アラブと私 
イラク3千キロの旅(31)
 
                                             松 本 文 郎 

 
 「エー? バスラのことをご存知とは! ユーセフから聞かれたんですね。私は大のビール党なんです」 
 そう応えながら、朝方の夢で見たアラビア商人の客人のもてなし方の周到さが思い出された。
 かっての日本人の「おもてなし」の細やかさは、来日した外国人(アインシュタインやチャップリンをふくめ)から賞賛されたものだが、日本人の専売特許ではないことを、イラクの旅の後のアラブ滞在でも思い知ることになる。

 黄昏がせまるテラスでグラスを掲げて乾杯した。長いドライブと熱烈討論とで疲れた心身を、冷えたビールとチグリスからの夕風が癒してくれる。アハラムは、オレンジジュースを飲んでいる。
「私の英語は仕事柄、アハラムよりましでしょうが、日本のことをたくさんお聞きしたくて、国営新聞の記者をしている甥っ子を呼んでいます。お差し支えないでしょうね。市役所幹部の弟の次男です」
「ご一緒にどうぞ、いろいろのご配慮をありがとうございます」
「妻は、出てきてご挨拶いたしません。実家が敬虔なムスリムでクルアーンの教えを守ってきました。でも、ご挨拶のつもりで、得意のイラク料理を準備している最中です」
「クルアーンやハディースは、クウエートに来る前に少し勉強しましたし、今日も、女性に関する規律のことで、アハラムさんのお考えも伺いました」
「そうですか! アハラムの世代は、家内のような頑な生活態度は旧弊と思うかもしれません。でも、性急に近代化を推し進めるだけでなく、ハディースの生活規範の大事な部分は受け継いでほしいです」
 英語が達者という甥っ子さんが現れるまでの会話は、アハラムとの会話と同じやり方で、ユーセフが仲立ちしてくれている。
「それにしても、クウエートに着任して一週間ほど滞在したホテルでアハラムさんと出会い、こうして再会できるなんて、ほんとうに夢のようですよ」
「アハラムに聞きましたが、ドライブの車の中で、ジャミーラが貴方の横ではしゃいで踊ったり、居眠りしている間に、空中庭園とオペラ『ナブッコ』や、クルアーンとハディースの女性観までずいぶん幅広い話をされたとか」
「ええ、イスラム文化への好奇心から、ついお堅い話題が多くなって、アハラムさんに呆れられたのでは、と気にしていました」
「いいえ、日本の建築家の熱い探究心に、アハラムはとても感動していますよ」
 父親の言葉にアハラムが肯いたとき、「アッサラム・アレイコム」と言いながら、若くてハンサムな青年が、居間からテラスへ出てきた。
「アレイコム・サラーム」
 私は、椅子から立ち上がって握手し、「マツモト」は憶えにくいから、ファーストネームで「フミオ」と呼んでくださいと告げた。
「ではそう呼ばせていただきます。私はマリクです」
「新聞記者をされてると伯父さんから伺いました」
「ええ、父と兄が官僚なので、私は、対照的な世界の仕事を選んだのです」
 なぜかアハラムの目を見つめながら放ったマリクの言葉に、決然とした語気が感じられた。
 もしかしてこの青年は従妹のアハラムに気があるのではと思わせる、なにかがあった。
 アハラムは、さりげなく居間に入っていった。
「今日のドライブで、アハラムさんから聞きましたが、バース党による近代化政策で、お国はどんどん変わっているそうですね」
「はい。バース党が政権の座についてまだ三年ですが、イラク支部ができたのは約二十年前ですから、イギリスの統治下で成立したイラク王国の旧体制を社会主義的な社会に変える路線を走ってきました」
「そういえば、アハラムさんの名前は、エジプトの国営新聞と同じ[夢]ですね」
「この伯父が付けたようですが、最初の子に自分のの夢を託したかったのでしょう」
 伯父さんはニコニコしながら、「エジプトの新聞とは関係ないですよ。でも、新しい時代の夢を実現する女性に育ってほしいと願ったのです」
 アハラムがビールを満たしたグラスを手に戻り、マリクに手渡した。
「フミオさん! ビールのお代わりはいかが」
「はい、いただきましょうか」
 日本では、テーブルに置いてあるビールをグラスに注ぎ足すが、アラブでは、ヨーロッパに倣ってか、別の場所でグラスに注いで出すようだ。
 ユーセフがマリク青年(以下マリク)とアラビア語で挨拶をし合っていると、アハラムが、大きな銀の盆に前菜のような二、三の料理と私のビールのお代わりをもってきた。
「母ご自慢のメインディッシュは、リビングで召し上がっていただくといってます」
 甥っ子とユーセフのアラビア語のやりとりを聞いていた父親が、
「ではもうしばらくテラスに居りましょう。どうぞ、料理を召し上がってみてください。フミオさんは、アラックを飲まれたことがありますか?」
「アラブの伝統的な酒と聞いていますが、まだです」
「いい機会ですから、飲んでみてください。イラク料理に、ぴったりなんですよ」
 そう言って、アハラムに目配せした。
 黄昏が深まり、ビールでほんのり火照った顔に、チグリスの夕風がひんやりと心地よい。
                     
 当時から四〇年たって、あのバグダッドの夕べののどかさを滅茶苦茶にしたのはいったいだれなのかと思う。

 イギリスでは今年(二○一○年)、七年前のイラク戦争への政治判断の是非を巡り、「独立調査委員会」による徹底検証が始まった。
 八十人以上の関係者への聞き取りは、個人的責任の訴追のためではなく、関係者の証言から将来への教訓を得る目的だとされる。ブッシュ元大統領からの要請に無条件で応じたブレア元首相への六時間におよぶ質疑では、「戦争の大義の大量破壊兵器が見つからずに参戦の判断をしたことを反省しているか」と問われ、「責任は感じているが、反省はしてはいない」と答えていた。一流の歴史学者二人をふくむ五人の「独立調査委」には、内閣・省庁の公文書・電子メールの機密文書へのアクセスが認められ、一部はインターネットで公開されているという。「調査委」会場周辺には多数の民衆・戦死者遺族が押しかけ、野党や世論の反対を押し切って参戦を決意した、ブレア氏への怒りの表情を露わにしていた。

 元官房長官は、強力な権限を有するブレア政権の閣僚の一部グループが内閣を牛耳じり、その閣僚らの意見が既定の政策とみなされ、それを覆すような意見は出しにくい状況だったと証言している。
 九・一一の同時多発テロへの報復を果敢に決断したかに見えたブッシュ元大統領が、テロ以前から、イラク元大統領サッダム・フセインを抹殺する機会を狙っていたことが、米国内で報道されている。大統領の任期終了を目前にしたブッシュの、大量破壊兵器の情報がCIAによって誤って伝えられたと責任逃れに汲々とした醜い顔が目に浮かぶ。間違った情報で参戦を決断した責任は感じているとしたブレア氏の方は、大量破壊兵器の存在は、機密情報によって明白だと信じたのだ、と証言。

 オックスフォード大教授のアダム・ロバーツ氏は、NHK「クローズアップ現代」の国谷キャスターのインタビューで、ブレア労働党政権の歴史的視点のなさに言及。イギリス軍によるイラク占領下の一九二○年に、中南部で起きた大規模な反英暴動の歴史的教訓からまったく学んでいないと指摘していた。

 また、イギリス国民はアメリカのプードルになるのを嫌がっており、ブレアはイギリスの言い分を、もっとブッシュにぶつけるべきだったと述べた。
 イラク自衛隊派遣を即断した小泉元首相、沖縄の基地問題で弱腰だった鳩山元首相にも当てはまる言ではなかろうか。
 ドイツととフランスもブッシュの強引なイラク戦争には反対だったが、ブレア内閣外務省顧問(国際法専門)も、安保理のお墨付きがない開戦には強く反対したという。
 ブレア元首相の誤った情報に基づく政治的判断で一兆円の軍事費と自国・イラク両国民に多くの戦争犠牲者を出したイラク戦争。その徹底検証をめざして、喚問・質疑はつづけられ、今年末、最終報告書が出るという。

 国民の政治家と政治システムへの不信に応じて、ブレア政権閣僚の元ブラウン首相が「独立調査委員会」を設置したことに、やはり日本が民主政治を学んだ国だなと思ったものの、議会議員による経費の不正使用にみる政治家の質の低下が透けて見える。
 小鳩政権も政治と金、沖縄基地問題らで迷走して国民の政治不信を深め、内閣支持率の急落を招いて座礁したが、なんとかだけは沈没は免れたようだ。
 労働組合勢力の支持で初めて政権交代にこぎつけた民主党政権は、歴史の教訓に学ばなかったブレア政権の轍を踏まないようにしなければなるまい。 

 わが国で、太平洋戦争の徹底検証がなされていれば、敗戦後六十余年の日本の歩みはかなり違ったかもしれない。政権交代の成否は、まさに正念場を迎えている。片やブッシュの戦争と金融資本主義の暴走で混迷したアメリカに復元力をもたらしたオバマ政権。片や、経済格差や人権問題を内包しつつも、世界第二の経済大国になろうとしている社会主義中国。その狭間をゆく日本丸は、どこをめざし、どんな経済・外交戦略を駆使して航海するのか。家の中から、アハラムがアラックの瓶とグラスをのせた盆を運んできた。米英両国元首脳に敵視されたサダム・フセインが大統領に就任するまであと九年のバグダッドの夕べに戻ろう。


                   (続く)



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2010/06/12 14:35 2010/06/12 14:35

アラブと私 
イラク3千キロの旅(30)
 
                                             松 本 文 郎 

 
 ホテルで車を降りたとき、運転席のユーセフに、花束代をそっと渡した。
「アハラム! ユーセフがホテルへ戻ってくるまで、シャワーを浴びて待っているから、ホームパーティのご招待のお礼を、お父さんによろしく伝えてネ」
「はい。わかりました。お待ちしています」 
 フーセフは、昨日からの長距離ドライブで馴れてきたトヨッペットクラウンを急発進させ、タイヤをきしませながら、ホテルから大通りへ出て行った。

 朝のシャワーでも感じたが、バスラのホテルに比べて湯の出方がいいのがうれしい。
 断食月明けの休暇で賑わう男のオアシス・バスラでやっと見つけたホテルの設備は旧く、シャワーの出がわるいのは仕方なかった。アハラムに出会ったガルフ・ホテルのシャワーの出はもっとチョロチョロだった。海水を蒸留した水を使う給湯システムだからと、節水のために管径を細くしてあるわけもないから、事務所軽費の節約で老朽設備のホテルに泊められたにちがいない。
 出のいい湯を浴びながら、車の遠乗りで出かけたサマーラの塔とチグリス河畔のアウトドア・ランチでアハラムと過ごした一こま一こまをなぞっていた。
 片道約百キロを往復した車中の会話は、思いのほか真面目すぎる内容になったが、アハラムの一面を知ることもでき、ホームパーティでの話題のネタもいろいろと仕入れることができた。
 クウエートに来て半年ほどの間に何回か招かれたホームパーティには、花屋でつくらせたブーケと、日本からの簡単な手土産を携えて行った。
 銀座・鳩居堂で見つけた外国人好みの和の品々で、北斎の「赤富士」の画額、京折り紙、紙人形などだ。 旅先では、軽くて嵩張らないものがよい。
 招かれる機会は、二、三の日本商社駐在事務所長の家が多かったが、前述(2)(10)のように、王族の係累のエリートや郵電省顧問のエジプト人建築家などの石油に浮かぶ熱砂の国に暮らす人々には、国外から空輸される花々のブーケはとても喜ばれた。 
 禁酒国のクウエートでウイスキーなんて不謹慎だと思われそうだが、人間社会に「ウラ」はつきもので、インド商人の暗躍によるヤミ酒が手に入る。
 アラビア湾へ油の積み取りにくる空のタンカーで密輸されるのだ。チンタオ・ビール中瓶一本が千円、ウイスキーはジョニーウオーカーが五千円だ。なぜか、日本では値段が倍以上ちがうクロとアカが同じ値段だった。
 時折り相場が変動するのは、警察の手入れの後だ。ダウ船の船べりでこれ見よがしにボトルを割って、アラビア湾に酒を飲ませる写真が新聞に載る。
 巷の噂では、実は、警察幹部がヤミ酒の元締めで、没収した酒の箱を某所に隠匿しているとか……。その筋とじっこんな日本人が、そんな場所で飲ませてもらった話を耳にしたことがあり、「蛇の道はヘビ」である。
 ホームパーティーへもっていく〔ジョニクロ〕は、インド人の闇屋から手に入れたもので、幸い禁酒国ではないイラクの旅の寝酒用と一緒に持ってきたのである。
 アハラムの父親が酒を飲むかどうか知らないが、自身で飲まなくても、建設業を営んでいるのだから、使い道はあるだろう。
『クルアーン』や『ハディース』に禁酒が戒められているのは、暑い気候で傷みやすい豚肉を食べないのと同じように、アラブの風土に因む生活習慣から齎されていると思われる。
 ヤミ酒の存在から、現代のアラブ人に不真面目な人間が多いと考えるのは早計で、金持はいざ知らず、庶民一般では、イスラムの戒律を遵守して生活する敬虔なムスリムが大半であろう。この種の戒律は、本来は自分の心身の健康を守り、楽しく長生きするための知恵の集積で、宗教的権威が遵守を強制しても、長続きするものではない。
 問題は、教典・戒律の類が政治権力などに悪用されることで、政治イデオロギーの強制と同じように、民衆を不幸に陥れるのである。
 
 シャワー室から出て腰にバスタオルを巻いたままベッドに仰向けになったら、ウトウトしてきた。 
 眠り込んでは一大事とばかり、身支度をすることにして、背広と白シャツ・ネクタイをスーツケースから取り出す。
 家庭でホームパーティを開くのは、当時の日本では一般的ではなかったから、アラブの地でさまざまな家族と交流する場を体験できたことは、三十五年後のいまもおおいに役立っている。
 アハラムらを送る届けたあと実家に立ち寄ると言ったユーセフは、ホテル到着が夜中になったので、母親にはさっき電話しました、と朝食のとき話していた。 
 母親に会うのは久しぶりのようだから、今夜は、ホテルではなく実家に泊まるように勧めてみよう。
 バグダッドへの途上、サマーワの茶店で仕入れたパイ生地の菓子クレーチャ(9)をユーセフに手作りしたやさしいお袋さんと、積もる話があるだろう。
 
 ドアにノックがあって、ユーセフが戻ってきた。
 右手にきれいなブーケを提げている。
「チーフ。実家に寄らせてもらいましたよ」 
「それはよかった。お袋さんは元気かい?」
「相変わらず、親父とケンカしてますがね」
「夫婦がケンカできるのは仲がいいからだろうな。キミとお姉さんが家を出て働いていて淋しいだろうけど、両親そろって元気なのはなによりだよ」
「チーフのご両親もお元気ですか」
「うん。二人の弟たちも自立して東京と名古屋にいるけど、二人で元気に暮らしているらしいよ。お袋からの手紙に、歳のせいか親父がガンコになったと書いてあったよ」
 会話の弾みで、瀬戸内の福山市に住む両親までがとび出した。
「ユーセフ。きのうは一日中、今日も朝からずっと運転していて疲れただろう。さっとシャワーを浴びたらどうだい」
「ええ、着替えたいので、ちょっと失礼します」
 
