

アラブと私
イラク3千キロの旅(8)
松 本 文 郎
サマーラの茶屋でチャイを飲んだとき、少し運転を代わろうかと言ってみたが、これから暗くなるとこの道に慣れている私でも危ないくらいですから、とユーセフは真顔で応えた。
暗くなりはじめた幹線道路をこれから250キロも運転する彼に、気をつけて走るように告げる。
いま思うと、あの時のユーセフとのふたり旅では、助手席で居眠りしている間に見過ごした風景や通り過ぎた町村がかなりあった。
バスラとサマーワの中間にあったナシリヤ、行く手にあるナジャフなどは、イラク情勢や陸上自衛隊の派遣の報道ではじめて知った地名だ。
ところで、この連載はワープロで書きはじめたが、掲載紙の編集・印刷はパソコンのワードだと聞き、ソフト変換と送信の便利さから、これまで敬遠していたパソコンを手に入れることにした。
息子の健、がインターネットでヒューレット・パッカードの安い機種を見つけてくれた。7万円台の値段は国内メーカーに比べて格段に安く、年金暮らしにはうれしかったが、ワードなどのソフトを内蔵していないためと分り、喜びも半減した。
でも、必要なソフトは買ってインストールすればよく、アメリカ的で合理的な考えであろう。最近、3万円台の“空”のパソコンが、台湾製で出回っているという。重さの1キロはとても魅力だ。
パソコンを敬遠していた理由は、eメールなどの応対に残日短くなった身の貴重な時間を、パソコンに強制されて費やしたくなかったからである。かのビル・ゲイツが多忙な一日の2,3時間をパソコンの前に拘束されていると知ったからである。
ケイタイを持たないのも、自分のブログを開設しないのも、他者が寄こしたメッセージに応対せずにはいられない性格の私だからだ。
デジタル時代に逆らってアナログ人間ぶりを強調するほど頑ではないが、会社人間のころは千2百枚の年賀状の宛名と添え書きを万年筆でやり、いまもまめに手紙を書いている私だ。
その反面、インターネットの情報検索の便利さには、ただただ驚いている。
この連載に必要な情報も、あっという間に出てくる。関連事項を次々と追っているうちに、原稿を書き進むのを忘れて夢中になることもしばしばだ。
インターネットは、世界を変えるにちがいない。
情報化社会の進展がベルリンの壁やソ連邦崩壊をもたらしたと想うとき、インターネットという道具が人類社会の未来に及ぼす影響には計り知れぬものがあると信じる。
マイクロソフトの事業で世界一の資産を手にしたビル・ゲイツは、相当額を慈善事業に提供し、自らも世界規模の活動に参画するそうだ。
彼らは、パソコンの基本ソフトを独占することで巨額の富を築いてきたが、リナックスには、世界の優秀なソフト開発者たちがネット上で協働し、ウインドウズに勝るとも劣らないレベルの基本ソフトを無報酬でつくりあげている。
グーグルが掲げる理念「パブリック・オープン・フリー」は、商業主義で汚されない限り、人類社会へのすばらしい貢献を果たしてくれるにちがいない。
ケイタイ人口は世界一、検閲があるものの、国内で生じた事件の非公式な映像がすぐインターネットに流れる中国では、一党独裁の政治権力による情報統制も思うにまかせないだろう。
ふたりを運ぶトヨペット・クラウンは、暮れなずむ国道を120キロで快調にとばしている。
長い道のりを運転しつづけているユーセフの横の私も、もう居眠りばかりしているわけにはゆかない。
無事にバグダドに着くために、前方監視の手伝いをしようと目を凝らしたときである。
100メートルほど先を走っていた車のテール・ランプが点いて急な減速をした。
それに合わせて徐行し窓から首を出して見ると、渋滞した数台の車列の先に、路肩からすべり落ちた車と人影がある。事故があったらしい。
渋滞した車は、対向車線の車の合間を計りながら、事故現場を通り過ぎてゆく。
私たちが現場に近づいてみると、路肩の下に傾いて止まっている2台の車と、路肩に寄せて停まっている数台がいた。落ちた車の屋根に白い帆布で包んだ細長い荷物が載っていた。
どうやら怪我人はいないようで、人影は、事故の当事者同士と物見高い連中らしい。
先を急ぐ私たちは、思いがけない安全走行を喚起してくれたハプニングの現場を徐行して通過した。
運転の居住まいを正したユーセフが、事故の推察を話しはじめる。
どうやらよくあるタイプの事故のようだ。
