日本当局としては満州は抗日運動の源流で日本の朝鮮統治を脅かす危険地域だった。日本外務省は満州の韓人たちを監視するため1907年、在間島総領事館の管轄区域を吉林省の延吉、和龍、汪清、琿春の各県と決め、1909年には奉天省の撫松と安圖県を追加した。1925年吉林省の4県には領事館分館4つが設置されたが、撫松と安図県はその一つだった頭道溝分館が担当した。

 東邊道地域へ移住した韓人たちは、いろんな独立団体を組織して満州国境側に拠点を置いて上海臨時政府と連絡し抗日武装闘争を展開した。1920年から1926年頃までは民族主義系列団体の武装闘争が絶頂になる。彼らは日本の国境警備を潜り抜けて国内進攻作戦を開始して日帝の統治施設である警察署(あるいは交番)と村役場などを奇襲し、日本に忠誠した親日の金持ちたちを処断し、臨時政府や独立軍組織のため募金活動を行ったりした。

 洪範図司令官が指揮した独立軍は1919年8月、恵山鎮に進攻して日本軍守備隊を攻撃し、9月には咸鏡南道甲山郡の金井駐在所と日本官公署を襲撃した。10月には平安北道満浦鎮へ進入して日本軍と交戦して日本軍約70人を殺傷して国内進攻作戦で最大の戦果を記録した。

 独立軍が国境地域で展開した作戦の数を見ると1920年1,651件、1921年602件、1922年397件、1923年454件の戦闘を記録し、この戦闘に動員された独立軍は1920年4,643人、1921年3,148人、1922年2,127人、1923年2,797人で手ごわい勢力を形成していた。

 当時、国境地域で抗日独立軍の闘争を取り締まった日本警察の資料は“この頃、夜間に動き回る者は、警察と不逞輩と言われるほど物情騷然とした世の中だった”と記録している。日本側は、抗日武装部隊の有力な通過点でありながらも警備がずさんなところとして長白、臨江、集安の3県を挙げた。

 満州地域の韓人社会の独立意識が強化されるや朝鮮総督府警務局は、保民會と朝鮮人民会という韓人たちで構成された密偵ネットワークを組織した。彼らは日本官憲の力が及ばない地域の韓人社会の動向把握と独立運動家たちを弾圧する任務を遂行した。保民会の主要役員と幹部陣は全員が親日団体である一進会の幹部出身だった。

 延吉県と安図県の境界は白頭山から北へ伸びた老齢山脈(現在の英額嶺山脈)だが、頭道溝から西へ伸びたたった一つしかない道はこの山脈の窩集嶺という峠を越えて安圖に入る。撫松県は安圖県の西にある。撫松県は白頭山の北側裾である安圖県とともに中国での文化が最も遅れた地域で、交通が不便なところだ。さらに、一度も斧を入れたことがないと言われる原始の密林地帯がパノラマのように展開し、松花江とその支流の沿岸に若干の平野がある奥地だった。

 『滿蒙都邑全誌』には撫松県の人口が2,800人、安圖県は2,200人で、そのうちの韓人は撫松が30-40人、安圖が30人前後と記録されている。ここがわれわれが追跡する主人公の金聖柱(つまり金日成)のパルチザン活動の主な舞台になるところだ。

 満州の韓人社会に理念の竜巻が吹き荒らされ始まったのは1923年だ。この年にコミンテルン(国際共産党)傘下の組織であるコルビューロ(高麗局)内の韓人組織から派遣された朴允瑞と朱青松が延吉県にある東興中学校を中心として‘高麗共産青年同盟’の支部を組織しながら満州の韓人社会で共産主義運動の始動がかかった。

 1926年5月には、国内の朝鮮共産党の満州組織である‘朝鮮共産党満州総局’が北満州の寧古塔で発足した。朝鮮共産党満州総局と高麗共産青年会満州総局は東、南、北満州に区域局を設置して大衆運動を展開した。1927年、延辺地区の韓人たちは龍井と頭道溝一帯で5月1日メーデー(労働節)記念行進をし、10月2日には龍井で数百人の労働者と韓人たちがソウルで行われていた朝鮮共産党公判の公開を要求しながら示威をした。日本の警察は東満区域局の根拠地を襲撃した関係者29人を逮捕、ソウルへ押送して裁判にかけた。これが第1次間島共産党事件だ。