 スーツ姿のユーセフが車を横づけたのは、今朝方アハラムたちが待っていた公園駐車場に近い住宅街の一角の戸建だった。
 比較的新しい宅地開発エリアのようで、なんだか、田園調布の宅地分譲が始まったころに似ている。一区画はかなり大きく、百五十坪くらいだろうか。門の脇の路肩に車を停めていると、奥にある玄関のドアが開いて、アハラムと父親が出てきた。
 大理石の舗道ブロック敷きのアプローチを歩いて行くと、玄関右手のテラスにもつながっている。
 にこやかな笑顔で出迎えた父親は、やや背が低く小太りだが、如才なく愛想のいい人に見える。
「やあ、ようこそ! 貴方とユーセフさんのことは、クウエートから帰ってきたアハラムから聞いていました」かなり緊張気味だった私は、親しみのこめられた出会いの挨拶に、ホッとした。
「今朝、ホテルからお電話したユーセフに、お招きのことをお伝えくださり、ありがとうございました。おことばに甘え、遠慮なくやって来ました」
「お越しくださってうれしいですよ。それに、娘らを郊外ドライブへ連れ出していただき、とても喜んでいます」
「サマーラの塔は、大学講義の古代メソポタミアとの関連で教わり、訪ねたかった場所の一つでした。お嬢さんたちとご一緒できて、楽しい一日でした」
 傍のユーセフが、チーフ。来てよかったですね!とばかりのウインクをよこした。
「まだ外が明るいので、テラスでビールを飲みませんか。バスラでは、地ビールも試されたようで……」
                                                (続く)


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2010/05/31 14:46 2010/05/31 14:46

アラブと私 
イラク3千キロの旅(29)
 
                           松 本 文 郎 
 
そういえば、三、四人の妻と大勢の子供を乗せた、胴体の長いダックスフントのようなリムジン(大型高級車)を、何度かクウエートの街で見ていた。
「ユーセフ。キミはバカゲてると言ったけど、複数の奥さんを持ちたいと思ったことはないのかい?」 意地の悪い質問を、アハラムに分かるような英語でぶつけてみた。 
「クリスチャンの重婚は、昔の王族貴族でさえ禁じられてましたから、「四人妻」なんてありえませんが、陰で女を囲ったり浮気をしている男は、いつの時代のどこの国にもたくさんいますよね……」振り向いたアハラムが、解せない目で私を見た。
「アハラム。もしも、クウエートの王族の男性から四人目の奥さんになってくれと申し込まれたらどうするかね?」

 この際とばかりに、意地悪な質問を続けた。ただ、「四人妻」の年齢差がそれぞれ十歳くらいはあって、一番の若妻が二十歳前後なら、年長妻は五十歳台ということ、別々の家に住みながら、夫に対しては歳相応の役割を分担している家族関係だということは聞いていた。
「私は、好きな一人の男性と結婚しますが、今でも、クウエートやサウジのお金持ちの所へ嫁ぐ人が、時にあると聞いています」
「チーフ。ものすごいお金持ちでなくちゃ、そんなことできませんよ。四人の妻の家族みんなで世界中を遊びまわるのも大変な費用ですし、妻同士の諍いで気が安まらないと思いますね!」
 わざとの質問で、イスラムの女性観の話が下世話になってしまった。風向きを変えなくては……。
「つまらない質問をしたね。最近の日本では、石油問題でやたらにアラブ、アラブというわりに、一番知らないのがアラブ世界で、私自身も現代イラクのことに不勉強で恥ずかしい。でも、アハラムの話を聞いて、王政を共和制に移したバース党政権が社会主義政策でイラクの近代化が進め、女性の生き方が男性依存から自立・社会進出へと変わりつつあるのが分かってきたよ」
「私だって、日本の車やソニー製品のすばらしさは知っていても、日本男性の女性観や女性の社会的地位などをまったく知りません。どうなんですか?」アハラムが鋭い質問を返してきた。
「そうだね。一九四五年の敗戦後にできた憲法で、やっと男女同権が明文化されたけれど、封建制下の男尊女卑の考え方と社会習慣は、そう簡単に変わらないようだね。むしろ、ムハンマドが受けた啓示の『クルアーン』や彼の言行録『ハディース』に書かれている男女平等の訓えは、実に素晴しいと思うね」

 すかさず、ユーセフが言った。
「歴史的にみて、ユダヤ人やアラブ人(セム族)の社会は、なぜか男尊女卑だったのです。ムハンマドに結婚を申し込んだ年上の女性実業家ハディージャとの生活で、その矛盾に気づいたムハンマドに天啓が下されたのでしょう」
 難しい言葉が多くなってきたやりとりに興味を示すアハラムのために、英語だけだった三人の会話が、私の英語→ユーセフのアラビア語→アハラムのアラビア語→ユーセフの英語→私、のパターンに戻ってきた。
 ややこしい会話の一部始終は省略して、ユーセフとの会話の概要を記そう。 
 
「『クルアーン』の男女関係規定の根本理念が「平等」なのは、伝統的な男尊女卑の考えを変えようとしたムハンマドが、神の声を聞いたと思ったからです」どんな宗教の始祖が遺した教典や言行録も、歴史的な時代と社会を反映している、と私も思う。

 現代のムスリム(イスラム教徒)が、近代化の波に乗りながら、「クルアーン」にある巡礼月や断食月の規定を守っているのも、アッラーの前ではすべての人が平等だとする精神があるからではないか。

 前出の片倉もとこ著『イスラームの日常生活』に、・巡礼では、国籍、言語、肌の色、老若男女などのさまざまな人が、「イフラーム」という二枚の白布でからだを覆う。メッカから数十キロの地点で着替えた後は、元の衣服に戻るまで、髪や爪を切ること、香水をつけること、結婚、性交、狩猟などが禁じられる。金持ちも貧しい人も同じ姿でアッラーの前に立つ。

・この無垢の姿で、「アッラーよ、御前に来ました」と巡礼の文言を唱えながら、みんなまったく同じ「行」をする。
・自家用機でやってきた人、一生かけて貯めた金で念願の巡礼に来れた人も、アッラーの前では、みな同じだと実感しながら、興奮と陶酔感にひたる。

などが挙げられているのを略記した。

 ユーセフは話を続けた。
「ソ連や中国の政治指導者は、宗教が民衆を無知にするといって、聖書などの教典には否定的なようですが、同じ社会主義思潮のバース党指導者たちは、ちがいます。ハディースに書いてあることが、宗教的というより、アラブの民衆の日常生活や社会生活にとって大切な規範だからでしょう」

 西洋の一神教の教典や東洋の仏教の経典に書かれている事柄は、人間が犯しがちな考えや行いを戒める点で、ほとんど一致しているのだ。
「ムハンマドの時代のアラブでは、砂漠の遊牧経済から都市の商業経済に移行するなかで、富の蓄積が盛んになった結果、経済的、社会的な格差が嵩じ、大商人や族長の間に争いが絶えませんでした。そうした状況を憂い、改革運動をめざしたムハンマドに啓示が下されたのだ、と高校で習いました」

「キリストも、ローマの支配下での貧しい人たちの悲惨を見過ごせず、権力の意に反する布教を続けて、見せしめに殺されたのでしょう」
 やはり、ユーセフはクリスチャンでありながら、キリストを、ムハンマドと同じ予言者と考えている。

 ユーセフとアハラムが、キリスト教とイスラム教の歴史を、イラクの近代化を担うバース党政権下の高校で習っていたからこそ、こんな会話もできる。
それに引き換え、明治維新の廃仏毀釈の粗暴さや宗教的科目を教えないわが国の高校授業にみられる近代化志向の底の浅さが、なさけなく想われる。アフリカやアラブで植民地政策を強行した欧米の列強は、ギリシャ・ローマの文明を近世に中継ぎしたイスラム文明の存在を無視して、衰退後のアラブを、西洋近代の対極にある時代遅れの世界と見ていたようだが、日本人一般もそうだろう。

 片倉さんは、ヒッティなどの説として、アラブの遊牧民は「生まれつきの民主主義者」で、首長でも絶対権力は持たず、非常事態は別として、普段では仲裁の役を果たすだけと書いている。
アラビア商人の商業活動で蓄積された巨大な富をめぐる争いで、自然の摂理に従って生きた遊牧民の素朴な倫理観が捻じ曲げられるのを見過ごせなかったムハンマドは、先達の釈迦、モーセ、キリストらと同じように人類社会に現れ、救世の役割を担った人だったと思った。
「チーフ! そろそろバグダッドです。ジャミーラはまだ寝ていますか?」
 三人の話に夢中の私は、ユーセフに言われるまで、ジャミーラが私の膝に顔を伏せて寝っていたのを、すっかり忘れていた。
「いけない! ジャミーラのことをすっかり忘れていたよ」
 あわててジャミーラの頭をゆすると、アハラムの声を聞いた彼女が、横たえていた半身を起こした。
「アハラムたちを届ける前にホテルに寄りますから、シャワー浴びて休んでいてください。私は、実家にちょっと顔を出して、ホームパーティのお迎えにきます。一時間はかからないと思います」 
「わかった。ジャミーラの家へのお土産は、持ってきたジョニクロにするけど、もし花屋があったら、ちょっとしたブーケを手に入れてきてよ」

                                 (続く)


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ARAB WOMEN'S UNION Bethlehem
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2010/05/19 15:32 2010/05/19 15:32

アラブと私 
イラク3千キロの旅(28)
 
                              松 本 文 郎 

 
 官庁発注工事をめぐる発注側への接待や贈物は、古今東西にみる慣行だが、国のレベルでも、逞しいアラビア商人の血脈に呼応した手練手管を駆使して、石油資源の確保やインフラの構築をねらう欧米諸国間の受注競争が熾烈に展開している。
 フランスが最新鋭戦闘機ミラージュを供与したとの報道を目にしたし、一九六九年に技術協力で滞在したイラン革命前の王政下の高級官僚たちが、欧米メーカーの受注をねらう供応の渦に巻き込まれている、と志あるイラン人技術者は嘆いていた。

  二○一○年の今でも、ベールに包まれたムスリム(イスラム教徒)女性には、むりやり黒い衣を被らされ、家の奥に閉じ込められて抑圧されているとのイメージがあるようだが、一九七一年の当時、同じことを訊いた私に、アハラムは、それは大きな誤解ですよと応えた。
「ムスリムにも、近代化をのぞむ人たちがいる一方、保守的な人らもいるわけで、国や地域、家庭でも、さまざまな社会と生活のかたちがあるのを理解してほしいです」
「西欧から見たアラブの女性観は、「千夜一夜物語」のイメージが先行し、「四人妻」や「ハーレム」などと男性の興味をそそることばかりですが、高校で学んだ「女性の生き方」の授業は、保守的なムスリムの女性観とは無縁なものだったのを分かってもらいたいです」
「世界のどの国でも、男尊女卑の亭主や従順なだけの妻はたくさんいます。アバイヤが覆っている下に、鮮やかな色とりどりの衣服をまとっているのをご存じでしょうか」
 運転しているユーセフの隣のシートから振り向いたアハラムの顔は耀いていた。。
 クウエートの街角で、風に煽られたアバイヤの下に、真紅のミニドレスを見てハッとしたことがある。
 一説では、彼女らは風がアバイヤを翻すのを期待しているという。さもありなん、と思う。

 アハラムはつづける。
「目にもあやな彩りのドレスを纏うように、女性の生き方は色とりどりなのです」(「人生いろいろ」の歌の文句のように、女もいろいろ、男もいろいろである)
 アハラムの周辺でも、男のいいなりになるどころか、男を牛耳る女性もいるし、スウェーデンやアメリカの女性のように自立し、社会進出した場で高い地位についている人も少なくないそうだ。
 大学に進学していないアハラムの将来を、父親がどんなふうに考えているのかを、ホームパーティの席で聞いてみたくなった。クウェートの国会議長を父にもつ郵電省・次官のアルガネイム氏の夫人は、バグダッドの豪商の息女だそうで、イギリスがイラクとクウェートの国境を勝手な線引きで決める以前は、両国は一つの地域だったのだろう。
アハラム一家の親戚一統もクウエートで仕事や商売をしているそうで、アハラム親子も国内旅行の感覚で出入りしているにちがいない。
イスラム発祥の地アラブでは、南のシバの女王、北のパルミラのゼノビア女王のような傑出した女性が歴史に名をとどめている。

 イスラムの発祥以前の一般女性が生きたようすは、「ムハンマド伝」などの信頼できる史料で知ることができるそうで、そこに書かれている女性たちは、驚くほど自由・闊達に生きて、その数も非常に多いという。
 ムハンマドが結婚した十五歳年上のハディージャは大実業家であり、シリアとの交易の雇い人の一人だった彼の能力と人柄をみて、彼女のほうから結婚を申し込んだと伝えられる。
 孤児として育ち、幼いころから働きはじめた彼は、この結婚で安定した暮らしをしている中、ヒラーの洞窟にこもって瞑想にひたり、アッラーからの天啓の声を聞いたとされる。
 天啓を世に広めようとしたムハンマドは、メッカの商人らの迫害を受けることになるが、姉さん女房のハディージャはムハンマドと共に敢然と戦って、「イスラム勃興に女性の力あり」といわれる。
 このほか、いまのキャリアウーマンの活躍に似た記録が数多くあり、古今のアラブで尊敬されている詩人であった女性や、名医として名の高い女性などが、自由奔放に生きていたようだ。
 彼女たちが、男性に自由に結婚を申し込み、悪びれずに離婚していたというのも、すごい。
 そのころの社会の全体像には分からないことが少なくないが、母系社会の傾向があり、妻問婚の形も多かったとようだ。
 結婚した男女は妻の実家のそばに住まいを作ったとあるのは、古代の日本にもあった母方居住に似ている。
 アハラムが結婚する相手が、もし、家業の建設請け負いを継ぎ、親と一緒に住むのも選択肢の一つだろうね、とユーセフをアタマにおいて言おうとしたが、余計なお世話です! と言われそうで止した。
 何はともあれ、「クルアーン」の男女関係の規定は、「男女平等」の理念で貫かれていると認識するのが一番のようだ。
「クルアーン」は、アッラーとの対話で豊かな人生を送る現世での成功、来世では天国で平穏な暮しを願う生き方を教え、男女はそれぞれの特性を生かして平等な権利を享受できる、と訓えている。
女性の特性には、子供を産み育てる母性に最大の価値がおかれ、その人類存続のための役割を男性が尊敬し大切にするように求めるのがモスリムである。
 男性の特性では、己の稼ぎで妻子を養うことと、女性を庇護することが求められているのである。
 イスラム法(「クルアーン」とムハンマドの言行を記した「ハディース」の集成・シャリーア)の中心「家族法」には、結婚は男女の間でなされる契約で、結婚結納金(マハル)も離婚のマハルも、男が支払うように定められている。
 このしきたりは、イスラム勃興以前からの女上位から出たとする説があるが、クウェートの事務所に勤めるインド女性から、結婚の結納金を貯めるために出稼ぎに来ていると聞いたのを重ねると、世界のあちこちにある慣習・制度と考えられる。
 離婚のマハルが、結婚のときよりはるかに高額なのが一般的とかで、子供をはぐくむ女性の離婚保険か社会保障制度の観がある。
 クリスチャンのユーセフでも、アハラムのようなムスリム女性と結婚するにはマハルが必要なのだろうか。しっかり稼げるよう応援してやりたいものだが、社会主義的なバアス党政権はイスラム法の履行を否定しているかもしれない。
 アハラムに訊ねるのは憚られるので、パーティでそれとなく父親に聞いてみることにしよう。
「クルアーン」の規定「四人妻」は、男性たちから羨望と好奇の目でみられているが、この啓示の背景には、ムハンマド時代にイスラム迫害のメッカ商人との戦いで急増した未亡人・孤児を救済する目的があったようだ。
それは、ムハンマド側が負けて多数の男らが戦死した、六二五年のウフドの戦いの直後に啓示を聞いたとされることからも推定できる。
 今では一夫一妻制のムスリム国家も多く、そうでなくても、一夫多妻の数は極めて少ないのである。
 クウエートの高級住宅地に、まったく同じ設計の住宅が四軒並び、それぞれのガレージに高級ベンツが納まっているのを見かけるが、独身貴族を謳歌しているクウェート人エリートのサビーハ(第2回を参照)に言わせると、一人の女でもたいへんなのに、四人もの妻と契約して、平等に満足を与えるなんて、狂気の沙汰ですよ! だ。
 それを聞いたユーセフが、クッ、クッと含み笑いをしながら言った。「ホントに、バカゲてます」
 私の英語を、アハラムは分かっただろうか……。
                                                   (続く)


