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2012/08/23 19:48 2012/08/23 19:48


「第43回みなづき会展」
のご案内          松本文郎

 水無月となるやいなやの台風接近もありましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 この25日で、喜寿+1歳になりますが、『文ちゃんの浦安残日録』に書きましたように、前立腺がんと穏やかに向きあいながら、元気に日々を送っています。

 第43回「みなづき会展」を開催しますので、会期間際のご案内で恐縮に存じますが、お出かけの折にでも、ご高覧くだされば幸せに存じます
 

『ふれあいの森公園の春』 水彩 10号色紙2連 

 昨年『「被災地浦安の早春』に続き、東日本大震災から1年たった公園を描きました。

この公園は、ゴミ焼却場の移転跡地利用計画に住民参加で「ふれあいの森公園を育む

会」を立上げて、開園後の利用管理を市から任されているユニークな公園です。

 徒歩3分の近さで、朝夕の散歩はもちろん、季節ごとにスケッチを楽しんでいますが、満開の桜・森の新緑・大芝生・周回路などが、液状化に疲れた人びとを和ませました。

 昨年の絵は、大芝生から眺めた桜並木・住宅地・建設中のスカイツリーなどでしたが、その風景を背に描いたのがこの作品です。

 浦安ではいまも、液状化で傾いた家屋の復旧・建替や起伏陥没の応急処置がなされて

いた道路・下水道の本格復旧工事が、市内のあちこちで進行しています。

 わが国建築技術の粋を集めて見事に完成したスカイツリーは、連日、大勢の見物客で

賑わっているようです。驚異的な自然力に畏敬の念を抱きながら、被災地の復興計画の実施が、人間の技術力を存分に発揮して、一日も早く着手されることを祈るばかりです。

『上野の森の建築素描2題』 木炭 0号色紙2点  

 このスケッチは、1月27日に観た北京故宮特別展「清明上河図」に触発され、上野公園を再訪して描きました。同図は、群衆の個々の動作・表情を描き分け、建物・樹木などの細部を驚異的な観察眼で微細に捉えた水墨絵巻でした。

 帰りがけに、図に描かれた「南京櫨(はぜ)」の木を国立博物館の庭に見つけ、無性にスケッチがしたくなり、翌日、いそいそと出かけました。昼過ぎの公園入口の売店で、かんビール・つまみ・おにぎりを仕入れ、シニア特典の無料入場で、櫨の木の傍の建物を眺める芝に座り込みました。

 この建物を描くのは2回目で、北斎展を観たあとの博物館新館前の噴水から、黄葉の銀杏大樹の背後に、水彩で描いたことがありました。

 ビールを飲みながら構図を考え、ラフスケッチを済ませ、おにぎりを食べながら仕上げていきました。「清明上河図」の柔らかい毛筆ではなく硬いコンテなので、建物・樹木の全体を、粗い筆致の力感を意識して描きました。(第5回「文ちゃんの画文展」に出品)

 東京文化会館の建築は敬愛した建築家前川国男の力作。彼の師・コルビュジェ設計の西洋近代美術館の庭の片隅でスケッチを始めようとしとき、若い監視員に、構内で描くのは遠慮してくださいと告げられましたが、ほんの短時間だけと頼んで、なんとか容認してもらい、1時間足らずで描きました。

 夢中に描く歓びに、自己免疫力の源の「がんキラーT細胞」たちが活性化してくれるのを感じ、医師が勧めた女性ホルモン療法を断った選択は正解だったと考えています。


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2012/06/12 18:49 2012/06/12 18:49

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2012/05/02 16:04 2012/05/02 16:04

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2012/05/02 15:30 2012/05/02 15:30


「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―18)               

                                                                                                                       2011
523()

 

早大卒建築家・絵画グループの春季「彩寿会展」・パーティに招かれ、楽しいひとときを過ごした。NTT建築部門OB仲間の一人倉橋潤吉さんの、いつものご好意のお陰だ。秋季の展覧会は、三田にある建築学会・建築会館ギャラリーだが、春は、銀座が会場。

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 多士済々の絵が架けられた会場中央の卓上に、ご馳走やワインの瓶がズラリと並ぶ。「彩寿会展」のパーティーの魅力の一つは、愛知万博のプロデューサー原田鎮郎さんが呼ばれる音楽家の演奏。いままでに、ピアノ・二胡・ギターなどの演奏をほろ酔い気分になってから聴かせてもらったが、今回は、オカリナの富蔵さん。原田さんが、万博で名古屋市に滞在中にみつけられた料理店のオーナーだったと紹介された。
 二回のステージの演奏はこころに沁みる音色がすばらしく、楽器の半ばは自作と聞く。

 東日本大震災犠牲者の冥福を祈る黙祷で始まったパーティに相応しくて、私の好きな 曲でもある[What A Wonderful World] の演奏の末尾に『ふるさと』が挿入されていたので、そのわけを伺うと、3年ばかり前のパーティーでギターを弾かれて間もなく故人となられた方(仙台在住だった)の編曲で、ご冥福を祈って選ばれた由。すばらしい。

 愛知高原の酪農家での住み込み経験をもつ富蔵さんは、自然に学ぶことを身につけて、山歩きや自然写真を始め、写真エッセイ集『Seed』を出版(1991)。オカリナの演奏家活動を1993年に開始して、初のCD『轟』を発売したのが1999年という。

 料理店オーナーからの見事な転進ぶりにいたく共感したので、ご持参のCD『富蔵』を求めて、サインをもらう。これをご縁に、お互いのメッセージを交歓し合いたいと、唄い・描き・詩文を書く活動を列記した手作り名刺を渡した。

 会
場で、日本建築学会男声合唱団の創立20周年記念演奏会で一緒に唄ったテノールの田嶋さんと5年ぶりに再会。来春の25周年記念演奏会に向けて、彩寿会メンバーの田畠さんとも唄っているから参加しませんかと誘ったが、どうやらコーラスは“ご卒業”の様子。各人の残日は、それぞれの気の向くままにが一番よかろうと思う。

