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  1. 2011/02/08 アラブと私 イラク3千キロの旅(43)

アラブと私
イラク3千キロの旅(43)

                     松 本 文 郎 

 強権支配を長年つづけた前ベンアリ大統領を国外脱出に追い込んだチュニジアの大規模デモは、貧しい若者が焼身自殺を計ったのが発端である。

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 ムハンマド・ブアジジさんは、首都チュニスの南約二百八十キロの街に母親・三人の妹と住んでいた二十六歳。事件が起きた朝、いつものように路上で果物の量り売りを始めたとき、地元の役人が「営業許可がないなら罰金四百ディナールを払え」と脅した。   
 一日の売り上げが五~七ディナールしかない者への嫌がらせという。商売道具の秤を奪われそうになって、抵抗したムハンマドさんは、顔を殴られ、体を何度も蹴られてうずくまったが、役人らは、ムハンマドさんにつばを吐き、果物を奪い去ったという。
 果物を返してもらおうとして訪れた地元知事の事務所で、中に入れてさえもらえなかった彼は、近くの店で手に入れたガソリンをかぶり、理不尽を訴えたが誰もとりあってくれず、自ら火をつけたという。

 この悲惨な出来事は、口コミやインターネットのフェイスブックなどの情報メディアを通じて、あっという間に市民に知れ渡った。

 街のデモは数百人の規模にふくれて朝までつづき、自殺する若者がつぎつぎと出た。
ベンアリ大統領側は、事態の沈静化を図ろうと画策したが、無神経な言動が火に油を注ぐ結果となり、デモは国中に拡大した。
ムハンマドさんがチュニスの病院でなくなった十日後に、ベンアリ前大統領は国外に逃れ、強権体制は崩壊した。

 国外脱出の当日に、前大統領の娘がフランスのディズニーランドで遊んでいたこと、家族や一族の宮殿のように贅を尽くした住まいを、市民らが襲い破壊した様子が新聞・テレビで報じられた。

 チュニジアをふくむ中東・北アフリカの地域は、一次産業や観光業ほかの産業が乏しいなかに人口が増えて、若者の失業が深刻とされる。
 この地域で政権の長期化や腐敗による富の分配の不平等で貧富の格差が生じ、インフレが進行している国々に、チュニジアのケースで触発されたとみられるデモや焼身自殺が相次いでいる。
 アルジェやイエメンでは大統領退陣を要求するデモや集会が起こり、ヨルダンでは物価高に抗議して内閣総辞職が求められた。
 新聞報道による一月二十四日現在の焼身自殺の数は、エジプト、サウジアラビア、モーリタニアなど、未遂を含めると十件を超えるという。

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 イスラムでは自殺を禁じており、イスラム教徒が自殺を選ぶのは、よほどの事態とされるだけに、今後の推移に世界が注目している。
 そうしたなかの二十五日、、焼身自殺が相次いだエジプト各地で、ムバラク大統領の辞任を求める反政府デモが起こり、カイロ中心部で座り込んだ数千人のデモ参加者の強制排除で、多数のけが人が出たと報じられた。

 このデモは、チュニジアの政変に呼応した野党勢力に、「フェイスブック」などインターネット上の呼びかけを受けた市民が結集したとみられる。
翌日には、数万人に膨れ上がり、一九八一年のムバラク政権発足以来の最大規模だという。

 政権側は、催涙ガスと放水銃に加え、「フェイスブック」「ツイッター」「ユーチューブ」等を遮断する「情報統制」で対抗し始めた。
それまでのデモ参加者はインターネットでつながる若者中心とされてきたが、最大の野党勢力で、伝統的な宗教ネットワークをもつ「ムスリム同胞団」が加わると、デモの規模拡大は必至という。 

 アハラムの父親が話したモースルの事件を書いている最中に起きたチュニジアでの政変は、日に日に、アラブ諸国に波紋をひろげつつある。
 これは、パキスタンの長い軍事政権への反政府運動の果てに、アユブ・カーン大統領引退声明、アラブゲリラによるイスラエルの飛行機襲撃と中東問題の激化、国連緊急安保理事会開催のほか、スーダン、南イエメン、リビア、ソマリアなどに相次いでクーデターが起きた一九六九年の状況を思い出させる。〔(40)のマリクとの話で言及〕
 
 反政府デモの拡大に、デモ・抗議集会の禁止やインターネットの遮断で対抗するムバラク政権に対し、クリントン国務長官は二十六日、「平和的な抗議活動やソーシャルメディアを含む通信を妨害しないよう求める」と述べ、オバマ大統領自身も、ムバラク大統領への電話で同様のことを要請した。