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2010/04/15 14:52 2010/04/15 14:52

アラブと私 
イラク3千キロの旅(27)
 
                                               松 本 文 郎 
 
  「イラク3千キロの旅」のバグダッドの第一日目は、朝方の夢に現れて半年ぶりに再会したアハラム嬢と妹のジャミーラを新車のトヨペットクラウンに乗せた、「サマーラの塔」への郊外ドライブだった。

 一九七一年当時のバグダッドでは、まだ、荷車を引いたロバが目につくなか、日本製小型トラックやアメリカの大型乗用中古車が、砂埃をあげて走っていた。トラックの荷台後部に「トヨタ」などのブランド文字をバグダッドで見て嬉しかった。クウエートのタクシーはほとんどベンツだったが、あのころから、日本製の車もサンドストームにつよくて比較的安いからか、かなり人気があった。日本国内では、高度経済成長の波にのった自家用車ブームが始まりかけていた。昭和二十七年の高校修学旅行の東京で、歩道脇に駐車していたピカピカのアメリカ車と一緒に写真を撮ってもらったのを思い出す。
 大学のころは、外車に乗った湘南ボーイが女の子をドライブに誘う映画のシーンをまぶしい目で見たものだ。時間差はあるが、イラクの若者たちも同じように、打ち寄せる自動車文明の波を見つめているようだし、アハラム姉妹はトヨペットクラウンのドライブに、とてもごキゲンだった。

 バグダッドへの帰る車の中で、その日に招かれているホームパティーの話題にと、エルサレム攻略とバビロン捕囚に因むオペラ「ナブッコ」やムスリムの日常生活の規範デアル「クルアーン」の成立過程など、いささか堅い話をつづけてしまった。
 はやくホームパーティーの場面に筆をすすめて、アハラムの家族のことを書きたいが、「クルアーン」の女性に関する規定へのアハラムの考えだけはぜひ聞いておきたいので、もう少し我慢しよう。

 ここでも、アハラムから聞いたことを軸にして、グーグル掲載のウィキペディアや関連記事の知見をまじえて記述する。「イスラーム入門シリーズ」の『イスラムの女性観』「アッサラーム」誌からの中田香織さんの引用記事、片倉もとこ著『イスラームの日常生活』(岩波新書)などは、多くの日本人(にかぎらないと思われる)にみる「イスラム女性観」への誤解を解いてくれる。
 それぞれからの示唆に感謝したい。
 そして、ちょっと道草。昨日報道されたグーグル検索の中国撤退は、中国自身にとって大きな損失になるのではなかろうか。
 グーグルの中国版では、中国当局が望まない検索結果の表示を自主的に解除する「自己検閲」をかけていたそうだが、中国当局はなぜ、撤退に追い込んでしまったのか。
 今日、二○一○年三月二十五日の報道では、中国メディアを管理する共産党中央宣伝部が、人民元の切り上げをめぐる対中批判や食品安全事件など十八の分野の報道・独自取材を禁じる通達を報道各社に出していたようだ。

 人権問題やチベットなど少数民族問題で他国から声高な批判をするのは、見方によっては、内政干渉にもなろうが、問題は、グーグル検索でグローバルな情報を瞬時に得る便宜を享受した中国の人たちが、どんな反応を示すかだ。
 情報革命の結果も寄与してベルリンの壁が崩壊したのを中国政府が危惧するのは分からないでもないが、グローバル・インターネット時代の人びとが求める情報を押さえ込むことは不可能ではないか。
 世界第二位の経済大国目前の中国が、懐の大きさを見せ、オバマ政権と呼応しながら、人類社会全体の繁栄と平和の実現をめざすことを切に望みたい。

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 それにしても半年前、ガルフ・ホテルで出会ったアハラムを、クウエートの金持ち目当ての若い娼婦ではないかと勘ぐったのは、赤面のいたりだった。四十年経った今でも、恥ずかしく思う。彼女の容姿に、エジプトの王妃ネフェルティティの浅黒い肌と魅惑的な黒い瞳、ジプシーのカルメンのような情熱を感じて、勝手な想像(むしろ妄想)を逞しくした私は、若かった。
 アバイヤ(黒い大きな布)を頭から被ることなく、日本でも流行っていたミニスカートから伸びる脚を惜しげもなく見せている彼女と、少女とはいえ、超ミニのワンピースのジャミーラは、いったいどんな家庭の子女なのかと訝る私に、ムリはなかろう。。

 アハラムに父親のことを訊ねると、工業学校を出てから祖父が営んでいた建設業を継ぎ、学校などの公共的な建物をメインに請け負っているという。
 一九二六年生まれの彼は、小学二年の息子と一年の娘がいる三十七歳の私より八歳年上の働き盛り。

 イラクを版図に収めていたオスマン帝国を破ったイギリスが、イラク王国を委任統治で誕生させたのが一九二一年だから、アハラムの祖父は、オスマン帝国による中央集権化の時代にバグダッドで生涯を送ったのだ。
 この一家には、バビロン王国の都でバベルの塔や空中庭園の建設にかかわった先祖がいたかもしれない、と子供じみた想像をしてみる。
 スンニー派ムスリムの祖父らは、「クルアーン」に書かれている生活規範を家族で真面目に守っていたようだが、一九四一年の反英軍事内閣の成立、一九五二年のバース党イラク支部の設立を経て、イラク近代化をめざす世相が濃くなり、共和政革命が一九五八年に成功してからは、社会や生活の西欧化が急速にひろがりはじめたそうだ。
 アハラムが生まれたのは、バース党のイラク支部ができたころで、この党が政権をとったのが、高校二年ときだという。
 ユーセフによる「バース党」解説を記しておく。「バース」(アラビア語の発音はバアス)とは「復興」を意味し、イギリスなど西欧によって線引きされたアラブ国家群を解体して、アラブ人による統一国家「アラブ連合国」の建国をめざしたアラブ社会主義復興党の略称になった。

 その起源は二十世紀当初で、シリアのミシェル・アフラク(思想家)が基本的な政治信条をつくり、インテリゲンチャや少壮の将校らの限られた階層の集団だったが、第一回党大会をダマスカスで開催。一九五十年代後半、シリアを本拠にイラク、レバノン、ヨルダン、イエメンに支部を置いた。しかし、イラク・バアス党がシリア・バアス党の指導を嫌い自主独立の道を選んで離脱したので、レバノン以外の国々はイラクに従ったという。「単一のアラブ民族、永遠の使命を担う」の綱領を掲げ、「統一」「自由」「社会主義」の実現をめざした一連の思想を「バアス主義」と呼ぶそうで、去年の夏に急逝したナセルの志もそうであったろう。
 
 オスマン帝国や西欧列強に支配されていたアラブの国々のバラバラな存在を統一し、かっての栄光を取り戻そうとしたナセルと志を同じくするイラクのバアス党政権下の今、科学技術・教育の振興、軍事力の増強・近代化、女性の社会進出などに顕著な成果がみられ、大学・高校生などの若者に支持されていますと、イラクの未来を信じているユーセフは、誇らしげな口調で話した。
 だが、近代化途上のイラクでは仕事をしたくてもまだ給料が安く、二倍近く稼げるクウエートに出稼ぎしているのだと、付言するのを忘れなかった。

 アハラムの「女性観」に戻ろう。
 アハラムは、「母親は、実家での育ち方と祖父母と暮らした影響か、かなり保守的な考えに従って日常を過ごしていますが、欧米的なライフスタイルへの私たちの憧れに口出しをしないのは父親と同じです」と、声が弾んでいる。
 高校を出てから時折やってくるクウエートには、バグダッドよりも新しいファッションの衣服や靴があって、このワンピースもそうなの、とにっこり。
 公共施設の建設請負業の父親が、発注側の役人と家族への贈物をクウエートで物色しているかと思うのは、下衆の勘ぐりだろうか。

                                                           (続く)



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2010/03/30 16:33 2010/03/30 16:33

アラブと私 
イラク3千キロの旅(26)
 
                                      松 本 文 郎 
 
 ムスリムで啓典(キターブ)と呼ばれるものは、神が預言者を介して人類の各共同体に下した啓示を記した教典のことである。
 第一の聖典クルーアンには、ムハマンド以前の預言者たちに神が下した啓典があると書かれており、モーセに下された「モーセ五書」、ダビデに下された「詩篇」、イエスに下された「福音書」をクルアーンに並ぶ四大啓典と位置づけている。クルアーンには、「旧約聖書は「完全無欠」、新約聖書は「真理を照らす光」とあり、クルアーンだけでなく、聖書も読めと薦めている箇所もある。さらに、「ユダヤ教徒もキリスト教徒も天国へ行く」と書かれ、今のイスラム教徒にみるイスラムを他の宗教よりも上位に位置づける思想はなかったとの、ユーセフの話にはおどろいた。
 ところが、現在のイスラム圏のいくつかの国では、聖書は禁書とされており、その始まりは、イスラム教のかなり初期にまで遡るようだ。         
 ムハンマドの没後、イスラムが支配権を確立してから編纂された第二の聖典ハディースには、「聖書が正しい」というクルアーンの言葉がいっさい引用されていないという。それには、ユダヤ人がムスリムに改宗しないばかりか、ムハンマドを嘲笑したりしたので、ムスリムとユダヤ教徒との関係が悪化した背景があると考えられる。
 第二の聖典に、「聖書よりもクルアーンが優れている」「ユダヤ人から聖書の話を聞いてはならぬ」との記述があるのは、ユダヤ教との関係が険悪になってきた現われだろう。
 ムハンマドがメッカで大衆伝道を強力に進めて、クライシュ族からの迫害を受け、メディナへ遷都した時期のクルアーンが、旧約・新約聖書の天地創造のような物語性を重視せず、説話的な内容になっているのもユダヤ人の反発を招いたかもしれない。
 クライシュ族やユダヤ教徒に対抗して、イスラム共同体を形成しつつあったムハンマドが、信徒の生活に深く介入し、きわめて政治的な内容の啓示を、神から下されたとするのも、時代状況の反映だ。
 注目すべきは、ムハンマドの著述ともいえる第一聖典が、ルーツを同じくするユダヤ教、キリスト教との優劣に言及していないことである。
 ムハンマドは、己に天啓を下した唯一神「アラー」が、モーセやキリストと契約を結んだ神と同じだと感じていたのではないか。
 ウィキペディアには、現在のムスリムの宗教多元主義論者らは、「ムスリムはクルアーンを天啓として尊び、キリスト教、ユダヤ教ほか他の宗教は、それぞれの天啓を尊べばよく、天啓に優劣はない」と主張しているとの記事もある。
 第一聖典クルアーンの原典に近いこれこそ、神が、モーセ、キリスト、ムハンマドらに下した天啓ではないか、と私は考えたいのだが……。
 ユーセフとアハラムから聞いたコーランの話が、ウイキペディアの記事にのめりこみ、かなり脱線してしまった。
 再三の道草だが、アラブ民族のムスリムが台頭した時代とそれ以前の歴史を辿ることは、現代アラブ人の考え方や日常の生活習慣を理解するのに大切と思われるので、さらに続けさせていただく。
 
 それにしても、「クルアーン」について、私たちは大きな誤解をしているように思われる。
 9・11が起きたとき、「目には目を、歯には歯を」がクルアーンに書かれているとして、アメリカ的な文明社会への野蛮な攻撃を仕掛けたイスラム教徒のゲリラを非難をする論者がすくなくなかった。
 しかし、この文言は、クルアーンよりも三千八百年も以前の、世界で二番目に古い「ハンムラビ法典」(古代バビロニアのハンムラビ王朝[前一七九二―一五九五年」で発布)にあり、同様の記述が、旧約・新約聖書の福音書にもあることを指摘する論者もいたし、この法典の趣旨が、犯罪に対して厳罰を加えることを主目的にしていないとの指摘もあった。(5)では、古代バビロニア時代の『ギルガメシュ叙事詩』の大洪水物語と旧約聖書の「ノアの箱舟」との類似性について、三笠宮崇仁著『文明のあけぼの』を引用している。
 古代バビロニアは他民族国家で、多様な人種が混在する社会の秩序維持に、司法制度は不可欠だった。「何が犯罪行為であるかを明らかにし、それに対して刑罰を加える」のは、現代司法制度の先駆をなすもので、刑罰の重さを理由に悪法ときめつけることはできないのではないか。「目には目を」が適用されるのは、あくまで対等の身分同士だが、奴隷階級でも、一定の権利を認め、条件をつけて奴隷解放を認める条文さえがあったという。
 世界宗教が出現するよりはるかに遠い時代の王国の社会規範「ハンムラビ法典」を取り入れた旧約・新約聖書を信仰するヘブライ人が、この法典を揶揄したり、彼らの「男尊女卑」の観念が、女性の権利を制限したセム系民族(ユダヤ人・アラビア人など)の慣習につながっていることは、ほとんどの日本人に知られていない。
 脱線ついでだが、戦後の日本国憲法で明記された男女平等のような条文が、アメリカ憲法には未だにないことを、筑紫哲也氏の遺言的な著書『若き友人たちへ』で知り、女日照りの西部開拓時代に発したいわく付きのレディーファーストや一部のキャリアウーマンの活躍にもかかわらず男社会がつづく米国の現実に、他国の人権問題を声高に揶揄する傲慢さを感じた。「やられたら、やりかえせ」で、報復を認める野蛮な規定の典型と解されてきた「ハンムラビ法典」は、倍返しのような報復を禁じ、同等の懲罰にとどめ、報復合戦の拡大を防ぐ、刑罰法廷主義が本来の趣旨だったらしい。刑法学においても、近代刑法に至る歴史的に重要な規定とされるゆえんだが、ブッシュ大統領の見当違い(または故意による)に基づく過剰な報復合戦は、どんな法的根拠で行われたのだろうか。
 ユーセフやアハラムたちが、今日のイラクの悲惨な状況に直面するとは思いもしなかった私は、今、彼らの無念さに想いをはせながら書いている。
 四千年も前の法典のあとがきには、「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」の文言で、社会正義と弱者救済を法の原点とすることを明記してあるそうだが、これから人類社会がめざすべき理念ではないだろうか。
 古代イスラエルと原始ユダヤ教の教義に、「奴隷を使役する権利は、神に選ばれた民族だけが有する」とあるというが、選民思想のナチス・ドイツによる「ユダヤ人狩り」を受けたのは、人類社会の歴史的アイロニーなのだろうか……。 

