ!」と言った。

「アラーの神への感謝です」と隣席のユーセフが教えてくれる。

                                  (続く)





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الأمير عبد العزيز آل سعود مع أمير الكويت الشيخ مبارك الصباح بالكويت عام 1910








2010/11/05 12:44 2010/11/05 12:44

アラブと私
イラク3千キロの旅(36)

                          松 本 文 郎 

  
 敗戦から六十五年目の八月の記述は、世界平和を祈る「道草」をして、原爆と戦争に終始した。あれから、もう一ヶ月。

 一九七一年三月のバグダッドで、アハラムの家を訪ね、チグリスからの川風が吹き通るテラスで、アラックを飲んでいるシーンからは、三十九年だ。そのシーンへ早く戻らねばならないが、(36)の節目なので、(15)と同様、読者の便宜のために、二十回分の要約をしておきたい。
 
 この長期連載は、日本ジャーナリスト会議(JCJ)「広告支部ニュース」の編集者矢野英典さん(「九条の会 浦安」事務局長)の誘いで始まった。執筆の動機は、一九七○年から四年間在勤したアラブでの個人体験の記録だけでなく、9・11がきっかけのアフガン・イラク戦争が、世界平和を脅かさす危惧からである。
 進行中の「イラク3千キロの旅」はあくまでも『アラブと私』の序章であり、本論は、この旅の後、三年を過ごしたクウエートでの仕事と生活で経験した「アラブと私」である。

 九月九日の今日のBS「ワールドニュース」で、米フロリダ州のキリスト教会が計画している、9・11から九周年の十一日にイスラム教の聖典クルアーンを焼却する行事に、アフガニスタンとインドネシアなど世界中のムスリムから、抗議の波紋が広がっていると報じた。
 ブッシュの理不尽な戦争を終結して、イスラム社会との関係修復を目指しているオバマ政権は、行事の発覚直後から、批判とともに計画の中止を求めている。
 一方、グランド・ゼロ付近のモスク建設計画では、市民・国民の反対運動自制を要請して、宗教の自由を標榜する姿勢を示してもいた。

 アフガン駐留米軍司令官は、「アフガンや世界で、イスラム過激派が反米的な世論に火をつけ、暴力をあおるために利用する」とし、米国務省次官補も、「焼却は、過激主義をあおり、在外米国民を危険にさらし、国益を損ねる」として、中止を呼びかけた。
 焼却を計画したのは、信者が約五十家族ほどの「ダブ・ワールド・アウトリーチ・センター」という教会。「邪悪な宗教」であるイスラム教への抗議と、イスラム教の危険性についての啓発活動の一環で、中止する理由はないと主張している。
 キリストは、他者への寛容を説いたのだが。以下は、(16)から(35)までの要点である。

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(16)真夜中に着いたバグダッドのホテルで、私が見た夢は、なんと、『アリババと四十人の盗賊』の場面だった。財宝を奪われた豪商の依頼で盗賊をやっつけた私とユーセフが、豪華な招宴の席で女奴隷のアハラムに再会する不思議なシーンだ。 

(17)「イラク3千キロの旅」はユーセフの誘いで始まった。バグダッドに実家がある彼は、旅の前、アハラムとどんな連絡をしていたのだろうか。アハラムが妹ジャミーラを伴いサマーラの塔へ郊外ドライブするのを、建設会社を営む父親に、ホテルからの電話でOKさせたのは、さすが。

(18)アハラムの家の近くの公園で、朝方の夢に出てきたアハラムと再会。魅惑的な黒い瞳。十二歳のジャミーラと私は後部座席、助手席にアハラムが座ったトヨペットクラウンをユーセフは発進させた。アハラムのうなじから肩への浅黒い肌は、ネフェルティティ・イン・バグダッドだ。(前に、ネフェルティティをツタンカーメンの王妃と書いたが、違う王の妃だった。訂正して陳謝!)

(19)紀元前三千年代末のメソポタミアの古代都市バビロンと、紀元前六百年代の新バビロニア王国の首都は、バグダッドの南八十キロの地点。北の郊外に立つサマーラの塔は、スパイラルの回廊をもつ、高さ五十メートルの小ぶりで単純な形体だが、イスラム帝国が千三百余年を遡る伝説の「バベルの塔」に似る建造物を立てことに興味を引かれる。 9・11跡地に建設中の五百米を超えて全米一になるタワーや、イスラム国ドバイでの超々高層ビルの建設ラッシュは、「バベルの塔」が神の怒りに触れたように、キリスト・イスラム教それぞれの「神」への冒涜とならないのだろうか。

(20)アハラム姉妹の後を歩いてサマーラの塔を上り下りしながら、ユーセフは、バベルの塔と空中庭園をもつバビロンが、いかに壮大な建造物の集合体の都市だったかを、誇らしげに語った。 古代から近代までの王・皇帝など権力者たちは、権勢を誇る建造物を後世に伝えようとして、想像を絶する莫大な金と労働力を費やしたものだ。

(21)その中で、「世界の七不思議」に挙げられた建造物にも、時代的な変遷がある。「新世界七不思議財団」による選定候補の一つ、日本の清水寺は選に漏れた。塔から降りた私たちは、チグリスの川魚を焼いて食べさせる店で、遅い昼食をとりながら歓談。アハラムからは、私との最初の出会いや父親の仕事のことを聞き、彼女をジプシーの娼婦と勘違いした助平根性を猛省する。

(22)建築土木工務店を営む家の長女アハラムは、都市バビロンの建造物の話にも興味を示す。夕方招かれている私たちの歓迎ホームパーティでの話題を探しているうち、王妃のため空中庭園を造らせたネブカドネザル二世のエルサレム侵攻と「バビロン捕囚」に由来したオペラ『ナブッコ』に及ぶ。ナブッコとはネブカドネザルのこと。

(23)(24)旧約聖書に基づいて書かれたワーグナーのオペラの話は、ユーセフのアラビア語と英語の介在で、アハラムと私の間を盛んに飛び交った。『ナブッコ』初演の一八四二年当時のイタリアは、絶対王政の都市国家郡に分かれ、一八四八年には、マルクスの『共産党宣言』が出て、王政から共和制に「チェンジ」するヨーロッパの過渡期だった。(この回からは、「序章」を早く終わらせて本題に入るため、記述量を倍増することにした)

(25)(26)(27)昼食の歓談の後、バグダッドへ戻る車中で、ムスリムの聖典・生活規範であるクルアーンについてアハラムとユーセフから話を聞いたものを、ウイキペディアの記事で補強した。
 一神教のユダヤ・キリスト・イスラム三教は、同じルーツをもちながら、互いの神を認めないで争ってきたが、現在のムスリムの宗教多元主義者は、「ムスリムはクルアーンを、他の宗教はそれぞれの天啓を尊べばよく、天啓に優劣はない」としている。それぞれの始祖が説いた「寛容」を!