サンドストーム中や暗くなってからの走行では、対向車線をやってくる車のスピードと距離を見定めないと、追い越しのタイミングを失した事故が起き易いという。
路肩下に滑り落ちていた2台の車の1台がむりな追い越しで、先行車の左側面に接触しながら一緒に路肩をはずしたのだろうと言う。
対向車線の車が大型トラックだった可能性はある。
そちらと衝突していたらひとたまりもなかったろう。
バスラ・バグダッド間では、死傷者を伴った事故に
日に一度ならず遭遇したことがあったそうだ。
ところで、ユーセフが屋根に積んであった荷物に言及したときの私の驚きはふつうではなかった。
あれは、イランから運んできた死体なのだと言う。
イスラム教徒が一生に一度、メジナ・メッカへの巡礼を生き甲斐にしているのは、よく知られている。 それに似て、敬虔な信者が自分の死体を、希望するモスクへ運ぶよう遺言するのも少なくないのだ。
イランを朝発ったタクシーや親族の車の何台かにこの先で追いつくかも知れませんよ、とユーセフは
さりげない語調で私の好奇心を刺激した。
辺りはもうすっかり暗くなって、私たちの視野には、先行車のテールランプが遠ざかったり、対向車のヘッドライトが近づいてくるだけだ。
あの死体は、カルバラのイマームの墓廟に運ばれるのでしょう、とユーセフがつぶやく。
カルバラにあるイマーム(預言者ムハマンドの血筋のアリーとその子孫)の墓廟は、シーア派教徒にとっての聖地で信者のための巨大な墓地がある。聖地での埋葬を遺言された家族は、イランから千キロを超す道のりをものともせず死体を搬送するという。
クリスチャンのユーセフが、イスラム教2大宗派シーア派・スンニ派の歴史と聖地カルバラの墓廟の由来を話してくれた。
ちなみに、スンニ派出身のサッダム・フセインは、イラン・イラク戦争では米国の支援を受けたのに、ブッシュ大統領が前のめりで始めたイラク戦争ではあっけなく抹殺された。
世界のイスラム教徒の人口の約90%はスンニ派だが、イラン、イラク、レバノンではシーア派が多数派。16世紀当初にシーア派を国教としたイランでは、国民の圧倒的多数がシーア派である。
1979年のイラン・イスラム共和国の成立から、米国の「シーア派脅威論」が始まった。
(続く)
アラブと私
イラク3千キロの旅(4)
松 本 文 郎
ベリーダンスから娼婦、あげくに、「ウルヴィーのビーナス」のモデルの話にまで、道草してしまった。
小田 実の流儀をなぞるにしても、あまりに度が過ぎてはと、「イラク三千キロの旅」に戻ろうとしていた矢先に、バスラのシーア派同士の内戦が報道され、つい書きくわえてしまった。
その気持ちは、この紀行文が私の自分史の一環になるといっても、当時の自分を懐かしむだけにとどまっては、読者の関心を引かないと思うもの。
アラブ滞在記の最初の章をイラクの旅から始めたのも、40余年前のイラクから想像もできなかった今を並列に書くことで、私にとってのイラクと友人たちへの想いを伝えたいからだ。
モスルどころかバグダッドにいつたどり着くのかと思われても、こんな調子で旅をつづけてみたい。
バスラの街の中心を流れるシャト・アル・アラブ
河は、70キロ北でチグリス・ユーフラテスが合流した下流の呼称で、合流点のクルナという小さな町は、旧約聖書のエデンの園があったとされる場所。
ギリシャ語で食堂を「タベルナ」というが、まさか、エデンの園は今危ないところだから「クルナ」、ではなかろう。
河堤に大きな林檎の木が立ち、その下に当時の木の化石といわれる幹が横たわっている。
立札にアラビア語と英語で、「われわれの父アダムが「地上の楽園」を象徴して、チグリス・ユーフラテスの流れが出会うこの聖なる地に聖樹を植えた」とある。
ユーセフに、「イスラム教徒の多いイラクなのに、アダムをわれわれの父というのかね」と冷やかすと、「キリスト教もイスラム教も根は一緒ですからね」と、クリスチャンはウインクした。
立札の下方に、「紀元前2千年、ここでイスラエル民族の先祖アブラハムが祈った」とも書かれている。
人類が最初に言葉をもったのは7万5千年前というが、考古学の発達で、神話の世界も次第に色褪せてくるのは、少々さみしい気もする。
シャト・アル・アラブは、バスラからアラビア湾のファオ港までの百キロをゆったりと流れ下る。
川幅は2、3百米で、水深は中央で13米という。
1万トン級の外洋船がバスラの港まで遡上できるように浚渫したとユーセフが教えてくれた。さすが、
土木技術者だけのことはある。ただ、アラビア湾の影響で最大で2米の干満の差が生じるという。