 ユーセフは「聖書」、アハラムは「クルアーン」について知っていることを話してくれたが、二人の信仰の度合いは、あいまいなままの会話だった。
 アハラムの話は、学校で教えられた「クルアーン」は、ムハンマドに下された天啓を歴史的に受け継いできた第一聖典だけど、ムスリムの日常生活で根本的なものとされるのは、ムハンマドの言行の伝承の「ハディース」(スンナ)だということだった。
 ただ、「クルアーン」に次ぐ第二の聖典ハディースは主として口伝のために、伝え間違いを生じたり、後の時代に書き換えたり、加えたりされているとも話した。
 一九七○年頃の若いアラブ女性アハラムが、いちばん気にしていたのは、クルアーンの女性関連規定の「男女平等」「隔離」「ヴェール」「一夫多妻」などだった。西洋近代の視点からは女性差別と見られている、今のアフガンやイランの女性の人権状況とも関わるので、、アハラムのイスラム的な日常生活の話と一緒に、次回で書くことにしたい。
                                                  (続く)


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2010/03/18 12:26 2010/03/18 12:26

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アラブと私 

イラク3千キロの旅(25)

 

                                                                       松 本 文 郎 

 

サマーラの塔から下りてくる途中、アハラムが、王妃のために「空中庭園」を造ったネブカドネザル2世のような男性に出会いたいと言ったことから、史実にちなんだエルサレム侵攻と「バビロン捕囚」を戯曲化したオペラ「ナブッコ」が飛び出した。

預言者ムハンマドから千二百年も昔の故事だが、登場人物へのアハラムの反応で、彼女の人となりも分かってきて、話題にしてよかったと思う。

ナツメヤシの並木の影が、長くなっている。

チグリス河畔に車を停め、枯れ葦で焼き上げた鯉を堪能した、ピクニック気分のランチだった。

アハラムとユーセフが、眠気眼のジャミーラを車に乗せる間に、店の主を呼んで勘定を済ませた。

バグダッドへ戻る車の後の席で、私の肩にもたれて眠りこんだジャミーラを起こさないような小声で、二人に聞いたコーランとイスラムの生活習慣の話を、最近のウィキペディアの記事で補強しながら、記しておこう。

 

[コーラン(クルアーン)]について 初めに書いておくと、二人に話を聞いたときの私は、コーランと聖書との関係がそんなに深いものとは知らなかったのである。

 偶然にも、ユーセフがクリスチャン、アハラムがムスリムだったので、二つの聖典の関わりと違いが分かったのだ。

また、ウィキペディアには、日本で「コーラン」と呼ばれてきたこの聖典が、最近ではアラビア語の発音により近い「クルアーン」と表記されることが多いとあるので、以後、それに従うことにする。

 

(10)の後半に書いているように、「クルアーン」は、メッカの商人ムハンマドが四〇歳(六一○年)の頃、郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していたある日、大天使ガブリエルが現れて彼に託した第一の天啓(啓示)に始まるとされる。

 ヘブライ語で「神の人」を意味するガブリエルは、聖書に出てくる大天使の一人であり、旧約では預言者ダニエルに歴史を解明し、新約では洗礼者ヨハネにイエスの誕生を告知したとある。

 ムハンマドは、「神の言葉」をキリストの使徒から、アラビア語で伝えられたというのである。

イスラム教はキリスト教の延長線上にあるのだ。

 こうした天啓は、ムハンマドが亡くなるまで何回にも分けて下され、彼自身と信徒たちの記憶と口伝で伝承されていた。

 でも、ムハンマドから直接の口伝を受けた教友が亡くなりはじめたので、文字化され書物の形にした「ムスハフ」がつくられた。

 しかし、イスラム共同体全体での統一した文字化でなかったため、伝承者による恣意的な変更や伝承過程での混乱が生じはじめ、第三代の正統カリフ・ウスマーンが今に伝わるクルアーンの正典編纂を命じ、ウスマン版と呼ばれる標準クルアーンが生まれたのは、六五○年頃である。 

 このウスマーンの功績は、ムハンマドの後継者をめぐるイスラム共同体の権力抗争のあらましと共に、(11)の冒頭に書いている。

 ウスマーン版以外の「ムスハフ」は焼却されたので、イスラムの聖典には今までのところ偽典・外典の類は発見されていないとされる。

 キリスト教でも、「はじめに言葉ありき」とあるが、神がムハンマドを通じてアラブ人に神の言葉を伝えたクルアーンは、聖典の内容・意味、言葉そのものすべてが神に由来し、それらを信じるのがイスラム教信仰の根幹とされるのである。

「イスラム」とは、「神への服従」の意である。

 キリスト教では、マリアの処女懐胎やキリストの蘇りなどを神が現した奇跡とするが、ムハンマドを神の子ではなく、人間の預言者だとするイスラム教では、神の言葉がムハンマドを介して地上に伝えられたこと自体を、神がもたらした奇跡としている。

 クウエート着任から毎日の早朝にモスクから流れてくるクルアーンの詠唱は、覚めやらぬ耳にとても心地よく、また寝入ってしまうほど……。

抑揚のない旋律と単調な響きなのに、キリスト教のグレゴリア聖歌や仏教の声明にも通じ、えも言えぬ天上の楽の音と感じたものだ。

 横隔膜をつかって強く吐き出されるアラビア語に、風土に由来し、私たちには耳慣れない発音もあるが、朗朗と詠唱される「クルアーン」に音楽的な愉悦を感じるのは、モスリムに限らないと思われる。

 また、クルアーンは、アラビア語圏の文学として第一級品とされ、文章の意味をあまり理解できない者でも、アラビア語の美しさに惹かれて改宗するというのも、分かる気がする。

 アラビア語は、語彙の豊かさが特徴とされ、一つの事象を表す言葉の数が、驚くほど多いそうだ。

日本語も、四季の情景描写や人情の機微を表現するこまやかで、豊かな語彙を駆使して、世界最初の文学とされる「源氏物語」や随筆「枕草紙」を生んだことで、アラビア語と言語感覚の類似性があるのかもしれない。

 詩の力をもつ言葉で書かれたクルアーンは、一一四の章(スーラ)と各節(アーヤ)で構成されているが、各章は、ムハンマドに下された一つひとつの天啓である。

 天啓は、イスラム共同体がメッカからメディナに移ったヒジュラ(聖遷・六二二年はイスラム暦元年)を境にして、メッカ啓示とメディナ啓示に分かれ、章立ては時系列の順ではなく、長い章から短い章に向っている。

 第一の天啓をふくむメッカ啓示の内容は、唯一神への信仰や終末への警告など宗教的情熱を伝える点が特徴的で、ムハンマドのアラーの言葉への畏怖の念が強く出ているという。

 メッカ啓示で信仰的信条に関する啓示が伝え終えられたあと、イスラム教がメディナで急速に広まり、イスラム共同体が強固に形成されはじめてからは、人々に信仰をうながすような啓示が多くなる。

 メディナ啓示では、共同体の法規定や信徒の社会生活に関するものが多い。

 アハラムが言うには、親以前の世代のような信者ではないが、クルアーンはイスラム教徒が守るべき生活の規範で、神の言葉を信じ、言行一致させようとする信仰だそうだ。

 クリスチャンのユーセフも、それほど熱心な信者ではないですがと笑いながら、神の愛に、罪深い人間の救済を祈り、神・キリスト・聖書(三位一体)を信じるのがキリスト教徒だと言う。

二つの世界宗教はルーツは同じでも、ずいぶんと異なる宗教文化を形成してきたものだ。

 左肩にもたれていたジャミーラの寝息が止まり、身をすべらして私の膝に顔を俯けた。

支えるためにこわばっていた肩が楽になったが、鼻孔に、疎開先の学校で机を並べた小6・少女の、陽にさらした髪の匂いが立ちのぼってきた。

 半年余り、独りでフラットに住んでいる身には、かなり気になるが、二人との話しに戻ろう。

 

[クルアーンと聖書]

 この『アラブと私』を書く動機のひとつに、いまも続くユダヤ教・キリスト教とイスラム教の確執の歴史を学びながら、ルーツが同じ始祖たちによる、愛と平和に基づく人類社会の連帯への諭しの検証を試みたい想いがある。

 南回りの飛行機で二十一時間もかかるクウェートにやって来た私が、アラブの男女二人に出会い、互いの宗教の話をしているのも、不思議な縁である。

 いましばらく、硬い話を続けさせていただく。

                                                 (続く)


NABUCCO´S "VA PENSIERO SULL´ALI DORATE"

2010/03/05 16:05 2010/03/05 16:05

アラブと私 
イラク3千キロの旅(24)
 
                               松 本 文 郎
 

 さて、オペラ「ナブッコ」では、新バビロニアの南ユダヤ国侵攻と多数のユダヤ人の強制連行の史実が、創作された複雑な人間模様と祖国への望郷の想いの背景に過ぎず、観衆にうけたのは、イスラエル人の捕囚たちがユーフラテス河畔で祖国への想いをこめて歌う「行け、わが想いよ」だったのである。
 イスラエルとパレスチナの問題は、イラクの旅を終えてクウエイトに帰ってから、しっかり記述することにして、話を元に戻そう。
 
「ところでオペラではナブッコの名前になっているネブカドネザル2世だけど、物語の筋書きでは史実とは逆の設定になっているんだよ」
「ナブッコを」ご存じない読者のために、アハラムたちに話したオペラの登場人物とあらすじを記しておこう。

【登場人物】
ナブコドノゾール王(ネブカドネザル2世)
イズマエーレ(エルサレム王ゼデキアの甥)
ザッカリーア(ヘブライ人の大司教)
アビガイッレ(ナブッコ王と女奴隷の間の子)
フェネーナ(ナブッコ王と正妻の間の子)

【第一幕】
・ナブッコ王と勇猛な王女アビガイッレに率いられた新バビロニア王国の軍勢がエルサレムを総攻撃しようとしている。
・狼狽するイスラエル人たちにザッカリーアは言う。「こっちは、ナブッコ王の娘フェネーナを人質にしているから安心だ」
・フェネーナとイズマエーレは相思相愛の仲だが、アビガイッレもイズマエーレに想いを寄せている。
・ソロモン神殿を制圧したアビガイッレは、「自分の愛をイズマエーレが受け入れれば、民衆を助ける」と告げるが、彼はそれを拒絶する。
・ナブッコ王が神殿に現れ、ザッカリーアが人質のフェネーナに剣を突きつけ、軍勢の退去を促したが、イズマエーレがフェネーナを救おうとしたので失敗。
・イスラエルの民衆はイズマエーレの裏切りを非難し、勝利したナブッコは町と神殿の完全な破壊を命じた。(史実に基づいているのは第一幕とイスラエル人の首都バビロンへの強制連行だけ。あとは、旧約聖書の記述に拠るかオペラ台本の創作である)

【第二幕】 
・女奴隷の子の出自の秘密を知ったアビガイッレは、ナブッコ王がフェネーナに王位を譲ろうとしているのに激しく嫉妬する。
・バビロニアの神官らは、「フェネーナが捕囚たちを解放しようとしている。ナブッコ王が死んだ虚報を流すので、王位を奪ってほしい」とアビガイッレを焚きつける。
・ザッカリーアは、神殿と祖国、民衆の信仰心復活を祈る。イスラエル人たちはイズマエーレの裏切りを詰問するが、ザッカリーアは「今や、フェネーナもユダヤ教に改宗した」と告げ、二人をかばう。
・アビガイッレと神官たちが現れ、フェネーナから王冠を奪おうとしたとき、死んだはずのナブッコ王が登場。「自分は、今や神だ」と誇った驕慢さが神の怒りにふれ、頭上に落ちた雷で精神錯乱に陥って、アビガイッレが王冠を手に入れる。

【第三幕】 
・玉座のアビガイッレが、異教徒たちの死刑命令をつくり、力を失ったナブッコに玉璽の押印を求める。
・ナブッコは、改宗したフェネーナも死刑になるのを知って、アビガイッレに取り消しを懇願するが、彼女は聞かない。
・イスラエル人の捕囚たちが、「行け、わが想いよ。黄金の翼に乗って」を歌う場面は、ここだ。
・ザッカリーアは、新バビロニアの滅亡と最終的なの勝利を予言して、人々を勇気づけようとする。

【第四幕】 
・監禁されているナブッコは神に許しを乞い、忠臣たちは彼を救出する。
・ナブッコは、フェネーナを助け、王位を取り戻すことを誓う。
・イスラエル人が処刑されようとした時、ナブッコが登場して、バビロニアの神々を祀った祭壇の偶像破壊を命ずる。
・ひとりでに崩壊した偶像を見て神の奇跡を信じたナブッコは、異国の神エホバ(ヤハウェ)を讃え、イスラエルの民の釈放と祖国への送還を宣言して、群集はエホバ賛美に唱和する。
・形勢不利と見たアビガイッレは服毒し、ナブッコとフェネーナに許しを乞いながら息絶える。
・ザッカリーアがナブッコを「王の中の王」と讃え、幕が下りる。
 