 絵画展といえば、われらがNTT建築技術者OBの「みなづき会展」も来週だ。昨年同様、「松本文郎のブログ」への掲載をT新聞社のM女史にお願いしたばかりだ。

 今年の出品作品は、『被災地浦安の春』と題し、3・11の約一ヶ月後“花まつりの日”から3日間、「ふれあいの森公園」に通って描き上げた。

大地震のせいか、東京湾からの稚鮎の遡上が例年より早まった見明川沿いの桜並木は満開で、その背後に見える家並みのなかには、液状化で傾いたままの家も見えている。

芽吹きはじめた大芝生には枯芝が混じり、周囲には、芽吹きの兆しが現れたばかりの裸木もあるが、風薫る五月になれば、芝も木立も新緑に染め上げられ、ライフラインの寸断で不自由な暮らしを余儀なくされた公園周辺住民の憩いの場所になるだろう。

20余年来の日本語教師を辞したお千代は、「ふれあいの森公園を育む会」のメンバー

になったばかり。開園して数年の「花いっぱいクラブ」のベテラン女性から教えてもらいながら、苗の育成・雑草取り・花植えの土仕事にいそいそと出向いている。

 未曾有の大震災をたらした自然はいま、季節の花々と風に光る新緑で、傷つき疲れた私たちのこころを癒してくれている。

 自然の一部である人間は、もっと謙虚に生きなければと想う。



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2011/05/26 12:06 2011/05/26 12:06

アラブと私
イラク3千キロの旅(41)

                            松 本 文 郎 
  
 
 それにしても、アジア民族の主食である米が、アラブ料理のメインディッシュに使われているのには、いささか驚く。

 マリクが、「ライス」や「シュガー」はアラビア語ですよと言ったので、さらにびっくりする。米の栽培が始ったのは七千年前のインド・中国とされるから、東南アジアから伝播した小麦が主食のアラブでも、イラク・エジプトの大河の灌漑による米の栽培は古代から行われていたのだろう。
イランのカスピ海周辺の米作地帯では、日本とそっくりの農村風景を目にするし、アラブ料理で使われるのはインド・バスマティ米が多いようだ。

 アハラムは、マクルーバのレシピをていねいに説明したあと、ビリヤニ(焼き飯)、クッバ(米皮の卵型餃子)、ムハラビ(米粉のプティング)などもあると教えてくれた。
 皮付き野菜の中身を取り出して詰め物をする、ドルマに似た料理は日本にもあるし、マクルーバ、クッバなどのレシピも、米が伝播した経路の各地の米料理法が加わりながら伝わったのだろう。

 ひっくり返してつくる料理といえば、疎開した田舎で馴れない農作業をする母親代りにつくったオムライスを思い出した。
「マクルーバに比べたらおそろしく簡単な料理だけど、我流のオムライスを、家事の手伝いでよくつくりました。ジャミーラくらいの歳でした」
「お母さんのほかに女性はいなかったのですか」
 同情的なまなざしのアハラムが訊ねた。
「九歳下の弟がいただけです。母子三人が疎開したあと、父は単身で広島の鉄道管理局に勤めていました」
 広島という地名を耳にしたマリクが、、あわてて食べ物をのみこみ、「原爆を落とされたあのヒロシマですか?」
「そうです。父は、原爆投下の前日に休暇で田舎へ帰っていて被爆を免れましたが、住んでいた家の周辺や私が通っていた小学校はかなりの被害を受けました」
「お父さんが無事でよかったですね」
 私の目をみて、アハラムがうなづいた。
「でも、投下の翌日には広島へ戻りましたから、地獄のような阿鼻叫喚を目の当たりにしたようですし、地上の二次放射能にはやられました」
 ヒロシマ原爆のことを聞きたそうなマリクだが、ひっくりかえし料理の話で、ディナーの楽しさをひっくり返してはいけない。
 アハラムも同じように感じたのか、
「フミオさん風オムライスのレシピは?」    
「とても簡単ですよ」

 太平洋戦争が始まった昭和十六年、国民小学校の一年だった私は、広島駅の日本食堂で初めて、オムライスというものを食べさせてもらったが、ハムとケチャップ入りの炒めご飯を玉子焼で包み、枕のかたちにしたてっぺんに日章旗が立っていた。
私のはというと、フライパンに焼いた玉子の上に、炒めたご飯・玉葱と人参のみじん切りをのせ、皿をかぶせてひっくり返すだけの簡単レシピ。
 疎開先の父の実家が大きな農家で、米を分けてもらえたからできた、敗戦前後の食糧難時代ではましな夕食だった。
アラブの米料理を賞味したディナーの話題から、つい、戦時疎開した田舎の食事を披露することになった。

 ところで、ウイキペディアで検索した、「世界の米料理」の記述にアラブ料理が欠如しているのは意外だった。
 四〇年前にバグダッドの家庭で味わった米料理と類似のものは、広くアラブ諸国に分布しているはずなのに、どうして書かれていないのか訝しく想われる。

 マクルーバのレシピで参考にさせていただいた酒井啓子さんの『イラクは食べる』(岩波新書)は、イラク料理を紹介する本と思われるかもしれないが、そうではなく、著者はイラク政治研究専攻の東京外国語大学大学院教授なのである。
 同書で、二十種ほどの料理・菓子・飲物の写真が見られるが、レシピがあるのはその半分ほど。
この拙文を書き始めて間もなく出版された著述内容に共感する点が多々あるので、敬意を表して、カバーにある文章を転記させていただく。

 米英軍によって「開放」されたイラクでは、イスラーム勢力が力を伸ばし、政治権力を握る一方で、イラク人どうしが暴力で対立する状況が生まれた。だが、どんな過酷な
環境にあっても、人びとは食べ続ける。
アラブのシーア派やスンナ派社会、クルド民族、そして駐留外国軍の現在を、祖国の
記憶と結びついた料理や食卓の風景をもとに描く。

 その終章に、二○○三年の米英中心の対イラク軍事攻撃とフセイン政権崩壊後に起きたことは、さまざまな「ひっくり返り」事件だったと述べられている。

『アラブと私』を、対イラク軍事攻撃を主導したブッシュ元大統領を揶揄する朝日新聞「天声人語」の引用で書きはじめたが、「ひっくり返しご飯」の写真・レシピを終章の扉に選んだ著者のウイットは、なかなかのものだ。
 酒井さんは、米英と有志連合軍がフセイン政権をひっくり返した後に期待したリベラル親米政権樹立を、イスラム政権がひっくり返して成立したことを「ひっくり返し」の連鎖だと捉える。