 中国共産党はこの事件より遅れて1927年10月、奉天に中国共産党満州省委員会を設立し、続いて中国共産党東邊道特別委員会、中国共産党の龍井村支部などを組織した。しかし、満州共産主義運動の中核は韓人たちだった。まさに満州に韓人たちを中心として赤い思潮が急流になって押し寄せていた。

 金聖柱の家系

 北韓指導者・金日成の本名は金聖柱で、中国ではジンジチェン、ソ連軍では‘タワリシチ(同志)キムイルセン’と呼ばれ、1945年9月18日、ソ連軍艦に乗って元山に到着した後は‘キム・ヨンファン’という仮名でしばらく活動した。彼は子供のとき親の背中に背負われて中国へ移住したため、韓国語より中国語がもっと堪能で満州の原野とソ連を転々した後、解放されてソ連軍大尉として故郷に帰還した。

 1945年以後、北韓では当局の主幹で金日成の公式伝記が何回も出版された。金日成に関する主要伝記および経歴に関連する出版物は以下の通りだ。

①朝鮮労働党中央委員会宣伝扇動部編『金日成将軍の略伝』、平壌、1952

②韓雪野、『金日成将軍』、平壌、1946

③白峯、『民族の太陽、金日成将軍』、平壌、1968

④李羅英、『朝鮮民族解放闘争史』、平壌、1958

⑤科学院歴史研究所、『朝鮮通史』(全3巻)、平壌、1958

⑥ソクダン、『金日成将軍闘争史』、ソウル、前進社、1946

⑦北朝鮮芸術連盟、『我々の太陽 - 解放1周年記念金日成将軍の賞賛特集』、平壌、1946

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 これらの伝記および各種資料と関係者の証言をもとに金聖柱の子供時代を追跡してみる。金聖柱は1912年4月15日、平安南道大同郡古平面南里(現在の万景台)で、金亨稷と康盤石の間で生まれた。その年は、日本が朝鮮を併合して2年目の年で、第1次世界大戦が勃発する2年前だった。金聖柱が生まれる1年前の1911年、中国で孫文が率いる民族主義者たちによって、ヌルハチが建てて中国大陸を支配した清朝が打倒された。

 彼は聖柱、哲柱、英柱の三兄弟の長男だった。幼い頃を万景台で過ごしたが、万景台は彼の母の康盤石の実家があるところだ。北韓の最高人民会議常任委員会の副委員長、朝鮮民主党党首、キリスト教連盟の委員長を務めた康良煜は金日成の母親系の祖父の従兄弟だ。(つづく)

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 これら複数の金日成の存在についてソ連派として入北して一時期、北韓の高位職にいたソ連系朝鮮人の林隱(*許眞=許雄培)は、自著の『金日成正傳』で上に列挙した人々は1930年代後半から1945年解放されるまで、日本軍と警察が討伐するため必死だった、北韓の最高指導者となった金日成でないと主張する。

 上に紹介された複数の金日成の中で東北抗日連軍の金日成として推論し得る人物は金光瑞(金擎天)だ。ところが、林隱は金光瑞は1930年代に中国の東北地域に行ったことがなく、東北抗日連軍傘下の武装部隊に加担したこともなく、ソ連では1920年代に金光瑞を金副尉(副位は中尉という意味)と呼んだと主張する。

 林隠が主張する金光瑞の履歴だ。1930年代前半まではウラジオストクで‘韓族軍人グラブ’を組織して抗日力量を結集しようと努力したが成果を上げられず失意の日々を過ごし、極東朝鮮師範大学で軍事教官、日本語講師として勤務した。彼はソ連当局に招聘されて軍事専門家として赤軍創建を助け、1933年から3年間投獄されたが釈放されて1937年に中央アジアのカザフスタンへ強制移住された。