 聞き終わったアハラムが、解せない顔で呟いた。
「ネブカドネザル2世は、メディアから嫁いできた王妃アムティスのために「空中庭園」を作らせた王なのに、オペラでは、どうして女奴隷に子供を産ませたりしたのかしら?」
「ネブカドネザル2世が王妃を愛していたとしても、タジマハールを造ったシャー・ジャハーンのように、権力者には側室がいたり、ハーレムもあっただろうからね。それにしても、アハラムは案外と純情なんだね。ただ、ネブカドネザル2世がユダヤ教に改宗するという筋書きは、荒唐無稽だと思うね」と私。
「いまどきの若い女性のアハラムには、不倫のように思えるのでしょう。唯一神のユダヤ教成立以前の宗教はみんな多神教でした。キリスト教文化を基盤とするヨーロッパ人が、新バビロニア国王がエホバのユダヤ教に改宗したとする物語を創作した意図は、私には分かる気がします」 キリストの祖先の一人ヨセフに因む名をもらったユーセフらしい反応だった。
「それにしても、王女が人質にとられた国の王の甥に恋し、異母姉妹が恋敵になる筋書きは、いかにも、オペラらしい人間模様の展開だよね。アハラムは、外国の近代小説なんかを読んでるのかい?」
「本屋に、輸入された英米の雑誌や小説がありますが、私の英語では読めません。Mrマツモトは読むのですか?」
「うん。アメリカの現代小説は、英会話の勉強にはもってこいなんだ。ところでアハラム。Mrなんてやめて、「フミオ」の名で呼んでくれていいよ」

ウィキペディアの「ユダヤ教」に拠ると、バビロン捕囚の五十年間、政治・宗教のエリートのほとんどが異郷バビロンの地での生活を強いられ、王国も神殿もない状況に置かれた結果、イスラエル民族の歴史を根本的に見直すことになった。
 民族神ヤハウェへの深刻な葛藤と省察のあとで、国はなくてもユダヤ教団として生きる道を選ぼうと、大胆な宗教改革が行われた。
 圧倒的な政治・経済を誇る異教の地バビロンで、「ヤハウェこそが、世界を創造した唯一の神だ」とするイスラエル民族のアイデンティティを確立した。
 バビロン捕囚の終焉の始まりは、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝のペルシャ帝国皇帝キュロス2世(大キュロス)の寛大な政策による、祖国への段階的帰還からだった。
 ユダヤ人としてのアイデンティティを確立した彼らは、エルサレムの復興、教典の編纂、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)の再建など、イスラエル復興への活動に力を尽くした。
 現代のイスラエルは、新バビロニア王国があったバグダッドの原子炉を奇襲の空爆で破壊し、かって屈辱の捕囚から開放してくれたペルシャの末裔たちイランとは、核攻撃も辞さないほどの敵対的関係にある。
 
 英語とアラビア語が行き交う三人の談論がつづく
傍らではいつのまにか、満腹したジャミーラが椅子の背にもたれて眠むりこんでいた。
 今夕のホームパーティの話題にしたい、イスラムの生活習慣やコーランの教えなどは、バグダッドへ戻る車の中で、アハラムに訊くとしよう。
                    
                                   (続く)




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2010/02/23 10:24 2010/02/23 10:24

アラブと私 
イラク3千キロの旅(22)
 
                  松 本 文 郎 
 
 人と親しくなるには食事を共にするのが一番、が古今東西の知恵のひとつだと再認識したチグリス川畔のアウト・ドア・ランチだった。
 育ち盛りで食欲丸出しのジャミーラが、枯れ葦で焼いた鯉をホベツで包み、黙々と食べている横で、スリムなアハラムは、体型保持のダイエットなのか少食で、もっぱらお喋りを楽しんでいた。
 丸いテーブルの大皿を囲んで談笑している四人に、英語とアラビア語が入り混じった会話が飛び交い、思いがけず、アハラムが好奇心旺盛で、話し好きな女性だと分かってきた。
 ジャミーラは、会話には加わらないものの、あらかた理解できているらしく、笑ったり、頷いている。
 メインディッシュの鯉を平らげ、デザートを注文するとき、女性たちと車の運転をするユーセフへの遠慮から我慢していたビールを、デザート代わりに注文した。
 五十米の塔の上り下りで喉が渇いていたせいか、よく冷えたビールが実にうまい。
 テーブルについたとき、四人の辺りに落ちていたナツメヤシの影が、いつのまにか動いているのに気がつく。太陽が、かなり移動していたのだ。
 よく歩いたほどよい疲れで、ビールの回りが早い。
 ほろ酔い気分から、アラビアンナイトの夢の話に戻り、女奴隷のマルジャーナと一夜を共にするよう言われたくだりをアハラムに告白したくなったが、やはりやめておくことにする。
 彼女が、中学教科書にあったと言った「空中庭園」の話の続きにしようと、「ところでユーセフ。サマーラの塔で空中庭園の話をしたけど、工科大学の講義では、なにか教わったのかい」それには応えずに、ユーセフは、「アハラム。あんな素晴しい庭園をプレゼントしてくれる男性に出会いたいと言ったよね」「いまの時代ではムリでしょうけれど……」アハラムは、ユーセフの顔をじっと見た。
「メソポタミアのチグリスとユーフラティスの肥沃な土地に輿入れした王妃アムティスがバビロンの気候に慣れず、夫の王に慰めてもらうほど、メディアは住みよかったのでしょうか」と、またアハラム。
「ボクが京都大学の村田教授の講義で聴いたのは、バビロン宮殿の中に造成した縦横一二五米の基壇の上に、五段階層のテラスを高さニ五米に造って土を盛り、川から汲み上げた水で、様々な植物を育てたという伝承だった」
 名称の由来は定かでないが、樹木や花々が植えられた階段状のテラスの間を水が流れ落ちる巨大構築物で、遠くから眺めると、あたかも空中に吊り下げられているように見えたからとの説がある。 
 ネブカドネザル2世が、王妃の故郷に似せたとされる緑豊かな庭園には、観賞用の植物だけではなく、野菜や香辛料も植えられていたという。
 この素晴しい庭園に配る水を、どうやって最上部まで汲み上げたかは、いまでも謎とされている。
 一説に、五つの階層ごとに大型の水車を設けたとあるが、そんなに大きな水車を人力で回せたのか、容易にイメージすることはできない。
 最初の「世界の七不思議」に選ばれたこの庭園は、「架空庭園」「吊り庭」とも呼ばれたそうで、紀元前五三八年、ペルシャ軍よるバビロニア帝国の征服で破壊されたが、遺構の場所は推定位置しか分からないそうだ。
 建築土木の工務店を営んでいるらしい父親の娘だからか、アハラムは、バベルの塔、都市バビロン、空中庭園などの建造物の話を興味深そうな顔をして聞いている。
 夕方からのホームパーティの格好の話の種になるだろうし、クウエートでの建築工事を話題にしたがりそうな父親の機先をそぐことができるだろう。
 半年ちょっとのクウエート在勤でも、何度かは、ホームパーティに招かれていた。
クウエート人エリートのサビーハ邸での乱痴気パーティはともかく、建築スタッフに雇用しているイラク・インドのエンジニアやエジプト人の建築家(郵電省建築顧問)ボーラスの家庭にである。
 ベイルートやカイロなどの観光地に比べ、映画やショッピングくらいしか娯楽や楽しみのない砂漠の都市で、ホームパーティは、人と出会い、交流する貴重な場であるにちがいない。
(2)で書いた、独身貴族のサビーハ・パーティは、アラビアンナイトのアメリカンバージョンだから、固い話をする雰囲気は皆無だったが、家族みんなとの歓談では、それぞれの場にふさわしい話題を選ぶことがとても大切だと感じていた。
 クウエートに駐在している商社幹部のパーティで、招かれたアラブの客人らとの会話でも、それを痛感した。
 政治と宗教の話は避けたほうがいい、と忠告した商社の支店長もいた。
 だが、イスラム行事であるラマダーン月の断食明け・イドの休暇で旅先の私に、イスラムの日常生活を律するコーランや習慣について聞いてみたい好奇心が、しきりに湧いてきた。
 アハラムの言動に宗教的なものは感じられないが、両親がどうなのかを知っておくのもよいと思った。
 きっかけに、空中庭園を造らせたネブカドネザル2世による南ユダヤ王国の首都エルサレム侵攻と、十年後のエルサレムの破壊・南ユダヤ王国の滅亡の二度の「バビロン捕囚」は、もってこいの話だ。
 何しろこの話は、ユダヤ教とキリスト教の正典である旧約聖書に詳細に書かれている歴史的な記録であり、イスラム教の創始者ムハンマドから千二百年も前の出来事だから、あくまでも古代都市国家権力の攻防で起きたことで、宗教的なものではない。。 
「ユーセフ。クリスチャンのキミは旧約聖書にあるバビロン捕囚のことは知ってるだろうが、アハラムが、ヴェルディのオペラ『ナブッコ』を知っているか、聞いてくれないか」
 突然のオペラ話に、びっくりしたようなユーセフだが、しばらく考えてから、アラビア語でアハラムに話をし始めた。
 質問されたアハラムも、日本人からそんな質問をされるのが意外なのか、かなり驚いたようだ。
「アハラムはヴェルディという人のことは知らないと言っていますし、私も、名前を聞いたことがあるだけです。ただ、旧約聖書のバビロン捕囚は、有名な歴史的事実でよく知っていますし、アハラムも高校の歴史で習ったそうですよ」
 私は、バグダッドで「バビロン捕囚」のオペラの話ができるとは思ってもいなかったので、いささか興奮気味に、「ナブッコ」の物語をはじめた。
 このオペラを知らない日本人で、「バビロン捕囚」を知る人はほとんどいないだろう。 
 一口に言う「バビロン捕囚」は、紀元前五九七年から五八六年にかけて、中東の列強の新バビロニアが、イスラエル人のほとんどを捕虜または奴隷にして、首都バビロンへ強制連行したことである。
 ナブッコは、侵略者ネブカドネザル2世のこと。 エルサレムに侵攻して王宮やソロモン神殿を破壊し、人々をバビロンへ連行するのが第一幕だが、史実に基づくのはそこまでで、あとは旧約聖書と創作。

                           (続く)


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2010/01/12 17:03 2010/01/12 17:03

アラブと私 
イラク3千キロの旅(21)
 
                       松 本 文 郎 
 
 古代伝説の「バベルの塔」から千三百年のあとの今様「サマーラの塔」で、アハラムとジャミーラの後姿を見守りながら下りてきたユーセフと私は、、手すりのない螺旋状のスロープから足を踏み外さずに地上に立ったとき、、ホッとした顔を見合わせた。
 チグリスの川魚を焼いて食わせる店に行く途上で、現在(二○○九年)の「七不思議」を記しておこう。
 
 近ごろは、観光宣伝、遺跡保全、自然保護などの思惑でさまざまな七不思議が選ばれているようで、スイスの「新世界七不思議財団」が、二○○七年に世界中に投票を呼びかけ、二十一の候補から選定・決定したのは左記である。
 万里の長城と古代競技場のコロセウムは中世の選定のままで、インドのタジマハール、ヨルダンの古代都市遺跡ペトラ、ブラジル・リオデジャネーロのコルコバードのキリスト像、ペルーのインカ帝国遺跡マチュ・ピチュ、メキシコのマヤ遺跡チチェン・イッツアの五つが入れ替わっている。
 ギリシャのアクロポリス、パリのエッフェル塔、チリ・イースター島のモアイ、英国のストーンヘンジ、日本の清水寺などは、選に漏れた。
 二○一一年には、二回目の選出が予定されていて、二六一件の立候補があるという。
 いつの日か、、国際宇宙ステーションやドバイの超々高層ビルが選ばれることがあるのだろうか。

 バグダッドへ戻る道をしばらく走って、チグリス川の土手下にある、仮設小屋のような店に着いた。
 店の横に並ぶバスタブを覗くと、大きな魚が値札をつけて泳いでいる。ヒゲがあるから鯉だと分かる。
 ユーセフが、元気のいいのを指差して注文する。枯れ葦でゆっくり焼き上げるので時間は掛かるが美味いと言う。
 日本の川原で釣った岩魚や鮎を、集めた枯れ枝の焚き火で焼く行楽を三人に話すと、アハラムは好奇のまなざしを私に向けた。
「日本での鯉料理は、焼くよりも、鯉こく(スープ)や甘辛く煮付けるのが多いんだよ」
「普通の家庭料理なんですか」とアハラムが聞く。
「以前はネ。私が子供のころの田舎では、池の鯉が貴重な蛋白源の一つだったけど、いまでは、地方の名物料理で食べるくらいかナ」
 ユーセフが私の英語をジャミーラに通訳している。
「鯉を食べると精がつくと、病人や妊婦に食べさせることもあるよ」
 戦時中に疎開した母の実家の溜池を干したとき、泥水のなかの五十センチもある鯉と格闘して抱き上げた興奮と感触が甦った。
「ユーセフが選んだ鯉には千ディナール(千円)のタグが付いてたけど、アハラムの家では川魚をよく食べるのかい」
「ええ、船で運ばれるアラビア湾の魚も売っていますが、新鮮な川魚を時々食べます。家で調理すれば、値段はそんなに高い魚ではありません。葦で焼く鯉は、ピクニック気分で来たときに、焼けるの待つのが楽しいんですよ」
「そうかい。どこの国でも、似たような楽しみ方があるもんだね」
「千夜一夜物語」のどこかに、この枯れ葦で焼く鯉のことが書かれていてもよさそうに思えてきた。
 私は、思い切って夢の話をした。
「明け方に見た夢で、「アリババと四十人の盗賊」とそっくりの場面に遭遇したんだよ。盗賊に襲われた豪商を助けたボクとユーセフが邸宅に招かれ、歓待を受けたんだけど、宴会のたくさんのご馳走にこの焼いた鯉があったかもしれないネ」
 話のゆきがかりで、盗賊たちに油を注いだ女奴隷のマルジャーナがアハラムだった夢のあらましを、ユーセフに話す。
豪商が耳元で、「もし、マルジャーナがお好みの女でしたら、一夜を共にしてください」と告げたとは言わなかった。
ユーセフのアラビア語訳を聞いたアハラムは、「まあうれしい。そんな夢を見てくださったのね」 
 大きな黒い瞳が、キラキラ輝いている。
「チーフの夢で、私も一緒に豪商を助けたなんて」
 ユーセフもうれしそうな顔で笑っている。
「なんだか子供じみた夢で、恥ずかしいんだけどネ」
 ニコニコして聞いているジャミーラは、アリババの話を知ってるのだろうか。
「桃太郎」の鬼退治の話をしてから、ジャミーラがアリババの話を知っているか訊ねてもらった。
「だれもが知ってる昔話だワ」  
 今どきの日本の中学生に「桃太郎」のことを訊ねても、同じ答えが返ってくるのか…。
 わいわい話しているところへ、店の主が大きな銅の皿に載せた鯉をもってきて、中国料理でも主菜の鯉の丸揚げを扱うように、四人に取り分けてくれた。 キュウリ・トマト・レタスのサラダも大皿に盛られてきた。
 ほぐした鯉にレモン・オリーブ油のドレッシングをつけて食べる。懐かしい味で、実においしい。
 日本の五月のような心地よい川風が、屋外で昼食を楽しむ四人に、やさしく吹いてくる。
 クウエートで丸焼きの鶏をテイクアウトするときホベツ(うすくて丸いパン)にくるんでくれるが、その鶏の油がしみたのが旨いように、オリーブ油をつけた鯉を千切ったホベツにくるんで、口に運ぶ。
 遅い昼飯で腹が減っていたのか、みんなは黙々と食べている。
アハラムが一息つくのを見計らって声をかける。「ところでアハラム。クウエートのホテルの朝食で初めて出会ったときの私を、何者だと思ったの?」
「グッドモーニングと言われただけですから、どこの国の人か、まさか日本人だなんて思いもしませんでした」
「アハラムからチーフのことをきかれ、日本からみえた建築家だと教えました」、とユーセフ。
「へえ、ボクが日本人に見えなかっただなんてネ」
「チーフは、黙っていればアラブ人に見えますよ」
 ユーセフは真顔で言った。
「それじゃ、ユーセフとボクがバグダッドに来ると知って、アハラムはどう思ったんだい?」 
 ちょっとためらう様子のアハラムだったが、「クウエート政府の大プロジェクト・コンサルタントの偉い方と聞いて、父の仕事にとってなにかいい話があれば、と思ってました」
 いやはや、アハラムの親孝行の弁を聞かされて、ジプシーか娼婦と勘違いした助べえ根性を、完璧に叩きのめされた私だった。
「アハラム。ボクのクウエートの仕事の立場では、ご期待にはそえないのが残念だけど、お父さん思いのきみはほんとうに立派な長女だよ」
「思いがけない再会がうれしくて、つい失礼なことを言ってすみません。夕方おみえになる前に、父によく伝えておきますから…」
 女奴隷のマルジャーナ(アハラム)と一夜を共にする前に目が覚めたのが、なんとも残念だった。
「ありがとう。お父さんに会うのを楽しみにしているからね」