 長年行政の中心にいたテクノクラートたちが、ひっくり返されて国外へ逃れたあと、社会の底辺にいた若者たちが入れ替わったのは、イラク国内だけでなく、他国への軍事介入を主権侵害とする国際政治の常識がひっくり返され、植民地支配と糾弾された外国の介入が、「復興」や「人道支援」と名づけられていると指摘する。
 ひっくり返し過ぎに気づいた米政権にとって、このイラクの政治的混乱とイスラム化の進行は、長年バース党政権をひっくり返すことを希求してきたイスラム主義者たちの「革命」であり、頭痛の種になっているとも分析している。

 フセイン政権の崩壊以降のイラクの右往左往の混乱状況は、パンドラの箱を「ひっくり返した」ブッシュ政権の大きな誤算といえよう。
マクルーバのレシピにかこつけると、米の上にいろいろな食材を重ねのせるとこは、民族主義・イスラム主義、スンニ派・シーア派、世俗主義・原理主義などが混在するイラク情勢そのままだ。

 米国のご都合主義的な中東政策の結果を如実に示している「ひっくり返しご飯」ではある。
 歌と同じように、食べ物も過ぎた日々を思い出させるわけで、カバブとドルマを食べたあのとき、オムライスをつくった少年のころの無謀な戦争の結末と再興の二十五年を思い出したのだった。
 あれから四十年。アハラムと家族たち、そしてユーセフは、どんな暮らしをしてきたのか。

 ディナーのテーブルに戻ろう。
 ユーセフによると、断食の慣習は、彼の実家の家族や数十年前の西欧のキリスト教たちも行っていたという。完全な断食ではないが、復活祭前に、キリストの断食苦行の追体験として、質素な食事を摂り、菓子やタバコなど嗜好品の一つを我慢したという。
 だが、仕事の効率重視の近代化で、この慣習もしだいに行われなくなり、修道的禁欲生活を実践する人たちにかぎられるようになったという。
 
 デザートには、クレーチャが出た。バグダッドへ来る途中のサマーワで仕入れたあの菓子だ。
 国外へ出稼ぎに行くイラク人の多くは、母親や妻に作ってもらったこのお菓子を持参するのですね、とユーセフの受け売りをした。(9・参照)
「ええ、日持ちしますからね。旅先の栄養補給にとてもいいのです。ラマダーンでたくさんつくりましたから、お好きでしたらホテルへお持ち帰りください」
「ありがとう。明日はモスールへ日帰りしますのあちで、車のなかで頂くことにします」
 クレーチャをつまんでいる私に、アハラムが、トルココーヒーをサーヴしてくれた。テヘランでよく飲んだコーヒーである。
「お宅ではトルココーヒーをよく飲むのですか」
「そうです。クウエートなど湾岸諸国でよく飲むアラビアコーヒーは、遊牧民が飲んできたもので、都会ではトルココーヒーが飲まれますね」
 マリクの説明では、約四百五十年前のオスマン帝国時代のイスタンブールで飲まれ、ヨーロッパに広まった伝統的な飲み方は、中東、北アフリカ、バルカン諸国に、いまも共通しているそうだ。
 アラブではカフワ・アラビーア、ギリシャ人には、ギリシャコーヒーまたはビザンチンコーヒーとよばれているとのこと。
 粉末のコーヒーと砂糖を煮立ててカップに注ぎ、粉が沈んでから上澄みを飲むのである。
「フミオさん。飲んだあとのカップをソーサーにかぶせてひっくり返して、カップの底に残った粉の模様を見てください」
「それは、『コーヒー占い』ですね。テヘランで教えてもらいましたよ」
「フミオさんの運勢が、読めますか?」

                                  (続く)

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2010/12/30 14:14 2010/12/30 14:14

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 暑い日々がつづいています。平素はご無沙汰していますが、お元気でお過ごしのことと拝察します。

 今年も諸般の事情で、「日比谷彩友会展」間際のご案内になりましたが、あしからずお許しください。おついでの折にでもご高覧賜れば、幸せに存じます。なお、猛暑のさなかですので、決してご無理をなさらないようお願いいたします。
               

                                    <ご案内>


 

日 時: 8月24日(火)~29日(日) 11時~18時                           

                     最終日は15時まで


場 所: ギャラリーくぼた 4,5階 京橋2-7-11地下鉄京橋駅徒歩3分                           

                           Tel. 03-3563-0005



 私の出品作品は下記の2点です。


 『正月の真鶴画行』水彩・パステル 25号

 今年の正月6日、白日会副会長の深澤孝哉先生のお宅を会員有志数名でお訪ねして、ご馳走になりました。美食家の先生はプロ並みの料理人で、地元の漁師さんやファンが届けた新鮮な食材で数え切れないほどの料理を振舞ってくださいました。先生宅にはワインの貯蔵室がありますが、暮れの地震で被害が出た由。全国から届く日本酒や焼酎を惜しげもなく勧められ、しこたま飲ませていただきました。
 日比谷彩友会の一部会員参加の遊画倶楽部に所属する2人の画友と私は、先生宅近くの宿に泊まり、翌日、描き初めをしました。
 一昨年は、先生ご案内の伊東で描いたので、今回は真鶴にしました。

 房総半島まで見えるよく晴れた日で、漁港を見下ろす高台から、3枚連ねた画用紙に海のパノラマ風景を描きました。大きな画面なので、気合をいれて一気に仕上げました。 


 『心象・原始朝光』 墨彩 20号

 今年の「みなづき会展」に出した墨彩『井の頭公園の夜桜』に好評をいただいたので、墨彩で心象風景を描きました。

 深澤先生が何十年もの毎朝、日の出の光を捉える修行をされ、積み上げたスケッチが背丈にもなると伺い、私なりに、朝光を描くことにチャレンジしてみたのです。
 人類が出現する以前のような風景を照らす朝光のイメージです。山並みを描くのは、阿賀野川畔に立つ老舗旅館の座敷から望む遥かな重なりを、5連の画用紙に墨彩で描いた大パノラマ以来です。
 対象を目の前にしてほぼ仕上げる現場主義の私ですが、時折り、心象的な絵を描くのも楽しくなってきました。