 金光瑞はカザフスタンでコルホジュの作業班長という末端職で労働をして1939年に再度逮捕された後、消息が途絶えた。一説によれば、彼は1939年に逮捕されたが、第二次世界大戦が勃発するや志願して独ソ戦争に参加したという話もある。彼はロコソープスキー将軍の下で大佐の階級に師団を指揮し、1945年初めに戦死したという説があるが確認は難しい。

 このような証拠をあげて林隠は“北韓の執権者の金日成は1930年代後半に東北抗日連軍で楊靖宇、王德太、魏拯民などの指導の下で2軍3師長として(あるいは1路軍の6師長として)、第1路軍第2方面軍の指揮官として活動した人物であり、普天堡戦闘の組織、執行者と見ることができる”とし、金日成が複数人だったという李命英の研究内容を反駁した。

 林隠の主張は‘ありのままの金日成’を見るべきだということだ。金日成は中国共産党の一員として抗日パルチザン活動をしたのは事実だが、彼は特出した人間でなく卓越した功績を立てた人でもない。今日、北韓が宣伝するような傑出した「霊将」ではなおさらないということだ。

 林隱はその理由として、金日成の活動地域が東南満州地帯だったという点、関東軍が中国大陸への侵略を本格的に始めた時期であってため国庫から軍事費を最大限に引き出す目的で大々的にマスコミを利用して強敵と戦っている印象を与えるため、金日成の活動を誇張したためだったと分析する。林隠は、取るに足りない普天堡戦闘と甲山光復会事件などが金日成を一躍抗日闘争のスターにしたが、そのように金日成をスターにしたのは日本軍国主義者たちと関東軍だったと指摘する。

 聖公会大学の韓洪九も、抗日英雄としての金日成の評判は植民地朝鮮の特殊な状況の中で、多分に誇張された側面があるのは事実だが国内の一部の学者たちが主張するようにとんでもない嘘ではないと反駁する。

 韓人たちの間島への移住史

 では、本当の金日成は誰なのか。解放後、ソ連軍大尉の軍服を着て現れてソ連軍政の後援を受けて北韓の指導者になった金日成という人物の本当の人を追跡する前に、韓人たちの間島移住史を先に調べて見よう。

 間島とは満州吉林省の南東部地域で、中国では延吉道と呼ぶ地域だ。満州族が建てた清は、山海關を超えて北京を都として定めた後、満州族の神聖な発祥の地を保護するという名目で1677年、興京以東、伊通以南、鴨緑江と豆満江以北の地域を封禁地域と決めて中国人や韓国人の進入を禁じた。これによって清と朝鮮の間にある島のような地という意味から由来した地名が間島だ。

 19世紀半ばからロシアが東南進を開始しながら青・ロの間で1858年の愛琿条約と1860年に北京条約が締結されて、ロシアが清の領土だった沿海州を手中に入れる。こうなるや清はロシア人たちに対抗する緩衝地帯の建設のため1875年から満州一帯に設定した封禁を解除し、辺境地を開拓する必要性が生じた。

             <1920年代の西北間島の武装独立軍部隊>

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 19世紀半ば、韓人たちが飢餓と貧困に耐えらず鴨緑江と豆満江を越えて西・北間島と沿海州に移住した。特に、1869-1871年に咸鏡道と平安道地域が大凶年で多くの人々が川を渡った。間島への移住初期に韓人たちは茂山、鐘城、会寧などから豆満江を渡った後、水辺の谷に沿って海蘭江以南一帯に集落を形成して稲作を始めた。

 清が1875年封禁令を廃止するや多数の韓人たちが西間島に渡り、佟佳江流域の通貨県を中心に定着した。また、中国の山東、河北地域の飢饉で流民たちが満州に押し寄せてきた。清は封禁政策を解除した後も、在満朝鮮人の土地所有権を認めず小作権のみを認たため朝鮮人の土地所有は非常に不安定だった。

 1920年代になると、毎年80万から100万人の中国人が万里の長城を越えて満州へ移住し1923年から1930年まで満州の純人口増加は約278万人、満州地域の中国人は約3,000万人に達した。