(28)(29)クルアーンにある女性関連規程の「男尊女卑」「隔離」「ヴェール」「一夫多妻」へのアハラムの考えを聞いたが、イスラムの女性観の記述では、中田香織さんの「アッサラーム」誌からの引用記事、片倉もとこ著『イスラームの日常生活』などに多くの示唆を受け、感謝。
 イラクの近代化を目指す共和制バース党政権下では政教分離を掲げており、ユーセフとアハラムが、キリスト教とイスラム教の歴史を学校で学んでいたからこその話が、いろいろとできた。

(30)(31)ユーセフがアハラムたちを送っている間にホテルで一休みして、ホームパーティに備える。アハラムの父親に会うのは少々気が重い反面、楽しみでもあった。ユーセフが仕入れてきた花束とクウエートからもってきた闇のジョニ黒を携え、アハラムの家を訪ねる。にこやかに出迎えた父親は、如才なく、愛想のいい人のようで、ホッとする。遠来の客への社交的心遣いか、甥の新聞記者を招いたり、昼食とドライブ中の話題を、ユーセフから聞きとったりの、周到なもてなしに感心する。彼の家系は、信心深いシーア派に比べて世俗的とされるスンニ派で、アルコールもご法度でなく、私の好物のビールも用意されていた。新聞記者のマリクが来てから、英語での真面目な話がおおいに弾む。
 アハラムの母親が客の前に姿を見せないのは、実家がシーア派で、生活規範の「ハディース」に遵っているからと、理解を求められた。ところで、執筆中の折りしも、ブッシュの要請でイラク戦争に参戦したイギリスのブレア政権の「政治判断」の是非を巡り、「独立調査委員会」による徹底調査が始まったと知る。オックスフォード大教授のアダム・ロバーツ氏はNHK「クローズアップ現代」国谷キャスターのインタビューで、ブレア労働党政権の歴史的視点の欠如に言及。イギリス軍イラク占領下の一九二○年に、中南部で起きた大規模な反英暴動の歴史から、なにも学んでいないと指摘している。
 アハラムの父親は、その五年後に生まれたのだ。オスマン帝国の支配下でドイツがバグダッド鉄道の敷設権を手にしたころ、土木建築の会社を起こしたのが初代で、彼で四代目という。テラスのテーブルに、夫人ご自慢のイラク料理の前菜のあれこれと、古代アラブが発祥の地の酒アラックが供されている。マリクが、「アラブの食文化を知るには、当時の宮廷料理も書かかれている『アッバース朝の社交生活』の英訳本がよい参考書」と教えてくれる。

(32)(33)イスラム帝国最盛期の首都バグダッドが、中世を桎梏から開放した西洋ルネッサンスをもたらす重要な役割を果たしたとは……。イラクの家庭料理を賞味し中東伝来のアラクを飲みながら、アッバース朝とイラク・イランの関わりの歴史を巡って、歓談がつづく。
 一九六九年、イラン電気通信研究所の建築計画の技術協力滞在が終了して、古都イスファハンと遺跡ペルセポリスへの小旅行に招待されたシーンが眼に浮かんだ。新バビロニアの空中庭園は、ペルシャ軍に破壊さ され、ペルシャの首都ペルセポリスは、古代マケドニアのアレキサンダー大王に破壊された。古代帝国の興亡の証である遺跡を訪ねる旅は、建築家を志した私の夢で、その一つのバグダッドに、いま来ているのだ。小さな土建会社の四代目社長が、新バビロニアの首都建設に携わった土木技術者の末裔のように思えてきた。

(34)(35)この稿を書いている今は、八月十日早朝。ヒロシマ原爆の六日、ナガサキ原爆の九日から、六十五年が過ぎた。広島市の平和記念式典の会場に響きわたった、「ヒロシマの願いを、世界へ、未来へ伝えていくことを誓います」との男女小学生の高らかな声に触発され、小田 実流の「道草」をして、原爆と戦争の記述に終始した。
                                 (続く)


2010/09/28 13:00 2010/09/28 13:00

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2010/08/11 14:09 2010/08/11 14:09

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「喜寿の会」に参加して 

               
 
新緑の彩りが日増しに濃くなっています。

   喜寿の眼にかくも眩しき新樹かな  ふみを

「喜寿の会」の賑やかで楽しい時間をみなさんとご一緒できて、とても幸せでした。卒業して初めて再会した学友もあるなど、感慨深い会となりました。
 振り返ると、昭和58年、鞆の由緒ある旅館の一泊同期会以来、沖野上、箱根、宮島を経て、ふるさと福山の「喜寿の会」にたどり着きました。
 鞆で10人も参加された恩師のお姿は、もう箱根ではありませんでしたし、今回の会でご冥福を祈った、鬼籍に入った学友たちは23人を数えました。
諸行無常というほかありません。                 合掌

  想えば、食道がん手術で生死の境を彷徨い、再びのいのちを授かった私も、喜寿を迎えることができました。その間、同じ食道がん手術を相次いで受けた山岡・上野両君は、私の再生につづいてくれると期待しましたが、還らぬ人となり残念です。
 ご自身や伴侶の病気・介護などを抱える暮らしのなかで、会の企画・準備に尽力いただいた地元の学友諸兄姉に、こころから感謝します。 

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  当日は1時前に福山駅に着き、“手づくりの地図”の中から、これまで機会をもてなかった場所を選んで、訪れました。
 まず、「福寿会館」へ上ってお茶をのみました。お千代の一族・安部和助の住まいで、占領軍に占拠された後で市へ寄贈した建物です。喫茶室の老婦人によれば、“ハート・ブレンド”に付けられたクッキーは、身障者らが焼いたもので、店が忙しいときは、手伝いに来てもらう由。わが浦安男声合唱団の定期公演の市文化会館ロビーでも同じですと話しました。

 外へ出て、会館と福山城が重なる風景をスケッチしてから、福山八幡宮へ行きました。森本重次先生ご夫妻に仲人をお願いして結婚式を挙げた氏神様の近くです。50余年経って、沖縄で戦死した夫に代って女手一つで4人の遺児を育てたお千代の母・私の両親は亡く、森本先生も鬼籍に入られました。