 末筆ながら、ご健勝をお祈りいたします。

 
                                                            2010.8 吉日



2010/08/20 13:01 2010/08/20 13:01

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2010/08/11 14:09 2010/08/11 14:09

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「喜寿の会」に参加して 

               
 
新緑の彩りが日増しに濃くなっています。

   喜寿の眼にかくも眩しき新樹かな  ふみを

「喜寿の会」の賑やかで楽しい時間をみなさんとご一緒できて、とても幸せでした。卒業して初めて再会した学友もあるなど、感慨深い会となりました。
 振り返ると、昭和58年、鞆の由緒ある旅館の一泊同期会以来、沖野上、箱根、宮島を経て、ふるさと福山の「喜寿の会」にたどり着きました。
 鞆で10人も参加された恩師のお姿は、もう箱根ではありませんでしたし、今回の会でご冥福を祈った、鬼籍に入った学友たちは23人を数えました。
諸行無常というほかありません。                 合掌

  想えば、食道がん手術で生死の境を彷徨い、再びのいのちを授かった私も、喜寿を迎えることができました。その間、同じ食道がん手術を相次いで受けた山岡・上野両君は、私の再生につづいてくれると期待しましたが、還らぬ人となり残念です。
 ご自身や伴侶の病気・介護などを抱える暮らしのなかで、会の企画・準備に尽力いただいた地元の学友諸兄姉に、こころから感謝します。 

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  当日は1時前に福山駅に着き、“手づくりの地図”の中から、これまで機会をもてなかった場所を選んで、訪れました。
 まず、「福寿会館」へ上ってお茶をのみました。お千代の一族・安部和助の住まいで、占領軍に占拠された後で市へ寄贈した建物です。喫茶室の老婦人によれば、“ハート・ブレンド”に付けられたクッキーは、身障者らが焼いたもので、店が忙しいときは、手伝いに来てもらう由。わが浦安男声合唱団の定期公演の市文化会館ロビーでも同じですと話しました。

 外へ出て、会館と福山城が重なる風景をスケッチしてから、福山八幡宮へ行きました。森本重次先生ご夫妻に仲人をお願いして結婚式を挙げた氏神様の近くです。50余年経って、沖縄で戦死した夫に代って女手一つで4人の遺児を育てたお千代の母・私の両親は亡く、森本先生も鬼籍に入られました。

 一昨年秋(お千代の母親の25回忌の前年)、結婚50周年記念を兼ねた旅をしました。、輸送船に乗り込んだ鹿児島を起点に、奄美から沖縄本島を経て戦地に赴いた跡を慕いながら、摩文仁の丘の礎(イシジ)に詣でました。案内所で、膨大な戦死者の中から「広島県・安部文七」を探して、やっと見つけた礎に刻まれた父親の名を、お千代は掌でいつまでも撫でていました。

 神社からホテルに向かう道筋に人権平和資料館があり、立ち寄りました。
 二度訪れた文学館の裏手の気づけなかった場所でしたが、展示物や資料は、しっかりした理念“人類社会の悲惨な戦争は、人間の自由と尊厳が守られていないところに起きる”に貫かれていて、軍国主義日本の犠牲になった同胞の無念さに想いを馳せました。それにしても、小泉元首相の知覧での涙は、一体なんだったのでしょうか。
 憲法にある、人権の14条、平和の9条、森戸辰男が起案したとされる、暮らしの26条の大切さを、あらためてこころに刻みました。
 巡回中の『アジアの子どもたちの絵日記展』も見ました。
  「文ちゃんの画文展」(大阪・東京で各5回)の絵を道端で描く私を囲んで見ていた、タイ・カンボジャ・ベトナム・インドネシアの子供たちの仲間がグランプリをとった絵日記作品は、「HUMAN RIGHTS & PEACE」の貴重なメッセージだと感じました。
 
  「喜寿の会」の参加申し込みで、鞆へのバスツアーは不参加でした。昨年5月、お千代の母親の25回忌の折に、栗原賢治さんが奥さん共々、お嬢さんの運転で私たちを案内してくださったからです。また、8年前の盆の墓参の際にも鞆の町を訪ねたし、その翌年には、縁故疎開で2年通学した引野国民小学校の卒業55周年記念同窓会で、一泊していました。でも、ホテルのロビーで久々の学友らの顔を見た途端、往復のバスの中で語り合う時間ができることに気づき、参加を申し込みました。

  「喜寿の会」では、故人らへの献花・黙祷や懐かしい曲のデュオ合奏もあり、宴たけなわのあちこちで、テーブルを巡って行き来する姿が見られました。
 後半は、岡田 潔さん(ペンネーム:峰田保雄)作詞“幻の学友会歌”を岩佐伴子さんのピアノで斉唱し、和田公弘さんが校歌の作詞者について話したりして、あっという間にお開きとなり、二次会へ席を移しました。


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 翌早朝の公園で、“朝飯前”のスケッチを2枚しました。教会風の結婚式場と新緑に囲まれた鮮やかな朱色のモニュメントです。
 鞆では、ボランティア・ガイドの町内ツアーから離れて、港の一角に座り込み、常夜灯と蔵の見える風景を描きながら、ガイドの後をついて歩く学友の列も見ていました。
 仙酔島へ渡る船の上と鯛網に因む郷土料理を賞味した後の浜で、即興の絵も描きました。6点のスケッチの縮小コピーを貼り合わせたシートをご笑覧ください。
 このあたりで、私の近況を書かせていただきます。
 相変わらずの、描き/唄い/詩・文を書く/日々ですが、外国の若者らに20余年も日本語を教えているお千代の現役活動をサポートして、週5日の主夫業もちゃんとこなしています。
 安い旬の食材を選んでメニューを考えるのは、建築の設計に似て、とても楽しい仕事ですネ! すっかり嵌ってしまいました。
 和・洋・中華とそのミックスの“シェフ・ブン”独自の家庭料理レシピは、かなり豊富になりつつあります。