                                 (続く)



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2009/12/07 09:38 2009/12/07 09:38

孫の遥大らとのバリ島紀行

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2009/10/14 10:43 2009/10/14 10:43

アラブと私 
イラク3千キロの旅(18)
 
                                          松 本 文 郎 

 
 屋外パーキングに停めていたトヨペットクラウンのハンドルに手をかけたユーセフは、「さあ、アハラムに逢いにゆきましょう!」と浮きうきした口調で言った。
 どうやら、この旅を私に勧めた彼は、ラマダン明けの休みにバグダッドの遺跡を案内するついでに、、実家の母親やアハラムに逢いたかったのだろう。

 ラマダン(禁欲月)の半ば過ぎに、「イドの休暇はクウエートからどこかへ出かけるのですか」と聞かれ、ふと「アラビアンナイトのバグダッド」と冗談めいた私に、「それなら、私がご案内しますよ」と、すかさず答えたユーセフだった。
 アラビアンナイトはともかく、バグダッドを訪ねる機会への期待は、このプロジェクトへ加わるよう海外出張を発令されたときから密かに抱いていた。
 大学の西洋建築史で学んだ、古代バビロニア帝国のバビロンやササン朝ペルシャの首都クテシフォンの建築遺跡を見る絶好のチャンスである。
 着任して短期滞在したホテルへの送り迎えをしてくれたユーセフと気さくに話すなかで、私の建築家としての経歴やアラブの建築遺跡への関心などを、たびたび聞かせていた。
「なんだか、とてもうれしそうだね」と冷やかすと、「いえ、チーフがよろこばれると思って……」
 イギリスから英人妻を連れてバグダッドへ帰ったアルベアティほどではないが、ユーセフも、かなり如才がない。
「じゃあ、出発としよう。ところで、どこで彼女に逢うのかい」
「家には、夜のパーティで来るよう言われていますので、近くの公園で待っているそうです。トヨタの車でドライブしたがっている下の妹と一緒です」
 ホテルを出てしばらく走り、両側に二、三階建ての家が連なる狭い街路を通りぬける。二階から上に木造のテラスがはね出しでついており、京の町家が格子窓と軒先を連ねているのに似ている。明け方の夢の「千夜一夜」の町のようでもある。
「この辺りは旧市街地です」と地元人間のユーセフはにわかガイドになった。
 この木造テラスはスペインの住宅でも多く見られるから、イスラム文化と関係があるのかもしれない。インドや東南アジア各地にも見られるが、その起源と伝播についての講義があったかどうかは忘れた。
 前方の視野がひらけて、チグリスが大きく蛇行しているところへ来た。川沿いにナツメヤシ林や農園がつづき、大きな公園が見えてきた。
 パーキング脇の入口に、中学生くらいの細身の妹と一緒にアハラムが立っている。
 クラクションを鳴らしたユーセフが運転席の窓で手を上げると、なつかし笑顔が顔中にひろがった。
 パーキングに停めた車に走りよった二人に私は、「アッサラーム・アレイクム」と弾んで挨拶した。
「アレイクム・サラム」姉妹の心地よい声が、朝の公園に明るく響いた。 
 この「あなたに平安を」は、イスラムの人々には世界的に共通する挨拶で、人に会うたび、日に何度でも交わすのである。
 ユーセフはひさしぶりのアハラムと言葉を交わしていたが、二人はすぐにもドライブがしたいらしく、早速、サマーラへ向かうことになった。
 アハラムと私を並んで座らせようとするユーセフに、車中での会話がスムースになるからと、助手席にアハラムを並ばせ、妹のジャミーラと私は、後部シートに座ることにした。
 車をスタートさせたユーセフとアハラムが話し始めたので、私は、ジャミーラに歳をきいてみた。
 スーク(市場)で買い物するために、数をかぞえたり簡単なアラビア語のやりとりくらいはできる。
 十二歳と答えたのを聞いたアハラムが、中学一年ですと振り向いて告げた。私たちの会話をちゃんと聞いていたのだ。
 ジャミーラは物怖じしない子で、後部窓とシートの間にあるカセットデッキの音楽を聴きたいと言う。昨日から入れたままのベイルート音楽をかける。
 調子のいい軽やかな曲を耳にしたジャミーラは、シートの上に膝をつき、両手をひろげて踊り始めた。   腰をゆすりバランスをくずして、私の肩にもたれる格好になった少女は、思いがけない女の眼なざしで私に微笑んだ。
「妹は踊りが大好きなんですよ」と言うアハラムに、「あなたはどうなの」とたずねると、「妹の年頃には好きでしたが、いまはどうも……」と、前を向いたままで肩をすくめた。
「アハラムの年だと、ベリーダンスよりもチークでしょうね」
彼女をたきつけるようにユーセフが口をはさむ。
「バグダッドに踊れるところがあるの?」と私。
「ディスコがあります。モンキーダンスやチークを楽しめますよ」
「四人でいって見ようか」とアハラムを誘うように言う私に、
「モスルから戻ったときにどうですか。アハラムとジャミーラは来れるかい?」「今夜、うちのパーティで父に聞いてみてください。たぶん、大丈夫と思いますけれど……」  
 驚いたことに、クウエートのホテルではユーセフを介してアラビア語でしか話さなかったアハラムが、たどたどしくても英語で受け答えをしている。
 難しい話題はだめでも、ユーセフの通訳を経ないでアハラムと会話できるとは、実にうれしい。
クウエートのプロジェクトやイラクの遺跡などのことはユーセフの通訳でいいし、照れくさいことを彼女に告げたいときも、仲介するユーセフの反応が面白いかもしれない。
 うなじから肩への浅黒い肌を見ていると、まさに、ネフェルティティ・イン・バグダッドだと思った。
ジャミーラは中腰の踊りを無心でつづけている。
その大人びた大胆さは、二人の男を姉と張り合っているようにさえ思えてくる。

 中学一年といえば、妻のお千代に出会ったときも、ジャミーラと同じような印象に驚いたし、この年頃の少女は不良中年にだけでなく、危険な存在である。
  新しいトヨペットクラウンの車の中で、ひたすらベリーダンスに興じている少女の生暖かい体温を感じながら、一路、サマーラをめざした。サマーラはバグダッド北部に位置し、モスルへの幹線道路の途中にある。ほどなく、碩学・村田治郎京大教授の精緻な講義で学んだユニークな塔を目の当たりにできるのだ。  
  ジャミーラの不思議なお色気と念願の遺跡に出会うときめきとで、奇妙な興奮を感じる。

  九世紀、イスラム帝国時代に建てられた「サマーラの塔」は高さ五十米で、ソフトクリームの形状。  
それから遡る二千五百年余のバビロニア帝国で、ノアの子孫が建てようとした「バベルの塔」が旧約聖書の創世記第十一章に記されているという。
十六世紀の画家ブリューゲルは、塔の頂を天まで届かせようとして神の怒りで中止に追い込まれた、スパイラル状の巨大建造物を描いている。
「バベル」とはバビロン(バビロニア)なのか?
「混乱させる」という意味もあるそうだが……。  

                 
(続く)

  



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2009/09/01 13:33 2009/09/01 13:33

アラブと私 
イラク3千キロの旅(15)
 
              松 本 文 郎 
 
 度々の道草のせいか、『イラク3千キロの旅』の道中が繋がりにくいきらいがあるとの読者の声があり、前々号(13)で、ときに再読されるようにお願いしたものの、読者に不親切な言い草ではなかったか、いささか気になっていた。
 いよいよアハラムが住むバグダッドなので、彼女との再会のくだりを一気に書きたいのだが、今回は、これまでのあらましを再録し、大切な読者の声に応えることにしたい。

『アラブと私』は、バスラからバグダッドをへて、モスルにいたるイラク縦断の旅から書き始めた。
 その想いは、四十年前の若き日の体験記述にとどまらず、一緒に仕事をし、家族ぐるみの付き合いをしたアラブの人たちが二○○九年の今直面している過酷な現実を書き加えることで、当時と同じように、アラブの平和と発展を祈りたいのである。
 石油に浮かぶ国クウエイトの電気通信システムの技術コンサルタント業務に建築家としてかかわった四年間の体験を軸に、往時のアラブと今日の状況を重ねるなかで、アラブに対する私の立ち位置を確認し、「イスラム」について再学習したいのである。
 この五月、米軍撤退をひかえたバグダッドでは、爆弾テロによる多数の死者が連日報じられている。
 サダム・フセインが強権で束ねていたスンニ派・シーア派アラブ人とクルド族の三つの共同体がばらけてしまい、イラクは、もはや一国と呼べない状況だと主張する向きもある。
「イラク3千キロの旅」を始めた南部地域バスラにはシーア派が多く、中部のバグダッドは両派アラブ人、北部のモスルにはクルド族が圧倒的に多い。
これらの地域は、オスマン帝国を破って委任統治したイギリスが、イラク王国の三州としたものである。
 旅をした一九七一年は、王政が軍事クーデターで倒され、イラク共和国が成立して十三年、バース党政権成立から三年が経過していた。
 アラブ人から「アラブの星」と慕われたナセルが急死した翌年でもあり、若い私には、かのアラビアのロレンスのように、アラブ近代化に役立ちたいという客気があった。
 以下に(1)から(14)までの要点を記す。

(1)9.11後、大量破壊兵器を理由にブッシュ大統領が始めたサダム・フセイン政権撲滅の戦争をから五年。十五万人のイラク市民死者、国内外四百万人の難民が出ている惨状で、クウエイト事務所で仕事を共にしたユーセフやアルベアティの家族らは今、どこで、どうしているのだろうか。
 三十八年前のラマダン(禁欲月)明けの休日に、バグダッド生まれのユーセフとクウエイトを出発。
(2)クウエイトに近いバスラは、クラブで酒が飲め、ベリー・ダンスも楽しめる男たちのオアシス。
 クウエイトで出会った十七歳のアハラムは、正体が分からぬままにバグダッドへ帰っていった。この旅で再会できるか。「インシャーラ(神のみぞ知る)」
(3)この連載エッセイは日本ジャーナリスト会議  の矢野英典さん(「九条の会・浦安」事務局長)に誘われて書かせてもらっているが、二、三年は続く。
 世俗的イスラム・スンニ派のバース党が支配する共和国イラクの近代化途上のバスラは賑わっていたが、ブッシュ政権がパンドラの箱を開けたことで、
戦争終結から五年を経たのに、大油田の利権をめぐるシーア派同士の内戦で多数の死傷者が出た。
(4)バスラはティグリス・ユーフラテス川が合流したシャト・アル・アラブ河が流れる古代からの町。 
 旧約聖書の「エデンの園」やアラビアンナイトのシンドバッド島など神話や物語のスポットがあり、中東への影響力を保ちイラク支配を強めた大英帝国の戦略的拠点でもあった。
(5)五千年前にバスラ地域に住んだシュメル人は文字を創出。湿地の葦のペンで楔形文字を粘土板に書いた「シュメル神話」に、「ノアの箱舟」の原型の大洪水物語がある。
 その湿地帯は、サダム・フセインが湾岸戦争時にシーア派ゲリラ掃討作戦で流水をとめて縮小激化。 
(6)旨いカバーブで腹ごしらえの後。ユーセフが運転するトヨペット・クラウンでバグダッドへ。
 座席後部においたソニーのステレオ・コンポからのアラブ音楽を聴きながらユーフラテスを北上。
 川の写真を撮っていて警備兵の検問を受ける。
 この川は、ノアの箱舟、メソポタミア成立、アレキサンダーのペルシャ征服、イスラムのバグダッド攻略、モンゴル侵入、オスマン帝国の支配・敗退など、さまざまな民族・文明とかかわってきた。
(7)砂漠の幹線道路の高速運転は危険がいっぱい。ユーセフの腕とBGMに身をまかせ、眠りこむ。
 目覚めて、アハラムのことを話しているうちに、サマーワへ着いた。トイレ休憩に寄ったあの町が、三十数年後、小泉首相が決めた陸上自衛隊の駐留で憲法九条の問題になるとは思いもしなかった。
 この地のシーア派住民は、国連の経済制裁下でのフセイン政権に見捨てられていたとされる。
(8)ここまでは、ワープロの文章をMSーDOSに変換して入稿してきたが、編集・印刷の便利さからワードに切り替えるため、安いパソコンを購入。ケイタイもメールもやらないアナログ人間の適応。
 夜間走行に入って、交通事故の現場に遭遇する。シーア派の聖地カルバラに埋葬する遺体を運ぶ車が事故に巻き込まれていた。
(9)サマーワで仕入れたパイ菓子のクレーチャとペプシコーラで、走行しながらのエネルギー補給。
 砂漠の中の一本道で雷雨の直撃を受ける。稲妻の閃光のなか、車の上に二体の遺体を積んだタクシーを追い抜いたユーセフと、死生観について語り合う。
(10)死生観や神の存在については、クウエイト郵電省のエジプト人顧問建築家ボーラスとも話したことがあり、またあとで触れることもあろう。
 カルバラのイマームの聖廟の由来をユーセフから聞く。ムハンマドの後継者をめぐるシーア・スンニ両派の抗争の歴史は、桜井啓子著『シーア派』(岩波新書)に拠らせていただく。
(11)異なる宗教・宗派間の戦争・紛争は、表向きは教義に基づくようにみえても、共同体の維持と版図の拡大を意図した統治権力の争奪ではないか。
 フセイン・ブッシュ両大統領の戦争の背景には、イラクの油田確保をめぐる攻防の影が透けている。
(12)大統領の任期終了前にバグッダッドを訪問したブッシュは、イラクの記者に靴を投げられて、イラク侵攻の大義が怪しくなったブッシュ政権の二期目の支持率は史上最低。マリキ首相の政権下、治安、行政サービス、インフラ整備はフセイン時代より悪化し、国民生活は困窮を深めているとされる。
「チェンジ」を掲げて登場したオバマ大統領の英断で、事態はどのように変わるのだろうか。
(13)(14)「カルバラの戦い」と「平家物語」に、古今東西の戦記物語に共通する悲哀を見る。
 人間が殺しあい、傷つけあう戦争や紛争の愚行を、世界宗教の始祖たちは異口同音に戒めているのに。
 人間の限りない欲望が侵略を誘う一方で、遠征の大移動の結果、多様な文明・文化の交流が生じた。
 次回は、待ちに待ったバグダッドである。
                                               (続く)