 間島は白頭山を中心に北間島(あるいは東間島)と西間島に分けられる。西間島は鴨緑江と松花江の上流地方である白頭山一帯で、集安、通貨、柳河、懐仁、寛甸、臨江、長白、撫松、興京、海竜県が位置している。北間島は琿春、汪淸、延吉、和龍の四縣に分かれる豆満江北部を指す。間島といえば普通は北間島を指すが、広くは額穆、敦化、東寧、寧安、安図県までを含む。

 1919年の3.1運動後、多数の韓人たちが中国の安東省、奉天省、吉林省、間島省に移住したが、この地域を東邊道と呼んだ。民族運動家たちの北間島への亡命は1908年頃から始まって1930年には東邊道地方を中心に定着した韓人が80万人となった。満州国が建国された1932年以降は、朝鮮総督府が農耕地が不足している朝鮮南部の農民を半強制的に鮮滿拓殖会社などを通じて満州へ移住させた。その結果、1945年満州在住の韓人は216万人に増加した。

 日本軍の討伐を避けて韓半島から満州地域に移動した独立軍部隊は、間島に移住してきた同胞たちと一緒に荒蕪地を開墾して生活の土台を作った。そして祖国の独立を勝ち取るため、独立運動団体(耕学社、重光団、新民会など)を組織し、独立軍を養成するため教育機関を設立して対日抗争力量を培養した。北間島へ亡命した李相卨、李東寧、鄭淳萬などは教育を通じて独立思想を鼓吹させるため吉林省延吉県龍井村に瑞甸書塾を設立した。このように独立志士たちが満州一帯に学校を設立し、大小の団体を作って武装抗日独立運動を展開した。

 1919年に国内で3.1運動が起きるとその余波が満州地域に波及してそれまで構成されていた各独立運動団体が武装して独立軍を形成し始めた。1919年の年末まで東滿地域には、大韓国民会議国民会軍(司令官・安武)、軍務都督府(司令官・崔振東)、大韓独立軍(司令官・洪範図)、北路軍政署(司令官・金佐鎮)などの独立軍が結成された。南満地域には、韓族会議西路軍政署(司令官・池青天)、大韓独立団(司令官・朴長浩)、大韓青年団連合会義勇隊(総裁・安秉瓉)など、30以上の独立軍部隊が創設された。1919年4月、中国の上海で大韓民国臨時政府が樹立された。(つづく)

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 李命英は、北韓の指導者になった金日成は自分の本名を‘金成柱’と主張するが彼の本名は‘金成柱’ではなく‘金聖柱’と言った。これは彼の小学校時代の友人と青年時代の友人と知人たちの証言、日本の吉林総領事館の資料からも確認できる事実だという。それだけでなく、解放後、北韓側もしばらくは金日成の本名を‘金聖柱’と認めたことがある。

 李命英は、金聖柱の漢字表記が‘金成柱’に変わった事情には重大な理由が隠されていると主張する。李命英の主張によれば、金聖柱は満州で中共党遊撃隊の第6師長・金日成(第1の金日成)と第2方面軍長・金日成(第2の金日成)の部下だった人物だという。ところが、A-1、A-2、B-1、B-2が全員死んだ後、解放されるや金聖柱はこの四人の人物が行ったすべての活動をすべて合わせて自分がやったように捏造した。この偽者の人物を‘伝説的な抗日闘争の名将・金日成’であると持ち上げたのが北韓駐屯ソ連軍政のロマネンコ民政司令官だった。

 東京の朝総連傘下の朝鮮大学校教授として北韓原典を通じて金日成を深く研究した許東粲は1931年から1936年までの5年間、2人の金日成が活躍したと主張する。1人は中国共産党汪清遊撃隊政治委員だった金日成だ。彼は1932年7月、延吉県依蘭溝遊撃隊員だった。当時、彼の年齢は30歳、1934年1月には中共党東満遊撃隊汪清大隊の政治委員、1935年3月から9月までは東北人民革命軍第2軍独立師の汪清連帯中隊長だったが、この年の年末に彼の名前が漢字で‘金日成’であることが明らかになった。