 ディズニーリゾートこと浦安での、「文化交流サポート浦安」と「浦安国際交流センター」のNPO活動で多くの出会いがあり、浦安男声合唱団の団員暦も15年になるなかで、浦安合唱連盟創立20周年記念歌の作詞者の栄誉も得ました。毎週土曜日4時間の練習で仲間と切磋琢磨し合って臨む定期演奏会の歓びと、二つの絵画グループ展・市美術展・ホテルの特設市民ギャラリーなどに出品して大勢の知人や市民に見ていただく嬉しさは、喜寿の心身を支える力の源になっています。日本ジャーナリスト会議「広告支部ニュース」(月刊)に連載中のエッセイ『アラブと私』は、20年来の「韓国音楽友の会」のご縁のお陰で、T新聞社開設「松本文郎のブログ」に転載されています。もうご覧になっている学友もありますが、関心のある方はインターネットで、<松本文郎>の4文字で検索してくだされば、すぐに出てきます。
  「エッセイ」のほか、「絵・文」「コーラス」「文ちゃん雑記」「ポエム」などの“引出し”で、描き/唄い/詩・文を書く/日々からの作品やメッセージが掲載されています。
 お互い、残る天寿の日々がいかほどかは分かりません。人の基本的本能は、①「生きたい」②「知りたい」③「仲良くしたい」の三つで、①と②が科学、②と③が文化、①と③が宗教を生み出したそうです。

 三つの本能に素直に従い、文化、科学、宗教のジャンルを横断的に逍遥できればと願う私ですが、この卓見は、脳神経外科医の林 成之著『脳に悪い7つの習慣』(幻冬社新書)に書かれており、ぜひの一読をお勧めします。
 栗原さんが挨拶で触れられた養老孟司さんも、動物の一種である人間が、自然の恵みに感謝し、他の生きものと仲良く共存する大切さを説いています。 万葉の時代に遡る「和」の魂を、異質なものを調和・融合して新たな創造をめざすものと捉えれば、日本人は、紛争・戦争の絶えない人類社会を変えてゆく民俗的資質を、先祖から受け継いでいることになります。 天寿の残日を、自在なこころで元気に過ごしてまいりましょう。


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2010/08/04 12:59 2010/08/04 12:59

アラブと私 
イラク3千キロの旅(30)
 
                                             松 本 文 郎 

 
 ホテルで車を降りたとき、運転席のユーセフに、花束代をそっと渡した。
「アハラム! ユーセフがホテルへ戻ってくるまで、シャワーを浴びて待っているから、ホームパーティのご招待のお礼を、お父さんによろしく伝えてネ」
「はい。わかりました。お待ちしています」 
 フーセフは、昨日からの長距離ドライブで馴れてきたトヨッペットクラウンを急発進させ、タイヤをきしませながら、ホテルから大通りへ出て行った。

 朝のシャワーでも感じたが、バスラのホテルに比べて湯の出方がいいのがうれしい。
 断食月明けの休暇で賑わう男のオアシス・バスラでやっと見つけたホテルの設備は旧く、シャワーの出がわるいのは仕方なかった。アハラムに出会ったガルフ・ホテルのシャワーの出はもっとチョロチョロだった。海水を蒸留した水を使う給湯システムだからと、節水のために管径を細くしてあるわけもないから、事務所軽費の節約で老朽設備のホテルに泊められたにちがいない。
 出のいい湯を浴びながら、車の遠乗りで出かけたサマーラの塔とチグリス河畔のアウトドア・ランチでアハラムと過ごした一こま一こまをなぞっていた。
 片道約百キロを往復した車中の会話は、思いのほか真面目すぎる内容になったが、アハラムの一面を知ることもでき、ホームパーティでの話題のネタもいろいろと仕入れることができた。
 クウエートに来て半年ほどの間に何回か招かれたホームパーティには、花屋でつくらせたブーケと、日本からの簡単な手土産を携えて行った。
 銀座・鳩居堂で見つけた外国人好みの和の品々で、北斎の「赤富士」の画額、京折り紙、紙人形などだ。 旅先では、軽くて嵩張らないものがよい。
 招かれる機会は、二、三の日本商社駐在事務所長の家が多かったが、前述(2)(10)のように、王族の係累のエリートや郵電省顧問のエジプト人建築家などの石油に浮かぶ熱砂の国に暮らす人々には、国外から空輸される花々のブーケはとても喜ばれた。 
 禁酒国のクウエートでウイスキーなんて不謹慎だと思われそうだが、人間社会に「ウラ」はつきもので、インド商人の暗躍によるヤミ酒が手に入る。
 アラビア湾へ油の積み取りにくる空のタンカーで密輸されるのだ。チンタオ・ビール中瓶一本が千円、ウイスキーはジョニーウオーカーが五千円だ。なぜか、日本では値段が倍以上ちがうクロとアカが同じ値段だった。
 時折り相場が変動するのは、警察の手入れの後だ。ダウ船の船べりでこれ見よがしにボトルを割って、アラビア湾に酒を飲ませる写真が新聞に載る。
 巷の噂では、実は、警察幹部がヤミ酒の元締めで、没収した酒の箱を某所に隠匿しているとか……。その筋とじっこんな日本人が、そんな場所で飲ませてもらった話を耳にしたことがあり、「蛇の道はヘビ」である。
 ホームパーティーへもっていく〔ジョニクロ〕は、インド人の闇屋から手に入れたもので、幸い禁酒国ではないイラクの旅の寝酒用と一緒に持ってきたのである。
 アハラムの父親が酒を飲むかどうか知らないが、自身で飲まなくても、建設業を営んでいるのだから、使い道はあるだろう。
『クルアーン』や『ハディース』に禁酒が戒められているのは、暑い気候で傷みやすい豚肉を食べないのと同じように、アラブの風土に因む生活習慣から齎されていると思われる。
 ヤミ酒の存在から、現代のアラブ人に不真面目な人間が多いと考えるのは早計で、金持はいざ知らず、庶民一般では、イスラムの戒律を遵守して生活する敬虔なムスリムが大半であろう。この種の戒律は、本来は自分の心身の健康を守り、楽しく長生きするための知恵の集積で、宗教的権威が遵守を強制しても、長続きするものではない。
 問題は、教典・戒律の類が政治権力などに悪用されることで、政治イデオロギーの強制と同じように、民衆を不幸に陥れるのである。
 