 一昨年秋(お千代の母親の25回忌の前年)、結婚50周年記念を兼ねた旅をしました。、輸送船に乗り込んだ鹿児島を起点に、奄美から沖縄本島を経て戦地に赴いた跡を慕いながら、摩文仁の丘の礎(イシジ)に詣でました。案内所で、膨大な戦死者の中から「広島県・安部文七」を探して、やっと見つけた礎に刻まれた父親の名を、お千代は掌でいつまでも撫でていました。

 神社からホテルに向かう道筋に人権平和資料館があり、立ち寄りました。
 二度訪れた文学館の裏手の気づけなかった場所でしたが、展示物や資料は、しっかりした理念“人類社会の悲惨な戦争は、人間の自由と尊厳が守られていないところに起きる”に貫かれていて、軍国主義日本の犠牲になった同胞の無念さに想いを馳せました。それにしても、小泉元首相の知覧での涙は、一体なんだったのでしょうか。
 憲法にある、人権の14条、平和の9条、森戸辰男が起案したとされる、暮らしの26条の大切さを、あらためてこころに刻みました。
 巡回中の『アジアの子どもたちの絵日記展』も見ました。
  「文ちゃんの画文展」(大阪・東京で各5回)の絵を道端で描く私を囲んで見ていた、タイ・カンボジャ・ベトナム・インドネシアの子供たちの仲間がグランプリをとった絵日記作品は、「HUMAN RIGHTS & PEACE」の貴重なメッセージだと感じました。
 
  「喜寿の会」の参加申し込みで、鞆へのバスツアーは不参加でした。昨年5月、お千代の母親の25回忌の折に、栗原賢治さんが奥さん共々、お嬢さんの運転で私たちを案内してくださったからです。また、8年前の盆の墓参の際にも鞆の町を訪ねたし、その翌年には、縁故疎開で2年通学した引野国民小学校の卒業55周年記念同窓会で、一泊していました。でも、ホテルのロビーで久々の学友らの顔を見た途端、往復のバスの中で語り合う時間ができることに気づき、参加を申し込みました。

  「喜寿の会」では、故人らへの献花・黙祷や懐かしい曲のデュオ合奏もあり、宴たけなわのあちこちで、テーブルを巡って行き来する姿が見られました。
 後半は、岡田 潔さん(ペンネーム:峰田保雄)作詞“幻の学友会歌”を岩佐伴子さんのピアノで斉唱し、和田公弘さんが校歌の作詞者について話したりして、あっという間にお開きとなり、二次会へ席を移しました。


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 翌早朝の公園で、“朝飯前”のスケッチを2枚しました。教会風の結婚式場と新緑に囲まれた鮮やかな朱色のモニュメントです。
 鞆では、ボランティア・ガイドの町内ツアーから離れて、港の一角に座り込み、常夜灯と蔵の見える風景を描きながら、ガイドの後をついて歩く学友の列も見ていました。
 仙酔島へ渡る船の上と鯛網に因む郷土料理を賞味した後の浜で、即興の絵も描きました。6点のスケッチの縮小コピーを貼り合わせたシートをご笑覧ください。
 このあたりで、私の近況を書かせていただきます。
 相変わらずの、描き/唄い/詩・文を書く/日々ですが、外国の若者らに20余年も日本語を教えているお千代の現役活動をサポートして、週5日の主夫業もちゃんとこなしています。
 安い旬の食材を選んでメニューを考えるのは、建築の設計に似て、とても楽しい仕事ですネ! すっかり嵌ってしまいました。
 和・洋・中華とそのミックスの“シェフ・ブン”独自の家庭料理レシピは、かなり豊富になりつつあります。

 ディズニーリゾートこと浦安での、「文化交流サポート浦安」と「浦安国際交流センター」のNPO活動で多くの出会いがあり、浦安男声合唱団の団員暦も15年になるなかで、浦安合唱連盟創立20周年記念歌の作詞者の栄誉も得ました。毎週土曜日4時間の練習で仲間と切磋琢磨し合って臨む定期演奏会の歓びと、二つの絵画グループ展・市美術展・ホテルの特設市民ギャラリーなどに出品して大勢の知人や市民に見ていただく嬉しさは、喜寿の心身を支える力の源になっています。日本ジャーナリスト会議「広告支部ニュース」(月刊)に連載中のエッセイ『アラブと私』は、20年来の「韓国音楽友の会」のご縁のお陰で、T新聞社開設「松本文郎のブログ」に転載されています。もうご覧になっている学友もありますが、関心のある方はインターネットで、<松本文郎>の4文字で検索してくだされば、すぐに出てきます。
  「エッセイ」のほか、「絵・文」「コーラス」「文ちゃん雑記」「ポエム」などの“引出し”で、描き/唄い/詩・文を書く/日々からの作品やメッセージが掲載されています。
 お互い、残る天寿の日々がいかほどかは分かりません。人の基本的本能は、①「生きたい」②「知りたい」③「仲良くしたい」の三つで、①と②が科学、②と③が文化、①と③が宗教を生み出したそうです。

 三つの本能に素直に従い、文化、科学、宗教のジャンルを横断的に逍遥できればと願う私ですが、この卓見は、脳神経外科医の林 成之著『脳に悪い7つの習慣』(幻冬社新書)に書かれており、ぜひの一読をお勧めします。
 栗原さんが挨拶で触れられた養老孟司さんも、動物の一種である人間が、自然の恵みに感謝し、他の生きものと仲良く共存する大切さを説いています。 万葉の時代に遡る「和」の魂を、異質なものを調和・融合して新たな創造をめざすものと捉えれば、日本人は、紛争・戦争の絶えない人類社会を変えてゆく民俗的資質を、先祖から受け継いでいることになります。 天寿の残日を、自在なこころで元気に過ごしてまいりましょう。


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2010/08/04 12:59 2010/08/04 12:59

「喜寿・ひかり」紀行              

                                                           松本文郎 
 
                