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2009/06/03 12:39 2009/06/03 12:39

アラブと私 
イラク3千キロの旅(14)
 
              松 本 文 郎 
                        
「ユーセフ。キミはエンジニアでクリスチャンだというのに、イスラムの歴史に詳しいんだね」 
「そうでもありません。『カルバラの戦い』の物語は、アラビア半島を統一したイスラム教の創始者であるムハンマドの跡目争いの話ですから、誰でも知っています」
「そういうことなら、日本にも平家物語という、時の政治権力の軍事集団だった平家と源家の軍記物語があるんだ。ボクの年代ならほとんどの人が知ってるよ」
 平家一門の栄枯盛衰を記した長大な叙事詩的物語は、仏教的な無常観で貫かれ、盲人法師に語られて伝わったという。琵琶の伴奏で語られる「壇ノ浦」の平氏全滅のシーンが、子供心にも涙を誘ったのをおぼえている。
「ボクら日本人が読んだり聴いたりする軍記ものでは、強い方より弱い方、勝った側より負けた側に、同情や贔屓が集まる『判官びいき』というのがあるんだけど、アラブではどうかね」
「争いや戦争をするからには勝つ方がいいにきまってますが、崇拝する人物や英雄が殺される話には、やはり同情しますね」 
 全滅したフセインとその仲間たちが埋葬された地カルバラはその後シーア派の聖廟となり、殺されたイマームを慕う教徒が自らの死後、この地への埋葬を願うようになって二十世紀の今日まで続いている。
 一方、捕虜になったフセインの女性親族たちは、病気で戦いに参加できなかったフセインの息子と共にクーファ経由でダマスカスに連行されたという。
 その後解放された遺族たちはメディナに戻ることができ、フセインの息子が第四代イマームになったので、ムハンマドの血縁は保たれたようだ。
 源平の争いの歴史でも、源義頼が平清盛を討とうとして起こした平治の乱で義頼が敗れた年に生まれた義経は、捕らえられたが死を免れたために、平家壊滅の「壇ノ浦の戦い」で活躍した。
 幼いときに講談社の絵本で読んだ牛若丸の物語は、ユーセフにとっての「カルバラの戦い」と殉教した第三代イマームのフセインの物語に重なるようだ。
 平家を滅ぼした戦勝功労者の義経は、後白河法皇の計略で異母兄の頼朝に追われる身となって各地を放浪した挙句、自殺して果てた。
 清盛が牛若丸を殺していたなら、この若き悲劇の英雄は存在せず、「義経記」や「判官びいき」の言葉も生まれなかっただろう。
 私は、ユーセフの熱のはいった口演に応えようと歌舞伎の『勧進帳』『船弁慶』のシーンのさわりを話してやった。
『勧進帳』で放浪途上の義経一行が、忠実な家来、武蔵坊弁慶の主を想う真情と機知で「安宅の関」を無事に通過するくだりは、話しながらウルウルとくるところ。
 アラブから帰国して五年後に長唄を習い始めたが、吉住小桃次師に教えていただいた演目は三十余りで、『勧進帳』『船弁慶』にも出演した。
『船弁慶』も源平合戦の物語の一つで、能・歌舞伎など日本の芸能文化の洗練された出し物だが、主人公は、武蔵坊弁慶ではなく、平家の武将、平知盛だ。
 源氏に滅ぼされた清盛後、頭梁にかつがれた三男の宗盛が凡庸なために源氏との戦いに対処できず、 平家一門の運命は知勇に抜きんでたこの知盛に託されたのである。
 知盛が率いる平家は源氏の内紛に乗じて、一旦は勢力をもりかえしたが、義経の奇襲戦法に追い詰められた壇ノ浦で一族もろともに滅亡。
 平家物語に、「見るべきものは見つ、今はただ自害せん」と言って、二領の鎧を重石の代わりに着て、海に没したとある。
 いつの時代の戦争も、多くの人間が殺し、殺されるという愚行であり、今も進行しているアフガンやイラク、ガザ地区などでの殺戮と暴力の応酬もまさにそうである。
「人間はなぜ戦争するのか」は、私のライフワーク『私的・人間の探求』の重要なテーマの一つ。
 古代ギリシャのホメロスが書いたとされる二大叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』や中国の『三国志演義』などは、本格的な戦記物語の古典であり、貴重な文化遺産である。
 源平の合戦が日本文化に鮮明な足跡を残したのは、卓越した文学作品『平家物語』があったからだろう。
『アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)』も、アラブ民族の争いでカリフや王朝交代が絶えないイスラムの歴史を色濃く映しだしているではないか。   
 先日(二○○九年四月)、三国志の映画「レッドクリフⅡ」をみたが、少年時代に映画好きの父親とみたエノケン主演の「水滸伝」を思い出した。
 戦記物語には、さまざまな歴史人物の数奇な運命が描かれ、良くも悪くも、戦争という過酷な状況の中ならではの人間の姿が鮮やかに表されている。

「カルバラの戦い」から数年後、シーア派の一団は、フセインを死に追いやった自責の念から、幾度かの殉教覚悟の蜂起でウマイヤ朝への抵抗運動をした。
 その中に、初代イマーム・アリーとハウラという女性の間に生まれたフセインの異母兄弟を救世主とみなす反ウマイヤ朝運動「ムフタールの乱」があり、一時はクーファを支配するほどだったが、二年後には鎮圧されてしまった。
 ほかの抵抗運動もすべて政治的な完敗に終わったシーア派は、政治への関与に否定的となり、預言者の孫を惨殺させてしまった罪をあがなう追悼儀礼を行う宗教的な運動に向ったという。
 まだ、カルバラについて記したいことがあるが、詳細はクウェイトへの帰路に立ち寄った折りとして、見出しだけにとどめよう。
☆七世紀の「カルバラの戦い」から千四百年を経た一九八○代、カルバラの名が戦争の作戦名に登場。イラン・イラク戦争でのイラン側の「カルバラ作戦」で、由来は「カルバラの戦い」という。
☆イラク戦争の米軍侵攻の際、カルバラ市一帯での会戦でイラク軍の強固な抵抗に遭った米軍は撤退を余儀なくされた。
☆二○○八年八月。治安回復が伝えられたカルバラのシーア派宗教行事に参加した三百万人以上の信者を狙ったテロで、多数の死傷者が出た。宗教間対立 
をねらうテロリストにとって、巡礼団は格好の標的だという。道路脇の自動車爆弾や女性の自爆による。
☆イラク戦争の激戦地にもなったカルバラの子ども病院で、ここ数年、がん患者が異常に増加している。
「いままで見たことがない」症例の子どもも多く、米軍のすさまじい空爆と関係ありそうと医師の話。 ベトナム戦争の空爆で発生した奇形児を思い出す。
☆二○○九年春。戦闘終結後初めて、バグダッドに滞在する外国人らがカルバラの街を訪れたとの新聞記事。オバマ大統領の和平政策に期待したい。
 
「カボチャの馬車」ならぬトヨペット・クラウンを深夜十二時前にバグダッドへ着けようと、ユーセフは、先行車のない一本道をひた走った。 
 真夜中のバグダッド入り。アリババならぬ私が手にするものは、どんな旅の得物だろうか。
                                                   (続く)





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2009/05/13 15:46 2009/05/13 15:46

アラブと私 
イラク3千キロの旅(13)
 
                                       松 本 文 郎 

                        
「歴史認識」の問題は、国家間の論争にとどまらず、個々の人間の今と未来にも深く関わっている。
『アラブと私』を書いているのも、自分の足跡を書きとどめて子や孫たちの未来への遺言にしたいと願い、これからの生き方のために、歴史を学びなおしたいからだ。
「歴史」は、体制、反体制、学者、民衆など、さまざまな立場で遺された記録の総称だが、「自分史」は、かけがえのない自分の人生記録であり、体験をより鮮やかに思い出すには、書いてみるのが一番である。 『アラブと私』では、過去の私的な思い出を綴るだけでなく、人類社会の「来し方」と「今」を知り、これからの時代と社会にコミットして生きる想いを書き込みたいのである。
 この月一回の連載もはや十二回目になったが、「イラク3千キロの旅」は、『アラブと私』の序章のようなもので、書きたいことの根幹は、四十年前のアラブの私的な体験を織り込みながら、人類社会の未来を左右するであろう「アラブ」の現実を見つめ、感じ、考えた記録である。
 道中の道草は、小田 実の『何でも見てやろう』流をなぞっているからで、「メソポタミア」から「今」にいたるアラブの歴史を気ままに往還したいからである。
 時折、前を読み直さないと「イラク3千キロの旅」の道中が繋がりにくいきらいがあるが、ご面倒でもプリントアウトして、再読していただくほかない。
 世界中で非難されている、イスラエルによるガザ住民虐殺と停戦の行方も気になるのだが、そろそろ、ユーセフが話してくれたスンニ派とシーア派の歴史にある「カルバラの戦い」に戻ることにしよう。    

 前々回(11)に書いた、ハーシム家とウマイヤ家による共同体統治をめぐる確執のなかで見過ごせないのは、ムハンマドの後継者の資格を「イマーム」と呼び、預言者の血を引くアリーとその子孫だけとするシーア派の主張だ。
「イマーム」は、ムハンマドの啓示によりイスラム共同体を宗教的、政治的に指導する者で、人間の魂の救済に重点をおくキリスト教などの宗教とは対照的に、共同体の営みの政治、経済、社会、文化などのすべてに関わるとされてきた。
「イスラム教」を創始したムハンマドは、メッカで生まれ育った都市人で、大きな貿易商の総支配人だったが、不毛の地とされたアラビア半島の遊牧民らを組織して強力な軍事集団をつくり、「イスラム」の教義でアラビア半島を一体化したのである。ビザンチンとササン朝ペルシャの東西両帝国が長い戦争で疲弊していたときだった。
 ムハンマドが受けた啓示を「コーラン」として正典化したウスマーンは、ササン朝ペルシャを征服し、ビザンチン軍も破って、両帝国が対峙した古代世界終焉の端緒を拓いた二代目カリフ、ウマルの指名で三代目カリフに就任した。
 七世紀から十四世紀にかけての「イスラム帝国」の全盛をもたらしたのは、アラブ遊牧民が中心の強大な軍事力であるが、その新しい世界に秩序を与えたのがイスラムの教義「コーラン」だった。
 アラビア半島に預言者ムハンマドが現れたころのアラブ人の大半は、定住生活を軽蔑する半砂漠の遊牧民だった。
 ムハンマド没後から第四代カリフのアリーまでは正統カリフの時代と呼ばれ、イスラム帝国の第一期を形成したのである。
「カルバラの戦い」は、ムハンマドやアリーが属したハーシム家と帝国の第二期を築いたウマイヤ家との共同体統治権をめぐる確執の果てにあった。
 第四代カリフのアリーがクーファで殺されてから、シリア総督のムアーウイアが「ウマイヤ朝」の初代カリフに就き、カリフの位を世襲制にしたことから、アリーの支持者たち(シーア派)は、ムアーウイアばかりか、アリー以前の初代から三代までのカリフの正統性も否定したことは前々号に書いた。
 アリーのような預言者ムハンマドの血筋だけを、後継資格をもつ「イマーム」とした当時のシーア派は、アリーを初代イマームと呼び、イマームの位は
ムハンマドの末娘ファーティマとアリーの間に生まれたハッサン・フセイン兄弟をへて、弟フセインの子孫へと引き継がれてきたとみなしている。
 イスラムの少数派でありながら、「イマーム」を中心にすえた宗教思想で独自の存在を続けてきたのがシーア派である。
「カルバラの戦い」当時のシーア派は、イスラム史で「正統カリフ時代」と呼ばれる歴史認識さえも、否定していたのである。
 シーア派にくみしない人たちは多数派で党派性をもたず、アリーをふくむ四代のカリフを、ウマイヤ朝のカリフと同じように認めた。
 彼らのカリフ選出の考え方は、ムハンマドのようなクライシュ族の成人男性候補者の選挙か、前任者の指名で決められるとし、後継者の条件を、預言者の血筋やコーランを理解する特別な資質とはみなさなかった。
 これらの人たちは、コーランを正しく理解する知識の源として、ムハンマドの言行(スンニ)を重んじ、その収集に努めたのでスンニ派と呼ばれるようになったという。
 シリアのダマスカスに都をかまえたウマイヤ朝の初代カリフ、ムアーウイアをカリフとして認めなかったシーア派は、アリーの長男ハッサンに第二代のイマームの望みをかけたが、カリフの位放棄の代償にムアーウイアから莫大な金を受け取ったハッサンは、メディナに隠棲してしまったという。
 シーア派の伝承では、幾人もの妻を娶り、大勢の子供を残したハッサンは、ムアーウイアに糸を引かれた妻の一人に毒を盛られて命を落としたとある。
 敵対する勢力からの陰謀と内部の謀反はいつの世にもある人間ドラマだ。
 当時のシーア派の拠点は、アリーが居をかまえたことがある都市クーファにあり、ダマスカスを拠点に勢力拡大するウマイヤ朝からの自立をめざした。
 六八〇年、ムアーウイアの死をカリフ位奪還の機とみたクーファのシーア派は、第三代イマームに就いてメディナにいたフセインに再三、密使を送り、ウマイヤ朝への反旗を翻すように要請した。
 しかし、ムアーウイアの指名で第二代カリフになっていた息子のヤズィードは、この動きを察知し、クーファのシーア派決起を封じ、四千の兵士をクーファの北西七○キロ、ユーフラテス川の西二○キロにあるカルバラにさし向けた。
 カルバラの荒野に到着したフセインの軍勢は、水補給源のユーフラテス川への道を敵軍に遮断され、渇きに苦しみながら惨敗し、フセインとその軍勢は灼熱の砂漠に果てた。
 フセインの首は、ヤズィードが待つダマスカスへ送られ、遺体は仲間や兵士の遺体と一緒にカルバラの地に埋葬されたという。
 ヘッドライトの先を凝視しながら、戦いの有様を話すユーセフの口調は、壇ノ浦の平家最後のシーンを口演する講談師のような熱を帯びていた。
 宗教的史実は、戦記物としても有名なのだろう。
                