 シャワー室から出て腰にバスタオルを巻いたままベッドに仰向けになったら、ウトウトしてきた。 
 眠り込んでは一大事とばかり、身支度をすることにして、背広と白シャツ・ネクタイをスーツケースから取り出す。
 家庭でホームパーティを開くのは、当時の日本では一般的ではなかったから、アラブの地でさまざまな家族と交流する場を体験できたことは、三十五年後のいまもおおいに役立っている。
 アハラムらを送る届けたあと実家に立ち寄ると言ったユーセフは、ホテル到着が夜中になったので、母親にはさっき電話しました、と朝食のとき話していた。 
 母親に会うのは久しぶりのようだから、今夜は、ホテルではなく実家に泊まるように勧めてみよう。
 バグダッドへの途上、サマーワの茶店で仕入れたパイ生地の菓子クレーチャ(9)をユーセフに手作りしたやさしいお袋さんと、積もる話があるだろう。
 
 ドアにノックがあって、ユーセフが戻ってきた。
 右手にきれいなブーケを提げている。
「チーフ。実家に寄らせてもらいましたよ」 
「それはよかった。お袋さんは元気かい?」
「相変わらず、親父とケンカしてますがね」
「夫婦がケンカできるのは仲がいいからだろうな。キミとお姉さんが家を出て働いていて淋しいだろうけど、両親そろって元気なのはなによりだよ」
「チーフのご両親もお元気ですか」
「うん。二人の弟たちも自立して東京と名古屋にいるけど、二人で元気に暮らしているらしいよ。お袋からの手紙に、歳のせいか親父がガンコになったと書いてあったよ」
 会話の弾みで、瀬戸内の福山市に住む両親までがとび出した。
「ユーセフ。きのうは一日中、今日も朝からずっと運転していて疲れただろう。さっとシャワーを浴びたらどうだい」
「ええ、着替えたいので、ちょっと失礼します」
 
 スーツ姿のユーセフが車を横づけたのは、今朝方アハラムたちが待っていた公園駐車場に近い住宅街の一角の戸建だった。
 比較的新しい宅地開発エリアのようで、なんだか、田園調布の宅地分譲が始まったころに似ている。一区画はかなり大きく、百五十坪くらいだろうか。門の脇の路肩に車を停めていると、奥にある玄関のドアが開いて、アハラムと父親が出てきた。
 大理石の舗道ブロック敷きのアプローチを歩いて行くと、玄関右手のテラスにもつながっている。
 にこやかな笑顔で出迎えた父親は、やや背が低く小太りだが、如才なく愛想のいい人に見える。
「やあ、ようこそ! 貴方とユーセフさんのことは、クウエートから帰ってきたアハラムから聞いていました」かなり緊張気味だった私は、親しみのこめられた出会いの挨拶に、ホッとした。
「今朝、ホテルからお電話したユーセフに、お招きのことをお伝えくださり、ありがとうございました。おことばに甘え、遠慮なくやって来ました」
「お越しくださってうれしいですよ。それに、娘らを郊外ドライブへ連れ出していただき、とても喜んでいます」
「サマーラの塔は、大学講義の古代メソポタミアとの関連で教わり、訪ねたかった場所の一つでした。お嬢さんたちとご一緒できて、楽しい一日でした」
 傍のユーセフが、チーフ。来てよかったですね!とばかりのウインクをよこした。
「まだ外が明るいので、テラスでビールを飲みませんか。バスラでは、地ビールも試されたようで……」
                                                (続く)


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2010/05/31 14:46 2010/05/31 14:46

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2010/05/11 12:16 2010/05/11 12:16

アラブと私 
イラク3千キロの旅(28)
 
                              松 本 文 郎 

 
 官庁発注工事をめぐる発注側への接待や贈物は、古今東西にみる慣行だが、国のレベルでも、逞しいアラビア商人の血脈に呼応した手練手管を駆使して、石油資源の確保やインフラの構築をねらう欧米諸国間の受注競争が熾烈に展開している。
 フランスが最新鋭戦闘機ミラージュを供与したとの報道を目にしたし、一九六九年に技術協力で滞在したイラン革命前の王政下の高級官僚たちが、欧米メーカーの受注をねらう供応の渦に巻き込まれている、と志あるイラン人技術者は嘆いていた。

  二○一○年の今でも、ベールに包まれたムスリム(イスラム教徒)女性には、むりやり黒い衣を被らされ、家の奥に閉じ込められて抑圧されているとのイメージがあるようだが、一九七一年の当時、同じことを訊いた私に、アハラムは、それは大きな誤解ですよと応えた。
「ムスリムにも、近代化をのぞむ人たちがいる一方、保守的な人らもいるわけで、国や地域、家庭でも、さまざまな社会と生活のかたちがあるのを理解してほしいです」
「西欧から見たアラブの女性観は、「千夜一夜物語」のイメージが先行し、「四人妻」や「ハーレム」などと男性の興味をそそることばかりですが、高校で学んだ「女性の生き方」の授業は、保守的なムスリムの女性観とは無縁なものだったのを分かってもらいたいです」
「世界のどの国でも、男尊女卑の亭主や従順なだけの妻はたくさんいます。アバイヤが覆っている下に、鮮やかな色とりどりの衣服をまとっているのをご存じでしょうか」
 運転しているユーセフの隣のシートから振り向いたアハラムの顔は耀いていた。。
 クウエートの街角で、風に煽られたアバイヤの下に、真紅のミニドレスを見てハッとしたことがある。
 一説では、彼女らは風がアバイヤを翻すのを期待しているという。さもありなん、と思う。

 アハラムはつづける。
「目にもあやな彩りのドレスを纏うように、女性の生き方は色とりどりなのです」(「人生いろいろ」の歌の文句のように、女もいろいろ、男もいろいろである)
 アハラムの周辺でも、男のいいなりになるどころか、男を牛耳る女性もいるし、スウェーデンやアメリカの女性のように自立し、社会進出した場で高い地位についている人も少なくないそうだ。
 大学に進学していないアハラムの将来を、父親がどんなふうに考えているのかを、ホームパーティの席で聞いてみたくなった。クウェートの国会議長を父にもつ郵電省・次官のアルガネイム氏の夫人は、バグダッドの豪商の息女だそうで、イギリスがイラクとクウェートの国境を勝手な線引きで決める以前は、両国は一つの地域だったのだろう。
アハラム一家の親戚一統もクウエートで仕事や商売をしているそうで、アハラム親子も国内旅行の感覚で出入りしているにちがいない。
イスラム発祥の地アラブでは、南のシバの女王、北のパルミラのゼノビア女王のような傑出した女性が歴史に名をとどめている。