 喜寿の今年、福山へ里帰りをした。広大付属福山校第1期生の「喜寿の会」へ出席するためである。去年6月、妻お千代の母文子さんの25回忌で帰って以来、1年ぶりだ。駅前のニューキャッスルホテルでの受付開始は2時、会が始まるのは5時半なので3時ごろ着けば十分だが、会場に近い福山城のあたりを散策したいと思い、昼過ぎに到着する「ひかり」を選んだ。平日の早朝だから自由席で大丈夫と思いつつ、念を入れて指定席を買う。65歳で年金暮らしとなってすぐ会員登録したジパング倶楽部の30%割引は大助かりだが、「のぞみ」には割引がない。年金暮らしの老人などに、急ぐ用事はないだろうと言わんばかりである。西下する新幹線長距離列車のほとんどは「のぞみ」で、「ひかり」は新大阪で乗り換えなくてはならない。とはいうものの、出張で全国を飛び回っていた現役時代でも、「のぞみ」のスピードの慌しさでは車窓からの風景が楽しめず、できるだけ「ひかり」に乗ることにしていた。
 東京駅のコンビニで、缶ビール・タコちくわ・ゆで卵と赤飯・鶏五目のおにぎり・茶を仕入れ、ホームにいる列車の指定席に座った。車内はガラガラで、新大阪まで、隣席に人はこないとふんだ。
 二人掛けを仕切る肘掛を押し上げた隣席に「喜寿の会」の案内資料や道中で読む本を置き、コンビニの品々を前のテーブルに並べた。
 私の列車の旅に、缶ビールは欠かせない。 
 発車して車窓の風景がほどよい速さで流れ、缶のプルを引いて「プシュ」という響きを聴くのは、至福の瞬間だ。ビールといっても家で愛飲している第3のビール「のどごし」である。
 
 品川と新横浜で3分の1ほどの席が埋まったが、隣席は空いたままである。久しぶりに再会する学友たちの顔の記憶を確かめようと、還暦から5年ごとに参加した1泊同期会の集合写真やスナップを眺めながら、朝食のおにぎりを食べていると、小田原に着いた。乗客が増えてきたと思ったら、隣席の切符を持つ若い女性が立っていた。でも、周辺を見回すとまだ空席だらけだ。とっさに、「貴女の席に私のいろんなものを並べていますので、空いている前の窓側に座っていただけませんか」と聞くと、自分の席に座りたいと仰る。ごもっともである。急いで広げていたものを抱えて、前列の空席に移る。        あわてて前列に移動する私を見る女性の表情は、ホッとしていた。ほどなく熱海に着くと、私が移った席の客も乗ってきて、私を睨んで立っている。私はそそくさと、おにぎり・お茶のビニール袋と資料や本を抱え、また自席に舞い戻る羽目となった。空席のほとんどは指定の客で埋まった。
 東京駅でガラガラでも、終点の新大阪までの停車各駅でかなりの乗降客があると考えなかったのは、やはり歳のせいだろうか。隣席の指定券をもつ人に、なんてバカなお願いをしたのかと後悔する。その若い女性は、サンドイッチとジュースの朝食を黙々と摂っている。出会いの頓馬な珍問答に臆した私は、話しかけるチャンスをつかめぬままに、15年前からの同期会の写真と60年前の卒業アルバムをつぶさに見ることに集中した。そうこうしてうちに、今朝の早起きとビールのほろ酔いで眠くなってきた。どのくらいかして、ふと目覚めた私の左肩に、女性が寄りかかっているのに気がついた。彼女との間の肘掛は、私が上げたままである。
 ヘンな爺さんに見られただろうと消気ていた私は、なんだか嬉しくなって、身じろぎもしないで眼をつむりつづけた。
 またウトウトしたらしく、静岡駅到着を知らせるアナウンスで眼が覚めた。左の肩が急に軽くなって、女性が降り支度を始めた。
 立ち上がって通路に出た横顔に、「妙なお願いをしてごめんね」と挨拶すると、ちょっと微笑んだ彼女は、「いいえ」と言って出口へ向かった。

 それから新大阪までの隣席は、空いたままだった。
 再び隣席にひろげたスナップ写真を眺め、同期会で話をしたい顔を捜す。一人ひとりと交わす話題を考えていると、60余年前の学び舎での懐かしいシーンが蘇ってくる。  
 音楽部の管弦楽演奏会や県コンクール優勝、美術部のスケッチ会や展覧会、文芸部の同人誌作成、朝の放送当番の原稿を朝刊から抜書きした放送部活などのあれこれが、次々に脳裏に浮かんでは消える。
 何度目かの“ふるさと同期総会”はおそらく、この「喜寿の会」で最後になるのではないだろうか。
 1年前から企画・準備してくれた実行委員の幹事諸兄姉は、なにかと大変 だっただろう。
 思い出に耽るにはほろ酔いにかぎると、車内販売のおネエさんからビールを買う。残念ながら、利幅が小さい第3のビールは売っていない。
 ほどのよいスピードの「ひかり」の車窓を流れる風景に眼をやりながら、青雲の志に燃えた若き日々に思いを馳せた。浜松、豊橋、名古屋を過ぎたのは知っていたが、いつの間にか眠り込んだようだ。
 
 この列車の終着駅新大阪到着を予告するアナウンスで目が覚めた。
 乗り換え時間は9分あるから、慌てることはない。
 間もなく入線した広島行「ひかり」の指定号車はグリーン車タイプだった。通路を挟んで大きな座席が二つづつ並んでいる。
 ホームに面した窓側席に落ち着いたころ、3人の男の子と母親らしい人がやってきて、私の隣にまんなかの年ごろの子を、反対側に2人を座らせた。彼女の席はどこなのだろうかと思っていると、さっさと降りて行った。
 窓近くのホームにいた男性の横に並んだ彼女は、車内を覗いながら話をしている。どうやら、だんご3兄弟(?)を見送りにきた両親のようだ。 
 3兄弟の方は、席に座るやいなやカバンから取り出したゲーム機に夢中だ。ホームで発車のベルが鳴り始めても、窓の外で見送っている両親に誰も気づかず、ゲームの画面から顔を上げない。
 両親に同情した私が、隣の子に教えてやろうとしたとき、ホームから一番離れている窓側の末っ子がふと顔を上げて、ホームに立っている両親を見た。
 彼から知らされた2人はとっさに顔を上げ、動き出した窓に手をふったが、すぐに熱中していたゲームに戻った。ホームを見つづける私の視野から、列車を背にして歩く両親が消えた。
 なんともあっさりとした親と子の見送りシーンは、微笑ましかった
 
 子供だけの列車の旅を目の当たりにした私に、懐かしい想い出が蘇った。太平洋戦争が始まる前年のことである。 
 昭和9年生まれの私は、原爆投下の前年まで、父が勤める広島鉄道管理局がある広島市に住んでいた。毎年夏休みには、父母の実家がある福山の田舎へ一週間ばかり行くのが楽しみだった。
 いつも母親と一緒なのに、昭和15年の夏だけは、なぜか独りで行くことになった。5歳の私には大冒険に感じられる旅だったが、翌年小学生になる私を一人前に見てくれたようで、うれしかった。当時の国鉄には家族パスなるものがあった。私たちには2等パスが出されていたが、切符を持つ乗客で満席になれば、3等へ移らねばならなかった。
 広島駅では母が見送ってくれた。蒸気機関車の煤煙が流れるホームに立つ母を、開けた窓から身を乗り出して、いつまでも手を振ったのを憶えている。
 3時間半の車窓の沿線風景を楽しめたが、今の新幹線なら23,4分だ。時間短縮には仰天だが、トンネル区間の多い車窓は味気ない。
 福山駅へ伯父が迎えに来てくれるからなにも心配はない。2等車には空席が目立ったが、発車して間もない検札で、1人のオジサンが3等へと移った。
 