 もう1人は北韓の指導者になった金日成だが、彼は1932年7月には吉林省蒙江県にいて当時の年齢は21歳で中共遊撃隊員でなかった。彼が汪清連隊に包摂されたのは1934年8月だった。彼は1935年7月から1936年1月まで琿春連隊に派遣されたが、彼の当時の漢字名は‘金一星’だった。許東粲は以上の根拠で1937年6月4日の夜、普天堡を襲撃した金日成は、北韓の指導者になった金日成とはまったく関連のない事件だったと主張する。

 許東粲はまた、北韓の指導者になった金日成が‘金日成’という通名を使い始めた年代が政敵の粛清、唯一思想体系の確立、後継者の金正日の確立のように権力維持の手法が極端化していくのにつれて、1932年から1930年、1928年に遡る奇妙な現象を発見した。

 本名である金聖柱の漢字表記の3つ(金聖柱、金誠柱、金成柱)は金日成が解放後、これが自分の本名であると1回以上言及した事実があり、また文献にも記録されている名前だ。分かりやすく言えば、金日成は公式的には漢字で成柱と表記しながらも暗黙的には聖柱と誠柱を認めている。それでは、本名の漢字表記は果たしてどちらが本物なのか。

 許東粲は私見と断って次のように推理する。金亨稷が満州で得た三男の名前が永住だったが、これがあいにく弟の金亨禄の息子の名前と同じだった。そのため、母方の祖父の康敦煜が1923年ごろ、金亨稷の息子の名前を金聖柱、金哲柱、金英柱に変えたという。

 金聖柱は1929年5月、吉林の毓文中学在学中の朝鮮共産党青年会事件のため逃げた後は、聖柱を成柱あるいは誠柱と変えて危機を免れた。聖柱は中国語で読めば‘センジュ’で、成柱と誠柱は‘チェンジュ’と発音されるためだったという。

 李命英は、1920年代後半と1930年代初めにA、Bタイプの外に、金一成(キムイルソン)という名前を使う2人の存在を見つけた。1人は北京で活躍した金一成で、1926年10月に発足した韓国独立唯一党北京促進会の発起人名簿の中にあった。

 もう1人の金一成は1930年代初め、ソウルで文筆活動をした金璟載だ。この人は前回に紹介した5番と同一人物だ。金璟載は水原農高を卒業して東京に留学し、植物病理学を勉強してから上海を経て南北満州とロシアなどを放浪しながら民族運動をした。帰国してから火曜派共産主義者たちの重鎮として活動したが、1925年に朝鮮共産党第1次党事件で投獄された。出獄後『朝鮮之光』などいくつかの雑誌に多様な筆名で執筆活動をした。

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 ‘金日成伝説’の実存人物である金光瑞

 李命英は、咸鏡北青郡で1887年生まれ日本陸軍士官学校を卒業した金光瑞が‘本物の金日成’だと主張する。彼は金日成という仮名の外にも金擎天と仮名を使用し、日本側の資料や国内の新聞には‘日本陸士出身の金擎天’あるいは‘日軍中尉だったが不逞団の首領になった金光瑞’などと記されている。李命英が究明した金光瑞の履歴や活動は以下の通りだ。

 金光瑞は日本陸軍士官学校を1911年卒業(23期)、日本陸軍少尉として任官した。3.1運動が起きたときは東京第1騎兵連隊にいた。東京の朝鮮人留学生たちを中心に万歳運動が起きる気運が成熟するや、彼は病気休暇を得てソウルに戻って日本陸士3年後輩である池錫奎(池青天、李晴天)、李應俊などと共に満州へ亡命して抗日武装闘争を展開する計画を話し合った。

 ソウルに来た金光瑞は、憲兵の監視を避けるためソウルの有名な妓楼や中華料理店を出入りして放蕩な生活をするように偽装し、一時は義親王・李堈の恋人と浮名を流した。金光瑞は1919年6月、池錫奎と一緒に新義州を経て満州へ亡命した。2人は南満州の柳河県孤山子にあった独立軍養成所である新興武官学校で青年たちに軍事学を教えた。