 イスラムの発祥以前の一般女性が生きたようすは、「ムハンマド伝」などの信頼できる史料で知ることができるそうで、そこに書かれている女性たちは、驚くほど自由・闊達に生きて、その数も非常に多いという。
 ムハンマドが結婚した十五歳年上のハディージャは大実業家であり、シリアとの交易の雇い人の一人だった彼の能力と人柄をみて、彼女のほうから結婚を申し込んだと伝えられる。
 孤児として育ち、幼いころから働きはじめた彼は、この結婚で安定した暮らしをしている中、ヒラーの洞窟にこもって瞑想にひたり、アッラーからの天啓の声を聞いたとされる。
 天啓を世に広めようとしたムハンマドは、メッカの商人らの迫害を受けることになるが、姉さん女房のハディージャはムハンマドと共に敢然と戦って、「イスラム勃興に女性の力あり」といわれる。
 このほか、いまのキャリアウーマンの活躍に似た記録が数多くあり、古今のアラブで尊敬されている詩人であった女性や、名医として名の高い女性などが、自由奔放に生きていたようだ。
 彼女たちが、男性に自由に結婚を申し込み、悪びれずに離婚していたというのも、すごい。
 そのころの社会の全体像には分からないことが少なくないが、母系社会の傾向があり、妻問婚の形も多かったとようだ。
 結婚した男女は妻の実家のそばに住まいを作ったとあるのは、古代の日本にもあった母方居住に似ている。
 アハラムが結婚する相手が、もし、家業の建設請け負いを継ぎ、親と一緒に住むのも選択肢の一つだろうね、とユーセフをアタマにおいて言おうとしたが、余計なお世話です! と言われそうで止した。
 何はともあれ、「クルアーン」の男女関係の規定は、「男女平等」の理念で貫かれていると認識するのが一番のようだ。
「クルアーン」は、アッラーとの対話で豊かな人生を送る現世での成功、来世では天国で平穏な暮しを願う生き方を教え、男女はそれぞれの特性を生かして平等な権利を享受できる、と訓えている。
女性の特性には、子供を産み育てる母性に最大の価値がおかれ、その人類存続のための役割を男性が尊敬し大切にするように求めるのがモスリムである。
 男性の特性では、己の稼ぎで妻子を養うことと、女性を庇護することが求められているのである。
 イスラム法(「クルアーン」とムハンマドの言行を記した「ハディース」の集成・シャリーア)の中心「家族法」には、結婚は男女の間でなされる契約で、結婚結納金(マハル)も離婚のマハルも、男が支払うように定められている。
 このしきたりは、イスラム勃興以前からの女上位から出たとする説があるが、クウェートの事務所に勤めるインド女性から、結婚の結納金を貯めるために出稼ぎに来ていると聞いたのを重ねると、世界のあちこちにある慣習・制度と考えられる。
 離婚のマハルが、結婚のときよりはるかに高額なのが一般的とかで、子供をはぐくむ女性の離婚保険か社会保障制度の観がある。
 クリスチャンのユーセフでも、アハラムのようなムスリム女性と結婚するにはマハルが必要なのだろうか。しっかり稼げるよう応援してやりたいものだが、社会主義的なバアス党政権はイスラム法の履行を否定しているかもしれない。
 アハラムに訊ねるのは憚られるので、パーティでそれとなく父親に聞いてみることにしよう。
「クルアーン」の規定「四人妻」は、男性たちから羨望と好奇の目でみられているが、この啓示の背景には、ムハンマド時代にイスラム迫害のメッカ商人との戦いで急増した未亡人・孤児を救済する目的があったようだ。
それは、ムハンマド側が負けて多数の男らが戦死した、六二五年のウフドの戦いの直後に啓示を聞いたとされることからも推定できる。
 今では一夫一妻制のムスリム国家も多く、そうでなくても、一夫多妻の数は極めて少ないのである。
 クウエートの高級住宅地に、まったく同じ設計の住宅が四軒並び、それぞれのガレージに高級ベンツが納まっているのを見かけるが、独身貴族を謳歌しているクウェート人エリートのサビーハ(第2回を参照)に言わせると、一人の女でもたいへんなのに、四人もの妻と契約して、平等に満足を与えるなんて、狂気の沙汰ですよ! だ。
 それを聞いたユーセフが、クッ、クッと含み笑いをしながら言った。「ホントに、バカゲてます」
 私の英語を、アハラムは分かっただろうか……。
                                                   (続く)


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2010/04/15 14:52 2010/04/15 14:52

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2010/03/26 17:08 2010/03/26 17:08

越後からの塩引き鮭
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2010/03/11 10:35 2010/03/11 10:35

アラブと私 
イラク3千キロの旅(22)
 