 新大阪からの3兄弟の末っ子は、あのときの私の年頃ではないか。ゲームの邪魔はしたくなかったが隣の子に聞くと、自分は小学3年で、兄ちゃんが6年、弟は来年小学生になるという。
 3人が夢中になっているゲーム機は、色ちがいの同機種である。3人兄弟の若い父親は仕事もたいへんだろうに、高価なゲーム機をおそろいで与えている。ほどよく年がはなれて仲のよい3兄弟は、ご両親の大事な宝ものだ。楽しそうな笑い声の方に目をやると、お兄ちゃんが、ジャレかかる下の弟を上手に遊ばせている。駅で座席まできた母親に頼まれたのだろうか。娘婿一家の孫遥大(ようた)も、ゲームを楽しむ時間をうるさく制限されながら、今春、念願の中高一貫校に入学した。私たち夫婦にあやかるためと聞いたが、婿殿のお世辞というものであろう。私たちが広大付属福山中学校の1期・2期生で出会ったのは昭和23年。60余年の間、共に学び、家庭をつくり、子供たちを育ててこれたのは、高校受験の勉強をしなくていい中学・高校生活が充実していたからでしょう、と婿殿に言われたのだが、そのとうりだと思いたい。ただ、“だんご3兄弟”の長男だから姉妹がいなくて、敗戦前後の疎開生活で、農事や炊事の手伝いや9歳・12歳年下の弟たちの面倒をみさされたのが、その後の人生で役に立ったとも思う。
 疎開して離れ座敷に住まわせてもらった本家の一人息子が戦死してから、毎晩のように本家の仏壇の前で、祖父母、伯父伯母、従姉らと一緒に唱えた般若心経を、門前の小僧よろしく憶えてしまった。
 還暦前後から、先輩・知人の年忌に招かれたときに般若心経を唱えるようになったが、奥様方からは、「まだお若いのに、よくご存知ですね」と言われたものだ。
 昨年は、妻の母親の25回忌で福山に帰り、菩提寺の住職に和して唱えた。夫が沖縄戦で戦死した後、末っ子の妻を含む2男2女を女手一つで育て上げた人である。
 私の家族は、疎開のお陰で原爆を免れたが、比治山の下の皆実町小学校の同級生らで被爆した者は、どうなったのかと胸が痛む。
 昨夏、浦安戦没者遺族会の「みたま祭り」で忠霊塔公園の会場に懸ける、「箱ぼんぼり」の揮毫を美術協会会員の女性画家を通じて依頼された。「靖国問題」を理由に揮毫を断る会員が少なくないと聞いた私は、戦死者の死をムダにしないためにこそと、“世界平和”を祈願す短歌をぼんぼり6個の紙面に揮毫して奉納した。被爆者の屍(しかばね)ただよふ川なかに蟹を捕らへて食(は)みしと聞けり
  
  原爆に焼き付けられし人影の薄れゆきてもその忌忘れず  
  洞窟の島人たちを殺したる兵に岳父の無なかりしを信ず
  断崖(クリフ)より珊瑚礁(リ-フ)の青の水底へ身を投げ果てし乙女らかなし
 
 原爆の歌には、緑樹の間に立つ原爆ドーム、岳父への鎮魂歌には、遥かな青い海原を望む断崖の墨彩画を描いた。
 
 私もまた、死に直面したことがある。18年前に告知を受けた食道がんだ。幸いにも、鬼手仏心の外科医・看護士、職場仲間・家族らのお陰で、再びのいのちを与えられた。
 生まれ変わった気持で己の半生を振り返ったとき、いかに多くの人々との出会いがあったか、今の自分があるのはそのお陰なのだ、と気づいた。その想いを随想『人生は出会いです』にこめ、職場OB会会報に寄稿した。新大阪から乗ってきた3兄弟との出会いも、なにかのご縁である。倉敷を過ぎたころ、末っ子の“福山にいつ着くのだろうか”と訊ねている声が聞こえてきた。私は、とっさに切符を見て時間を告げた。私も福山で降りと知って気を許したのか、私のように姉妹はいないと言う3人は、“だんご3兄弟”の長男である“喜寿老人”に話しかけてきた。
 福山のおばあちゃんの家へ遊びに行くところで、駅におばあちゃんが迎えにきていると言う。祖母のニックネームを連発する3人は、おばあちゃんがよほど好きなのだろう。疎開した私も、両親の実家の祖父母から可愛がってもらったものだ。少年時代の日々のさまざまなシ-ンが、車窓を流れる長年見慣れた風景と重なって、なつかしさがこみ上げる。こちらの席にやってきた末っ子が、私の顔にゲーム機をくっつけるようにして写真をとろうとする。とっさにカメラをカバンから出し、3人を撮った。うまく撮れていたら送るので住所を書いてと紙をさし出すと、長男クンは書けないと言う。まさか、6年生で自分の住所を書けないはずはないから、きっと、知らない人に教えてはいけないと言われているにちがいない。私は、再会する学友らに持ってきた「ふれあいの森公園・ビオトープ」の絵と詩のコピーの1枚を取り出して、裏に、住所とメールアドレスを書いて渡した。個人情報の悪用への過剰反応が云々される世の中だが、駅のホームに並んでいた人の良さそうな両親を見た私に、躊躇はまったくなかった。
 ちょうどそこへ、福山到着の予告アナウンスが聞こえた。
 ゲーム機を手にした3人に、早くカバンにしまって降りる準備をするようにと告げる。まるで、親類のオジサンになった気分である。周りの乗客が、私たちのやりとりをニコニコしながら見ている。
 忘れものをしないで、と促がしながら通路に並んだ。停車した窓の外に、福山城の天守閣が額の絵のように収まっていた。
 ホームですぐに、おばあちゃんらしい人を探したが、辺りには居ない。
 末っ子が、かなり離れたところから走ってくる男性を見つけて、手を上げた。まだ若く見えるが、どうやらおじいさんらしい。
 子供たちにサヨナラをと思う間もなく、その男性と3人はエスカレーターの方へ早足に歩いて行った。着替えとスケッチ用具を入れた車付きキャリーを引いた私もあとを追った。
 すこし遅れて改札口に着くと、おばあちゃんにワイワイとまつわりついている3人がいた。せっかくのご対面をお邪魔してはいけないと、そのまま、改札を通り過ぎる。
 同期会が開かれるニューキャッスルホテルは駅から1,2分なので、荷物を預けてまた駅に戻った。3時までは、福山城の辺りを散策するためだ。
 1時前で、お腹がすいていたので、あなご鮨でも食べようかと駅の飲食街を歩いていると、背後のご婦人から声をかけられた。振り返ると、3人兄弟のうれしそうな顔が並んでいるではないか!
 よく見つけてくれたもんだと、こちらもうれしくなる。
 車中でのことは聞かれている様なので、お孫さんたちの住所を教えていただけないかと伺う。おばあちゃんはすぐ携帯を取り出して探してくれたが、途中で操作を間違えられ、傍で見ていたおじいちゃんの手助けで、なんとか住所の聞き書きができた。
 下車してから30分近く経ってからの思いがけない再会に、不思議なご縁を想いながら、同期会出席で里帰りした幸せを、しみじみと感じていた。「ひかり」車中での二つの出会いは、「喜寿の会」のすばらしいプレリュードだった。
 2日間の同期会は、懐かしさと楽しさに満ちた再会と歓談の時間・空間を与えてくれるものとなるにちがいない。私は、そう確信した。    (2010.7.11)