両岸に林立するナツメヤシが落とす緑の影が川面にゆれる風景は、印象派の絵そのものだ。
堤防の下を走る車から、ナツメヤシの並木の間をすべるように行く大型船を見ると、まるで陸の上を動いているようだ。
バスラ港の歴史は、イギリスが中東への影響力を保ち、イラク支配を強め、アングロ・ペルシャ石油会社を支えるために機能的な埠頭と荷揚施設を建設したことに始まる。
第二次世界大戦が終るまでに、近代的なドックやクレーン設備が整備され、シャト・アル・アラブの浚渫とともに、港湾の規模・機能が拡充されてきた。
かって、大英帝国が中東に注いだ軍事的、政治的戦略エネルギーのものすごさを思い知る。
ロレンスが夢想した、アラブ民族の列強支配からの脱却と自立は、生易しいものではなかった。
川岸のあちこちに釣竿を手にした人たちがいて、
そののんびりかげんは、なぜか、敗戦後の少年の頃に疎開先の田舎で経験したものだ。
ユーセフが釣り人に聞くと、ナマズ、フナ、コイ、ハヤ、チヌが釣れるようだ。アラビア湾の遠浅の海でキスやチヌを釣るのが、クウェートの休日の楽しみになっていた私だが、先の長い旅ではそれもできない。
もうひとつ、シャト・アル・アラブで触れておきたいのは、シンドバッド島と呼ばれる中洲のこと。
なんとここは、アラビアンナイトのシンドバッドが航海に出発したところだそうだ。
シンドバッドの大冒険と比べるのはおこがましいが、これから未知の国イラク三千キロの旅が始まるバスラに、思いもしなかった神話や物語の場所があることを知り、この国への好奇心が倍加した。
この中洲全体が公園になっていて、レストランもあり、ナツメヤシの葉陰のテーブルに陣取って、ビールでのどを潤した。
ユーセフは、車の運転があるのとアルベヤティの
ように酒好きでないので、生オレンジ・ジュースをジョッキで飲んでいる。
今3月のクウェートなどこの地域の気候は、灼熱前のしのぎやすい季節で、日本では5月中旬のような風が、かるく汗ばんだ肌に心地よい。
辺りを見回すと、公園のあちこちで庭師や掃除夫らが働いており、水が撒かれた花壇や芝生の鮮やかな色が目にしみる。ナツメヤシの林が囲む園内に、ブーゲンビリアやバラなどの花々がよく手入れされている。
イラクの旅のあとに待つクウェートの過酷な仕事と厳しい気候を想うと、旅の最初の地バスラの街に「エデンの園」があったという故事が面白かった。
「エデン」はヘブライ語で歓喜の意だが、旧約聖書の「創世記」に、神がつくった人間のアダムとイヴが禁断の木の実を食べて追放された園とある。
この木の実は人間が手にした「知恵」とされるが、人類社会の歴史が、他の生き物には見られない愛憎や善悪、戦争と平和などの光と影で織なされていることをみると、人間の知恵とはなにかを考えるのに、なかなか含蓄のある説話だと思う。
ただ、旧約聖書を神話の一つとみる私は、人類が知恵に秀でた頭脳をもったのは、神の掟を破ったからではなく、進化の過程での突然変異の結果だとする方をとる。
「エデンの園」があったとされるバスラで、イラク人シーア派同士の内戦状況をみるにつけても、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が神の掟とする殺戮や報復の禁止を、それぞれの信奉者がどのように受けとめているのかと問いたくなる。
知恵を得て「エデンの園」を追放されたとする人類は、しばしば混迷の極に直面してきたが、神の手を借りずに、その知恵で克服できるかどうか。
いまも、人類に課せられている宿題であろう。
私が子供や孫への遺言としたい『私的人間探求』の著述は、そんな想いから着手したばかりだ。
建築家の私は、人間居住環境としての都市と自然、古今東西の都市の興亡、産業革命に発する工業社会の自然環境の汚染・破壊などに関心をもちつづけてきた。
バスラに近いウルは、古代文明のさきがけの都市国家があったところで、旧約聖書に「カルディアのウル」とあり、アブラハムの故郷とされる。
ウル周辺は広大な湿原をふくむ水郷で、農業生産の豊かな恵みがウル王朝の繁栄を支えた。大学の西洋建築史の講義で学んだシュメル王朝のジグラットは、エジプトのピラミッドに劣らず壮大な建造物である。
ところが、5千年にわたり人間と多くの生物種に恵みを与えてきたこの一帯の環境悪化が報じられている。
旧約聖書の「ノアの洪水」と関係があるらしい。
(続く)