                  松 本 文 郎 
 
 人と親しくなるには食事を共にするのが一番、が古今東西の知恵のひとつだと再認識したチグリス川畔のアウト・ドア・ランチだった。
 育ち盛りで食欲丸出しのジャミーラが、枯れ葦で焼いた鯉をホベツで包み、黙々と食べている横で、スリムなアハラムは、体型保持のダイエットなのか少食で、もっぱらお喋りを楽しんでいた。
 丸いテーブルの大皿を囲んで談笑している四人に、英語とアラビア語が入り混じった会話が飛び交い、思いがけず、アハラムが好奇心旺盛で、話し好きな女性だと分かってきた。
 ジャミーラは、会話には加わらないものの、あらかた理解できているらしく、笑ったり、頷いている。
 メインディッシュの鯉を平らげ、デザートを注文するとき、女性たちと車の運転をするユーセフへの遠慮から我慢していたビールを、デザート代わりに注文した。
 五十米の塔の上り下りで喉が渇いていたせいか、よく冷えたビールが実にうまい。
 テーブルについたとき、四人の辺りに落ちていたナツメヤシの影が、いつのまにか動いているのに気がつく。太陽が、かなり移動していたのだ。
 よく歩いたほどよい疲れで、ビールの回りが早い。
 ほろ酔い気分から、アラビアンナイトの夢の話に戻り、女奴隷のマルジャーナと一夜を共にするよう言われたくだりをアハラムに告白したくなったが、やはりやめておくことにする。
 彼女が、中学教科書にあったと言った「空中庭園」の話の続きにしようと、「ところでユーセフ。サマーラの塔で空中庭園の話をしたけど、工科大学の講義では、なにか教わったのかい」それには応えずに、ユーセフは、「アハラム。あんな素晴しい庭園をプレゼントしてくれる男性に出会いたいと言ったよね」「いまの時代ではムリでしょうけれど……」アハラムは、ユーセフの顔をじっと見た。
「メソポタミアのチグリスとユーフラティスの肥沃な土地に輿入れした王妃アムティスがバビロンの気候に慣れず、夫の王に慰めてもらうほど、メディアは住みよかったのでしょうか」と、またアハラム。
「ボクが京都大学の村田教授の講義で聴いたのは、バビロン宮殿の中に造成した縦横一二五米の基壇の上に、五段階層のテラスを高さニ五米に造って土を盛り、川から汲み上げた水で、様々な植物を育てたという伝承だった」
 名称の由来は定かでないが、樹木や花々が植えられた階段状のテラスの間を水が流れ落ちる巨大構築物で、遠くから眺めると、あたかも空中に吊り下げられているように見えたからとの説がある。 
 ネブカドネザル2世が、王妃の故郷に似せたとされる緑豊かな庭園には、観賞用の植物だけではなく、野菜や香辛料も植えられていたという。
 この素晴しい庭園に配る水を、どうやって最上部まで汲み上げたかは、いまでも謎とされている。
 一説に、五つの階層ごとに大型の水車を設けたとあるが、そんなに大きな水車を人力で回せたのか、容易にイメージすることはできない。
 最初の「世界の七不思議」に選ばれたこの庭園は、「架空庭園」「吊り庭」とも呼ばれたそうで、紀元前五三八年、ペルシャ軍よるバビロニア帝国の征服で破壊されたが、遺構の場所は推定位置しか分からないそうだ。
 建築土木の工務店を営んでいるらしい父親の娘だからか、アハラムは、バベルの塔、都市バビロン、空中庭園などの建造物の話を興味深そうな顔をして聞いている。
 夕方からのホームパーティの格好の話の種になるだろうし、クウエートでの建築工事を話題にしたがりそうな父親の機先をそぐことができるだろう。
 半年ちょっとのクウエート在勤でも、何度かは、ホームパーティに招かれていた。
クウエート人エリートのサビーハ邸での乱痴気パーティはともかく、建築スタッフに雇用しているイラク・インドのエンジニアやエジプト人の建築家(郵電省建築顧問)ボーラスの家庭にである。
 ベイルートやカイロなどの観光地に比べ、映画やショッピングくらいしか娯楽や楽しみのない砂漠の都市で、ホームパーティは、人と出会い、交流する貴重な場であるにちがいない。
(2)で書いた、独身貴族のサビーハ・パーティは、アラビアンナイトのアメリカンバージョンだから、固い話をする雰囲気は皆無だったが、家族みんなとの歓談では、それぞれの場にふさわしい話題を選ぶことがとても大切だと感じていた。
 クウエートに駐在している商社幹部のパーティで、招かれたアラブの客人らとの会話でも、それを痛感した。
 政治と宗教の話は避けたほうがいい、と忠告した商社の支店長もいた。
 だが、イスラム行事であるラマダーン月の断食明け・イドの休暇で旅先の私に、イスラムの日常生活を律するコーランや習慣について聞いてみたい好奇心が、しきりに湧いてきた。
 アハラムの言動に宗教的なものは感じられないが、両親がどうなのかを知っておくのもよいと思った。
 きっかけに、空中庭園を造らせたネブカドネザル2世による南ユダヤ王国の首都エルサレム侵攻と、十年後のエルサレムの破壊・南ユダヤ王国の滅亡の二度の「バビロン捕囚」は、もってこいの話だ。
 何しろこの話は、ユダヤ教とキリスト教の正典である旧約聖書に詳細に書かれている歴史的な記録であり、イスラム教の創始者ムハンマドから千二百年も前の出来事だから、あくまでも古代都市国家権力の攻防で起きたことで、宗教的なものではない。。 
「ユーセフ。クリスチャンのキミは旧約聖書にあるバビロン捕囚のことは知ってるだろうが、アハラムが、ヴェルディのオペラ『ナブッコ』を知っているか、聞いてくれないか」
 突然のオペラ話に、びっくりしたようなユーセフだが、しばらく考えてから、アラビア語でアハラムに話をし始めた。
 質問されたアハラムも、日本人からそんな質問をされるのが意外なのか、かなり驚いたようだ。
「アハラムはヴェルディという人のことは知らないと言っていますし、私も、名前を聞いたことがあるだけです。ただ、旧約聖書のバビロン捕囚は、有名な歴史的事実でよく知っていますし、アハラムも高校の歴史で習ったそうですよ」
 私は、バグダッドで「バビロン捕囚」のオペラの話ができるとは思ってもいなかったので、いささか興奮気味に、「ナブッコ」の物語をはじめた。
 このオペラを知らない日本人で、「バビロン捕囚」を知る人はほとんどいないだろう。 
 一口に言う「バビロン捕囚」は、紀元前五九七年から五八六年にかけて、中東の列強の新バビロニアが、イスラエル人のほとんどを捕虜または奴隷にして、首都バビロンへ強制連行したことである。
 ナブッコは、侵略者ネブカドネザル2世のこと。 エルサレムに侵攻して王宮やソロモン神殿を破壊し、人々をバビロンへ連行するのが第一幕だが、史実に基づくのはそこまでで、あとは旧約聖書と創作。

                           (続く)


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2010/01/12 17:03 2010/01/12 17:03

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2009/11/24 09:24 2009/11/24 09:24

ピサヌーク・ナーン川の夕景

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2009/10/23 15:43 2009/10/23 15:43

孫の遥大らとのバリ島紀行

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2009/10/14 10:43 2009/10/14 10:43

良寛さんを慕うふたり旅
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2009/09/17 13:56 2009/09/17 13:56


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2009/07/27 11:20 2009/07/27 11:20