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2010/08/02 18:57 2010/08/02 18:57

アラブと私 
イラク3千キロの旅(33)
 
                          松 本 文 郎 

 
 ユーセフと一緒にボーラスを郵電省に訪問したとき、私が述べたのは、「日本人は無宗教と見られているようですが、敬虔に神仏に祈る日本人のこころは、キリスト教やイスラム教のような世界宗教の信者のそれと変わりはないでしょう」(10)だったのだが、むしろ、アジア人の原初的な自然崇拝(アニミズム)の方が、既成の三大宗教の頑なさよりも、より純粋な宗教心のように思われる。

 一神教の出現前の人類社会は、みんなアニミズムだったのである。いつの間にか、私たちの会話に聞き耳立てていたらしいユーセフが肯いている。
「アッバース朝の宮廷料理でお聞ききしたいのですが、さぞかし贅を尽くしたものだったのでしょうね」
「ええ、それはもう! 民びとから見ればびっくりするような料理ばかりですよ」
「たとえば、どんなものでしょうか」
「<シャルバート>というデザートひとつとっても、それはたいへんなシロモノです。材料はナツメヤシの一種と砂糖など一般的ですが、それをつくるために遠くの高山から雪を運んで作らせたそうです」
「日本で三百年続いた徳川幕府の大奥、ハーレムの一種ですが、にも似たような話がありますよ。山岳地帯の城主が山の氷室に貯蔵していた氷塊を、将軍への暑中見舞いに苦労して運ばせました」
「このシャルハードは、ラマダーン明けの喉の渇きを癒すのにぴったりです。ひょっとして、食事の後で出されるかもしれませんよ」
 アハラムが微笑んだのは、そうですよということなのか……。
 それにしても、アル・マアムーンというカリフは、開明君主の称号をもつだけあって、その合理主義的な統治の下で、「文明の移転」という事象が出現したのである。
 つまり、ギリシャ文化とオリエント文化を融合したヘレニズム、イラン、インドなど先行した文明の文献をアラビア語に翻訳した「知恵の館(バイト・ル・ヒクマ)」を開設したのが、このカリフだった。
「現代世界は、欧米の西洋近代がもたらした知見・技術で動かされていますが、それを可能にしたのは、人類の古典的な知恵をアラビア語を介して伝承したアル・マアムーンの先見の明ではないでしょうか」
この偉業をなしたイスラム帝国最盛期の傑出した統治者カリフの血が、アラブとイラン相半ばするとは知らなかった。
「私も不勉強でしたが、そうしたことが分かれば、アラブを産油国としてしか見ていない欧米人たちも、考えを変えなければなりませんね」

 暗黒の中世の桎梏から解き放たれたルネッサンスは、イスラム世界の存在なくしてありえなかったのではないか。
 西洋近代以前のイスラムは、学術、文化、産業、経済、社会、技術などの全分野で西洋に優り、その栄光の耀きはヨーロッパの人たちにはまぶしかったにちがいない。長い中世の抑圧に苦しんでいたヨーロッパ人の目に、イスラム世界の絢爛たる都市文明は、魅力と映るよりむしろ脅威を感じさせ、嫉妬させたのではないか。

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地であるイエルサレムをセルジューク・トルコに占領され、キリスト教徒は十字軍を送り込んだが、(12)で述べたように、法衣の下に鎧をつけて版図拡大を意図したのであって、純粋な聖地奪回の戦いではなかったとするのが、今日の歴史学では通説になってきた。
 十字軍以来、ヨーロッパ人が抱いたイスラムへのコンプレックスの根は深く、ゆがんだイスラム観は強く残っているが、そのなかで、イスラムを正当に理解しようとした人たちもいた。
 カトリック教徒のリルケ、ゲーテなどもイスラムに傾倒し、ヴィクトリア女王は「隠れイスラム教徒」の噂が立つほどだったという。

「知恵の館には、図書館・研究所・翻訳センターがあり、カリフ自身もよく訪れて、学者たちとの討論をリードしたそうです。優れた諸文明をアラビア語に翻訳・記録し、維持・融合しながら、自らのものにしていったのです」
「イスラム文明とかアラビア文明と呼ばれているものですね」 
「そうです。アッバース朝では、ムスリムによる非ムスリムの支配が原則でしたから、才能のある者は人種・宗教の別なく自由に活動できました。多くの百科全書派的な天才が輩出しました」

 話に夢中で、テーブルの前菜も少し残っているし、アラックのお代わりはまだしていない。アハラムが気をきかして、、羊肉のパテと揚げたレンズ豆の「タブーラ」を皿にとってくれた。ホブズで掬って食べた「ホムス」のレンズ豆は、ゆっくり煮てミキサーにかけ、ごまペーストを加えてどろどろにしたと、アハラムから聞いていた。

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 皿に取り分けてもらった「タブーラ」を味いながら、アラックのグラスを空けた。
「私たち日本人も、朝食のおかずに煮豆をよく食べたものです。一家のおばあさんがゆっくりと時間をかけて煮るのが習わしでしたが、今の都会では店で買います。豆を揚げたりはあまりしませんが、このレンズ豆はパテとよく合ってますね」