 アラブの盟主を自任するエジプトで三十年近く強権政治をつづけたムバラク大統領は、米国中東政策にとって重要な役割を果たしてきたからか、穏やかな要請に思われる。

 

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  ブッシュ元大統領が大量破壊兵器の存在を理由に侵攻し、その証拠が見つからないと、フセイン独裁のイラク国民に自由と民主主義を与えるのが戦争目的と言い出した理不尽さに比べ、いかにもオバマ大統領らしいといえなくもない。
 しかし、三十年にも及ぶ長い圧制に耐えてきた民衆のデモの高まりを目の当たりにして、まだ、エジプト国民の爆発的な怒りを正当と受け入れることに二の足を踏んでいるのを、歯がゆく感じるのは筆者だけではなかろう。

  ムバラク大統領の登場は、急死したナセルの後任サダトがイスラム過激派のジハード団によって暗殺され、副大統領から大統領に昇格したときである。
 ナセルの急死とクウエート・テレコムセンターの工事現場で行われた追悼式典に、筆者が参列した経緯を(1)に書いているが、サダト大統領は、社会主義的経済政策の転換・イスラエルとの融和などでナセル体制の変換と政治的自由化を進めた穏健派だったため、イスラム主義が勢力を伸ばし、 サダト体制への抵抗が激化した結果、暗殺された。

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 ムバラク大統領は、サダトの路線を引き継ぎ、対米協調外交を進める一方で、イスラム主義運動を激しく弾圧して、経済開発とアラブの安定化をはかりながら、独裁的政権を維持してきたのだ。
 ムバラク大統領は治安部隊・秘密警察によって国民を支配し、言論を統制し、野党の徹底排除で体制を堅持してきたが、一人当たりの国民所得は約百八十ドルでサウジアラビアの十分の一、国民の四割は一日二ドル以下で暮らす貧困層という。

 ピラミッドやツタンカーメンの黄金の面などの遺跡や文化遺産の見物で訪れる観光客は、千二百万人(二○○八年)を超えている。
 イスラム教徒が大半だが、スカーフをかぶらず髪の毛を出して歩く女性も多く、街で酒も入手できるのは、四十年前のイラクと同じである。
 筆者は、イラク三千キロの旅からクウエートに戻って四ヶ月後に家族を呼び寄せたが、翌年の夏休みに家族で訪れたエジプトは、どこへ行っても、私たちに親切で、人なつっこさと外国人に開かれた自由な国のイメージがあった。
 ナセルの死であとを継いだサダト大統領が社会主義から市場経済へと政策を変えて二年後のことだった。


  エジプトの緊迫した状況からは目が離せないが、ここは一旦、モースルの事件の話に戻るとしよう。

 以下は、クウエート・プロジェクトの完成後に帰国した一九七四年に読んだ牟田口義郎さんの『アラビア湾のほとり』に負うところが多い。
 朝日新聞社の外報畑を歩み、中東・アラブ地域の現代史に詳しく、エジプトとフランスの支局長や論説委員をつとめた氏は、チュニジアのデモが起こった直後の一月二十二日に逝去された。(享年八十七) 牟田口さんは、カセム准将とアレフ大佐によるイラク革命動乱のさなかにバグダッドを訪れた。、革命一周年には、お祝いムードにわく記念祭に、カセム政府の招待を受けている。

 一九五十、六十年代のアジア・アフリカ諸国は、列強諸国からの独立闘争で活躍した軍人らが政治リーダーとして登場し、先進国に追いつく富国をめざして、王制を共和制に変へるさ中にあった。
 エジプトでは、一九五二年の革命で王制が廃され、アラブ社会主義をスローガンにナセル時代が到来し、王制を倒したイラクとシリアでも、同じ社会主義を掲げるバース党が政権を取り、独裁的な指導体制下で、急進的な改革を行っていた。
 記念行事を見た牟田口さんの印象では、革命後一年で、同志のアレフ大佐が心酔したナセル主義を一掃したカセム政権は安泰と見た、とある。
 ところが、三年半後のクーデターでカセム政権はもろくも倒された。反徒が指導者に仰いだのは、反逆罪でカセムから死刑を宣告され、後に、特赦を受けていたアレフ大佐だった。

 なんともめまぐるしいほどの政変の連鎖だが、『アラビア湾のほとり』第六章の「カセムの没落」で、カセム政権の四年半の記事が再録されている。
 牟田口さんはこのクーデターを、王制から共和制へのイラク革命とは異なり、カセムの強権政治の犠牲者らによる復讐(二千人の血が流された)とし、復讐を好む傾向のアラブ人だから、新政権もまた、復讐の危険に晒されるとみなければならないと書いていた。
 王制時代の五十回の政変の七回がクーデターだったと、イラクの不安定さにも言及している。       
                               
                                                    (続く)



                       

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