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 この学校には旧大韓帝国軍官学校出身の申八均もいた。この3人は祖国光復のため闘争することを約束し誓いの意味で共に‘天’の字が入る号を作ったが、申八均は東天、池錫奎は靑天、金光瑞は擎天だった。後に彼らは‘南滿三天’と呼ばれた。

 1919年の冬、武器購入のためロシアに渡った金光瑞はそこの韓人たちがシベリアに出兵した日本軍に虐殺される現場を目撃した。彼は韓人青年たちを集めロシア赤軍と連合して日本軍と戦った。1920年代前半の海外独立運動に関する記録には金光瑞に関するものが多い。代表的な記録は次のようだ。

 ○“1922年2月中旬以降、東部シベリア、特に沿海州で白軍が衰退して赤軍が台頭するにつれて金光瑞が率いる約6百人の鮮人團が赤軍に加担した。最近、イマン付近で白・赤両軍が衝突した際に、彼らは皇軍(日本軍)に抵抗したが、その勢いは恰も武力復興を感じさせる。”(朝鮮軍参謀部の沿海州方面情勢報告文書<朝特報>第17号、1922年5月23日)

 ○“近来、ロシア領沿海州およびウスリー地方での金光瑞の勢力は次第に文昌範や李東輝の勢力を凌駕するだろうという。彼は今はイマン付近に約1千人の一団を編成して屯田組織による軍事訓練を実施しているという。だが、この部隊が果たして赤軍の一部であるかそれとも赤軍の諒解のもとで成立した純粋な不逞鮮人団体であるかは確実でない。”(朝鮮軍参謀部、<朝鮮内の一般情況を報告>、1923年7月5日)

 東亜日報は1923年7月29日付に‘氷雪のシベリアで紅白戦争の実地経験談。俄領の朝鮮軍人金擎天’という見出しで金光瑞とのインタビュー記事を掲載した。他にも1979年にモスクワで出版された金マトウェイの著書『遠東においてのソビエト主権樹立のための闘争においての韓人国際主義者たち』という本にも金擎天の経歴が紹介されているが、李命英が主張する内容とほぼ同じだ。(つづく)

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第1章 金聖柱時代

 複数の金日成たち

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 日本に国を奪われる前の1907年に義兵たちが決起したとき、そして1919年の3.1運動直後から解放されるまで、東南満州と北韓の国境地域一帯には‘抗日闘争の名将、金日成将軍’の物語が広く流布していた。白馬に乗った将軍が縮地の術を使って鴨緑江と豆満江を渡りながら神出鬼没の戦いで日本軍を打ち破ったというのが主な内容だった。特に、‘金日成将軍’の噂は解放される10年前からさらに広く流布された。追跡してみると、事実と伝説が入り混じって巨大な神話が作られたのだ。(*左写真は日本陸士出身の金日成。1877年生まれ、本名は金光瑞。騎馬中尉のときの写真)

 興味深い事実は、金日成将軍の漢字表記は4つ(金日成・金一成・金一星・金日星)もあることだ。学者たちの研究を総合すると、金日成の存在を究明する作業にはいくつかの流れが存在する。

 第一、北韓の御用学者たちの金日成関連著作物らだ。この著作物らは中国の東北抗日連軍の活動や成果を金日成個人の役割として捏造して人為的に金日成を偉人化している。

 第二に、在米韓国人学者である徐大肅教授が1968年、『朝鮮共産主義運動史』という著書を通じて、北韓の金日成が北間島の中国共産党遊撃隊に入ってかなりの地位に上がり、1937年6月4日の普天堡戦闘をはじめ、多くの戦功をあげたと主張した。いわば‘金日成1人説’を主張したのだ。

 第三に、南韓の一部の学者たちの観点で、本当の金日成は大昔に死亡し、北韓の指導者になった金日成は偽者という観点だ。

 第四に、‘金日成’と呼ばれた複数の人が存在したという‘金日成多人説’だ。まず、金日成を研究した学者たちが究明した複数の‘金日成’の存在を追跡すると、次のような記録らが発見される。

①“伝説上の金日成は日本陸軍士官学校を卒業し、朝鮮の独立のため勇敢に戦った男と同一人物で、この金は1922年満州で凍死した。”(以北、『金日成偽造史』)

②“金日