 テーブルの端で、ニコニコしながら私とマリクの真面目な会話を聞きながらアラックを飲んでいた主が、お代わりを促してくれた。
 招かれた家の主を横に、甥っ子とばかり話していたのに気づかされた私は、「ご主人。アラックという酒はいつごろからアラブで飲まれているのですか?」

 声を掛けられたのがうれしかった様子で、「かなり昔からでしょう。ナツメヤシやぶどうのような糖度の高い果実を発酵・蒸留してつくりますが、語源は、「汗がにじみ出る」とか「少量の水」の意味で、蒸留や蒸留物を指していたようです。中近東では、イラク・シリアを中心にエジプト・スーダンなど北アフリカでも伝統的な蒸留酒です」

 ウィキペディアによると、この中近東の蒸留技術が各地に伝播し、土地古来の醸造酒を蒸留した地方色豊かな「アラック」がつくられるようになったとある。 例えば、トルコではアラックから派生した「ラク」、ギリシャでは「ウーゾ」、英語・スペイン語・ポルトガル語では、アラックとほぼ同じ発音のようだ。元朝の料理書『飲膳正要』にある「阿刺吉酒」はアラックの漢語音写で、回方(イスラム世界)からもたらされたと紹介されているという。十四世紀、アラックの呼称のままモンゴル高原や華北に伝来して広く愛飲された。日本には江戸時代に長崎経由で輸入され、「阿刺吉」「阿刺基」と書いて「あらき」と呼んだとある。北原白秋の詩にも、「阿刺吉の酒」」とあった気がするが……。
 アラックはきっと、バビロン王朝でも飲まれていたにちがいない。
 
 立ち上がったマリクが、テラスから居間へ入って行った席に、グラスを持った主がやってきた。
「フミオさんと私の甥っ子は気が合ったのか、話が弾んでいましたね。あなたがメソポタミアの歴史にお詳しいのには心底驚き、感心しました」
「私は、アラブの歴史に関心をもつ建築家として、基本的なことしか知りません。クウエートの仕事は、国際化する情報社会の基本インフラの電気通信施設を構築することですが、ラマダーン明け休みを利用してこの地を訪ねました。古い建造物は残っていなくても、バグダッド博物館の収蔵品を見るのが楽しみです。明日は、ぜひ見学したいと思います」
 アラックを何杯もロックで飲んでいる主はいける口らしく、ウイスキーの手土産は正解だった。
 白濁した水割りのアラックは、クセがなくて飲みやすい。主が勧めるままにグラスを重ねる。
「バグッダドには日本車がたくさん走ってますし、私の会社でも、トヨタの小型トラックを数台使っています。大型はベンツですが……」 
「それはうれしいですね。乗り具合はどうですか」
「故障が少ないし、ディーラー駐在の日本人技術者が親切で腕がいいのです」
「サンドストームのような過酷な条件下では、メンテナンス体制がしっかりしていないと、車の販売は伸びませんからね」
「ところで、去年は日本で国際博覧会がありましたね。盛況でしたか?」
「ええ、私はNTTパビリオンの基本計画に携わり、貴重な体験ができました。開催地大阪は、徳川幕府が江戸(東京)に遷都した十七世紀初頭まで、奈良の平城京と京都の平安京につづく政治・経済の中心地でした」
「日本で開くのは初めてだったのですか」
「そうです。でも、江戸幕府末期のパリ国際博覧会に出展して、ヨーロッパに日本の文化を知らしめ、世界の多様な文物を知る、わが国初の機会になりました。それから間もない明治維新で、国家近代化の道に踏み出したのです」
「イラクでは、あの強大なロシア艦隊を破った日本がよく知られています。その五年前(一八九九年)のイラクはオスマン帝国の中央集権下で、ドイツがバグダッド鉄道の敷設権を手に入れました」
「イラク王国独立の一九三二年までは、イギリス軍のバグダッド占領や中南部の反英暴動を経て、委任統治が続きましたね」
「曽祖父は、若くして土建会社をつくり、ドイツの大手会社の下請けで鉄道建設の仕事を始めて成功しました」
「ほう! そうですか! 失礼ですが、あなたは何年のお生まれですか?」
「一九二五年です。まだイギリスの委任統治下でしたが、その年に、モースルのイラク帰属が国際連盟で決定されています」
「ユーセフから聞いたのですが、二年前のモースルで内戦が起こり、町の道路が血の川になったそうですね」
「とても悲惨でした。あの地域には、昔から多くのクルド族が住み、歴史的な経緯も複雑です。彼らは、イラン・トルコ国境沿いにも定住してきた少数民族なのです」
「ヨーロッパ列強が、オスマン帝国を滅ぼした後のアラブの地に勝手に線引きしたのが、いろんな紛争や問題を起こしているではないですか?」
「そのとうりですが、オスマン帝国がメソポタミアから北アフリカまでのアラブ全域を手中に収めた、十六世紀からの四百年間も他国の統治下でした」

 小さな土建会社の四代目社長が、架空庭園を築造した新バビロニア王国・ネブカドネザル2世に仕えた土木技術者の末裔のような気がしてきた。


                                                                     (続く)

2010/07/21 18:40 2010/07/21 18:40

アラブと私 
イラク3千キロの旅(32) 
                              松 本 文 郎 


   

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 アハラムの手から盆を受け取ったマリクが、すかさず言った。
「このアラックはアルコール度が四〇%です。水で割ると白く濁るので、「ライオンの乳」の別名があります。私はロックで飲みますが、フミオさんはどうなさいますか」
「面白そうだから水で割ってください。あまり酒に強くはないですし……」   
 グラス三分の一ほどのアラックは、水が注がれた瞬間に白獨した。
「テーブルの料理は、アラックによく合う前菜ですから、どうぞ」
 父親は、まだ料理を皿にとっていない私に勧めるものの、中国式に客の皿に料理をとることはしない。
 アハラムは私に料理の説明をしようと、それぞれの皿を指さしながら、アラビア語でユーセフに伝えている。
 それによれば、出ているのは「メッツェ」という前菜のいくつかで、オリーブ・ラディシュ・チーズの盛り合わせ、サラダの「タブーラ」、「ホムス」とよぶひよこ豆料理だという。「ホブズ」(平べったいパン・前出は「ホベツ」と表記)も出ている。