                            (続く)

 


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2009/04/09 12:13 2009/04/09 12:13

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2009/03/10 11:01 2009/03/10 11:01

アラブと私 
イラク3千キロの旅(10)
 
              松 本 文 郎

 壮大な死者の墓ピラミッドをつくった古代王国の輝かしい歴史をもつエジプト。その末裔でカイロ大学を出た建築家の夫人はフランス人である。
 フランスといえば、近代国家の創始者ナポレオンはエジプトにまで遠征して、ピラミッドの戦いではマルクーク軍を破り、アレキサンドリアに建てられていたオベリスクを略奪してパリへ移設した。
 だが、栄枯盛衰の理のとおり、アブギール湾海でネルソン提督率いるイギリス海軍に敗北を喫した。ボーラス氏と夫人の出会いの経緯は知らないが、ナポレオンを恨む気持ちより恋心が勝っていたのだろうか。(余計な詮索というものか……)
 誇り高きアラブの建築家は、母国の近代化に役立つ電気通信建築のノウハウを私たちコンサルタントから学べたことを認める率直さをもっていた。

 イラク三千キロの旅から四ヵ月後、工事が長引く状況で、妻と子供たちを日本から呼び寄せた私は、偶然にも同じ年齢でアメリカンスクールに通う男女二人の子供がいる、ボーラス一家と親しく付きあうことになる。
 欧米のライフスタイルをめざすアラブの富裕層や知識階級の家庭は、ホームパーティで招きあう家族ぐるみの交際で日本よりずっと進んでいた。
 家族の娯楽としては、映画館、ホテルのパーティ、砂漠のバーベキュー、アラビア湾の魚釣りと海水浴などあったが、アメリカンスクールのクラスメイトのさまざまな国の家族と、互いの暮らしや文化への理解を深めあえるホームパーティはたいへん楽しく、大いに活用したものである。

 それらのことは、「イラク三千キロの旅」のあと、三年間のクウェート滞在記で書くこととしよう。
 ここでは、ボーラスに尋ねられたことへの答えだけ記しておくと、「死後の世界はないと思われます」「日本人は無宗教と見られているようですが、敬虔に神仏に祈る日本人のこころは、キリスト教やイスラム教のような世界宗教の信者のそれと変りはないでしょう」である。
 神はいるのか、いないのか。『ツアラツストラはかく語りき』でのニーチェは、ゾロアスター教の教祖に託して、「神の死」「超人」「権力意思」「永劫回帰」など、彼の哲学的根本思想 を聖典的な文体で述べて、宗教権力者たちに衝撃を与えた。それは西洋近代の歴史的な事件だった。
 敗戦で「神も仏もあるものか」と感じた日本人の虚脱状況の中で読まれたからか、誤訳が多いとされたサルトルの『存在と無』とともに、若い学生たちの情緒的ニヒリズムのバイブルとなった。
「神は死んだ」と書いて、キリスト教との根本的な対立を宣言した彼は、無神論者というよりも、人類社会の歴史的過程で人間が創出してきた神に対置して、超越的存在とでも言うべき絶対の<神>の概念を提示したのであろう。
 ニーチェの虚無思想や仏教の根本思想とされる「空」「無」などを論じあった学究四人の座談記録『実存と虚無と頽廃』(アテネ文庫)を昭和二十八年の大学生協の本屋で求めて(三十円)読んでいた。
 イスラムの世界に生まれたボーラスもユーセフと同じクリスチャンだったが、大学で西洋近代を学んだインテリだからかどうか、聞きはしなかった。
「エデンの園」や「ノアの洪水」の旧約聖書の神話史跡をもち、キリスト教の発祥地に近い地域の人々の大部分がイスラム教徒になったのは、その教えの方が暮らしと風土に合っていたからではなかろうか。
 ボーラスの問いへの返事と宗教観を思い出して私が話すのを聞いていたユーセフは、「私の家系はクリスチャンですが、人格神は信仰の対象として信者のこころに存在しているのだと思います。キリストが己の内に宿した<神>の啓示から、聖書に書かれている言葉を遺し、二千年も受け継がれてきたのです。キリストが<神>でなくても、聖書の言葉の尊さは変わらないでしょう」

 クリスチャンのユーセフが言うことに驚いたが、いかにも技術者らしい<神>の捉え方に共感した。私の宗教観とまったく同じではないか。
 ユーセフはつづけて言った。
「イスラム教の始祖ムハンマドは、己を神ではなく、<神>の言葉を伝える預言者であると自覚していましたから、人格神的な偶像崇拝をきびしく禁止しました。宗教としては、キリスト教より進化しているといえるかもしれませんね」
 そういえば、ボーラスも同じようなことを言っていた。
「チーフ。もうすぐカルバラですよ。クウェートへ戻るとき、ぜひ寄ってみましょう。」

 ここで、イランからの遺体搬送と最初に遭遇したときにユーセフが話してくれた、シーア派とスンニ派の歴史とカルバラの聖廟の由来のあらましを記しておこう。ただ、細部の記憶はすこぶる曖昧なので、桜井啓子さんの『シーア派』(中公新書)を足がかりにさせてもらうとにしよう。
 
 シーア派は、ムハンマドの後継者をめぐる争いをきっかけに生まれた。 後継者(カリフ)をだれにするかで、信者が二派に分裂したのである。
 初代のカリフに合議で選ばれたアブー・バクルが就任してイスラム共同体を統治し、その流れを汲む人たちが、スンニ派と呼ばれ、主流派となった。
 ところが、カリフはムハンマドと血縁にある従弟のアリーでなければならぬとする人たちが現れて、アブー・バクルの後継に就任した二人のカリフをも拒みつづけ、「アリーの党派」と呼ばれた。
 アラビア語では党派を「シーア」ということから、アリーが省略されて「シーア派」となったそうだ。
 預言者ムハンマドは、六一〇年、メッカで啓示を受けてから民衆を導いてきた。

 コーランには、神、預言者、天地創造、天国と地獄など、信仰にかかわる事柄や信徒の宗教的義務についての啓示だけでなく、刑罰、戦利品分配、商売上の契約、結婚・離婚、相続などについての啓示が含まれている。
 ムハンマドはこれら神からの啓示を拠りどころに、イスラム共同体を統治し、メディナにおける宗教的指導者であると同時に、政治的・軍事的指導者でもあったのである。
 それだけに、ムハンマドの死が信徒に与えた衝撃は計り知れないもので、その危機を乗り越えるための後継者選出には、共同体の存続がかかっていた。
 後継者の選出をめぐって信徒が対立した背景には、ムハンマドの生い立ちがかかわっていた。
 名門の生まれだが、父は誕生前に死に、母も幼いときになくした、兄弟姉妹もいない孤児だった。
 結婚したムハンマドは幾人かの子供をえたものの、男系子孫を残せず、育て親の伯父アブー・ターリブの息子アリーだけが彼を慕っていた。
 預言者より三十歳ほど若いアリーは、ムハンマドの妻のハディージャに次ぐ二番目の改宗者であり、ムハンマドと行動を共にした最も忠実なイスラム教徒とされる。
 アリーは、ムハンマドの末娘(唯一人だけ父より長生きした)を妻に迎えて、ハサンとフサイン二人の息子を授かった。ムハンマドの女系子孫である。
              
                         (続く)




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2008/12/12 14:01 2008/12/12 14:01

アラブと私 
イラク3千キロの旅(9)
 
              松 本 文 郎

 バスラでの昼食から、ずいぶん時間がたっていた。
ユーセフに運転を任せ、横で居眠りしながら座っているだけなのに、腹が減ってきた。
 ユーセフはどうかと聞くと、サマーワで仕入れたパイ生地の菓子・クレーチャを食べましょうと言う。

 後部座席から紙袋とペプシコーラをとって、包みを開く。パイ生地が黄金色に焼き上げられた半月の形をしたクレーチャは、とても旨そうだ。
 ユーセフに一つ手渡してから、おもむろにかぶりつく。バターを練りこんだパイ生地に包まれたナツメヤシとクルミの餡がとてもよく合っている。半月の円弧の縁を指で押さえてあるから、外形は中身の盛り上がったジャンボ餃子のようだが、味は月餅に似たところがある。
ユーセフの大好物らしく、慎重に運転しながら、たちまち二つ平らげた。ペプシを渡すとのどをならして飲んでいる。長い運転で疲れたからだに、給水とかエネルギー補給ができたようだ。ヘッドライトの光の前方をしっかり見つめたまま、クレーチャについて話してくれた。

 なんでも、イラク人が旅に出るとき、家の主婦はよくこの菓子を作ってもたせるそうだ。なぜそうなのかはわからないが、ユーセフの母親もそうだったという。「日頃よく食べる家庭の手作り菓子ですから、旅に出て、家族やお袋の味を忘れないでくれということでしょうか。家を離れるたびに、旅行カバンの中にたくさんのクレーチャを詰めてくれたものです」

 パイ生地の菓子は、カバンに衝撃が加えられると形が崩れてしまいがちだろうが、国外へ出稼ぎに行くイラク人の多くが、妻や母親が作ったクレーチャ入りのカバンを運びながら旅しているのだろう。入れ物にいれておけば、十日ぐらいは保つという。
バターに砂糖をたっぷり入れたクルミやナツメヤシの餡で作られているから、菓子とはいえ、食事の代わりになる。サマーワの茶屋で買うのを勧められたのに、「がってん」「がってん」した。

 クレーチャには、ペプシコーラがよく合う。
 当時のクウェートやイラクでは、コーラといえばなぜかペプシだった。コカコーラのような変な色が着いていないので、水代わりによく飲んだ。
 一九六九年に電気通信研究所の基本設計で滞在したテヘランでもペプシだったから、サッダム・フセインがイラン・イラク戦争を始める二十年前までは、どちらの国の若い人たちも、アメリカンスタイルの近代的な暮らしに憧れていたように感じた。
 そのテヘランからシーア派の聖地へ死体を運ぶ車と同じ幹線道路を、いま走っているのだ。
 突然、フロントガラスに大粒の雨が数滴はじけ、たちまち一面が雨粒で覆われた。
「チーフ、雨になりましたね」、とユーセフはすぐにワイパーを動かした。
 
一般的に、アラブの砂漠地帯で雨など降るはずはないと思われているかもしれないが、時には大雨が降るのである。一九七○年七月から滞在しているクウェートでも二、三回の雨を体験していた。

 初めての大雨との遭遇は前年十二月半ばだった。コンサルタント事務所が繁忙を極め、六・三・三の勤務体制(一日十二時間)で、夕食に十キロ離れた家へ帰る途上だった。
 垂れ込めていた厚い雲から突然、猛烈なシャワーが降り注いだ。ワイパーを最速にしても前方がよく見えないほどの強い雨脚だった。

 バケツをひっくり返したような雨は、貧弱な排水溝しかない道路にたちまち溢れ、車軸が水に浸かるほどになった。話に聞いていたが、その凄さは想像を超えていた。
 都市計画のコンサルタントはイギリスだと聞いていたが、ドイツ人だったら、少しはましな排水処理を考えたのではなかろうか。ブレーキが効かなくなるのを心配したが、この種の大雨は局地的な通り雨らしく、しばらく徐行しているうちに水嵩も減り、雨も小止みになって、無事、家までたどり着けた。

  砂漠の一本道の幹線道路はかさ上げされていて路面の雨は路肩下の土に吸われる自然排水だから、ブレーキ板が濡れて効かなくなる恐れはない。だが、急制動によるハイドロプレーン現象の滑動はとても危険なのだ。雨は激しさを増し、行き手に稲妻が走り、雷鳴が聞こえた。砂漠のど真ん中の不思議な土砂降りの中、スピードを落としたユーセフは前方に目を凝らし、無口になった。

 かなり前方を走っていた車のテイルランプが近くなった。また事故かと、身構える。
 減速しても、バグダッドへ急ぐユーセフの運転のスピードが速いのか、見つめていたテイルランプに追いついた目に、タクシーの屋根に積んだ白く長い包みが見えた。
「聖地へ運ぶボディですね」と呟いて、ユーセフは対向車が来ないのを確認してすばやく追い越した。 

 サーフィンボードの大きさの帆布の包みを、激しい雨脚が叩いている。
包みの中身を知ってしまった私に鳥肌が立った。次のテイルランプもすぐ近づいてきた。やはり、包みを積んでおり、しかも二つ重ねられている。
追い越しをかけようとした途端、目がくらむような稲光で辺り一面が真昼の明るさで照らし出され、耳をつんざく雷鳴が轟きわたった。

 エドガー・アラン・ポーの『黒猫』を読んだときに似た戦慄が、体を走りぬけた。
「こんなに立て続けに会うのは私も初めてですよ」 
「いやー、こんな光景を見るなんて思いもしなかったよ。私にとって珍しい死者の弔い方では、イランのゾロアスター教の村で鳥葬の跡地を見学したことがあるけどね」
「ボディ搬送に興味をもたれたようですから、明日にでもカルバラの聖廟で遺体を納めるところを見てもいいですよ」

 建築家としての旺盛な好奇心をもつ私に、精一杯の誠実な案内を心がけてくれるユーセフである。
「うん。それはクウェイトへ戻るときでもいいかな。明日はアハラムに会うのを第一番としようよ」
「分かりました。聖地カルバラはバグダッドの手前ですから帰り道にしましょう。死者を葬るのを見るよりも、アハレムの方がいいに決まっています」
 ユーセフもそうしたかったに違いないと感じた。

 先行するテイルランプはなく、フロントガラスを強く叩いていた雨脚が細まってきた。
 ゾロアスター教といえば、ニーチェが書いた名著『ツアラツストラはかく語りき』を思い出したので、運転するユーセフの眠気覚ましに、人間にとっての宗教の意味や死生観などを話しあおうと思った。

 これら人間普遍のテーマでは、クウェイト郵電省の顧問室で打ち合わせの後のチャイを飲みながら、エジプト人建築家ボーラス氏から死後の世界と日本人の宗教観について尋ねられたことがあった。

 ユーセフもいっしょに打ち合わせに来ていた。



                  (続く)




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旧大阪中之島公会堂

 妻の次兄が亡くなり、大阪での通夜と葬儀に参列した。七十歳の手前だが、風邪をこじらせた肺炎が死因だった。 真面目一筋に働いて、子会社の役員を勤め上げたばかりだった。
 骨上げの後、予定の新幹線にかなりの時間があったので、中之島公園へ来た。二十余年前の関西勤務の四季折々に、一家四人で来ていた。
 中之島にある明治の建築では旧公会堂が一番好きなので、いつも携行している簡易な道具でハガキ絵を描いた。
 この建物は、福沢諭吉と一緒に渡来した大阪の相場師が寄付したものだが、完成を目前に、相場の失敗で自殺したと伝えられる。
 バブルで大儲けした経営者や資産家で、市の音楽堂などを寄付した人などいないのは、誠にさみしい限りだ。  (平成十一年十月)




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