 タブーラは、羊肉のパテの薄切りと揚げレンズ豆にレタスとトマトがのせてあり、ニンニク・レモン・各種スパイスのドレッシングがかけてある。
 ホムスは典型的な前菜だそうで、一晩水につけたひよこ豆を鍋で一、二時間煮て、ミキサーにかけ、ごまペーストの「タヒニ」とニンニク・塩を加えてどろどろになるまでかき混ぜ、レモン汁をかけて出来上がりという。
 浅めの皿に盛られたホムスの中央にオリーブ油をかけ、煮豆・パブリカ・みじん切りパセリが飾りにのせてある。

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「ホムスを、ホブズで掬って食べてください」 
 アラックによく合うといわれ、ひよこ豆もごまも好物だから、アハラムを真似て、千切ったホブズで掬って口に運んだ。 
「日本の夏のビールには、茹でた枝豆がよく合いますが、これは、アラックにぴったりですね。アラブではよく豆類を食べるのですか」
「ええ、よく食べます。聖書にも、古代エジプト人がレンズ豆やひよこ豆などを食べていたと書いてありますよ」
 若いマリクだが、新聞記者だけのことはある。
「アラブの食文化に興味をおもちなら、『アッバース朝の社交生活』という英訳本があって、当時の宮廷料理(七五○―一二五八)の飲食について知ることができます」
 料理や食材のことをよく知っている従兄の一面をみたアハラムは、驚いているようだった。
「アッバース朝といえば、バグダッドに都を遷した王朝ですよね」
「よくご存知ですね。アラブ帝国の都は正統カリフ時代のメディナ、ウマイヤ朝のダマスカスを経て、アッバース朝第二代カリフ(アル・マンスール)がチグリス川畔のバグダッドに新都を築きました」
「大学の西洋史で学んだのですが、アッバース朝の発端は、アラビア半島からビザンツ文化圏に北上したウマイヤ朝がアラブ貴族優先の社会だったので、対抗するイラン人中心の非アラブ系・新ムスリムの反乱が起こり、それが「アッバース革命」のきっかけになったそうですね」
「いやいや。私よりずっとお詳しいので、びっくりです。」
「アッバース朝の宮廷料理の本があるようですが、ダマスカスからバグダッドへ遷都したアラブ帝国は、たいへん栄えたようですね」
「ええ、第七代カリフのアル・マームーン(在位八一三―八三三)のときが黄金期とされますが、革命後のイラン人との混血でアラブの血が薄まり、帝国のイスラム化が進みました。アッバース朝の最初の百年は、アラブ帝国がイスラム帝国になった黄金時代でした」
「私が建築を専攻した京都大学では、最初の二年は教養学部で学び、多方面の講義を聴くことができ、西洋史も聴講しました。図書館で『京大西洋史』を読みましたが、精緻な研究と魅力的な記述で名高い本です。その本に、当時のバグダッドは東西貿易の拠点として未曾有の繁栄を誇り、都市文化の発達で学術の一大中心地だったとありました」
「それはうれしいですね。遠いアジアの日本の人がバグダッドの歴史にくわしいなんて、思いがけないことです」
「いえいえ、歴史の大筋を学んだだけですよ。それにしても、アッバース朝の時代に、アラブとイランの混血が進んだというのは、今のイラクとイランの関係を考える上で、重要な事柄ですね。私は、一昨年(一九六九年)、テヘランに二ヶ月滞在しましたよ」「やはり建築の仕事ですか」
「ええ、イラン電気通信研究所の建築的基本計画の技術指導でした。オフィシャルパスポートで派遣され、帰国前に、イラン国の招待で古都イスファハンや史跡ペルセポリスを案内してくれました。同行したイランの電気通信技術者のお膳立てともてなしが至れり尽くせりで、実にすばらしい旅でした」
「第七代のアル・マアムーンの半分の血はイラン人で。イスラム帝国代々の宰相を出したペルシャ系の名門バルマク家の出です。父親は、『千一夜物語』によく出るカリフのハールーン・アル・ラシードで、母親はハーレムに使えたイラン人奴隷でした」
「ペルシャといえば、世界七不思議の『架空庭園』が、ペルシャ軍のバビロニア帝国征服で破壊されたのが紀元前五三八年ということですね。アハラムに、メディアから輿入れした王妃を慰めるために、夫のネブカドネザル2世が建設したと話しました」

 マリクとの英語でのやりとりを、ユーセフとなにやらアラビア語ではなしているアハラムに聞かせようと、「アハラムは、そんな男性と出会うのは、いまどきムリでしょうと言ってましたよ」
「ジャミーラのような少女たちは、こんな夢物語に憧れるでしょうが、しっかり者のアハラムは、歴史上の人物で絶大な力と富を手中にした統治権力者の特権を、かなり覚めた目で見ていると思います」
 
 従妹をしっかり者と言ったマリクの表情に、彼女を好ましく想っていると感じさせるものがあった。いかにも新聞記者らしい彼の語り口が続く。
「エジプト・ナイルの河沿いの肥沃な土地に栄えた歴代王国と同じように、チグリスとユーフラティスに挟まれた沃地のメソポタミアには、四千八百年前のシュメール初期王朝や三千九百年前のバビロン第一王朝、ネブカドネザル2世の新バビロニアなどの栄枯盛衰がありました。それら王国・王朝の物語は、歴史の彼方に遠ざかりましたが、第七代カリフが成したバグダッド再興の偉業は、この地に生まれた私たちの誇りです」
 
 私は建築史の泰斗村田教授の講義を思い出した。
「たくさんの小さな部族を束ねた王国や王朝に権力と富が集中して、壮大な都城や墳墓が造られました。歴史的建築遺産は、人類社会の歩みを示す足跡だと思います」
「エジプトの遺跡はピラミッド・オベリスク・神殿などは石造でよく保存されていますが、バグダッド近辺の古代建造物は日干しレンガなので、ほとんど崩壊してしまいました。砂を固めたレンガが、元の砂漠に還えるのもインシャーラ(アラーの思召し)でしょうか」

 マリクは、徒然草を書いた兼好法師の自然観というか、宗教的な思弁に通じるものを披瀝した。
 私はすかさず、「徒然草」の出を唱えて、「アラブの思想を培った砂漠とは対照的に、アジア、特に日本では「水」だと感じています」
「私はムスリムでもクリスチャンでもありませんが、人間の知を超えた大きな存在を否定はしませんよ」
「クウエート郵電省の建築技術顧問ボーラス氏も同じ考えのようでした。カイロ大を出たエジプト人建築家で、奥さんはフランス人ですが」ね」


                                          (続く)

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16世紀に描かれたバビロンの空中庭園れたバビロンの空中庭園


2010/07/17 16:56 2010/07/17 16:56